2015年8月24日月曜日

新婚旅行で初めて海外に行く人へのお薦めリゾートは、ホノルルかラスベガスか?

 筆者はこの夏、20年ぶりにラスベガスに家族旅行で行ってきた。妻の会社の後輩さんが新婚旅行で、この11月にラスベガスに行くそうである。そこで、今日は新婚旅行の訪問先としてのラスベガスについて、筆者の家族旅行における感想も含めて私見を述べてみたい。

 まず前提として考えなければならないのは、妻の後輩さんとそのご主人は英語が余り堪能ではないという点である。つまり、彼らがラスベガスまで米国内便を乗り継いで無事到達できるかどうか、多小の難関が待っていることを最初に指摘して置かなければならない。

 日本からラスベガスに行くには、通常ならロサンゼルスかシアトルあたりのアメリカ西海岸の都市を経由して米国内線を乗り継いで行く必要がある。羽田から深夜発の飛行機で行くことが出来るのは利点であるが、ラスベガスへの直行便は無い。その上悪いことに、アメリカはテロ対策を考慮してか、まず乗継地でバッゲージを受領して入国審査を通らなければならない。これが日本や欧州と比べると(イスラエル入国審査程ではないが)、とてつもなく時間がかかるのである。

 なぜならアメリカの入国審査では指紋や顔写真を採取される上、事前にESTA(電子渡航認証システム)を1人当たり14ドル、クレジット・カードで支払って登録していたとしても、審査官から様々な質問を浴びせられるからである。英語が苦手な場合、まずここで出鼻を挫かれる羽目に陥るだろう。

筆者の家族旅行のケースでも、90分の乗り継ぎ時間では危うくシアトルからラスベガス行きの国内便に乗り遅れるところだった。欧州便と比べてアメリカ便は日付を跨ぐので、10時間以上のフライトでは時差ボケも相当きつい。ハワイ便は、フライトがそれ程長時間では無いことが良い点だ。ビジネスクラスで行くならともかく、新婚旅行ではフライト時間と時差ボケの疲労度も極めて重要な要素と言えるだろう。

 次に、ラスベガスは街全体が楽しい一種のテーマパークであるが、ホテルのレセプションが常に長蛇の列を成していて、チェックインやチェックアウトでは下手をすると30分待ちが当たり前だ。これはラスベガス中心部(ストリップ)のホテルがほぼ例外なく大規模カジノホテルで、桁違いの人数のゲストを(特に週末に)泊めているためだ。新婚旅行の場合、長時間の待ち時間は興醒めであろう。英語が不得手な旦那さんの対応に、奥さんが切れる可能性も高まりかねない。

チェックアウトでは時間がかかる上に、リゾート・フィーという意味不明の追加料金の支払いも要求される。ホテルの室内は客を寛がせずカジノに直行させるため、多くの場合コーヒー・メーカーも用意されていない。但しホテルはとても大規模なので、必要な設備はどのホテルでも大体揃っている。歩いて部屋に辿り着くまで非常に時間がかかることが多いのが、逆に欠点である。英語でスタッフに尋ねることが出来ないと、ホテル内で迷子になりかねない程だ。

 第三にホテルのバフェ(ビュッフェ)も含めて、食費が非常に高い。夕食では、1人当たり30ドル以上はまずかかってしまう。安上がりに済ませるには、ホテルやショッピング・モールのフード・コートを利用するか、ドラッグストアかハワイにもあるABCストアでサンドイッチやサラダを買う手もあるが、それでも110ドル以上は費やしてしまう。日本国内のコンビニに比較すると、極めて割高な値段である。ちなみにミネラル・ウォーターも1リットルのペットボトルが2ドル以上はする。日本で言う所の350ミリリットルの缶酎ハイや缶ビールが34ドル位で、これも昨今の円安では懐が痛む値付けと言えるだろう。

 ラスベガスの良い所は、グランド・キャニオンなどのアメリカ大自然に日帰りの現地ツアーで簡単に参加できることだ。ただし、ホテルの時計がサマータイムに設定し直されていないことが多いから、夏に行くとツアー集合時間を間違える危険性が大いにある。こういうところは、アメリカのホテルは日本のホテルに比べると非常にアバウトだし、全てゲストの個人責任にされホテルは一切補償してくれない。

ちなみに、ラスベガス便はよく遅延や欠航するので、その点のリスクも十分計算に入れておくべきだろう。日本帰国が1日遅れ、羽田から出国したのに成田に帰国させられる羽目に陥ることも有り得るのだ。したがって、会社の休暇は、当初の予定より1日か2日は余分に取っておいた方が無難である。

 以上のラスベガス旅行における難点は、ハワイの特にホノルル旅行ではほぼ考慮する必要が無い。英語が苦手な日本人でも、ホノルルならばラスベガス同様入国審査に時間がかかることを除外すれば、さほど初海外旅行の困難は感じないだろう。夏ならば海水浴もできるし、ラスベガスと同等程度にショッピングも楽しめるから、新婚旅行ではやはりハワイのホノルル行きが絶対にお薦めだろう。

ラスベガスなどアメリカ本土は、初めて海外旅行に行く日本人にとっては総じて難易度が高いと筆者には思われる。テーマパークのようなアメリカ的なまがい物感も、人によって好みが分かれる所ではないだろうか。

逆に新婚旅行で行くなら、むしろパリやウィーン、プラハなどのヨーロッパの諸都市の方が、重厚な音楽や文化の伝統に触れることが出来て良いのではないかと筆者は感じる。ただし、最近の欧州はイスラーム過激派などのテロが起きるリスクが否めないこと、そしてスリや置き引きなどの軽犯罪に常時気が抜けないこと、屋外に余りトイレが無いこと(有れば、利用に際してチップを払わなければならない)、水を買うドラッグストアやコンビニが殆ど無いことが、ヨーロッパ旅行に際しての難点と言えば言えるかもしれない。

