2016年1月6日水曜日

年初早々サウジとイランの対立激化で、報道と評論が乱立していることに関する感想

 年明け早々、中国株のCSI300指数が7%下落して、サーキットブレーカーの発動により大引けまで株式市場での取引が停止した。そうかと思えば、今日は北朝鮮が水爆実験に成功したと高らかに宣言した。2016年も日本を取り巻く安全保障問題はネタが尽きない様だ。

 他方ペルシャ湾岸では、サウジアラビア当局が、既に拘留していた扇動的なシーア派宗教指導者ニムル師をアルカイダ関係者らとともに死刑に処したことから、イランやイラクのシーア派住民たちの反発を招いてイランとの対立激化を引き起こした。

テヘランでは在イラン・サウジ大使館が暴徒に攻撃されるような緊張状態にあり、サウジは直ちにイランとの国交を断絶した。バハレーンやスーダンなどサウジと関係の深いスンナ派各国がイランのシーア派扇動と内政への介入を非難し、相次いで対イラン断交に踏み切っている。

今回のサウジによる急な強硬姿勢の提示については、即位から2年目を迎えたサルマーン国王とその息子であり副皇太子である強硬派のムハンマド国防相が仕組んだ、対イラン強硬姿勢の演出ではないかという見方がある。イラン国内で世論が沸騰し、各地でシーア派がサウジに反発することは、国王には事前に当然予想できたと思われるからだ。

あるいは同じ第三世代(アブドゥルアジーズ・イブン・サウード初代国王の孫)である現皇太子を飛び越して副皇太子への王位継承を確実にするための、将来の王家内での相続争いを見越した国王の一種の布石ではないかという観測もある。これは、80歳と高齢のサルマーン国王が、息子であるムハンマド副皇太子が目立つような対外的活躍の場を演出したという見立てである。

さらには、昨年来の原油価格の長期低落によって財政的に苦しむサウジとイランが結託して行った、原油価格吊り上げの茶番劇であると見る陰謀論まで出ている(私の見立てでは、この憶測は非常に根拠薄弱である)。

確かに原油価格が1バレルあたり30ドル台まで下落してもアメリカ国内のシェールガス・オイルの開発は絶え間ない技術進展で急速に進んでおり、サウジアラビアは早晩輸出されるシェールオイルへの対抗上、原油市場での低価格を維持してアメリカの生産者に打撃を加えるために、今のところ減産に踏み切れないのが現状である。

これがオイルマネーで潤ってきた近年のサウジアラビアの財政状況を非常に逼迫させており、このままの状態で原油安が続けば、あと数年内に外貨準備高が消失するとも言われている。原油安でサウジ同様の財政難に苦しんでいるのが、クリミアとウクライナ問題で欧米から経済制裁を受けているロシアである。ロシアもアメリカやサウジと並ぶ、日量1千万バレル以上を産出する大産油国なのである。

こうした状況にあって、従来のようにサウジアラビアがOPECのスイング・プロデューサーとして原油の生産調整を実施することが出来ないことから、現在の原油安の状態が続いているわけである。イランに対する国連と欧米の経済制裁がJCPOA(核問題最終合意)の予定通り早晩解除されれば、2016年内には昨年11月時点で日量288万バレルの産油国であるイランから、日量100万バレル増程度、原油が市場に追加供給されるかも知れない。

 だが、OPEC内で、イランの年内生産増を価格的に許容できる程度にサウジアラビアが協調減産に踏み切る見通しは、今のところない様子だ。これはイランにとっては、大きな不満材料となるだろう。今回のサウジの態度に対するイラン国内での強い反発の背景には、シーア派盟主としてのイランの立場を誇示する目的の他に、こうした経済的対立が背景に潜んでいる可能性はあるかも知れない。

 だが、筆者の見るところ、より本質的にはJCPOA提携以来、アメリカがイランと宗派間抗争と地域覇権をめぐって対立するサウジの国益よりもISとの対テロ戦争遂行におけるイランとの協調関係構築に優先順位を変えたという、アメリカの対サウジ同盟コミットメント(公約)の信憑性問題が原因ではないかと思う。アメリカに見捨てられる疑念(同盟のジレンマ)を抱いたサウジ側の、安全保障上の焦りが引き起こした今回の強硬姿勢の発現であると見るのが多分妥当な見方だろう。

 より理論的に言えば、中東で1979年のイラン・イスラーム革命以来35年以上続いてきたパワーバランスがJCPOA締結以来サウジ不利の方向に変動しつつあることが、サウジに安全保障のジレンマを起こしていると見ることが出来るかもしれない。

 安全保障政策上のインプリケーションとして、グローバルあるいは地域的なパワーの急激なシフトが戦争原因となる場合がある点は、科学的な因果関係を示すものではないにしても、一定の蓋然性を持って語られることは事実である。これは敵対国家の相互間に核抑止が効いている場合にも、通常兵器による先制攻撃を妨げないという点で妥当である(印パの武力衝突などが格好の事例である)。

 そして、現在のイランのようにパワーシフトで有利な立場に立った(と認識した)側が早晩自国が覇権が確立できることを見越して控えめな態度に終始し、逆にサウジアラビアのように勢力均衡上、不利な立場に追い込まれた(と認識した)側が、将来これ以上不利なポジションに置かれることを許容できなくなって、先制攻撃を積極的に仕掛けるケースも歴史上少なくないのである(例えば、日本の真珠湾攻撃など)

 そういう意味で、今回のイランやシーア派との対立激化をサウジアラビアが見越して緊張状態を敢えて引き起こしたという見方には、一定の政策的に妥当なインプリケーションが含まれている。

また、最近の財政難とISのテロによる国内不安を、サウジアラビアが対外的緊張を陽動的に引き起こすことで回避しようとしたとする、(diversionary theory的な)見方をすることも可能であるかもしれないと筆者は考える。

