2015年7月24日金曜日

慶長20(1615)年5月7日、「真田日本一の兵」天王寺・岡山の戦いに関する分析

 さて、前年12月の大坂冬の陣和睦の後、周知のとおり豊臣方は徳川方に大坂城の惣構と二の丸を破却され、堀も埋められて本丸のみの裸城にされてしまった。そのため、翌慶長204月に起きた大坂夏の陣では、兵力を城外に出して徳川方の大軍に野戦を挑むしか打つ手が無くなった。

 4月中、豊臣方は積極攻勢に出た。まず大野修理治長の次弟主馬治房の率いる軍勢が大和郡山や堺を焼き討ちし、また紀州浅野家を攻撃したが、樫井の戦いで逆に浅野勢に敗れて塙団右衛門直之が戦死して豊臣方の攻勢は失敗に終わった。

 こうした一連の攻勢失敗を受けた軍議の席で、一説によると真田信繁は、四天王寺付近に全兵力を展開して徳川勢の集結を待って迎撃する決戦案を主張したとされる。しかし、徳川の主力が冬の陣と同じく大和口と河内口に分かれて進撃してくると見越した後藤又兵衛基次は、奈良街道が狭隘の山間部を大坂平野に抜けてくる交通の要衝国分の辺りに出張して、まず敵の出鼻を挫く案を主張した。

結局この後藤の作戦が容認され、56日に道明寺と誉田で大和路方面を進んだ約35千人の徳川勢との合戦が起きた。この時の豊臣勢は濃霧のためとも言われるが非常に連携が悪く、平野から先発した後藤基次勢は単独で小松山に進出したため、伊達政宗らの率いる軍勢の集中攻撃を受けて壊滅し、基次は討死してしまう(その後到着した薄田兼相も討死)。

天王寺から進発した毛利勝永と真田信繁らの軍勢はさらに遅れた。最も遅く戦場に到着した真田勢が石川を渡河した伊達の先鋒片倉勢を撃退したが、豊臣方は同日起きた若江の合戦で木村重成が井伊直孝の軍勢と戦って討死し、八尾では長宗我部盛親の軍勢が藤堂高虎の軍勢を追い詰めたが援軍の井伊勢が到着したため後退したので、結局誉田と藤井寺に展開した軍勢も大坂城に撤収した。他方で徳川方も朝からの戦闘で疲労していたため、伊達政宗が主張して追撃を行わなかったとされる。

 こうして、57日に大坂夏の陣最後の決戦である天王寺・岡山の戦いが起きるのであるが、後藤基次の作戦を容れたばかりに豊臣方は多くの部将を失ってしまった。結果的には、真田信繁の当初の作戦案通り、最初から天王寺と岡山に全兵力を展開して徳川勢に決戦を挑んだ方が良かったのではないかと筆者には思われる。

 徳川家康は55日に京を出発したが、3日分の兵糧だけ用意すれば足りると豪語していたと言われている。結果は家康の予言通り、57日の夕方には大坂城が炎上したのだが、正午位から始まった決戦は日本史上最大の大乱戦であり、家康の旗本までも真田勢と毛利勢の攻勢で崩され、三方ヶ原の戦い以来、初めて家康の旗が後退する屈辱的な羽目に陥ったのである。

大久保彦左衛門の『三河物語』によると、戦後激怒した家康が、戦場でうろうろとふらついた旗奉行らを厳しく詮議したことが記されている。この詮議では、槍奉行であった彦左衛門も、その頑固な物言いから家康の逆鱗に触れている。それ程まで、57日の決戦で家康が苦戦したという証拠だろう。

 この日の両軍の布陣を見てみると、豊臣方は、まず右翼に真田勢とその寄騎の約55百人の軍勢が茶臼山辺りに陣取っており、当初の構想では紀州街道と谷町筋をそれぞれ進んでくる徳川勢の大和路方面軍とその後備の紀州浅野勢合わせて約4万人の軍勢を迎え撃つ態勢を取ったようだ。

ところが、この伊達政宗やその娘婿松平忠輝(家康の六男)らの率いる徳川勢約4万人は、決戦当日ほとんど参戦していない。この怠慢は、前日の道明寺と誉田の戦いで消耗していたからという理由だろうか。徳川勢の統率が十分に取れていない印象を受ける。

 豊臣方の中央は天王寺に陣取る毛利勝永とその寄騎の軍勢約65百人で、その左翼には木村勢や後藤勢の残存兵力45千人が布陣した。この天王寺口に進撃した徳川勢は、先鋒が本多忠朝と真田信吉(信繁の兄信之の長男)ら、第二陣が榊原康勝と小笠原秀政ら、第三陣が酒井家次ら、そして家康旗本という縦隊で行軍したようだ。先鋒から第三陣までがそれぞれ約5千人、家康旗本が約15千人位の兵力で、天王寺口の徳川勢で実戦に参加した兵力は豊臣勢の約1万人に対して約3万人である。両軍の兵力差は31位だったらしい。

 統率上問題なのは、越前松平忠直の率いる約15千人の大軍が天王寺口の戦列を離れて茶臼山の真田勢攻撃に抜け駆けしたことだろう。結果的にこの越前勢の勝手な奮闘が徳川方の勝利をもたらしたわけだが、祖父の大御所家康の命令を無視した忠直の行動が天王寺口での徳川方の毛利勢、真田勢に対する総崩れの大苦戦を引き起こしたわけである。

