2016年3月4日金曜日

イラクの地政学的脆弱性に関する考察

 多くの人は、現在のISのイラクでの勢力拡大やイラク国内の民族・宗派対立と社会の分極化が、主としてマーリキーとアバーディと続いたシーア派政治家の党派主義と権力集中による政治運営の失敗に起因するものだと考えてしまうことになるかもしれない。

 だが、これは明らかに浅薄な見方であろう。なぜなら、ロバート・カプランがその著書『地政学の逆襲』の中で的確に指摘しているように、「人間になし遂げられることは、地理、歴史、文化の遺産によって制約される」(47頁)からであり、また、「地理は人間の選択が行われる背景を形づくっている」(137頁)ためである。すなわち、イラクの地政学的位置が、マーリキーとアバーディの能力の限界を超えた独特な統治の困難さを生み出しているからである。

 上記の様な、イラクの統治の困難さは地形図をよく観察することで理解することができる。つまり、主権国家イラクが現在位置しているのは、ペルシャ湾と地中海を結ぶ農耕地帯である古代オリエントのいわゆる「肥沃な三日月地帯」(Fertile Crescent)のうち、東方辺境地帯であるティグリス・ユーフラテス両河に挟まれた沖積平野メソポタミア(Mesopotamia)をその領土の中核となしている。

 ちなみにメソポタミアとは、ギリシャ語でまさに「複数の河の間」を意味している言葉である。その領土は現在のシリア・レバノン一帯である東地中海沿岸(レバント、Levant)地方と東西の交通路を介して全く地続きであり、ISの武装勢力が事実上簡単に双方を往復しているように、その交通を遮断するような自然の障壁は全く存在していない。

イラク国内を通じる東西の主要な移動ルートを遮断しているのは事実上ティグリス川とユーフラテス川だけであり、歴史的に見るとメソポタミアは後背地であるイラン高原の統一された帝国勢力と密接な関係を構築してきたのであって、その強い影響下に置かれてきた時代が長かったと言える。これが、現在イラクに対して隣国イランの影響力が強く及んでいる、本質的な地政学的要因なのである。

例えば、ローマ帝国五賢帝の2代目であったトラヤヌス帝は116年夏にユーフラテス川を越えて北部パルティア(Parthia, Arsacid dynasty)に侵攻し、イラン高原とアルメニア、アッシリア、そしてメソポタミア地方などにまたがる広大な領域を当時支配していたパルティアの首都クテシフォン(現在の首都バグダードの南東ティグリス川東岸にあった)を占領下に置いてアッシリア属州を設立し、ローマ帝国の最大版図を達成した。

だが、翌1178月にトラヤヌスが病死するとメソポタミアなど征服地での反乱が相次いで統治と軍団の維持が困難になったため、跡を継いだハドリアヌス帝はアルメニア、アッシリア、メソポタミアの3属州の放棄を宣言して、帝国の東方勢力圏の安定を図らざるを得なかった。その後、長期にわたってイラン高原と同様に強大な帝国勢力が割拠したアナトリア高原(現在のトルコ)およびその影響力下に置かれていたレバントとイラン高原の帝国勢力との境界は、事実上ユーフラテス川の線に置かれてきた。

つまり、イラクはユーフラテス川をほぼ境として、歴史的に東西が分断されてきたと言える。そして、シーア派の聖地であるナジャフとカルバラーを含むユーフラテス川西岸の一部からペルシャ湾の河口にあるバスラまでの南部一帯は、イランと同じシーア派の居住地かつその勢力圏であり、バグダードの中央政府の統治が容易に及ばない独特な自立性を持っている。

 この点で、北部山岳地帯に居住するクルド人が中央政府の統制が十分に及ばない自治区と自治政府を形成して、独自に治安部隊ペシュメルガを配置するとともに、トルコなどとの対外関係を構築していることと類似した地域政府設立の動きをシーア派は指向しており、イラクの分極化をますます高めているのである。

 こうしたイラクの地政学的な脆弱性と社会的分裂傾向を抑えるためには、首都バグダードの中央政府は極めて抑圧的な専制支配体制を構築して強権的に秩序を維持するしか方法が無かった。その最悪かつ極端な事例が、サッダーム・フセイン大統領時代のバアス党支配体制であったと言えるだろう。

 だが、そうした専制支配が2003年のアメリカの攻撃によっていったん崩れてしまうと、防護になる自然的境界が何もないシーア派とスンナ派の双方が居住するバグダードなど都市部を含む両河川沿いの人口密集地帯では集団間の紛争が頻発して、脆弱な中央政府のコントロールの効かない無政府状態が生じたために民兵組織を中心としたセクタリアン・クレンジングを含む残虐行為が多発する現在の状況を招いたのである。

 確かにイラクはよく言われるような第1次世界大戦後に英国が作った完全な人工国家などではなく、古代にその基盤を有する文明の1つの砦であるが、そこでアメリカの占領後に構築された多極共存型民主主義は、前章で指摘したとおり、腐敗と汚職にまみれた非効率的な統治によって国民に十分な治安維持による安心供与と行政サービスを提供することに現時点で成功していない。つまり、少なくとも当面の間、イラクは脆弱な失敗国家の地位を抜け出すことはできないものと思われる。

1 イラクと主要周辺国の地政学的データ (1

面積
km
人口(2014年十万人)
合計特殊出生率
2010-15年平均人)
人口密度(2013年)
1人当たり名目GDP 201410IMF
農林水産業
従事者割合
(経済活動人口中)
人口
出生率
2010
2012
イラク
435,052
348
4.1
80/ km
5,687米ドル
9.2%
4.9%
イラン
1,628,750
785
1.9
47/ km
5,165米ドル
26.6%
20.8%
サウジ
2,206,714
(含外国人)294
2.7
N/A
25,401米ドル
10.1%
4.5%
トルコ
783,562
758
2.1
97/ km
10,518米ドル
41.4%
31.2%
出所: 総務省統計局『世界の統計2015; IMF, World Economic Outlook Database, October, 2014から、筆者作成。

 表2 イラクと主要周辺国の地政学的データ (2

原油埋蔵量
100万トン)
天然ガス埋蔵量
10m3
1人当たり
原油消費量(kg
1人当たり
天然ガス消費量(100万ジュール)
1人当たり
電力消費量
kWh
イラク
15,686
3,170
752
7,315
1,932
イラン
20,624
29,610
1,137
79,041
3,116
サウジ
36,201
7,569
3,921
117,393
9,008
トルコ
43
6
284
23,425
3,152
出所: 総務省統計局『世界の統計2015』から、筆者作成(1人当たり消費量は2011年データ)。

