2016年4月26日火曜日

国家公務員フレックスタイム制導入に関する感想

 男女共同参画社会とワークライフバランス(仕事と家庭生活の調和)の実現を促進する目的で、安倍政権が人事院に対して検討を要請(平成261017日「国家公務員の女性活躍とワークライフバランス推進のための取組指針」)していた事務職を含む一般職国家公務員全員を対象とした所謂フレックスタイム制の本年度からの導入が、国家公務員勤務時間法が改正されることによって実現した。民間、特に中小企業での導入がなかなか進んでいない同制度について、まず国家公務員から率先垂範することが、今回の法改正の背後に意図されているのだろう。

 だが、厳密に言うと、一般職国家公務員には労働基準法が適用されていないため、同法上規定されている労使協定によるフレックスタイム制ではない。あくまでも制度の適用を希望する公務員自身が申告した場合で、かつ、公務の運営に支障が無い範囲内において、始業および終業時刻について当該申告を考慮したうえで使用者側(官庁)の判断で勤務時間を「割り振る」制度であるに過ぎない。

 そうであるとは言いながら、筆者は同制度の導入に賛成である。それは、安倍政権の意図するようなワークライフバランスの推進に必要な労働時間の短縮に直結するからではない。筆者が肯定的に評価しているのは、勤務時間を個々の裁量で変更することにより、通勤ラッシュアワーに巻き込まれることに伴う疲労の蓄積と痴漢冤罪のリスクを軽減することが可能となる点についてである。

 実際問題として、筆者の様な研究職国家公務員には、すでにフレックスタイム制が導入されていた。だが、現実問題として同じ職場に勤務している事務方が従来型の勤務体系に置かれていた関係上、周囲の視線を気にして、これまでは一部の研究職員しか同制度を活用し切れていなかったのである。しかしながら、今回ほぼ全ての職員が制度適用対象となった以上、筆者も大手を振って制度の適用を申告できることになる。

 特に体質的に夜型である筆者のような人間にとっては、昨年78月に安倍政権が提唱して全省庁に原則適用された事実上の12時間早出勤務サマータイム制度「ゆう活」が苦痛でしかなかったこと、また「ゆう活」しても残業は一向に減らなかった現実を踏まえて考えれば、遅出勤務が出来るフレックスタイム制の方が遥かに健康的なのである。

 ところが、この筆者の個人的には好ましい制度についても賛否両論が対立している。特に国公労連が、鋭く制度の導入に反対していた。その見解の主だった内容は、つまり、フレックスタイム制は業務量の調整や労働時間管理が徹底されない限り、却って長時間・過密労働に繋がり、政府や制度を構築した人事院が提唱しているような「ワークライフバランスの充実による職員の意欲や士気の向上」や「効率的な時間配分による超過勤務時間の縮減」などは絵に描いた餅に過ぎず、到底実現することはできないという点にあるようだ。

 また、主として出先機関での窓口業務を想定しているのだろうが、フレックスタイム制の導入によって職場が混乱し、国民に対するサービス低下につながりかねないという、真っ当な反論も出されている様である。

 筆者が思うに、国家公務員の大多数を占めている出先機関の職員にとっては、そう易々と研究職のようにフレックスタイムを申告することは出来ないだろう。特に古いタイプの課長がいるような職場で、もしも若手がそんな「暴挙」に出たならば、たちまち村八分状態に陥ってしまうかもしれない。

それが、専門的で個々の裁量権が相当程度認められた研究職を除いた、一般的な事務方公務員村の恐らく偽らざる現実であろう。個人のワークライフバランスよりチームワークの和を決して乱さないことが、今も変わらぬ事務方の掟なのではないかと思われる。

国公労連の反論では、フレックスタイム制が導入されれば、勤務時間管理に膨大な労力が必要となり、現行の体制では複雑な労働時間管理が困難であるため、職員の健康管理がかえって蝕まれるという「こじつけ的」な議論も提示されている。これは多分、上司が部下の労働時間を個別に管理するのが「かったるい」というのが、裏に潜んだ彼らの本音なのだろう。

なぜなら労働基準法上の本来的意味でのフレックスタイム制では、1日単位や1週間単位で残業計算をする必要が全く無く、4週間の合計労働時間からその期間における所定労働時間、つまり、国家公務員の場合で言うと1週当たり38時間45分×4155時間を引き算するだけで、きわめて簡単に計算できてしまうというメリットがあるからである。

つまり、本当に面倒くさいのは、上司あるいは勤務時間管理者が職員の申告した勤務時間を考慮しつつ、エクセルシートに時間を「割り振る」作業なのである。これは本当に目がチカチカして、職員全員から申告されようものなら担当者は堪ったものではないと言えるだろう。

 そこで、以下ではもう少し冷静になって、フレックスタイム制のメリットとデメリットについて考察してみたいと思う。

 まず、これは時差出勤の場合も同様であるが、フレックスタイム制導入による仕事上のメリットとして、先に述べたとおり、何と言っても通勤時の疲労と痴漢冤罪リスクの軽減に大いに資することが挙げられるだろう。

 職員個人としては、さらに遅出の場合には朝の余裕ができること、通勤ラッシュ時の不快感が減ること、あるいは通勤時間が短縮できる場合も考えられることがある。理論的には、フレックスタイム制で勤務時間に関する個人の裁量権の範囲が広がることによって、ワークライフバランスは向上し得るはずだろう。

 一方、フレックスタイム制のデメリットとして、次のような業務上の課題が生じることも事実である。すなわち、他の部署や外部との調整を要すること、会議の時間が全職員が勤務を義務付けられているコアタイムに限定されてしまうこと、窓口の業務効率と対応能力が低下する恐れがあること、複雑な勤務時間管理に伴う雑務が増加する懸念があること、そして、一同が会した朝礼もできないし、職場村社会における「けじめ」がつきにくいこと、といったところだろうか。

