2015年8月7日金曜日

「良き同盟」(La Bell Alliance=ナポレオン本営の地名)と優秀な参謀将校が機能した、ワーテルローの戦い

 1789年に勃発したフランス革命以降ナポレオン戦争が終結する1815年までの間、フランスを除く欧州四大国(英墺露普)は合計57次にわたる対仏大同盟を結成して、フランス革命政府軍やナポレオン軍に対抗した。

 実態的に見ると対仏大同盟は個別の二国間同盟が集積したものであり、その目的は欧州の「勢力均衡」を回復することにあった。「勢力均衡」とは、1713年スペイン継承戦争を終結させるために締結されたユトレヒト条約によって初めて明文化された用語である。

エマリッヒ・ヴァッテルの定義を援用すると、「勢力」を「均衡させること」の意味は一国が優越的地位(覇権)を占めるようなパワー配分の単極状況を作らないことであり、ナポレオン戦争時点においては四大国がナポレオンの欧州での覇権確立を軍事的に阻止し、ナポレオン帝政を打倒してブルボン家の王政復古を回復するための体制変更を目指す同盟に変容していたのである。

 その同盟関係が最も良く機能したのが、18153月ナポレオンのエルバ島脱出とパリでの帝位復帰後に結成された第七次対仏大同盟(墺英普露同盟条約)における、イギリスとプロイセンのベルギーでの一連の連携した軍事作戦であろう。

 同盟諸国はナポレオンを「無法者」だとし、その軍事力に対抗するために約40万人の兵力を集結した。フランスと国境を接するベルギーでは、ドーバー海峡沿岸のオーステンデを策源地としてウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)の指揮する約105千人の英蘭等連合軍が布陣した。また、約116千人のプロイセン軍はブリュッヘル元帥が率いて、やや内陸側に位置していた。

なお、この時のブリュッヘル軍参謀長は、ナポレオン軍に対抗するため国土防衛軍や参謀を養成するための士官学校(後のプロイセン陸軍大学)を創設するなど、軍制の近代化改革を実施した中心人物であった、アウグスト・フォン・グナイゼナウであり、また、『戦争論』を執筆したクラウゼヴィッツも第3軍団参謀長として従軍していたのが興味深い。

 この同盟軍に対抗するナポレオンは大陸軍を召集したが、攻撃用の野戦軍は5個軍団と騎兵および砲兵計約12万人しか集めることが出来ず、しかも優秀な参謀長であったベルティエ元帥が王政支持との板挟みになって61日に自殺したため、前線軍団長だったスールト元帥を参謀長とした。

しかし、スールトには参謀職に必要な的確な事務処理能力が無く、結果的に見ればグナイゼナウとの能力差が、その後のワーテルローでのナポレオンの敗北と百日天下を招いてしまったのである。

 615日、油断していた同盟軍の不意を衝いて、ナポレオンは内陸部のシャルルロアからベルギー領内に侵攻した。左翼軍はネイ元帥、中央の予備軍は自分、右翼軍はグルーシー元帥が率いるそれぞれ2個軍団34万人程度から編成された兵力だったようだ。ナポレオンの作戦は英蘭軍とプロイセン軍を分断・各個撃破して、ウェリントン軍を海岸線に追い落とし、プロイセン軍を退却させることだったと思われる。

 ウェリントンは当初、より平野部に位置し、パリから直結するモンスを経由してナポレオン軍が南西からブラッセルに侵攻してくると考えたようである。そのため、兵力をブラッセルの南西部に多く配置していたらしい。そこをナポレオン軍が不意を衝いて、南方から急速に迫って来たという状況であった。

 616日、ナポレオンは右翼軍と予備軍を集結して、リニーでプロイセン軍3個軍団を撃破した。しかし、ナポレオンの事後の行動は非常に緩慢で、グナイゼナウの見事な後退作戦を見過ごして翌日まで追撃しなかった。このナポレオンらしくない判断ミスが、翌々日のワーテルローでの決定的な敗戦に結び付いたのである。

一方、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が率いる英蘭第1軍団がカトル・ブラの交差地点に転進してミシェル・ネイの仏左翼軍を迎撃し、ウェリントンの本隊も後続部隊として駆けつけたため、同盟軍はカトル・ブラの守備には成功したが、リニーでの敗戦を聞いてこちらもブラッセル街道を北方に撤退した。

 617日午後、カトル・ブラを占領したネイの左翼軍と合流したナポレオンは、ウェリントン軍を追撃することを決定した。なお、ナポレオンはリニー進発時にグルーシーの右翼軍約3万人をプロイセン軍追撃に派遣したのだが、敵の退路の進行方向がブラッセルに向かう北方か、無傷で残存していたビューロー将軍が率いる第4軍団と連絡できる北東に向かったのか依然不明であったため、この追撃命令は極めて曖昧な内容で、その結果プロイセン軍はグルーシー軍の追撃をかわすことに成功してリニー北方のワーヴル東方に集結することが出来たのである。

なお、この617日夜は戦場一帯が豪雨に見舞われたため、翌日の軍の機動に支障を来したこともナポレオンの不運であったと言えるだろう。翌日のワーテルローの戦場では、泥濘のため仏軍の攻撃開始時間が遅延したことがプロイセン軍の援軍到着が間に合ったことに繋がったし、また、砲弾の反跳効果が喪失したことが、英蘭軍の陣地死守を成功させたことに寄与したとも言えるからである。

 ウェリントンはカトル・ブラ北方のモン・サン・ジャン(ワーテルロー)に連なる稜線が要害の地で、当初からこの地で迎撃する作戦を練り上げていたとされる。グナイゼナウはこの作戦に反対だったようだが、結果的にはウェリントンの戦術眼の正しさが、プロイセン軍到着まで劣勢かつ経験不足な兵力でナポレオン大陸軍を押し止めることを成功させたのだろうと筆者は考える。

