2016年2月12日金曜日

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(2)

 先の投稿で述べたとおり、筆者の見解では寿永325日に起きた三草山合戦での敗北が、27日の福原(一の谷)合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。それは、この敗戦の結果、平家惣領家に次ぐ戦力を持っていたと思われる小松家の主力部隊が、事実上以後の対源氏戦線から離脱してしまったからである。

 その本質的な原因は、惣領清盛に先立って亡くなっていた内大臣重盛の子息たちに率いられていた小松家が、清盛正室二位尼時子の長子で正嫡であった内大臣宗盛の率いていた惣領家と平家都落ち前後の頃から微妙な対立関係にあったためであろう。

 もし重盛が内乱期まで生存していれば、小松家は惣領家に従属しない独立勢力として源氏に対抗していたかも知れない。この小松家と同様の立場は、清盛と忠盛死後の家督の座を争った池大納言頼盛のケースと似通っており、池家の勢力の場合は結局平家一門の都落ちには加わらず、平治の乱後に頼盛生母の池禅尼(忠盛正室)が頼朝の助命とその伊豆蛭が小島配流に助力した恩義に頼って、その後も京に残っていた。

つまり、当時平家の戦力は、源氏方の攻勢に対抗するに当たって必ずしも統合されていなかったのである。特に小松家では、左中将清経が寿永2310日に豊前柳ヶ浦で入水自殺していたし、既に一門の行動から離れていた重盛庶長子であった三位中将維盛も福原合戦後の328日に那智沖で入水自殺したほど、自家の前途を悲観していたわけだった。

 維盛乳父で平家の坂東支配と小松家戦力の中核であった上総介伊藤忠清も、平家有力家人であった平田入道家継(忠盛・清盛の「一ノ郎党」と称された筑後守平家貞の子)や出羽守平信兼(治承48月頼朝挙兵の際に伊豆山木館で討たれた判官兼高の父)とともに、この頃平家根拠地であった伊勢・伊賀両国で独自行動を取っていた。

その後、彼ら平家残党の勢力は一族を糾合して元暦元(1184)年夏、大規模な「三日平氏の乱」を起こして源氏方の伊賀国惣追捕使であった大内惟義の軍勢に大打撃を加えた。また、家貞の九州支配の地位を受け継いでいた肥後守貞能(家継弟)の勢力も九州に残っていたため、27日の福原(一の谷)合戦には参加していなかった。

 つまり、合計すれば惣領家に匹敵するような恐らく数千人の兵力を持っていたと考えられる小松家の戦力は、寿永32月の時点で全く糾合されておらず、重盛嫡男の新三位中将資盛が率いた残存戦力さえも三草山の合戦で崩壊してしまったため、その後壇ノ浦で平家一門が滅亡するに至るまでほとんど有効な戦力として機能しなかったと言えるだろう。

 そうした小松家勢力の脱落の結果、福原周辺の広大なエリアを要塞化していた平家方は、27日の合戦当日は相当な戦力不足の状態に陥っていたのではないか。特に丹波口からの源氏方の侵攻ルートが未だ明らかでない以上、福原と大輪田泊を防御するためには大手口であった生田の森方面(東の木戸口)だけではなく、鵯越の山手口と西方塩屋方面からの侵攻ルートであった須磨・一の谷口(西の木戸口)に防御戦力を相当割かねばならなかったはずであろう。

 そこで27日時点の平家側防御態勢について考察してみると、山手口の方が一の谷口より危険視されていたと思われる。なぜなら、鵯越方面から山手口の防衛線を源氏勢に突破されると、東西に分かれて守備態勢を取っている平家勢が福原周辺を挟んで分断されてしまうことになり、それは直ちに敗戦に繋がってしまうからである。

 そこで、既に山手口の守備に付いていた惣領家侍大将の越中前司平盛俊の軍勢に、清盛弟中納言教盛の息子であった中宮亮通盛と能登守教経の率いる門脇家の軍勢が援軍として増派された模様である。だが、その戦力は多分数百騎程度だったに違いないと思う。したがって、山手口で合戦当日に守備に付いていた平家方の戦力は、盛俊の軍勢を合わせても1千騎程度に過ぎなかったのではないかと筆者は考える。

 なぜなら、実際の合戦経過では、『玉葉』28日の記述によれば、前日7日辰刻(8時頃)から巳刻(10時頃)までの2時間程度の比較的短時間の戦いで源氏方の勝利に決着したとされるから、山手口が簡単に突破されたために福原の東西に布陣していた平家勢が一気に総崩れになったと考えられるからである。

 もしこの『玉葉』の記述が事実とすれば、山手口の平家方守備隊は源氏勢とほぼ同等程度の兵力に過ぎなかったと思われる。ほぼ同規模の軍勢ならば、鵯越の坂道を駆け下りてくる源氏勢が有利であったと考えられるからだ。そして、この方面の源氏方の主力部隊は『玉葉』によれば多田行綱の戦力であったと述べられている。

 これは先の投稿で述べたとおり、丹波口から侵攻した源氏方搦手部隊の戦力構成が、比較的少数の義経勢と、土地勘があって最有力の摂津源氏勢、そして甲斐源氏の安田義定勢の混成部隊であったと考えれば、山手口の攻撃主力部隊が摂津源氏勢であっただろうから頷ける妥当な所と言えるだろう。だが、『吾妻鏡』によると甲斐源氏安田勢に門脇家の教経が討ち取られたと交名が掲載されているから、あるいは安田義定も山手口を攻撃したのかもしれない。この辺りは全く不明である。

 ただ、7日の合戦当日、平家方西の木戸口の守備に付いた大将が忠盛六男であった薩摩守忠度の軍勢であったから、東の大手口の守備に付いていた惣領家の軍勢から戦力が補強されていたとしてもその兵力は少なく、多分数百騎程度に過ぎなかったのだろう。