2015年12月31日木曜日

イラク政府軍ラマーディー奪還に関する考察

 1228日には、先の投稿で分析した「慰安婦問題」最終合意のほかにもう1つ、イラク情勢に関して大きなニュースが入った。それは、イラク政府軍が518日にIS(イスラーム国)によって奪われた西部スンナ派居住地区アンバール県の県都ラマーディーを約7か月ぶりに奪還したことである。ラマーディーは首都バグダードの西方約110kmのユーフラテス川両岸にまたがる戦略的要衝であり、シリアとヨルダン両国に向かう道路の要の地点に位置している。

 しかも、今回の作戦には331日の北部ティクリート奪還の際に起きたようなシーア派民兵によるスンナ派住民に対する略奪、暴行は起きなかった。今回の政府軍のラマーディー奪還作戦では、IS拠点に対する空爆で政府軍の攻勢を支援したアメリカの圧力によって、シーア派民兵は動員されなかったためである。したがって、シーア派民兵に対して強い影響力を持つイランのイスラーム革命防衛隊の奪還作戦への関与も多分なかったのだろう。

 政府軍はシーア派民兵に代わって地元のスンナ派部族を支援戦力として活用したようであり、動員した兵力は1万人以上だったらしく、市内に残存していたIS戦闘員がわずか300人程度だったと言われているから、圧倒的な政府軍兵力が西方に迂回してユーフラテス川を渡河することをISが結局阻止できなかったというのが戦況の推移だったようである。

IS戦闘員約300人は、多くの塹壕とトンネルに籠って防衛線を張り、主として狙撃で政府軍を迎撃する作戦を選択した模様だ。また、住民を人間の盾とし、地雷や仕掛け爆弾を設置するとともに、自爆攻撃を相次いで敢行して政府軍の進撃を阻止しようとしたらしい。これは、市街戦において極めて有効な戦術を、兵力劣勢なIS側が採ったものであろう。

したがって、政府軍は極めて慎重に包囲網を縮小しながら、1222日の攻勢開始から約1週間の時間をかけて市街中心部に攻め込んだものと見られる。この双方の戦いぶりから見ると、その圧倒的な兵力差から考えても、依然としてISの戦闘力はさほど弱まってはいないようだ。

 結局、ラマーディーからのIS駆逐に効果的だったのは、有志連合軍による従来以上の激しい空爆の実施であったのだろう。ロシア空軍による民間人の付随的損害を配慮しない対価値無差別爆撃ほどではないにしろ、最近の有志連合軍の空爆も相当に強化されたカウンター・フォース爆撃となってきたからである。

 そのため、ISは都市部に分散して塹壕に立て籠る消極作戦しか選択できなくなっている公算が大きい。かつて1千人以上のIS戦闘員がいたラマーディーでの兵力減少度から考えると、イラク国内の一部都市からは撤収する作戦をISが採り始めたのかもしれない。とすれば、来年2016年のイラクでの対IS戦線における勝敗の行方は、北部の主要都市モースルを政府軍が奪還できるかどうかにかかってくるだろう。

 ISとしても、北部の要衝モースルを仮にイラク政府軍やクルド民兵のペシュメルガの攻勢によって奪還されるようなことになれば、もはやイラク国内にとどまって活動を続けることは非常に困難になる。したがって、ISはラマーディーとは異なってモースルについては、絶対にこれを死守しようとするはずだ。来年の決戦は、恐らくモースルの攻防戦になると筆者は考えている。

 もし、イラク政府軍が来年モースルを無事奪還することに成功すれば、もはやISの宣言した「カリフ国」は事実上シリア国内だけに封じ込められることになるだろう。その後は、アメリカ主導の有志連合は、トルコとエジプトへの対IS作戦での支援を重点的に強化すべきではないかと筆者は考える。

 なぜなら、ISのみならずアサド政権擁護のために反体制派全体を無差別に攻撃しているロシアの軍事介入が既成事実化している以上、直ちにシリア情勢を改善する手立てが見当たらないからである。結局、IS「カリフ国」を消滅させることに成功したとしても、シリアは地中海沿岸部のアサド政権支配地域と南北に分断された反体制派支配地域、そしてトルコ国境沿いに長く伸びたクルド人自治区に三分割するしか妥当な解決策はないだろう。

 ロシアのシリア内戦介入は、直接的には自国のイスラーム過激派の活動を予防的に抑えることを第一の目的としているのかもしれない。だが、地政学的には、クリミア半島のセヴァストポリ軍港を基地とする黒海艦隊の唯一の地中海への進出(補給)拠点であるタルトゥース港の施設を確保する目的も重要だろう。

シリア内戦への介入をめぐってクリミアとウクライナ問題での欧米との対立を棚上げする目的がプーチン大統領にあるとすれば、セバストポリ軍港を失うことがロシアの黒海における制海権をNATO加盟国であるトルコに奪われることを同時に意味していることにもっと注目すべきだろう。NATO加盟国が東方にどんどん拡大している現状を阻止するためにも、ロシアとしてはセバストポリ軍港を有するクリミア半島を併合してしまう必要があるだろうし、その延長線上にタルトゥース軍港を持つシリアに軍事介入して自国の権益を確保する必要があったのかもしれないからだ。

 そこで、欧米としてはユーラシアのハートランドであるロシアのこれ以上の権益拡張を阻止するためにも、地政学上リムランドであり、かつ橋頭堡国家でもあるトルコ(重要な基地があり、ボスポラス海峡というチョークポイントがある)とエジプト(スエズ運河がある)をISの脅威から重点的に守るとともに、様々な内政上の問題を抱えるこの両国の体制を当面強化することを通じて、ロシアのシリア進出を牽制していく必要があるのではないだろうか。

*筆者は1月5日まで正月休みに入りますので、その間は投稿を中断します。

日韓「慰安婦問題」最終合意に関する地政学的考察

 1228日、日韓両国間のいわゆる歴史認識問題をめぐる争点の1つであった「慰安婦問題」について、両国の外相会談で最終的かつ不可逆的に解決する旨の合意に達したという報道がなされた。


その内容は、日本側が旧軍の関与を認めて首相が謝罪し、韓国側が設立する元慰安婦支援基金に対して10億円を拠出することで、事実上の補償を行う。これに対して、韓国側は北朝鮮系の反日市民団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が在韓日本国大使館前に設置した慰安婦少女像を撤去するとともに、慰安婦に対する補償問題を今後蒸し返さないということである。