 また、ブリュッヘル元帥も緊密にウェリントンと連携して併進しつつワーテルロー東方に位置するワーヴル周辺に後退したため、18日の戦場にまず無傷のビューロー軍団を迅速に援軍として送ることができ、このプロイセン軍が夕刻にプランスノワ村から仏軍右翼を圧迫してナポレオンが迎撃に向かわせたロバウ将軍の第6軍団と新規近衛部隊を打ち破った結果、最終的にナポレオン大陸軍を潰走させることに成功したのだと言えるだろう。

 ウェリントン軍が布陣した丘陵地は背後の斜面に兵力の展開を隠すことが出来た。また、戦列前面の右翼にはウーグモン館、中央にはラ・エイ・サント農場、そして左翼にはプロイセン軍の援軍が進撃予定の道を見下ろす位置にパプロットの小集落があって、それぞれ背後の稜線に布陣した本隊の戦列から容易に支援することが出来る堅固な陣地を構築していた。

そして、18日当日の戦闘ではレイユ将軍が率いる大陸軍第2軍団の攻撃が過剰に仏軍左翼にあるウーグモン館に集中してしまったためか、また、前夜の豪雨のせいもあって右翼軍のデルロン将軍が率いる第1軍団の砲兵による支援射撃後の総攻撃が午後まで遅れてしまったのかも知れない。この遅れが、英蘭軍にプロイセン軍到着までの時間的猶予を与えた。

また、命令が誤認されたためか、デルロン軍団は各師団が密集した縦列隊形で敵の横隊火力に突撃を繰り返すという愚を犯してしまった。その後、同方面の指揮を一任されたネイ元帥はナポレオンにラ・エイ・サントの奪取を厳命されたため、既に戦機を逸していたにもかかわらず大隊方陣を連ねた敵の戦列に火力支援の無いまま胸甲騎兵の突撃を繰り返して、兵力を消耗させてしまったのである。

 『孫子』地形篇では四方に通じる「交地」では、日当たりの良い高地を先に占拠して防塁を築き、食糧補給路を確保した方が有利であり、また九地篇では、「交地」では隊列を切り離さないで防御を厳重にすべきであると記されている。ワーテルローの戦いでのウェリントンの布陣は、この孫子の教えに非常に合致していることが面白い。

 この戦いの際のウェリントン軍では実戦経験豊富な兵力が比較的乏しく、特に騎兵部隊は経験不足なため稜線背後の支援に回らせた。そして精鋭の近衛歩兵連隊をウーグモン館の守備に当たらせ、国産の最新式ベーカー式ライフル銃で武装した散兵戦術が可能な王室ドイツ人歩兵大隊をラ・エイ・サントに、道路を挟んだ反対側の採石場にドイツ人大隊と同武装の第95ライフル銃連隊を狙撃兵としてそれぞれ配置して、最前線で侵攻する敵に縦射を浴びせる態勢を採ることが出来ていた。

 このウェリントンが敷いた万全とも言える防御態勢に対して、ナポレオンの方はウェリントンの戦術能力を甘く見誤っていたのではないかとも思える。グルーシーの指揮する追撃軍が簡単にプロイセン軍を牽制出来ると考えていたこと、618日にプロイセン軍がワーテルローに向かって進撃していたことを全く知らなかったのは決定的に重大な判断ミスであるし、そもそも作戦目的が曖昧な追撃命令など出さずに、最初からグルーシー軍に戦場への合流を命じておくべきだっただろう。

 グルーシーは最後までナポレオン(そして、その参謀長であるスールト)の発した曖昧なプロイセン軍追撃命令に拘ったため、ワーテルローでの戦闘に参加することが出来なかったのである。

 こう考えるとワーテルローでの歴史的惨敗とナポレオンの百日天下は、ナポレオンらしくない甘い状況判断がもたらした、必然的な結果と言えるのではないだろうか。

  明日より筆者は10日間ほど夏季休暇に入りますので、投稿もその間は中断いたします。

2015年8月6日木曜日

ボロジノの戦い-ナポレオン戦争中最も拙劣な正面攻撃作戦に関する感想

 18126月、イギリスに対する大陸封鎖令を遵守しないロシアを懲罰するため、ナポレオンは50万人以上の大軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオンの当初の作戦は国境付近まで進んで会戦に持ち込み、ロシアの野戦軍を撃滅する意図であった様である。スモレンスクよりさらに東方、よもや首都モスクワまで進撃するとはナポレオンは全く想定していなかったと思われる。

 ナポレオンの大陸軍がロシア領奥深くまで引き込まれてしまったのは、当初のロシア軍総司令官バルクライ・ド・トーリが有名な焦土作戦で決戦を回避し後退し続けたためであるが、その消極的な作戦指導と国土の荒廃は皇帝アレクサンドル1世に嫌悪された。

そのため、バルクライは皇帝に解任されてしまい、1805122日のアウステルリッツの戦いでも慎重な作戦指導を提言したミハイル・クトゥーゾフ元帥が代ってロシア軍総司令官に就任した。

クトゥーゾフは皇帝の意向を受けて、モスクワから西方約110kmのモスクワ川が街道を横切る地点に位置するボロジノ村付近の小丘陵地に野戦陣地を構築して、181297日、フランス軍を迎撃したのである。

 レフ・トルストイの小説『戦争と平和』でもクライマックスの戦闘シーンで有名なこのボロジノの戦いでは、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの時とは比べ物に成らない位拙劣な作戦指導を行った。つまり、各軍団に敵の野戦陣地に対する正面からの強襲攻撃を命令したのである。

 実はこの日の戦闘開始以前に、大陸軍中で最優秀の軍団司令官であった第1軍団を率いるダヴー元帥が、ロシア軍左翼を迂回して南から攻撃する作戦を提案した。しかし、ナポレオンは、スモレンスクでロシア軍を容易に撤退させて取り逃がしてしまった苦い経験で懲りていたためか、このダヴーの妥当な提案を却下して、ロシア軍左翼部隊が守備する3つの突角堡に対する夜明けからの正面攻撃を命じたのである。

 ロシア軍はこの突角堡の右の戦場中央部にラエフスキーが守る大多面堡も構築していたから、フランス大陸軍の正面攻撃は大損害を出すことを覚悟の上での極めて無謀な作戦だったと言えるだろう。

