2015年8月27日木曜日

海外旅行経験者向け、欧州2都市滞在格安旅行プランに関する提案(その1)

 824日の投稿で、筆者は新婚旅行で初めて海外に行く人へのお薦めリゾートとして、ラスベガスなどアメリカ本土は難易度が高いのでハワイのホノルルを推薦した。実は筆者には、家族連れの格安旅行でよく使うワイキキのオン・ザ・ビーチのホテルが2か所ある。

この言わば我が家の2つの常宿ホテルの部屋は、いずれもやや狭い約30㎡(今度改装されるホテルオークラ本館の主な客室と同じ広さ)だが、ワイキキのメイン・アベニューであるカラカウア通りの中心をロイヤルハワイアン・センターとして見ると、西側に最高級ホテル・ハレクラニの姉妹ホテルであるワイキキ・パークホテルがあり、東側にアウトリガー・ワイキキ・ビーチリゾートがある。

そして、前者はハレクラニのサービスを利用できる上にDFSギャラリアやABCストアに近いという買い物上の利点があるし、また後者は、ワイキキで最高の立地にも拘らず日本人ゲストが少なく、かつ、ホテル内にあるデュークス・カヌー・クラブでの朝食も中々イケており、正に外国旅行らしさを味わえて筆者には寛げるのである。

 そう述べた途端、ロイター通信から入ってきたニュースによると、ハワイのオアフ島ホノルルで23日夜から24日朝にかけて降った大雨の影響で約190万リットルの汚水が海に流出し、海水浴客が感染症に罹患する恐れがあるため、24日から期限未定でワイキキ・ビーチが閉鎖されたという。これでは折角筆者が推薦しても、当分の間、新婚さんがホノルルに旅行する意味が無いだろう。

 そこで、今日と次回は代替案として、改めて海外旅行経験者向けの格安な欧州2都市滞在旅行プランに関する提案を2つ提示してみたい。これらはいずれも、ここ最近10年間に筆者が家族旅行で実践したプランであり、海外旅行初心者にはやや難しいが、ある程度英語が話せる経験者ならば十分実行可能であるし、中々充実した旅行になるのではないかと考える。

 今日提示する第1案は、南仏コートダジュール周遊とパリ観光セット案である。羽田発エールフランス便を使えば、パリから往復2フライト無料(欧州航空会社は全て同様)になるから、事前に購入した航空券でまず先にニースまで飛んでしまう。

そして、ニース空港からはバスで市内まで移動し、治安の悪い鉄道駅近くにないなるべく格安のホテルに宿泊する。翌日はニース旧市街や丘の上の城跡、シャガール美術館などを観光する。夏なら海水浴もできる。トイレが少なく、かつ、レストラン以外では利用に際してチップが必要であることに注意する。ミネラル・ウォーターは、中心街で買って事前に用意しておくことが必要である。

翌々日は、少し足を延ばして、モナコとのほぼ中間地点の山の上にある鷲の巣村エズに行く。トラムでVauban駅のバスターミナルまで行き、そこで1時間に1本位出ている82番か112番のバスに乗って約30分のEze Villageで降り、この高台で見晴らしの良いオモチャのような絶景の村を観光する(トラムのチケットで、バスへの乗り継ぎが1回可能だったように思う)。

 フランス入国4日目は、時間が有ればニース市内から100番のバスか電車でモナコ公国に観光に出かける。グレース・ケリーが埋葬されている旧市街やカジノで有名なモンテカルロを観て回る。但し、時間が無ければモナコ観光は止めて、この日の午後飛行機でパリに向かうこととする。

 さて、いよいよ花の都パリに着いた。シャルル・ドゴール空港からはタクシーは高くつくので、Roissy busでオペラ座まで行くのが筆者のお薦めである。所要時間は約1時間程度で、昼間は15分位の間隔で頻繁に発車する。バスの車内は広くて快適・安全だし、何より片道111ユーロで格安なのである。市内のバス停もパリのど真ん中のオペラ座の脇にあるから、どこへ行くにも迷いようが無い。地下鉄にもすぐ乗れる便利な場所に着く。

 ところで、パリの市内はコートダジュールとは比較にならない位スリや置き引きが多くたむろしている。パリの地下鉄は乗りこなすのに多少の慣れが必要だから、戸惑っている日本人はスリ連中の格好の標的になりがちなので特に注意が必要である。まだ小さい少年数人に囲まれたら、まずスリであるから、遠慮せずに声を出して追い払ってしまおう。

 パリは観光名所がセーヌ川のシテ島を中心に大体固まって存在しているから、ホテルを中心地に選べば地下鉄と徒歩で観て回ることが出来る。しかし、エトワール凱旋門やエッフェル塔は昇っても眺望が良いだけでつまらないから、記念写真を撮る程度だけに留めて省略してしまっても差し支えないだろう。セーヌ川クルーズは気持ちが良いので、試みても良いかも知れない。

 しかし、治安の悪いパリを余り歩き回るより、パリ・ミュージーアムパスを空港で事前に購入しておき、滞在中3か所だけに絞って集中観光するのが得策であると筆者は思う。

その3か所とは、「モナリザ」のあるルーヴル美術館と、ミレーの「落穂拾い」やゴッホの「自画像」を所蔵するオルセー美術館、そして郊外にあるヴェルサイユ宮殿である。特にルーヴル美術館はとてつもなく広いので、一通り鑑賞するには2日間は必要である。

また郊外にあるヴェルサイユ宮殿には電車で行かなければならないので、当然1日がかりの観光になる。最低でも鏡の間がある大宮殿(今でもトイレがほとんど無くて、常時人が並んで順番を待っている)と噴水庭園、そして、あのマリー・アントワネットが英国風田園生活の風情を楽しんだプチ・トリアノンの離宮は見学すべきであるから、見学に相当な時間を要し、かつ、とても疲れる。

何しろ敷地がとてつもなく広くて、歩くのに非常な時間がかかるのである。そして入場に際してここでミュージアムパスを持っていないと、早朝からチケット購入の長蛇の列に並ぶ羽目に陥ってしまう。

ヴェルサイユまで電車では、ナポレオンの墓があるドーム教会近くのアンヴァリッド(Invalides)駅からRER C5線でヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ(Versailles-Rive Gauche)駅まで行くのが便利だが、途中でC7線が分岐しているので観光客は注意が必要である。しかし、地下鉄から乗り換えて行くことが出来るので、それほど難しいものでもない。

