2015年10月8日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-ヴィックスバーグ包囲戦(1)

 1863年春に起こったチャンセラーズヴィルの戦いで、南部連合リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍は、ストーンウォール・ジャクソン将軍の戦傷死など多大な損害を出したものの、フッカー将軍の率いる北軍ポトマック軍をヴァージニア州内から撃退することに成功した。

 しかし、当時の戦況を考えれば、南軍が仮にヴァージニア州内(特にフレデリックスバーグ)で首都リッチモンドを防御する態勢を固めたとしても、戦力で遥かに勝る北軍が数か月以内にポトマック軍を再建して再度攻勢に出てくることはほぼ確実であっただろう。

 また、南北戦争における第二戦線であったミシシッピ川流域の支配権争奪を巡る西部戦線では、海軍力で優勢な北軍が1862518日、デイヴィッド・G・ファラガット提督の指揮の下に南部最大の港湾都市ルイジアナ州ニューオーリンズを既に占領していた。

 リンカーン大統領は、ミシシッピ川を支配することによって南部連合の物資供給ルートを遮断し、南部を川の東西2つのエリアに分断しようとしていたのだが、そのためには、「ミシシッピ川のジブラルタル」とも言われる屈曲点(bend)の断崖上に位置するミシシッピ州の要塞都市ヴィックスバーグを攻略する必要があった。

 当時この方面の合衆国軍では、ユリシーズ・S・グラント少将が186210月にテネシー軍司令官に任命されて、テネシー州メンフィスまで進出していた。グラント将軍の任務はミシシッピ川とその東岸の沼沢・小河川(バイユー)地帯を陸海軍連携の下に南下して、ヴィックスバーグを攻め落とすことであった。

 他方、ミシシッピ川河口のある南部のルイジアナ州方面からは、625月にファラガット提督の率いる合衆国海軍がヴィックスバーグを攻撃したが、この作戦は失敗した。陸軍では、元マサチューセッツ州知事であったナサニエル・P・バンクス少将がメキシコ湾岸軍司令官としてニューヨーク州とニューイングランドで徴募された新兵約3万人を率いてニューオーリンズに上陸後、ミシシッピ川沿いを遡上してバトンルージュまで進出していた。

 つまり、北軍の当初の作戦では、南北双方からミシシッピ川東岸沿いを進んで、ヴィックスバーグ守備に当たるジョン・C・ペンバートン中将の率いるミシシッピ軍約22千人の南軍を挟撃しようとしたわけである。

 ところが、北方からの侵攻を担当するグラント将軍のテネシー軍約4万人は、621112月の攻勢で鉄道を利用した南進を開始したが南軍騎兵部隊の後方攪乱によって補給路を遮断され、また、民主党のイリノイ州選出下院議員を辞職して従軍したジョン・A・マクラーナンド少将が、リンカーン大統領の承認を得て中西部諸州の兵士を集めてヴィックスバーグ攻略作戦に参加してきたため、指揮権を巡る混乱もあって、結局撤退を余儀なくされてしまった。

ちなみにマクラーナンド将軍は、12月末にシャーマンから指揮権を引き継いだ後、ミシシッピ川に合流するアーカンソー川沿いを遡上して南軍のハインドマン砦に遠征し、約5千人の南軍兵士を捕虜にするといったような、無駄な寄り道作戦を当時行っていた。

 既に1220日に艦隊と共に川を下ってヴィックスバーグのすぐ北ヤズー川沿いにあるチカソーの絶壁を襲撃したウィリアム・T・シャーマン少将の率いる分遣隊約32千人の攻撃も、南軍の10倍近い死傷者(約1,800人)を出して失敗してしまったのであった。

 この北軍の一連の攻勢が失敗した原因は、恐らくバイユーによって形成された沼沢地によってスムーズな進撃を阻まれたことと、南軍守備隊が川沿いに連なる絶壁上に堅固な陣地を構築していたためであろう。特に絶壁上に設置された南軍砲台から受ける砲撃は、北軍に大きな脅威を与えたと筆者は考える。

 ヴィックスバーグ付近の地形を観察すると、北軍はやはり川の東岸地帯から攻撃するしか攻略の方法は無かったと思われる。ミシシッピ川東岸に位置するヴィックスバーグ要塞の川沿いには断崖絶壁が連なっていて、西岸からの直接的な攻撃は、その断崖上に設置された南軍砲台の格好の標的となってしまうために成功させることは非常に困難であっただろう。