 国内外の主要メディアではこの日韓「最終合意」について、「歴史的」であるとか「画期的」であると論評するものも多い。筆者から見れば、今年の「歴史的合意」といえば、714日にE3/EU+3(米英仏独露中とEU)とイランとの間でイラン核開発問題を最終的に解決するために結ばれたJCPOA、つまり「包括的共同行動計画」の合意が直ちに想起される。

だが、本当に年内に複数の「歴史的合意」が締結されたとすれば、2015年は、1月に湾岸戦争が起こり、7月にワルシャワ条約機構が解体し、そして12月にソ連邦が崩壊した1991年に匹敵するほどの後日驚嘆すべき1年であったということになるだろう。

 JCPOAについてはイランと鋭く対立するイスラエルのネタニヤフ首相が「歴史的過ち」であると論評したが、慰安婦問題最終合意についてもあるいは同様の論評ができるかもしれない。確かに今回の合意については日韓両国の従来の立場を維持しつつ、双方の利益を最大限に盛り込んだ内容となっている。

 例えば韓国側は、今回の合意で、1965年に締結された日韓請求権・経済協力協定で請求権問題を完全かつ最終的に解決したとする日本側から事実上の謝罪と補償を引き出すことに成功したし、日本側は韓国政府に大使館前慰安婦像撤去の努力義務(これが基金に対する日本政府の資金拠出の前提条件であるとして、今後韓国側に圧力をかけるだろう)を認めさせることに成功した。

 しかし、合意は何も文書化されていないし、双方の特に韓国側世論の動向次第では問題が再度蒸し返される恐れも否定できない。筆者の見るところ、韓国が中国と連携して国際社会に対して反日活動を続けているのは、慰安婦問題を含む歴史認識問題の点で中国と共通認識を持っているという情緒的問題よりも、むしろ韓国の逃れがたい地政学的位置によるものであると考える。

 ここで筆者が述べる地政学とは、英国のハルフォード・マッキンダーや米国のニコラス・スパイクマンが第二次世界大戦前に概念化した、アングロサクソン的なユーラシア内陸部(ハートランド)国家群と大陸縁辺部(リムランド)三日月地帯を挟んで島嶼海洋国家群との対立・相克関係を論じた一種の戦略的見方のことである。

 このユーラシア大陸を沖合から三日月状(アウター・クレッセント)に取り囲む島嶼海洋国家群には日英両国はもとより、アメリカ(南北米大陸)をも含んでいる。そして、ハートランドとは、背後に航行困難な北極海を置いているため、地理的必然として不凍港を求めて南下政策(拡張主義)をとらざるを得ないロシアのことを意味している。

 つまりアングロサクソン的地政学の視点に立てば、国際政治とはハートランドの大国ロシアのリムランドへの拡張政策を封じ込めようとして、英国や米国のような海洋国家群がリムランドの橋頭堡国家に対して基地と海軍のアクセスを確保しつつ、リムランド内部を支配下に置こうとする地域覇権国の台頭を阻止しようとする行動から導き出されることになる。

 19世紀のアフガニスタン等をめぐる英露間のグレートゲームや、冷戦期の米国のベトナム戦争やイラク戦争、その他の度重なった軍事介入はほとんどこの地政学的視点から説明できるだろう。そして、かつての朝鮮戦争もリムランドの橋頭堡国家南北朝鮮の支配権をめぐる内陸国家と海洋国家との間の争奪戦であった。

 注意すべき点は、今日既存の国際秩序に対する挑戦国と見なされている中国はロシアのようなハートランド国家ではなく、橋頭堡国家ではないがリムランド国家なのである。この点では、中国の地域覇権を目指す拡張主義的政策はかつての帝政あるいはナチス時代のドイツの東欧支配政策に極めて類似している。

 この見方が正しいとすれば、早晩アメリカは中国の地域覇権獲得を阻止するため、日豪など海洋国家群と連携して、また2度の世界大戦の経験を踏まえればハートランド国家ロシアとも連携して中国の勢力拡張を抑えようとするはずである。実際そうした動きは、最近観察されつつあると筆者は考える。

 世界大戦期のドイツの場合と中国のケースが異なるのは、中国が内陸に向かって勢力を拡張しようとするのではなく、むしろ南シナ海と東シナ海の海洋に向かって勢力圏を広げようとしていることであろう。そのため、海洋利権を重視する日米豪トライアングルとの対立が今後益々激化する危険性があると思われる。

 さて、その場合、朝鮮半島の橋頭堡国家である韓国は日米と中国の双方から強い圧力を受けることになるだろう。韓国にとっても対米同盟関係の維持は自国の生存にとって死活的価値を有しているといえるから、日米韓三国の連携を阻害しかねない歴史認識問題の早期解決を図れとアメリカから強い圧力を受けていることが予想される。

 安倍政権は、こうした韓国の弱い立場を利用して日本側が従来以上の一定の譲歩を示しつつ、歴史認識問題をめぐる韓国と中国との反日連携関係を分断しようと今回の合意に結びつけたのだろう。その意味では、中国の脅威をリムランドの橋頭堡国家であり、米中対立の最前線となりかねない緩衝地帯に位置している韓国よりも遥かに認識しにくい日本の優位な地政学的位置が、今回の日韓最終合意を生み出す要因となったともいえるだろう。

 ただ、韓国の弱い地政学的位置が、今後も中国と連携した歴史認識問題に関する反日行動を再燃させる蓋然性はかなりあると筆者は見ている。韓国政府が冷徹な地政学的戦略に基づいて日米中三国間のバランスを維持しようとしたとしても、情緒的な反日感情に流されやすい韓国内世論の「観衆費用」の大きさに引きずられて問題の蒸し返しを試みようとするかもしれない。この点だけは、日本政府も十分に考慮しておく必要があるだろう。