したがって、3日程度のパリ短期滞在では、この3か所を観て回るのが恐らく限界であろう。これが筆者の提案する、欧州2都市滞在格安プランの第1案である。次回は続きで、第2案を提示してみたい。

2015年8月25日火曜日

佐野研二郎氏のロゴ・デザイン類似問題に関する、日米著作権法的観点からの考察

 2020年東京五輪公式エンブレムをデザインした佐野研二郎氏の様々なロゴなどのデザインが、他のデザイナーの作品を模倣したものではないかとの疑惑がこのところ世間を騒がせている。

 研究者の端くれである筆者も文章を日常的に創作しているので、論文ではないが、この手の創作物の模倣問題については一定の関心を持って見ている。しかし、著作権法の構造も十分に理解せずに単に先行作品に「似ている」という自分の思い込みだけで安易に「盗作」であると決めつける無責任なレッテル張りをして、デザイナーの足を引っ張るようなことは厳に慎まなければならないだろう。

場合によっては騒動の無責任な拡大が、そのデザイナーの職業生命を奪ってしまいかねない大きな危険を孕んでいるからだ。そもそも著作権者でないものは本来利害関係に立っていないのだから、私見の表明は慎重に行うべきであろう。研究者の中にもその辺りの機微を余り考えずに、他人の著作物に対して直ぐ「無断引用だ、借用だ」と騒ぎ立てる愚かな人もいる。そもそも論文中の「引用」は、注を付けて無断で行うことが法的に認められているにも拘らず、である。

 さて、佐野氏の問題の場合、論文と異なってロゴのデザインが専ら商業利用を目的としたものであろうから、金が絡むだけに権利侵害問題はより複雑になる。商業利用で無い研究・教育目的での先行作品の模倣の場合には、米国著作権法上、所謂フェアユース(公正な利用)が認められる可能性が高いからである。但し、フェアユースの場合でも著作権の所在を明示する必要はある。

1976年米国著作権法第107条に規定されたフェアユースが認められれば、米国内法的には他人の著作権を侵害していないことになる(その場合でも、デザイナーとしての佐野氏の倫理的責任は勿論問われる。特に先行作品を単に「トレース」した場合には、論文などで他人の著作物を「コピペ」したのと同様に厳しく非難されるべきだろう)。

今回のケースでは、佐野氏のデザインが自分の作品の模倣であるとして法的措置を検討しているデザイナーが、五輪エンブレム以外ではサントリー・キャンペーン賞品の場合も「おおたBITO太田市美術館・図書館」ロゴの場合も、それぞれアメリカのデザイナーであることから日米著作権法の当該問題に関する法的取り扱いの違いを理解して考える必要があるだろう。

 佐野氏は部下の事務所スタッフがトレースしたとされるサントリーのキャンペーン賞品8点を既に取り下げているから、この部分に関して模倣されたと主張するベン・ザラコー氏らはもはやデザイン自体の使用差し止め請求はできず、損害賠償請求が出来るだけだろう。

 その場合にも、日本の著作権法上保護の対象となるのはあくまでも創作性のある「著作物」であるから、トレースされた写真?の「著作物性」(創作性)が厳しく吟味されることになる。実際の裁判では、原告側の請求棄却となる可能性も相当にあるだろう。

また、先行作品の「著作物性」が仮に認められたとしても、トレースされた表現が先行作品を単にデッド・コピーしたものでない場合には、著作権者の「翻案権」を侵害したかどうかが改めて吟味されることになるが、その判断も非常に難しいものとなるだろう。筆者の見立てでは、日本でこの裁判が提起された場合の勝敗は五分五分といったところか。

 筆者がより興味深く問題の行方を見ているのは、もう1つの太田市美術館・図書館のロゴの類似問題である。この場合の先行作品はジョシュ・ディバイン氏が2011年に発表したロゴ「Dot」だが、確かに細い直線と黒丸を使用した表現は同一ではないが筆者が見ても非常によく似ていると思う。

 佐野氏はこのロゴ問題について、FNNの取材に対して概略以下のような反論をしている(822www.fnn-news.com)。すなわち、「一定の要件(つまり、アイデア-筆者注)を満たすデザインは世の中にたくさんある」「それが、だれか特定の人のアイデアとして認められ、ほかの人が使えないということであれば、デザインの世界では、できないことがほとんどになってしまうと思います(以下略)」という主張である。

 この佐野氏の反論から考えると、既に弁護士の助言を聞いたのだろうか、佐野氏は日本の著作権法の保護対象があくまでも著作物の「表現」部分に留まり、創作の背景となる、例えば歴史上の事実や状況設定、短いキーワードなどの「アイデア」自体が決して保護されない事をよく理解した上での発言だと筆者には思われる。

 それと同時に、この反論の口振りからは、佐野氏がディバイン氏の先行作品を実際に参考にした事実関係を窺わせる内容を含んでいるような印象も受ける。仮に佐野氏が自分のロゴの創作活動に先立ってディバイン氏の作品を参照し、そこから何らかのインスピレーションを得ていたとすれば、「依拠性」が有る事は認めたことになる。勿論、過去の判例でも、アイデアの依拠自体には日本の著作権法上何も問題がないことは明白なのである。

 このケースでは原ロゴの著作権者が米国在住であるから、日米どちらで提訴しても国際的な裁判管轄権の問題が生じ得る。そして、もし仮にディバイン氏のアメリカでの提訴が認められた場合、個別的な権利制限規定しか持たない日本の著作権法上では規定が無い、フェアユースの一般的な権利制限規定が適用されるかどうかが改めて問題になるだろう。

 1976年著作権法第107条では、研究または調査等を目的とする著作権のある著作物のフェアユースは著作権侵害とならないと規定している。そして、その判断に際して考慮すべき要素として、(1)使用の目的および性格(使用が商業性を有するか、または非営利的教育目的かを含む)、(2)著作権のある著作物の性質、(3)使用された部分の量および実質性、(4) 潜在的市場または価値に対する使用の影響、の4つが掲げられている。