 表3 イラクと主要周辺国の地政学的データ (3

道路延長(km
1 km当たり道路延長(km
鉄道輸送量
旅客2012
(百万人キロ)
鉄道輸送量
貨物2012
(百万tキロ)
航空輸送総量(百万tキロ)
航空旅客輸送量(百万人キロ)
イラク
41,716
2010年)
0.10
2010年)
100
249
N/A
N/A
イラン
229,057
2011年)
0.13
2011年)
17,172
22,604
1,628
16,637
サウジ
221,372
2005年)
0.10
2005年)
297
1,852
5,370
38,805
トルコ
370,276
2011年)
0.47
2011年)
4,598
10,691
9,480
79,458
 出所: 総務省統計局『世界の統計2015』から、筆者作成(航空データは2011年)。

 表4 イラクと中東主要国の秩序・安定度関連データ (1

人間開発指数(HDI
ジェンダー不平等指数(GII
世界平和指数(GPI
男女別識字率
2012%
2014
順位
188国中
2014
順位
155国中
2014
順位
162国中
イラク
0.654
121
0.539
123
3.377
159
85.8
72.2
イラン
0.766
69
0.515
114
2.437
131
89.4
79.2
サウジ
0.837
39
0.284
56
2.003
80
96.5
91.4
トルコ
0.761
72
0.359
71
2.402
128
98.3
91.6
イエメン
0.498
160
0.744
155
2.629
147
82.6
50.2
シリア
0.594
134
0.533
119
3.650
162
90.8
79.2
エジプト
0.690
108
0.573
131
2.571
143
81.7
65.8
 出所: HDI and GII, UNDP, http://hdr.undp.org/en/reports/global/hdr2015; GPI, Vision of Humanity, http://www.visionofhumanity.org/#/page/indexes/global-peace-index; 男女別識字率、総務省統計局『世界の統計2015』から、筆者作成(サウジアラビアのデータは2013年)。

 表5 イラクと中東主要国の秩序・安定度関連データ (2

E-Government
開発指数(EGDI
腐敗認識度指数(CRI Score
軍事費(SIPRI
(総額百万米ドル)
軍事費支出
比率%
2014
順位
193国中
2014
順位
175国中
2014
2014
総額

1人当り米ドル
GDP
歳出
イラク
0.3141
134
16
170
9516
273
4.2%
9.1%
イラン
0.4508
105
27
136
N/A
N/A
N/A
N/A
サウジ
0.6900
36
49
55
80762
2747
10.4%
25.9%
トルコ
0.5443
71
45
64
22618
298
2.2%
5.8%
イエメン
0.2720
150
19
161
1715
68.6
4.1%
12.9%
シリア
0.3134
135
20
159
N/A
N/A
N/A
N/A
エジプト
0.5129
80
37
94
4961
59.5
1.6%
5.1%
出所: EGDI, UN E-Government Survey 2014,
CRI, Transparency International, http://www.transparency.org/cpi2015; 軍事費データはSIPRI Military Expenditure Database,

 上記の諸データから、イラクの地政学的な脆弱性を読み取ってみよう。まず、表1に掲げた合計特殊出生率のデータから、イラクが他の隣接する3つの大国より若年人口(ユースバルジ)の圧力に直面している事実が見て取れるだろう。

 実はイラクは、10から24歳までの若年層人口の占める割合が全人口の32%にまで達しており、これは中東ではイエメンの36%に次ぐ高い数値なのである。逆にこのデータからは、イランとトルコが成熟した人口構造に進んでいることが考察できる。

 サウジアラビアはこの両国よりも2.7人と合計特殊出生率が高いが、実はサウジアラビアの総人口29百万人の3分の1程がインド、パキスタン、東南アジア諸国などから入国した出稼ぎ外国人であるため、これら外国人の出生率が高いことが全体の数値を押し上げていると思われる。

 実際、サウジアラビアの若年人口割合は24%で、この数値はトルコの25%とイランの24%のちょうど中間に位置している。アラブ諸国全体の若年人口割合が29%であるから、サウジアラビアも中位程度の比較的成熟した人口構造に至っていると見て間違いないだろう。

 次に表1で注目されるデータは、経済活動人口中に占める第1次産業従事者の割合である。イラクは4.9%でサウジアラビアの4.5%ほど低くはないが、この両国はイランやトルコに比較すると著しく農林水産業に従事する労働者の割合が低い。サウジアラビアの場合、前述した出稼ぎ労働者たちに過酷な肉体労働を委ねて、サウジ人たちは公務や快適なオフィスワークに従事している労働者の割合が高いことが容易に推測される。だが、イラクの場合、この数値の低さは若年労働者層の都市への人口集中を直接意味しているものを思われる。

 イラクの首都バグダードは、人口1千万人以上を市域に抱えるイスタンブール(約14百万人)やテヘラン(約12百万人)の様なメガシティではないが、それでも市域人口が7百万人を超えていると推定されている。その人口密度は1km2あたり1万人に近づいており、15千人/km2に近い東京23区内ほど過密ではないが、105km2と市域の狭いダマスカスやバグダードと同じくらいの730 km2のテヘランと並ぶ、中東の人口過密都市であると言えるだろう。

 こうした人口過密都市では、農村部から流入した若年層の失業率が高くてその生活環境は非常に貧しく、イラクの様な失敗国家ではしばしば夏季の水不足や停電など、公共サービスの不十分な提供によって政府に対する抗議デモが頻発するため、過激主義が蔓延しやすい脆弱な環境に置かれている。

 ロバート・カプランが『地政学の逆襲』の中で指摘するように、無秩序に広がるバグダードの様な人口密集地帯は、実質的に郊外や周辺地帯の自立的単位に分裂しやすい。シーア派地区とスンナ派地区が分断されているバグダードは、まさにそうした状況にある。この都市化と周辺の分裂単位では、より厳格化しイデオロギー性を強めた宗教勢力が情報通信技術を利用することによって、政治に対する不平や不満の心理を煽り立てて孤独な群衆を既存の権力構造を破壊するような過激主義に駆り立てることが可能になっているのである。