 そのため、筆者の見立てでは、この西方の須磨・一の谷口の攻撃に向かった源氏方の大将は九郎義経の率いた数百騎程度の小勢だったにもかかわらず、山手口を先に破られて挟撃された結果、敢え無く平家方が敗退して忠度も戦死したのではなかっただろうか。

 そして、義経が鵯越の逆落としで平家方を一気に打ち破ったとする『平家物語』の記述のような劇的戦術は、恐らく合戦当日は取られなかったのではないか。つまり、この福原・一の谷合戦での平家方の主たる敗戦理由は、筆者の見立てでは、簡単に山手口の防衛ラインを突破されてしまったことにあるのだろう。

 さらに突き詰めて考察すれば、福原に直結するこの山手口を27日の合戦当日に短時間で平家方が源氏方に突破されてしまったのは、三草山の合戦に敗れて散り散りとなった小松家の主力部隊が参戦していなかったため、平家方が福原周辺の広大なエリアを守備し切るには深刻な兵力不足の状態に陥っていたことに有るのではないだろうか。

2016年2月10日水曜日

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(1)

 源平両軍が東国と西国を往来して大規模な内戦を展開した治承・寿永の乱については、誇張と虚飾の多い『平家物語』などの軍記物や後世編纂された『吾妻鏡』の他には、信頼できる資料としては時の右大臣であった九条兼実の日記『玉葉』などの断片的情報から、その具体的展開と個々の合戦経過について頭を働かせて推測するしか方法が無い。

 したがって、寿永327日に起きた源義経の鵯越の逆落としによる劇的勝利で有名な一の谷合戦(正確には福原合戦と言うべきか)についても、その実像はほとんど明白ではない。だが、当時の京周辺の政治経済状況と動員された源平両軍の戦力構成については、筆者にもある程度推測することが可能であろう。そこで本投稿では、この点について考察してみたい。

 まず当時の京周辺(洛中洛外)の経済状況であるが、養和元(1181)年に起きた未曾有の大飢饉によって軍勢を動かすための兵糧がまだ不足していたと思われる。鴨長明の随筆『方丈記』によると、養和の飢饉当時、地方の農業生産に住民の消費生活を全く依存していた京には公領・荘園から年貢がほとんど流入しなくなり、そのため市中の死者は4万人以上であったと記されている。

 頼朝と対立していた源義仲は、寿永25月の砺波山の合戦で平家の追討軍を打ち破って同年7月、安徳天皇と三種の神器を擁した平家一門を都落ちに追いやって京を制圧していたが、その後閏101日の備中水島の戦いで平家軍に大敗して後退した。

義仲の軍勢は飢饉の影響による兵糧不足から強奪に走ったため、後白河法皇の率いた公家勢力に見放されて頼朝の上洛が促される結果を招いた。頼朝は東国で横領された荘園返還を条件に、自らの東海・東山両道諸国に対する事実上の支配権を朝廷に認めさせることに成功した(寿永210月宣旨)。これで頼朝は本位に復帰し、謀反人の地位から赦免されたのである。

この頼朝優遇措置に怒った義仲は、1119日法住寺合戦のクーデターの挙に出て法皇を幽閉したが、頼朝が鎌倉から派遣した九郎義経の率いる追討軍先発隊は、114日に既に美濃不破の関に到達していた。結局義仲は宇治瀬田の合戦で鎌倉勢に敗れて、寿永3121日、逃れた近江国粟津で討ち取られた。

 入京した鎌倉勢に対して、法皇は126日、既に瀬戸内海を制圧して九州・四国・中国地方で勢力を回復して福原まで進出し、2月(『玉葉』によると13日)には京に入洛しようとしていた平家の追討と、三種の神器の奪還を命じる頼朝宛宣旨を出している。平家没官領約500か所がその恩賞であった。ここまでが、一の谷・福原合戦直前の源平両軍の状況である。

 さてそこで、まず官軍となった源氏方の構成であるが、先発した義経が率いた軍勢は、恐らく摂津源氏多田行綱の軍勢と京に進出していたがその後義仲から離反した甲斐源氏安田義定の軍勢など、既に畿内近国で編成されていた軍勢が主体であったのではないだろうか。恐らくその兵力は、せいぜい1千騎といった程度に過ぎなかっただろう。

というのも、鎌倉から派遣された東国勢はその交名を見ると相模と武蔵両国の軍勢だけの様子で、房総や北関東の大名たちの率いた兵力は坂東に残置されたようである。したがって、頼朝代官範頼が率いた派遣軍の総兵力は、『玉葉』の記述によれば12千騎程度であった。

したがって、源氏方の平家追討軍の総兵力は多く見積もっても約3千騎ほどで、これは飢饉の影響が残る西国での軍事行動を維持するために後方支援が可能な最大規模の兵力と言えるのではないか。

 この3千騎の兵力を、範頼率いる大手軍が山陽道(播磨路)から、義経と義定(行綱も)率いる搦手軍が丹波路から、それぞれ進撃したのではないか。そう考えると、大手軍は約2千騎、搦手軍は約1千騎と言ったところが妥当な動員兵力だっただろう。

 その証拠として、法皇から福原への出撃を命じられた搦手軍は出陣に乗り気でなく、22日の段階(合戦5日前)に至っても、京西郊大江山(老いの坂)に滞留していたと言われている。あるいは、法皇の謀略で平家に油断させるため、和睦を命じる使者が合戦前日の26日に平宗盛の下に送られるのを義経らは待っていたのかもしれない。

 他方で範頼率いる大手軍は、27日を合戦開始(矢合せ)の日と定めて、4日に京を進発していたとされる。こちらは福原東方の生田の森方面から、平家主力部隊に正面攻撃を仕掛ける手はずであったはずだ。

 次に平家方の構成であるが、当時一族の惣領であった内大臣宗盛は、妹の建礼門院や安徳天皇を護持して大輪田泊に停泊していた御座船か軍船に居て、実際の合戦には参加していなかったらしい。したがって、清盛直轄の惣領家の主力部隊恐らく数千騎は、宗盛弟の新中納言知盛と本三位中将重衡が率いて生田の森の大手口に布陣し、堀や柵、逆茂木を設置して防御態勢を敷いていたようである。