 奈良街道から続く岡山口を守る豊臣方は大野治房の率いる45千人の軍勢で、この方面に向かった徳川勢は先鋒が加賀前田利常らの軍勢約2万人、その後に前日八尾と若江で豊臣勢と戦った藤堂と井伊の軍勢約7千人、さらにその後に将軍秀忠の旗本約23千人が続いたので、岡山口の徳川勢は総兵力約5万人といったところか。ちなみに尾張徳川義直(家康九男)の軍勢約15千人は最後尾に付いており、当日の実戦には参加しなかった。

 実戦に参加しなかったのは秀頼旗本の七手組も同様で、約14千人もの予備兵力を右翼の真田勢、中央の毛利勢、左翼岡山口の大野勢の背後に後置していたにも関わらず、秀頼自身が最後まで出馬しなかったためか、船場に布陣した明石全登勢と同様に戦機を逃して参戦できなかった。

 結局、徳川勢でこの日実戦に参加したのが約10万人、豊臣勢で実戦に参加したのが約3万人程度と思われるから、やはり兵力差は31で徳川勢の圧倒的優勢であっただろう。

 それでも天王寺口では家康旗本まで総崩れとなり、先鋒の本多忠朝が戦闘中に討死し、第二陣の小笠原秀政(決戦当日の夜死去)とその長男忠修ら大将クラスが何人も討死する程の徳川勢の大苦戦を招いたのは、毛利勝永の戦闘能力と天王寺口を進んだ徳川四天王の倅たちの戦闘能力の差に起因したものだろう。岡山口でも同様に、大軍の前田利常勢が大野治房勢に押しまくられて将軍秀忠の軍勢まで参戦する羽目に陥ったから、この日の前線部隊指揮官の能力では、豊臣方が勝っていたと筆者には思われる。

 その上、徳川勢は参戦しなかった大名や抜け駆けもあって、統率が十分に取れていなかった印象が強い。そうした軍全体の緩みが紀州浅野勢の裏切りの風説を招き、背後の部隊から崩れるいわゆる「裏崩れ」を引き起こしたため、家康旗本さえも右往左往する醜態を招いたのではないだろうか。

 この日の真田信繁勢は、確かに越前松平勢を突破して家康本陣まで突入することに成功しているが、その「真田日本一の兵」という薩摩の島津忠恒の高評価は、多分に当日の戦況の偶然性に左右された結果だったのではないだろうか。当日の決戦における勝敗の原因は、両軍の前線指揮官たちの能力の優劣差などではなく、兵力の圧倒的な格差にあったことは間違いないところであろう。

その証拠に、57日正午頃に始まった天王寺・岡山口の大坂夏の陣最終決戦は、わずか3時間後の午後3時には決着がついたと言われている。ちなみに大坂城とその城下町が炎上したのは、午後4時頃だったとも言われているのだ。

2015年7月22日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察

 来年のNHK大河ドラマのタイトルは「真田丸」だそうである。慶長191614)年11月から12月に起きた大坂冬の陣における最大の戦いは、真田左衛門佐信繁が築いた真田丸を巡る攻防戦をきっかけとして124日に起きた、東惣堀(猫間川)から西惣堀(東横堀川)に向かって大坂城南端部上町台地を遮断するように文禄31594)年に構築された惣構空堀の八丁目口と谷町口での戦闘であった。

 実は真田丸については、その位置や規模について現在まで絵図面以外に具体的な情報を得ることが中々困難である。残された絵図の多くは江戸時代の軍学者の想像の産物らしく、信用に足るものは少ないと言われている。

真田丸は、概ね豊臣期大坂城外郭辰巳門(東南)のある平野口から惣堀を隔てた一段高い畑のあった丘上に構築された大型の馬出(城への出入り口である虎口を防御するために外部に築かれた陣地)であったらしく、周囲に空堀を設け銃眼を切った塀を一重、柵を三重にかけ、石落しまで備えた簡易な櫓や井楼も作られていたと言われる。

 通説では、東西北の三方を自然の川と湿地帯に囲まれた大坂城は難攻不落の天然の要害に位置していたが、古代の難波京以来の上町台地につながる南方部だけが唯一敵の侵入が容易で脆弱な地点であったため、惣構の守備を補強するために信繁が出丸を築いたとされる。

 信繁が大阪に入城したのは同年10月上旬であったから、わずか12か月の短期間のうちに堅固かつ広大な出丸を構築したことになる。信繁は、恐らく今日のプレハブ建築工法のような手法を駆使したのではないだろうか。

それにしても、父安房守昌幸が慶長161611)年に紀州高野山麓の九度山で亡くなってからは家来も信州に帰国していたため譜代家臣もほとんど持たなかった信繁が、一獲千金を目論んで大坂城に集まった烏合の衆の牢人数千人を見事に訓練し、統率して真田丸に籠城し、しかも前田や井伊、越前松平など名立たる大大名の軍勢を撃破できたことには驚愕する。父とともに徳川の軍勢を2度の上田城合戦で破った際の実戦経験が物を言ったのだろう。

 城郭考古学の研究で著名な千田嘉博・奈良大学学長らによる最近の真田丸に関する現地調査では、元広島藩主の所蔵していた図面集「浅野文庫諸国古城之図」の真田丸の史料が最も信頼出来るそうで、それによると、真田丸と惣構との間には冬の陣当時深い崖があったそうで、真田丸は大坂城の構えから孤立した死地に位置する巨大な別城であったと言う。

