2015年9月29日火曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(1)

 エイブラハム・リンカーン第16代合衆国大統領の奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説で有名な南北戦争は、世界最初の現代的な総力戦であった。例えば南北戦争における両軍の歩兵の主要装備は、ナポレオン戦争時代の滑空式前装マスケット銃から、前装または後装のライフル銃に進化した。ワーテルローの戦い当時のような重装騎兵の密集突撃は消滅して、銃で武装した軽装騎兵は専ら偵察と歩兵の側面防御に活躍するようになった。

そのため、18614月から654月まで足掛け4年間続いた南北戦争の後半には、日露戦争や第1次世界大戦を先取りしたような要塞構築と塹壕戦が恒常化したのであった。

 その他にも、機関砲と連発銃の実用化、軍事的輸送手段としての鉄道の活用、海軍による港湾封鎖と水雷攻撃の有効性の証明、鋼鉄蒸気艦による水上戦と潜水艦の出現、野戦における通信手段や負傷兵の介護システムの発達、そして徴兵制による大規模動員の実施など、筆者が思いつくだけでも、航空機と戦車の出現以外の現代総力戦の諸要素が南北戦争時点でほぼ出揃っている感じがする。

 そうかと思えば、南北戦争時点の野戦での歩兵戦術はナポレオン戦争時代を髣髴とさせる横隊による戦列歩兵の密集突撃が主体であったりしたため、両軍とも数万人規模で一度会戦した場合の戦死傷者の損害が1万人(2030%)以上に上るような、悲惨な結果をしばしば招いたのであった。

 南部連合軍(南軍)の戦力は合衆国連邦軍(北軍)より遥かに劣勢であったため、最終的には物量の差によって完敗したわけだが、これは先の大戦における日本軍の状況とよく似ていたと言えるかもしれない。

 当時の南北両軍の戦力比較に関する資料を参照すると、人口や鉄道マイル数ではほぼ71で北部優勢、しかも南部の人口約910万人中黒人奴隷が350万人も含まれていたから、北部の2千万人以上の自由民人口とは人的資源の差において比較するべくもなかった。

 製造業などの工業力ではさらに格差が開いており、91で北部優勢、武器製造能力に限定すればそれ以上の格差で、北部の絶対的優勢状態にあった。南部では、黒人奴隷の労働力に依存した原料綿花栽培とその輸出というプランテーション農業経済が主体で、主な物資は英仏など欧米諸国からの輸入に依存していたから、絶対的に優勢な合衆国海軍による南部連合海岸線にある港湾封鎖作戦によって、南部連合の経済はほぼ完全に干上がってしまう状態にあったわけだ。

この辺りの置かれた状態についても、太平洋戦争における日本と南部連合はよく似ていると言えるだろう。

 小説と映画の話題になるが、南北戦争と言えば、アトランタ炎上のシーンで有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』であろう。

その映画の最初の方で、サウスカロライナ州チャールストンにあるサムター要塞に対するボーレガード将軍の率いる南軍の砲撃開始を契機とした両軍開戦の直後、ヒロインのスカーレット・オハラが愛している貴公子アシュレイ・ウィルクスの屋敷であるトウェルブ・オークスで開かれたバーベキュー・パーティの席で、南部の男性達が戦争について議論を交わすシーンが出てくる。

そのシーンでは、多くの男性が騎士道精神で勇ましい発言をする中、北部滞在経験のあるもう1人のヒーロー、レット・バトラーが「勇ましい言葉だけで戦争は勝てない。南部には砲兵工廠1つ無いが、北部には工場、造船所、炭鉱や南部を餓死させる海軍力がある」と、醒めた発言をして座を白けさせる場面がある。

 アシュレイの発言はさほど勇ましくなく、戦争の大義には懐疑的だが、ヤンキーが南部の連邦離脱を妨害して攻めてくるなら、ジョージア州のために戦うと宣言する。

 筆者が思うに、当時の南部人にとって、このアシュレイの発言に見られるようにあくまでもヤンキーの侵略に対する防衛戦争という大義が感じられていたのだろう。その点で、リンカーン大統領が奴隷解放を宣言する以前の北部の大義名分は「連邦の統一維持」といった比較的ぼやけた内容に過ぎず、ヤンキーが戦争を積極支持する程の実質は無かったものと言えるだろう。

 戦争初期に北軍、特に首都ワシントンの防衛を担当した主力のポトマック軍が、常時兵力劣勢だったロバート・E・リー将軍の率いる南軍の北部ヴァージニア軍にしばしば翻弄されて敗北した1つの要因は、そうした大義名分の不明確さによる志願兵(いわば素人の民兵)たちの士気が十分に上がらなかったせいも有るのではないかと思う。

 もちろん、よく言われるように南軍に参加した将軍たちの多く、例えばリーやジョセフ・E・ジョンストン、そしてトマス・J・(ストーンウォール)・ジャクソンらの能力が高く、北軍の将軍たちに優っていたことも18637月初め迄の南軍優勢の原因だったのは確かであろうが。