 さらには残業時間が減らないのは、生産性が低く、だらだら残業することを「良し」としてきた我が国のブラックな職場環境が根本原因なのであるから、その原因自体を除去しない限り、フレックスタイム制を導入して勤務時間を操作することだけでは残業時間はあまり減らないかもしれない。

 特に日本の霞が関の官僚たちについては、主として国会対応の関係から、終電までの長時間労働が恒常化しているのが実態なのである。彼らの立場に立って見れば、今回のフレックスタイム制の全面的導入についても、昨年夏の「ゆう活」と同様に、勤務の実態に合致しないために政策効果の薄い、政府の単なる掛け声倒れに終わってしまわないかと心配してしまうのも尤もなことだろう。

2016年4月20日水曜日

震度7(マグニチュード7.3)の地震災害と熊本城の堅牢さに関する考察

 気象庁は4142126分頃から始まった熊本・大分両県にまたがる活断層を震源地とする一連の地震の本震(16125分頃)について、今日、地震規模がマグニチュード7.3で最大震度7であった(益城町、西原村で計測していた)ことを発表した。なお、この本震では名城熊本城の聳え立つ熊本市内の震度は6強であったとされている。

 この熊本城は、明治101877)年に起きた西南戦争の際に222日から415日まで、谷干城が率いる熊本鎮台兵35百人程の兵力が、当初1万人以上の兵力で包囲した西郷隆盛を担いだ薩摩軍の攻撃から籠城して守り切ったことで、近代戦に耐え抜いた近世初期の堅城としてその名がつとに知られている。筆者も平成になってから、2回ほど、一度は家族連れで訪問したことがある。確かに非常に堅固な要害であり、間違いなく九州一の名城であろう。

 さて、その熊本城が、今回の熊本地震による災害で、武者返しの急勾配で有名な石垣や国から重要文化財に指定されている櫓など多くの建造物が倒壊する大被害を蒙っている。当城を約400年前の文禄・慶長年間頃に築城した「清正公」こと、藤堂高虎と並ぶ築城名人とされていた加藤主計頭清正も、自分の築いた居城がこれほどの大地震に見舞われることは想定外であったかもしれない。

 清正の築城術は、内枡形を重複させた複雑な梯郭式曲輪配置の縄張りや、近江穴太衆の技術を使った打込接ぎ乱積みの武者返しの石垣構築が特に目立つ特徴だろう。また、重複する内枡形以外にも、他の城には見られないほど多くの五階櫓を要所に配置して多重防御体制を作っている点にも注目できると思う。これら清正が作った多くの建造物が、今回の一連の地震災害の結果、無惨に倒壊するに至ってしまった。これらを完全に修復するためには、少なくとも10年以上の期間を要し、その費用も一説には100億円以上かかると見積もられているらしい。

 熊本城は、北から続く舌状台地の先端部である茶臼山という丘陵地帯に構築された平山城である。人工的に掘られた水堀は城内中枢部の南西部を固める飯田丸の西側にあって二の丸との間を隔てている備前堀だけであるが、城域の東側から南西に向かって流れる坪井川を事実上の内堀に見立てて築城されている。茶臼山は標高50mくらいだから、山麓の市内との比高は約40m程度である。

 縄張り自体は清正築城当時から薩摩島津氏の脅威を想定していたため、特に南側の防御が異常なほど堅固になっている。これに対して搦手である北側の防御体制が薄いと評されているが、筆者が実見した限りでは、熊本城の搦手側は空堀と高低差のある断崖で守られており、特段防御が薄いという感じは受けなかった。

むしろ、緩やかに丘が低くなっていく城の西側が熊本城唯一の防御上の弱点であったのだろう。実際の縄張りを見ると、本丸西側に西出丸が築かれて西大手門と南大手門が連続して城の中枢部への敵の侵入を困難にしているし、西出丸のさらに西側には清正時代には未完成であっただろうが、二の丸と三の丸が城内最西端に位置する段山まで連なって守りを固めていた。

 熊本城が実戦に見舞われた西南戦争の際には、この段山の攻防戦が鎮台側籠城戦の成否を決める激戦の舞台となっていたから、やはり攻城側であった薩軍も城の西側が防御上の弱点であると考えていたのだろう。薩軍は官軍よりも砲兵戦力で劣勢であったが、青銅製の前装ライフル砲であった四斤山砲などの砲座を井芹川西岸にある標高約132mの花岡山に据えて、城内を激しく砲撃したらしい。だが、花岡山からでは飛距離が遠すぎて、熊本城の石垣と櫓には有効な打撃を与えられなかった模様である。ちなみに四斤山砲は射程3mまでは届かない。

 今回の地震による熊本城の被害状況はまだ明確ではないが、今日までの報道によると、大天守と小天守周辺の石垣、戌亥櫓脇の石垣、最近再建された飯田丸五階櫓台の石垣、西出丸から本丸など中枢部に入る位置にある頬当御門付近の石垣が大きく崩れてしまっている。特に飯田丸五階櫓は、8段ほどの隅石(算木積みか)を残して土台である石垣が崩れて空洞になっており、今にも倒壊寸前の惨状にある。

 櫓群では、大天守と小天守の屋根瓦が鯱も含めてほとんど落剝している他に、本丸東側の帯曲輪である東竹の丸に連なっていた東十八間櫓と北十八間櫓の2つの築城当時から現存する重要文化財が共に土台の石垣もろとも倒壊してしまっている。なお、この両櫓の北に連なる五間櫓と不開門(いずれも築城時から現存)についても、倒壊したという情報があるが、報道写真から筆者の見た感じでは辛うじて残存しているようにも見える。