 真田信繁は兵力劣勢である大坂方の事情を鑑み、敢えて死地に自らの率いる手勢を置くことで徳川勢の攻撃を正面から一手に引き受け、その他の大坂方の軍勢に大軍である徳川勢の側面を攻撃させようという作戦を構想したらしい。これは上田城合戦における父真田昌幸の作戦をほとんど踏襲したものと言ってよいだろう。

 確かに真田丸の前面には当時小橋村篠山という小さな丘がある他は、一面広漠たる野原だったらしいから、この方面から敵の攻撃が集中することは当然想定することが出来ただろう。実際真田勢は、この篠山から加賀前田勢に鉄砲を打ちかけてその陣地構築を妨害したため、124日の真田丸の戦いが起こっている。

 常に敵より劣勢を強いられた信州の小大名真田家の戦法は、巧妙に構築した馬出や城内に敵を引き込んで、敵の統率が乱れたところを伏兵で反撃するというものだったと思われる。

徳川勢のような諸大名連合の大軍勢はその致命的な弱点として、統率が十分に取れないことが当然考えられる。真田昌幸と信繁親子はその弱点をうまく突いて、自軍を勝利を導くことに長けていたのであろう。もちろん、真田勢の訓練と統率が行き届いていなければ、こうした乾坤一擲の反撃作戦が成功する見込みもないのであるが。

 千田氏らの調査によると、秀吉生存当時大名屋敷が建ち並んでいた大坂城三の丸の南に位置する上町台地東部の現在大阪明星学園がある真田丸の辺りは、当時かなり深い谷が入り組んでいて、大坂城防衛の弱点などでは決してなく、むしろ要害の地点であったらしい。

 それに比べると、惣構内の城下町であった上町から惣構の谷町口を出て四天王寺に南下する谷町筋と、その東にある八丁目口を出て四天王寺に南下する上本町筋の辺りは平坦な土地で、大坂城防衛のために寺町が築かれていた。

しかも両寺町の間には、平野郷から住民を移転させて平野町の街区が建設されており、冬の陣当時この辺りに陣取っていた藤堂高虎勢、越前松平忠直勢、そして井伊直孝勢は、街を焼き払わない限り市街戦で苦戦を強いられることになっただろう。

 そう考えると、真田信繁が篠山を挟んで広大な野原に面した平野口南部に敢えて真田丸を築いた意味がはっきり見えてくると、筆者には思われる。徳川勢の大軍を誘い込むには、正しくこの真田丸の丘陵地が絶好の位置にあったからだ。

 しかも、千田氏の指摘する通り、真田丸の背後が惣構の空堀と深い崖を隔てて必ずしも城内との連絡が容易でないとすれば、いわゆる背水の陣の死地に敵より劣勢な手勢を置いたことになるため、自軍の兵士たちに勇戦敢闘を促す効果も持っていたに違いない。

 そう考えると、真田左衛門佐信繁は、長い九度山蟄居期間中、単に2度の上田城攻防戦における徳川勢との実戦経験だけではなく、兵書の軍学についても相当学んでいたことが垣間見られると筆者は考えるのである。

2015年7月17日金曜日

イラン核協議最終合意に関する分析(追加)-中東安定化の行方は、アメリカとサウジ、イスラエルの対イラン脅威認識ギャップに依存している。

 昨日の投稿で筆者は、イランとの核協議に臨んだ欧米が、本音では現時点でISの脅威への対処を最優先としており、イランを対IS戦闘に取り込むために今回のイランとの核協議で最終合意に至ったと指摘した。

 他方、地域における対米同盟のジュニア・パートナーであるサウジアラビアとイスラエル両国の対イラン脅威認識は、イランのウラン濃縮活動を今後10から15年間制限することでその核武装を阻止することが出来るとするオバマ政権の(甘い)認識とは大きなギャップがある。

両国は、イランが今回の合意により事実上核の「敷居」(threshold)を跨ぐことを認められた結果、今後経済力を回復して域内のシーア派武装勢力に対する影響力と保護力を増して潜在的な地域覇権国に近づくことを恐れている。このオバマ政権との脅威認識ギャップが、最近の両国の対米不信の外交姿勢に現れている。

 例えば、最近のサウジアラビアの軍事と外交に関する興味深い事実を、いくつか確認してみると、まず第1に、SIPRI (ストックホルム国際平和研究所) が発表した主要国の軍事費動向のデータによると、2014年のサウジアラビアの軍事費は同年の米ドルに換算して約808億ドルで、アメリカ、中国、ロシアに次いで世界第4位の規模であった。これを国民1人当たりに換算すると、アメリカを抜いて世界第1位の支出額となる。

 第2に、サウジアラビアが主導するアラブ連合軍が、2015326日から、ハーディー暫定大統領をサウジアラビアに事実上亡命させた、イエメンの反体制武装勢力フーシー派の拠点に対する空爆を開始したことである。

こうしたサウジ独自の軍事外交が出現した事実は、イランの核開発プログラム継続を認めたオバマ政権に対する、サウジアラビアの不信感が示されたものに他ならない。特にサウジが主導する対イエメン空爆作戦は、ロウハニ政権誕生後のアメリカの対イラン宥和外交に反発して、サウジアラビアが自らの独自判断でイランに対する均衡を回復しようとして始まった軍事行動である。