 その南軍勝利の典型的戦闘が、1863430日から56日にかけて、北軍フッカー将軍の率いるポトマック軍と南軍リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍の間に行われた、チャンセラーズヴィルの戦いであろう。しかし、この戦いの結果、リーの右腕であった勇将ストーンウォール・ジャクソンが510日に戦傷死してしまった。

つまり勝利した南軍の方も、取り返しのつかない程の手痛い損害を、チャンセラーズヴィルの戦いで蒙ったのであった。その後7月にゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いに南軍が連敗したため、南北戦争の戦況は北軍優勢に展開したと言われている。そこで次回の筆者の投稿では、この戦いにおける両軍の旧式戦術について考察してみたいと思う。

2015年9月25日金曜日

現代のノマド、大衆演劇(旅役者)一座の生存に関する感想

 5連休を含む1週間、筆者はブログの投稿をお休みしていたが、その間の22日から23日の1泊、家族を連れて栃木県内の温泉旅館に旅行してきた。その温泉地には「湯けむり会館」という、大衆演劇の一座が巡業で公演する所謂「センター」がある。そこで、筆者は生まれて初めて旅役者劇団の芝居とショー(歌謡と舞踊)を見たのだが、なかなか面白かったので、今日はその感想を述べたい。

 まず、その公演のプログラムだが、親子愛と人情を題材としたコテコテな演歌調のわずか二幕1時間ほどの芝居の後、休憩とその間の役者の物品販売を挟んで、また1時間ほどのショーという構成であった。現在の大衆演劇は、そのほとんどが、こうした二部構成となっている様である。

 興味深かったのは、観客の大部分がすでに子育てと仕事から引退した「おばちゃん」「おばあちゃん」であったことだ。観客の大体7割位が、そうした高齢の女性達であった。彼女たちに同伴して来て参加したと思われる「おじちゃん」「おじいちゃん」たちが、その他の観客の28%程度だったろうか。我が家のような中年と若年齢層の参加者は、ほんの一握りを占めているに過ぎなかった。

 その歌謡と舞踊ショーも、若い女形の役者も含めほとんど演歌ばかりで、高度成長時代の日本慕情を髣髴とさせるような、人情に訴えかけるコテコテの内容であった。年寄りの特に女性が、いかにも好みそうな構成を敢えて選択していると思われる。

 ショーでは最前列に陣取った「おばちゃん」が何度も役者に「ハナ」、つまりご祝儀を渡していたが、こんな光景を筆者は生まれて初めて見たのである。聞くところによると、1万円が「ハナ」の相場だそうだ。これを渡すことで、役者とは単なるファンから「贔屓」の立場に関係が密接になるそうだ。

 何とも前近代的な印象を筆者は抱いたので、東京に戻ってから少し大衆演劇の歴史について調べてみた。そうしたところ、大衆演劇の劇団一座が非常に面白い形態で運営されていることに気付いた。その点について、以下感想を述べてみたい。

 まず、劇団員は、家族や血縁者の10人位で構成されている小劇団が多いそうだ。責任者である座長は世襲が多く、彼らと彼女らはほとんどの場合、母親の「腹の中」にいるころから役者として生きることが決まっており、一座とともに国内各地を転々と移動して生活しながら芸を磨き、やがて座長を世襲するそうである。

 これは正しく、現代版ノマド(遊牧民)の生活と言ってもおかしくない。狭く濃い血縁者がほとんどを占める一座とともに、小中学生時代を転々と転校を繰り返しながら、中学を卒業すると役者一本で生活していくようだ。

 大衆演劇評論家の橋本正樹さんの本などを読むと、劇団員の給料は月10万円も貰えないそうである。その代り、一座に対する食住は公演先の旅館などがほとんど提供してくれるそうだから、劇団員の最低限の生活は保障されているらしい。したがって、旅役者の毎月の給料は、あくまでも「小遣い」に相当する金額になるらしい。

 贔屓が渡す「ハナ」は臨時収入で、欧米のチップに当たる存在だが、その集金額によって役者が独り立ちできるかどうかが決まる。まさに役者個人の人気と芸次第で生き残れるかどうかが決まる、水商売なのである。堅気の人間が、容易く入り込める世界ではないだろう。

 それにしても、平成の現代に、一か所に定住せず各地を転々と移動して公演を年中続ける旅役者の生活が成立していることに、筆者は新鮮な驚きを感じた。川端康成の名作『伊豆の踊子』の世界観そのものが、現代にもしっかりと残存していたわけである。

 芸事の世襲と言えば歌舞伎役者がすぐ思い浮かぶが、大衆演劇もその根源をたどれば出雲の阿国の流行らせた歌舞伎踊りに辿り着く。江戸幕府と明治政府に保護された歌舞伎が本流の「大芝居」「国劇」として芸術的に洗練、昇華されていったのに対して、元これ同根より生じたはずの大衆演劇の方は、書生芝居の流れをくむ「新派劇」や浪曲込みの「節劇」、そしてチャンバラの「剣劇」の要素が付加されて大衆化、商業化していったらしい。