 一説によると、ボロジノ戦い当日のナポレオンは風邪による高熱で極めて体調が悪かったため、普段の戦闘の時のような判断力を欠いていたとも言われている。兵力ではロシア軍約12万人に対して大陸軍約13万人でやや優勢であったが、野砲の数ではロシア軍は600門以上で600門に満たない大陸軍を圧倒していた。

 そのためミュラ元帥の率いるフランス軍騎兵予備隊はロシア軍砲兵の連続砲撃で大きな被害を蒙っている。しかし、拙劣な正面攻撃作戦で大陸軍の歩兵軍団が大損害を出し、ダヴーが負傷して戦闘を指揮できなくなった後のミュラとネイ元帥の率いる第3軍団の攻撃で突角堡が占領でき、その結果ロシア軍の戦列を中央突破することに成功したのである。

 このボロジノ戦いではフランス軍胸甲騎兵が突撃によって銃剣で武装したロシア軍の大隊密集方陣を撃破しているが、これは当時非常に困難な作戦だと考えられていたようだ。実際、火力に乏しい騎兵の突撃で歩兵大隊の密集方陣を突破することは難しかっただろう。

騎兵軍団司令官ミュラの信じ難い蛮勇の発揮や、ボロジノ村占拠後モスクワ川を渡河してロシア軍多面堡への攻撃で苦戦していたウージェーヌ公の率いる第4軍団を支援するため派遣されたコランクール将軍(攻撃中戦死した)が率いる胸甲騎兵が多面堡を迂回攻撃して占領するなど、この日の大陸軍では苦戦の連続だった歩兵軍団に比較すると騎兵部隊の大活躍が顕著であり、その結果ロシア軍を撤退させることが出来た模様である。

 『孫子』九地篇では、敵国内部に深く侵入した「重地」では、自軍の結束が固まるから敵の迎撃では敗北しないという記述があるが、ボロジノの戦いにおける大陸軍騎兵部隊の活躍は、正しく「重地」における結束と士気の高さが影響した結果なのではないだろうか。

 これに対するロシア軍騎兵は、コサックと軽騎兵の部隊がウージェーヌ公の第4軍団の左翼を大迂回してフランス軍後方の輜重部隊を襲撃しようと試みたものの、ナポレオンが派遣したグルーシー将軍の率いる軽騎兵部隊に簡単に蹴散らされて相当な損害を出している。

 クトゥーゾフが皇帝に宛てた戦闘報告でも勝手な軽騎兵の攻撃が非難されているから、やはり両軍騎兵部隊の戦闘能力の差がボロジノの戦いの勝敗を決定付けた模様だ。それにしても、コサックは軽装の槍騎兵で規律を守らず無慈悲であったとされるから、戦場では余り役に立たなかったのではないだろうか。

 とは言え、この日のナポレオンはミュラとネイの軍団の奮闘でロシア軍を中央突破した後も予備の近衛軍の投入を見送ってしまい、ロシア軍の堡塁からの後退と戦列建て直しを手助けしてしまうなど、戦術上のミスが目立った。その結果、クトゥーゾフ軍は5万人もの死傷者を出したもののモスクワへ撤退することが出来たのである。

 ナポレオンの拙劣な作戦で大陸軍も約3万人の兵力を失ったため、ロシア軍を追撃する余力が無く、1週間後にモスクワを占領した。しかし、ロシア軍の放火でナポレオン軍の補給線は完全に崩壊し、冬将軍の到来とともに大陸軍は壊滅してしまったのであった。

2015年8月3日月曜日

ナポレオン大陸軍の「機動」と「詭道」による第三次対仏大同盟の崩壊

 『孫子』冒頭の「計篇」では、戦争の本質を「詭道」、すなわち敵を騙すことと規定し、自軍の弱小を装って作戦展開が不可能であるかのように見せかけて敵を増長させるとともに、敵を釣り出す餌を見せて自軍に有利な戦場に誘い出し、敵軍の混乱に乗じて攻撃することを提唱している。また「行軍篇」では、困窮していないのに敵の使者が和睦を求める裏には敵の策略がある、とも述べている。

 「軍争篇」では、敵の裏をかいて臨機応変に軍の分散と集中を行うこと、また、敵より遅く進発して先に戦場に到着する迂回機動を「遠近の計」として、行軍の際における機動力の重要性を強調する。

もちろん、そうした軍の機動力発揮は各部隊が各個撃破される危険も伴っているから、分散機動(分進合撃)によって軍の統率が決して乱れないような組織編成と練度、そして十分な補給体制が整備されている必要がある。その点で、ナポレオンの編成した大陸軍の戦闘師団と軍団編成は単に戦場における戦闘力を強化したのみならず、単独の作戦行動が可能であったために機動力の発揮に大いに適した組織体系であったと言えるだろう。

 筆者の私見によると、『孫子』の兵法の真髄は、この「詭道」と「機動」の重要性を繰り返し主張している点と、兵を「死地」に置いて奮戦させることの三点にほぼ集約されているのではないかと考える。そして、その三点を極めた将軍こそが優れた将軍に他ならないのである。

1805年にウルムの戦いとアウステルリッツの戦いに勝利して(1021日のトラファルガーの海戦でネルソン提督の率いる英国艦隊に敗北したため制海権は握れなかったが)、第三次対仏大同盟を崩壊せしめた時点のナポレオンは、皇帝(君主)であるとともに正しく『孫子』の東洋兵法から見ても極めて優れた将軍であったと筆者は考える。今日はこの点について分析してみたい。

 1805年、前年122日に帝位に就いたナポレオンの欧州全域への覇権確立を阻止するために英墺露三大国が締結した第三次対仏大同盟は、ナポレオンが英国征服のために編成した軍団の驚異的に迅速な「機動」によって、9月から10月下旬にかけて行われたウルムの包囲戦でオーストリア軍が降伏させられ、また、11月中旬にウィーンを占領されてしまった。