 次に平家の防御態勢で重要だったのは、福原背後の山手、すなわち鵯越口であっただろう。こちらは三木方面に通じる重要な間道が通じていたし、丹波路方面の搦手から源氏の軍勢が来襲する場合、当然この方面から進出してくるはずだからだ。

したがって、平家方の作戦としては、播磨と丹波の境目にある三草山に内大臣故重盛子息の資盛らの率いる惣領家に次ぐ有力な戦力であった小松家の軍勢を布陣させ、前方で積極的に防御あるいは丹波路への逆進出を図ったのだろう。

だが、25日に、この小松家軍勢が義経らの軍勢に急襲(夜討ち)されて敢え無く敗退してしまった。三草山合戦での平家方の兵力は、源氏方の兵力とほぼ同等規模であったのではないだろうか。

 筆者の見解では、この三草山合戦での敗北が27日の合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。これ以降の分析については、長くなるので次回の投稿で改めて述べてみたいと思う。

日銀のマイナス金利政策導入が裏目に出て、円高・株安を招いた事態に関する感想

 昨日9日の東京債券市場では、長期金利の指標である新発10年物国債の利回りが日本史上初のマイナスとなったことが報じられた。また昨日来の東京株式市場では株価が急落し、日経平均株価が15千円を割った。さらには円高ドル安も進んで、東京外為市場では円ドル・レートが115円を割って、一時114円台前半まで急騰したと報じられている。

 普通に考えれば、日銀当座預金にマイナス金利が導入されれば、株価下落はともかく、円安方向に円ドル・レートがぶれることは想定の範囲内であったはずだ。筆者は経済アナリストではないが、頭を整理するために、今日は敢えてこの金融市場の混乱について考察してみたい。

 まず、日銀が129日の金融政策決定会合で、これまた我が国初の日銀当座預金残高の一部にマイナス金利(平たく言えば、銀行からの手数料徴収)を付する決定を行った背景には、よく言われるように中国経済の景気減速懸念や原油安を背景にした年明け以来の円高・株安傾向に歯止めをかける目的があったのだろう。

 つまり、黒田バズーカ第3弾の大規模な追加緩和策を出して以後の手玉が尽きることを黒田日銀総裁が恐れた結果、ECB(欧州中央銀行)の政策に倣って、異次元金融緩和の発動以来ブタ積みされる一方の日銀当座預金残高を銀行に吐き出させて、企業と個人に対する貸し出しに資金を回させることによって設備投資と消費を喚起するとともに、長期金利を下げて円安傾向を強化し株価を高めに誘導しようとしたのであろう。だが、最近の株式・債券および外為市場の動きを見ると、明らかにこの日銀の意図は裏目に出ているようだ。

 日銀が想定外であったのは、アメリカの景気見通しの悪化と原油安に起因する新興国および資源国経済の先行き不安が強すぎた結果、ドイツの銀行やアメリカのエネルギー企業への信用不安が高まり、28日の欧米株式市場で株価が下落するという事態が起きたことだろう。

 こうなると、日銀が当初想定していた日本国内市場だけの問題ではなくなり、グローバル化した世界中の投資家は、株価下落リスクの高い株式市場から一斉に資金を引き揚げて、比較的リスクの低い円や日本国債を購入する方向に大きく資金を移転させたのであろう。

 その結果、日銀がマイナス金利を導入したにもかかわらず、想定外の円高が引き起こされたのであろう。円高が加速すれば自動車などの輸出産業の収益が当然悪化するし、原油安の結果エネルギー産業の収益も悪化するから、そうした企業の株価が下落するリスクが高まる。

 また、銀行に目を向ければ、マイナス金利の導入で長期金利が下がれば貸出金利も下がって利ざやを稼げなくなり、収益が悪化する。現状のように景気の先行きが不透明なままでは、簡単に企業の設備投資は増えず、必ずしも銀行の貸出金利が下がったからといって貸し出しが増えるとは限らないだろう。その結果、日銀の目論見とは逆に、銀行の収益が悪化して銀行株もさらに下落していく恐れがある。

その上マイナス金利導入で日銀から当座預金残高の管理手数料を取られることになれば、銀行は安全な長期国債購入になお一層走ることになる。長期金利がマイナスに低下して国債価格が急騰しても、それを買っておけば満期までにいずれ日銀が高値で買い戻してくれるから、銀行としては安い貸出金利でわずかな利ざやを稼ぐよりはこちらの資金運用の方が合理的な選択肢と言えるだろう。

 他方、同じ金融機関でも保険会社の方は、保険料で集めた資産を専ら国債で運用して利益を出しているから、マイナス金利は直接ダメージとなりかねない。その結果、顧客に約束した利回りを維持できなくなって、結局保険料を引き上げる方向を選択するかもしれないだろう。

 つまり、今回の日銀のマイナス金利導入政策は、世界経済全体の動向とグローバル化した投資家の思惑による資金の急激かつ不安定な移動の前に、為すすべもなく打ち負かされてしまったと言ったところが筆者の偽らざる感想なのである。

 それにしても、長期金利が下落したことによって個人的には住宅ローン金利が低下して持ち家を購入しやすくなるはずだから、これからは住宅投資に期待が出来ると言えるのだろうか。寡聞にして、そうした個人的に大いに興味がある点についての経済アナリストたちのアドバイスを余り聞かない気がする。

世界や日本の経済全体のマクロ分析ばかりでなく、個人的なミクロ分析についても、(先行きが不透明過ぎて専門家にも判断できないのかもしれないが)誰か専門家が的確な見通しを示してくれないものだろうか。