イエメン情勢の最終的な安定化に向けた具体的方策をサウジアラビアが現時点で持っているかどうかは疑問であるが、3月にフーシー派とサーレハ前大統領派の武装勢力に追われてサウジの首都リヤドに亡命中のハーディー暫定大統領派の武装勢力が714日、サウジ主導の連合軍の武器供給を受けて港湾都市アデンをフーシー派から奪還したことで暫定政府がアデンに復帰する見込みが立った。重要都市アデンを奪還したことは、サウジにとってはイランの傀儡シーア派勢力に対する意味ある勝利と言えるだろう。

 核協議を巡る事実上の欧米に対する勝利に沸くイラン国内強硬派とイスラーム革命防衛隊が、現在の勢いに乗じてイエメンのフーシー派支援を強化しサウジに対抗しようとすると、両国が前面に立ってペルシャ湾岸におけるスンナ派とシーア派の宗派間抗争が激化する危険が高まるかもしれない。

アメリカとサウジの事実上の同盟関係は、第二次世界大戦当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が、19452月のヤルタ会談の帰途、サウジのアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード初代国王と米軍艦上で会談してサウジの安全保障に対するコミットメントを与えて以来、70年間にわたって揺るぎないものだったが、その緊密な両国関係が最近のサウジのオバマ政権への鋭い反発で、非常にぎくしゃくしている。

地域におけるイランとサウジの宗派間(覇権)抗争がこれ以上激化すると、サウジがアメリカを無視して今後益々独自の軍事行動を採るようになるかもしれない。その究極形態が、サウジも核開発に走るということだろう。こうした事態は、中東での核のドミノ現象を引き起こす恐れがあり、イランとの最終合意でオバマ政権が期待したNPT体制の維持という目論見とは正反対の不安定な安全保障環境を中東にもたらす。

 もしそうなれば、イスラエルはどうするか次に分析してみよう。恐らく、ネタニヤフ首相はそれまでのオバマ政権に対する強硬姿勢とは裏腹に、米議会内の共和党強硬派と組んでイランとの最終合意を葬り去ろうとしてオバマ政権と明白に対立することを避けようとするはずである。イスラエルは、当面イランとアメリカ国内における情報収集活動を強化しようとするだろう。

 軍事的に考えるとイスラエルは、今後ミサイル防衛体制と空軍、海軍力をさらに強化してヒズブッラーとそれを背後で支援しているイスラーム革命防衛隊の奇襲攻撃に備えるはずである。そして、もし将来イランが最終合意の履行を破棄して明白に核兵器の開発を始めた場合には、イスラエルの核による先制攻撃を封じてきた従来の曖昧政策を破棄して、自国の核武装を明示することにより、イランとの核抑止体制を構築しようとするかもしれない。

 つまり、イラン核協議の最終合意によってP5+1が期待するNPT体制維持の目論見も、イランと鋭く対立するサウジとイスラエルの今後の政策の展開次第では、却って地域に核拡散を引き起こす可能性が否定しきれないと筆者は分析している。

2015年7月16日木曜日

イラン核協議最終合意「包括的共同行動計画」に関する分析

 714日、6月末の期限を3度延長して18日間交渉が続けられたP5+1とイランとの核協議が最終合意に達した。今日はこの合意「包括的共同行動計画」が今後の中東安全保障環境に与える影響について、筆者の現時点での分析を述べたい。

 まず合意内容を端的に要約すれば、P5+1側が獲得したのは、10年から15年間イランのウラン濃縮能力を大幅に制限することにより、イランの核爆弾製造能力を最短でも1年以上かかる状態を10年以上継続でき、かつ、IAEAが一応検証可能な枠組みを構築したことである。

欧米の目論見としては、これ以上イランが核開発を継続すれば早晩イスラエルの軍事行動を招きかねず、また、サウジアラビアなどアラブ諸国が核開発を始めてNPT体制がさらに揺らぐことが当然想定されるが、イランのウラン濃縮活動を10年以上制限することで、こうした中東における安全保障環境悪化のリスクを当面阻止できると考えたのであろう。

オバマ米大統領の言葉を借りれば、「合意で必要なのはイランを信頼することではなく、イランの誓約履行を検証できる体制を構築することである」ということで、2002年にイランの秘密裏の核開発が発覚して以来13年間にわたって続いた交渉を決着させたという点では、「歴史的合意」には違いない。

もっとも、イスラエルのネタニヤフ首相の反論を引用すれば、今後縮小・制限される見込みとは言え、イランがウラン濃縮および研究活動自体を継続することを経済制裁の一括解除という好条件と引き換えに認めた今回の最終合意は、P5+1の「歴史的な過ち」に他ならないということになる。

 これでイランは国際社会に復帰する目途が立ち、国連と欧米の経済制裁が最終合意に基づいて来年初頭にも一括解除されれば、イラン産原油が日量100万バレル程度市場に追加供給されることになる。

 その結果、イランは年間数兆円規模の外貨を獲得できるとともに、日本にとっても石油価格の下落傾向が継続すると同時に有望な石油供給先、投資先としてイランに再び期待を抱くことが可能となって、却って好都合だろう。

 アメリカが現在中東で直面している安全保障上の脅威という側面では、イランの核開発よりもイラクとシリアで活動を続けているISを抑えることがテロ対策としてはむしろ重要である。

その点では、同じくISを自分の傀儡勢力であるイラク南部のシーア派とシリアのアサド政権に対する最大の脅威と見なしているイランを今後の対IS戦闘に協力させることが、イランを実存的な脅威と考えている域内同盟国(特にイスラエルとサウジアラビア)の反対を押し切ってでも選択すべきと決断したというのが、オバマ政権による最終合意に至った判断の根拠だったのだろう。