 しかし、これらはあくまでも例示に過ぎず、個々のケースでのフェアユース適用の可否はその時の裁判官の判断次第なのである。その意味で日本の著作権法程厳格ではなく、緩やかな英米(判例)法的な体系となっている。

 先に筆者は商業利用のケースではフェアユースが認められにくいと述べたが、米著作権法上のフェアユースは衡平法上の合理性の原則に基づく規定である。したがって、たとえ後発作品が商業利用を目的とするものであっても、その新しい表現が原作品を改変して新たな目的や異なる性質の新規物を付加する使用方法である“transformative use”であれば、フェアユースの推定が与えられ市場への影響の不存在を推定できるとされている。

例えば、映画「プリティ・ウーマン」主題歌のラップ調パロディ曲を被告が営利目的で著作権者に無断で発表した事案が問題となったケースに関して、パロディが原作品と異なる市場価値を持つことを認めた連邦最高裁の判例がある(1994年キャンベル判決)。

 このように考えてみると、仮に米コロラド州在住のディバイン氏が米国の裁判所で佐野氏に対する著作権侵害訴訟を提起してその管轄権が実際に認められた場合、今回のロゴ類似問題は、もろに米国著作権法上のフェアユースの可否に論点が絞られることになるのではないだろうか。

2015年8月24日月曜日

新婚旅行で初めて海外に行く人へのお薦めリゾートは、ホノルルかラスベガスか?

 筆者はこの夏、20年ぶりにラスベガスに家族旅行で行ってきた。妻の会社の後輩さんが新婚旅行で、この11月にラスベガスに行くそうである。そこで、今日は新婚旅行の訪問先としてのラスベガスについて、筆者の家族旅行における感想も含めて私見を述べてみたい。

 まず前提として考えなければならないのは、妻の後輩さんとそのご主人は英語が余り堪能ではないという点である。つまり、彼らがラスベガスまで米国内便を乗り継いで無事到達できるかどうか、多小の難関が待っていることを最初に指摘して置かなければならない。

 日本からラスベガスに行くには、通常ならロサンゼルスかシアトルあたりのアメリカ西海岸の都市を経由して米国内線を乗り継いで行く必要がある。羽田から深夜発の飛行機で行くことが出来るのは利点であるが、ラスベガスへの直行便は無い。その上悪いことに、アメリカはテロ対策を考慮してか、まず乗継地でバッゲージを受領して入国審査を通らなければならない。これが日本や欧州と比べると(イスラエル入国審査程ではないが)、とてつもなく時間がかかるのである。

 なぜならアメリカの入国審査では指紋や顔写真を採取される上、事前にESTA(電子渡航認証システム)を1人当たり14ドル、クレジット・カードで支払って登録していたとしても、審査官から様々な質問を浴びせられるからである。英語が苦手な場合、まずここで出鼻を挫かれる羽目に陥るだろう。

筆者の家族旅行のケースでも、90分の乗り継ぎ時間では危うくシアトルからラスベガス行きの国内便に乗り遅れるところだった。欧州便と比べてアメリカ便は日付を跨ぐので、10時間以上のフライトでは時差ボケも相当きつい。ハワイ便は、フライトがそれ程長時間では無いことが良い点だ。ビジネスクラスで行くならともかく、新婚旅行ではフライト時間と時差ボケの疲労度も極めて重要な要素と言えるだろう。

 次に、ラスベガスは街全体が楽しい一種のテーマパークであるが、ホテルのレセプションが常に長蛇の列を成していて、チェックインやチェックアウトでは下手をすると30分待ちが当たり前だ。これはラスベガス中心部(ストリップ)のホテルがほぼ例外なく大規模カジノホテルで、桁違いの人数のゲストを(特に週末に)泊めているためだ。新婚旅行の場合、長時間の待ち時間は興醒めであろう。英語が不得手な旦那さんの対応に、奥さんが切れる可能性も高まりかねない。

チェックアウトでは時間がかかる上に、リゾート・フィーという意味不明の追加料金の支払いも要求される。ホテルの室内は客を寛がせずカジノに直行させるため、多くの場合コーヒー・メーカーも用意されていない。但しホテルはとても大規模なので、必要な設備はどのホテルでも大体揃っている。歩いて部屋に辿り着くまで非常に時間がかかることが多いのが、逆に欠点である。英語でスタッフに尋ねることが出来ないと、ホテル内で迷子になりかねない程だ。

 第三にホテルのバフェ(ビュッフェ)も含めて、食費が非常に高い。夕食では、1人当たり30ドル以上はまずかかってしまう。安上がりに済ませるには、ホテルやショッピング・モールのフード・コートを利用するか、ドラッグストアかハワイにもあるABCストアでサンドイッチやサラダを買う手もあるが、それでも110ドル以上は費やしてしまう。日本国内のコンビニに比較すると、極めて割高な値段である。ちなみにミネラル・ウォーターも1リットルのペットボトルが2ドル以上はする。日本で言う所の350ミリリットルの缶酎ハイや缶ビールが34ドル位で、これも昨今の円安では懐が痛む値付けと言えるだろう。

 ラスベガスの良い所は、グランド・キャニオンなどのアメリカ大自然に日帰りの現地ツアーで簡単に参加できることだ。ただし、ホテルの時計がサマータイムに設定し直されていないことが多いから、夏に行くとツアー集合時間を間違える危険性が大いにある。こういうところは、アメリカのホテルは日本のホテルに比べると非常にアバウトだし、全てゲストの個人責任にされホテルは一切補償してくれない。

ちなみに、ラスベガス便はよく遅延や欠航するので、その点のリスクも十分計算に入れておくべきだろう。日本帰国が1日遅れ、羽田から出国したのに成田に帰国させられる羽目に陥ることも有り得るのだ。したがって、会社の休暇は、当初の予定より1日か2日は余分に取っておいた方が無難である。

 以上のラスベガス旅行における難点は、ハワイの特にホノルル旅行ではほぼ考慮する必要が無い。英語が苦手な日本人でも、ホノルルならばラスベガス同様入国審査に時間がかかることを除外すれば、さほど初海外旅行の困難は感じないだろう。夏ならば海水浴もできるし、ラスベガスと同等程度にショッピングも楽しめるから、新婚旅行ではやはりハワイのホノルル行きが絶対にお薦めだろう。