 問題は、彼ら旅役者の生存を現在支えている「おばちゃん」「おばあちゃん」が、これからの日本でも果たして絶滅しないで存在し続けるかどうかという点であろう。

一例を挙げれば、筆者の長女はインターネットやスマホに親しみ、ヴァイオリンを嗜む現代娘である。彼女が数十年後高齢化した時、果たして現在の大衆演劇が得意とする公演形態である人情劇や演歌を支持するような、昭和の高度成長期タイプの「おばちゃん」「おばあちゃん」に変身すると言えるのだろうか。

 世襲やノマド生活という大衆演劇一座の運営形態自体、高度化した現代社会での生存に必ずしも適した形態であるとは言えないだろう。しかしながら、大衆演劇はAKBのように人気が全国化するわけでもなく、芸事の家元制度も確立されていないにもかかわらず、現状で歌舞伎の約3倍の役者人口を抱えている。今回の温泉旅行を通じて、筆者は大衆演劇の将来性にふと興味を抱いたのであった。

2015年9月16日水曜日

欧州難民問題と日本の生涯未婚(嫌婚)率上昇-その政策的関連性についての考察

 915日、ついにハンガリー政府が、セルビア側から入国する難民申請者を強制送還する方針を明らかにした。同国政府は、不法入国者に対して禁固刑に処する可能性にも言及している。ハンガリーは自国へのこれ以上の難民流入を阻止するため、ルーマニアとの国境線上にも有刺鉄線を付した越境防止柵を拡張することも示唆している。極めて強硬な措置である。

 この夏以来激化した欧州難民危機問題は、今春起きたギリシャ債務危機問題と並んで、その本質はEU統合の理念と現実の乖離から生じたものである。それ故に、各加盟国ではそれぞれ自国の利害と欧州統合の理念との間のバランス判断に基づいて、独自の対応を模索している最中であると言えるだろう。

 これまで多数の難民や移民を受け入れてきた英国やスウェーデンでも、ハンガリーなど中東欧諸国の難民対策に共感する、反EU・反移民政策を掲げる極右、極左政党の政治的影響力が強まっている傾向が見られるようになった(英国独立党やスウェーデン民主党など)。

 彼らポピュリスト政治家たちは、欧州統合や人道主義の理念、少子化に伴う労働力の確保を優先するよりも、むしろ難民と移民の流入で国内の失業率や社会保障費支出が増大すること、そして治安が乱れてテロの危険が高まることを懸念している。英国では、来年にも実施されると予想されるEU離脱を巡る国民投票の行方にも、最近の難民危機問題が大きな影響を及ぼすと思われる。

 したがって、今年のEUは、ギリシャ債務危機問題と難民危機問題を契機として、創設以来最大の解体と分裂の危機を迎えたと言っても過言ではないと筆者は考える。

 他方、我が日本国の法務省は、915日、今後5年間の外国人受け入れの方針を定めた「第5次出入国管理基本計画」を公表した。それによると、昨年認定者11人だった難民認定制度については、従来通り紛争理由での申請を認定せず、新たに「紛争退避機会」として人道的配慮によって1年毎に在留許可を与える制度を新設するそうである。

 また、就労目的の申請に対する審査を厳格化すると同時に、技能実習制度に対する管理監督機関を設けてその不正を監視し、また、高い専門性や技術を持つ外国人については、経済成長に寄与するとして在留許可を拡大する方向性を示した(『朝日新聞デジタル』916日記事)。

 こうした法務省の基本方針からは、日本国として難民に対する庇護権を拡大することや、これから急速に進む少子高齢化に伴う若年労働力の減少を移民労働力で補うという政策転換については、まだ先送りすると言う意思が見えてくるのではないだろうか。

 そこで昨日、筆者の興味を引いたのが、Yahoo!ニュースとAERA編集部が共同企画した「みんなのリアル~1億人総検証」の第1弾である、「なぜ嫌婚?独身たちの主張なき抵抗」という記事なのであった。筆者には、日本も他人事として無視できない難民危機問題と嫌婚問題の間に、大きな政策的関連性があると思えたからである。

 記事の内容は、社会学者とブロガーの女性2人と男性学専門家の男性1人というお三方の「結婚は愛かコスパか」をテーマとした対談なのであるが、なかなか示唆に富む記事であった。

 まず議論の前提となるのは、2000年代に入ってからの日本における生涯未婚率の急上昇のデータである。1970年代の高度経済成長期には、生涯未婚率が男女とも5%を切っていて、日本は先進国でも珍しい程の驚異的な「皆婚時代」であったという。これに対して、2010年には45~49歳と50~54歳の未婚率平均値を取ると、男性で20%以上、女性で10%以上の未婚率に達している。