 竹の丸は城中枢部の南側にも帯曲輪上に広がっているが、そこと坪井川の内堀とを隔てている現存重要文化財の長塀についても、100m位が倒壊している。ただ、本丸西にある平左衛門丸の土台である高さ20m位の見事な高石垣の上に聳え立つ三重五階の天守級の大櫓である宇土櫓については、続櫓と壁の一部が崩落しただけでほぼ形状を残しているのが幸いである。この宇土櫓は、築城当時の内部にも入って見学することが出来る、城内随一の貴重な文化財であると言える。その土台の高石垣が崩れなかったことを考えると、もろくも崩れ去った帯曲輪である東竹の丸の石垣と比べて、この本丸および平左衛門丸の土台であった周辺の石垣は、加藤清正築城当時から特に堅固に構築されていたのかもしれない。

 加藤清正は、主君豊臣秀吉が晩年築城した指月伏見城の倒壊を、文禄51596)年閏713日に起きたいわゆる慶長伏見大地震の際に実際に経験している。この伏見大地震の際の地震規模についても、今回の熊本地震同様にそのエネルギーはマグニチュード7以上の直下型地震だったとされている。この地震の時には秀吉自身は無事であったが、伏見城内では、500人以上が死亡(圧死?)したと松平忠明が編纂したとされる『当代記』には記されている。

こうして考えてみると、文禄・慶長期に伏見城天守が倒壊した大惨事に比べた場合の今回熊本城が蒙った地震被害の程度については、それが軽微とは言えないまでも指月伏見城のように城自体を廃城しなければならない程の規模には至らなかったという意味において、城郭建築技術が秀吉築城時代と清正築城時代であるいは相当進歩していたのかもしれないと、筆者は感じたのであった。

2016年4月13日水曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その3)

 昨日の投稿で述べたように、BC331年夏にアレクサンドロス大王の率いる東征軍はタプサコス(恐らくカルケミシュ付近)でユーフラテス川を渡河した。ユーフラテス川とティグリス川の増水期は、エジプトのナイル川の様に定期的(7月から10月の間)ではないが、源流地である山岳地帯の雪解け水が流れ込む45月頃に川が氾濫することが多かったと思われる。メソポタミア地方で河川対策と灌漑が発展し、それが古代王権と文明の発達に大きく寄与したことは高校世界史の教科書にも掲載されている。

 さて、BC331年の決戦に向かったアレクサンドロスの軍勢は、比較的容易にユーフラテス川の渡河に成功したようだ。夏季でユーフラテスが減水期に入っていたのかもしれないが、バビロニアに集結していたペルシャ軍が河川に防衛線を敷くことを怠ったことも敵軍の渡河作戦を容易ならしめた大きな原因であっただろう。

 1世紀クラウディウス帝時代のローマの歴史家であったクルティウス・ルフスが著した『アレクサンドロス大王伝』によると、ダレイオスはペルシャの名門貴族で当時メソポタミアの総督(サトラップ)であったマザイオスに、6千人の兵を率いてユーフラテス川の浅瀬の渡河地点を確保することを命じている。

ちなみにこのマザイオスは、当時のアケメネス朝ペルシャ帝国軍においては最も優れた軍司令官であったようだ。実際に彼は、101日のガウガメラの戦いにおいてペルシャ軍の右翼部隊を指揮しており、その水際立った指揮ぶりでパルメニオンの率いていたマケドニア・ギリシャ同盟軍の左翼部隊をかなり圧倒している。クルティウス等の記述によると、彼は全軍の敗走後もアルベラに後退せずに敗残兵を纏めて敵中を突破してティグリス川西岸に渡河し、そのままバビロニアでアレクサンドロスに改めて降伏した後、ペルシャ人であったにもかかわらず後日バビロニア総督に任命されている。

 これは恐らく、アレクサンドロスがメソポタミア総督としてマザイオスが現地に精通していたことと、彼の能力を相当評価していた結果なのであろう。

 その有能な将軍のマザイオスであったが、実際には敵軍の接近を知るとあっさりと河川防御を放棄している。どうやら彼はユーフラテス川の北東を流れるティグリス川の流れの速さから、アレクサンドロスの軍勢が渡河することは困難であろうと判断したらしい。そこで、アレクサンドロス軍が直接バビロンに南下するだろうと想定して、タプサコスから南方で敵の糧秣確保を妨げるための焦土作戦を実施したのであった。

 ところがアレクサンドロスは真夏で酷暑のメソポタミアを南進する作戦を取らず、ユーフラテス渡河地点からそのまま東進してニネヴェに向かった。多分、タプサコスからニネヴェ、さらにはアルベラまではBC5世紀にダレイオス1世が整備した「王の道」が当時通じていたから、アレクサンドロス大王の軍勢はそのルートを進撃してティグリス川の渡河地点に向かったのであろう。高地でバビロニアよりは涼しいニネヴェやアルベラ付近で、糧秣を十分確保しようと大王が意図していたのかもしれない。

 いずれにしても、アレクサンドロス軍は急流の危険を顧みずにティグリス川を完全武装のまま、兵士たちは胸の上まで水に浸かりながら渡渉した。恐らく舟橋をかけられない程、川の流れが速かったのだろう。まるで我が国の宇治川の合戦の様だ。実際、アレクサンドロスは兵士たちに腕を組んで身を寄せ合って一塊の隊形を作らせて、何とか全軍を渡河させることに成功したようだ。あるいは源平合戦の宇治平等院の戦いの時のように、騎兵部隊は馬筏を形成して渡河したのかもしれない。

 その無謀な渡河作戦で疲労困憊した兵士たちを休息させるため、クルティウスの記述によるとアレクサンドロスは2日間(920から21日か)、渡河地点で宿営した模様である。