 表2のデータを見ると、イラクはサウジアラビアやイランに匹敵する豊富な原油埋蔵量を有している。それにもかかわらず、国民1人当たりの原油と天然ガス、そして電力の消費量は3つの隣国よりきわめて貧弱な状況に置かれている。これはイラク国内が現在ISとの戦いの真っただ中にあるという厳しい環境の下で、エネルギーの生産と国民への供給が滞っていることを意味するものに他ならない。

 また、表3のデータに注目すると、イラクはサウジアラビアと並んで1km当たりの道路延長が短い。この両国は砂漠が多いから道路整備がなかなか進まず、道路網が貧弱であるのかもしれない。だが、イラクと他の3つの隣国とを比べると、イランは鉄道輸送で、トルコとサウジアラビアは航空輸送で、それぞれ道路輸送を代替していることが明らかだ。これに対してイラクは、道路も鉄道輸送も航空輸送もすべて貧弱であり、政府が国民に公共サービスを適切に供給できていないことが見て取れるだろう。

 表4と表5の中東各国の秩序・安定度に関するデータを観察してみると、イラクはイラン、サウジアラビア、トルコといった隣国が中東では比較的安定した先進的地位にあって国民の民度も高いことが窺われるのに対して、5年にわたる内戦下に置かれているシリアと同等以下の悲惨な状態に置かれていることが明白である。特に腐敗認識度指数(Corruption Perceptions Index)について、イラクは中東だけでなく世界全体で見ても、最低レベルの状況下にあることが理解できるだろう。

2016年2月12日金曜日

宮崎謙介前衆議院議員の辞職会見に関する感想(その驚嘆すべき醜態の露呈について)

 党内根回しもない唐突な育休宣言でこのところ世間の注目を浴びていた自民党所属の宮崎謙介氏が、本日午前中に行われた記者会見で週刊『文春』今週号が報じた女性タレントとの京都市内自宅マンションでの先月末の不倫疑惑を事実であったと認め、政治家としての言行不一致の責任を取って本日議員を辞職する届け出を衆院議長に提出した。

 この宮崎氏なる男、学部は違えども筆者と同じ早稲田大学の卒業生であるそうだ。これほど恥ずかしいプライベートに関する記者会見を行った早大卒業生は、筆者の管見でも彼が初めてだろう。本当に恐れ入ったご人である。

 彼の会見を見ていて筆者が感じた点を、いくつか述べてみたい。まず、宮崎氏がいろいろと正直に不倫の事実を認めていたことは今回の会見を見ると確かであったが、その言動に真実味がほとんど窺われない点に筆者は大きな違和感を感じた。

彼は何だか事前に用意してきたメモを読んでいたが、早大を卒業している程度の記憶力があるなら、その程度のことは事前に暗記してしっかりと自分の言葉として咀嚼して述べるべきだろう。

例えば、あの号泣会見の醜態を曝した野々村氏でさえ、その発言内容は噴飯ものではあったが、筆者の記憶では、あの前代未聞の会見の際に野々村氏はメモを見ずに自分の言葉で語っていたと記憶している。それと比べても、今日の宮崎氏の言動については、彼の根本的な頭の悪さが筆者には感じられたのである。

 次に、新婚かつ出産間際の妻の目を盗んで女性タレントをナンパし、彼が不適切な関係に自ら誘っていたという点が筆者には到底信じられない暴挙である。しかも、妻と共に彼自身が自民党二階派に所属する衆院議員であった。その点、不貞行為を敢えて決行するに際して、彼の頭の中では、自分の公的立場や時期的な間の悪さといった問題に関して、一体どのように認識されていたのだろうか。これが筆者には全く理解不能であった。

この点について、彼本人が会見で述べていたように「欲に負けた」という事が事実であったならば、彼は自分の欲望を理性でコントロールできない動物と同様である。しかも、件の女性タレント以外にも同時期に同様な不適切な関係を、複数の女性と持っていたことを臭わせる言動が宮崎氏の言葉から見られた。これが事実とすれば、彼は深刻な依存症であろう。彼と家族は直ちに、何らかの病的問題がないかどうか、医者の判断を仰ぐべきだと思われる。

 第三に、現状の各政党の候補者公募制度が抱えている、深刻な機能不全の問題である。宮崎氏の様な地盤も鞄も看板もない落下傘候補を公募で選出するに当たって、その能力審査についてシステム上本質的に何らかの欠陥があったことが、今回の育休と不倫による宮崎前議員の辞職騒動で明らかに露呈されている。

 特に自民党に限らず、最近公募を通じて選出された12年生の若手議員一部の能力および人格における欠陥について、これほど低レベルの事態を招いたことが過去にあっただろうか。若手議員の低レベルが同程度に明らかになった事態は、多分先に述べた野々村氏の政務活動費の不適切処理(詐取疑惑)問題位しか、筆者には直ぐには記憶が浮かばない。

あるいはSNSを通じた情報伝達の速度と拡散が進化した昨今の政治状況においては、過去にはほとんど有権者の目に触れなかったために問題になり様の無かった政治家の欠陥が、次々と人目に曝される時代が到来したと言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、早稲田大学の先輩の1人として、宮崎氏の様なチャラ男を何とか同窓生の中から撲滅してもらいたいと切に願う。

  筆者は来週より論文作成のため、2月中の期間一時投稿を中断します。

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(2)

 先の投稿で述べたとおり、筆者の見解では寿永325日に起きた三草山合戦での敗北が、27日の福原(一の谷)合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。それは、この敗戦の結果、平家惣領家に次ぐ戦力を持っていたと思われる小松家の主力部隊が、事実上以後の対源氏戦線から離脱してしまったからである。

 その本質的な原因は、惣領清盛に先立って亡くなっていた内大臣重盛の子息たちに率いられていた小松家が、清盛正室二位尼時子の長子で正嫡であった内大臣宗盛の率いていた惣領家と平家都落ち前後の頃から微妙な対立関係にあったためであろう。

 もし重盛が内乱期まで生存していれば、小松家は惣領家に従属しない独立勢力として源氏に対抗していたかも知れない。この小松家と同様の立場は、清盛と忠盛死後の家督の座を争った池大納言頼盛のケースと似通っており、池家の勢力の場合は結局平家一門の都落ちには加わらず、平治の乱後に頼盛生母の池禅尼(忠盛正室)が頼朝の助命とその伊豆蛭が小島配流に助力した恩義に頼って、その後も京に残っていた。

つまり、当時平家の戦力は、源氏方の攻勢に対抗するに当たって必ずしも統合されていなかったのである。特に小松家では、左中将清経が寿永2310日に豊前柳ヶ浦で入水自殺していたし、既に一門の行動から離れていた重盛庶長子であった三位中将維盛も福原合戦後の328日に那智沖で入水自殺したほど、自家の前途を悲観していたわけだった。