2015年12月18日金曜日

慶長20(1615)年大坂夏の陣における豊臣方の当初作戦に関する考察

 慶長191219日に締結された大坂冬の陣に関する徳川・豊臣双方の和睦合意の結果、よく知られているように大坂城の惣構と空堀は破却・埋め立てられ、二の丸、三の丸の水堀も埋め立てられて更地となり、太閤秀吉が築いた堅固な大坂城も全くの裸城にされてしまった。

 したがって、翌慶長20年に起きた夏の陣での東西再戦に当たって、大坂方はもはや前年の冬の陣の際に選択した籠城策を採れなくなり、野戦軍を城外に派遣して徳川勢を迎撃する作戦しか選択できなくなってしまった。

筆者が興味深く感じたのは、大久保彦左衛門の著書『三河物語』にあるように、大坂方が徳川勢の五畿内侵攻以前に、徳川方の補給地であった泉州堺のみならず、京都と奈良、さらに近江大津の三古都を焼き、瀬田川と宇治川の橋を焼き落として防衛線を張る作戦を実際に検討したらしいことである。このことは、利休七哲の1人で高名な茶人・文化人であった古田織部重然が豊臣方と内通して京放火を企てた嫌疑により、大坂落城後の611日に切腹を命じられた事実からも確かにあったと推定できるだろう。

 『三河物語』の記述によると、この大坂方の三都焼き討ち積極作戦案は大野主馬治房(大坂方の事実上の指揮官であった大野修理亮治長の次弟)と真田信繁、そして明石掃部全登らが提唱した作戦であったとされる。

 確かに真田左衛門佐信繁は前年冬の陣の際にも、籠城する前に宇治と瀬田に軍勢を進出させて、両河川を前に当てて防戦する積極策を提唱していたようであるから、籠城作戦がもはや不可能になった夏の陣に際して同じ積極策を再度主張したとも取ることができよう。

 結局、徳川家康が尾張名古屋城主の九男義直と浅野幸長息女との婚儀に出席するために44日に既に駿府を出発し、10日には名古屋城に到着していたため、419日には諸大名に対する大坂表への出陣を命じて迅速に畿内に進出できる態勢をとることができた。

 つまり、徳川方の進撃が早かったため、大坂方の三都焼き討ちと宇治瀬田防衛作戦は間に合わなくなったわけである。だが、もし徳川勢の出陣が当時遅延していた場合、大坂方ははるか遠方の近江にまで本当に進出して有効な防衛線を構築することが可能であったのだろうか。

 古来のわが国における戦史をひも解いてみても、瀬田川の最終防衛線を挟んで大海人皇子の反乱軍を迎え撃った壬申の乱での大友皇子の近江朝廷側や、治承寿永の乱の際に起きた木曽義仲勢の鎌倉勢迎撃、さらには承久の乱で後鳥羽上皇が派遣した京方の軍勢による鎌倉幕府軍迎撃の事例など、実際に瀬田川と宇治川に防衛体制を敷いた側が、比較的簡単に攻撃側に最終防衛ラインを突破されて脆くも崩れ去った事例は非常に多い。

 こうした過去の戦いでの防御の事例では、橋自体を焼き落とすことは余り無かったようであるが、橋板を外して敵が渡るのを困難にさせる作戦は多く採られたようである。だが、大坂夏の陣の際に検討された大坂方の当初作戦によると、大手側の瀬田川はもちろんのこと、搦め手に当たる宇治川でも橋を焼き落とす徹底策を取る心算であったようだ。

 こうなると、三都焼き討ちを含めて、現地住民の大坂方に対する反感は非常に激しくなったであろう。しかも、実際に大坂方が京都を焼き払うためには、まず二条城を攻撃して、当時所司代として現地に駐留していた板倉勝重を討ち取ってしまう必要があっただろう。

 徳川方のもう1つの畿内での拠点であった伏見城も同時に攻略しなければ、たとえ京都や奈良を焼き払うことに成功したとしても、宇治瀬田に進出した大坂方が自軍の背後を突かれる恐れがあるから、これにも成功しなければならない。当時大坂に残っていた豊臣勢の数を約5万人と見積もることにしても、その約半数は出陣しなければ三都焼き討ちと河川防衛作戦の成功は到底覚束なかったのではないだろうか。

 そうなると、作戦に失敗した場合のリスクは非常に大きく、恐らく大坂城南部の住吉や平野、あるいは阿倍野と天王寺近辺に徳川勢を引き付けて最終決戦に持ち込むその後実際に起きた展開は起こり得なかったかもしれないと、筆者は考える。

 夏の陣当時大坂に侵攻した徳川勢の構成は、大御所家康と将軍秀忠の率いた直属の旗本勢を除けば東国と五畿内の諸大名が率いる軍勢だけで、西国大名の軍勢は待機を命じられていた。そして、進撃路については、奈良を経て生駒山地東麓を南下して国分と藤井寺方面に抜ける大和口方面軍と、京都から淀川左岸を枚方経由で南下して平野方面に抜ける河内口方面軍とに分進する作戦を採った。

その結果、大坂方が実際に56日に実施した当初の迎撃作戦である道明寺合戦と八尾・若江合戦では、前者が大和口方面軍約3万人の徳川勢に対して山間を抜ける隘路で迎撃する作戦目的を持っていたし、後者は河内口方面軍約5万人の軍勢を河川堤防と湿地帯を利用して拘束することにより、敵軍の道明寺方面への進出を阻止する目的を持っていた。

 しかしながら、この遠方進出作戦はいずれも大坂方の兵力劣勢のために失敗に終わり、道明寺合戦では後藤又兵衛基次と薄田隼人正兼相が、八尾・若江合戦では木村長門守重成ら貴重な武将たちが戦死する大損害を被った。道明寺合戦では伊達政宗の軍勢の先鋒片倉重綱勢を真田信繁の軍勢が撃退して大坂方の敗軍の退路を開き、翌日の最終決戦を可能にしたものの、真田勢も信繁の長男大助幸昌が負傷するなど相当な損害を出して天王寺方面に撤退したようである。