 その頃、ダレイオスの率いていたペルシャ軍主力部隊はバビロニアを既に進発して、ティグリス川東岸のアルベラ付近に軍を集結させていたと言われる。そのダレイオスの意図は、狭隘な地形で大軍を十分に展開させることが出来なかったイッソスの敗戦の結果を踏まえて、アルベラとニネヴェの間の広い平原地帯で敵に決戦を挑もうと考えた結果であったらしい。そのため、連携不十分な混成部隊からなる歩兵部隊の展開訓練や、鎌付き戦車の走路まで予め構築していた模様である(だが、仮に事前に戦車の走路を作っても敵がそこに展開するとは限らないし、実際にその目論みはほとんど無駄になったわけだが)。

 なお、焦土作戦に従事していたマザイオスの別動隊の一部である1千人の騎兵部隊が敵のティグリス渡河を阻止するために派遣されたが、これは渡河後既に戦闘態勢を整えていたマケドニア軍騎兵部隊に一蹴されてしまったと記録されている。

 アレクサンドロス軍はアルベラ方向に向かって東進する途中、渡河後4日目に敵の騎兵部隊と衝突し、その捕虜の口からダレイオス軍がガウガメラ(現在のテル・ゴメル、モースルつまり古代ニネヴェから約20km東方の地点)に展開していることを知ったとされる。なぜか、アレクサンドロスは悠然とその地にさらに4日間留まった後、丘から平原に降りて敵の大軍を目視で発見し、その翌日戦闘態勢でペルシャ軍に向けて進撃し、101日を決戦日と定めて兵士の士気を鼓舞し、宿営したとされる。

 この間のアレクサンドロス大王の態度が、何とも悠長な様子に見えるのが不思議だ。実際に101日の決戦の日になっても、既に太陽が高くなってから漸く大王が目を覚ましたと言われている。これは、東に向かって進撃する自軍の目が眩まないように、日が十分昇ってから決戦を挑むというアレクサンドロスの深い配慮だったのかもしれない。

 これに対するダレイオスは自分から先制攻撃を仕掛けることもなく、敵の夜襲を恐れて全軍にピリピリとした警戒態勢を終夜とらせたおかげで、101日の決戦当日には兵士たちが初めから疲れてしまっていたとも言われている。イッソスで一度大敗しているだけに、ダレイオス3世は過剰に慎重になり過ぎていたのかもしれない。

 結果的には、両翼を斜線形に布陣するとともにギリシャ軍を第2線防御に配置して、大軍であったペルシャ軍の包囲攻撃を阻止することに成功したアレクサンドロス軍が、ダレイオスの縁戚でバクトリア総督のベッソスが率いたペルシャ軍左翼部隊をダレイオスの中央部隊と分断することに成功した。

そして、アレクサンドロス自身が直接指揮した右翼のヘタイロイ騎兵部隊と近衛歩兵部隊の楔をダレイオス本陣に突入させてダレイオス直属部隊の戦列を崩壊させたため、パルメニオンの率いていた左翼ではマザイオスの騎兵部隊に苦戦を強いられたマケドニアとギリシャ同盟軍が、結果的にペルシャ軍に大勝したのであった。クルティウスの『大王伝』によると、ガウガメラの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦死者は3百人、ペルシャ軍の死者は眉唾な数字だが凡そ4万人であったという事らしい。

 敗戦後アルベラまで逃走したダレイオスはアレクサンドロスの激しい追及を何とか逃れ、その後アルメニアを経由して、11月頃には古代メディア王国の首都でアケメネス朝の夏季王宮が存在したエクバタナ(現在のハマダーン)に逃走したとされる。アッリアノスの『東征記』によると、彼に随ったのはバクトリア人騎兵とペルシャ人精鋭部隊「不死隊」の一部、それにギリシャ人傭兵わずか2千人程が合流しただけらしいから、ダレイオス3世には、もはやアレクサンドロスに対して再度の決戦を挑むだけの十分な兵力を動員することは困難な状況に陥ったようである。

 実際、アレクサンドロス軍がBC3305月下旬に既に占領していたペルシャの首都ペルセポリスから、エクバタナに進撃を開始すると、ダレイオスは騎兵3千人と歩兵6千人、そして7千タラントンの軍資金を抱えて縁戚ベッソスが総督を務めていたバクトリアの首都バクトラに向けて逃避するしか方法が無かったのである。

結局、その後彼はそのベッソスに裏切られて捕縛され、 BC3307月か8月頃に殺害されてしまったのであった。この辺りの悲劇は、何だか信頼していた小山田信茂の裏切りにあって天正101582)年311日、天目山麓田野で自害に追い込まれた武田勝頼の悲劇を髣髴とさせるものがあるだろう。

2016年4月12日火曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その2)

 2世紀ローマ帝国のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝時代のギリシャ人政治家かつ歴史家であったアッリアノスが著した『アレクサンドロス大王東征記』には、エジプトから帰還後、大王がガウガメラの決戦に至るまでの進路について、以下のような記述がある。

すなわち、BC331年春に(アレクサンドロスはエジプトの)メンフィスを発ってティルスに至り、そこから内陸に転じて、ヘカトンバイオンの月(78月)にユーフラテス川の渡河点であるタプサコスに到着した、ということである。問題は、渡河地点であるタプサコスの位置と「内陸に転じて」の意味をどう考えるかという点にある。

 まず、フェニキア(レバノン)最大の港湾都市であったティルスからアレクサンドロスの軍勢が内陸に転進したとすると、常識的に考えればレバノン山脈とアンチレバノン山脈を越えてダマスカス方面に向かったことになるだろう。あるいは、ダマスカスには向かわず、両山脈の間に広がるベッカー高原を抜けて直接ホムスに到達したのかもしれない。

 問題はダマスカスかホムスから、その後大王の軍が北方のアレッポに向かったのか、あるいは東方のパルミラ方面に向かったのかが判明しないことである。仮に前者のルートであったならば、アレッポから軍勢は東進してカルケミシュでユーフラテス川を渡河したことになる。もしも後者のルートであったならば、現在ISが首都としているラッカの辺りで軍が渡河したのかもしれない。したがって、タプサコスの位置が特定できないのである。

