2015年6月12日金曜日

孫呉の兵法通りに勝敗が決まった多々良浜の戦い

 先に投稿したように建武3(1336)年正月の京都合戦で敗北した足利尊氏、直義兄弟の率いる軍勢は、播磨の国人赤松円心の進言で2月12日酉の刻(午後6時頃)から戌の刻(午後8時頃)にかけて慌ただしく兵庫から船出して西国に向かった。数は300艘余りだったとされる。『梅松論』によると、船に乗り遅れた人々は陸路西下したという。

 尊氏らは播磨灘の難所を渡海して2月12日室の津に到着し、14日まで逗留して軍議を開催した結果、宮方の追撃を阻止するため中国四国各国へ一族と地元の武将をセットで配置して迎撃と再上洛の準備に当たらせた。

 尊氏は2月15日備後の鞆の浦に到着し、この地の小松寺で勅使の三宝院僧正賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を下される。これで、とりあえず朝敵の汚名を雪いだことになった。これも、西下前に赤松円心の進言を入れた結果である。

 2月20日、尊氏らは長門国赤間が関で、筑前の太宰少弐貞経入道妙恵の嫡子頼尚の率いる軍勢500騎余りの出迎えを受けた。事前に少弐氏の参戦を促す御教書が、尊氏から送られていたわけだ。これは少弐氏が、肥後の宮方菊池氏に対抗する意図だっただろう。

 尊氏一行は29日、筑前国芦屋の津で九州に上陸したが、実はこの時既に妙恵は菊池武敏の率いる軍勢に攻められ、居城の有智山城で一族家人500人余りとともに自害していたのである。つまり、『孫子九地篇』でいう所の「争地」(そこを奪取した方が有利となる要衝の土地)である太宰府は、既に宮方の軍勢に占拠されてしまっていた。

 3月1日、尊氏一行は頼尚勢を先陣にして芦屋の津を出発し、酉の刻(午後6時頃)宗像大宮司の宿所に到着する。その夜半、既に菊池勢は太宰府を進発したという注進が続々尊氏の元に届けられたが、頼尚の進言で翌日合戦に臨むことになり、3月2日辰の刻(午前8時頃)宗像を出陣した。未の刻頃(午後2時頃)に尊氏は香椎宮を通過し、丘陵地から多々良浜の干潟を遠望した所、筥崎八幡宮の松原を背後にして足利勢の数倍の人数と思われる菊池勢が小川(多分戦場南端を流れる須恵川)を越えて北向きに布陣していたとされる。

 尊氏の作戦は以下の通りであった。それは遥々下向した遼遠の地での「最後の合戦」(決死の覚悟であったらしい)で未練を残さないため、尊氏は馬廻りの武者達と共に多々良川北岸の丘陵地に置いた本陣を守備し、予備の打撃戦力として後置する。

代わりに直義が大将となって、先陣の軍勢(高師泰ら関東勢と大友、島津勢他)300余騎を率いて多々良川を渡河して敵を攻撃するというものだ。

それと別に直義勢の東には、敵討ちで士気が高い少弐勢500余騎が布陣したとされる。足利勢は武装も完全ではなく、徒歩立ちの兵力が大半を占め、合計わずか1千騎程度の無勢であった。

そうした劣勢にも拘らず、この日の夕刻(酉の刻)迄数時間の激戦で足利勢が菊池勢を打ち破り、亥の刻(午後10時頃)には直義と少弐頼尚の率いる先陣の軍勢が太宰府を奪還することに成功した。この多々良浜の合戦における足利方の勝因は、一体どこにあったのか。実は当日の両軍の勝敗の行方は、孫子と呉子の兵法通りの展開だったのである。

 『孫子九地篇』には、沼沢地のような行軍が困難な「圮地」では、「行軍を休まず軍を早く進めよ」と述べている。筥崎宮から「圮地」である多々良浜に先着していた菊池勢は、そこに布陣したため、この孫子の教えを守っていない。そのため、北から吹き付けた砂塵に軍勢が混乱して、足利勢の攻撃を阻止することに失敗している。

 次に、『呉子料敵』では、敵を攻撃する時として、「敵軍が遠方から到着し陣地が定まらない時」、「敵軍が疲れ切っている時」がそれぞれ挙げられている。また、「敵軍が渡河しようとしてその半分が渡り終えた時」に攻撃すべしと述べている、「敵半数が渡河を終えた時を見計らって攻撃せよ」という鉄則は、『孫子行軍篇』にも同様の記述がある。