 このうち、都市居住者で仕事と一定の年収が有るにもかかわらず結婚したがらない「嫌婚派」については、コスパ重視の趣味志向であるとの社会学者・水無田気流さんのご指摘であった。

 また、かつての「皆婚時代」に主流を占めていた会社の世話好き上司等による「お膳立て婚」の時代から、SNSが発達した現代は、相手に対する十分な情報収集の結果選択した「恋愛」を経由した上での「自己責任婚」の時代に変貌しており、結婚相手の理想像が「ハイパーインフレ状態」を起こしているそうなのだ。

最近指摘される所の、男女ともに自分と同レベルの相手を求める「同類婚志向」も、この緻密な情報収集による恋愛経由の「自己責任婚」時代の傾向が反映されているらしい。

 面白いのが、それでいて男女ともに「皆婚時代」の「ジェンダー・セグリゲーション(性別分離)」の価値観に今なお束縛され続けており、男は女性に積極的にアプローチしてデートでも奢ってやって、将来は「一家の大黒柱」となるような昭和の男的な気概が求められ、逆に女性は「専業主婦」になって家庭を守ると言ったテンプレートに対するプレッシャーに晒されているという、水無田さんの分析である。

 それにも拘らず、「皆婚時代」のようなお膳立てされた誰でもいいから結婚しようでは今はダメであって、大恋愛を経由した上での結婚でなければいけないことになってしまったらしい。

 筆者が思うに、「同類婚」に拘りすぎると、選択肢が狭まりすぎて結婚相手が見つかりにくくなる。殊に俗に言うハイレベル同士の男女間では、ほとんど結婚相手を見つけ出すことが出来なくなってしまうのではないか。おまけに大恋愛まで経なければならないとすれば、これはもう浜の真砂の中から真珠を見つけ出すくらい困難な事業になってしまうに違いない。

 その結果、日本での生涯未婚率、換言すれば嫌婚率が上昇し続けることになる。そして、増々日本の少子化が進んで、いつか国内の若年労働力を補充するために移民を受け入れることを真剣に考えなければならない時代が到来することだろう。

 つまり、現在欧州が危機に陥っている難民・移民の受け入れ問題は日本にとっても決して他人事ではなく、このまま日本人男女の生涯未婚率が上昇し続けて少子化がさらに進展していけば、労働力として政策的に外国人を受け入れざるを得なくなる時が来るかもしれないのである。

2015年9月14日月曜日

都立高入試、学力検査7対内申3の割合に統一する制度変更に関する感想

 来年度都立高入試から、標記のとおり、例年2月末の筆記試験で実施される学力検査が全日制高校で原則5教科、内申との割合が7割の比重を持つように入試制度が簡略化されるそうである。ちなみに筆記試験の無い実技科目4教科については、内申点の算出において主要5教科の2倍に拡大するとのことである。なお、別途推薦入試が行われることは変わらないそうだ。

 実は筆者は70年代末に神奈川県立高校を卒業したため、神奈川方式の高校入試制度として悪名高い所謂ア・テスト(入試での「学力検査」とは別に行われる「中学校学習検査」のこと)を、中学2年生の3学期に受験した経験がある。

 この神奈川方式とア・テストなのだが、今回の都立高入試制度変更の趣旨とは全く逆の意図を持った制度と言えると思う。そこで、今日はその点について、筆者の感想を述べてみたい。

 当時の神奈川県の高校入試制度では、公立高校間の学力格差をなるべく解消し、入試における塾や業者テストの影響力をなるべく排除する目的で、中学校2年生の3学期にア・テストと称して、実技科目を含む何と9教科全てで筆記試験を実施していたのであった(様々な批判を受けて、ア・テストは1997年に廃止された)。

 筆者が高校受験した当時の割合では、中学22学期と中学32学期(だったと記憶している)の内申点合計が50%、ア・テストと入試当日の学力検査がそれぞれ25%の比率で換算され、受験生各自の合否が決定されたのである。

 そして、このア・テストが何とも不思議なテストで、実技科目についても全て筆記試験で行われた。そして、中学校2年生時点での生徒の学習到達度の測定がア・テストの目的とされていたため、試験の出題自体は非常に簡単な問題が多く、確か各教科50点満点で学区トップ校を目指す生徒の場合、およそ8割から9割は得点できる程度のレベルに過ぎなかったのである。

 問題は、ア・テスト終了時点で高校入試換算点の4割以上が決まってしまい、その時点で各生徒が進学できる公立高校がほぼ決定してしまったことである。神奈川方式の高校入試では、何と75%がその生徒の中学校時代での成績に左右され、高校側の選抜材料はわずかに25%に過ぎないことになる。

しかも、各生徒が中学2年を終わる時には進学すべき公立高校がア・テストの成績で「輪切り」で既に決定されており、3年生になってから頑張っても逆転はほぼ不可能であった。この早過ぎる選抜が、生徒や親たちの多くの批判を当時招いていたのであった。