 そうかと言って、ヴィックスバーグの街を取り囲む南軍の要塞を北の沼沢地から北軍が再度攻撃することは、1862年冬季攻勢の失敗から見ても、成功は覚束ないことが明らかだった。

 そこでグラント将軍は、1863年春まで待って、極めて大胆かつ壮大な迂回作戦を実施した。それは、デイヴィッド・D・ポーター提督の率いる砲艦7隻と兵士を乗せていない輸送船3隻の合衆国艦隊が敵の砲台が連なる断崖下をミシシッピ川下流まで強行突破し、下流のハード・タイムズまで下って東岸のグランド・ガルフにある南軍砲台を沈黙させた後に、ミシシッピ川西岸を遥々迂回進軍してきた4万人以上の陸軍を東岸に輸送するという作戦であった。

 筆者が思うに、これは当時の北軍が考え得る最も有効な迂回作戦だろう。なぜなら、ミシシッピ川西岸には当時ほとんど南軍の脅威が無かったからである。その地で大軍を南下させて南軍要塞の遥か下流エリアで川の東岸に渡河させることに成功すれば、時間はかかると思うがヴィックスバーグ東方に軍を展開して、要塞を東側から包囲して攻撃することが可能となるからだ。

 当時、ペンバートン軍を支援するために西部戦線総指揮官ジョセフ・E・ジョンストン将軍の率いる南軍が、ヴィックスバーグ東方にあるミシシッピ州都で鉄道交通の要衝であるジャクソンに駐屯していた。したがって、北軍がミシシッピ川東岸に渡河してジャクソンに向かえば、ヴィックスバーグのペンバートン軍とジャクソンにいるジョンストン軍の連絡を遮断できることになる。

 これは兵力優勢な北軍にとっては、成功すれば分断した南軍を各個撃破することもできるし、ジョンストン軍が会戦を回避したとしても、ペンバートン軍を圧迫してヴィックスバーグの要塞内に閉じ込めてしまうことも可能だろう。実際、その後の南軍の動きは北軍の想定通りに進展したわけである。

 だが、このグラント将軍の考えた大胆な北軍の迂回作戦には、成功すればとても効果的ではあったが、同時に非常に危険な難点が伴っていたのではないかと筆者は考える。

 まず第1に、ポーター艦隊が無事ヴィックスバーグ要塞の直下を下流まで通過することができるかどうかである。そして第2に、陸軍の大部隊がバイユーの沼沢地である西岸の土手道を切り開きながら、海軍と連携しつつ、所定の時期までに無事予定地点に辿り着いて集結することができるかどうかである。

仮に陸軍が予定地での集結に失敗して作戦が中止となった場合、一旦下流に下ったしまった艦隊が、低速で敵の砲火をかい潜って上流の基地であるミリケンズ・ベンドに帰還することは難しかっただろう。さらに第3に、陸軍が無事ミシシッピ川東岸に渡河することに成功したとしても、その後はもはや後方の策源地との連絡線が途絶えてしまう点も問題であったに違いない。

 第1と第2の点を解決するためには、大規模な陽動作戦が必要となる。そこで、グラント将軍は、まずシャーマン将軍の軍団に、ヴィックスバーグ北部の断崖に対する攻撃を仕掛けることを命じた。

さらにグラントは、ベンジャミン・H・グリアソン大佐の率いる騎兵旅団にテネシー州ラグランジェからルイジアナ州バトンルージュまで、800マイル(約1,290km)程度、南北に並行して伸びるミシシッピ・セントラル鉄道とモービル・オハイオ鉄道の間を移動させ、鉄道を分断するとともに南軍騎兵と交戦しつつ、南から攻勢をかけるバンクス将軍の率いるメキシコ湾岸軍に合流する陽動作戦を命じたのであった。

 そして、ポーター艦隊のミシシッピ川下流への突破作戦は1863416日夜、グリアソン騎兵旅団の南北縦断機動作戦は翌417日に、それぞれ開始されたのであった。

2015年10月5日月曜日

ロシアのシリア空爆開始により、中東のパワーバランスが変動する可能性に関する分析

 930日、ロシアがシリアでの反体制派に対する空爆を開始した。アメリカとロシアが同一の戦場で共に軍事行動を展開するのは極めて異例であり、恐らく第二次大戦以来の稀有な事態であろう。