 記録によれば、アレクサンドロスは2本の舟橋をかけて軍勢を渡したとされるが、渡船も利用した可能性がある。そうであるならば、やはりカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡河したと考えるべきかもしれない。先の投稿で述べたとおり、古来カルケミシュはユーフラテス渡河の交通の要衝であり、東進してメソポタミア北部の首邑ニネヴェに直結していたから、やはりこちらのルートを大王が選択したと見るべきだろう。

 また、パルミラ方面を経由するルートは大軍勢がシリアの砂漠地帯を横断することになるから、兵士のみならず騎兵部隊や輜重部隊の軍馬や騾馬に与える糧秣の調達が恐らく困難だったことも、アレクサンドロスがアレッポとカルケミシュ経由の無難なルートを進撃したことの傍証となるのではないかと思われる。

 さて、アレクサンドロスの軍勢がユーフラテス川を渡った頃、敵のダレイオスはバビロンに決戦兵力を集結させていた様だ。その兵力はアッリアノスによると歩兵100万人、騎兵4万人、鎌付き戦車200両というのだが、いくらペルシャ軍が総力を挙げて肥沃な三日月地帯の中心であったバビロニアに集結したとしても、これはいささか多すぎる明らかな誇張であろう。当時の軍隊に、100万人以上の兵力を給養させるだけの補給能力があったとは到底思えない。ペルシャ軍はせいぜい総兵力10万人位で、アレクサンドロス軍の2倍といったところが真相ではないだろうか。

 BC33310月のイッソスの戦いの敗戦で奇しくも露呈したように、マケドニア・ギリシャ同盟軍のファランクス(重装歩兵の密集方陣)と比べてペルシャ軍の弱点は、歩兵の装備が脆弱であったことと、各地の総督に率いられた帝国支配下諸民族の混成部隊で兵力は多いが必ずしも統制と連携が取れていない点であった。

 そのため、ダレイオスは多くのギリシャ人傭兵部隊を抱えて弱点を補っていたわけだが、歩兵で6m位のサリッサ(長槍)で武装したファランクスに対抗するため、ダレイオスは剣と槍の長さをギリシャ風に改造したらしい。だが、結局は諸民族混成部隊の弱点からか、傭兵部隊を除いてファランクスの実戦での運用までは到達できなかったようだ。つまり、最後までペルシャ歩兵部隊はアレクサンドロスの歩兵部隊に劣勢を強いられたと思われる。

 また、騎兵について見れば、両軍とも当時は鐙が発明されていなかったから馬上での安定性が無く、スキタイ人の様な一部の遊牧騎馬民族を除いて弓射騎兵としての運用は恐らく困難だっただろう。したがって、サリッサと剣や重装備で武装したマケドニア軍のヘイタイロイやテッサリア騎兵の方が機動打撃力の点でも、ペルシャ軍より遥かに優越していたのだろう。

実際、三大決戦のいずれも、アレクサンドロス大王が直接率いた騎兵部隊の打撃力によってペルシャ軍の戦列が破られて敗戦している。このような、中央ないし左翼に配置した重装歩兵のファランクスが敵の攻撃を引き受けて防戦している間に、右翼の重装騎兵部隊を敵の戦列にぶつけて包囲あるいは突破する戦術は、アレクサンドロスが得意としたいわゆる「鉄床戦術」だったわけである。

 もう1つの勝敗を決した要素として、アレクサンドロスがBC331年当時まだ25歳で、50歳位の年齢であったダレイオスと比べると非常に若くて気力に溢れており、しかも自らを、トロイア戦争を舞台にしたホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である英雄アキレウスになぞらえていた気配があった事だろう。

そのため、戦場でのアレクサンドロスは自ら先頭に立って、何度も敵陣に斬り込むようなギリシャ神話上の英雄並みの蛮勇を常に奮っていた。彼が実戦で負傷し、戦死しかけたことも少なくない。これほど勇敢な騎兵指揮官は、恐らく歴史上アレクサンドロス大王の他には、ナポレオンの妹婿であったジョアシャン・ミュラ元帥がいるくらいではないだろうか。

 結局、イッソスの戦いでもガウガメラの戦いでも、騎兵部隊の先頭に立って本陣に肉薄してきたアレクサンドロスの鬼気迫る攻撃にダレイオスが怖気付いてしまったことが、ペルシャ軍の戦列崩壊と敗戦に繋がってしまったのであろう。唯一マケドニア・ギリシャ同盟軍が保有していなかった鎌付き戦車部隊についても、戦場では有効活用できなかった点がペルシャ軍の大いなる誤算であっただろう。

 さらに、戦場に集結し決戦し敗走あるいは追撃に至った実際の両軍の動きについても、考察しておくべき中々興味深い諸問題があるので、次回の投稿でその点に関する筆者の分析を改めて述べてみたいと思う。

2016年4月11日月曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その1)

 アメリカが主導する有志連合軍の空爆によって、ティグリス川とユーフラテス川の両岸地帯(メソポタミア)の一部を実効支配するIS(イスラーム国)の支配領域が現在までに40%程度縮小したとする見方がある。そうした見地に立つと、恐らくIS支配下の油田地帯から産出される原油量も日量1万から4万バレル(2014年夏季IS勢力最盛期の約半分)程度にまで減少し、その活動資金の調達はさらに困難になりつつあると思われる。

 現在、イラク国内におけるISの最大かつ最後の拠点は北部油田地帯に位置する大都市モースルであるが、このモースルはイラクの首都バグダードの北西約400km弱のティグリス川両岸を跨ぐ地点に市街地が広がっている。2016年のイラク政府軍の最大目標は、有志連合軍による空爆支援の下でモースルをIS勢力から奪還して、イラク国内からISを追い出すことであろう。これは事実上、イラク政府軍とIS武装勢力との最終決戦となる公算が強い。イラク政府側は遅々としながらも、そのための戦力整備を着々と進めていることだろう。