現在のチェコのモラヴィアに後退した露墺両国皇帝の率いる連合軍を、ナポレオンは劣勢な兵力にも関わらず、122日にアウステルリッツの戦場で芸術的な「詭道」によって撃破した。そして、124日、オーストリア皇帝フランツ1世を降伏させ、26日のプレスブルクの和約でオーストリアを同盟から脱落させることに成功し、第三次対仏大同盟を崩壊に追いやったのである。

 そもそも英仏両国は第二次対仏大同盟が崩壊した18023月のアミアンの和約で一旦和解したが、英国は和平条件であったマルタ島撤退を履行せず、18035月和約を破棄してナポレオンに宣戦布告した。制海権を握る英国海軍は、海上封鎖を行ってフランス経済に打撃を加えた。

 1805年ナポレオンは英国本土に侵攻するため、陸軍の大兵力をドーバー海峡対岸のブーローニュに集結させたが、実は対英上陸作戦を見越して1803年夏から既にブーローニュやブレストなど6か所の野営地で軍団ごとに武器操作や戦略・戦術機動に関する将兵の猛訓練を行っていた。これが、その後の大陸軍の驚異的な機動力の発揮につながったのである。

 当時の歩兵の主力装備は燧発式前装マスケット銃で、銃身内にライフルを切っていないため威力は大きいが火縄銃と同様に50m程度の有効射程距離しかなく、将校は貴族で兵卒を強制徴募していたプロイセン軍などでは将校の統率力と兵卒の士気が低いため、散兵戦術は兵の逃亡を招くために用いることが出来ず、戦闘では旧式の密集横隊、行軍では縦隊隊形が採用されていた。

 つまり、革命後のフランス軍が国民軍で士気と練度が他国軍より高かったため、戦場では散兵と横隊およびグリボーヴァルが整備した機動力に優れた野戦砲兵隊が火力支援する中、歩兵の密集縦隊と胸甲騎兵の打撃力で敵陣を粉砕・分断し、敵が後退するところを龍騎兵などの軽騎兵が追撃するという、有効な戦術を採ることが出来たのである。

 また、フランス軍が戦闘師団と軍団に軍を分割し、機動力を発揮して戦場に分進合撃出来たのも、国民軍として士気が高く、統率が取れていた結果であった。これに対する対仏大同盟軍は、いまだ大隊縦隊をいくつか連ねた連隊が軍の恒常的な編成に過ぎず、戦闘師団編成を採用することが出来ていなかったため、戦場への行軍に際して分進合撃で機動力を発揮することは不可能であり、戦場でも臨時編成した縦隊を将官が指揮する単純な形態に過ぎなかったから、ナポレオンの大陸軍のような諸兵科連合による有機的な連携作戦を実施することも出来なかったのである。

 ウルムの戦いでは、ナポレオンの先手を打ってオーストリア軍が、ナポレオンの同盟国バイエルンの首都ミュンヘンを占領した。この時、クトゥーゾフとバグラチオンの率いるロシア軍もオーストリア軍支援のためバイエルンに向かっていた。また、フランツ1世の弟カール大公(オーストリアの軍事改革を主導したので有名な人)の指揮する9万人の大軍が、イタリアに侵攻していた。緒戦では、明らかに同盟軍の方が優勢であったと思う。

にもかかわらず、ナポレオンのバイエルン救援命令で大西洋岸に集結していたフランス各軍団が8月末から約800km以上の距離を約1か月で移動してライン川を渡河し、オーストリア軍背後のドナウ川に迅速に迂回起動すると、ウルムに籠城したオーストリア軍はフランス軍に包囲攻撃されてしまったため、1020日、総司令官のカール・マック・レイベリヒ元帥はナポレオンに降伏してしまった。

 このウルムの戦いは、フランス大陸軍の機動力による勝利の典型例である。これに対して、122日のナポレオンの戴冠1周年記念日に起こったアウステルリッツの戦い(三帝会戦)は、将軍としてのナポレオンが芸術的な詭道を用いた会心の勝利であったと言えるだろう。

 すなわち、11月中旬にウィーンに入城したナポレオン軍は後方の補給線が伸び切っていた上、ウィーンを撤退したフランツ1世の軍とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍は、モラヴィアで合流してオロモウツに集結していた。連合軍の兵力は8万人以上で、この他にカール大公の率いる大軍がイタリアからハンガリーに転進しており、また、プロイセン軍が参戦する様子を見せていたためにナポレオン軍はかなり兵力劣勢であった様である。

 ナポレオンはダヴー元帥の第3軍団をウィーン守備に残し、3個軍団と予備の近衛軍、義弟ミュラ元帥の率いる騎兵軍団を率いてブルノに進出した。ブルノの南東約10kmに位置するアウステルリッツは、ブルノとオロモウツを結ぶ街道とウィーンへ南下する街道が分岐する要衝であり、中央部に位置するプラッツェン高地をスールト元帥の率いる第4軍団が占領したにも関わらず、ナポレオンはプロイセン軍到着前に敵軍を会戦に誘導して各個撃破するため、わざと連合軍に和睦を持ちかけ弱気を見せる策略を用いた。

 スールト軍団をプラッツェン高地から撤退させると、ランヌ元帥の第5軍団を北のブルノへの退路を確保するように左翼に布陣させ、霧中の中央部にスールトの第4軍団とベルナドットの第1軍団、ミュラの騎兵軍団など主力部隊を配置してプラッツェン高地奪還を企図した。そして右翼には、ゴールドバッハ川沿い数kmの長大な前線を脆弱な兵力で守備する態勢を採って、敵の攻撃を右翼に誘う作戦を採ったのである。

この時、ナポレオンはウィーンに後置していたダヴー軍団に迅速に右翼に展開するよう既に命じており、実際122日当日の戦闘では、ナポレオン軍右翼を脆弱であると見誤った連合軍の攻撃が右翼に集中したが、結局フランス軍の戦列を突破できず、逆に兵力劣勢となったプラッツェン高地をナポレオン軍主力部隊に奪還されて連合軍の戦線が南北に分断され、決定的に敗北してしまったのである。