その理由は、冷戦期には両者(当時はロシアではなくソ連だったが)の直接対決を招くような同一戦場での軍事行動が核戦争へのエスカレートを招きかねないとして敬遠され、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、アフガニスタン紛争のように米ソの一方が直接軍事介入した場合には、他方はその対抗勢力を支援するに止まった代理戦争方式が冷戦期の一般的形態であったためである。

 今回のロシア軍のシリアでの空爆開始は、国連総会でのアメリカのオバマ政権の出鼻を挫いて、プーチン大統領が周到に準備した上で機先を制して実行された作戦だと筆者は見立てている。

 なぜなら、ロシアは9月初めからシリアに先遣部隊を送って、地中海に面する港湾都市ラタキアの空軍基地に空爆準備のための滑走路を建設していた事実があるからだ。なお、ロシア黒海艦隊はラタキアの南に位置するタルトゥース港に、旧ソ連圏以外では世界唯一の海軍の補給基地を持っている。ロシアはシリアのアサド政権にとって、イランと並んで最も重要な軍事支援国である。

 今回のロシアの軍事行動の意図は、恐らく現在のところ欧米との最大の対立原因となっている、ウクライナ問題からシリア内戦の動向に欧米諸国の関心を向けさせることにあるのだろう。この9月は、プーチンにとってロシアの国益を伸ばす、まさに絶好の好機であったのではないだろうか。

まず、今夏以降、数十万人のシリア難民・移民がEU諸国に殺到していることから、EU諸国の主たる関心が、アサド政権自体の存続問題より難民・移民問題の直接的な原因を除去するための対IS(イスラーム国)軍事作戦に集中し始めていた。

例えば、シリア国内での空爆参加をこれまで控えてきたフランスがシリア国内での対IS空爆作戦を開始したのは、927日からであった。これにはシリア内戦の周辺諸国への波及を封じ込め、難民・移民の欧州流入を少しでも抑制する軍事的意図が、オーランド仏大統領にあったのだろう。

こうした状況下において、EU諸国としては、建前はともかく、ロシアがISを叩く空爆を遂行することに本音では反対すべき理由は無いはずだ。EU諸国の関心は、自国の安全保障環境を悪化させない事であり、ロシアの軍事行動がシリアでの紛争をエスカレートさせなければ、さほどの懸念材料とはならない状況だろう。

 次に、ウクライナの親ロシア派は、2月に発効したミンスクⅡ停戦合意に従って、103日ウクライナ東部の緩衝地帯から戦車部隊を撤収させ始めた。102日にパリで行われた仏独露ウクライナ4カ国首脳会談では、ミンスクⅡで今秋実施が予定されていた親ロシア派支配地域での地方選挙先送りが、改めて合意されている。

 これは明らかに、プーチン側の欧米による経済制裁解除を目論んだ意図的な譲歩であろう。ウクライナ問題では、オバマ米大統領がポロシェンコ大統領の要請による対ウクライナ武器供与を検討し始めたことから、独仏両国の欧州でのロシアとの紛争拡大に対する懸念が年初から高じていた。

 その結果がミンスクⅡ合意であったのだが、状況としては20149月に締結されたミンスクⅠ合意と同様、いつ破綻してもおかしくなかった。それが今になって一定の和平の方向に進展したのは、ロシア側の譲歩の影響が大きいと筆者は思う。

 ロシアは対シリア軍事介入に当たって、シリア、イラク、イランとの4カ国間で対IS情報センターを設置して軍事協力関係を強化しつつある。プーチン大統領はシリア問題でアメリカのオバマ政権の軍事作戦が効果的に進んでいない間隙を利用して、アメリカから主導権を奪い、冷戦後に中東で失ったロシアの影響力を回復するとともに、ウクライナ問題を棚上げすることを多分狙っているのだろう。

 シリアでのロシア空軍機の空爆対象は、現在までの報道によると、アサド政権側支配地域の周辺部に位置する反体制派の拠点を主に標的にしているようである。それは、ヌスラ戦線などイスラーム過激派や、親欧米派の自由シリア軍の拠点も含まれている。欧米諸国や反体制派はロシア軍の標的が無差別で、民間人の付随的損害も出ているとロシアの軍事行動を非難している。