 この例から考えても、宇治瀬田に軍勢を進出させる積極策は、兵力劣勢であった大坂方には極めてリスキーな作戦であったのではないだろうか。ただし、同じ兵力劣勢であったとしても、それまでの宇治瀬田防衛戦の事例とは異なって大坂方が鉄砲で武装していたことが戦況を変えた可能性はあるかもしれない。両河川の橋を焼き落とした上で、渡河してくる徳川勢の大軍を銃撃で阻止する作戦を真田信繁らは構想していたのかもしれない。

 確かにそれならば、あるいは防御側の大坂方が有利な状況を作ることが可能であったかもしれない。ただし筆者が思うに、その大前提として、大坂方が京都所司代を排除して二条城と御所を焼き払うことに成功した時点で、天皇(玉)の身柄を確保するとともに(伏見城をなるべく損傷の少ない状態で大坂方が攻略した後、同城に天皇を行幸させる案が最善策かと思う)、大軍である徳川勢が他の渡河地点に迂回することを阻止できるかどうかという点が、この積極策の成否を決めたのではないだろうか。

今年の中東安全保障環境についての錯綜した3つの見方に関する考察

現在の中東における安全保障秩序を規定した19165月のサイクス・ピコ協定から、99年を経過した2015年の年の瀬も迫って来た。来年516日には、第一次世界大戦敗戦後のオスマン帝国領土を分割する英仏露三国間の勢力圏を定め、現在迄にいたる中東での国境の線引きと近代主権国家体制を構築して、約1世紀間にわたって地域国際秩序を規定したその秘密協定からちょうど100周年を迎えることになる。

この点に関連して、筆者が専門とする中東情勢について2015年を概観すると、今年は本当に情勢が激変したカオスの1年であった。そうした中東情勢のカオスをもたらした原因について考える上で、専門家の間では概ね3つの見方があると思う。

まず、第一の見方は、長く続いた独裁体制を倒して当初は平和的な民主化への移行を目指した2010年末以降の「アラブの春」後の中東国家体制をめぐる安保環境が、サイクス・ピコ協定によって規定されたモダンな体制からついに乖離し溶解し始めたと見る、世紀単位でのポスト・ポスト・モダンな大激動と考える長期的な視点である。

この見方によれば、宗教的権威と政治権力に対する忠誠および支配服従関係が重層的に存在していたウェストファリア体制確立以前のヨーロッパのように、中東が「新しい中世」状態に回帰しつつあると見るのである。こうした見方のわが国での代表的論客は、東大の池内恵氏だろう。

彼の見方を筆者なりに解釈してみると、実態はともかくシリアとイラク両国にまたがる一定領域を実効支配しているIS(イスラーム国、むしろ筆者はDa'ishダーイシュと呼ぶ)が宣言した時代錯誤な「カリフ国」設立と、彼らの言う所の欧米と「背教者」が連合した「十字軍」に対する「ジハード」の遂行は、まさにこの「新しい中世」状態への回帰を指し示す事象ということになるだろう。

次に第二の見方は、冷戦終結(マルタ会談、198912月)とソ連崩壊(199112月)後の中期的な視点から中東の安保環境を考える見方である。この見方の代表的な日本の論客は、恐らく東大名誉教授の歴史学者である山内昌之先生ということになるだろうか。

この見方によると、シリアやイラク、リビアやイエメンなどで、アラブの春以後国内での政治権力や領土支配をめぐって連鎖的に起きた内戦状況は、冷戦時代の安定した米ソ二極構造が壊れてしまった結果、特にそれまでソ連の経済的、軍事的支援に依存していた反米諸国において、主として民族・宗教的な対立に起因する政治的暴力と政府に対する反乱の発生を封じ込めることができなくなった結果であると考えるのである。

したがって、この第二の見方は、冷戦期以来の国際システムの構造的なパワー配分を基本的な論拠としているから、近代主権国家体制を前提とした地域安保環境に関するモダンな視点を維持しているパラダイム(認識枠組み)であると言えるだろう。

そして、最後の第三の見方は、冷戦後唯一の超大国として国際公共財である安保秩序を提供してきたアメリカが、主としてイラク戦争失敗の後遺症による国内世論の「観衆費用」の増大を配慮しつつ中東への関与の度合いを決めざるを得なくなったことで、その介入コミットメントの信憑性が弱まったことを重視する、言わばポスト・モダンな見方である。

この見方は、自国が主導して地域紛争へ介入するアメリカの意図あるいは能力が弱まってきたために、一見するとアメリカの覇権が衰退したように見えることが、その安保秩序維持に関するコミットメントの信憑性に疑念をもたらし、中東における紛争多発の原因となっていると考える視点である。

この見方をやや中期的なスパンに延長して考えると、中東安保環境の現状を含め、世界全体で第二次世界大戦後の現状維持国として国際公共財を提供してきた超大国アメリカが現在衰退に向かいつつあり、同時に既存秩序に対する挑戦国としてゲームのルールを変更しようと意図する中国の様な大国が台頭して、世界が非常に危険な力の変遷期に差し掛かっていると考えることも可能なのである。

仮にこの敷衍された覇権移行のポスト・モダンな視点が妥当すると考えた場合には、早晩覇権交代のための大戦争(つまり第三次世界大戦)が、東アジアかあるいは中東での地域紛争を契機として勃発する蓋然性が高いと考えることもできることになる。

 以上述べた3つの中東安保環境に関する見方は、いずれも最近中東で起きた事象のある側面を巧妙に説明している。だが、これら3つのパラダイムは、興味深いと同時にいささか実証性の足りない素朴な歴史認識であると筆者は考える。その意味では、ISのアナクロニズムな「カリフ国」再建宣言と大同小異であるという、大きな問題点があると思う。

 筆者の考えでは、混沌とした現在の中東安保環境に関するパズルの実態を十分に解明するためには、より厳密なデータに基づく実証的な分析をもっと重視すべきだろう。

例えば、前記第一の長期的なポスト・ポスト・モダンの認識枠組に立つ視点は、既存の国境線を無視したISのテロ活動や民族・宗派間抗争の原因を、もっぱら中世の欧州社会になぞらえて理解しようとする見方であるが、問題の根源であるはずの民族性や宗教性は社会的に形成された集団共通のシンボルや神話、そして記憶の積み重ねによって構築されたものであることは今日常識である。したがって、よく考えると、民族性や宗教性それ自体が政治的暴力を引き起こすものでは決してないだろう。こうした「新しい中世」論に立ってしまうと、かえってISの主張する土俵にこちらから乗ってしまう危険があるのではないだろうか。