 このモースルのティグリス川東岸には、古代都市ニネヴェの遺跡が存在する。ニネヴェは古代アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前8世紀末に都とした場所である。ニネヴェからクルド自治区の首都アルビールまでは85km程度の距離しかない。アルビールは現在もモースルと重要な幹線道路でつながっているが、この幹線道路をモースルからさらに西に向かうと、シリア、トルコ領内を進んでユーフラテス川で最も浅い重要な渡河地点があるカルケミシュ(シリア領内ジャラーブルス付近)に到達する。

 聖書のエレミヤ書によると、紀元前7世紀末(BC605年頃)に新バビロニア王国のネブカドネザル2世とエジプト第26王朝のファラオであったネコ2世がシリア支配をめぐってカルケミシュで戦い、その結果エジプト軍が敗北したとの記述がある。つまり、古来カルケミシュは、メソポタミアとエジプトの両勢力がシリア支配をめぐって支配権を争った、戦略的要衝の地であったわけなのである。

 筆者が本投稿で述べる2347年ぶりのモースル近郊での決戦というのは、今年展開されるかもしれないイラク政府軍とISとの決戦のことであるが、2347年前、つまりBC331年に起きた決戦とは、古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させた東方遠征の最中に起きた三大決戦の最後、つまりガウガメラの戦いを意味している。

 アレクサンドロスは暗殺された父フィリッポス2世のあとマケドニアの王位を継承した後、ギリシャ国内の反乱を鎮圧して父が生前に企図していたペルシャ戦争への復讐を大義名分とした東征にBC334年に着手し、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って5月にグラニコス河畔の戦いでペルシャのサトラップ(太守あるいは総督)達とギリシャ人傭兵の軍勢を撃破して小アジアを征服し、翌年10月には以前の投稿で述べたイッソスの戦いで、ペルシャから家族連れの大軍で親征してきたアケメネス朝の「諸王の王」ダレイオス3世の軍勢も打ち破って王の母親と妻子を捕虜にした上でレバント地方(シリア及びフェニキア)を制圧した。この際には、BC332年に唯一抵抗した港湾都市ティルスを7か月かかった激しい攻城戦で攻略し、約1万人を殺し、約3万人の市民を奴隷に売却したと言われている。

 その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝の支配が脆弱だったエジプトに侵攻して解放者としてファラオに祭り上げられるとともに、最初の都市アレキサンドリアを建設したのは有名である。さて、小アジア、レバント、そしてエジプトといったペルシャ帝国の西方領土を掌握した後は、当然メソポタミアを攻略することが大王の次の戦略目標となった。

 ところが、マケドニアの戦力に圧倒されたダレイオスの方は、多分アレクサンドロスのエジプトからフェニキアへの帰還後のBC331年春に、2回領土の割譲と和睦の提案を行っている。まず、最初の提案では、小アジアのハリュス(クズルルマク)川から西側の領土、すなわちリュディアとフリュギア(あるいはキリキアも含む)地方と2万タラントン(1タラントン=約26kgか)の銀をアレクサンドロスに贈呈するというものだった。だが、既にエジプトまで征服していたアレクサンドロスの立場からすれば、この提案では征服地から撤退することを意味しているから受け入れるはずが無いだろう。

 そこでダレイオスはさらにユーフラテス川から西側の領土の割譲と3万タラントンの銀、そしてアレクサンドロスを娘婿として帝国の共同統治者とする再提案を行ったとされる。この提案に対し、マケドニア軍の副将で大王の補佐役であった老将パルメニオンはペルシャとの和睦を進言したとされるが、アレクサンドロスは「太陽が2つあれば宇宙の秩序が維持できないように、人間世界でも2人の王は存続できない」趣旨を使者に伝えて、名誉のために自分と決戦を挑むか、自分の命令に服従して王として生きるか、ダレイオスに選択するように強要したと言われている。アレクサンドロスは、余程自分の武力に自信があったのだろう。

 会議後、ギリシャ同盟軍を含む大王の軍勢(約5万人と言われる)はメソポタミアに向かったが、その頃捕虜として連行していたダレイオスの妻で実妹であったスタテイラが死亡したため、アレクサンドロスは彼女を盛大に弔ったとされる。

当時の大王の軍勢の進路は不明な点もあるが、まずカルケミシュでユーフラテス川を舟橋をかけて渡河し、その後現在の幹線道路と同じルートをそのまま東進してティグリス川を渡河してニネヴェに至ったのではないだろうか。その後、BC331101日にニネヴェからアルベラ(現在のアルビール)に向かう途中のガウガメラで、マケドニアとペルシャ両軍の3回目で最後の決戦が行われたのだが、その決戦に関する筆者の分析については次回の投稿で述べてみたいと思う。

2016年4月1日金曜日

乙武洋匡氏の人格傾向と、メディアによる虚像増幅に伴う社会心理についての感想

 先天性四肢切断という重度の障害を持って生まれてきた乙武洋匡氏は、早稲田大学政治経済学部卒であり、筆者の学部後輩に当たる。周知のとおり、彼は大学在学中の1998年に著した『五体不満足』で「障害は不便だが、不幸ではない」という屈託のない新鮮なメッセージを発することにより、ベストセラー作家となり、一躍時の人となった。

乙武氏は大学卒業後スポーツライターを経た後に杉並区小学校の教諭や都の教育委員を歴任し、一種の教育専門家としてメディアで取り上げられ、2016年夏の参院選に自民党公認で出馬する予定であると言われていた。

 その爽やかで誠実なイメージの乙武氏が、妻以外の複数の女性と不倫(買春?)をしていたという事で、324日夫婦同時に公式サイト上で世間に謝罪し、30日には参院選出馬を取りやめることが報じられた。今日はそのことに関して少しばかり、社会心理学的に筆者の勝手な感想を述べてみたい。