 筆者のケースで言うと、中学2年生の時に少し勉強をさぼって油断していたため、ア・テストの成績が余り芳しくなかった。本音では、実技科目の筆記試験などバカらしくて、本気で取り組む気分を持てなかっただけなのであるが。

 しかし、当時流行った「15の春を泣かせるな」の標語のとおり、神奈川方式の効用としては、確かに中学の勉強だけをしていれば学区トップ校に合格することが出来たので、当時ほとんどの場合に塾や業者テストに頼る必要が無かったことは言えるだろう。公立校と併願する私立高校でも、当時はア・テストの成績で今言う所の事前確約が取れることも多々あったと思われるので、その意味でも高校入試の激化を一定程度緩和する効果が有ったと言ってよいと思う。

 そこで、今回の来年度からの都立高入試制度改革との比較であるが、都立高入試では主要5教科についてはもはや中学校の内申点はほとんど考慮されないと言ってよいと思う。中学時代の内申点については、実技4科目に焦点を絞って各自が取り組めば十分なのではないだろうか。

 今後、都立日比谷高校を狙うような高い学力を持つ生徒にとっては、来年度の入試から当日の学力検査一発の勝負になる公算が大きいだろう。彼らの場合、内申点でさほどの差は付かないと思われるからだ。逆に言えば、単純明快な学力重視の高校入試に回帰する方向で、今回都立高校が制度を統一する舵を切ったと言えるのではないだろうか。

 現時点では神奈川県の公立高校入試制度の方がなお複雑なようだが、いずれ神奈川県でも都立高校と同様の入試制度を踏襲していくことになるのではないかと筆者は思う。過去の入試制度変更では、多くの場合そうだったと言えるからである。

 その他にも、関西の関大一高の不透明な入試制度で最近問題になったが、中学との「事前相談」による一般入試不合格者より遥かに低得点の事前合格確約者の大量輩出に関しても、公立高校入試制度が一発勝負の学力重視に舵を切ることで大きな影響を与えるだろう。

 これらの高校は大抵の場合公立高校の併願校であり、少子化時代に生徒を確保するために事前の併願確約を実施しているからである。ただ、その「事前相談」に塾とそのテストの成績が絡んでくると、問題が一挙に不透明化するのだろう。

 筆者としては、高校入試では内申点など軽視して、学力検査一発勝負にかけるのがむしろ正しい方向性だと思う。長い人生では、ただ1日の勝負に向けて1年以上の努力を積み重ねる貴重な経験を、中学生の早い段階から体験させておくことが、むしろその生徒にとって有意義だと考えるからだ。

 ただし、学力検査一発勝負を重視すればするほど、高校入試における塾や予備校、そして業者テストの役割が高まっていくことには親と教師も十分な注意を払っておく必要があるだろう。大学入試と高校入試が、内申点軽視で次第に同じようなものになっていくからである。

2015年9月10日木曜日

司法試験考査委員の問題漏洩事件に関する所感、入口を絞って出口を広げる制度改革の提案

 98日、司法試験考査委員として憲法の論文および短答試験の問題作成に当たった明治大学法科大学院教授が、好意を持った女性修了者の受験生に問題を漏洩したとして、国家公務員法上の守秘義務違反の容疑で東京地検特捜部に告発された。

 実は筆者の姪も、本年度司法試験で合格率首位であった法科大学院を持つ一橋大学の現在法学部三年生で、同大学の法科大学院に入学して司法試験を目指すと言っている。したがって、筆者も常々司法試験と法科大学院の問題に関心を抱いて見てきたが、今回の考査委員自身による私情による問題漏洩事件の発覚は、正に制度の根幹を揺るがしかねない事態と言っても過言ではないだろう。

 さて、今回の漏洩問題の本質を一言で論評すれば、法科大学院の司法試験予備校化が招いた結果と言えるだろう。本年度司法試験の合格率は23.1%で合格者は1850人、そのうち法科大学院修了資格を経ない予備試験経由の合格者が186人(受験者301人)で、その合格率は61.79%で法科大学院首位の一橋大学の55.6%を上回っている。

 したがって、現在の日本の司法試験はもはや欧米の司法試験のような純粋な資格試験では無く、司法研修所入所資格を得るための一種の競争試験と化してしまっている。そして、法科大学院を経ない予備試験経由が、事実上の法曹エリート・コースとして存在していることになるだろう。

 こんな現状で法科大学院進学を姪に勧めることは、若者の将来を狭めるリスクが大きすぎて、筆者にはとても出来ないと考える。どう考えても、新司法試験と法科大学院制度には、創設当初から設計上の根本的なミスが有ったとしか思えない。

 筆者の調べた限りでは、日本のように法科大学院の設置数と募集定員数を拡大して入り口での選抜機能を緩やかにし、逆に司法試験の合格率を絞ることで出口での選抜を厳しくする制度を採用している外国は、世界中にほとんど無かった。