ラスベガスなどアメリカ本土は、初めて海外旅行に行く日本人にとっては総じて難易度が高いと筆者には思われる。テーマパークのようなアメリカ的なまがい物感も、人によって好みが分かれる所ではないだろうか。

逆に新婚旅行で行くなら、むしろパリやウィーン、プラハなどのヨーロッパの諸都市の方が、重厚な音楽や文化の伝統に触れることが出来て良いのではないかと筆者は感じる。ただし、最近の欧州はイスラーム過激派などのテロが起きるリスクが否めないこと、そしてスリや置き引きなどの軽犯罪に常時気が抜けないこと、屋外に余りトイレが無いこと(有れば、利用に際してチップを払わなければならない)、水を買うドラッグストアやコンビニが殆ど無いことが、ヨーロッパ旅行に際しての難点と言えば言えるかもしれない。

2015年8月20日木曜日

朝日新聞デジタル8月18日「長篠の戦い、本当に鉄砲3千丁?高校生が筆跡から検証」に関する考察

 標記記事によると、県立岐阜工業高校の報道・放送部員11人が太田牛一の記した『信長(公)記』全15巻の画像データから「三」の文字270個を抜き出して牛一の筆跡を検証した結果、長篠の合戦場面における鉄砲数「千挺計」に付記された「三」の文字が牛一の筆跡である確率は16%に過ぎないという結果が導かれたそうである。

 なかなか実証的な高校生の取り組みだが、その手間暇は大変なものだっただろう。しかし、研究者の間でも見解の分かれるこの長篠の戦いにおける織田・徳川勢の鉄砲数の問題に関しては、信頼できる資料が牛一の『信長(公)記』しか無いのだから、今後も結論が出ることはないかも知れない。

 実はかなり以前に、筆者も知り合いの中東研究者たちと長篠の戦いの古戦場を探訪したことがある。その時は、奥平貞昌(信昌)が籠城した長篠城跡と馬防柵が築かれた設楽原(『信長(公)記』と大久保彦左衛門の『三河物語』によると有海原)の両方を見て回ったのだが、筆者の率直な印象としては小川に過ぎない連呉川を挟んだ低い丘陵地が錯綜している狭隘な戦場に、織田・徳川と武田の双方が総勢5万人以上の兵力を展開することはとても不可能に思えた。

 軍記物などで軍勢の兵力が誇張されることは常識であるから、筆者の見立てでは天正31575)年521日に行われた合戦当日の兵力は、地元の徳川家康勢約5千人、その援軍に駆けつけた織田信長勢約1万人、そして奥三河に侵攻した武田勝頼の軍勢が78千人といったところが真実ではなかったかと思う。

もちろん、この兵力数は筆者の推測に過ぎないが、それでも織田・徳川方の兵力が武田勢の倍は有っただろうから、勝頼の重臣たちが合戦前々日の軍議で諫言した通り、敢えて野戦に打って出たのでは武田勢の勝ち目は極めて薄かったと思う。

 そもそも武田勝頼は、58日から奥平勢ら約5百人が立て籠もるに過ぎない長篠城を攻撃し続けたが、前日20日に城の包囲を解いて織田・徳川勢との決戦に打って出るまで未だ攻略出来ないでいた。これが翌日の武田勢の敗戦を招いた直接的な原因だったと思われる。武田の重臣たちが撤退か攻撃か、敵の後詰の接近に際して作戦方針を巡って動揺したのも当然だっただろう。

 長篠城は確かに東南を宇連(大野)川、西南を寒狭川が流れて合流する断崖上に築かれた要害だが、筆者が実見したところ本当に小城で、いかに籠城方の決死の抵抗に遭遇したとしても信玄以来の武田勢の精鋭が13日間も落とせなかったのは作戦上の大失態と言えるのではないか。

 信長の作戦は、連呉川西岸の丘陵地帯に兵力を隠して、川の前面に馬防柵、つまり野戦陣地を構築して鉄砲足軽部隊の釣瓶打ちで武田の攻勢を迎撃することだったようだ。だが、俗に言われるような鉄砲の三段交代射撃は、広い戦場での指揮命令と統率上不可能だっただろう。恐らく3人一組となって、時間差を短縮して連射したのが実態ではなかったか。

 太田牛一も、具体的に織田・徳川勢が521日の合戦当日、戦場に動員した鉄砲の正確な数は把握していなかったと思う。今では『信長(公)記』を素直に読んで、信長旗本と諸手から寄せ集めた概数数千挺の鉄砲が武田勢を迎え撃ったと考えて置くしかないだろう。

 織田・徳川勢の配置は、武田勢左翼と向かい合う右翼に徳川勢が並び、『長篠合戦屏風』を見ると、中央から左翼に位置した織田勢が柵の背後から鉄砲を打ちかけているのに対して、徳川勢は柵の前に出て武田の軍勢を迎撃している様子が窺える。

 恐らく地元の防衛責任者である徳川家康としては、信長の援軍への面目を立てるためにも野戦陣地である柵の背後に隠れて迎撃するような消極的な態度を取ることが出来ず、自ら進んで武田勢を迎え撃つ覚悟で戦場に臨んだのではないだろうか。徳川勢の配置を見ると、織田勢の配置に比べて武田勢の左翼、すなわち、敵の先鋒である最精鋭の山縣昌景の軍勢に突出する形で布陣している。

これと比較すると、織田勢は牛一が『信長(公)記』に記したように「御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加え、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。」という比較的安全な状況を馬防柵の背後で確保しつつ、武田勢の攻撃に応戦したようである。

 一方、この日の武田勢の攻撃は、やはり『信長(公)記』を素直に読むと、ワーテルローの戦いの際にナポレオン軍が決行したような密集した騎馬軍団の突撃などは行わなかった模様だ。左翼の山縣勢を先鋒として、二番に武田逍遥軒信廉、三番に西上野小幡一党、四番に武田典厩(左馬助)信豊、そして五番に馬場美濃守信春といった各部将が率いる手勢が、左翼部隊から順番に織田・徳川勢に波状攻撃を仕掛けたようである。

 ちなみに武田勢が総崩れとなる迄、この日の日の出から未刻(午後1時から3時の間)にかけて8から9時間も交戦が続いたとされるから、武田勢の作戦は騎馬軍団による突撃などではなく、馬防柵にある程度接近してから、歩兵主体の波状攻撃で左翼から敵陣を突破する作戦を採ったのではないだろうか。