 これに対して、イラン革命防衛隊は傀儡であるレバノンのシーア派武装勢力ヒズブッラーとともに、レバノンからシリア領内へ地上部隊を越境させてアサド政権に対する軍事支援を強化しているという情報もある。確証はないが、このイランとヒズブッラーの動向は、今回のロシアの軍事介入開始に連動した動きと言えるのかも知れない。

また、シリアのバッシャール・アサド大統領も、104日に放映されたイランのTV局とのインタビューで、「ロシアの空爆作戦が成功しなければ中東全体が崩壊する」旨を発言して、ロシアの軍事介入を側面支援した。この時、アサド大統領は「テロリズムを煽っている」として、欧米に対して非難することも忘れていなかった。

9月になってからのシリアを巡る一連の状況を見ると、反米勢力側の親米勢力側に対するパワーバランスを変更しようとする動きが強まっているのではないか、と筆者は考える。

 以下に示す図は、筆者が作成した現在の中東での安全保障環境を表す直交座標図である。
この図では、第一象限に位置する諸勢力がパワーバランス劣勢の現状変更を意図する反米勢力であり、それに対峙する第三象限の諸勢力が冷戦後のパワーバランス優勢の現状維持を意図する親米勢力である。この両者の力の均衡が、シリア内戦をめぐって最近少しづつ変動している状況というのが、昨今の中東における安全保障環境の実態であろう。

 図 主要な主体間の位置関係(筆者作成)
                   (地域における核抑止体制の現状変更)            ・イラン








←(親イスラエル)   ・サウジ/GCC
・シリア
・アルカイダ
・ヒズボラ
・ロシア
・中国
 ・ハマス
・パキスタン
    ↓
←←← 核移転?     (親イラン)→




・トルコ

     ・EU(フランス、ドイツ)
   ・EU(イギリス)
・アメリカ



・イラク


日本
・イスラエル

2015年10月1日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(2)

 南北戦争の主戦場は、合衆国東部の連邦首都ワシントンD.C.と南部連合の首都であったヴァージニア州リッチモンド周辺の比較的狭い地域であった。この両首都の間は、実は直線距離にしてわずか100マイル(約160km)程しか離れていない。東京と白河間程度の、ほんの目と鼻の先にある。

つまり、双方の境界であるポトマック川を挟んで北軍は南部の本拠地リッチモンドに侵攻しようと何度も試み、対する南軍はシェナンドア渓谷からワシントンD.C.上流のポトマック川を渡河して、北部のメリーランド州とペンシルベニア州に進出して側面から連邦首都に脅威を与えようとしたわけである。例えば最大の激戦地ゲティスバーグは、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグの南南西、大都市フィラデルフィアからはほぼ西に位置している。

 当時、兵力物量ともに劣勢であった南軍が敢えて壊滅する危険を冒して北部に侵攻しようとしたのは、合衆国政府のあるワシントンD.C.を取り囲んでいるメリーランド州が奴隷州であったため、積極攻勢をかけてその内部を崩壊させようと意図したことと、合衆国首都への兵站線であったボルティモア&オハイオ鉄道を恐らく遮断しようとしたためだろう。

 それに加えて、リンカーンが18629月に南部連合支配地域での奴隷解放を宣言して大義名分を確立する迄の戦争前半の時期は、もし南軍が北部領土内で北軍を撃破することに成功すれば、英仏両大国の南部連合承認を引き出し得ることが十分想定され、そうなれば事実上南部の独立が国際的に承認される効果が期待できたからであった。

このあたりの南軍北部ヴァージニア軍司令官リー将軍によるリスキーな作戦の選択は、何となく中国三国志時代の蜀漢の丞相、諸葛亮(孔明)の魏に対する5回にわたる北伐(228年春~2348月)作戦を髣髴とさせる。

筆者が思うに、諸葛亮もリー将軍もどちらも歴史上の名将に該当するだろうが、両者の違いとすれば、孔明が部下の将軍魏延の奇襲作戦案を容れずにあくまで正攻法に拘ったのに対して、リー将軍がストーンウォール・ジャクソンなど部下の勇将を駆使した奇襲作戦を逆に好んだことだろうか。