 まず、注目されるのは、彼が教育委員在任中に不倫を隠すダミー役の男性を伴って、何度も愛人女性同伴で海外「視察」に出かけていたことだ。そのダミー役の男性の1人は、45日リーガロイヤル東京ホテルで参院選出馬の決起集会とするはずだった乙武氏40歳誕生パーティーの発起人の1人で乙武氏の友人でもある、社会学者(大学院生)の古市憲寿氏とのことだった。

 実はこの古市氏は、325日のツイッターで「庇う気はないが、(乙武氏のケースは)普通『不倫』と聞いて想像する光景とは、かなり違っていた気もする」と友人を擁護する見解を述べていた。だが、もし彼自身が乙武氏の海外不倫「視察」旅行に同行していたとすれば、多分自己弁護の意味で述べたものだろう。

 問題は、乙武氏の「視察」に都教育委員会から公費が支出されたかどうかという点であり、もしそうであるなら公金の重大な流用問題になりかねない。古市氏ら同行したダミー男性達も、同伴女性と共に厳しく責任を追及される必要があるだろう。したがって、彼の乙武擁護論は全く取るに足らない無責任な発言に過ぎない。

 今回の問題に関して、的確な分析だと筆者が思ったのは、在米ジャーナリストの岩田太郎氏がJapan In-depthに投稿した「乙武氏「自己肯定感物語」破綻と障碍者の性」という記事の内容である。この記事の中で、岩田氏は今回の乙武「五股不倫」問題を、「全聾の天才作曲家」佐村河内守氏や「高学歴ハーフタレント」ショーンK氏のケースに類似した、マスメディアが増幅した虚偽の個人イメージ(虚像)崩壊のより深刻なケースであると位置づけている。

 なぜなら、乙武氏が常日頃述べてきた「明確な自己肯定感を持てた」「人生、だいじょうぶ」という世間に感動を与える「壮大な救済物語」が恐らくほとんど虚偽の作り話であり、乙武氏自身が多分自己肯定感を欠如させたまま(成熟した大人に成り切れず)、メディアの増幅した虚偽のイメージに自己をうまく適応させて生きてきた欠落感から、今回の様な不倫騒動を起こしてしまったのだろう、と岩田氏は概略分析している。

 その意味では、本当は高卒の学歴しか持たないショーンK氏がハーバードMBAの経歴を詐称したケースや、作曲の出来ない佐村河内氏がゴーストライターを使って天才作曲家を騙っていたケースと、彼らの行動の動機が自己肯定感の欠落にあると考えられる点で確かに共通していると筆者も考える。

 だが、偽善者は彼らだけではない。より本質的には、その虚像を商売や選挙に利用しようとしたメディアや政党も偽善的だし、我々一般市民の多くも障害者に対する「差別主義者」で無いという偽りのアリバイ作りに利用してきたという点では、同様に偽善的なのである。ネット上やメディアでの乙武氏やその妻に対する激しいバッシングの嵐は、そうした日本社会全体の偽善的態度を裏返しにした反動現象であると考える。

 心理学的に見れば、乙武氏やショーンK氏は、青年期に多く見られる自己愛的人格傾向を維持したまま、大人になってしまったのではないかと筆者は感じる。自己愛的人格傾向とは、自信に満ちてエネルギッシュかつ自己本位的で他者への共感が欠如した態度が目立つ一方で、他者の評価によって自己評価や肯定感が容易に揺れ動く矛盾した人格特性なのである。いわば、自信と不安が入り混じった不安定なアイデンティティを持った、成熟していない人格を意味している。乙武君もショーンKも、どちらからもそういう人格特性の臭いがするのである。

 ただし、自己愛傾向は、必ずしも病的に他者を傷つける程の「自己愛性パーソナリティ障害」(Narcissistic Personality Disorder: NPD)にまで常に至るとは限らない。その意味において、普通の健常者にも多かれ少なかれ見られる、傲慢で自己顕示的な人格特性の程度問題なのである。

ただ、今回の「五股不倫」問題を通じて見える乙武君の家族に対する配慮の無さから感じるのは、彼の持って生まれてきた障害に恐らく起因する低い自己評価と、一見それとは矛盾するような尊大な自己認識と自己顕示欲が、彼の心の中でアンビバレントに共存しているのではないかという疑いが、完全に否定しきれない点であろう。

 筆者は以前から、先天性四肢切断という大きなハンディを抱える乙武君が、どうやって都立高校上位校である戸山高校や一浪したとは言え早稲田大学政治経済学部卒業の学歴を得ることが出来たのか、とても不思議に感じていた。あからさまに言えば、彼のハンディから考えて、通常の手段では高校と大学の厳しい入試を突破することは極めて困難であっただろうと感じていたからである。

 これはあくまでも筆者の憶測であるが、彼が無事高校と大学の学歴を獲得できた背景には、何らかの大人側の配慮が介在していたのではないか。乙武君は、ある種の推薦合格を貰ったと言い換えてもいいだろう。もしそういうプロセスが、彼の人生で実際に起きていたとするならば、乙武君が今に至るまで自己肯定感を獲得できず、アンビバレントな自己認識や顕示欲を肥大化させていったことも十分想定できるだろう。

 そして、大学在学中にベストセラー作家として社会的に成功を収めた結果、彼の虚像がメディアを通じて増幅され、社会がそれを好んで消費してきたのが問題の実態であろう。そういう意味では、乙武君も最近の日本社会で顕著になった浅薄な虚像の商品化傾向に踊らされた、ショーンKと同様の哀れなドン・キホーテの1人であったのかもしれない。

この点において、今回の乙武君「五股不倫」と彼の虚像崩壊の背後には、単に彼の人格傾向に問題を矮小化して非難を集中すべきではないような、社会心理学的な本質を含んでいるのではないかと筆者は感じたのである。