 この日の合戦で武田勝頼が敗北した理由は、第一に、酒井忠次の率いる織田・徳川別働隊に鳶ノ巣砦などを落とされて背後を遮断されてしまったため、長篠城方面に後退できなくなって前面の敵陣を突破せざるを得なくなってしまったことが大きいだろう。第二に、馬防柵の野戦陣地を構築して一見引き籠ったように見せかけた信長の意図を、決戦を避ける消極的姿勢の現れと誤認したことから積極的攻勢に打って出てしまったことも敗因に挙げられるかも知れない。

 やはり、戦巧者である父信玄以来の重臣たちが諫言したように、兵力劣勢である武田勝頼はここでは面子を捨てて決戦を避け、一旦信州に後退すべきだったと筆者には思われる。

2015年8月7日金曜日

「良き同盟」(La Bell Alliance=ナポレオン本営の地名)と優秀な参謀将校が機能した、ワーテルローの戦い

 1789年に勃発したフランス革命以降ナポレオン戦争が終結する1815年までの間、フランスを除く欧州四大国(英墺露普)は合計57次にわたる対仏大同盟を結成して、フランス革命政府軍やナポレオン軍に対抗した。

 実態的に見ると対仏大同盟は個別の二国間同盟が集積したものであり、その目的は欧州の「勢力均衡」を回復することにあった。「勢力均衡」とは、1713年スペイン継承戦争を終結させるために締結されたユトレヒト条約によって初めて明文化された用語である。

エマリッヒ・ヴァッテルの定義を援用すると、「勢力」を「均衡させること」の意味は一国が優越的地位(覇権)を占めるようなパワー配分の単極状況を作らないことであり、ナポレオン戦争時点においては四大国がナポレオンの欧州での覇権確立を軍事的に阻止し、ナポレオン帝政を打倒してブルボン家の王政復古を回復するための体制変更を目指す同盟に変容していたのである。

 その同盟関係が最も良く機能したのが、18153月ナポレオンのエルバ島脱出とパリでの帝位復帰後に結成された第七次対仏大同盟(墺英普露同盟条約)における、イギリスとプロイセンのベルギーでの一連の連携した軍事作戦であろう。

 同盟諸国はナポレオンを「無法者」だとし、その軍事力に対抗するために約40万人の兵力を集結した。フランスと国境を接するベルギーでは、ドーバー海峡沿岸のオーステンデを策源地としてウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)の指揮する約105千人の英蘭等連合軍が布陣した。また、約116千人のプロイセン軍はブリュッヘル元帥が率いて、やや内陸側に位置していた。

なお、この時のブリュッヘル軍参謀長は、ナポレオン軍に対抗するため国土防衛軍や参謀を養成するための士官学校(後のプロイセン陸軍大学)を創設するなど、軍制の近代化改革を実施した中心人物であった、アウグスト・フォン・グナイゼナウであり、また、『戦争論』を執筆したクラウゼヴィッツも第3軍団参謀長として従軍していたのが興味深い。

 この同盟軍に対抗するナポレオンは大陸軍を召集したが、攻撃用の野戦軍は5個軍団と騎兵および砲兵計約12万人しか集めることが出来ず、しかも優秀な参謀長であったベルティエ元帥が王政支持との板挟みになって61日に自殺したため、前線軍団長だったスールト元帥を参謀長とした。

しかし、スールトには参謀職に必要な的確な事務処理能力が無く、結果的に見ればグナイゼナウとの能力差が、その後のワーテルローでのナポレオンの敗北と百日天下を招いてしまったのである。

 615日、油断していた同盟軍の不意を衝いて、ナポレオンは内陸部のシャルルロアからベルギー領内に侵攻した。左翼軍はネイ元帥、中央の予備軍は自分、右翼軍はグルーシー元帥が率いるそれぞれ2個軍団34万人程度から編成された兵力だったようだ。ナポレオンの作戦は英蘭軍とプロイセン軍を分断・各個撃破して、ウェリントン軍を海岸線に追い落とし、プロイセン軍を退却させることだったと思われる。

 ウェリントンは当初、より平野部に位置し、パリから直結するモンスを経由してナポレオン軍が南西からブラッセルに侵攻してくると考えたようである。そのため、兵力をブラッセルの南西部に多く配置していたらしい。そこをナポレオン軍が不意を衝いて、南方から急速に迫って来たという状況であった。

 616日、ナポレオンは右翼軍と予備軍を集結して、リニーでプロイセン軍3個軍団を撃破した。しかし、ナポレオンの事後の行動は非常に緩慢で、グナイゼナウの見事な後退作戦を見過ごして翌日まで追撃しなかった。このナポレオンらしくない判断ミスが、翌々日のワーテルローでの決定的な敗戦に結び付いたのである。

一方、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が率いる英蘭第1軍団がカトル・ブラの交差地点に転進してミシェル・ネイの仏左翼軍を迎撃し、ウェリントンの本隊も後続部隊として駆けつけたため、同盟軍はカトル・ブラの守備には成功したが、リニーでの敗戦を聞いてこちらもブラッセル街道を北方に撤退した。

 617日午後、カトル・ブラを占領したネイの左翼軍と合流したナポレオンは、ウェリントン軍を追撃することを決定した。なお、ナポレオンはリニー進発時にグルーシーの右翼軍約3万人をプロイセン軍追撃に派遣したのだが、敵の退路の進行方向がブラッセルに向かう北方か、無傷で残存していたビューロー将軍が率いる第4軍団と連絡できる北東に向かったのか依然不明であったため、この追撃命令は極めて曖昧な内容で、その結果プロイセン軍はグルーシー軍の追撃をかわすことに成功してリニー北方のワーヴル東方に集結することが出来たのである。

なお、この617日夜は戦場一帯が豪雨に見舞われたため、翌日の軍の機動に支障を来したこともナポレオンの不運であったと言えるだろう。翌日のワーテルローの戦場では、泥濘のため仏軍の攻撃開始時間が遅延したことがプロイセン軍の援軍到着が間に合ったことに繋がったし、また、砲弾の反跳効果が喪失したことが、英蘭軍の陣地死守を成功させたことに寄与したとも言えるからである。