2015年8月20日木曜日

朝日新聞デジタル8月18日「長篠の戦い、本当に鉄砲3千丁?高校生が筆跡から検証」に関する考察

 標記記事によると、県立岐阜工業高校の報道・放送部員11人が太田牛一の記した『信長(公)記』全15巻の画像データから「三」の文字270個を抜き出して牛一の筆跡を検証した結果、長篠の合戦場面における鉄砲数「千挺計」に付記された「三」の文字が牛一の筆跡である確率は16%に過ぎないという結果が導かれたそうである。

 なかなか実証的な高校生の取り組みだが、その手間暇は大変なものだっただろう。しかし、研究者の間でも見解の分かれるこの長篠の戦いにおける織田・徳川勢の鉄砲数の問題に関しては、信頼できる資料が牛一の『信長(公)記』しか無いのだから、今後も結論が出ることはないかも知れない。

 実はかなり以前に、筆者も知り合いの中東研究者たちと長篠の戦いの古戦場を探訪したことがある。その時は、奥平貞昌(信昌)が籠城した長篠城跡と馬防柵が築かれた設楽原(『信長(公)記』と大久保彦左衛門の『三河物語』によると有海原)の両方を見て回ったのだが、筆者の率直な印象としては小川に過ぎない連呉川を挟んだ低い丘陵地が錯綜している狭隘な戦場に、織田・徳川と武田の双方が総勢5万人以上の兵力を展開することはとても不可能に思えた。

 軍記物などで軍勢の兵力が誇張されることは常識であるから、筆者の見立てでは天正31575)年521日に行われた合戦当日の兵力は、地元の徳川家康勢約5千人、その援軍に駆けつけた織田信長勢約1万人、そして奥三河に侵攻した武田勝頼の軍勢が78千人といったところが真実ではなかったかと思う。

もちろん、この兵力数は筆者の推測に過ぎないが、それでも織田・徳川方の兵力が武田勢の倍は有っただろうから、勝頼の重臣たちが合戦前々日の軍議で諫言した通り、敢えて野戦に打って出たのでは武田勢の勝ち目は極めて薄かったと思う。

 そもそも武田勝頼は、58日から奥平勢ら約5百人が立て籠もるに過ぎない長篠城を攻撃し続けたが、前日20日に城の包囲を解いて織田・徳川勢との決戦に打って出るまで未だ攻略出来ないでいた。これが翌日の武田勢の敗戦を招いた直接的な原因だったと思われる。武田の重臣たちが撤退か攻撃か、敵の後詰の接近に際して作戦方針を巡って動揺したのも当然だっただろう。

 長篠城は確かに東南を宇連(大野)川、西南を寒狭川が流れて合流する断崖上に築かれた要害だが、筆者が実見したところ本当に小城で、いかに籠城方の決死の抵抗に遭遇したとしても信玄以来の武田勢の精鋭が13日間も落とせなかったのは作戦上の大失態と言えるのではないか。

 信長の作戦は、連呉川西岸の丘陵地帯に兵力を隠して、川の前面に馬防柵、つまり野戦陣地を構築して鉄砲足軽部隊の釣瓶打ちで武田の攻勢を迎撃することだったようだ。だが、俗に言われるような鉄砲の三段交代射撃は、広い戦場での指揮命令と統率上不可能だっただろう。恐らく3人一組となって、時間差を短縮して連射したのが実態ではなかったか。

 太田牛一も、具体的に織田・徳川勢が521日の合戦当日、戦場に動員した鉄砲の正確な数は把握していなかったと思う。今では『信長(公)記』を素直に読んで、信長旗本と諸手から寄せ集めた概数数千挺の鉄砲が武田勢を迎え撃ったと考えて置くしかないだろう。

 織田・徳川勢の配置は、武田勢左翼と向かい合う右翼に徳川勢が並び、『長篠合戦屏風』を見ると、中央から左翼に位置した織田勢が柵の背後から鉄砲を打ちかけているのに対して、徳川勢は柵の前に出て武田の軍勢を迎撃している様子が窺える。

 恐らく地元の防衛責任者である徳川家康としては、信長の援軍への面目を立てるためにも野戦陣地である柵の背後に隠れて迎撃するような消極的な態度を取ることが出来ず、自ら進んで武田勢を迎え撃つ覚悟で戦場に臨んだのではないだろうか。徳川勢の配置を見ると、織田勢の配置に比べて武田勢の左翼、すなわち、敵の先鋒である最精鋭の山縣昌景の軍勢に突出する形で布陣している。

これと比較すると、織田勢は牛一が『信長(公)記』に記したように「御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加え、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。」という比較的安全な状況を馬防柵の背後で確保しつつ、武田勢の攻撃に応戦したようである。

 一方、この日の武田勢の攻撃は、やはり『信長(公)記』を素直に読むと、ワーテルローの戦いの際にナポレオン軍が決行したような密集した騎馬軍団の突撃などは行わなかった模様だ。左翼の山縣勢を先鋒として、二番に武田逍遥軒信廉、三番に西上野小幡一党、四番に武田典厩(左馬助)信豊、そして五番に馬場美濃守信春といった各部将が率いる手勢が、左翼部隊から順番に織田・徳川勢に波状攻撃を仕掛けたようである。

 ちなみに武田勢が総崩れとなる迄、この日の日の出から未刻(午後1時から3時の間)にかけて8から9時間も交戦が続いたとされるから、武田勢の作戦は騎馬軍団による突撃などではなく、馬防柵にある程度接近してから、歩兵主体の波状攻撃で左翼から敵陣を突破する作戦を採ったのではないだろうか。

 この日の合戦で武田勝頼が敗北した理由は、第一に、酒井忠次の率いる織田・徳川別働隊に鳶ノ巣砦などを落とされて背後を遮断されてしまったため、長篠城方面に後退できなくなって前面の敵陣を突破せざるを得なくなってしまったことが大きいだろう。第二に、馬防柵の野戦陣地を構築して一見引き籠ったように見せかけた信長の意図を、決戦を避ける消極的姿勢の現れと誤認したことから積極的攻勢に打って出てしまったことも敗因に挙げられるかも知れない。