 維盛乳父で平家の坂東支配と小松家戦力の中核であった上総介伊藤忠清も、平家有力家人であった平田入道家継(忠盛・清盛の「一ノ郎党」と称された筑後守平家貞の子)や出羽守平信兼(治承48月頼朝挙兵の際に伊豆山木館で討たれた判官兼高の父)とともに、この頃平家根拠地であった伊勢・伊賀両国で独自行動を取っていた。

その後、彼ら平家残党の勢力は一族を糾合して元暦元(1184)年夏、大規模な「三日平氏の乱」を起こして源氏方の伊賀国惣追捕使であった大内惟義の軍勢に大打撃を加えた。また、家貞の九州支配の地位を受け継いでいた肥後守貞能(家継弟)の勢力も九州に残っていたため、27日の福原(一の谷)合戦には参加していなかった。

 つまり、合計すれば惣領家に匹敵するような恐らく数千人の兵力を持っていたと考えられる小松家の戦力は、寿永32月の時点で全く糾合されておらず、重盛嫡男の新三位中将資盛が率いた残存戦力さえも三草山の合戦で崩壊してしまったため、その後壇ノ浦で平家一門が滅亡するに至るまでほとんど有効な戦力として機能しなかったと言えるだろう。

 そうした小松家勢力の脱落の結果、福原周辺の広大なエリアを要塞化していた平家方は、27日の合戦当日は相当な戦力不足の状態に陥っていたのではないか。特に丹波口からの源氏方の侵攻ルートが未だ明らかでない以上、福原と大輪田泊を防御するためには大手口であった生田の森方面(東の木戸口)だけではなく、鵯越の山手口と西方塩屋方面からの侵攻ルートであった須磨・一の谷口(西の木戸口)に防御戦力を相当割かねばならなかったはずであろう。

 そこで27日時点の平家側防御態勢について考察してみると、山手口の方が一の谷口より危険視されていたと思われる。なぜなら、鵯越方面から山手口の防衛線を源氏勢に突破されると、東西に分かれて守備態勢を取っている平家勢が福原周辺を挟んで分断されてしまうことになり、それは直ちに敗戦に繋がってしまうからである。

 そこで、既に山手口の守備に付いていた惣領家侍大将の越中前司平盛俊の軍勢に、清盛弟中納言教盛の息子であった中宮亮通盛と能登守教経の率いる門脇家の軍勢が援軍として増派された模様である。だが、その戦力は多分数百騎程度だったに違いないと思う。したがって、山手口で合戦当日に守備に付いていた平家方の戦力は、盛俊の軍勢を合わせても1千騎程度に過ぎなかったのではないかと筆者は考える。

 なぜなら、実際の合戦経過では、『玉葉』28日の記述によれば、前日7日辰刻(8時頃)から巳刻(10時頃)までの2時間程度の比較的短時間の戦いで源氏方の勝利に決着したとされるから、山手口が簡単に突破されたために福原の東西に布陣していた平家勢が一気に総崩れになったと考えられるからである。

 もしこの『玉葉』の記述が事実とすれば、山手口の平家方守備隊は源氏勢とほぼ同等程度の兵力に過ぎなかったと思われる。ほぼ同規模の軍勢ならば、鵯越の坂道を駆け下りてくる源氏勢が有利であったと考えられるからだ。そして、この方面の源氏方の主力部隊は『玉葉』によれば多田行綱の戦力であったと述べられている。

 これは先の投稿で述べたとおり、丹波口から侵攻した源氏方搦手部隊の戦力構成が、比較的少数の義経勢と、土地勘があって最有力の摂津源氏勢、そして甲斐源氏の安田義定勢の混成部隊であったと考えれば、山手口の攻撃主力部隊が摂津源氏勢であっただろうから頷ける妥当な所と言えるだろう。だが、『吾妻鏡』によると甲斐源氏安田勢に門脇家の教経が討ち取られたと交名が掲載されているから、あるいは安田義定も山手口を攻撃したのかもしれない。この辺りは全く不明である。

 ただ、7日の合戦当日、平家方西の木戸口の守備に付いた大将が忠盛六男であった薩摩守忠度の軍勢であったから、東の大手口の守備に付いていた惣領家の軍勢から戦力が補強されていたとしてもその兵力は少なく、多分数百騎程度に過ぎなかったのだろう。

 そのため、筆者の見立てでは、この西方の須磨・一の谷口の攻撃に向かった源氏方の大将は九郎義経の率いた数百騎程度の小勢だったにもかかわらず、山手口を先に破られて挟撃された結果、敢え無く平家方が敗退して忠度も戦死したのではなかっただろうか。

 そして、義経が鵯越の逆落としで平家方を一気に打ち破ったとする『平家物語』の記述のような劇的戦術は、恐らく合戦当日は取られなかったのではないか。つまり、この福原・一の谷合戦での平家方の主たる敗戦理由は、筆者の見立てでは、簡単に山手口の防衛ラインを突破されてしまったことにあるのだろう。

 さらに突き詰めて考察すれば、福原に直結するこの山手口を27日の合戦当日に短時間で平家方が源氏方に突破されてしまったのは、三草山の合戦に敗れて散り散りとなった小松家の主力部隊が参戦していなかったため、平家方が福原周辺の広大なエリアを守備し切るには深刻な兵力不足の状態に陥っていたことに有るのではないだろうか。

2016年2月10日水曜日

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(1)

 源平両軍が東国と西国を往来して大規模な内戦を展開した治承・寿永の乱については、誇張と虚飾の多い『平家物語』などの軍記物や後世編纂された『吾妻鏡』の他には、信頼できる資料としては時の右大臣であった九条兼実の日記『玉葉』などの断片的情報から、その具体的展開と個々の合戦経過について頭を働かせて推測するしか方法が無い。

 したがって、寿永327日に起きた源義経の鵯越の逆落としによる劇的勝利で有名な一の谷合戦(正確には福原合戦と言うべきか)についても、その実像はほとんど明白ではない。だが、当時の京周辺の政治経済状況と動員された源平両軍の戦力構成については、筆者にもある程度推測することが可能であろう。そこで本投稿では、この点について考察してみたい。