 菊池勢は合戦前夜に太宰府を発進して多々良浜に進撃したため、夜間の4、5時間行軍を続けたことになる。その前の2日間は有智山城攻略に費やしたため、軍勢は相当疲労していたはずだ。したがって、尊氏の多々良川渡河による攻撃作戦は、『呉子料敵』の前者2つの原則通りの作戦遂行だったことになるだろう。

 逆に菊池武敏は、直ちに通過すべき「圮地」の多々良浜にわざわざ布陣して迎撃態勢を取った過ちを犯したばかりか、「敵半数が渡河を終えた時を見計らって攻撃せよ」という孫子と呉子の教えも遵守していない。

筆者には、菊池武敏が軍勢を率いる大将として余り兵書に親しんでいなかったように思われる。彼がこの日実施すべきだったのは、直ちに多々良浜を通過して、足利勢に先んじて多々良川北岸の丘陵地帯を制圧することだったはずである。

 『孫子行軍篇』には、平地に布陣する時は「動きやすい平坦な場所を選択し、右後方に丘陵地を置いて前方を戦場とし、後方を丘陵地に続く高所とするよう布陣する」とある。右後方に丘陵地を置くのは、右利きが多い兵士達が左前方から攻撃してくる敵軍を迎撃しやすくするためと言われる。この日足利尊氏が予備軍を後置した本陣は、正にこの孫子の教え通りの布陣であった。

 その結果、全体的に統制が取れておらず裏切り者も出した宮方勢にあって鋭く反撃したのが菊池勢のわずか300騎程度に過ぎなかったため、尊氏が予備軍を率いて追加攻勢を仕掛けると、さしもの菊池勢も敗退せざるを得なかったのであった。

 ただし、この合戦当日の菊池武敏は「圮地」に布陣するという決定的なミスを犯したものの、筥崎松原を背にして陣を敷いたことは、『孫子行軍篇』にある「沼沢地で敵と遭遇して交戦状態に突入した場合には、飲み水と牛馬のための草が入手できる森林を背にして布陣すべき」という教えについて、辛うじて適っていたことだけは評価できるだろう。

2015年6月11日木曜日

新入社員の早期退職に関するプロスペクト理論を応用した分析

 今年の日本の大学卒業者の内定率は86%を超え、2011年の就職超氷河期を乗り越えて、13年と14年の内定率から継続的な増加傾向にある(厚労省、文科省調査)。

 それにもかかわらず、3か月もたたないうちに、いわゆる新入社員の5月病、6月病に罹患して折角苦労して入った会社を辞めてしまう若者が多いのだそうだ。自分もバブル期以前、都市銀行に入行してたった2年勤めただけで退職し、研究者を目指して大学院に入り直した経験があるが、それにしても最低限の生活費と学費を貯蓄するために2、3か月で銀行を辞めるというリスキーな選択肢は採用しなかった(正確には「できなかった」)。

 こうしたリスクを恐れない一部の冒険主義的な若者が増えているという報道が続いているが、その多くは最近のネット社会普及などの時代背景における若者の個性の変化に主たる原因を求めた、いわゆる「世代論」の枠組みによるものだ。

 「最近の若い奴は根性が足りない」という中高年齢層の批判は、太古の昔から同様にあったのであり、自分も「新人類は社会を舐めている」と言われ続けてきた経験がある。

 したがって、単に十把一絡げの科学的根拠の薄い世代論で新入社員の早期退職傾向を語るのは、余り科学的な態度とは言えないだろう。もちろん、話の種として最近の若者の大まかな思考傾向を探るにはそれなりに世代論は面白いし、このブログでもそういうテーマでよく投稿しているので、我ながら忸怩たる思いがあるのだが。

 というわけで、今日は新入社員の早期退職傾向に関して、もう少し人間の心理学的傾向に依拠した筆者の理論的な分析を述べてみたいと思う。

 用いる枠組みは、ノーベル経済学賞を受賞したカーネマン(Daniel Kahneman)とトバスキー(Amos Tversky)が構築したプロスペクト(見込み)理論の、人間の認知的バイアスによる限定合理性に関する知見である。

 さて、ゲーム理論などの規範的理論によれば、期待効用(効用の期待値)を最大化する行動こそが合理的であるとされ(期待効用仮説)、抑止論など安全保障論も一般にこうした期待効用仮説の合理的行為者モデルを前提に組み立てられている。

したがって、プロスペクト理論が導き出すような不合理で逸脱した人間の行動は、規範的には受け入れがたいあくまで現実的、記述的な合理性を持つに過ぎない変則(anomaly)であるとされる。