このように、アウステルリッツの三帝会戦は、正にナポレオンが見事な「詭道」を用いた結果の勝利だったのである。

2015年7月30日木曜日

トルコの対IS掃討作戦参加に関する分析-実態はPKK掃討目的で、内戦勃発のリスク大

 トルコが724日にシリア北部ISの拠点に対するF16戦闘機による空爆作戦を開始してアメリカが率いる有志連合軍の対IS掃討作戦に参戦することに踏み切り、同時にこれまで拒んできた有志連合軍のインジルリクやディヤルバクルなど国内空軍基地使用を認める合意をオバマ米政権と締結した。

 従来ISに対する国境管理などの点における緩い対応が欧米諸国より批判されてきたトルコのAKP(公正発展党)のエルドアン政権としては、有志連合の作戦に加わることは、正にゲーム・チェンジの決断である。

 今回のトルコ政府による政策変更の契機となったのは、720日にシリアのクルド人が住む街コバニの北方、国境近くのトルコの街シュルジュの文化センターで行われていたクルド人支持者の集会が、ISによる犯行と思われる自爆テロによって多数の死傷者を出したことである。この文化センターは、トルコ国内の親クルド政党HDPが運営していたとされる。

 このISによるトルコ国内でのテロ攻撃の目的は、恐らくトルコ国内で政府と対立するクルド人を標的とすることで、エルドアン政権と数年間停戦状態を維持してきた反体制クルド人組織PKK(クルド労働者党)を、トルコ国内での反政府武装闘争に引き戻そうという、彼らの狡猾な戦略であろう。

 そして、そのISの目論見通り、トルコ政府は724日のシリア北部IS勢力に対する空爆開始の翌日には、イラク北部にあるPKKの拠点を空爆し始めるとともに、全国内で警察と治安部隊を動員して、ISのみならずPKK等の反政府勢力を大規模に摘発し始めたのである。

 アメリカもトルコも、ISのみならずPKKをテロ組織と認定している。そのため、ホワイトハウスもトルコのPKK攻撃を特段非難していない。しかし、トルコ政府が国連安保理に報告したような自衛権発動としては、PKKに対するIS攻撃との二正面作戦の遂行は、その必要最小限度の要件から見て明らかに過剰反応であろう。

 そればかりか、有志連合のIS掃討作戦の地上戦力を現在提供しているのは、イラク側ではクルド自治政府の支配下にあるペシュメルガであり、また、シリア側ではPYD(民主統一党)の民兵組織であるYPG(人民防衛隊)であるが、この両組織とPKKは対IS戦闘で緊密な協力関係にある。

例えば、今年1月末にYPGISをコバニから駆逐できたのは、有志連合軍の激しい空爆による結果だけではなく、実はトルコ政府がペシュメルガの国内通過を認めてYPGを支援させた結果でもある。ISとしては、トルコ国内のクルド人をテロ攻撃することで、エルドアン政権とPKKの間に再び亀裂を生じさせ、シリア北部での自分達の作戦遂行の余地を拡大しようとしたのだろう。

 トルコは有志連合軍に国内の空軍基地を使用させる恐らく代償として、シリア北部アレッポ東方からジャラーブルスに至るトルコ国境90km、シリア国内約40km入った地点までを安全地帯(IS排除地帯)に設定して、有利連合軍が空中から当該エリアを監視することを認めさせた。

 これはトルコ政府がこれまで要求してきたような飛行禁止区域ではないとされ、また、FSA(自由シリア軍)が地上を管理することを想定していると報道されているが、事実上アサド政権軍がこの地域から撤退して力の空白が生じている現状では、この一帯はISYPGの間で激しい争奪戦が行われている。

 しかも、この安全地帯はトルコとの国境線沿いに東西に長く伸びたYPG支配地域を事実上分断されるように設定されるわけであるから、トルコの本当の意図はIS排除と言うより、むしろYPGの支配するシリア国内でのクルド自治区建設を妨害することにあるという見方もある。

筆者もトルコのIS掃討作戦継続の意図は、現在トルコが最も排除したい敵であるアサド政権を間接支援する(敵の敵を攻撃する)結果を招くために極めて疑わしく、むしろ、シリア北部で進みつつあるクルド独立運動が自国内に波及することを恐れた結果によるトルコの安全地帯設置構想ではないかと分析している。また、シリアからトルコに避難してきた多数の難民を安全地帯に戻させる意図もあるだろう。

 つまり、エルドアン政権のクルド独立運動抑制の目論見は安全地帯設定で一部成功するわけであるが、この判断はトルコ国内におけるPKKのテロや反政府武装闘争を激化させるリスクが非常に大きい。トルコ国内がシリアやイラクと同様の内戦状態に陥る危険が相当あると、筆者には思われる。

 また、アメリカにとってもPKKIS掃討作戦における言わばサイレント・パートナーに他ならないから、トルコとPKKの戦闘状態が再燃することは、今後の有志連合軍の作戦遂行を混乱させ、有志連合内部に大きな亀裂を生じさせる恐れが多分にあるのではないだろうか。

2015年7月28日火曜日

朝日新聞デジタル、「名門公立校が小学生「囲い込み」児童らにPR合戦」に関する感想

 本日の朝日新聞デジタルに、全国各地のいわゆる旧制中学以来の名門公立高校(東京の日比谷高や西高、神奈川の湘南高、福岡の修猷館高、埼玉の浦和高など)が最近行っている、小学生に対する学校説明会の記事が掲載されていた。本日はその記事について、筆者の勝手な感想を述べたい。

 上記記事によると、少子化時代を迎えて東京や神奈川のみならず、最近は地方都市でも成績優秀な小学生が公立中学に進まず私立の中高一貫校に進学してしまう、いわゆる「公立高校離れ」が起こり始めているとのこと。

そして、小学校の成績優秀者を私立中学に青田買いされてしまうという危機感から、成績優秀な小学生を早い段階から「囲い込む」ことを目的として、各地の公立名門高校が小学生とその保護者に対して最近積極的に学校説明会を行っている様子なのである。

 そうであるとするならば、明治時代以来、地域のエリート養成機能を担ってきた旧制中学系の名門公立高校の進学実績をこれ以上落とさないことが、このような学校説明会の主たる目的であると思われる。