 まず当時の京周辺(洛中洛外)の経済状況であるが、養和元(1181)年に起きた未曾有の大飢饉によって軍勢を動かすための兵糧がまだ不足していたと思われる。鴨長明の随筆『方丈記』によると、養和の飢饉当時、地方の農業生産に住民の消費生活を全く依存していた京には公領・荘園から年貢がほとんど流入しなくなり、そのため市中の死者は4万人以上であったと記されている。

 頼朝と対立していた源義仲は、寿永25月の砺波山の合戦で平家の追討軍を打ち破って同年7月、安徳天皇と三種の神器を擁した平家一門を都落ちに追いやって京を制圧していたが、その後閏101日の備中水島の戦いで平家軍に大敗して後退した。

義仲の軍勢は飢饉の影響による兵糧不足から強奪に走ったため、後白河法皇の率いた公家勢力に見放されて頼朝の上洛が促される結果を招いた。頼朝は東国で横領された荘園返還を条件に、自らの東海・東山両道諸国に対する事実上の支配権を朝廷に認めさせることに成功した(寿永210月宣旨)。これで頼朝は本位に復帰し、謀反人の地位から赦免されたのである。

この頼朝優遇措置に怒った義仲は、1119日法住寺合戦のクーデターの挙に出て法皇を幽閉したが、頼朝が鎌倉から派遣した九郎義経の率いる追討軍先発隊は、114日に既に美濃不破の関に到達していた。結局義仲は宇治瀬田の合戦で鎌倉勢に敗れて、寿永3121日、逃れた近江国粟津で討ち取られた。

 入京した鎌倉勢に対して、法皇は126日、既に瀬戸内海を制圧して九州・四国・中国地方で勢力を回復して福原まで進出し、2月(『玉葉』によると13日)には京に入洛しようとしていた平家の追討と、三種の神器の奪還を命じる頼朝宛宣旨を出している。平家没官領約500か所がその恩賞であった。ここまでが、一の谷・福原合戦直前の源平両軍の状況である。

 さてそこで、まず官軍となった源氏方の構成であるが、先発した義経が率いた軍勢は、恐らく摂津源氏多田行綱の軍勢と京に進出していたがその後義仲から離反した甲斐源氏安田義定の軍勢など、既に畿内近国で編成されていた軍勢が主体であったのではないだろうか。恐らくその兵力は、せいぜい1千騎といった程度に過ぎなかっただろう。

というのも、鎌倉から派遣された東国勢はその交名を見ると相模と武蔵両国の軍勢だけの様子で、房総や北関東の大名たちの率いた兵力は坂東に残置されたようである。したがって、頼朝代官範頼が率いた派遣軍の総兵力は、『玉葉』の記述によれば12千騎程度であった。

したがって、源氏方の平家追討軍の総兵力は多く見積もっても約3千騎ほどで、これは飢饉の影響が残る西国での軍事行動を維持するために後方支援が可能な最大規模の兵力と言えるのではないか。

 この3千騎の兵力を、範頼率いる大手軍が山陽道(播磨路)から、義経と義定(行綱も)率いる搦手軍が丹波路から、それぞれ進撃したのではないか。そう考えると、大手軍は約2千騎、搦手軍は約1千騎と言ったところが妥当な動員兵力だっただろう。

 その証拠として、法皇から福原への出撃を命じられた搦手軍は出陣に乗り気でなく、22日の段階(合戦5日前)に至っても、京西郊大江山(老いの坂)に滞留していたと言われている。あるいは、法皇の謀略で平家に油断させるため、和睦を命じる使者が合戦前日の26日に平宗盛の下に送られるのを義経らは待っていたのかもしれない。

 他方で範頼率いる大手軍は、27日を合戦開始(矢合せ)の日と定めて、4日に京を進発していたとされる。こちらは福原東方の生田の森方面から、平家主力部隊に正面攻撃を仕掛ける手はずであったはずだ。

 次に平家方の構成であるが、当時一族の惣領であった内大臣宗盛は、妹の建礼門院や安徳天皇を護持して大輪田泊に停泊していた御座船か軍船に居て、実際の合戦には参加していなかったらしい。したがって、清盛直轄の惣領家の主力部隊恐らく数千騎は、宗盛弟の新中納言知盛と本三位中将重衡が率いて生田の森の大手口に布陣し、堀や柵、逆茂木を設置して防御態勢を敷いていたようである。

 次に平家の防御態勢で重要だったのは、福原背後の山手、すなわち鵯越口であっただろう。こちらは三木方面に通じる重要な間道が通じていたし、丹波路方面の搦手から源氏の軍勢が来襲する場合、当然この方面から進出してくるはずだからだ。

したがって、平家方の作戦としては、播磨と丹波の境目にある三草山に内大臣故重盛子息の資盛らの率いる惣領家に次ぐ有力な戦力であった小松家の軍勢を布陣させ、前方で積極的に防御あるいは丹波路への逆進出を図ったのだろう。

だが、25日に、この小松家軍勢が義経らの軍勢に急襲(夜討ち)されて敢え無く敗退してしまった。三草山合戦での平家方の兵力は、源氏方の兵力とほぼ同等規模であったのではないだろうか。

 筆者の見解では、この三草山合戦での敗北が27日の合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。これ以降の分析については、長くなるので次回の投稿で改めて述べてみたいと思う。

日銀のマイナス金利政策導入が裏目に出て、円高・株安を招いた事態に関する感想

 昨日9日の東京債券市場では、長期金利の指標である新発10年物国債の利回りが日本史上初のマイナスとなったことが報じられた。また昨日来の東京株式市場では株価が急落し、日経平均株価が15千円を割った。さらには円高ドル安も進んで、東京外為市場では円ドル・レートが115円を割って、一時114円台前半まで急騰したと報じられている。

 普通に考えれば、日銀当座預金にマイナス金利が導入されれば、株価下落はともかく、円安方向に円ドル・レートがぶれることは想定の範囲内であったはずだ。筆者は経済アナリストではないが、頭を整理するために、今日は敢えてこの金融市場の混乱について考察してみたい。

 まず、日銀が129日の金融政策決定会合で、これまた我が国初の日銀当座預金残高の一部にマイナス金利(平たく言えば、銀行からの手数料徴収)を付する決定を行った背景には、よく言われるように中国経済の景気減速懸念や原油安を背景にした年明け以来の円高・株安傾向に歯止めをかける目的があったのだろう。