これ以上株価も下がって、なけなしの預金金利が下げられてしまったら、投資額の小さい我々個人投資家は、日銀さんが述べた難解な用語を使えば、老後に備えて一体全体どのように「ポートフォリオ」(資産運用の組み合わせ)を「リバランス」(割合調整)すればよいのだろうか。

 結局、今回の日銀のマイナス金利導入政策の思惑が外れてしまったことで利益を得たのが、国の借金である国債の利払い費が減少することによって最終的には政府だけであったというような、庶民の目からは決して笑えないオチがつかないように筆者は願いたいのである。

2016年2月5日金曜日

2016年5月16日、サイクス・ピコ協定100周年後のイラク・シリア周辺情勢に関する見通し

 上記のとおり、今年516日に、英仏露三国間でオスマン帝国崩壊後の勢力圏分割を規定した悪名高いサイクス・ピコ協定が締結されてから、ちょうど100周年を迎える。このサイクス・ピコ協定は、あのIS(イスラーム国)がその打破を大々的に掲げているように、欧米諸国が主導する中東近代国家体制と国境線の線引きの大枠を定めた秘密協定であった。

 ある意味では、この秘密協定などによって残された未処理の問題が再燃したため、2010年末のチュニジアにおけるジャスミン革命から始まったアラブの春の悪影響がシリア内戦とイラクでの宗派間抗争の混乱を引き起こした。その破綻国家化の間隙から生じた力の空白をついて、ISが両国にまたがる自称「カリフ国」の領域支配を確立したのである。

 上記の未処理で残された問題とは、1つはクルド人の民族自決であり、もう1つはセクトあるいは宗派間の適切な勢力均衡確立の問題である。そして、このことは、第1次世界大戦敗戦国であったオスマン帝国の領土に関する戦後処理問題が、欧米諸国対ISを含む非国家主体との対テロ非対称戦争という形に転換して再燃したものであるとも考えることが出来るだろう。

 地政学的視点に立てば、ISが台頭したレバント(シリア)とメソポタミア(イラク)の一部は、ユーラシア・アフリカ世界島のリムランド(縁辺部)三日月地帯の中の、さらに山岳・高原勢力(イランおよびトルコ)と砂漠勢力(アラビア半島およびナイル流域を除くエジプト)に囲まれたハートランドである「肥沃な三日月地帯」を形成している。

 したがって、マッキンダーの有名な言葉を模倣して述べれば、「肥沃な三日月地帯を支配する者はレバントとメソポタミアを支配し、レバントとメソポタミアを支配する者は中東を支配する」という命題を一応提示することが出来るだろう。これが第1の論点である。

実際、人口稠密だが各勢力が地域ごとに分断されていた山岳・高原勢力であるイランとトルコは、肥沃な三日月地帯を支配した統一勢力、例えばアレクサンドロス大王や古代ローマ帝国、預言者ムハンマド死後のイスラーム帝国、あるいはモンゴル帝国の侵略などによって、度々痛い目にあわされてきた屈辱の歴史を持っている。

 さて、アラブの春以後の中東情勢を一言で評すれば、この中東ハートランドの混乱に乗じてISが台頭するとともに、イランとサウジアラビアの両国が中東ハートランドの支配権をめぐって激しい鍔迫り合いを展開しているということになるだろう。このISの台頭と鍔迫り合いが、欧米主導で建国された中東近代国家であるイラクとシリアの国境線を融解させ、両国を破綻国家化させている根本原因なのである。

 だが、筆者の見るところ、シリアについてはその破綻国家再建と国境線の現状維持は極めて困難だ(つまり各々支配者が異なる3ないし4つの地域に今後分断されるだろう)が、少なくともイラクについてはクルド人の民族自決とセクト間の適切な勢力均衡の確立という2つの未処理の問題を解決する方向に欧米が導くことが出来れば、多分ISを駆逐して曲がりなりにも近代国家体制を維持することが可能なのではないか。

 なぜなら、メソポタミアつまりイラクには、レバントつまりシリアのように、外部から介入してくる海洋勢力(例えば十字軍)と、内部からその侵攻に抵抗する山岳・高原あるいは砂漠勢力(イスラーム教徒)との間の顕著な断層線(フォルト・ライン)が存在していないと思われるからである。ただし、イラク政府軍は、北部山岳地帯のクルド人武装勢力と共闘して、ISからモースルを軍事的に奪還しなければならないという困難はなお残されている。

 これに対して、レバントつまりシリアでは、西部に南北に連なるアンティ・レバノン山脈とアンサリヤ山脈を顕著な境界として、上記のような断層線が存在していると思われる。ここでいうアンサリヤ山脈にある断層線の西側とは、現在までのところ地中海沿岸のアサド政権支配地域を意味している。そして、その地域は外部海洋勢力の1つであるロシアの軍事介入によって、事実上アサド政権の支配権が支えられている。

こうした断層線があると、亡くなったハンチントンがかつて賛否両論頻出で話題となった『文明の衝突』で述べたように、フォルト・ライン紛争が多発することによってセクトの分断が進んでいく。シリアにおけるISやヌスラ戦線の台頭は、こうしたフォルト・ライン紛争を扇動することによって可能となったように筆者には思える。

また、アルカーイダ系のヌスラ戦線と異なってISの場合特に厄介なことに、彼らは戦術としてサラフィー・ジハード主義を宣伝することがSNSを介して効果的にできる体制を作り上げていることから、欧米諸国を含む世界中にまで断層線を容易に拡散できるという点である。いわゆるソフトターゲットを狙ったISシンパによるホームグロウン・テロの脅威は、こうしたメカニズムを通じて高まっているわけだ。

 第2の論点は、ポスト冷戦期のパワーシフト問題である。その1つは、昨年起きたユーロ危機と難民・移民流入問題から見えた欧州型統合深化の停滞、つまりEU解体傾向の高まりである。この2つの危機を観察して得られた回答は、とどのつまり相互に経済力が大きく異なるEU諸国が経済政策を未統一のまま統一通貨ユーロを使用することは、結局ドイツが一方的に利益を他国から吸い上げることに他ならないことである。例えば昨春起きたギリシャ債務危機は、その典型例であろう。