 それは多分、法曹を目指す若者の適性をなるべく早期に判定することによって、無駄な教育投資の機会が増大することを回避するとともに、ロースクールの教育が司法試験予備校化して形骸化することを各国とも恐れたためではないだろうか。

 今回の明大大学院教授の漏洩のケースでは女子学生に対する個人的好意が直接の引き金であったようだから、司法試験の予備校化と漏洩とは一見無関係であるように見えるが、筆者には制度設計上の欠陥として、出口である司法試験で法曹適性判断を行う現行制度を維持する以上、今後も同様の問題が生じる危険性は大きいと考える。個々の法科大学院にとっては、司法試験合格率と合格者数を向上させることこそが、その生き残りにとって最大の課題になることが避けられないからである。

 大体において、法学部4年の教育に重ねて法科大学院2年の教育を上乗せする現行の既修者入学制度は、いかにも教育期間が長すぎて、就職での新卒者一括雇用制度を採用している我が国では、若者の就職機会を事実上狭めるリスキーな選択を強いる結果をもたらす。

 加えて日本の場合、司法試験合格によって法曹資格を得られるわけではなく、さらに司法研修所での1年間の教育を経た後に二回試験に合格して初めて法曹資格を得られる、言わば三段階構造となっている。これでは、大学法学部を卒業した若者は、よほど実家が裕福で恵まれた立場にいない限り、それこそ人生をかけて司法試験に挑戦せざるを得ないことになってしまうだろう。

 したがって、司法試験と法科大学院制度は、この際抜本的に見直す必要があると筆者には思われる。具体的には、入口を絞って出口を広げるための制度改革である。

 まず、非常にドラスティックな提案だが、現状で合格率が20%に達しない法科大学院は全て廃止すべきだろう。その代り、法科大学院を設置できる大学には法学部を廃止してもらう。実際、韓国では大学側の猛反対を押し切って、こうした入口を絞る制度を採用している。ただ、日本で東大法学部を廃止することは、明治時代以来担ってきたそのエリート官僚養成機能を捨て去ることを意味するから、恐らくOB・OG等から猛反対が起きるであろうが。

 そして、予備試験は残しても良いが、総定員を2千人位に絞った法科大学院での履修期間は、既修未修問わず一律2年間に統一する。司法試験については、アメリカのBar examinationと同様に、合格者を絞らない純粋な資格試験として夏冬に年2回行うこととする。

司法試験の出題は、短答式で法曹として最低限必要な基礎力を問うとともに、論文試験では資料とパソコンを持込み可能として、従来の暗記力と知識を問う問題ではなく、受験者の実務的な能力を直接問う課題に解答させる形式で実施する。

 筆者のこの提案は、ほとんどニューヨーク州やカリフォルニア州のBar examinationを模倣した司法試験制度なのであるが、こうすれば、学生が法科大学院で過剰な司法試験対策に駆り立てられる必要も無くなるし、法科大学院が司法試験予備校化する必然性も無くなるだろう。

第一、司法試験が現状より相当易化するから、法科大学院修了者は、2年以内くらいにはほぼ全員が司法試験に合格できるようになるだろう。司法試験対策は、法科大学院修了後に予備校で2か月程度学生が自主的にやれば足りるだろう(これもアメリカと同じである)。

2015年9月9日水曜日

欧州難民危機問題の本質は、理想と制度とレアルポリティークの相克である。

  8月から9月にかけて、シリアやアフガニスタンなどの紛争地帯からバルカン半島を北上してEU圏に流入した難民の、人道上悲惨な状況がクローズアップされて報じられている。今日はこの問題に関する筆者の現状分析を述べてみたい。

 まず、トルコからEU加盟国であるギリシャに渡り、そこから陸路バルカン半島を北上してハンガリーで再びEU圏内に入るルートが今回難民危機として問題になっている。

 だが、この陸路からの難民流入ルートが活発になったのは、せいぜい今年の後半になってからの事である。それまでEU各国が注目していたのは、北アフリカのリビアから海路イタリアやマルタに渡航する地中海経由のルートであった。

 特に、2013103日にイタリア南端部に位置するランペドゥーザ島沖で発生した悲惨な海難事故の結果が、EU各国の直接の取り組み強化の契機となったのである。この「ランペドゥーザの悲劇」は、リビアのミスラタ港からエリトリアやソマリア難民など500人以上を乗せ出港したトロール漁船が火災を起こして沈没し、366人の死者を出した事故であった。

 したがって、今年前半までは直接の当事国であるイタリアなどで深刻な問題と認識されていたのは、むしろ地中海経由の難民流入対策であった。危険な密航を仲介する悪徳業者の取り締まりと、海難救助体制の整備や海上パトロールの強化がむしろ中心的に議論されていたのである。