 筆者が思うに、この目的を実現するためには、概ね2つの方法が考えられる。まず、第一は、高度成長期のかつての日本のように、私立中学に進学する小学生がほとんどいないように社会を誘導する措置を講じることだ。

そのためには、かつてのように各小学校の成績優秀者の大部分が公立中学に進学しても学力面で不利益と成らないように、公立中学の教育カリキュラムを私立中高一貫校並みに改善し、強化する必要がある。ついでに高校入試も、より思考力を必要とするように今よりもっと難しくすれば良い。

 ただし、この第一案は、現代の日本社会の少子化と多様化時代の流れに逆行するアナクロニズムな案であるから、実現するのはほとんど困難であろう。

 そこで考えられる第二案は、各都道府県の旧制中学系の名門公立高校56校程度を選んで、その全てを「併設型」中高一貫教育校に再編してしまうことである。実は既に千葉県では、トップ公立高校である千葉高が併設中学を設置して県内の成績優秀な小学生を募集しているし、二番手高の東葛飾高校も平成284月から併設中学を開校する模様である。

東京や神奈川以下の各都道府県も今後千葉県と同様の措置を講じれば、現在私立中高一貫校に流れている成績優秀な小学生をかなり取り戻せるはずだと思う。ただし、名門公立高校はどの学校もそれなりに自負する伝統があるから、高校を廃校して中等教育学校に再編するのは教育委員会内でもOBOGたち側でも猛反対が起きるだろう。そこで、従来通り高校入試を経て入学する生徒を1クラス分位残す余地が出来る、「併設型」中高一貫教育校とするのが良いと筆者は考える。

 もちろん、各地の旧制中学系名門高校が全国一斉に中学を併設するようになれば、中堅クラスの私立中高一貫校にとってはその存続にとって大変な脅威となるだろう。しかし、一応旧制ナンバースクールの地方公立高校出身者である筆者の立場からすれば、現在の日本社会のように親の貧富の差によって私立中高一貫校へ進めるかどうかが決まり、その子が将来エリートコースに進めるかどうかが中学入学段階でほぼ判ってしまう現状は、どう考えても異常である。

 大体、自分の経験上小学生時代に成績優秀かどうかなど、その後の本人の勉強次第でいくらでも挽回可能であるし、小学生時代の優等生がその後伸び悩むケースも決して少なくないだろう。

そう考えると、特段金持ちではない、あるいは却って貧しい家に生まれた成績優秀な子供が高度成長期と同様に各地の名門公立高校ルートを経て、一流大学に進学できるような余地を残した方が、中途半端な新設の私立中高一貫校を存続させる配慮をするよりも、少子化時代の日本にとって遥かに好ましいと筆者は考える。

 仮に各地の名門公立高校に一斉に併設中学を設けることにより、大学進学という狭い側面でその実績を復活させる措置を講じたとしても、東京で言えば開成や麻布学園のような本当の名門私立中高一貫校にとってはほとんど脅威とならないだろう。

 逆に言えば、名門公立高校が小学生「囲い込み」のために青田買い目的の学校説明会に奔走しなければならない現状の方が異常なのであって、そうした積極的な小学生勧誘のための努力は、私立の中高一貫校の方が自らの存在意義を保つために実施するだけでいいのではないかと思う。

 入試によるエリート選抜主義を否定するなら、むしろ名門公立高校を復活させる必要は無いだろう。大体現在の日本では高校はほぼ全入状態であるのが実態だから、従来の名門公立高校が伝統的に担ってきた地域のエリート選抜機能を認めるべきではないともし考えるならば、いっそのこと高校も義務教育化して高校入試を廃止してしまえば良いと考える。

 そうすれば、中学時代に内申書の事を考えて学校の先生の顔色を窺って生徒が萎縮して伸び伸び育つことができない懸念も消えるし、中学校でのいじめの問題も改善される方向に行くかもしれない。大体、筆者の経験では簡単過ぎる公立高校入試は、勉強時間の無駄だったという記憶しかない。

 自分の両親は会社勤めではないごく普通の労働者だったし、それでも自分がそれなりの学力を身に付けることが出来たのは、地方の公立中学と公立高校に当時まだ十分な選抜機能が残っていたからだと、今になってつくづく思うのである。

だから、日本が少子化時代を迎えた現在、名門公立高校を全国一斉に「併設型」中高一貫教育校化して、その大学進学実績を積極的に復活させるべきであると筆者は考えるのである。

2015年7月24日金曜日

慶長20(1615)年5月7日、「真田日本一の兵」天王寺・岡山の戦いに関する分析

 さて、前年12月の大坂冬の陣和睦の後、周知のとおり豊臣方は徳川方に大坂城の惣構と二の丸を破却され、堀も埋められて本丸のみの裸城にされてしまった。そのため、翌慶長204月に起きた大坂夏の陣では、兵力を城外に出して徳川方の大軍に野戦を挑むしか打つ手が無くなった。

 4月中、豊臣方は積極攻勢に出た。まず大野修理治長の次弟主馬治房の率いる軍勢が大和郡山や堺を焼き討ちし、また紀州浅野家を攻撃したが、樫井の戦いで逆に浅野勢に敗れて塙団右衛門直之が戦死して豊臣方の攻勢は失敗に終わった。

 こうした一連の攻勢失敗を受けた軍議の席で、一説によると真田信繁は、四天王寺付近に全兵力を展開して徳川勢の集結を待って迎撃する決戦案を主張したとされる。しかし、徳川の主力が冬の陣と同じく大和口と河内口に分かれて進撃してくると見越した後藤又兵衛基次は、奈良街道が狭隘の山間部を大坂平野に抜けてくる交通の要衝国分の辺りに出張して、まず敵の出鼻を挫く案を主張した。

結局この後藤の作戦が容認され、56日に道明寺と誉田で大和路方面を進んだ約35千人の徳川勢との合戦が起きた。この時の豊臣勢は濃霧のためとも言われるが非常に連携が悪く、平野から先発した後藤基次勢は単独で小松山に進出したため、伊達政宗らの率いる軍勢の集中攻撃を受けて壊滅し、基次は討死してしまう(その後到着した薄田兼相も討死)。