 また、昨夏以来ギリシャやイタリアを通じてEUに流入した100万人以上の難民・移民を現行のシェンゲン協定のシステムでは有効に対処できないことから、国境管理がEUを支えるドイツでも再開された。さらにマリーヌ・ル・ペンの率いる国民戦線がフランスで有権者の支持を拡大しているように、現行の移民政策とシェンゲン協定に反対する右派勢力の台頭が各国で目立つようになっている。今後もし仮に、キャメロン首相が率いる保守党政権の英国がEUを脱退したら、EUは本当に解体の方向に向かうことになるかもしれない。

 次にもう1つのパワーシフトは、ロシアの軍事介入問題である。注目すべきはロシアによる2014年のクリミア併合とウクライナへの軍事介入、そして昨年9月以来の対シリア軍事介入が、どれも旧ソ連圏へのNATOの東方拡大を認めないという、プーチン大統領の強固な意思表示のように見えることだ。

 筆者が思うに、こうしたプーチンの攻撃的政策は、一貫して黒海艦隊の地中海進出拠点の権益を確保するための典型的な南下政策のように見える。例えば、G8から弾き出されて欧米の経済制裁を受ける羽目を招いたクリミア併合は、ウクライナのNATO加盟の動きの機先を制して黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリ軍港を確保する目的があったことは確かであろう。なぜなら、もしセヴァストポリ軍港を失えば、ロシア黒海艦隊は黒海の制海権をトルコに奪われてしまうことになってしまうからである。

 昨年9月にロシアがシリアに軍事介入したことも、反体制派の攻勢で劣勢に陥りつつあったアサド政権を軍事支援して、シリアのタルトゥース港にある黒海艦隊補給基地の権益を確保する目的があったことは疑いないだろう。

 もちろん、ISなどイスラーム過激派を掃討することによって、ロシア領内へのイスラーム過激主義の浸透を先制的に防ぐ意図がプーチン大統領にあったことも否定できないとは思うのだが。

 原油価格が低迷する中で制裁が解除されたイランが年内に日量100万バレルの原油増産を実施し、シェール革命の結果アメリカも原油を輸出することになることから、経済制裁にあえぐロシアとシェールとイランへの対抗上OPECでイランとの協調減産に踏み切れないサウジアラビアの両国は、2016年を通じて厳しい財政状況に陥るかもしれない。

だが、だからと言ってこの両国が、アメリカやイランに対抗する積極政策を直ちに止めるとも筆者には思えない。昨年イランとの核問題最終合意を締結してサウジアラビアからイランに提携関係をややシフトさせつつあるアメリカに対抗して、サウジアラビアもロシアを巻き込んで経済的な持久戦を当面の間は続けていくことになるだろう。

2016年2月3日水曜日

甘利明前経済再生担当大臣の辞任に関する、高校後輩としての感想

 『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書と政策秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事の結果、先週木曜日(128日)に甘利氏が大臣職を辞任した。

先週127日の投稿で、筆者はこの公設秘書らのあっせん利得授受の疑いだけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に問題の焦点が絞られるだろう、と述べた。

ところが甘利氏はこの点について、平成252013)年1114日に大臣室で、平成2621日に大和事務所で、それぞれ50万円を、口利き問題の相手方である建設業者S社の関係者(大臣室では社長から、大和事務所では総務担当者)から受領したことを、比較的あっさりと認めてしまったのである。

 甘利さんの言い分は、概ね以下の様な趣旨だった。すなわち、自分が受領した合計100万円の現金は、それに気付いてから秘書に対して政治資金規正法上「適切に処理」しておくよう指示していた。それゆえ自分は何ら違法行為に加担していない。

だが、自分の現金授受の問題とは別に、公設秘書が平成2588日にS社総務担当者から受け取った500万円の現金のうち、300万円を私的に費消してしまった不始末の監督責任をとって辞任する。それは、秘書に責任をなすりつけないという政治家としての自分の美学を貫くことであり、また盟友である安倍首相の政権運営に迷惑をかけないためにも、自ら辞任の道を選択したという事であるらしい。

 何だか一見とても潔い身の処し方に聞こえるが、一体全体、甘利氏自身に口利きの認識があったのかどうかについては極めて曖昧な説明だ。特に、時系列的に考えて、秘書が88日に500万もの大金を相手側から受領したにもかかわらず、その本質的な「あっせん」の意味について、甘利さんが11月に大臣室で50万円をS社の社長から受け取った際に何も具体的な報告を秘書から受けておらず、大臣就任祝いか何かだと思ったなどと、とぼけた回答をしていたのは明かなごまかしの臭いがする。

 甘利さんはその翌年2月の大和事務所でのS社総務担当者からの説明資料授受と50万円受領についても、舌癌からの快気祝いの意味だと思ったと述べていたが、筆者にはこれも眉唾な説明に思える。そもそも自分が直接S社から受領した合計100万円については、これを政治資金収支報告書に適切に記載しておくよう秘書に指示したのだから、自分に何らやましい所が無いというのでは、直接自分の手で受け取った政治資金(いわゆる企業・団体献金)であっても形式的に政党支部への献金としておけば後は知らないと言っているのに等しく、これでは迂回献金そのものを是認することと異ならないことになってしまうだろう。

 それに、本来政治献金であったはずの300万円を公設秘書が勝手に私的流用したのがもし事実であれば、甘利事務所としては事実上解雇した公設秘書を業務上横領罪の疑いで刑事告発するのが本来の対処法だろう。もし彼を告発しないのであれば、甘利事務所が他の献金者から受領した政治資金あるいは政党助成金(つまり国民が支払った税金の一部)から、その損失を穴埋めすることに他ならず、それはそれで大問題となりかねないだろう。