経済学的な難しい言葉で言えば、期待効用仮説が「基数的」つまり量的な(逆に言えば「序数的」でない)効用概念を前提とするのに対して、プロスペクト理論は効用関数に代えて価値関数と確率荷重関数の2つを掛け合わせて「評価」された主観的に最高価値の選択肢が、必ずしも合理的でない人間の行動を決定すると考える。

 そして、「評価」の前段階のプロセスとして、不確実性(正確に言うとリスク)下での課題を簡略化し、先行的に分析するため「編集」を行うとされている。この「編集」作業を行うために必要なのが参照点(reference point)の決定である。

 実はこのような小難しい理論を並べなくても、プロスペクト理論は理解可能だ。つまり、人間の意思決定というものは、ヒューリスティックス(heuristics)という問題解決を簡便にするバイアスによって参照点を決め、その参照点からの主観的価値と結果の離れ具合を参考にして、利益のある領域ではリスク回避的な行動を選択し、逆に損失が出る領域ではリスク受容的な行動(最適解の近似値)を選択するということである。

 ただ、参照点から離れる程、利益であっても損失であっても主観的価値の変化量は逓減すること(限界効用逓減と同じ理屈)と、損失の方が利益より逓減率(傾き)が急勾配であることを押さえておけば十分である。

 一番重要なことは、人間の判断基準となる参照点が、様々なバイアスによって移動することにより、選好される選択肢が状況に応じて逆転し得るという点である。

 いま、入社3か月後に会社を辞めたい3人の新入社員がいるとする。A君は優等生タイプで真面目な新人だが、仕事の業績が上がらず悩んでいるので会社を辞めたい。B君は下積みの仕事に意義を見つけることができず、「こんなはずじゃなかった、もっと自分のキャリア・アップにつながるような大きな仕事をしたい」と思っているので会社を辞めたい。

最後にC君は、一流大学出の有望新人だが、意識の高さが空回りして机上の空論ばかりを上司と先輩に吹っかけて迷惑がられ、人間関係が悪化しているので会社を辞めたい、とする。

 さて、A君は、会社を辞める判断基準の参照点を最近の事例の想起容易さ(availability)効果に基づいて決めた。同期のDが既に業績を上げた事実を過大評価して、自分はダメだと落ち込んでいる。

 このケースでは、A君は参照点から見てリスク受容的な損失領域でなくリスク回避的な利益領域になお留まっていると考えられる。したがって、A君は損失のリスクに敏感であると思われる。彼の上司は、日本の会社では短期的ではなく長期的に正社員が利益を回収する雇用システムを採用しているのだから、短気を起こさず、長期的視野を持って少しずつ能力を伸ばせばよい、と説得してA君の参照点を移動させてやるべきであろう。

 B君の場合は、会社を辞める参照点を、自分の得た会社に関する初期情報に引きずられる係留(anchoring)効果に基づいて規定していると思われる。彼のケースでは、上司は下済み仕事のOJTにおける意義と会社全体における目標との関連性に具体的に落とし込んでやることで、B君の参照点を移動させてやるのが効果的だろう。

 さて、一番難しい対応が求められるのがC君のケースである。エリート意識の強い彼の会社を辞める参照点は、現在自分の置かれた立場が過去の自分の典型例からどれだけ乖離しているかという、代表性(representativeness)効果に依拠して規定しているからである。

 したがって、恐らくC君は、自分が現在損失の領域に置かれていると感じているはずだ。損失の領域に置かれたと認識している行為者は、リスクを積極的に受容して冒険的な行動を選択しがちである。国際安全保障の研究で言えば、リスキーな対米予防戦争に敢えて打って出た戦前の日本のような、現状変更国家の意思決定がこれに該当する。そのためC君もリスクを恐れず、会社を辞めてしまいかねないと考えられる。

 この場合、国際安全保障の世界では、相手の恐怖に訴えかける抑止あるいは強制の有効性が議論されるのであるが、まさか、民間企業の人事でそんなことはできないだろう。したがって、会社としてC君の参照点を移動させることは極めて困難なことになるはずだ。

2015年6月9日火曜日

建武3年1月の京都攻防戦について

 先に投稿した建武2(1335)年12月の箱根・竹ノ下の戦いに勝利した足利尊氏、直義軍は、新田義貞が率いる官軍を追撃して天竜川を渡河し、12月30日には近江琵琶湖東岸の伊岐代館に立て籠もる比叡山の僧兵1千人余りを高師直軍が蹴散らして京都に向かった。

 『梅松論』によると軍勢の手分けは、瀬田には直義と高師泰、淀には畠山高国、一口(芋洗)には吉見三河守、そして宇治に尊氏が率いる軍勢が向かったというから、足利勢はかなりの兵力を擁した典型的な分進合撃作戦を採ったようだ。