天王寺から進発した毛利勝永と真田信繁らの軍勢はさらに遅れた。最も遅く戦場に到着した真田勢が石川を渡河した伊達の先鋒片倉勢を撃退したが、豊臣方は同日起きた若江の合戦で木村重成が井伊直孝の軍勢と戦って討死し、八尾では長宗我部盛親の軍勢が藤堂高虎の軍勢を追い詰めたが援軍の井伊勢が到着したため後退したので、結局誉田と藤井寺に展開した軍勢も大坂城に撤収した。他方で徳川方も朝からの戦闘で疲労していたため、伊達政宗が主張して追撃を行わなかったとされる。

 こうして、57日に大坂夏の陣最後の決戦である天王寺・岡山の戦いが起きるのであるが、後藤基次の作戦を容れたばかりに豊臣方は多くの部将を失ってしまった。結果的には、真田信繁の当初の作戦案通り、最初から天王寺と岡山に全兵力を展開して徳川勢に決戦を挑んだ方が良かったのではないかと筆者には思われる。

 徳川家康は55日に京を出発したが、3日分の兵糧だけ用意すれば足りると豪語していたと言われている。結果は家康の予言通り、57日の夕方には大坂城が炎上したのだが、正午位から始まった決戦は日本史上最大の大乱戦であり、家康の旗本までも真田勢と毛利勢の攻勢で崩され、三方ヶ原の戦い以来、初めて家康の旗が後退する屈辱的な羽目に陥ったのである。

大久保彦左衛門の『三河物語』によると、戦後激怒した家康が、戦場でうろうろとふらついた旗奉行らを厳しく詮議したことが記されている。この詮議では、槍奉行であった彦左衛門も、その頑固な物言いから家康の逆鱗に触れている。それ程まで、57日の決戦で家康が苦戦したという証拠だろう。

 この日の両軍の布陣を見てみると、豊臣方は、まず右翼に真田勢とその寄騎の約55百人の軍勢が茶臼山辺りに陣取っており、当初の構想では紀州街道と谷町筋をそれぞれ進んでくる徳川勢の大和路方面軍とその後備の紀州浅野勢合わせて約4万人の軍勢を迎え撃つ態勢を取ったようだ。

ところが、この伊達政宗やその娘婿松平忠輝(家康の六男)らの率いる徳川勢約4万人は、決戦当日ほとんど参戦していない。この怠慢は、前日の道明寺と誉田の戦いで消耗していたからという理由だろうか。徳川勢の統率が十分に取れていない印象を受ける。

 豊臣方の中央は天王寺に陣取る毛利勝永とその寄騎の軍勢約65百人で、その左翼には木村勢や後藤勢の残存兵力45千人が布陣した。この天王寺口に進撃した徳川勢は、先鋒が本多忠朝と真田信吉(信繁の兄信之の長男)ら、第二陣が榊原康勝と小笠原秀政ら、第三陣が酒井家次ら、そして家康旗本という縦隊で行軍したようだ。先鋒から第三陣までがそれぞれ約5千人、家康旗本が約15千人位の兵力で、天王寺口の徳川勢で実戦に参加した兵力は豊臣勢の約1万人に対して約3万人である。両軍の兵力差は31位だったらしい。

 統率上問題なのは、越前松平忠直の率いる約15千人の大軍が天王寺口の戦列を離れて茶臼山の真田勢攻撃に抜け駆けしたことだろう。結果的にこの越前勢の勝手な奮闘が徳川方の勝利をもたらしたわけだが、祖父の大御所家康の命令を無視した忠直の行動が天王寺口での徳川方の毛利勢、真田勢に対する総崩れの大苦戦を引き起こしたわけである。

 奈良街道から続く岡山口を守る豊臣方は大野治房の率いる45千人の軍勢で、この方面に向かった徳川勢は先鋒が加賀前田利常らの軍勢約2万人、その後に前日八尾と若江で豊臣勢と戦った藤堂と井伊の軍勢約7千人、さらにその後に将軍秀忠の旗本約23千人が続いたので、岡山口の徳川勢は総兵力約5万人といったところか。ちなみに尾張徳川義直(家康九男)の軍勢約15千人は最後尾に付いており、当日の実戦には参加しなかった。

 実戦に参加しなかったのは秀頼旗本の七手組も同様で、約14千人もの予備兵力を右翼の真田勢、中央の毛利勢、左翼岡山口の大野勢の背後に後置していたにも関わらず、秀頼自身が最後まで出馬しなかったためか、船場に布陣した明石全登勢と同様に戦機を逃して参戦できなかった。

 結局、徳川勢でこの日実戦に参加したのが約10万人、豊臣勢で実戦に参加したのが約3万人程度と思われるから、やはり兵力差は31で徳川勢の圧倒的優勢であっただろう。

 それでも天王寺口では家康旗本まで総崩れとなり、先鋒の本多忠朝が戦闘中に討死し、第二陣の小笠原秀政(決戦当日の夜死去)とその長男忠修ら大将クラスが何人も討死する程の徳川勢の大苦戦を招いたのは、毛利勝永の戦闘能力と天王寺口を進んだ徳川四天王の倅たちの戦闘能力の差に起因したものだろう。岡山口でも同様に、大軍の前田利常勢が大野治房勢に押しまくられて将軍秀忠の軍勢まで参戦する羽目に陥ったから、この日の前線部隊指揮官の能力では、豊臣方が勝っていたと筆者には思われる。

 その上、徳川勢は参戦しなかった大名や抜け駆けもあって、統率が十分に取れていなかった印象が強い。そうした軍全体の緩みが紀州浅野勢の裏切りの風説を招き、背後の部隊から崩れるいわゆる「裏崩れ」を引き起こしたため、家康旗本さえも右往左往する醜態を招いたのではないだろうか。

 この日の真田信繁勢は、確かに越前松平勢を突破して家康本陣まで突入することに成功しているが、その「真田日本一の兵」という薩摩の島津忠恒の高評価は、多分に当日の戦況の偶然性に左右された結果だったのではないだろうか。当日の決戦における勝敗の原因は、両軍の前線指揮官たちの能力の優劣差などではなく、兵力の圧倒的な格差にあったことは間違いないところであろう。