 また、イスラーム圏からの移民を多く抱える英仏独など欧州諸国としても、国内の社会的安定を維持し、大規模テロの発生を抑止するという側面では、アメリカと同様にイランを国際社会に復帰させて対IS戦闘に参加させることが合理的な判断となる。そのためには、イランに対する経済制裁を解除してもやむを得ないという所だろう。

 しかし、イランに対する国連と欧米諸国の経済制裁が一括解除されることはイランの経済力を上昇させる結果をもたらすから、そうしてイランが獲得した資金が、イスラーム革命防衛隊を通じてレバノンのヒズブッラーの反イスラエル闘争強化やイエメンのフーシー派の武装強化に流用されることは、イスラエルとサウジアラビアにとっては看過しがたい脅威となりかねない。

 また、イスラエルとサウジアラビアにとっては、イランの核開発継続が核武装につながること自体よりも、むしろ、核開発継続によってイランが核の「敷居」(threshold)を跨ぐことで自国に敵対するシーア派武装勢力に対するイランの保護が強化され、これらシーア派武装勢力に対する自国の攻撃が今後困難となることがむしろ懸念材料と考えられているのではないだろうか。

 イランがそうした地域のシーア派に対する影響力を伸ばすことは、スンナ派との宗派間抗争の激化を自国の意思で容易にコントロールすることを可能にさせるから、イスラエルとサウジアラビアは、安全保障上自らの対応が後手に回る不利な立場に追い込まれかねない。

この両国にとって従来最大の同盟国であったアメリカが、自国の関与を縮小させるために今後中東の安全保障環境を維持する重要なパートナーとしてイランを迎え入れる判断に舵を切ることになれば、イスラエル、サウジアラビアとイランとの勢力均衡を外交政策として採用することになるだろう。

天然資源の豊富さや人口規模などの国力で考えた場合、両国に対して今後イランが優勢な立場を構築していくことも不可能ではない。つまり、中東における地域覇権国としてイランが勢力を拡大していく恐れを、イスラエルとサウジアラビアは抱いているのである。

 この点で、今日東アジアで中国が置かれた立場と中東でイランが置かれた立場は、潜在的な地域覇権国を目指しているという点で、非常に類似していると筆者は考えている。

2015年7月14日火曜日

難攻不落の世界遺産アレッポ城の城壁破壊と、フレグの西征に関する感想

 713日のニュースでシリア北部アレッポ旧市街の地下道で爆発があり、世界遺産であるアレッポ城(Citadel of Aleppo)の城壁が一部崩壊したとの報道があった。アレッポは現在旧市街を含む西部地区をアサド政権軍が、東部地区を反政府軍がそれぞれ掌握しており、アレッポ城(シタデル)はちょうど両軍が激戦を展開している最前線に位置している。

 政府軍は旧市街や城内に兵力を展開しており、今回の地下道爆破が反体制側の攻撃によるものかどうかは不明である。しかし、シリアの首都ダマスカスと並んで紀元前3千年前から歴史に登場する世界最古の都市の1つであるアレッポ旧市街では、20113月に始まったシリア内戦の結果、既にウマイヤ朝時代の大モスクのミナレット(塔)が倒壊し、世界最大級のスーク(市場)が炎上焼失する大被害を蒙っている。

 今回、シタデルの城壁が一部崩壊したことは、貴重な人類の文化遺産がまた1つ失われたことを意味する。ユネスコの世界遺産はシリアに合計6か所あるが、20136月にその全てが「危機遺産」に登録されている。内戦の最前線にあるアレッポ旧市街はもとより、ダマスカス旧市街や黒色の玄武岩で建造された見事なローマ劇場のある南部ボスラ、十字軍時代の要塞であるクラック・デ・シュバリエなどが破壊の危険にさらされている。

また、パルミラのローマ帝国時代の隊商都市遺跡はIS(イスラーム国)によって占拠されており、彼らの手によって地雷等の爆発物が仕掛けられていると言われていて、いつ破壊されるかわからない状態に置かれている。

 アレッポ城は十字軍によって何度も攻撃されたが決して陥落しなかった、イスラーム世界屈指の名城の1つである。その広い空堀は深く、高さ約50mの丘の上に聳え立つ東京ドーム10倍の面積で周囲約2.5kmの城域をすっぽりと取り囲んでいる。

 アレッポ城内に入る通路は一本の細い橋だけで、その防御のために高い塔門が築かれている。敵の侵入は非常に困難な構造である。広大な城内には戦時に市民を収容することを想定した住居跡があちこちにあり、籠城中の市民生活を支えるためにモスクと、3千人が5年間籠城できる程の穀物を備蓄可能な巨大な食糧庫が設置されていた。

 この難攻不落のアレッポ城も、実は歴史上数回陥落したことがあった。その最初は、12601月の大モンゴル帝国フレグ・ウルス(イル・ハーン国)の初代ハーンとなったフレグ(フラグ)が率いるモンゴル、トルコ、クルド、アルメニア、そして十字軍諸侯の連合軍に攻撃された時である。

 フレグは元寇で有名なフビライの弟で、第4代大ハーンの長兄モンケに命じられて1253年軍を率いて西征に出発し、まず1256年に、イランのアラムート山城に立て籠もるシーア派分派の暗殺教団ニザール派の教主を討伐した。