 ウェリントンはカトル・ブラ北方のモン・サン・ジャン(ワーテルロー)に連なる稜線が要害の地で、当初からこの地で迎撃する作戦を練り上げていたとされる。グナイゼナウはこの作戦に反対だったようだが、結果的にはウェリントンの戦術眼の正しさが、プロイセン軍到着まで劣勢かつ経験不足な兵力でナポレオン大陸軍を押し止めることを成功させたのだろうと筆者は考える。

 また、ブリュッヘル元帥も緊密にウェリントンと連携して併進しつつワーテルロー東方に位置するワーヴル周辺に後退したため、18日の戦場にまず無傷のビューロー軍団を迅速に援軍として送ることができ、このプロイセン軍が夕刻にプランスノワ村から仏軍右翼を圧迫してナポレオンが迎撃に向かわせたロバウ将軍の第6軍団と新規近衛部隊を打ち破った結果、最終的にナポレオン大陸軍を潰走させることに成功したのだと言えるだろう。

 ウェリントン軍が布陣した丘陵地は背後の斜面に兵力の展開を隠すことが出来た。また、戦列前面の右翼にはウーグモン館、中央にはラ・エイ・サント農場、そして左翼にはプロイセン軍の援軍が進撃予定の道を見下ろす位置にパプロットの小集落があって、それぞれ背後の稜線に布陣した本隊の戦列から容易に支援することが出来る堅固な陣地を構築していた。

そして、18日当日の戦闘ではレイユ将軍が率いる大陸軍第2軍団の攻撃が過剰に仏軍左翼にあるウーグモン館に集中してしまったためか、また、前夜の豪雨のせいもあって右翼軍のデルロン将軍が率いる第1軍団の砲兵による支援射撃後の総攻撃が午後まで遅れてしまったのかも知れない。この遅れが、英蘭軍にプロイセン軍到着までの時間的猶予を与えた。

また、命令が誤認されたためか、デルロン軍団は各師団が密集した縦列隊形で敵の横隊火力に突撃を繰り返すという愚を犯してしまった。その後、同方面の指揮を一任されたネイ元帥はナポレオンにラ・エイ・サントの奪取を厳命されたため、既に戦機を逸していたにもかかわらず大隊方陣を連ねた敵の戦列に火力支援の無いまま胸甲騎兵の突撃を繰り返して、兵力を消耗させてしまったのである。

 『孫子』地形篇では四方に通じる「交地」では、日当たりの良い高地を先に占拠して防塁を築き、食糧補給路を確保した方が有利であり、また九地篇では、「交地」では隊列を切り離さないで防御を厳重にすべきであると記されている。ワーテルローの戦いでのウェリントンの布陣は、この孫子の教えに非常に合致していることが面白い。

 この戦いの際のウェリントン軍では実戦経験豊富な兵力が比較的乏しく、特に騎兵部隊は経験不足なため稜線背後の支援に回らせた。そして精鋭の近衛歩兵連隊をウーグモン館の守備に当たらせ、国産の最新式ベーカー式ライフル銃で武装した散兵戦術が可能な王室ドイツ人歩兵大隊をラ・エイ・サントに、道路を挟んだ反対側の採石場にドイツ人大隊と同武装の第95ライフル銃連隊を狙撃兵としてそれぞれ配置して、最前線で侵攻する敵に縦射を浴びせる態勢を採ることが出来ていた。

 このウェリントンが敷いた万全とも言える防御態勢に対して、ナポレオンの方はウェリントンの戦術能力を甘く見誤っていたのではないかとも思える。グルーシーの指揮する追撃軍が簡単にプロイセン軍を牽制出来ると考えていたこと、618日にプロイセン軍がワーテルローに向かって進撃していたことを全く知らなかったのは決定的に重大な判断ミスであるし、そもそも作戦目的が曖昧な追撃命令など出さずに、最初からグルーシー軍に戦場への合流を命じておくべきだっただろう。

 グルーシーは最後までナポレオン(そして、その参謀長であるスールト)の発した曖昧なプロイセン軍追撃命令に拘ったため、ワーテルローでの戦闘に参加することが出来なかったのである。

 こう考えるとワーテルローでの歴史的惨敗とナポレオンの百日天下は、ナポレオンらしくない甘い状況判断がもたらした、必然的な結果と言えるのではないだろうか。

  明日より筆者は10日間ほど夏季休暇に入りますので、投稿もその間は中断いたします。

2015年8月6日木曜日

ボロジノの戦い-ナポレオン戦争中最も拙劣な正面攻撃作戦に関する感想

 18126月、イギリスに対する大陸封鎖令を遵守しないロシアを懲罰するため、ナポレオンは50万人以上の大軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオンの当初の作戦は国境付近まで進んで会戦に持ち込み、ロシアの野戦軍を撃滅する意図であった様である。スモレンスクよりさらに東方、よもや首都モスクワまで進撃するとはナポレオンは全く想定していなかったと思われる。

 ナポレオンの大陸軍がロシア領奥深くまで引き込まれてしまったのは、当初のロシア軍総司令官バルクライ・ド・トーリが有名な焦土作戦で決戦を回避し後退し続けたためであるが、その消極的な作戦指導と国土の荒廃は皇帝アレクサンドル1世に嫌悪された。

そのため、バルクライは皇帝に解任されてしまい、1805122日のアウステルリッツの戦いでも慎重な作戦指導を提言したミハイル・クトゥーゾフ元帥が代ってロシア軍総司令官に就任した。

クトゥーゾフは皇帝の意向を受けて、モスクワから西方約110kmのモスクワ川が街道を横切る地点に位置するボロジノ村付近の小丘陵地に野戦陣地を構築して、181297日、フランス軍を迎撃したのである。

 レフ・トルストイの小説『戦争と平和』でもクライマックスの戦闘シーンで有名なこのボロジノの戦いでは、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの時とは比べ物に成らない位拙劣な作戦指導を行った。つまり、各軍団に敵の野戦陣地に対する正面からの強襲攻撃を命令したのである。

 実はこの日の戦闘開始以前に、大陸軍中で最優秀の軍団司令官であった第1軍団を率いるダヴー元帥が、ロシア軍左翼を迂回して南から攻撃する作戦を提案した。しかし、ナポレオンは、スモレンスクでロシア軍を容易に撤退させて取り逃がしてしまった苦い経験で懲りていたためか、このダヴーの妥当な提案を却下して、ロシア軍左翼部隊が守備する3つの突角堡に対する夜明けからの正面攻撃を命じたのである。