 今回問題となっているトルコ、ギリシャ経由陸路での難民流入に大きな危機感を抱いているのは、EU加盟国でないバルカン半島諸国、例えばセルビアやクロアチアと国境を接するEU加盟国のハンガリーである。

 イギリスとアイルランドを除くEU加盟国とスイス、ノルウェー、そしてアイスランドの3カ国は、国境管理を相互に廃止して人の自由な移動を認めたシェンゲン協定(1997年アムステルダム条約でEU法体系として保障、1999年発効)の加盟国である。

 したがって、ハンガリーはシェンゲン領域の最前線に位置しており、陸路バルカン半島をギリシャ国内から北上してきた難民たちは、一旦ハンガリーに密入国することさえ出来れば、以後はパスポート・コントロールをされることなく、経済的に豊かなドイツやフランスに移動することが可能になる。

 そして、現行のEU難民政策のルール(ダブリンⅡ規則)では、原則としてその難民が最初に入国した加盟国で難民申請を受け付け、難民審査を実施しなければならないことになっている。陸路での難民流入は今年夏までに16万人以上に急増した(昨年は4万人強だった)ため、ハンガリー国内の受け入れ態勢は既にパンク状態であり、今夏以降ハンガリー政府はセルビアとの国境線に柵を設けて難民流入を阻止しようとしたのである。

 問題は、ハンガリー政府の今回の政策を人道上非難出来るかどうかという、理想主義だけでは、本質的に何も解決しないことだ。ハンガリーに密入国してくる難民たちは本当に難民に該当し、不法な経済移民ではないのか、その選別がなかなか困難なのである。

 国内の報道では、難民と不法移民の区別が必ずしも明白になされていないように筆者は感じている。本当に不法越境者が「難民」であるならば、国際法(難民条約)上、迫害が予想される国や地域に追放や強制送還しないというノン・ルフールマンの原則が該当するが、経済的意図を持つ不法移民であるならば、むしろ本国に強制送還しなければならないことになる。

そして、ハンガリーのオルバーン首相は現状のバルカン諸国からの越境者を「不法移民」と位置付けて、建前上排除する立場を表明しているわけである。

 筆者が思うに、実の所ハンガリーのオルバーン首相としては、この「難民」か、あるいは「移民」たちを国内からオーストリアに追いやって、最終的にはドイツに引き受けさせようとしているように見える。EUの理想と制度上の矛盾に対して難民申請を拒否して国外に移送する措置は、彼の国内政治における人気取りの材料として強調され過ぎているのではないだろうか。

 実際、ハンガリーに流入した難民か移民たちにしても、最終目的地はハンガリーなどではなく、経済的に豊かなドイツやフランスなど西欧諸国なのであるから、オーストリアにむしろ移送されることを積極的に望んでいるだろう。

 結局それは、ハンガリー政府としても厄介な難民申請問題をEUのルールを無視して体よく回避することに他ならないから、却って好都合であるに違いない。

 つまり、ここではハンガリー政府と難民サイドの双方にドイツ語で言うところのレアルポィティークの原則が働いているのであって、それは単なる人道上の理想やEUの制度が齟齬を来していることだけが問題の本質ではないように筆者には思われてならない。

 もちろん、今秋以降、独仏両国が主張するように、EU加盟国やその他の先進国を巻き込んだ、経済力その他を考慮した上での難民受け入れの公平な割り当てが協議されなければならないことは確かであろう。

既に、これまで難民受け入れに消極的であったイギリスのキャメロン首相やオーストラリアのアボット首相が、それぞれシリア難民(英国は2万人、豪国は12千人)の新規受け入れを表明している。この両首相の政策転換は、国内外において人道上の非難を受けることに一定の配慮をした結果であろう。

 ちなみに我が日本国は、アムネスティ・インターナショナルの報告書『見捨てられたシリア難民』(201412月)のデータによると、2014年11月末までにシリア難民の申請を受理した数はわずか61件で、難民認定された数は0だそうである(ただし、国連の人道支援要請に対して、日本が約94百万ドルを拠出している事実と、人道的配慮による在留特別許可が認められたシリア難民が2013年に26人、2014年11月末までに12人いる点は付記しておこう)。

2015年9月7日月曜日

平成29年度NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」選定についての感想

 平成28年度NHK大河ドラマ「真田丸」の撮影が開始されたそうである。今日の投稿は、「真田丸」の次の年の大河ドラマに決まった「おんな城主 直虎」選定についての筆者の感想である。

 直虎とは、徳川四天王の1人である井伊兵部少輔直政が、本能寺の変後の天正101582)年11月に22歳で元服して井伊家第24代の家督を継承するまでの間、中継ぎとして当主を務めた22代信濃守直盛(桶狭間の戦いで討死)の息女次郎法師の事である。主演は女優の柴咲コウさんだそうである。

 浜名湖の北に位置する井伊谷の女地頭としての次郎法師の事績については、彼女の墓所がある井伊家菩提寺で臨済宗妙心寺派の古刹龍潭寺などに多小の記録が残されているが、1年間の大河ドラマを制作できる程の分量には全く足りないだろう。