 やはり、戦巧者である父信玄以来の重臣たちが諫言したように、兵力劣勢である武田勝頼はここでは面子を捨てて決戦を避け、一旦信州に後退すべきだったと筆者には思われる。

2015年8月7日金曜日

「良き同盟」(La Bell Alliance=ナポレオン本営の地名)と優秀な参謀将校が機能した、ワーテルローの戦い

 1789年に勃発したフランス革命以降ナポレオン戦争が終結する1815年までの間、フランスを除く欧州四大国(英墺露普)は合計57次にわたる対仏大同盟を結成して、フランス革命政府軍やナポレオン軍に対抗した。

 実態的に見ると対仏大同盟は個別の二国間同盟が集積したものであり、その目的は欧州の「勢力均衡」を回復することにあった。「勢力均衡」とは、1713年スペイン継承戦争を終結させるために締結されたユトレヒト条約によって初めて明文化された用語である。

エマリッヒ・ヴァッテルの定義を援用すると、「勢力」を「均衡させること」の意味は一国が優越的地位(覇権)を占めるようなパワー配分の単極状況を作らないことであり、ナポレオン戦争時点においては四大国がナポレオンの欧州での覇権確立を軍事的に阻止し、ナポレオン帝政を打倒してブルボン家の王政復古を回復するための体制変更を目指す同盟に変容していたのである。

 その同盟関係が最も良く機能したのが、18153月ナポレオンのエルバ島脱出とパリでの帝位復帰後に結成された第七次対仏大同盟(墺英普露同盟条約)における、イギリスとプロイセンのベルギーでの一連の連携した軍事作戦であろう。

 同盟諸国はナポレオンを「無法者」だとし、その軍事力に対抗するために約40万人の兵力を集結した。フランスと国境を接するベルギーでは、ドーバー海峡沿岸のオーステンデを策源地としてウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)の指揮する約105千人の英蘭等連合軍が布陣した。また、約116千人のプロイセン軍はブリュッヘル元帥が率いて、やや内陸側に位置していた。

なお、この時のブリュッヘル軍参謀長は、ナポレオン軍に対抗するため国土防衛軍や参謀を養成するための士官学校(後のプロイセン陸軍大学)を創設するなど、軍制の近代化改革を実施した中心人物であった、アウグスト・フォン・グナイゼナウであり、また、『戦争論』を執筆したクラウゼヴィッツも第3軍団参謀長として従軍していたのが興味深い。

 この同盟軍に対抗するナポレオンは大陸軍を召集したが、攻撃用の野戦軍は5個軍団と騎兵および砲兵計約12万人しか集めることが出来ず、しかも優秀な参謀長であったベルティエ元帥が王政支持との板挟みになって61日に自殺したため、前線軍団長だったスールト元帥を参謀長とした。

しかし、スールトには参謀職に必要な的確な事務処理能力が無く、結果的に見ればグナイゼナウとの能力差が、その後のワーテルローでのナポレオンの敗北と百日天下を招いてしまったのである。

 615日、油断していた同盟軍の不意を衝いて、ナポレオンは内陸部のシャルルロアからベルギー領内に侵攻した。左翼軍はネイ元帥、中央の予備軍は自分、右翼軍はグルーシー元帥が率いるそれぞれ2個軍団34万人程度から編成された兵力だったようだ。ナポレオンの作戦は英蘭軍とプロイセン軍を分断・各個撃破して、ウェリントン軍を海岸線に追い落とし、プロイセン軍を退却させることだったと思われる。

 ウェリントンは当初、より平野部に位置し、パリから直結するモンスを経由してナポレオン軍が南西からブラッセルに侵攻してくると考えたようである。そのため、兵力をブラッセルの南西部に多く配置していたらしい。そこをナポレオン軍が不意を衝いて、南方から急速に迫って来たという状況であった。

 616日、ナポレオンは右翼軍と予備軍を集結して、リニーでプロイセン軍3個軍団を撃破した。しかし、ナポレオンの事後の行動は非常に緩慢で、グナイゼナウの見事な後退作戦を見過ごして翌日まで追撃しなかった。このナポレオンらしくない判断ミスが、翌々日のワーテルローでの決定的な敗戦に結び付いたのである。

一方、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が率いる英蘭第1軍団がカトル・ブラの交差地点に転進してミシェル・ネイの仏左翼軍を迎撃し、ウェリントンの本隊も後続部隊として駆けつけたため、同盟軍はカトル・ブラの守備には成功したが、リニーでの敗戦を聞いてこちらもブラッセル街道を北方に撤退した。

 617日午後、カトル・ブラを占領したネイの左翼軍と合流したナポレオンは、ウェリントン軍を追撃することを決定した。なお、ナポレオンはリニー進発時にグルーシーの右翼軍約3万人をプロイセン軍追撃に派遣したのだが、敵の退路の進行方向がブラッセルに向かう北方か、無傷で残存していたビューロー将軍が率いる第4軍団と連絡できる北東に向かったのか依然不明であったため、この追撃命令は極めて曖昧な内容で、その結果プロイセン軍はグルーシー軍の追撃をかわすことに成功してリニー北方のワーヴル東方に集結することが出来たのである。

なお、この617日夜は戦場一帯が豪雨に見舞われたため、翌日の軍の機動に支障を来したこともナポレオンの不運であったと言えるだろう。翌日のワーテルローの戦場では、泥濘のため仏軍の攻撃開始時間が遅延したことがプロイセン軍の援軍到着が間に合ったことに繋がったし、また、砲弾の反跳効果が喪失したことが、英蘭軍の陣地死守を成功させたことに寄与したとも言えるからである。