 次にフレグの軍勢は、アッバース朝カリフ・ムスタースィムの首都バグダードを12581月に包囲して投石機などの攻城兵器を駆使して攻撃し、2月に投降したカリフを軍馬に踏み殺させて惨殺した後、1週間市内を徹底的に略奪破壊した上に市民を殺戮した。この結果、アッバース朝は滅亡し、その首都バグダードは完全に壊滅したのである。

 一般にモンゴル軍の中心戦力は鉄鏃を使った軽装の弓射騎兵で、チンギス・ハーンが整備した千人隊やハーン直属の親衛隊ケシクなどの機動力に優れた騎兵戦力が有名であるが、多分ペルシャで発展したものと思われるカタパルトなどの豊富な攻城器具も装備していたようだ。そうでなければ、モンゴルの遊牧民が堅固な城壁に囲まれたバグダードやアレッポを陥落させることは困難だったであろう。

 モンゴル軍の面白いところは、家畜を伴う遊牧民の集団そのものが軍勢とともに移動して後方支援の輜重部隊として機能していた点だ。この後方支援部隊を、アウルクと呼んでいたらしい。ただ、常にこんな輜重部隊が戦闘部隊に追従していたら、敵軍の格好の襲撃対象にされて補給が途絶えることも多かったのではないだろうか。ある意味で、これがモンゴル軍の弱点と言えるだろう。

 さて、12601月にアレッポが陥落した時、市民のうち男子はフレグの軍に虐殺され、約10万人の婦女子は捕虜とされて奴隷商人に売られたとされる。ところが、アレッポ陥落後兄モンケの死が知らされ、跡目決定の会議クリルタイに出席するため、フレグは西征を中断して東帰した。彼は結局この後跡目争いには加わらず、イラン北部のタブリーズを首都とするイル・ハーン国を建国して独自の勢力圏を築いて自立するのだが、アレッポには部下の将軍キトブカ・ノヤンの率いる部隊を残して後事を託した。

 キトブカの軍勢はさらに南進してダマスカスを占領し、先遣部隊はガザに進出してエジプトのマムルーク朝に無条件降伏を迫って圧力をかけたという。

 当時のマムルーク朝スルタンは第4代のクトゥズであったが、カイロのローダ島に駐屯地が有った最有力のバフリー(海の)・マムルーク軍を率いるバイバルスをシリアに追放していた。モンゴルの脅威が迫ったので、クトゥズはバイバルスと和解してエジプトに帰国させ、降伏を勧告してきたモンゴルの使節団全員を処刑して市街南部のズワイラ門に梟首したとされる。

 この辺は元寇の際に元の死者を斬った、鎌倉幕府の執権北条時宗の対応とそっくりだ。クトゥズは勇敢なスルタンで、マムルークを総動員してモンゴル軍と戦う決心をしたのだろう。実はマムルークは、中央アジアのキプチャク草原などでモンゴル人に追われたトルコ系などの遊牧民奴隷をイスラーム教徒の戦士として再教育した軍団であり、元々馬上での弓射や槍術、剣術などに長けており、またポロ競技で普段から馬術の訓練を怠らなかったと言われる。

 つまり、マムルークは、元来モンゴルの騎兵部隊に対抗できる優秀な騎兵部隊だったのである。モンゴル軍に対する心理的な恐怖心さえ克服できれば、十分戦力として勝負できたというわけなのである。また、フレグ東帰後の1260年春夏時点では、兵力的にもマムルークが優勢であっただろう。

 実際、バイバルスの率いるマムルーク先遣隊はガザのモンゴル軍を駆逐して、まず先に勝利を収めた。クトゥズの率いる本隊は7月にカイロを出発してパレスチナの海岸線を北上し、中立の立場を採ったアッカの十字軍領内を経由してヨルダン川西岸のガリラヤ地方に転進して93日、アイン・ジャールート(「ゴリアテの泉」)の村に布陣するキトブカのモンゴル軍を攻撃した。

 この時、早朝からバイバルスの率いるマムルーク先遣隊がまずキトブカ軍と衝突して意図的に退却し、伏兵として潜んでいたクトゥズの本隊がキトブカ軍の後方を遮断したためにモンゴル軍は夕方には壊滅して、キトブカも戦死した。この戦いの結果、モンゴルの西進は停止し、その後シリアから駆逐されることとなった。元寇と並んで、それまで領土を拡大する一方であったモンゴル帝国にとっては決定的に手痛い敗北となったわけである。

2015年7月10日金曜日

新入社員の「ほどほど志向・サバサバ傾向」強まる(平成27年度新入社員「働くことの意識」調査結果)に関する感想

 日本生産性本部と日本経済青年協議会が取り纏めた、平成27年度新入社員「働くことの意識」調査の結果について、新入社員の「ほどほど志向・サバサバ傾向」が強まったという記事が有ったので筆者もデータを確認してみた。

 今年の新入社員はいわゆる「ゆとり」「さとり」世代(1986~95年生まれ)に属し、筆者を含む「新人類」世代(1961~70年生まれ)から見れば子供の代に該当するため、別名「新人類ジュニア」とも呼ばれる若者達である。

 最近社会人となった彼らは、よく会社の先輩たちから「自発的でなく休日出勤や残業を嫌う」「飲み会を断る」とか、「敬語や言葉使いがなっていない」と指摘されるらしいが、これが彼らの親世代である我々新人類世代に当時浴びせられた批判とほとんど被っていることに苦笑せざるを得ない。科学的根拠は無いが、親世代の特徴が子供世代に乗り移ったと言えるのかもしれない。