したがって、ドラマの筋書き自体はほとんど脚本家の創作に頼る他ない。井伊氏を大河ドラマに取り上げるのならば、素直に次代の直政を採用した方が良かったと筆者は思うのだが、戦国には珍しい女性領主を敢えて選択したというNHKの狙いだろうか。

 井伊氏は駿河守護の今川氏と対立したため当時家督を継承できる男子が、次郎法師の父直盛の従弟で23代肥後守直親の忘れ形見虎松(後の直政)しか残されておらず、家の存続が危機状態にあった。直親は重臣小野氏の讒言によって今川氏から独立した松平元康(つまり後の徳川家康)との内通を疑われたため、永禄51562)年12月に掛川城下で朝比奈泰朝に攻められて殺害されてしまったのである。

 井伊氏の祖先は藤原良門の子孫共保とされるが、彼は生誕伝説に彩られていて到底信じ難く、また鎌倉時代には三浦介や千葉介と並んで八介である井伊介を名乗っていたとも言われる。しかし、明確に記録に出てくるのは、南北朝時代に南朝方として歌人として有名な宗良親王を迎えて井伊谷で北朝方と戦った事である。

 その後、井伊氏は北朝方の今川氏に屈服したわけだが、当初南朝方に属して足利幕府に抵抗した歴史を持っていたためか、駿河守護の今川氏との関係は必ずしも良好で無かったようだ。これが結果的に、井伊氏の家系存続の危機を直接招いてしまった理由であろう。

 天正31575)年以降に直政が仕えた徳川家康が生まれた安祥松平家も、家康の祖父清康と父広忠が相次いで家臣に討たれて不慮の死を遂げた後は直虎時代の井伊家同様に存続の危機を迎えたわけだが、松平氏の場合西三河一帯を清康時代にほぼ支配下に収めて一族が各地に蟠踞しており、井伊谷の一国人に過ぎない井伊氏と比べるとその戦力はずっと大きく、恐らく45千人程度は有っただろう。ちなみに井伊谷は後に立藩されたことがあるが、その時の石高はわずかに15千石に過ぎなかった。直虎時代は1万石程度だっただろう。家康の生まれた松平氏よりも、井伊氏は遥かに弱小な存在であった。

したがって、今川氏としても尾張の織田氏との戦いを継続する上で最前線に位置する松平氏惣領家の安祥松平家を活用せざるを得なかったこと、また、広忠時代から今川氏の保護下に入って良好な関係を構築していたことが家康に有利に働いたため、結局松平氏は井伊氏ほどの御家存続の危機的状態には陥らなかったものと思う。今川氏としては、松平氏は戦力として大事な存在だが、井伊氏についてはその当主を殺して滅亡させても痛くも痒くもない存在に過ぎなかったのだろう。

 こう考えると、「おんな城主」井伊直虎の存在意義は、御家滅亡の危機を上手に乗り越えて、井伊谷の一国人に過ぎなかった井伊氏を徳川家最大の譜代大名にまで押し上げた直政を養育し、家康に上手く出仕させた点にこそ求められるのではないだろうか。

遠州に侵攻してきた言わば侵略者である徳川家康に、家柄はしっかりしていても当時単なる一少年に過ぎなかった虎松(つまり後の直政)を推挙してもらうためには、直虎は様々なコネを駆使する必要があったに違いないと筆者には思われる。

 一説には、家康正室の築山殿が井伊氏の出身だったとする説もあるそうだ。もしそうであるならば、築山殿のコネで虎松が徳川家の家臣に取り立てられたのかもしれない。

 家康家臣となってからの井伊直政には家康から木俣清三郎守勝、西郷藤左衛門正友、椋原次右衛門政直の3人が付家老として附属され、また、井伊谷三人衆と言われる菅沼次郎右衛門忠久、近藤石見守秀用、鈴木平兵衛重好が与力として付けられたが、彼らは直政の家臣ではなく、関ヶ原の戦いの後、彦根藩立藩の最終段階に至るまで家康自身の統制下に置かれていた模様である。

それゆえに直政死後の当主兵部少輔直継(後に直勝と改名)は家臣団を統制することに失敗してしまい、恐らく家康の介入で井伊家当主の座を異母弟直孝に譲らされて、上野国安中3万石に分家させられる羽目に陥ってしまったのである。

 ちなみに大坂の陣で真田丸を攻撃したりして大活躍したのがこの井伊掃部頭直孝であり、伝説では世田谷の豪徳寺(もともとは世田谷吉良氏の政忠が創建した弘徳院)に招き猫に呼び寄せられて急な雷雨を回避した縁から、豪徳寺を井伊家の菩提寺として伽藍を整備したのもこの直孝であった。東京の世田谷は、江戸時代には彦根井伊家の領地だったわけなのである。