 これに対して宮方は瀬田に千種忠顕、結城親光、名和長年を大将とする軍勢が向かい、宇治には新田義貞勢が布陣して足利勢を迎撃した。瀬田では、正月3日から矢合わせが開始されたという。宇治の大将義貞は、宇治橋中央二間の橋板を外し、櫓と掻楯(楯を垣根のように立て並べたもの)を作って守備を固めていたが、1月8日には尊氏勢が攻撃を開始し矢戦となる。

 9日には、細川定禅と赤松円心の率いる中国、四国勢が山崎に迫り、翌10日午の刻頃に宮方を破って久我鳥羽に攻め入って放火したため、各地の官軍は洛中に敗走し、後醍醐天皇は比叡山に臨幸することになった。なおこの時、内裏も焼失したと言われ、秦の咸陽宮と阿房宮の焼失や寿永3年平家の都落ちに擬えて『梅松論』に記されている。

 正月11日正午頃、尊氏は都に入り洞院公賢の屋敷あたりに布陣した。宮方から降伏者が多数尊氏の下に参上したが、この時宮方の結城親光は、後醍醐天皇に別れを告げると佐野山合戦で裏切った大友貞載を討ち取るために偽りの降伏をして接近し、見事大友に致命傷を与えて自らも討ち死にしたと言われる功名を上げている。

 さて、両軍の激戦が展開されたのはその後である。正月13日頃から義良親王(後の後村上天皇)と北畠顕家が率いる奥羽勢が東坂本に到着し、新田勢と合流して足利方の三井寺を攻撃したため、援軍に向かった足利勢は寺を焼き払って洛中に撤退した。尊氏、直義は迎撃のため鴨川の三条河原で16日に合戦して新田勢に勝ち、鴨川東岸の白河に進出した。

 1月27日朝8時頃、官軍は河原と鞍馬口の二手に分かれて反撃してきたため、足利勢は苦戦に陥り、尊氏と直義の母方の伯父である上杉憲房など名のある武将が多数討ち死にして洛中から撤退する。ところが内野あたりに残っていた細川定禅らの四国勢が反撃に出て宮方を西坂本まで追い落としたため、尊氏らは七條河原に戻って布陣した。

 足利勢は翌28日夕刻、再度神楽岡(吉田山)に来攻した宮方と戦い、晦日夜半からは糺河原で最後の激戦を展開したが宮方に敗北し、丹波篠村に撤退したのであった。その後、2月1日に赤松円心の案内で三草山を経由して印南野に出て、3日に兵庫の島に到着したという。その後、尊氏と直義は再起を期して九州に落ち延びることになる。

 さて、兵力ではやや優勢のように見えた足利勢が、なぜこの時の京都攻防戦で敗れたのか。やはり大きいのは北畠顕家が率いる奥羽勢の到着で宮方の兵力が増強されたことと、足利勢が兵力を洛中に分散させすぎて集中運用できなかったためだろう。宮方は比叡山を拠点として、鴨川東岸から兵力を集中して足利勢を攻撃出来たことが勝利の要因では無かったか。宮方が錦旗を掲げる官軍であるという大義名分があった点も、この時点で賊軍に過ぎなかった足利勢に比べると、兵の士気に与えた影響は大きかっただろう。

 しかし、その後九州に落ちた足利勢は3月多々良浜の合戦で九州宮方の菊池武敏の軍勢を撃破して、4月3日には再上洛を目指して太宰府を進発することになったのである。

2015年6月4日木曜日

源氏の軍陣と、笙の秘曲「蘭陵王荒序」の演奏

 先日、新田義貞と足利尊氏の背水の陣に関する考え方について、筆者は投稿した。最近、室町時代の楽人である豊原統秋が永正9(1512)年応仁の乱による京の雅楽の衰退を憂えて著した楽書『體源鈔』に、「義貞軍記云事」が引用されていることを知り、その内容を確認してみた。

ちなみに豊原家は、代々笙の演奏を家業とする昇殿を許されない地下の楽家である。篳篥の東儀家などと同じ役職(但し、江戸時代の豊原家は京都方、東儀家は天王寺方で所属した楽所は異なる。いわゆる三方楽所のもう1つは南都方)である。

 すると、『體源鈔』に背水の陣についても『義貞記』が引用されており、「陣可ㇾ取事」として「我身多勢の時は、山河を前にあて、無勢の時は、山河を後に当と云へり、但是も事の体に随う可き歟、一篇之義を不ㇾ可ㇾ存」云々と有った。