 やはり、筆者には今回の甘利事務所の現金授受問題の本質は、政治資金規正法上の収支報告書の虚偽記載の問題というよりも、政治家に対する口利きの見返りに企業献金が迂回献金としてなされたという、現行あっせん利得処罰法のザル法化の点にあるのではないかと思われる。

その点で、この際せっかくの機会であるから、現在野党が主張しているような企業・団体献金を全面的に禁止する法案を真剣に議論すべき時ではないか。大体、よく言われているように政党助成金を国庫から受領していながら、企業・団体献金を政党が受領している現状は本来二重取りと言われても仕方がないと筆者は考える。

その上、選挙区ごとに設立された議員が支部長である政党支部がそれを受け取ることは、今回大臣を辞任した甘利さんが主張するように、たとえ政治資金規正法上適切に会計処理されていたとしても、その実態が、不透明な政治腐敗に繋がりかねない企業・団体から政治家個人に対する迂回献金と見なされても、恐らく有効な反論ができないのではないだろうか。

 筆者は先週の投稿で述べたように、甘利明さんの出身高校の後輩である。甘利さんを好意的に評価すれば、政治家としてはやや人の良過ぎるボンボン育ちゆえの今回の失敗であったのだろう。TPP交渉およびアベノミクス推進でこれまで立役者として果たした彼の功績は誰も否定できるものではなく、その意味では筆者と同じ母校の出身者として甘利さんには是非とも再起を果たしてほしいと思う。

 筆者が甘利さんを見て思うのは、古代ギリシャの政治家と軍人としてペルシャ戦争中の紀元前4809月に起きたサラミスの海戦に際して、賄賂と謀略を駆使して劣勢かつ統制の取れない三段櫂船のギリシャ連合艦隊を対ペルシャ艦隊との決戦に結集させ、大勝利に導いたテミストクレスである。テミストクレスは陸戦ではペルシャの大軍にギリシャが勝てないことを見越して、マラトンの戦いで勝利したことでペルシャの軍事力を侮っていたアテナイの海軍力を市民の反対を押し切って整備した先見の明があった。

 現在まで首都アテネの外港としてギリシャ第1の港湾として機能し続けているピレウス(ペイライエウス)港を整備させ、アテナイ市内とピレウス港とを結ぶ長い城壁を建設したのも、テミストクレスの功績であった。

実はテミストクレスは、ヘロドトスの『歴史』やプルタルコスの『英雄伝』の記述によると、ギリシャ連合軍の総司令官であったスパルタの提督エウリュビアデスを説得して反対派(コリントス地峡への撤退論を主張していたコリントスの提督アデイマントスらペロポネソス半島勢)を押し切ってサラミス水道での決戦に引きずり込んだだけではなく、侵略者であったペルシャのクセルクセス王の下に寝返りを約束する偽りの使者を遣わして、決戦前日にペルシャ艦隊をサラミス水道封鎖へと引きずり込む謀略を駆使した程の策士であった。

 日本の武将で言えば、テミストクレスに大変よく似ていたのが、恐らく毛利元就だろう。毛利元就の先祖は京下りの下級官人で鎌倉幕府初代政所別当であった大江広元であるが、実は甘利明さんの生まれた厚木市は平安時代末期に立荘された毛利荘の地そのものであって、そこは大江広元の所領であったのである。

 つまり、戦国時代に中国地方の大大名であった毛利氏発祥の地は、実は厚木市だったのである。筆者が何を言いたいかというと、甘利明さんには甘利虎㤗の子孫だなどとケチな自慢話をするのではなく、テミストクレスや毛利元就の様な危機の際には謀略を駆使できるような清濁併せ持った大政治家にボンボン二世議員から変貌して貰いたいという事だ。

ただし、これほど祖国アテナイに対する功績の大きかったテミストクレスでも、その名誉欲に駆られた強引な政治手法が、ペルシャ戦争後アテナイ市民からの信用を完全に失って僭主に成るかも知れないと疎まれた結果、国家反逆罪で陶片追放の憂き目にあってかつての敵国ペルシャに亡命する羽目に陥ってしまった。そうした民主主義における世論の恐ろしさを、甘利明先輩にも決して忘れないで今後精進して欲しいと筆者は思うのである。

2016年1月27日水曜日

甘利明経済再生担当大臣のあっせん利得授受疑惑と、そのご先祖様に関する感想

 先週発売の『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事が、安倍政権の国会運営を大きく揺るがせている。

このままでは、甘利大臣が担当した今国会最重要案件の1つであるTPP交渉をめぐる国会審議が、野党の抵抗で一向に進まない最悪の事態も想定されている。そうなれば、衆参同日選挙を今夏に行って必ずしも一枚岩でない野党勢力に大勝することにより、長期政権樹立の基盤を確立しようという安倍首相の目論見も吹っ飛んでしまう可能性がある。

何しろ甘利氏は、麻生副総理兼財務相や菅官房長官と並んで安倍首相を支えている重要閣僚の1人であり、総理大臣の盟友だからである。その盟友である甘利大臣がもし仮に辞任に追い込まれたとしたら、安倍政権が蒙る政治的打撃は非常に大きいものとなるだろう。

 実はこの甘利明大臣は、筆者の卒業した県立厚木高校の13期先輩である。甘利氏の選挙区は神奈川県第13区で、大和市と海老名市と座間市、そして綾瀬市を含む県央地区にある。筆者が子供のころ育った相模原市とは、ほぼ隣接した選挙区である。そして、甘利氏の公式サイト等によると、明さんは昭和241949)年8月厚木市生まれの今年66歳の様だから、高校第33期卒業である筆者のちょうど13期先輩、つまり高校20期卒業の同窓生に当たる。

 ところで、今回の口利き疑惑の実行主体は、現在までの報道から考えると甘利氏の大和事務所長を任されていた公設第1秘書であったと思われる。明日発売の『週刊文春』の第2弾記事では、この公設秘書がUR側に圧力をかけた会話と写真が掲載されている模様だ。