 つまり、黒田バズーカ第3弾の大規模な追加緩和策を出して以後の手玉が尽きることを黒田日銀総裁が恐れた結果、ECB(欧州中央銀行)の政策に倣って、異次元金融緩和の発動以来ブタ積みされる一方の日銀当座預金残高を銀行に吐き出させて、企業と個人に対する貸し出しに資金を回させることによって設備投資と消費を喚起するとともに、長期金利を下げて円安傾向を強化し株価を高めに誘導しようとしたのであろう。だが、最近の株式・債券および外為市場の動きを見ると、明らかにこの日銀の意図は裏目に出ているようだ。

 日銀が想定外であったのは、アメリカの景気見通しの悪化と原油安に起因する新興国および資源国経済の先行き不安が強すぎた結果、ドイツの銀行やアメリカのエネルギー企業への信用不安が高まり、28日の欧米株式市場で株価が下落するという事態が起きたことだろう。

 こうなると、日銀が当初想定していた日本国内市場だけの問題ではなくなり、グローバル化した世界中の投資家は、株価下落リスクの高い株式市場から一斉に資金を引き揚げて、比較的リスクの低い円や日本国債を購入する方向に大きく資金を移転させたのであろう。

 その結果、日銀がマイナス金利を導入したにもかかわらず、想定外の円高が引き起こされたのであろう。円高が加速すれば自動車などの輸出産業の収益が当然悪化するし、原油安の結果エネルギー産業の収益も悪化するから、そうした企業の株価が下落するリスクが高まる。

 また、銀行に目を向ければ、マイナス金利の導入で長期金利が下がれば貸出金利も下がって利ざやを稼げなくなり、収益が悪化する。現状のように景気の先行きが不透明なままでは、簡単に企業の設備投資は増えず、必ずしも銀行の貸出金利が下がったからといって貸し出しが増えるとは限らないだろう。その結果、日銀の目論見とは逆に、銀行の収益が悪化して銀行株もさらに下落していく恐れがある。

その上マイナス金利導入で日銀から当座預金残高の管理手数料を取られることになれば、銀行は安全な長期国債購入になお一層走ることになる。長期金利がマイナスに低下して国債価格が急騰しても、それを買っておけば満期までにいずれ日銀が高値で買い戻してくれるから、銀行としては安い貸出金利でわずかな利ざやを稼ぐよりはこちらの資金運用の方が合理的な選択肢と言えるだろう。

 他方、同じ金融機関でも保険会社の方は、保険料で集めた資産を専ら国債で運用して利益を出しているから、マイナス金利は直接ダメージとなりかねない。その結果、顧客に約束した利回りを維持できなくなって、結局保険料を引き上げる方向を選択するかもしれないだろう。

 つまり、今回の日銀のマイナス金利導入政策は、世界経済全体の動向とグローバル化した投資家の思惑による資金の急激かつ不安定な移動の前に、為すすべもなく打ち負かされてしまったと言ったところが筆者の偽らざる感想なのである。

 それにしても、長期金利が下落したことによって個人的には住宅ローン金利が低下して持ち家を購入しやすくなるはずだから、これからは住宅投資に期待が出来ると言えるのだろうか。寡聞にして、そうした個人的に大いに興味がある点についての経済アナリストたちのアドバイスを余り聞かない気がする。

世界や日本の経済全体のマクロ分析ばかりでなく、個人的なミクロ分析についても、(先行きが不透明過ぎて専門家にも判断できないのかもしれないが)誰か専門家が的確な見通しを示してくれないものだろうか。

これ以上株価も下がって、なけなしの預金金利が下げられてしまったら、投資額の小さい我々個人投資家は、日銀さんが述べた難解な用語を使えば、老後に備えて一体全体どのように「ポートフォリオ」(資産運用の組み合わせ)を「リバランス」(割合調整)すればよいのだろうか。

 結局、今回の日銀のマイナス金利導入政策の思惑が外れてしまったことで利益を得たのが、国の借金である国債の利払い費が減少することによって最終的には政府だけであったというような、庶民の目からは決して笑えないオチがつかないように筆者は願いたいのである。

2016年2月5日金曜日

2016年5月16日、サイクス・ピコ協定100周年後のイラク・シリア周辺情勢に関する見通し

 上記のとおり、今年516日に、英仏露三国間でオスマン帝国崩壊後の勢力圏分割を規定した悪名高いサイクス・ピコ協定が締結されてから、ちょうど100周年を迎える。このサイクス・ピコ協定は、あのIS(イスラーム国)がその打破を大々的に掲げているように、欧米諸国が主導する中東近代国家体制と国境線の線引きの大枠を定めた秘密協定であった。

 ある意味では、この秘密協定などによって残された未処理の問題が再燃したため、2010年末のチュニジアにおけるジャスミン革命から始まったアラブの春の悪影響がシリア内戦とイラクでの宗派間抗争の混乱を引き起こした。その破綻国家化の間隙から生じた力の空白をついて、ISが両国にまたがる自称「カリフ国」の領域支配を確立したのである。

 上記の未処理で残された問題とは、1つはクルド人の民族自決であり、もう1つはセクトあるいは宗派間の適切な勢力均衡確立の問題である。そして、このことは、第1次世界大戦敗戦国であったオスマン帝国の領土に関する戦後処理問題が、欧米諸国対ISを含む非国家主体との対テロ非対称戦争という形に転換して再燃したものであるとも考えることが出来るだろう。

 地政学的視点に立てば、ISが台頭したレバント(シリア)とメソポタミア(イラク)の一部は、ユーラシア・アフリカ世界島のリムランド(縁辺部)三日月地帯の中の、さらに山岳・高原勢力(イランおよびトルコ)と砂漠勢力(アラビア半島およびナイル流域を除くエジプト)に囲まれたハートランドである「肥沃な三日月地帯」を形成している。

 したがって、マッキンダーの有名な言葉を模倣して述べれば、「肥沃な三日月地帯を支配する者はレバントとメソポタミアを支配し、レバントとメソポタミアを支配する者は中東を支配する」という命題を一応提示することが出来るだろう。これが第1の論点である。

実際、人口稠密だが各勢力が地域ごとに分断されていた山岳・高原勢力であるイランとトルコは、肥沃な三日月地帯を支配した統一勢力、例えばアレクサンドロス大王や古代ローマ帝国、預言者ムハンマド死後のイスラーム帝国、あるいはモンゴル帝国の侵略などによって、度々痛い目にあわされてきた屈辱の歴史を持っている。