 ウェリントンはカトル・ブラ北方のモン・サン・ジャン(ワーテルロー)に連なる稜線が要害の地で、当初からこの地で迎撃する作戦を練り上げていたとされる。グナイゼナウはこの作戦に反対だったようだが、結果的にはウェリントンの戦術眼の正しさが、プロイセン軍到着まで劣勢かつ経験不足な兵力でナポレオン大陸軍を押し止めることを成功させたのだろうと筆者は考える。

 また、ブリュッヘル元帥も緊密にウェリントンと連携して併進しつつワーテルロー東方に位置するワーヴル周辺に後退したため、18日の戦場にまず無傷のビューロー軍団を迅速に援軍として送ることができ、このプロイセン軍が夕刻にプランスノワ村から仏軍右翼を圧迫してナポレオンが迎撃に向かわせたロバウ将軍の第6軍団と新規近衛部隊を打ち破った結果、最終的にナポレオン大陸軍を潰走させることに成功したのだと言えるだろう。

 ウェリントン軍が布陣した丘陵地は背後の斜面に兵力の展開を隠すことが出来た。また、戦列前面の右翼にはウーグモン館、中央にはラ・エイ・サント農場、そして左翼にはプロイセン軍の援軍が進撃予定の道を見下ろす位置にパプロットの小集落があって、それぞれ背後の稜線に布陣した本隊の戦列から容易に支援することが出来る堅固な陣地を構築していた。

そして、18日当日の戦闘ではレイユ将軍が率いる大陸軍第2軍団の攻撃が過剰に仏軍左翼にあるウーグモン館に集中してしまったためか、また、前夜の豪雨のせいもあって右翼軍のデルロン将軍が率いる第1軍団の砲兵による支援射撃後の総攻撃が午後まで遅れてしまったのかも知れない。この遅れが、英蘭軍にプロイセン軍到着までの時間的猶予を与えた。

また、命令が誤認されたためか、デルロン軍団は各師団が密集した縦列隊形で敵の横隊火力に突撃を繰り返すという愚を犯してしまった。その後、同方面の指揮を一任されたネイ元帥はナポレオンにラ・エイ・サントの奪取を厳命されたため、既に戦機を逸していたにもかかわらず大隊方陣を連ねた敵の戦列に火力支援の無いまま胸甲騎兵の突撃を繰り返して、兵力を消耗させてしまったのである。

 『孫子』地形篇では四方に通じる「交地」では、日当たりの良い高地を先に占拠して防塁を築き、食糧補給路を確保した方が有利であり、また九地篇では、「交地」では隊列を切り離さないで防御を厳重にすべきであると記されている。ワーテルローの戦いでのウェリントンの布陣は、この孫子の教えに非常に合致していることが面白い。

 この戦いの際のウェリントン軍では実戦経験豊富な兵力が比較的乏しく、特に騎兵部隊は経験不足なため稜線背後の支援に回らせた。そして精鋭の近衛歩兵連隊をウーグモン館の守備に当たらせ、国産の最新式ベーカー式ライフル銃で武装した散兵戦術が可能な王室ドイツ人歩兵大隊をラ・エイ・サントに、道路を挟んだ反対側の採石場にドイツ人大隊と同武装の第95ライフル銃連隊を狙撃兵としてそれぞれ配置して、最前線で侵攻する敵に縦射を浴びせる態勢を採ることが出来ていた。

 このウェリントンが敷いた万全とも言える防御態勢に対して、ナポレオンの方はウェリントンの戦術能力を甘く見誤っていたのではないかとも思える。グルーシーの指揮する追撃軍が簡単にプロイセン軍を牽制出来ると考えていたこと、618日にプロイセン軍がワーテルローに向かって進撃していたことを全く知らなかったのは決定的に重大な判断ミスであるし、そもそも作戦目的が曖昧な追撃命令など出さずに、最初からグルーシー軍に戦場への合流を命じておくべきだっただろう。

 グルーシーは最後までナポレオン(そして、その参謀長であるスールト)の発した曖昧なプロイセン軍追撃命令に拘ったため、ワーテルローでの戦闘に参加することが出来なかったのである。

 こう考えるとワーテルローでの歴史的惨敗とナポレオンの百日天下は、ナポレオンらしくない甘い状況判断がもたらした、必然的な結果と言えるのではないだろうか。

  明日より筆者は10日間ほど夏季休暇に入りますので、投稿もその間は中断いたします。

2015年8月6日木曜日

ボロジノの戦い-ナポレオン戦争中最も拙劣な正面攻撃作戦に関する感想

 18126月、イギリスに対する大陸封鎖令を遵守しないロシアを懲罰するため、ナポレオンは50万人以上の大軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオンの当初の作戦は国境付近まで進んで会戦に持ち込み、ロシアの野戦軍を撃滅する意図であった様である。スモレンスクよりさらに東方、よもや首都モスクワまで進撃するとはナポレオンは全く想定していなかったと思われる。

 ナポレオンの大陸軍がロシア領奥深くまで引き込まれてしまったのは、当初のロシア軍総司令官バルクライ・ド・トーリが有名な焦土作戦で決戦を回避し後退し続けたためであるが、その消極的な作戦指導と国土の荒廃は皇帝アレクサンドル1世に嫌悪された。

そのため、バルクライは皇帝に解任されてしまい、1805122日のアウステルリッツの戦いでも慎重な作戦指導を提言したミハイル・クトゥーゾフ元帥が代ってロシア軍総司令官に就任した。

クトゥーゾフは皇帝の意向を受けて、モスクワから西方約110kmのモスクワ川が街道を横切る地点に位置するボロジノ村付近の小丘陵地に野戦陣地を構築して、181297日、フランス軍を迎撃したのである。

 レフ・トルストイの小説『戦争と平和』でもクライマックスの戦闘シーンで有名なこのボロジノの戦いでは、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの時とは比べ物に成らない位拙劣な作戦指導を行った。つまり、各軍団に敵の野戦陣地に対する正面からの強襲攻撃を命令したのである。