 いずれにしても、リー将軍は、北軍ポトマック軍司令官マクレラン将軍が考案したリッチモンド攻略に向けたヴァージニア半島侵攻作戦を、18626月から7月にかけて大損害を受けながらも撃退することに成功した。そしてその勝利の好機を逃さず、同年9月にポトマック川を渡河してメリーランド州に侵攻したわけである。

 しかし、この南軍北部ヴァージニア軍による第1次北部侵攻作戦は、917日に起きたポトマック軍とのアンティータムの戦いで、両軍とも1万人以上(合計で米国史上1日最大)の死傷者数を出して南軍は撤退に追い込まれた。

 186211月、リンカーン大統領は撤退する南軍を追撃しなかったマクレラン将軍を解任して、アンブローズ・E・バーンサイド少将を後任のポトマック軍司令官に任命した。ちなみに、解任されたジョージ・B・マクレラン少将は1864年の大統領選挙で共和党から再選を狙うリンカーンに対抗する民主党候補に擁立されたが、大統領選には敗れている。

 新任のバーンサイド軍司令官は、フレデリックスバーグでラパハノック川を渡河して南部連合首都リッチモンドを急襲しようとしたが、渡河が遅滞した上に12月上旬対岸に堅固な陣地を構築していたリー軍に対して無策な正面攻撃を仕掛け、その結果12千人以上の死傷者を出して敗退した。そうした不手際もあって、彼もたった81日間で司令官を解任されてしまったわけである。

 北軍ポトマック軍3人目の司令官ジョセフ・フッカー少将は、18631月末に就任後、冬季の間は敗軍を休養させて兵力をリー軍の倍以上に再整備し、426日にフレデリックスバーグ対岸から自軍7個軍団中5個軍団を川の上流へ長途迂回行軍させて、南軍の背後を突く作戦を実施した。この時起きた戦いが、チャンセラーズヴィルの戦いであった。

 筆者が興味深いのは、この戦いが双方とも敵の側面迂回奇襲と強襲という、ナポレオン戦争当時のような旧式戦術を駆使した点にある。北軍はその騎兵部隊を敵騎兵おびき寄せと連絡遮断のために大部分派遣したのだが、南軍騎兵部隊を率いるJ.E.B.スチュアート将軍は全くこの作戦に引っかからなかった。そのため、リー将軍は北軍の動きをほぼ的確に把握することが出来たのである。これが、南軍勝利の一番の勝因だろう。

 次に、初めは積極的な迂回攻撃を仕掛けたフッカー将軍が、南軍の倍以上の兵力を持っていながら、51日はチャンセラーズヴィル周辺の樹海内での陣地構築に費やし、午後に樹海東方に開けた平地に向けて進軍を開始したものの、南軍の斥候部隊に遭遇した途端、陣地に戻って防衛線を張る消極策を選択したことも、いったいどういう意図だったのか、筆者には解せないところだ。

 恐らく、本来偵察任務に当たるはずの北軍騎兵部隊が南軍牽制のために遠方に派遣されて当日不在だったため、南軍の動きが十分把握できずにフッカー将軍が弱気になったのだろう。これで主導権が劣勢であったリー将軍側に移ってしまった。これが、南軍第二の勝因と言えるだろう。

 南軍第三の勝因は、フレデリックスバーグ防衛軍を残したため、さらに兵力が少なくなった自軍約4万人の兵力の過半をリー将軍が部下のストーンウォール・ジャクソンに委ね、北軍陣地のほぼ正面を大胆に迂回機動させたことだ。劣勢な兵力をさらに細分するとは、軍司令官に余程の勝算が無ければ決してできることでは無かったはずだ。

そのジャクソンの率いる南軍第2軍団は、夕刻(午後5時)から夜間にかけて西方から樹海内に突進して、夕食準備中で油断していたハワード将軍の率いる北軍第11軍団を急襲・撃破した。これはまるで、木曽義仲が平家の大軍を破った砺波山(倶利伽羅峠)の戦いのような、旧式の夜襲戦法に他ならないと言えるだろう。