 しかし、新人類とさとり世代では、消費の傾向と性質が外向的か内向的かという点で大きな相違が存在する。我々世代は、青年期にバブル経済に遭遇し、日本社会がサービス業中心の消費社会に大転換した時期を経験している。特に「オタク」と呼ばれる人達に顕著に見られるように、消費の個人化と差別化が進んだ時代に多感な若者時代を生きている。

 そのため、新人類は概して消費に貪欲で、海外旅行やクルマは生活必需品であったと言える。個人的には、アメリカナイズされた普遍的価値を心に内面化してきた世代であるとも言えるだろう。

 ところが、我々の子供世代である「さとり」世代の若者達は、上記の調査結果では新人類と全然違う性向を持っているようだ。特に、「海外の勤務があれば行ってみたい」という質問に肯定的な答えを示したのがわずか43.7%で、前年より2.6%マイナスで海外志向がさらに低下していることには驚きを隠せない。今の若者は無欲で刺激を好まず、旅行に行かないで自宅で休日を過ごす内向的傾向が強いと言われるが、これは海外旅行好きで外向的なアウトドア志向の人が多い我々新人類世代とは、真逆の性質だと言えるだろう。

 出世志向が弱く「人並みに働けば十分」であると考える「ほどほど志向」の人が53.5%と過去最高の水準であることの背景については、昨今の売り手市場の就活の余裕という点もあるだろう。しかし、本質的には彼らが少子化時代に成長し、バブル崩壊後の日本のデフレ不況期しか経験しておらず、また我々時代には考えられなかったようなインターネットの普及と多様な情報テクノロジーを浴びて育ってきたため、訳知りで醒めた感覚を持っている点が、彼らを特徴づけるこの「ほどほど志向」に影響を及ぼしているのではないか。

 また、今年の新入社員は全体として職場や仕事へのコミットメントに淡白で、「職場の上司、同僚が残業していても、自分の仕事が終わったら帰る」人が41.5%(前年比プラス6.4ポイント)いるそうだ。

 筆者が思うにこの新入社員の「ほどほど志向」「サバサバ傾向」は、今の日本企業の多くが終身雇用制を見直し、年功給から役割給に賃金体系を移行させている傾向が強まっていることに対する彼らなりの合理的対応であろう。「どこでも通用する専門技術を身につけたい」人が92.3%(前年比プラス3.3ポイント)に上っていることから考えても、彼ら新入社員が会社の枠組みに留まるより自らの市場価値を高めることの方が、今後の日本社会で自分の生活を安定させるために重要であると良く理解している結果であると言える。

 「すこし無理だと思われるくらいの目標をたてた方ががんばれる」人が69.9%(前年比マイナス4.4%)に低下した点は、筆者には少し気になる。この「ほどほど志向」では、新入社員の労働生産性が高まらない懸念があるからだ。

 筆者が不思議に思うのは、「自分はいい時代に生まれたと思う」新入社員が77.3%と、昨年の75.5%から増加傾向にあることだ。また、「友人といるより、一人でいるほうが落ち着く」人が過半数以上の51.9%に達していることは、彼らが気の合わない人とは積極的に付き合おうとしない傾向を持つことと、内向型生活志向の人が多いことを証明しているのかもしれない。

 大坪寛子さんの論文「JGSS-2012のデータ分析による社会および個人生活に対する意識の世代別検討」(JGSS Research Series No. 11)の調査結果によると、新人類ジュニア世代は他の5つの世代(第一戦後、団塊、新人類、団塊ジュニア)と比べて公共的機関及び組織に対する不信感を抱く者の割合が最も高く、懐疑的な態度を持っている傾向があるとされている(同上、29頁)。他の世代が人間を性善説で見ているのに対して、新人類ジュニア世代だけは人間の本性に対する懐疑心から用心深い傾向があるらしい(同上、30頁)。

 他方で彼らは、個人生活に対する意識では満足度が高い傾向がある。特に、友人や配偶者など親密な他者との関係における満足度や将来への希望度は他の世代より最も高く、余暇の過ごし方についても社会から既に引退済みの第一戦後世代(1932~36年生まれ)に次いで高い(同上32-33頁)。この結果は、平成27年度新入社員「働くことの意識」調査で、「自分はいい時代に生まれたと思う」という回答が77.3%と増加傾向にあることと整合的に解釈できるだろう。彼ら若者の社会における幸福感は概して高いのである。

ただし、彼らの幸福感が周囲からのけ者にされていると感じない「反疎外意識」に規定される傾向がある点は他の世代との顕著な違いであり、他の世代とは別の要因が最近の若者の幸福感に作用している可能性もあると上記論文では分析されている(同上、34頁)。

 面白いのが、彼らの親世代である我々新人類世代が、個人生活の経済的側面においても、親密な他者との人間関係においても、さらには余暇の過ごし方についても他の世代よりも満足度の低い者の割合が最も高い点だ。これらの総合評価と言える幸福感についても新人類世代が最も低く、つまり我々新人類世代は、日本社会を代表する不満分子の集まりであるということである。

 例えば団塊ジュニア世代は、経済的不安にさらされながらも社会から受容されているという意識や友人に対する満足感が幸福感を高めるのに対して、新人類世代ではそうした要因は幸福感に影響を及ぼさないらしい。また、新人類は就労している方が幸福感を感じるのに対して、団塊ジュニアは就労していない方が幸福感を感じるそうだ(同上、35頁)。