 実はこの日の戦闘開始以前に、大陸軍中で最優秀の軍団司令官であった第1軍団を率いるダヴー元帥が、ロシア軍左翼を迂回して南から攻撃する作戦を提案した。しかし、ナポレオンは、スモレンスクでロシア軍を容易に撤退させて取り逃がしてしまった苦い経験で懲りていたためか、このダヴーの妥当な提案を却下して、ロシア軍左翼部隊が守備する3つの突角堡に対する夜明けからの正面攻撃を命じたのである。

 ロシア軍はこの突角堡の右の戦場中央部にラエフスキーが守る大多面堡も構築していたから、フランス大陸軍の正面攻撃は大損害を出すことを覚悟の上での極めて無謀な作戦だったと言えるだろう。

 一説によると、ボロジノ戦い当日のナポレオンは風邪による高熱で極めて体調が悪かったため、普段の戦闘の時のような判断力を欠いていたとも言われている。兵力ではロシア軍約12万人に対して大陸軍約13万人でやや優勢であったが、野砲の数ではロシア軍は600門以上で600門に満たない大陸軍を圧倒していた。

 そのためミュラ元帥の率いるフランス軍騎兵予備隊はロシア軍砲兵の連続砲撃で大きな被害を蒙っている。しかし、拙劣な正面攻撃作戦で大陸軍の歩兵軍団が大損害を出し、ダヴーが負傷して戦闘を指揮できなくなった後のミュラとネイ元帥の率いる第3軍団の攻撃で突角堡が占領でき、その結果ロシア軍の戦列を中央突破することに成功したのである。

 このボロジノ戦いではフランス軍胸甲騎兵が突撃によって銃剣で武装したロシア軍の大隊密集方陣を撃破しているが、これは当時非常に困難な作戦だと考えられていたようだ。実際、火力に乏しい騎兵の突撃で歩兵大隊の密集方陣を突破することは難しかっただろう。

騎兵軍団司令官ミュラの信じ難い蛮勇の発揮や、ボロジノ村占拠後モスクワ川を渡河してロシア軍多面堡への攻撃で苦戦していたウージェーヌ公の率いる第4軍団を支援するため派遣されたコランクール将軍(攻撃中戦死した)が率いる胸甲騎兵が多面堡を迂回攻撃して占領するなど、この日の大陸軍では苦戦の連続だった歩兵軍団に比較すると騎兵部隊の大活躍が顕著であり、その結果ロシア軍を撤退させることが出来た模様である。

 『孫子』九地篇では、敵国内部に深く侵入した「重地」では、自軍の結束が固まるから敵の迎撃では敗北しないという記述があるが、ボロジノの戦いにおける大陸軍騎兵部隊の活躍は、正しく「重地」における結束と士気の高さが影響した結果なのではないだろうか。

 これに対するロシア軍騎兵は、コサックと軽騎兵の部隊がウージェーヌ公の第4軍団の左翼を大迂回してフランス軍後方の輜重部隊を襲撃しようと試みたものの、ナポレオンが派遣したグルーシー将軍の率いる軽騎兵部隊に簡単に蹴散らされて相当な損害を出している。

 クトゥーゾフが皇帝に宛てた戦闘報告でも勝手な軽騎兵の攻撃が非難されているから、やはり両軍騎兵部隊の戦闘能力の差がボロジノの戦いの勝敗を決定付けた模様だ。それにしても、コサックは軽装の槍騎兵で規律を守らず無慈悲であったとされるから、戦場では余り役に立たなかったのではないだろうか。

 とは言え、この日のナポレオンはミュラとネイの軍団の奮闘でロシア軍を中央突破した後も予備の近衛軍の投入を見送ってしまい、ロシア軍の堡塁からの後退と戦列建て直しを手助けしてしまうなど、戦術上のミスが目立った。その結果、クトゥーゾフ軍は5万人もの死傷者を出したもののモスクワへ撤退することが出来たのである。

 ナポレオンの拙劣な作戦で大陸軍も約3万人の兵力を失ったため、ロシア軍を追撃する余力が無く、1週間後にモスクワを占領した。しかし、ロシア軍の放火でナポレオン軍の補給線は完全に崩壊し、冬将軍の到来とともに大陸軍は壊滅してしまったのであった。

2015年8月3日月曜日

ナポレオン大陸軍の「機動」と「詭道」による第三次対仏大同盟の崩壊

 『孫子』冒頭の「計篇」では、戦争の本質を「詭道」、すなわち敵を騙すことと規定し、自軍の弱小を装って作戦展開が不可能であるかのように見せかけて敵を増長させるとともに、敵を釣り出す餌を見せて自軍に有利な戦場に誘い出し、敵軍の混乱に乗じて攻撃することを提唱している。また「行軍篇」では、困窮していないのに敵の使者が和睦を求める裏には敵の策略がある、とも述べている。

 「軍争篇」では、敵の裏をかいて臨機応変に軍の分散と集中を行うこと、また、敵より遅く進発して先に戦場に到着する迂回機動を「遠近の計」として、行軍の際における機動力の重要性を強調する。

もちろん、そうした軍の機動力発揮は各部隊が各個撃破される危険も伴っているから、分散機動(分進合撃)によって軍の統率が決して乱れないような組織編成と練度、そして十分な補給体制が整備されている必要がある。その点で、ナポレオンの編成した大陸軍の戦闘師団と軍団編成は単に戦場における戦闘力を強化したのみならず、単独の作戦行動が可能であったために機動力の発揮に大いに適した組織体系であったと言えるだろう。

 筆者の私見によると、『孫子』の兵法の真髄は、この「詭道」と「機動」の重要性を繰り返し主張している点と、兵を「死地」に置いて奮戦させることの三点にほぼ集約されているのではないかと考える。そして、その三点を極めた将軍こそが優れた将軍に他ならないのである。