その証拠に、57日正午頃に始まった天王寺・岡山口の大坂夏の陣最終決戦は、わずか3時間後の午後3時には決着がついたと言われている。ちなみに大坂城とその城下町が炎上したのは、午後4時頃だったとも言われているのだ。

2015年7月22日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察

 来年のNHK大河ドラマのタイトルは「真田丸」だそうである。慶長191614)年11月から12月に起きた大坂冬の陣における最大の戦いは、真田左衛門佐信繁が築いた真田丸を巡る攻防戦をきっかけとして124日に起きた、東惣堀(猫間川)から西惣堀(東横堀川)に向かって大坂城南端部上町台地を遮断するように文禄31594)年に構築された惣構空堀の八丁目口と谷町口での戦闘であった。

 実は真田丸については、その位置や規模について現在まで絵図面以外に具体的な情報を得ることが中々困難である。残された絵図の多くは江戸時代の軍学者の想像の産物らしく、信用に足るものは少ないと言われている。

真田丸は、概ね豊臣期大坂城外郭辰巳門(東南)のある平野口から惣堀を隔てた一段高い畑のあった丘上に構築された大型の馬出(城への出入り口である虎口を防御するために外部に築かれた陣地)であったらしく、周囲に空堀を設け銃眼を切った塀を一重、柵を三重にかけ、石落しまで備えた簡易な櫓や井楼も作られていたと言われる。

 通説では、東西北の三方を自然の川と湿地帯に囲まれた大坂城は難攻不落の天然の要害に位置していたが、古代の難波京以来の上町台地につながる南方部だけが唯一敵の侵入が容易で脆弱な地点であったため、惣構の守備を補強するために信繁が出丸を築いたとされる。

 信繁が大阪に入城したのは同年10月上旬であったから、わずか12か月の短期間のうちに堅固かつ広大な出丸を構築したことになる。信繁は、恐らく今日のプレハブ建築工法のような手法を駆使したのではないだろうか。

それにしても、父安房守昌幸が慶長161611)年に紀州高野山麓の九度山で亡くなってからは家来も信州に帰国していたため譜代家臣もほとんど持たなかった信繁が、一獲千金を目論んで大坂城に集まった烏合の衆の牢人数千人を見事に訓練し、統率して真田丸に籠城し、しかも前田や井伊、越前松平など名立たる大大名の軍勢を撃破できたことには驚愕する。父とともに徳川の軍勢を2度の上田城合戦で破った際の実戦経験が物を言ったのだろう。

 城郭考古学の研究で著名な千田嘉博・奈良大学学長らによる最近の真田丸に関する現地調査では、元広島藩主の所蔵していた図面集「浅野文庫諸国古城之図」の真田丸の史料が最も信頼出来るそうで、それによると、真田丸と惣構との間には冬の陣当時深い崖があったそうで、真田丸は大坂城の構えから孤立した死地に位置する巨大な別城であったと言う。

 真田信繁は兵力劣勢である大坂方の事情を鑑み、敢えて死地に自らの率いる手勢を置くことで徳川勢の攻撃を正面から一手に引き受け、その他の大坂方の軍勢に大軍である徳川勢の側面を攻撃させようという作戦を構想したらしい。これは上田城合戦における父真田昌幸の作戦をほとんど踏襲したものと言ってよいだろう。

 確かに真田丸の前面には当時小橋村篠山という小さな丘がある他は、一面広漠たる野原だったらしいから、この方面から敵の攻撃が集中することは当然想定することが出来ただろう。実際真田勢は、この篠山から加賀前田勢に鉄砲を打ちかけてその陣地構築を妨害したため、124日の真田丸の戦いが起こっている。

 常に敵より劣勢を強いられた信州の小大名真田家の戦法は、巧妙に構築した馬出や城内に敵を引き込んで、敵の統率が乱れたところを伏兵で反撃するというものだったと思われる。

徳川勢のような諸大名連合の大軍勢はその致命的な弱点として、統率が十分に取れないことが当然考えられる。真田昌幸と信繁親子はその弱点をうまく突いて、自軍を勝利を導くことに長けていたのであろう。もちろん、真田勢の訓練と統率が行き届いていなければ、こうした乾坤一擲の反撃作戦が成功する見込みもないのであるが。

 千田氏らの調査によると、秀吉生存当時大名屋敷が建ち並んでいた大坂城三の丸の南に位置する上町台地東部の現在大阪明星学園がある真田丸の辺りは、当時かなり深い谷が入り組んでいて、大坂城防衛の弱点などでは決してなく、むしろ要害の地点であったらしい。

 それに比べると、惣構内の城下町であった上町から惣構の谷町口を出て四天王寺に南下する谷町筋と、その東にある八丁目口を出て四天王寺に南下する上本町筋の辺りは平坦な土地で、大坂城防衛のために寺町が築かれていた。

しかも両寺町の間には、平野郷から住民を移転させて平野町の街区が建設されており、冬の陣当時この辺りに陣取っていた藤堂高虎勢、越前松平忠直勢、そして井伊直孝勢は、街を焼き払わない限り市街戦で苦戦を強いられることになっただろう。

 そう考えると、真田信繁が篠山を挟んで広大な野原に面した平野口南部に敢えて真田丸を築いた意味がはっきり見えてくると、筆者には思われる。徳川勢の大軍を誘い込むには、正しくこの真田丸の丘陵地が絶好の位置にあったからだ。

 しかも、千田氏の指摘する通り、真田丸の背後が惣構の空堀と深い崖を隔てて必ずしも城内との連絡が容易でないとすれば、いわゆる背水の陣の死地に敵より劣勢な手勢を置いたことになるため、自軍の兵士たちに勇戦敢闘を促す効果も持っていたに違いない。

 そう考えると、真田左衛門佐信繁は、長い九度山蟄居期間中、単に2度の上田城攻防戦における徳川勢との実戦経験だけではなく、兵書の軍学についても相当学んでいたことが垣間見られると筆者は考えるのである。