 さて、アラブの春以後の中東情勢を一言で評すれば、この中東ハートランドの混乱に乗じてISが台頭するとともに、イランとサウジアラビアの両国が中東ハートランドの支配権をめぐって激しい鍔迫り合いを展開しているということになるだろう。このISの台頭と鍔迫り合いが、欧米主導で建国された中東近代国家であるイラクとシリアの国境線を融解させ、両国を破綻国家化させている根本原因なのである。

 だが、筆者の見るところ、シリアについてはその破綻国家再建と国境線の現状維持は極めて困難だ(つまり各々支配者が異なる3ないし4つの地域に今後分断されるだろう)が、少なくともイラクについてはクルド人の民族自決とセクト間の適切な勢力均衡の確立という2つの未処理の問題を解決する方向に欧米が導くことが出来れば、多分ISを駆逐して曲がりなりにも近代国家体制を維持することが可能なのではないか。

 なぜなら、メソポタミアつまりイラクには、レバントつまりシリアのように、外部から介入してくる海洋勢力(例えば十字軍)と、内部からその侵攻に抵抗する山岳・高原あるいは砂漠勢力(イスラーム教徒)との間の顕著な断層線(フォルト・ライン)が存在していないと思われるからである。ただし、イラク政府軍は、北部山岳地帯のクルド人武装勢力と共闘して、ISからモースルを軍事的に奪還しなければならないという困難はなお残されている。

 これに対して、レバントつまりシリアでは、西部に南北に連なるアンティ・レバノン山脈とアンサリヤ山脈を顕著な境界として、上記のような断層線が存在していると思われる。ここでいうアンサリヤ山脈にある断層線の西側とは、現在までのところ地中海沿岸のアサド政権支配地域を意味している。そして、その地域は外部海洋勢力の1つであるロシアの軍事介入によって、事実上アサド政権の支配権が支えられている。

こうした断層線があると、亡くなったハンチントンがかつて賛否両論頻出で話題となった『文明の衝突』で述べたように、フォルト・ライン紛争が多発することによってセクトの分断が進んでいく。シリアにおけるISやヌスラ戦線の台頭は、こうしたフォルト・ライン紛争を扇動することによって可能となったように筆者には思える。

また、アルカーイダ系のヌスラ戦線と異なってISの場合特に厄介なことに、彼らは戦術としてサラフィー・ジハード主義を宣伝することがSNSを介して効果的にできる体制を作り上げていることから、欧米諸国を含む世界中にまで断層線を容易に拡散できるという点である。いわゆるソフトターゲットを狙ったISシンパによるホームグロウン・テロの脅威は、こうしたメカニズムを通じて高まっているわけだ。

 第2の論点は、ポスト冷戦期のパワーシフト問題である。その1つは、昨年起きたユーロ危機と難民・移民流入問題から見えた欧州型統合深化の停滞、つまりEU解体傾向の高まりである。この2つの危機を観察して得られた回答は、とどのつまり相互に経済力が大きく異なるEU諸国が経済政策を未統一のまま統一通貨ユーロを使用することは、結局ドイツが一方的に利益を他国から吸い上げることに他ならないことである。例えば昨春起きたギリシャ債務危機は、その典型例であろう。

 また、昨夏以来ギリシャやイタリアを通じてEUに流入した100万人以上の難民・移民を現行のシェンゲン協定のシステムでは有効に対処できないことから、国境管理がEUを支えるドイツでも再開された。さらにマリーヌ・ル・ペンの率いる国民戦線がフランスで有権者の支持を拡大しているように、現行の移民政策とシェンゲン協定に反対する右派勢力の台頭が各国で目立つようになっている。今後もし仮に、キャメロン首相が率いる保守党政権の英国がEUを脱退したら、EUは本当に解体の方向に向かうことになるかもしれない。

 次にもう1つのパワーシフトは、ロシアの軍事介入問題である。注目すべきはロシアによる2014年のクリミア併合とウクライナへの軍事介入、そして昨年9月以来の対シリア軍事介入が、どれも旧ソ連圏へのNATOの東方拡大を認めないという、プーチン大統領の強固な意思表示のように見えることだ。

 筆者が思うに、こうしたプーチンの攻撃的政策は、一貫して黒海艦隊の地中海進出拠点の権益を確保するための典型的な南下政策のように見える。例えば、G8から弾き出されて欧米の経済制裁を受ける羽目を招いたクリミア併合は、ウクライナのNATO加盟の動きの機先を制して黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリ軍港を確保する目的があったことは確かであろう。なぜなら、もしセヴァストポリ軍港を失えば、ロシア黒海艦隊は黒海の制海権をトルコに奪われてしまうことになってしまうからである。

 昨年9月にロシアがシリアに軍事介入したことも、反体制派の攻勢で劣勢に陥りつつあったアサド政権を軍事支援して、シリアのタルトゥース港にある黒海艦隊補給基地の権益を確保する目的があったことは疑いないだろう。

 もちろん、ISなどイスラーム過激派を掃討することによって、ロシア領内へのイスラーム過激主義の浸透を先制的に防ぐ意図がプーチン大統領にあったことも否定できないとは思うのだが。

 原油価格が低迷する中で制裁が解除されたイランが年内に日量100万バレルの原油増産を実施し、シェール革命の結果アメリカも原油を輸出することになることから、経済制裁にあえぐロシアとシェールとイランへの対抗上OPECでイランとの協調減産に踏み切れないサウジアラビアの両国は、2016年を通じて厳しい財政状況に陥るかもしれない。

だが、だからと言ってこの両国が、アメリカやイランに対抗する積極政策を直ちに止めるとも筆者には思えない。昨年イランとの核問題最終合意を締結してサウジアラビアからイランに提携関係をややシフトさせつつあるアメリカに対抗して、サウジアラビアもロシアを巻き込んで経済的な持久戦を当面の間は続けていくことになるだろう。

2016年2月3日水曜日

甘利明前経済再生担当大臣の辞任に関する、高校後輩としての感想

 『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書と政策秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事の結果、先週木曜日(128日)に甘利氏が大臣職を辞任した。

先週127日の投稿で、筆者はこの公設秘書らのあっせん利得授受の疑いだけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に問題の焦点が絞られるだろう、と述べた。

ところが甘利氏はこの点について、平成252013)年1114日に大臣室で、平成2621日に大和事務所で、それぞれ50万円を、口利き問題の相手方である建設業者S社の関係者(大臣室では社長から、大和事務所では総務担当者)から受領したことを、比較的あっさりと認めてしまったのである。