1805年にウルムの戦いとアウステルリッツの戦いに勝利して(1021日のトラファルガーの海戦でネルソン提督の率いる英国艦隊に敗北したため制海権は握れなかったが)、第三次対仏大同盟を崩壊せしめた時点のナポレオンは、皇帝(君主)であるとともに正しく『孫子』の東洋兵法から見ても極めて優れた将軍であったと筆者は考える。今日はこの点について分析してみたい。

 1805年、前年122日に帝位に就いたナポレオンの欧州全域への覇権確立を阻止するために英墺露三大国が締結した第三次対仏大同盟は、ナポレオンが英国征服のために編成した軍団の驚異的に迅速な「機動」によって、9月から10月下旬にかけて行われたウルムの包囲戦でオーストリア軍が降伏させられ、また、11月中旬にウィーンを占領されてしまった。

現在のチェコのモラヴィアに後退した露墺両国皇帝の率いる連合軍を、ナポレオンは劣勢な兵力にも関わらず、122日にアウステルリッツの戦場で芸術的な「詭道」によって撃破した。そして、124日、オーストリア皇帝フランツ1世を降伏させ、26日のプレスブルクの和約でオーストリアを同盟から脱落させることに成功し、第三次対仏大同盟を崩壊に追いやったのである。

 そもそも英仏両国は第二次対仏大同盟が崩壊した18023月のアミアンの和約で一旦和解したが、英国は和平条件であったマルタ島撤退を履行せず、18035月和約を破棄してナポレオンに宣戦布告した。制海権を握る英国海軍は、海上封鎖を行ってフランス経済に打撃を加えた。

 1805年ナポレオンは英国本土に侵攻するため、陸軍の大兵力をドーバー海峡対岸のブーローニュに集結させたが、実は対英上陸作戦を見越して1803年夏から既にブーローニュやブレストなど6か所の野営地で軍団ごとに武器操作や戦略・戦術機動に関する将兵の猛訓練を行っていた。これが、その後の大陸軍の驚異的な機動力の発揮につながったのである。

 当時の歩兵の主力装備は燧発式前装マスケット銃で、銃身内にライフルを切っていないため威力は大きいが火縄銃と同様に50m程度の有効射程距離しかなく、将校は貴族で兵卒を強制徴募していたプロイセン軍などでは将校の統率力と兵卒の士気が低いため、散兵戦術は兵の逃亡を招くために用いることが出来ず、戦闘では旧式の密集横隊、行軍では縦隊隊形が採用されていた。

 つまり、革命後のフランス軍が国民軍で士気と練度が他国軍より高かったため、戦場では散兵と横隊およびグリボーヴァルが整備した機動力に優れた野戦砲兵隊が火力支援する中、歩兵の密集縦隊と胸甲騎兵の打撃力で敵陣を粉砕・分断し、敵が後退するところを龍騎兵などの軽騎兵が追撃するという、有効な戦術を採ることが出来たのである。

 また、フランス軍が戦闘師団と軍団に軍を分割し、機動力を発揮して戦場に分進合撃出来たのも、国民軍として士気が高く、統率が取れていた結果であった。これに対する対仏大同盟軍は、いまだ大隊縦隊をいくつか連ねた連隊が軍の恒常的な編成に過ぎず、戦闘師団編成を採用することが出来ていなかったため、戦場への行軍に際して分進合撃で機動力を発揮することは不可能であり、戦場でも臨時編成した縦隊を将官が指揮する単純な形態に過ぎなかったから、ナポレオンの大陸軍のような諸兵科連合による有機的な連携作戦を実施することも出来なかったのである。

 ウルムの戦いでは、ナポレオンの先手を打ってオーストリア軍が、ナポレオンの同盟国バイエルンの首都ミュンヘンを占領した。この時、クトゥーゾフとバグラチオンの率いるロシア軍もオーストリア軍支援のためバイエルンに向かっていた。また、フランツ1世の弟カール大公(オーストリアの軍事改革を主導したので有名な人)の指揮する9万人の大軍が、イタリアに侵攻していた。緒戦では、明らかに同盟軍の方が優勢であったと思う。

にもかかわらず、ナポレオンのバイエルン救援命令で大西洋岸に集結していたフランス各軍団が8月末から約800km以上の距離を約1か月で移動してライン川を渡河し、オーストリア軍背後のドナウ川に迅速に迂回起動すると、ウルムに籠城したオーストリア軍はフランス軍に包囲攻撃されてしまったため、1020日、総司令官のカール・マック・レイベリヒ元帥はナポレオンに降伏してしまった。

 このウルムの戦いは、フランス大陸軍の機動力による勝利の典型例である。これに対して、122日のナポレオンの戴冠1周年記念日に起こったアウステルリッツの戦い(三帝会戦)は、将軍としてのナポレオンが芸術的な詭道を用いた会心の勝利であったと言えるだろう。

 すなわち、11月中旬にウィーンに入城したナポレオン軍は後方の補給線が伸び切っていた上、ウィーンを撤退したフランツ1世の軍とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍は、モラヴィアで合流してオロモウツに集結していた。連合軍の兵力は8万人以上で、この他にカール大公の率いる大軍がイタリアからハンガリーに転進しており、また、プロイセン軍が参戦する様子を見せていたためにナポレオン軍はかなり兵力劣勢であった様である。

 ナポレオンはダヴー元帥の第3軍団をウィーン守備に残し、3個軍団と予備の近衛軍、義弟ミュラ元帥の率いる騎兵軍団を率いてブルノに進出した。ブルノの南東約10kmに位置するアウステルリッツは、ブルノとオロモウツを結ぶ街道とウィーンへ南下する街道が分岐する要衝であり、中央部に位置するプラッツェン高地をスールト元帥の率いる第4軍団が占領したにも関わらず、ナポレオンはプロイセン軍到着前に敵軍を会戦に誘導して各個撃破するため、わざと連合軍に和睦を持ちかけ弱気を見せる策略を用いた。