 しかし、歩兵のライフル銃による戦いが主流となった時代には、やはり夜襲戦法は危険を伴っていた。戦い当日の52日は月夜であったとは言え、日没後の暗がりの中、敵軍攻撃のための間道を見つけ出すべく、自ら偵察に出動したストーンウォール・・ジャクソンは、その帰途に味方の警戒兵による誤射を受けて左腕切断の負傷をしてしまい、510日に死亡してしまったのだった。

 その結果、リー将軍は南軍随一の勇将で右腕だった部下を失った。ストーンウォール・ジャクソン将軍の死が、71日から3日にかけて起きたゲティスバーグの決戦で南軍が北軍攻撃に失敗し、戦局が大転換した1つの原因であったのではないだろうかと筆者は考える。

2015年9月29日火曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(1)

 エイブラハム・リンカーン第16代合衆国大統領の奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説で有名な南北戦争は、世界最初の現代的な総力戦であった。例えば南北戦争における両軍の歩兵の主要装備は、ナポレオン戦争時代の滑空式前装マスケット銃から、前装または後装のライフル銃に進化した。ワーテルローの戦い当時のような重装騎兵の密集突撃は消滅して、銃で武装した軽装騎兵は専ら偵察と歩兵の側面防御に活躍するようになった。

そのため、18614月から654月まで足掛け4年間続いた南北戦争の後半には、日露戦争や第1次世界大戦を先取りしたような要塞構築と塹壕戦が恒常化したのであった。

 その他にも、機関砲と連発銃の実用化、軍事的輸送手段としての鉄道の活用、海軍による港湾封鎖と水雷攻撃の有効性の証明、鋼鉄蒸気艦による水上戦と潜水艦の出現、野戦における通信手段や負傷兵の介護システムの発達、そして徴兵制による大規模動員の実施など、筆者が思いつくだけでも、航空機と戦車の出現以外の現代総力戦の諸要素が南北戦争時点でほぼ出揃っている感じがする。

 そうかと思えば、南北戦争時点の野戦での歩兵戦術はナポレオン戦争時代を髣髴とさせる横隊による戦列歩兵の密集突撃が主体であったりしたため、両軍とも数万人規模で一度会戦した場合の戦死傷者の損害が1万人(2030%)以上に上るような、悲惨な結果をしばしば招いたのであった。

 南部連合軍(南軍)の戦力は合衆国連邦軍(北軍)より遥かに劣勢であったため、最終的には物量の差によって完敗したわけだが、これは先の大戦における日本軍の状況とよく似ていたと言えるかもしれない。

 当時の南北両軍の戦力比較に関する資料を参照すると、人口や鉄道マイル数ではほぼ71で北部優勢、しかも南部の人口約910万人中黒人奴隷が350万人も含まれていたから、北部の2千万人以上の自由民人口とは人的資源の差において比較するべくもなかった。

 製造業などの工業力ではさらに格差が開いており、91で北部優勢、武器製造能力に限定すればそれ以上の格差で、北部の絶対的優勢状態にあった。南部では、黒人奴隷の労働力に依存した原料綿花栽培とその輸出というプランテーション農業経済が主体で、主な物資は英仏など欧米諸国からの輸入に依存していたから、絶対的に優勢な合衆国海軍による南部連合海岸線にある港湾封鎖作戦によって、南部連合の経済はほぼ完全に干上がってしまう状態にあったわけだ。

この辺りの置かれた状態についても、太平洋戦争における日本と南部連合はよく似ていると言えるだろう。

 小説と映画の話題になるが、南北戦争と言えば、アトランタ炎上のシーンで有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』であろう。

その映画の最初の方で、サウスカロライナ州チャールストンにあるサムター要塞に対するボーレガード将軍の率いる南軍の砲撃開始を契機とした両軍開戦の直後、ヒロインのスカーレット・オハラが愛している貴公子アシュレイ・ウィルクスの屋敷であるトウェルブ・オークスで開かれたバーベキュー・パーティの席で、南部の男性達が戦争について議論を交わすシーンが出てくる。

そのシーンでは、多くの男性が騎士道精神で勇ましい発言をする中、北部滞在経験のあるもう1人のヒーロー、レット・バトラーが「勇ましい言葉だけで戦争は勝てない。南部には砲兵工廠1つ無いが、北部には工場、造船所、炭鉱や南部を餓死させる海軍力がある」と、醒めた発言をして座を白けさせる場面がある。