 確かに、背水の陣の起源となった韓信が趙を攻撃した時起きた井陘(河北省)の戦いにおいても、韓信軍は劉邦の本軍に援軍を送ったために趙軍と比べて著しく無勢であった。そこで韓信は、『孫子九地篇』の教え通り、兵を死地に置くために川を背にして退路を断つ陣地を構築することで、兵たちを勇戦敢闘させて大勝利を得たのだった。

 この故事からわかることは、原則として背水の陣は、兵力劣勢の方が陣地を必死に守り勝つための戦法であったという点だ。兵力が敵より優勢な場合には、むしろ川を前に当てて戦うのが鉄則だったようである。とすれば、寿永3(1184)年正月の木曽義仲や、承久の乱の時の京方のように、兵力劣勢な側が宇治川と勢多川を前に防戦して忽ち敗北したのも肯けるところであろう。

 しかし、なぜ『體源鈔』のような超一級の楽書に、わざわざ軍陣の作法が記されているのか。実は、豊原氏は源氏、特に足利家の笙の伝授に大きく関わっていたからである。

 笙の伝授に関して最も有名なのは、後三年の役で苦戦する兄義家の援軍に加わるために官職を捨てて奥州に向かった源義光(甲斐武田氏の祖)が、逢坂関(『古今著聞集』では関東の足柄山)で追従してきた豊原時元(『古今著聞集』ではその息子時秋)に秘曲「太食調入調」を伝授したという逸話であろう。

 源氏、特に足利尊氏の武功を称える『源威集』では、義光が奥州の戦場で豊原某に「太食調入調」ではなく、笙と舞の最秘曲である「蘭陵王入陣曲」の「荒序」を伝授(御灌頂)したことに話がすり替わっている。

 実は尊氏とその息子で初代鎌倉公方の基氏は、いずれも豊原氏嫡流からこの「陵王荒序」を相伝した笙の名手であったのだ。尊氏は将軍家天神講で毎月衆人の前で笙を演奏していたし(三島暁子「将軍が笙を学ぶということ-南北朝・室町時代の足利将軍家と笙の権威化」『東京大学史料編纂所研究紀要』第20号、2010年3月、27頁)、基氏は以前述べた貞治2(1363)年8月に芳賀入道禅可を破った武州苦林野(巌殿山)合戦の前夜、雨中の陣中でわざわざ笙を持ち出して「荒序」を演奏しているほどだった。

 この雅楽屈指の秘曲「荒序」であるが、6世紀中頃活躍した北斉の蘭陵武王、高長恭の北周との戦いにおける武勇と「音容兼美」といわれたその眉目秀麗さを称えて作られた、勇壮かつ優美な管絃および舞楽である「蘭陵王入陣曲」中の1つの楽章であると言ってよい。

 高長恭は主君である北斉後主に疎まれ、573年に毒薬を賜って享年30代前半の若さで自殺に追い込まれた、我が国で言えばちょうど源義経のような人物である。

 『體源鈔』によると、「荒序」は「破陣曲事」として、「陣中向ㇾ敵用ㇾ之、又打取て破陣之曲にも用、悉天下静謐をしても用」云々と記されており、要するに敵を調伏し戦勝を祈願するための曲であって、足利尊氏や基氏のような武家の大将がわざわざ戦陣で演奏するに相応しい曲であったのだ。

 事実、弘安4(1281)年8月の蒙古再襲来に際して当時の亀山上皇は、石清水八幡宮において異国降伏報賽の一切経供養と「荒序」の演奏を命じているし、鎌倉幕府打倒を企図した後醍醐天皇は、身分の低い楽人でもないのに、自ら何度も「荒序」を上演したと言われている。

 このように、足利氏歴代にとって笙の演奏、とりわけ「荒序」の相伝は、戦場における将軍としての自らの権威付けにとって不可欠な伝統芸の継承であったというわけである。

2015年6月3日水曜日

イランとの核交渉に関する「共同行動計画」(ジュネーブ暫定合意)に対する評価

  2013年11月24日イランとP5プラス1(国連安保理常任理事国5カ国とドイツ)の間で妥結されたジュネーブ暫定合意による「合同行動計画」の内容は多岐にわたるが、イランから引き出すべき譲歩における重要なポイントは、イランの核爆弾製造を促進しかねない5パーセントを超えるウラン濃縮活動をどの程度停止させるか(論点1)という点と、プルトニウム抽出疑惑がもたれているアラク重水炉を稼働させるかどうか(論点2)という2つの点であった[1]