 スールト軍団をプラッツェン高地から撤退させると、ランヌ元帥の第5軍団を北のブルノへの退路を確保するように左翼に布陣させ、霧中の中央部にスールトの第4軍団とベルナドットの第1軍団、ミュラの騎兵軍団など主力部隊を配置してプラッツェン高地奪還を企図した。そして右翼には、ゴールドバッハ川沿い数kmの長大な前線を脆弱な兵力で守備する態勢を採って、敵の攻撃を右翼に誘う作戦を採ったのである。

この時、ナポレオンはウィーンに後置していたダヴー軍団に迅速に右翼に展開するよう既に命じており、実際122日当日の戦闘では、ナポレオン軍右翼を脆弱であると見誤った連合軍の攻撃が右翼に集中したが、結局フランス軍の戦列を突破できず、逆に兵力劣勢となったプラッツェン高地をナポレオン軍主力部隊に奪還されて連合軍の戦線が南北に分断され、決定的に敗北してしまったのである。

このように、アウステルリッツの三帝会戦は、正にナポレオンが見事な「詭道」を用いた結果の勝利だったのである。

2015年7月30日木曜日

トルコの対IS掃討作戦参加に関する分析-実態はPKK掃討目的で、内戦勃発のリスク大

 トルコが724日にシリア北部ISの拠点に対するF16戦闘機による空爆作戦を開始してアメリカが率いる有志連合軍の対IS掃討作戦に参戦することに踏み切り、同時にこれまで拒んできた有志連合軍のインジルリクやディヤルバクルなど国内空軍基地使用を認める合意をオバマ米政権と締結した。

 従来ISに対する国境管理などの点における緩い対応が欧米諸国より批判されてきたトルコのAKP(公正発展党)のエルドアン政権としては、有志連合の作戦に加わることは、正にゲーム・チェンジの決断である。

 今回のトルコ政府による政策変更の契機となったのは、720日にシリアのクルド人が住む街コバニの北方、国境近くのトルコの街シュルジュの文化センターで行われていたクルド人支持者の集会が、ISによる犯行と思われる自爆テロによって多数の死傷者を出したことである。この文化センターは、トルコ国内の親クルド政党HDPが運営していたとされる。

 このISによるトルコ国内でのテロ攻撃の目的は、恐らくトルコ国内で政府と対立するクルド人を標的とすることで、エルドアン政権と数年間停戦状態を維持してきた反体制クルド人組織PKK(クルド労働者党)を、トルコ国内での反政府武装闘争に引き戻そうという、彼らの狡猾な戦略であろう。

 そして、そのISの目論見通り、トルコ政府は724日のシリア北部IS勢力に対する空爆開始の翌日には、イラク北部にあるPKKの拠点を空爆し始めるとともに、全国内で警察と治安部隊を動員して、ISのみならずPKK等の反政府勢力を大規模に摘発し始めたのである。

 アメリカもトルコも、ISのみならずPKKをテロ組織と認定している。そのため、ホワイトハウスもトルコのPKK攻撃を特段非難していない。しかし、トルコ政府が国連安保理に報告したような自衛権発動としては、PKKに対するIS攻撃との二正面作戦の遂行は、その必要最小限度の要件から見て明らかに過剰反応であろう。

 そればかりか、有志連合のIS掃討作戦の地上戦力を現在提供しているのは、イラク側ではクルド自治政府の支配下にあるペシュメルガであり、また、シリア側ではPYD(民主統一党)の民兵組織であるYPG(人民防衛隊)であるが、この両組織とPKKは対IS戦闘で緊密な協力関係にある。

例えば、今年1月末にYPGISをコバニから駆逐できたのは、有志連合軍の激しい空爆による結果だけではなく、実はトルコ政府がペシュメルガの国内通過を認めてYPGを支援させた結果でもある。ISとしては、トルコ国内のクルド人をテロ攻撃することで、エルドアン政権とPKKの間に再び亀裂を生じさせ、シリア北部での自分達の作戦遂行の余地を拡大しようとしたのだろう。

 トルコは有志連合軍に国内の空軍基地を使用させる恐らく代償として、シリア北部アレッポ東方からジャラーブルスに至るトルコ国境90km、シリア国内約40km入った地点までを安全地帯(IS排除地帯)に設定して、有利連合軍が空中から当該エリアを監視することを認めさせた。

 これはトルコ政府がこれまで要求してきたような飛行禁止区域ではないとされ、また、FSA(自由シリア軍)が地上を管理することを想定していると報道されているが、事実上アサド政権軍がこの地域から撤退して力の空白が生じている現状では、この一帯はISYPGの間で激しい争奪戦が行われている。

 しかも、この安全地帯はトルコとの国境線沿いに東西に長く伸びたYPG支配地域を事実上分断されるように設定されるわけであるから、トルコの本当の意図はIS排除と言うより、むしろYPGの支配するシリア国内でのクルド自治区建設を妨害することにあるという見方もある。

筆者もトルコのIS掃討作戦継続の意図は、現在トルコが最も排除したい敵であるアサド政権を間接支援する(敵の敵を攻撃する)結果を招くために極めて疑わしく、むしろ、シリア北部で進みつつあるクルド独立運動が自国内に波及することを恐れた結果によるトルコの安全地帯設置構想ではないかと分析している。また、シリアからトルコに避難してきた多数の難民を安全地帯に戻させる意図もあるだろう。

 つまり、エルドアン政権のクルド独立運動抑制の目論見は安全地帯設定で一部成功するわけであるが、この判断はトルコ国内におけるPKKのテロや反政府武装闘争を激化させるリスクが非常に大きい。トルコ国内がシリアやイラクと同様の内戦状態に陥る危険が相当あると、筆者には思われる。