 良くも悪くも現在の若者である新人類ジュニア、さとり世代と、彼らの親世代である我々新人類が、日本社会で他の世代以上に強烈な個性を放っている存在であることは間違いないようだ。

2015年7月8日水曜日

トヨタ自動車の配偶者手当廃止と「社会保障と税の一体改革」との関係に関する考察

 昨日の朝日新聞デジタルに、トヨタ自動車の労使が従来の家族手当制度の大幅見直しで大筋合意したとの記事が掲載されていた。今回のトヨタの制度改革の目的は、国の「社会保障と税の一体改革」が目指す女性の就労促進と子育て支援を先取りするためである様だが、筆者には相当考えさせる論点を含んでいると思われた。

 まず、既存制度でトヨタ社員の配偶者が専業主婦(または夫)である場合に19,500円の配偶者手当が支給されていたのが、新制度では0円になるそうだ。社員が共働きであった場合には新旧制度下で共に支給額0円であるから、トヨタ自動車は専業主婦(夫)の会社収益に対する貢献度を新制度の下においてゼロ査定したことになる。

 次に考えさせるのは、子ども手当の給付額改定である。既存制度では子供1人目は夫婦共働きの場合に19,500円、片働きの場合に5,000円、2人目以降は夫婦の就労状況に関わらず一律5,000円が支給されていたのが、新制度では共働き片働き関係なく、子供1人当たり一律20,000円を支給するそうだ。

 確かに新制度に移行すれば、トヨタ社員の夫婦と子2人の(標準)世帯のケースで見れば、夫婦の一方が専業主婦(夫)であった場合の合計手当支給額は29,500円から40,000円へ増額され、夫婦共働きである場合の合計手当支給額も24,500円から40,000円に増額される。一見すると、夫婦の就労状況と無関係に子供の人数だけで家族手当の支給額が決定されるわけだから、トヨタ自動車社員の配偶者の就労が促進されるだろう。

 また、子供なしの場合に手当て0円なのが、新制度では子供1人当たり一律20,000円が支給されるのだから、社員世帯の出生率を高め、子育てを支援する効果もかなり高いと言えるだろう。

 専業主婦(夫)に対する優遇措置を廃止する動きは、国の税と社会保険制度改革の下でも検討されている。その代表的な論点が、所得税の配偶者控除と国民年金の第3号被保険者制度を廃止すべきかどうかという議論である。

 現行税制においては、被扶養配偶者の年収が103万円以下であれば本人に所得税が課せられず、扶養者は配偶者控除を受けることが出来るため、当該被扶養配偶者は当面の可処分所得を重視して年収を103万円以下に就労を抑制しようとする。これが税制における「103万円の壁」と言われるもので、被扶養配偶者、特にその多数を占める女性の就労を阻害する要因となっていると言われる。

 国民年金の第3号被保険者(被用者年金加入者である第2号被保険者に扶養されている年収130万円未満の配偶者)も同様で、自らの年収が130万円未満になるように就労を抑制しようとするインセンティブが働く。また、第3号被保険者の場合、配偶者の年収が高いほど就労を抑制する傾向が強く、世帯年収が高いほど配偶者控除を受けやすいという税制上の欠陥がある。健康保険も同様に被扶養者が優遇されており、これが国民年金と健康保険の「130万円の壁」と言われるものだ。

 累進課税制度をとる所得税と、医療に直結する健康保険においては能力に応じた応能負担の原則が妥当であると言えるが、負担と給付の均等が一定程度要求される年金制度においては、応益負担の原則が妥当するとも言えるから、現行の第3号被保険者制度は就労に対する中立性に欠けるばかりでなく、負担と給付の公平性にも欠けるという強い批判がある。

 第3号被保険者個人単位で見れば、自らは保険料を負担せずに将来基礎年金を全額受給できる。そういうわけだから、国民年金保険料を夫と同額で負担している自営業者の妻や、被用者である第2号被保険者である女性達からすれば、何で見ず知らずの専業主婦に将来給付される基礎年金のために自分の所得の一部が移転されなければならないのか、不満を抱くのも理解できるだろう。

 また、現行制度の設計上、第3号被保険者は負担なしで満額の基礎年金を受給できるから、負担していないという点で同じ立場にある国民年金保険料免除者が将来給付を減額されることや、負担能力の無い学生が負担を義務付けられていることとの整合性に欠けるという批判も成り立つ。

 つまり、女性のライフスタイルが大きく変化した現状において、1985年の国民年金改正時に想定されたような第3号被保険者の専業主婦を包含する皆年金導入という制度趣旨が、もはや時代にそぐわなくなったのである。

 では、どうするか。国民年金制度を応益負担に個人単位化して第3号被保険者の負担を調整するか、あるいは保険料免除者と同様に給付を調整(減額)するか。筆者が思うに、前者は第2号被保険者である扶養配偶者の給与から天引きしなければ恐らく未納の問題を引き起こすし、後者は老後の保障を不安にさせるという欠点がある。

 今後検討すべきであると筆者が考えるのは、育児と介護期間中だけに第3号被保険者の適用対象を絞るという案だろうか。これならば、第3号被保険者制度の一律廃止というドラスティックな変化が引き起こす混乱を、ある程度緩和できるのではないだろうか。

 最も根本的には、現行法上分立している厚生年金、国民年金および各共済組合制度(そして国庫負担、つまり租税)からそれぞれ基礎年金勘定に資金を拠出する枠組みを見直さなければ、応益負担の原則を貫いて公平性を担保することは難しいと筆者には思われる。