 ロシア軍はこの突角堡の右の戦場中央部にラエフスキーが守る大多面堡も構築していたから、フランス大陸軍の正面攻撃は大損害を出すことを覚悟の上での極めて無謀な作戦だったと言えるだろう。

 一説によると、ボロジノ戦い当日のナポレオンは風邪による高熱で極めて体調が悪かったため、普段の戦闘の時のような判断力を欠いていたとも言われている。兵力ではロシア軍約12万人に対して大陸軍約13万人でやや優勢であったが、野砲の数ではロシア軍は600門以上で600門に満たない大陸軍を圧倒していた。

 そのためミュラ元帥の率いるフランス軍騎兵予備隊はロシア軍砲兵の連続砲撃で大きな被害を蒙っている。しかし、拙劣な正面攻撃作戦で大陸軍の歩兵軍団が大損害を出し、ダヴーが負傷して戦闘を指揮できなくなった後のミュラとネイ元帥の率いる第3軍団の攻撃で突角堡が占領でき、その結果ロシア軍の戦列を中央突破することに成功したのである。

 このボロジノ戦いではフランス軍胸甲騎兵が突撃によって銃剣で武装したロシア軍の大隊密集方陣を撃破しているが、これは当時非常に困難な作戦だと考えられていたようだ。実際、火力に乏しい騎兵の突撃で歩兵大隊の密集方陣を突破することは難しかっただろう。

騎兵軍団司令官ミュラの信じ難い蛮勇の発揮や、ボロジノ村占拠後モスクワ川を渡河してロシア軍多面堡への攻撃で苦戦していたウージェーヌ公の率いる第4軍団を支援するため派遣されたコランクール将軍(攻撃中戦死した)が率いる胸甲騎兵が多面堡を迂回攻撃して占領するなど、この日の大陸軍では苦戦の連続だった歩兵軍団に比較すると騎兵部隊の大活躍が顕著であり、その結果ロシア軍を撤退させることが出来た模様である。

 『孫子』九地篇では、敵国内部に深く侵入した「重地」では、自軍の結束が固まるから敵の迎撃では敗北しないという記述があるが、ボロジノの戦いにおける大陸軍騎兵部隊の活躍は、正しく「重地」における結束と士気の高さが影響した結果なのではないだろうか。

 これに対するロシア軍騎兵は、コサックと軽騎兵の部隊がウージェーヌ公の第4軍団の左翼を大迂回してフランス軍後方の輜重部隊を襲撃しようと試みたものの、ナポレオンが派遣したグルーシー将軍の率いる軽騎兵部隊に簡単に蹴散らされて相当な損害を出している。

 クトゥーゾフが皇帝に宛てた戦闘報告でも勝手な軽騎兵の攻撃が非難されているから、やはり両軍騎兵部隊の戦闘能力の差がボロジノの戦いの勝敗を決定付けた模様だ。それにしても、コサックは軽装の槍騎兵で規律を守らず無慈悲であったとされるから、戦場では余り役に立たなかったのではないだろうか。

 とは言え、この日のナポレオンはミュラとネイの軍団の奮闘でロシア軍を中央突破した後も予備の近衛軍の投入を見送ってしまい、ロシア軍の堡塁からの後退と戦列建て直しを手助けしてしまうなど、戦術上のミスが目立った。その結果、クトゥーゾフ軍は5万人もの死傷者を出したもののモスクワへ撤退することが出来たのである。

 ナポレオンの拙劣な作戦で大陸軍も約3万人の兵力を失ったため、ロシア軍を追撃する余力が無く、1週間後にモスクワを占領した。しかし、ロシア軍の放火でナポレオン軍の補給線は完全に崩壊し、冬将軍の到来とともに大陸軍は壊滅してしまったのであった。

2015年8月3日月曜日

ナポレオン大陸軍の「機動」と「詭道」による第三次対仏大同盟の崩壊

 『孫子』冒頭の「計篇」では、戦争の本質を「詭道」、すなわち敵を騙すことと規定し、自軍の弱小を装って作戦展開が不可能であるかのように見せかけて敵を増長させるとともに、敵を釣り出す餌を見せて自軍に有利な戦場に誘い出し、敵軍の混乱に乗じて攻撃することを提唱している。また「行軍篇」では、困窮していないのに敵の使者が和睦を求める裏には敵の策略がある、とも述べている。

 「軍争篇」では、敵の裏をかいて臨機応変に軍の分散と集中を行うこと、また、敵より遅く進発して先に戦場に到着する迂回機動を「遠近の計」として、行軍の際における機動力の重要性を強調する。

もちろん、そうした軍の機動力発揮は各部隊が各個撃破される危険も伴っているから、分散機動(分進合撃)によって軍の統率が決して乱れないような組織編成と練度、そして十分な補給体制が整備されている必要がある。その点で、ナポレオンの編成した大陸軍の戦闘師団と軍団編成は単に戦場における戦闘力を強化したのみならず、単独の作戦行動が可能であったために機動力の発揮に大いに適した組織体系であったと言えるだろう。

 筆者の私見によると、『孫子』の兵法の真髄は、この「詭道」と「機動」の重要性を繰り返し主張している点と、兵を「死地」に置いて奮戦させることの三点にほぼ集約されているのではないかと考える。そして、その三点を極めた将軍こそが優れた将軍に他ならないのである。

1805年にウルムの戦いとアウステルリッツの戦いに勝利して(1021日のトラファルガーの海戦でネルソン提督の率いる英国艦隊に敗北したため制海権は握れなかったが)、第三次対仏大同盟を崩壊せしめた時点のナポレオンは、皇帝(君主)であるとともに正しく『孫子』の東洋兵法から見ても極めて優れた将軍であったと筆者は考える。今日はこの点について分析してみたい。

 1805年、前年122日に帝位に就いたナポレオンの欧州全域への覇権確立を阻止するために英墺露三大国が締結した第三次対仏大同盟は、ナポレオンが英国征服のために編成した軍団の驚異的に迅速な「機動」によって、9月から10月下旬にかけて行われたウルムの包囲戦でオーストリア軍が降伏させられ、また、11月中旬にウィーンを占領されてしまった。