 甘利さんの言い分は、概ね以下の様な趣旨だった。すなわち、自分が受領した合計100万円の現金は、それに気付いてから秘書に対して政治資金規正法上「適切に処理」しておくよう指示していた。それゆえ自分は何ら違法行為に加担していない。

だが、自分の現金授受の問題とは別に、公設秘書が平成2588日にS社総務担当者から受け取った500万円の現金のうち、300万円を私的に費消してしまった不始末の監督責任をとって辞任する。それは、秘書に責任をなすりつけないという政治家としての自分の美学を貫くことであり、また盟友である安倍首相の政権運営に迷惑をかけないためにも、自ら辞任の道を選択したという事であるらしい。

 何だか一見とても潔い身の処し方に聞こえるが、一体全体、甘利氏自身に口利きの認識があったのかどうかについては極めて曖昧な説明だ。特に、時系列的に考えて、秘書が88日に500万もの大金を相手側から受領したにもかかわらず、その本質的な「あっせん」の意味について、甘利さんが11月に大臣室で50万円をS社の社長から受け取った際に何も具体的な報告を秘書から受けておらず、大臣就任祝いか何かだと思ったなどと、とぼけた回答をしていたのは明かなごまかしの臭いがする。

 甘利さんはその翌年2月の大和事務所でのS社総務担当者からの説明資料授受と50万円受領についても、舌癌からの快気祝いの意味だと思ったと述べていたが、筆者にはこれも眉唾な説明に思える。そもそも自分が直接S社から受領した合計100万円については、これを政治資金収支報告書に適切に記載しておくよう秘書に指示したのだから、自分に何らやましい所が無いというのでは、直接自分の手で受け取った政治資金(いわゆる企業・団体献金)であっても形式的に政党支部への献金としておけば後は知らないと言っているのに等しく、これでは迂回献金そのものを是認することと異ならないことになってしまうだろう。

 それに、本来政治献金であったはずの300万円を公設秘書が勝手に私的流用したのがもし事実であれば、甘利事務所としては事実上解雇した公設秘書を業務上横領罪の疑いで刑事告発するのが本来の対処法だろう。もし彼を告発しないのであれば、甘利事務所が他の献金者から受領した政治資金あるいは政党助成金(つまり国民が支払った税金の一部)から、その損失を穴埋めすることに他ならず、それはそれで大問題となりかねないだろう。

 やはり、筆者には今回の甘利事務所の現金授受問題の本質は、政治資金規正法上の収支報告書の虚偽記載の問題というよりも、政治家に対する口利きの見返りに企業献金が迂回献金としてなされたという、現行あっせん利得処罰法のザル法化の点にあるのではないかと思われる。

その点で、この際せっかくの機会であるから、現在野党が主張しているような企業・団体献金を全面的に禁止する法案を真剣に議論すべき時ではないか。大体、よく言われているように政党助成金を国庫から受領していながら、企業・団体献金を政党が受領している現状は本来二重取りと言われても仕方がないと筆者は考える。

その上、選挙区ごとに設立された議員が支部長である政党支部がそれを受け取ることは、今回大臣を辞任した甘利さんが主張するように、たとえ政治資金規正法上適切に会計処理されていたとしても、その実態が、不透明な政治腐敗に繋がりかねない企業・団体から政治家個人に対する迂回献金と見なされても、恐らく有効な反論ができないのではないだろうか。

 筆者は先週の投稿で述べたように、甘利明さんの出身高校の後輩である。甘利さんを好意的に評価すれば、政治家としてはやや人の良過ぎるボンボン育ちゆえの今回の失敗であったのだろう。TPP交渉およびアベノミクス推進でこれまで立役者として果たした彼の功績は誰も否定できるものではなく、その意味では筆者と同じ母校の出身者として甘利さんには是非とも再起を果たしてほしいと思う。

 筆者が甘利さんを見て思うのは、古代ギリシャの政治家と軍人としてペルシャ戦争中の紀元前4809月に起きたサラミスの海戦に際して、賄賂と謀略を駆使して劣勢かつ統制の取れない三段櫂船のギリシャ連合艦隊を対ペルシャ艦隊との決戦に結集させ、大勝利に導いたテミストクレスである。テミストクレスは陸戦ではペルシャの大軍にギリシャが勝てないことを見越して、マラトンの戦いで勝利したことでペルシャの軍事力を侮っていたアテナイの海軍力を市民の反対を押し切って整備した先見の明があった。

 現在まで首都アテネの外港としてギリシャ第1の港湾として機能し続けているピレウス(ペイライエウス)港を整備させ、アテナイ市内とピレウス港とを結ぶ長い城壁を建設したのも、テミストクレスの功績であった。

実はテミストクレスは、ヘロドトスの『歴史』やプルタルコスの『英雄伝』の記述によると、ギリシャ連合軍の総司令官であったスパルタの提督エウリュビアデスを説得して反対派(コリントス地峡への撤退論を主張していたコリントスの提督アデイマントスらペロポネソス半島勢)を押し切ってサラミス水道での決戦に引きずり込んだだけではなく、侵略者であったペルシャのクセルクセス王の下に寝返りを約束する偽りの使者を遣わして、決戦前日にペルシャ艦隊をサラミス水道封鎖へと引きずり込む謀略を駆使した程の策士であった。

 日本の武将で言えば、テミストクレスに大変よく似ていたのが、恐らく毛利元就だろう。毛利元就の先祖は京下りの下級官人で鎌倉幕府初代政所別当であった大江広元であるが、実は甘利明さんの生まれた厚木市は平安時代末期に立荘された毛利荘の地そのものであって、そこは大江広元の所領であったのである。

 つまり、戦国時代に中国地方の大大名であった毛利氏発祥の地は、実は厚木市だったのである。筆者が何を言いたいかというと、甘利明さんには甘利虎㤗の子孫だなどとケチな自慢話をするのではなく、テミストクレスや毛利元就の様な危機の際には謀略を駆使できるような清濁併せ持った大政治家にボンボン二世議員から変貌して貰いたいという事だ。

ただし、これほど祖国アテナイに対する功績の大きかったテミストクレスでも、その名誉欲に駆られた強引な政治手法が、ペルシャ戦争後アテナイ市民からの信用を完全に失って僭主に成るかも知れないと疎まれた結果、国家反逆罪で陶片追放の憂き目にあってかつての敵国ペルシャに亡命する羽目に陥ってしまった。そうした民主主義における世論の恐ろしさを、甘利明先輩にも決して忘れないで今後精進して欲しいと筆者は思うのである。