むしろ、これまでの中東国内政治での実態に立ち返ってみれば、政治指導者によってそうしたシンボル操作が戦闘員の動員手段として利用されてきたことこそ、内戦頻発の根本原因であったと思われる。

このことは、イラクの故サッダーム・フセイン大統領や、今日のISの所業を見ても明らかだろう。したがって、私見では、「新しい中世」状態に陥った宗派・民族間の対立と内戦の発生が直結するわけではない。筆者の見るところ、バース党独裁体制解体後のイラク中央政府の様な国内政治基盤がきわめて脆弱な失敗国家での治安維持能力の機能不全が、むしろ国内におけるアナーキー状態をもたらし、一般市民の間に典型的な「安全保障のジレンマ」を引き起こしているのが実態なのである。

つまり、中東安保秩序の現状を比喩的に述べるとすれば、国際政治学者ヘドリー・ブルがThe Anarchical Societyで提唱したような「新しい中世」状態に陥ったというよりも、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で指摘したように、言い古された「万人の万人に対する闘争」の自然状態に陥ったという方が事象の本質をよくとらえていると筆者は考えるのである。

次に、第二の中期的・構造的な視点についても、冷戦終結とソ連崩壊のパワー配分の構造変化と内戦頻発とは、実証的なデータ分析からは実のところ必ずしも相関していないのである。ましてや両者の因果関係の存在については、明確な法則性を見出すことは恐らく困難だろう。

内戦による中東地域秩序の分断化自体は、まだ冷戦期であった60年代の脱植民地化運動の時代から、既に増えている実証データがある。1954年の民族解放戦線(FLN)の武装蜂起から62年の対仏独立まで続いたアルジェリア独立戦争を見ても、それは明らかだ。その意味において、やはり、脆弱な中央政府の統治困難というアナーキーな国内環境要因こそが、権力や領土をめぐる分断された集団間の無差別な政治暴力を伴う反乱(insurgency)を惹起する、主たる要因であったと考えるべきだろう。

最後に、冷戦後のポスト・モダン的なアメリカの介入コミットメント問題についてであるが、少なくとも軍事力および経済力の2つの点については、能力的にアメリカの地域紛争への介入が困難になったとされるデータは無いと思う。

例えば、今年4月にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が発表した 2014年の世界の軍事費動向に関するデータ(Trends in World military expenditure, 2014)の内容によれば、同年の世界全体における軍事費総額17760億米ドル中、イラク戦争後の国防予算強制削減が続いているアメリカが6100億ドルの軍事支出を計上して、全体のシェア34%を占めて圧倒的な首位なのである。

この支出額は第二位中国の推定額2160億ドルの3倍近く、第三位ロシアの推定額845億ドルを遥かに上回っている。ちなみに、サウジアラビアは前年比17%増の軍事費約808億ドルで、ロシアに次ぐ第4位(GDP10%以上の支出)を占めている。

軍事力だけではない。アメリカは経済力の点で見ても、景気後退が著しい中国に比べてFRBのジャネット・イエレン議長が1216日の会見で明らかにしたように、年内利上げによる金融引き締めを宣言した程の好調を維持しており、世界経済を牽引している。

しかも、シェール革命の結果としてアメリカの原油生産は急増しており、1215日に議会与野党が合意したとおり、第一次石油危機後の1975年以来続いた原油の輸出禁止を解除する方向である。したがって、アメリカはもはや日本や中国のように、ペルシャ湾岸産油国に自国のエネルギー安全保障を依存する必要すらない立場なのである。

こういう点を考えれば、軍事力においても経済力においても、アメリカが衰退しているという事実は全く根拠が無いと言えるだろう。

筆者の考えでは、アメリカの紛争への介入コミットメントの信憑性が弱まったのは能力の問題ではなく、イラク戦争の後遺症による国内世論を考慮した介入意図の弱体化によるものだろう。

しかし、いわゆる「同盟のジレンマ」を指摘するまでもなく、シリア内戦への介入の様な有事の場合に有志連合が組織されるのは、同盟による公式コミットメントが軍事介入に際してそもそも不要であるという理由からなのである。

つまり、アメリカの拡大抑止のコミットメントの信憑性は、公的同盟関係の存否などではなく、むしろ地域同盟国との取引、換言すれば双方の共通利益と費用分担の対称性によってその結果が決まるものである。その意味で、第三の短期的なポスト・モダンな視点についても、アメリカの覇権衰退論に筆者は賛同しないわけである。

2015年12月11日金曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加その2)

真田丸の戦いを考える上で従来納得できなかった点の1つは、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山の位置についてであった。これに関して平山優氏の著書『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』では、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、当時小橋村を中心に布陣していた前田勢の前面に存在しており真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して大坂方が防御柵を敷設していた、「伯母瀬(の柵)山」が恐らく該当するのではないかという考察がなされている。

実はもう1つ、真田丸の戦いを考える上で筆者の腑に落ちなかった点がある。それは、真田丸に立て籠もって124日の徳川勢の攻勢を撃退した真田左衛門佐信繁が率いた軍勢の構成についてである。通説によると、信繁は関ヶ原の戦い時点まで大名身分を持っておらず、したがって、沼田城主であった兄伊豆守信之(関ヶ原の合戦前は信幸)と違って独自の所領と家臣を持たない、言わば父安房守昌幸の部屋住の次男坊であったと考えられてきた。

 ところが、平山氏の著書第二章9497頁の考察によると、天正182月の小田原出兵時に際しての真田家に対する豊臣秀吉の軍役賦課基準(百石につき5人役で合計3千人)から計算すると、仮に昌幸の知行した信州小県郡上田領38千石と信之の知行した上州吾妻郡8千石の合計46千石では23百人の軍勢動員数にしかならず、実際の真田家の動員兵力から7百人も足りないことになってしまうという。そして、その不足分に該当する知行高14千石こそ、信繁の知行分に該当するのではないかというのである。