問題は、この公設秘書のあっせん利得授受だけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に絞られるだろう。明日の甘利大臣の調査結果の報告会見では、自分が金銭を授受した事実は恐らく否定せざるを得ないだろう。あっせん利得処罰法違反の疑いの強い金銭授受と政治資金収支報告書不記載の違法行為については、あくまでも秘書だけの疑惑に留めて、甘利明氏自身は監督不行き届きの道義的責任を負うことだけで済ますことが恐らく官邸や甘利氏サイドの狙いだろう。だが、果たしてそれだけで逃げ切れるだろうか。

 それにしても、一連の報道で筆者が感じるのは、この甘利先輩は政治家として有り得ないくらい脇が甘すぎるという点だ。もし『週刊文春』第1弾記事が報じたように、甘利氏が大臣室であっせん行為の依頼人である建設業者関連の人と面会し、本当に金銭を受領したことが証明されたとすれば、仮に甘利大臣自身に犯罪構成要件である「請託」を受けた故意が無かったとしても、彼自身があっせん利得処罰法を知らなかった可能性を否定できないと思う。

TPP交渉の立役者である大臣ともあろう甘利氏ほどの重要閣僚が、このような脇の甘さでは政治責任を問われても仕方がない。仮に法の不知と公設秘書への監督不行き届きから自分自身には実際に法的責任が無かったとしても、甘利氏は政治責任をとって、潔く大臣を辞任するのが恐らく本筋の解決策ではないだろうか。

 甘利氏の脇の甘さは、先に述べた公式サイトのプロフィールに、次のような真偽不明な記述を堂々と掲載していることからも窺える。すなわち、甘利明氏のサイトには、先祖は?として、「先祖は武田信玄の末裔です(本当)。信玄の親戚であり、重臣No2 甘利虎㤗(あまり とらやす)が我が先祖です(厚木市編纂民家の歴史より)。」とあるからだ。

 筆者も武田氏の歴史については随分興味を持っている1人であるが、甘利虎㤗の子孫は天正10年の武田家滅亡と共に断絶したとされるのが恐らく通説だろう。それを一体どういう根拠から、甘利明先輩は甲斐源氏甘利氏の子孫であると「僭称」されているのだろうか。

公式サイトの記載からは甘利明氏自身が本気で信じているわけではなく、一見冗談のような記述にも思える。だが、この間の疑惑報道から窺える甘利大臣の脇の甘さと二世議員特有のボンボン的気配からすると、単なる伝承から確たる系図もないまま、明さん自身がそれを事実であると信じきっているように思えるのは筆者だけだろうか。

 はっきり言うと、甲斐源氏としての甘利備前守虎㤗の経歴は、多分その本家筋に当たると称していた一条氏や信玄重臣No1であった(と恐らく甘利明氏が認識していると思われる)板垣駿河守信方に比べても系図上の位置づけが明白ではなく、いったい何故板垣信方と並ぶ武田氏家老職の「両職」とされているのかさえ、ほとんど解明されていないからである。

 というのも、甘利氏初代とされる次郎行忠は、源頼朝によって元暦元(1184)年6月鎌倉で誅殺された一条次郎忠頼(当時の甲斐源氏棟梁であった武田信義嫡男)の次男であったため、父に連座して所領甘利荘(『和名抄』の巨摩郡余戸郷)を没収されて常陸に流罪となり、翌元暦24月に父同様に殺されてしまったからだ。

 甘利行忠には甘利次郎行義と上条三郎頼安の兄弟の息子がいたらしいが、その後の甘利氏は戦国期の備前守虎㤗が信玄の父信虎に使える勇将として歴史に現れるまで、その系譜関係も明らかにできない程零落していた模様である。一説では南北朝期の訴状で甘利氏が所領を回復したとも言われるが、それまでは当然御家人身分でもなくいわゆる無足人であったわけだろう。

あるいは行義以降の甘利氏は、武田氏惣領家の石和家か、石和家から養子を迎えて復活した一条氏の庇護を受けていた、単なる家人か郎党身分だったのかもしれない。その場合、甘利氏が、河内地方の有力国衆であった穴山氏のように武田惣領家の御親類衆として重視される存在だったとは、決して言えないのではないだろうか。

 甘利虎㤗はこのように戦国時代の武田信玄から見れば、板垣信方(こちらは一条次郎忠頼の次弟であった板垣三郎兼信の子孫とされる。板垣兼信も頼朝に疎まれ、隠岐に配流された)と同様に、父信虎以来の武功の重臣であったことは間違いないが、『甲陽軍鑑』の記述を信用すれば、御親類衆ではなく御譜代家老衆に属していた。つまり、甘利氏は信玄から見て余りにも遠い一族なので、親族ではなく家臣と見なされていたに過ぎない。

 つまり、甘利明氏が公式プロフィールで述べているような「先祖は武田信玄の末裔です(本当)。信玄の親戚であり」云々といった内容は、甘利明さんの全くの事実誤認に過ぎないのである。こうした点に、政治家としての甘利先輩の脇の甘さが筆者には窺えてならないのである。

 また、天文171548)年214日に村上義清との上田原合戦で板垣信方と共に討死した甘利虎泰には、一説では藤蔵昌忠(後に信忠)、源左衛門尉信康、そして三郎次郎信恒の3人の息子がいたともされる。だが、虎泰の跡を継いだ昌忠は永禄71564)年頃に不慮の事故で死去したと言われているし、信康も天正31575)年の長篠合戦敗戦の際に討死したとされる。そして、その他の一族も、武田家滅亡後に一切の消息が途絶えてしまったというのが通説なのである。

つまり、甘利明先輩が甘利虎泰の子孫であると本気で自称されているとすれば、筆者にはどうも、各地に残る平家落人伝説を信じて自分は壇ノ浦から逃れてきた平家公達の子孫であるに違いないと無邪気に信じている、田舎の旧家のご主人のような印象を受けてしまうのは失礼で言い過ぎだろうか。