 論点1については、以下の3つの譲歩がイラン側によって合意された。すなわち、まず第1に、イランがすでに保有している医療用と主張する純度20パーセントの濃縮ウランを兵器化できない酸化物に転換するか、あるいは純度水準を何分の1かに希釈すること。第2に、5パーセントを超える純度にウランを濃縮できる遠心分離機を遮断すること。第3に、イランはいかなる新しい遠心分離機も設置せず、旧式の遠心分離機を新しい装置に転換しないこと。同時に、イラン国内にある濃縮施設の数を増やさないこと、である[2]

 この譲歩によって、イランは純度5パーセントを超えるウラン濃縮活動を、短くとも暫定合意の有効期間である6か月間は全面的に停止する義務を負ったことになる。ただし、その見返りとしてP5+1は(NPT4条によって認められた)イランが平和的な原子力にアクセスする権利を承認したのである[3]。この承認に対する評価が、後述するようにイスラエル国内で割れている問題がある。

 次に、論点2のアラク重水炉の稼働問題については、イラン側は暫定合意の期間中、同重水炉での作業を一切進展させないことを約束した[4]。ただし、逆に言うと、イランは暫定合意期間の半年間、アラクの重水炉を廃棄ないし廃棄を開始しないという言質をP5+1から得たことになる。アラクでイランが建設中の重水炉の取り扱いについては、フランスが協議の過程において非軍事利用での合理性を欠くものとしてイラン側に全面的な解体を要求し、アメリカもこれに同調したため、イラン側がこの要求に対する譲歩として同重水炉に対するIAEAの査察の大幅強化を受け入れるとともに、暫定合意期間中に稼働させないことを約束した経緯があった[5]

 P5+1側が認めた経済制裁緩和は、約60~70億ドルのイランに対する救済措置に相当するものである。その主要な内容は、イランの石油化学輸出品と金・貴金属取引に関する制裁の停止、イラン自動車産業に影響する制裁の大半の停止、レーダーなど軍事関連部品を除く航空機部品に対する制裁の緩和、海外からの送金が停止されている原油輸出代金約42億ドルをイランが受領できるように欧米諸国が作業を開始すること、そして、制限されているイランの資金について、欧米側の一定の監視の下で医療機器の購入など人道目的のためにイランがアクセスできるよう改善すること、である[6]

 ジュネーブ暫定合意については、その内容を肯定的に評価する意見と、その効果を懐疑的に見る意見がイスラエル国内で対立している。まず肯定的な意見としては、例えば、シモン・ペレス元首相やアモス・ヤドリン前軍情報部長が今後半年間にP5+1とイランが交渉で詰める恒久的合意の詳細の方を重視して、ジュネーブ暫定合意を一定の成果と見なす意見がある[7]

 これは、イランのブレイク・アウト(暫定合意離脱)、すなわち、イランが兵器級のウラン濃縮を再開する決断を選択した場合には暫定合意がない場合よりも数週間ないし数か月間長い期間を必要とすることから、国際社会が時間を稼ぐことができるとともに、イランの合意離脱の試みを察知することができるとする、P5+1側の評価をほぼ承認する見解である。

 一方、懐疑論としては、例えば、ネタニヤフ首相がジュネーブ暫定合意を「歴史的な失敗」と非難した20131124日の閣議の席で、アヴィグドール・リーバーマン外相が、ジュネーブ暫定合意について「1979年のイスラーム革命以来となる、イランの大いなる外交的勝利である」と語ったとされる[8]

 このジュネーブ暫定合意をめぐる是非の論争は、ネタニヤフ現政権の採用してきた対イラン強硬政策の効果の有無と、外交を中心として今後イスラエルの採るべき政策オプションを変更するかどうかの論点に及んでいる。従来の政策を肯定する意見として、例えばINSS研究員のヨエル・グザンスキーは、イランに与えたネタニヤフ政権の脅威と抑止的行動の結果、イランが協議のテーブルに着く決断をしたと見なして評価している[9]

 一方、ネタニヤフ政権の従来の政策が失敗した点として、過度にアメリカのオバマ政権などと対立的になりすぎたために、イランではなくむしろイスラエルの国際的な孤立を招いてしまい、現状で味方はサウジアラビアと米国議会だけになってしまったと評価する見方もある[10]

 しかし、いずれの立場に立つにせよ、P5+1とイランの今後の交渉でもたらされるはずの最終合意において、イランのウラン濃縮計画を廃棄させない限りイスラエルにとって実存的脅威となるとする点で双方の考えは一致している[11]。イスラエル国内では、核開発を放置すればイランが核武装に向かうことは必然であると見なされているのである[12]

 そうした現状の共通認識を踏まえて、イスラエルの外交・安全保障コミュニティにおいては、2009年の政権発足以来ネタニヤフ首相を中心に展開してきた対イラン強硬姿勢のアピールが、今回のジュネーブでの協議の過程でほとんど影響を及ぼさなかった点が反省されつつある。