 確かに、信繁の官途名である左衛門佐は兄信之の受領名である伊豆守と同じく単なる僭称ではなく、秀吉の推挙によって文禄31594)年112日付で朝廷から叙爵(従五位下叙位)と同時に任官された正式の官位であって、これは兄信之の叙爵・伊豆守任官と同日のことであり、同時に信繁は秀吉から伏見城下に屋敷を拝領して豊臣姓を下賜されている。

 つまり、真田兄弟は当時全く身分的に同格であったのであり、これは兄信幸が徳川四天王の本多中務大輔忠勝の女婿であったのに対して、弟信繁が豊臣家奉行の大谷刑部少輔吉継の女婿であったことを考えても頷けるだろう。とするならば、信繁も兄と同様に1万石以上の大名身分であったことが容易に想像できる。

 もし信繁が関ヶ原の戦い以前に大名身分であったとしたならば、父昌幸とともに改易されて紀州高野山に配流されるまでは恐らく昌幸の家臣団とは別に数百人規模の直臣たちを抱えていたはずであるから、大坂入城に当たって信州から旧臣たちを呼び寄せたことは間違いないだろう。彼らが真田丸に籠城した真田勢の中核部分を成したと考えたならば、俗に言われるような真田丸5千人の将兵が諸国牢人寄せ集めの烏合の衆であったという認識は改めなければならず、それ相応の精鋭部隊であったとも考えられるだろう。

 逆に言えば、真田丸に相対した徳川方の加賀・前田利常(利家四男)と彦根・井伊直孝(直政次男)、越前・松平忠直(秀康長男)はいずれも大坂冬の陣が初陣で実戦経験皆無であったから、勇将であった彼らの父たちの様な采配を戦場で振るうことは端から期待できなかっただろう。その意味では信繁を含む大坂方の方が大将分の能力という点では遥かに優位にあったと思われる。これが真田丸の戦いで、徳川勢が脆くも敗退した最大要因であったのではないだろうか。

 実際に残された記録によれば、合戦当日早朝の篠山奪取後に大将利常の下知も無いまま、小姓や馬廻達の抜け駆けでなし崩し的に前田勢の真田丸攻撃が開始され、それに釣られた隣の井伊勢と越前勢が鉄砲除けの竹束も用意せずに競って惣構と真田丸の空堀に侵入して柵を撤去し始めたため、敵の接近に気付いた大坂方による午後3時頃まで続いた激しい銃撃に曝された結果、各軍勢とも数百人以上の名のある武士達と多くの雑兵らの死傷者を出す大損害を被ったようだ。

 徳川勢第二の敗因は、大坂城惣構から東南部湿地帯に突出した真田丸の、巧妙な横矢掛り可能な配置にあるのであろう。言うまでもなく、右利きの多い将兵たちは右頬に鉄砲を当て、また右腋に槍を抱えて攻城戦に向かうことになる。その場合、たとえ仕寄せを完成して十分な竹束を前面に押し立てて惣構の城柵に接近したとしても、徳川勢攻撃部隊の右前方に位置していた真田丸からの銃撃には、極めて脆弱な側面を曝してしまう危険が大きかっただろう。

 しかも、124日の真田丸の戦い当日時点では、記録によると肝心の仕寄せ(塹壕)の構築は未だ完成しておらず、そもそも高台にあった真田丸前面は前述のとおり「一騎打之通」(平山、195頁)しかない湿地帯が広がっていたため仕寄せの構築が困難であった。

 その上、一部前田勢の抜け駆けに触発された実戦経験皆無の大将達に率いられた大軍が、十分な竹束の防弾楯も用意せずに、一斉に殺到して空堀に落ち込んだのであるから、大坂方の激しい銃撃に対して為すすべもなく大損害を被ってしまったことは当然であっただろう。

 仮に野戦であれば、古代ギリシャやマケドニア時代の重装歩兵のファランクス(密集方陣)の様な隊形をとり、右翼に精鋭部隊を配置して敵と交戦する戦術も出来ただろうが、平地の少ない日本では歩兵部隊の完全な密集隊形が衝突する会戦はついに出現しなかったし、いわゆる「左上右下」の配置が古来の伝統であったためか、筆者の管見の限りでは、野戦においても攻撃側が最精鋭部隊(先鋒)を左翼に置くのが日本の主たる戦術であったように思われる。

 例えば、桶狭間の戦い(今川勢左翼は松平元康)、姉川の戦い(織田・徳川勢左翼は徳川家康)、長篠の戦い(武田勢左翼は山縣昌景)、長久手の戦い(徳川勢左翼は井伊直政)、そして関ヶ原の戦い(東軍左翼は福島正則)など、左翼重視の陣形が非常に多いように感じる。

 その理由は、防御力を重視して右翼に精鋭部隊を置いた西洋式戦術とは逆に、日本ではむしろ攻撃重視で左翼に精鋭を配置し、将兵が右側面に武器を保持する結果、右前方からの攻撃に脆弱な敵の右翼を粉砕・突破する戦術が武将たちに好まれたためではないだろうか。

 同様の発想で、右翼に精鋭部隊を配置する防御的な西洋伝統の戦術を逆手にとって左翼に打撃力を集中して大勝利を導いたのが、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いだろう。この戦いでは、テーバイの名将エパメイノンダスが、ボイオティア同盟軍を率いて左翼に重装歩兵の戦力を集中する斜線陣を敷き、伝統戦術に固執して右翼にラケダイモン(スパルタ)の精鋭部隊を配置して交戦したペロポネソス同盟軍を撃破した。

 西洋古代のファランクス戦術では、右手に長槍を保持した右隣の兵士が左手で持つ楯が左隣の兵士の右側面を防護する役割を担っていたため、戦列の最右翼に位置する兵士は自分の右側がほとんど防御されていないため、最も勇敢な者でなければ勤まらないと考えられていた。