2016年1月26日火曜日

外国人にわかりやすい地図表現検討会報告書に関する感想

 平成279月、国土地理院が26年度に設置した「外国人にわかりやすい地図表現検討会」がまとめた報告書である、『地名の英語表記方法及び外国人にわかりやすい地図記号について』が発表された。

 この報告書は、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を控えて我が国が観光立国を実現し、訪日外国人旅行者の円滑な移動や快適な滞在のための環境整備を目的としている。そして、多言語に対応した外国人にわかりやすい地図を普及させる目的で委員会において検討され、標準ガイドラインを策定することを意図した報告書のようである。

 筆者もしばしば外国に行くのであるが、その際に地図や標識に英語表記が併記されていない場合、非常に行動の円滑に支障を来す。したがって、日本における地図記号や標識のわかりやすさに関する外国人の意見については大いに興味があったので、この報告書を一読してみた。すると、なかなか示唆に富む意見が含まれていたので、その感想を述べてみたい。

 まず、標準的な英語表記として、山岳はMt.~、河川は~River、湖沼はLake~、岬はCape~、海岸(浜)は~Beach、島は~Islandであることは誰でもわかるだろう。日本人にわかりにくいのは、峠が~Passと表記すること位だろうか。例えば、鳥居峠はTorii Passといった具合である。

 また、山脈は~Mountain Range、山地は~Mountains、高原は~Highland、丘陵は~Hills、台地は~Plateau、盆地は~Basin、平野は~Plain、半島は~Peninsula、湾は~Bay、海峡は~Straitであるが、これも皆知っている英語表記の仕方だろう。あまり知られていないのは、湿地が~Marshで、例えば尾瀬ヶ原がOzegahara Marshと表記されることだろうか。

 ここまでは比較的簡単な原則であるのだが、日本語は同じ地理的概念においても表記法が極めて多様に存在していることから、英語表記に際して結構頭を抱える難しい問題が含まれている事だ。

 例えば、筑波山は、Mt. Tsukubasan(追加方式)と外国人にわかりやすく完全表記すべきか、それともMt. Tsukuba(置換方式)で簡略に表現すべきか、という問題がある。河川についても同様に例えば利根川をTonegawa Riverとするか、あるいはTone Riverとするかといった問題があると報告書に記載されている。

 報告書の後半は訪日外国人に対して行われたアンケート結果の紹介と分析なのであるが、外国人に好評であるのは総じて追加方式による完全表記である様だった。これは恐らく、~sanとか、~gawaといった日本語の意味を知らない外国人が多い結果と言えるだろう。

 追加方式が一応便利なのは、例えば大山をMt. Daisen、芦ノ湖をLake Asinoko、日川をHikawa Riverと表記でき、そうしたケースで置換方式では日本人でも直ちに地名が浮かばない事態を回避できることからも明白だろう。

 ただ、追加方式によると、当然のことながら英語表記に当たって文字数が増えてしまう大きな欠点がある。例えば九十九里浜を追加方式で表すとKujukurihama Beachとなるが、これは聊か長ったらしい。そこで、報告書では、固有名詞部分の読みが3音拍以上の場合は原則として置換方式で表現することを提唱している。そうすれば、上記はKujukuri Beachと簡潔に表現されることになる。

ただし、東西南北などの方位語がつく地名については、地形との結びつきが強いので追加方式とすることが提唱されている。例えば東山は、Mt. Higashiではどこの地名を指すのか判別しがたいから、Mt. Higashiyamaとするという事である。

 また、鴨川や富士山については、それぞれ、Kamo RiverMt. Fujiというように置換方式で表現すべきであると報告書は述べている。その理由は、こうした地名の固有名詞部分が、ある一定の広域の範囲を示しているためであるからのようだ。さらには、山、峠、岬といった地形を表す英語表現が先頭に付く地名については原則追加方式とするが、川、峠、海岸といった地形を表す英語表現が末尾に付く地名については原則置換方式で表現すべきとしているから、日本語の地名を英語で適切に表記するのは本当に難しいと思う。

 この報告書において、地形表記より筆者がもっと面白く感じたのは、後半部分に参考資料として付記された訪日外国人に対する日本における現行の地図記号等に関するアンケート結果の方である。

 例えば25千分の1地形図の地図記号である寺院を表す卍が、ナチスのマークを連想させるという回答が多いのはよく理解できるが、郵便局の○の中に〒のマークについては全体の24%の回答者しか良いと思っていないことや、モスクの記号とされた三日月が★を取り囲むようなマークについても68%の回答者が判り難いとしている。

 その一方で十字架マークの教会の地図記号については96%の回答者が判りやすいとしている。それとの対比で、赤十字を表す記号を建物の様な多角形で取り囲んだ病院の記号については、教会に見えるとか、墓地のように見えると言った回答が多かったのが、筆者にはとても印象的であった。

つまり欧米出身の訪日外国人にとっては、十字架は赤十字ではなく、あくまでも教会や墓地を連想させる記号であることが如実に示されていて面白い。そうかと思えば、イスラームを表す三日月記号については、イスラーム圏から訪日した外国人でもモスクの建物のイラストに変えた方が判りやすいとしている。この辺りも興味深い点だと言えるだろう。

 最後に日本人でも全く判別がつかない地図記号として、25千分の1地形図で交番を示す地図記号が挙げられるだろう。この記号は、どう見ても単なるバッテン・マークか、あるいはラージ・エックス(X)にしか見えないと思う。

その本来の趣旨は、報告書の記述によると、2本の警棒の交差によって警察官をイメージさせようとする意図があったらしい。だが、この記号を良いとしたのは回答者全体のわずか4%の少数に過ぎず、進入禁止か踏切の記号の様だという回答があるのが面白い。そういうわけで、この記号の判り難さについては、訪日外国人の回答者達と同様に日本人である筆者も大いに共感できたのである。