[1] “Iran nuclear deal: Key points,” BBC News Middle East, 20 January 2014, <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-25080217>, accessed on 17 March 2014.
[2] Ibid.
[3] Jonathan Marcus, “Pessimism pervades Iran nuclear deal talks,” BBC News Middle East, 18 February 2014, <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-26243520>, accessed on 17 March 2014.
[4] Ibid.
[5] 「欧米とイラン、核協議で合意―核兵器級のウラン濃縮停止」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日、<http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303735804579218651491373932.html>2014312日アクセス。
[6] 「イランと主要6カ国の核協議の合意内容」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日、<http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303735804579218580728133324.html>2014312日アクセス。
[7] 「イスラエルで外交路線めぐる論争―イラン核協議の合意受け」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日。
[8] 同上。“‘Historic mistake’: Netanyahu says world is 'more dangerous place' after Iran deal,” Russia Today, November 24, 2013.
[9] 「イスラエルで外交路線めぐる論争―イラン核協議の合意受け」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日。
[10] 同上。
[11] 同上。
[12] Shmuel Even, "The Israeli Strategy against the Iranian Nuclear Project," p. 8.

2015年6月2日火曜日

労働者派遣法改正は、就職氷河期世代の救済案をセットにしなければ将来に禍根を残す。

今国会で審議されている労働者派遣法改正案の主要目的は、最長3年の派遣期間制限を事実上撤廃することにあり、同法案が可決されれば、企業側としては雇用の調整弁としての派遣労働者の活用をさらに行いやすくなるはずである。

 この改正案が成立すれば、短期的な企業の国際競争力の向上と人件費の圧縮に大いに寄与することは確かであろう。その意味では、アベノミクスの成長戦略を後押しする効果が期待できる。

 しかし、他の先進国と異なる日本の労働市場の顕著な特徴として、1993年から概ね10年ほど続いた就職氷河期世代の大量の非正規雇用者を抱えている大問題がある。彼らは現在34歳から44歳くらいの中高年齢層に到達しており、もはや正規雇用への転換が望めない年齢になりつつある。

 NIRA(総合研究開発機構)が2008年4月に出した研究報告書「就職氷河期世代のきわどさ 高まる雇用リスクにどう対応すべきか」によると、就職氷河期世代の非正規雇用者は100万人以上の規模で残存しており、彼らが低賃金水準のまま十分な年金が確保されないままに退職後に生活保護受給状態に陥ったとすると、国は20兆円程度の追加的財政負担を強いられると試算されている(同上、3頁)。

 とすると、今回の派遣法改正は、こうした大量の就職氷河期世代の非正規雇用状態を永続化させる効果をもたらしかねないのではないだろうか。短期的には日本経済の競争力回復にとって効果があったとしても、20年から30年後に国の財政を逆に悪化させる可能性があるのでは、もう少し慎重に考える必要があるだろう。

 例えば、正規雇用者に対するOJT中心の日本企業の能力開発支援制度の下では、非正規雇用者が正規雇用への転換を望んで転職市場に参入しても、それまでの職務経験からは、自己の能力を十分に開発できるような雇用環境に置かれていなかったと思われる。

 また、企業サイドが非正規雇用者を中途で正規雇用者として採用しようとしても、そもそも客観的な能力評価システムがないために情報の非対称性の問題から採用時の評価が困難であるし、日本の未発達な外部労働市場の状態では、就職氷河期世代の正規雇用への転換を政策的に支援することは恐らく困難であろう(同上、15頁)。

 そういうわけで、今回の労働者派遣法改正案が成立して就職氷河期世代が大量に非正規雇用に常態的に留まる結果を招くと、日本は恐らく将来、彼らの貧困化の問題に直面せざるを得ない羽目に陥るだろう。

 非正規雇用者の多数派である既に中高年齢化しつつある就職氷河期世代の人たちに対しては、法案にあるような派遣元による能力開発支援や派遣先への直接雇用依頼だけでは、彼らの正規雇用への転換を促進することはできないだろう。

 おりしも来年1月からマイナンバー制度の導入が始まるが、就職氷河期世代の貧困化を救済するために、我が国も給付付き税額控除制度の導入を本格的に検討すべき時期かもしれない。

もちろん、給付付き税額控除制度を導入するためには、マイナンバーによる名寄せなど税務当局の事務量の厖大化にどう対処するか、源泉分離課税が認められている国民の金融資産所得を税務当局が正確に捕捉するシステムをいかに確立するかとか、また事業所得者と農林漁業所得者の所得捕捉率の向上(いわゆる「クロヨン(964)問題」)などの様々な困難な検討課題が残されているのも事実である。