2016年3月30日水曜日

ドナルド・トランプ氏の日米同盟論(「暴論」)に関する感想

 アメリカ大統領選での共和党候補者選出のための予備選を現在有利に戦っているドナルド・トランプ候補が、日本の核武装を容認し、対北朝鮮外交でより攻撃的になってほしいと、329日に中西部ウィスコンシン州でのCNN主催の対話集会で述べたと報じられている。

 同時に、トランプ氏は、在日米軍の駐留経費負担(俗に言う「思いやり予算」を含む)を日本が大幅に増額しなければ、日米安全保障条約を見直して米軍を撤退させるべきという持論を改めて強調したとされる。

 トランプ氏の「暴言」とされるものは数多いが、そのうち、内政ではなく外交政策に関するものを列挙して見ると、同盟国に対する駐留米軍に関する経費増額要求の他にも、例えば、TPPをぶち壊す、シリアをロシアのプーチン大統領に任せる、メキシコ国境にメキシコ政府の負担で壁を構築して不法移民の入国を妨げる、不法移民たちの強制送還、イスラーム教徒(ムスリム)の入国禁止、IS支配地域に対する戦術核兵器使用の可能性を示唆、そしてテロ容疑者に対する水責めなどの尋問(拷問)手段を採用することの提唱といったところだろうか。

 筆者も米国内の(民主党、共和党を問わず)現実主義者たちが評価しているように、トランプ氏のこうした「暴言」は、外交政策としても安全保障政策としても極めて稚拙でナイーブ、かつ、実現性に乏しい支離滅裂なものであると非常に感じる。特にトランプ氏が核戦略と抑止論に全く精通していないことは、日本が北朝鮮に対抗するために核武装することを容認している一方で、対IS作戦における戦術核兵器の使用をほのめかしていることからも明らかだろう。

こうした彼の一連の発言から考えると、果たして非対称勢力であるISに対する核兵器の使用が軍事的に効果を持つかどうか、IS支配下に置かれたシリアとイラクの一般住民に与える付随的損害の大きさについても、トランプ氏がまともに考えた上で発言しているとは誰でも到底思えないだろう。

彼は恐らく、我が国の非核三原則やNPT加盟の事実すら正確に認識していない可能性が大きい。それをわかっていた上で暴言を述べているとすれば、彼は本当のデマゴーグ(大衆扇動家)だろう。アメリカ社会の深刻な分断状況と政治不信、中間層以下の国民の既得権益(エスタブリッシュメント)への不平・不満の増大が、ある意味アドルフ・ヒトラー級の大衆扇動家への米国内での支持率を高めているとすれば、太平洋を挟んだ東アジアの親米同盟国である我が国も、事態の危うさを今から真剣に考察しておく必要があるだろう。

筆者の見立てでは、トランプ氏が予備選をこのまま勝ち抜いて共和党の大統領候補者に選出され、民主党大統領候補に選出されると思われるヒラリー・クリントンを打ち負かして実際に来年1月にアメリカ大統領に就任する可能性が、約30から40%くらいはあるように思えるからだ。ヒラリーさんは既得権益の代表選手のように国民の目から見える上に、国務長官時代の私用メール・アドレス使用問題など、数々のスキャンダルを抱えているからである。

一言で言えば、トランプが「傲慢な馬鹿」といったイメージを米国民から持たれているとすれば、対するヒラリーは「信頼できない嘘つき」といった、これまた負のイメージを持たれているのではないだろうか。選挙資金調達の面では、既得権益との癒着が無く、クリーンなイメージのトランプの方が大統領選に勝ってしまう可能性も、我々日本人は十分に想定しておかなければならないだろう。

これに対して、ヒラリーが自分の国務長官時代に推進したTPPに反対する姿勢を唐突に表明したのは、関税の撤廃や低減に反対する労働組合AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からの支持を獲得するために選挙戦略的に擦り寄ったからだろう。AFL-CIOは、TPPに賛成する候補者への政治資金の供給を停止する恐れがあるためだ。

 トランプ氏の外交政策を評価すれば、伝統的な孤立主義の思想に連なるものと言えるだろう。だが、アメリカが建国後間もなくの大国になる以前の19世紀ならばいざ知らず、冷戦終結後唯一の超大国として存続している21世紀の現代に、南北両アメリカ大陸とカリブ海の覇権の維持だけにアメリカが閉じこもってしまった場合の国際安全保障上の悪影響は極めて大きい。

特に激烈な紛争の持続している中東ではアメリカ新孤立主義化の悪影響が顕著で、ロシアやイラン、ISの様な国家と非国家主体が混在した多様な現状変更勢力がアメリカの現状維持への不介入姿勢に付け込んで、さらに勢力を拡大しようと試みるだろう。その結果、イランやサウジアラビア、トルコ、エジプトなど域内大国での核拡散が促進される危険性が強まりかねない。OPECのカルテルはイランとサウジアラビアの対立から生産調整が不可能になり、大輸出国であるロシアも巻き込んで原油価格の低迷が続き、各国の財政状況をさらに悪化させることにもなる。

 欧州では中東での紛争継続の結果、難民と移民の流入が今年も加速するだろう。シェンゲン協定が2016年中にも事実上機能しなくなって、欧州の経済再建に大きな妨げとなる可能性がある。キャメロン首相が是非を問う国民投票を年内に行うとした、英国のEU離脱「ブレグジット(Brexit)」は否決される公算が強いものの、EUの難民・移民政策を主導するドイツのメルケル首相は受け入れ反対派の政治勢力の台頭によって、その地位を失うかもしれない。そうなれば、自由な移動と人権尊重のEUの根本理念が崩壊しかねない。

 また日本は、アメリカの新孤立主義化によって、約70年ぶりにアメリカの軍事力に依存しない単独の安全保障政策を立案しなければならない羽目に陥るだろう。そうなれば、まさしく戦後最大のパラダイム・チェンジを我が国は2017年に迎えることになるはずだ。