だが、それでも敵の右前方からの攻撃を恐れるあまり、右側に戦列を伸ばそうと右へ向かう圧力が陣形全体に強まってしまうために、相対した両軍とも右翼の戦列が右側にどんどん伸びてしまった欠点があったと言われている。

 慶長19124日の真田丸の戦い当日も、前田勢の左側に位置していた井伊勢と越前松平勢の将兵たちは、恐らく真田丸が位置していた右側面からの銃撃を恐れるあまり、古代ギリシャのファランクスが互いに右翼側に伸びてしまう欠点を持っていたのと同様の理由によって、右翼の真田丸側に戦線を必要以上に延ばしてしまったのではないだろうか。

 その結果、合戦当日に真田丸正面からの攻撃を担当した加賀前田勢の戦列に井伊勢や越前松平勢が不用意に入り込んでしまったことが、徳川勢全体の戦線を一層混乱させることに結び付いたために、想定外の大損害を徳川方にもたらしたのではないかと筆者は考える。

2015年12月9日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加)

 今年722日の投稿で、筆者は城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学学長による真田丸に関する最近の学説(惣構外の要害に出張った死地布陣説)を紹介した。ところが1025日に、来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する山梨県立中央高校教諭の平山優氏によって、角川選書から『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』という本が刊行された。

同書の第五章と第六章は、真田丸に関してその実像と大坂冬の陣における慶長19124日の戦いについて非常に詳細な考察が加えられており、戦史マニアである筆者にとっても大いに参考になった。そこで、今日は平山氏の学説について筆者の感想を述べてみたい。

 まず、平山氏が真田丸考察に際して依拠する資料は主として3種類あり、まず1つは千田氏と同じ『浅野文庫諸国古城之図』の「摂津真田丸」である。第2は江戸時代から大正2年にかけて描かれた真田丸跡周辺の絵図面であり、そして第3は、これが氏の独特なのであるが、(文献)資料として永青文庫蔵「大阪真田丸加賀衆挿ル様子」(以下、「加賀衆」と略す)が専ら依拠されている。そして、この第3の「加賀衆」に関する平山氏の考察が、筆者には大変興味深いものであった。

 まず、真田丸が置かれた位置であるが、筆者と同様に平山氏も現在大坂明星学園の敷地がある上町台地東部の丘陵地であったと結論付けている。特に興味深かったのが、この出丸周辺エリアが上町台地に接続する西部を除いて東部と南部が一面の湿地帯で、寄手であった徳川勢による接近目的の塹壕(仕寄せ)構築が困難であったことである。

 そして、真田丸背後の惣構堀は、八丁目口辺りまで東側から台地に入り組んだ清水谷の自然地形を利用して堰き止めた水掘りであったらしく、真田丸南部にも味原池がある他、出丸南部の空堀の一部にも湧水を利用した池(すなわち水堀)があって、真田丸本体(現在の明星学園敷地)とその東部に連結していた宰相山に続く丘陵地を分断する一種の堀切の役割を果たしていたという点である。

 しかも、真田丸は堀の外部を取り囲むように宰相山を含む丘陵地を取り込んで三重の柵(土塁に面する堀際と堀の底、そして堀の外部)が構築されていたようであり、例えば加賀前田利常の軍勢が布陣していた小橋村付近からは相当高台に位置していたようなのである。しかも、小橋村付近は前述のように一面の湿地帯であったというから、これでは徳川方の真田丸攻撃は著しく困難を極めたことであろう。

 平山氏によると出丸の規模についても、南北220m×東西140m説と、堀幅を除いて南北270m余×東西280m説が対立しているとのことであるが、前者の説は空堀と南部の池に囲繞された丸馬出型の真田丸本体(つまり、昔の真田山が在った今の明星学園敷地)だけを示したものであり、これに対して後者の説は、出丸本体東部に隣接した宰相山や西部の八丁目口方面に続く丘陵地を取り込んだ五角形のエリア全体を出丸の縄張りと見なしたものであると考えれば、説明に整合性があって納得できるであろう。

 なお、池を含む真田丸南側の堀は、現在の高津高校北側の段差が恐らくそれに相当する模様なのである。

 また、当時の真田丸の戦いを考える上で従来どうもすっきり納得できなかったのが、真田勢が前田勢の陣地構築を銃撃で妨害したため、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山が一体どこにあったのかという点であるが、これについても平山氏の考察は非常に興味深かった。

つまり、合戦当時の篠山は味原池南にあった笹山のことではなく、真田山と宰相山を含む惣構東南部に位置していた平野口南部の丘陵地全体を呼称したものでないかというのである。そして、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、この真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して小橋村に布陣していた前田勢の前面に存在していて大坂方が柵を敷設していた「伯母瀬(の柵)山」が恐らくそれに該当するのではないかというのである。

 確かに平山氏のこの考え方によれば、従来の笹山が真田丸から出張るには味原池を挟んでいたため出丸からの援護が困難であったことの不審な点を説得力を持って克服することが出来るし、何しろ小橋村付近の前田勢の陣地前面に篠山が位置していたことに他ならないことになるから、出丸から出張した真田勢がサボタージュ(妨害工作)の銃撃を行うには格好の地点であっただろう。筆者はこの考察に賛同する。

 なお、平山氏によると、真田出丸は堀で囲まれた本体内部の北端に、本体と幅八間(約1.8m×8=14.4m)の堀で仕切られた小曲輪があったという点では千田氏が依拠した「摂津真田丸」の考察を受け継いでいるから、氏によると真田丸は小曲輪-出丸本体-丘陵全体を柵で囲む外郭部の極めて堅固な三重構造になっていたことになる。

 そして、真田出丸に構築された矢倉下と前田勢の陣地との歩測による距離の計測結果が180歩であったとされ、旧日本陸軍の10.75mで積算すると両者の間に大体約135mの離隔があったと想定される点(同書、217頁)も筆者には大変面白い考察であった。


 確かに、当時の火縄銃(マスケット)の有効射程距離を考慮すれば、前田勢はこの程度真田丸から離れて布陣せざるを得なかったと考えられるからである。