 しかし、給付付き税額控除制度をうまく設計できれば、増大する非正規雇用者の労働インセンティブの向上や、貧困率の改善などの政策効果が期待できることも確かであろう。

参考文献 
OECD日本カントリーノート「格差縮小に向けて なぜ格差縮小は皆の利益となり得るか」2015年5月21日、

2015年6月1日月曜日

南北朝時代の名将の条件-河川防御態勢と背水の陣

 先日の投稿で、箱根・竹ノ下の戦いにおける新田勢の緩慢な機動と、足利尊氏の足柄峠突破という優れた戦術眼について筆者は述べた。しかし、この戦いの直後、実は新田義貞は名将の誉れ高い逸話を残している。

 それは官軍の京都への撤退途中における、天竜川の渡河作戦においての義貞の判断に関するものだ。天竜川は浅瀬が無く、敗軍とは言え大勢であった義貞率いる官軍は馬で渡ることが不可能であった。在地の人々は戦乱を逃れて山林に避難しており、船はあちこちに置いてあった。

 義貞は軍勢を船で渡すと時間がかかるので、味方を1人も残さず撤退させるために、急遽浮橋(舟橋)を架けることを現地住民に厳命したのである。この橋を架けるのに3日間を要したという。

 義貞が見事な判断を下したのは、その後の対応である。義貞は全軍が1人残らず渡ったのを見届けた後最後に自分が渡河したのだが、軍兵たちが橋を切るように下知したのを聞いて橋の途中から引き返し、渡し守に次のように命じたというのだ。

 すなわち、義貞は、「敗軍の自分たちでさえ架けて渡れる橋を切り落としても、勝ちに乗じる足利勢がそれを架け直すのは容易であろう。敵の大軍に立ち向かう際に、小勢の味方が退かないように謀として川を背後にして橋を切ることこそ、武略の手立てと言うものだ。自分が敵にも架けられる橋をわざわざ落として、慌てふためいて落ちて行ったと言われれば末代まで口惜しい。橋はそのまま警護しておいて、敵を渡せ」と言ったとされる。韓信の背水の陣の故事を踏まえた判断である。

 これを聞いた人々は皆感涙して、「弓矢の家に生まれれば、誰もがこのように有りたいものである。疑い無き名将だ」と感心したと『梅松論』に記されている。実はこの逸話は、足利尊氏の側近くに仕えていた結城直光が残した軍記物と言われる『源威集』にも、全く同様の記述がある。つまり、足利方でも、この時の新田義貞の堂々たる撤退ぶりが感銘を与えていたわけだ。

 ところが太平記では、この時新田義貞は何者かに橋を切り落とされて溺れそうになったが危うく助かり、結果的に追撃してくる足利勢の渡河が妨害されたように書かれている。これでは義貞は、名将の誉れの欠片もない凡将となってしまうだろう。太平記には、こういう意図的な書き換えが多いので、必ずしも信用できないのである。

 『源威集』では、この天竜川渡河における新田義貞の故事の直前に、文和4(1355)年2、3月に激戦が展開された東寺合戦の際に、足利尊氏が、南朝と結んで京都を占領していた足利直冬(実は尊氏の庶長子で直義の養子)や山名時氏の軍勢に対し、近江から反撃に出て勢田川を渡河した際の逸話も併せて載せている。

 この時尊氏は、近江守護の佐々木道誉に命じて勢田川を渡河するための舟橋を架けさせたのであるが、軍を渡河させた後に自分が渡ると、折角架けた橋を落とすように命じたというのだ。

 この時、部下の中には、自軍が撤退した場合に備えて橋を落とさず道誉に警護させておくべきだと進言した者もいたが、尊氏は背水の陣の故事を引いて、味方に退く気持ちを持たせないために、敵方に接近されて落とされ恥辱を受ける可能性がある橋を自ら落とすのだ、と述べたとされている。

 天竜川撤退作戦の際の新田義貞の判断とは一見すると正反対の足利尊氏の判断であるが、『源威集』では、どちらも武門の名家河内源氏の名将による背水の陣の故事を踏まえた渡河作戦をめぐる好判断として、同様の位置付けで記載されていることが面白い。

 確かに歴史上の京都防衛作戦では、最後は宇治川、勢田川を前にして橋板を外し、柵や逆茂木を設けて矢戦で防戦するのが常道ではあったが、それで都の防衛に成功した試しはほとんど無い。むしろ、川を渡って背水の陣を敷き、侵攻する敵との決戦を挑む勇気を持った方が却って有効であったのかもしれない。