現在のチェコのモラヴィアに後退した露墺両国皇帝の率いる連合軍を、ナポレオンは劣勢な兵力にも関わらず、122日にアウステルリッツの戦場で芸術的な「詭道」によって撃破した。そして、124日、オーストリア皇帝フランツ1世を降伏させ、26日のプレスブルクの和約でオーストリアを同盟から脱落させることに成功し、第三次対仏大同盟を崩壊に追いやったのである。

 そもそも英仏両国は第二次対仏大同盟が崩壊した18023月のアミアンの和約で一旦和解したが、英国は和平条件であったマルタ島撤退を履行せず、18035月和約を破棄してナポレオンに宣戦布告した。制海権を握る英国海軍は、海上封鎖を行ってフランス経済に打撃を加えた。

 1805年ナポレオンは英国本土に侵攻するため、陸軍の大兵力をドーバー海峡対岸のブーローニュに集結させたが、実は対英上陸作戦を見越して1803年夏から既にブーローニュやブレストなど6か所の野営地で軍団ごとに武器操作や戦略・戦術機動に関する将兵の猛訓練を行っていた。これが、その後の大陸軍の驚異的な機動力の発揮につながったのである。

 当時の歩兵の主力装備は燧発式前装マスケット銃で、銃身内にライフルを切っていないため威力は大きいが火縄銃と同様に50m程度の有効射程距離しかなく、将校は貴族で兵卒を強制徴募していたプロイセン軍などでは将校の統率力と兵卒の士気が低いため、散兵戦術は兵の逃亡を招くために用いることが出来ず、戦闘では旧式の密集横隊、行軍では縦隊隊形が採用されていた。

 つまり、革命後のフランス軍が国民軍で士気と練度が他国軍より高かったため、戦場では散兵と横隊およびグリボーヴァルが整備した機動力に優れた野戦砲兵隊が火力支援する中、歩兵の密集縦隊と胸甲騎兵の打撃力で敵陣を粉砕・分断し、敵が後退するところを龍騎兵などの軽騎兵が追撃するという、有効な戦術を採ることが出来たのである。

 また、フランス軍が戦闘師団と軍団に軍を分割し、機動力を発揮して戦場に分進合撃出来たのも、国民軍として士気が高く、統率が取れていた結果であった。これに対する対仏大同盟軍は、いまだ大隊縦隊をいくつか連ねた連隊が軍の恒常的な編成に過ぎず、戦闘師団編成を採用することが出来ていなかったため、戦場への行軍に際して分進合撃で機動力を発揮することは不可能であり、戦場でも臨時編成した縦隊を将官が指揮する単純な形態に過ぎなかったから、ナポレオンの大陸軍のような諸兵科連合による有機的な連携作戦を実施することも出来なかったのである。

 ウルムの戦いでは、ナポレオンの先手を打ってオーストリア軍が、ナポレオンの同盟国バイエルンの首都ミュンヘンを占領した。この時、クトゥーゾフとバグラチオンの率いるロシア軍もオーストリア軍支援のためバイエルンに向かっていた。また、フランツ1世の弟カール大公(オーストリアの軍事改革を主導したので有名な人)の指揮する9万人の大軍が、イタリアに侵攻していた。緒戦では、明らかに同盟軍の方が優勢であったと思う。

にもかかわらず、ナポレオンのバイエルン救援命令で大西洋岸に集結していたフランス各軍団が8月末から約800km以上の距離を約1か月で移動してライン川を渡河し、オーストリア軍背後のドナウ川に迅速に迂回起動すると、ウルムに籠城したオーストリア軍はフランス軍に包囲攻撃されてしまったため、1020日、総司令官のカール・マック・レイベリヒ元帥はナポレオンに降伏してしまった。

 このウルムの戦いは、フランス大陸軍の機動力による勝利の典型例である。これに対して、122日のナポレオンの戴冠1周年記念日に起こったアウステルリッツの戦い(三帝会戦)は、将軍としてのナポレオンが芸術的な詭道を用いた会心の勝利であったと言えるだろう。

 すなわち、11月中旬にウィーンに入城したナポレオン軍は後方の補給線が伸び切っていた上、ウィーンを撤退したフランツ1世の軍とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍は、モラヴィアで合流してオロモウツに集結していた。連合軍の兵力は8万人以上で、この他にカール大公の率いる大軍がイタリアからハンガリーに転進しており、また、プロイセン軍が参戦する様子を見せていたためにナポレオン軍はかなり兵力劣勢であった様である。

 ナポレオンはダヴー元帥の第3軍団をウィーン守備に残し、3個軍団と予備の近衛軍、義弟ミュラ元帥の率いる騎兵軍団を率いてブルノに進出した。ブルノの南東約10kmに位置するアウステルリッツは、ブルノとオロモウツを結ぶ街道とウィーンへ南下する街道が分岐する要衝であり、中央部に位置するプラッツェン高地をスールト元帥の率いる第4軍団が占領したにも関わらず、ナポレオンはプロイセン軍到着前に敵軍を会戦に誘導して各個撃破するため、わざと連合軍に和睦を持ちかけ弱気を見せる策略を用いた。

 スールト軍団をプラッツェン高地から撤退させると、ランヌ元帥の第5軍団を北のブルノへの退路を確保するように左翼に布陣させ、霧中の中央部にスールトの第4軍団とベルナドットの第1軍団、ミュラの騎兵軍団など主力部隊を配置してプラッツェン高地奪還を企図した。そして右翼には、ゴールドバッハ川沿い数kmの長大な前線を脆弱な兵力で守備する態勢を採って、敵の攻撃を右翼に誘う作戦を採ったのである。

この時、ナポレオンはウィーンに後置していたダヴー軍団に迅速に右翼に展開するよう既に命じており、実際122日当日の戦闘では、ナポレオン軍右翼を脆弱であると見誤った連合軍の攻撃が右翼に集中したが、結局フランス軍の戦列を突破できず、逆に兵力劣勢となったプラッツェン高地をナポレオン軍主力部隊に奪還されて連合軍の戦線が南北に分断され、決定的に敗北してしまったのである。

このように、アウステルリッツの三帝会戦は、正にナポレオンが見事な「詭道」を用いた結果の勝利だったのである。