 また、アメリカにとってもPKKIS掃討作戦における言わばサイレント・パートナーに他ならないから、トルコとPKKの戦闘状態が再燃することは、今後の有志連合軍の作戦遂行を混乱させ、有志連合内部に大きな亀裂を生じさせる恐れが多分にあるのではないだろうか。

2015年7月28日火曜日

朝日新聞デジタル、「名門公立校が小学生「囲い込み」児童らにPR合戦」に関する感想

 本日の朝日新聞デジタルに、全国各地のいわゆる旧制中学以来の名門公立高校(東京の日比谷高や西高、神奈川の湘南高、福岡の修猷館高、埼玉の浦和高など)が最近行っている、小学生に対する学校説明会の記事が掲載されていた。本日はその記事について、筆者の勝手な感想を述べたい。

 上記記事によると、少子化時代を迎えて東京や神奈川のみならず、最近は地方都市でも成績優秀な小学生が公立中学に進まず私立の中高一貫校に進学してしまう、いわゆる「公立高校離れ」が起こり始めているとのこと。

そして、小学校の成績優秀者を私立中学に青田買いされてしまうという危機感から、成績優秀な小学生を早い段階から「囲い込む」ことを目的として、各地の公立名門高校が小学生とその保護者に対して最近積極的に学校説明会を行っている様子なのである。

 そうであるとするならば、明治時代以来、地域のエリート養成機能を担ってきた旧制中学系の名門公立高校の進学実績をこれ以上落とさないことが、このような学校説明会の主たる目的であると思われる。

 筆者が思うに、この目的を実現するためには、概ね2つの方法が考えられる。まず、第一は、高度成長期のかつての日本のように、私立中学に進学する小学生がほとんどいないように社会を誘導する措置を講じることだ。

そのためには、かつてのように各小学校の成績優秀者の大部分が公立中学に進学しても学力面で不利益と成らないように、公立中学の教育カリキュラムを私立中高一貫校並みに改善し、強化する必要がある。ついでに高校入試も、より思考力を必要とするように今よりもっと難しくすれば良い。

 ただし、この第一案は、現代の日本社会の少子化と多様化時代の流れに逆行するアナクロニズムな案であるから、実現するのはほとんど困難であろう。

 そこで考えられる第二案は、各都道府県の旧制中学系の名門公立高校56校程度を選んで、その全てを「併設型」中高一貫教育校に再編してしまうことである。実は既に千葉県では、トップ公立高校である千葉高が併設中学を設置して県内の成績優秀な小学生を募集しているし、二番手高の東葛飾高校も平成284月から併設中学を開校する模様である。

東京や神奈川以下の各都道府県も今後千葉県と同様の措置を講じれば、現在私立中高一貫校に流れている成績優秀な小学生をかなり取り戻せるはずだと思う。ただし、名門公立高校はどの学校もそれなりに自負する伝統があるから、高校を廃校して中等教育学校に再編するのは教育委員会内でもOBOGたち側でも猛反対が起きるだろう。そこで、従来通り高校入試を経て入学する生徒を1クラス分位残す余地が出来る、「併設型」中高一貫教育校とするのが良いと筆者は考える。

 もちろん、各地の旧制中学系名門高校が全国一斉に中学を併設するようになれば、中堅クラスの私立中高一貫校にとってはその存続にとって大変な脅威となるだろう。しかし、一応旧制ナンバースクールの地方公立高校出身者である筆者の立場からすれば、現在の日本社会のように親の貧富の差によって私立中高一貫校へ進めるかどうかが決まり、その子が将来エリートコースに進めるかどうかが中学入学段階でほぼ判ってしまう現状は、どう考えても異常である。

 大体、自分の経験上小学生時代に成績優秀かどうかなど、その後の本人の勉強次第でいくらでも挽回可能であるし、小学生時代の優等生がその後伸び悩むケースも決して少なくないだろう。

そう考えると、特段金持ちではない、あるいは却って貧しい家に生まれた成績優秀な子供が高度成長期と同様に各地の名門公立高校ルートを経て、一流大学に進学できるような余地を残した方が、中途半端な新設の私立中高一貫校を存続させる配慮をするよりも、少子化時代の日本にとって遥かに好ましいと筆者は考える。

 仮に各地の名門公立高校に一斉に併設中学を設けることにより、大学進学という狭い側面でその実績を復活させる措置を講じたとしても、東京で言えば開成や麻布学園のような本当の名門私立中高一貫校にとってはほとんど脅威とならないだろう。

 逆に言えば、名門公立高校が小学生「囲い込み」のために青田買い目的の学校説明会に奔走しなければならない現状の方が異常なのであって、そうした積極的な小学生勧誘のための努力は、私立の中高一貫校の方が自らの存在意義を保つために実施するだけでいいのではないかと思う。

 入試によるエリート選抜主義を否定するなら、むしろ名門公立高校を復活させる必要は無いだろう。大体現在の日本では高校はほぼ全入状態であるのが実態だから、従来の名門公立高校が伝統的に担ってきた地域のエリート選抜機能を認めるべきではないともし考えるならば、いっそのこと高校も義務教育化して高校入試を廃止してしまえば良いと考える。

 そうすれば、中学時代に内申書の事を考えて学校の先生の顔色を窺って生徒が萎縮して伸び伸び育つことができない懸念も消えるし、中学校でのいじめの問題も改善される方向に行くかもしれない。大体、筆者の経験では簡単過ぎる公立高校入試は、勉強時間の無駄だったという記憶しかない。

 自分の両親は会社勤めではないごく普通の労働者だったし、それでも自分がそれなりの学力を身に付けることが出来たのは、地方の公立中学と公立高校に当時まだ十分な選抜機能が残っていたからだと、今になってつくづく思うのである。

だから、日本が少子化時代を迎えた現在、名門公立高校を全国一斉に「併設型」中高一貫教育校化して、その大学進学実績を積極的に復活させるべきであると筆者は考えるのである。