 アシュレイの発言はさほど勇ましくなく、戦争の大義には懐疑的だが、ヤンキーが南部の連邦離脱を妨害して攻めてくるなら、ジョージア州のために戦うと宣言する。

 筆者が思うに、当時の南部人にとって、このアシュレイの発言に見られるようにあくまでもヤンキーの侵略に対する防衛戦争という大義が感じられていたのだろう。その点で、リンカーン大統領が奴隷解放を宣言する以前の北部の大義名分は「連邦の統一維持」といった比較的ぼやけた内容に過ぎず、ヤンキーが戦争を積極支持する程の実質は無かったものと言えるだろう。

 戦争初期に北軍、特に首都ワシントンの防衛を担当した主力のポトマック軍が、常時兵力劣勢だったロバート・E・リー将軍の率いる南軍の北部ヴァージニア軍にしばしば翻弄されて敗北した1つの要因は、そうした大義名分の不明確さによる志願兵(いわば素人の民兵)たちの士気が十分に上がらなかったせいも有るのではないかと思う。

 もちろん、よく言われるように南軍に参加した将軍たちの多く、例えばリーやジョセフ・E・ジョンストン、そしてトマス・J・(ストーンウォール)・ジャクソンらの能力が高く、北軍の将軍たちに優っていたことも18637月初め迄の南軍優勢の原因だったのは確かであろうが。

 その南軍勝利の典型的戦闘が、1863430日から56日にかけて、北軍フッカー将軍の率いるポトマック軍と南軍リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍の間に行われた、チャンセラーズヴィルの戦いであろう。しかし、この戦いの結果、リーの右腕であった勇将ストーンウォール・ジャクソンが510日に戦傷死してしまった。

つまり勝利した南軍の方も、取り返しのつかない程の手痛い損害を、チャンセラーズヴィルの戦いで蒙ったのであった。その後7月にゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いに南軍が連敗したため、南北戦争の戦況は北軍優勢に展開したと言われている。そこで次回の筆者の投稿では、この戦いにおける両軍の旧式戦術について考察してみたいと思う。

2015年9月25日金曜日

現代のノマド、大衆演劇(旅役者)一座の生存に関する感想

 5連休を含む1週間、筆者はブログの投稿をお休みしていたが、その間の22日から23日の1泊、家族を連れて栃木県内の温泉旅館に旅行してきた。その温泉地には「湯けむり会館」という、大衆演劇の一座が巡業で公演する所謂「センター」がある。そこで、筆者は生まれて初めて旅役者劇団の芝居とショー(歌謡と舞踊)を見たのだが、なかなか面白かったので、今日はその感想を述べたい。

 まず、その公演のプログラムだが、親子愛と人情を題材としたコテコテな演歌調のわずか二幕1時間ほどの芝居の後、休憩とその間の役者の物品販売を挟んで、また1時間ほどのショーという構成であった。現在の大衆演劇は、そのほとんどが、こうした二部構成となっている様である。

 興味深かったのは、観客の大部分がすでに子育てと仕事から引退した「おばちゃん」「おばあちゃん」であったことだ。観客の大体7割位が、そうした高齢の女性達であった。彼女たちに同伴して来て参加したと思われる「おじちゃん」「おじいちゃん」たちが、その他の観客の28%程度だったろうか。我が家のような中年と若年齢層の参加者は、ほんの一握りを占めているに過ぎなかった。

 その歌謡と舞踊ショーも、若い女形の役者も含めほとんど演歌ばかりで、高度成長時代の日本慕情を髣髴とさせるような、人情に訴えかけるコテコテの内容であった。年寄りの特に女性が、いかにも好みそうな構成を敢えて選択していると思われる。

 ショーでは最前列に陣取った「おばちゃん」が何度も役者に「ハナ」、つまりご祝儀を渡していたが、こんな光景を筆者は生まれて初めて見たのである。聞くところによると、1万円が「ハナ」の相場だそうだ。これを渡すことで、役者とは単なるファンから「贔屓」の立場に関係が密接になるそうだ。

 何とも前近代的な印象を筆者は抱いたので、東京に戻ってから少し大衆演劇の歴史について調べてみた。そうしたところ、大衆演劇の劇団一座が非常に面白い形態で運営されていることに気付いた。その点について、以下感想を述べてみたい。

 まず、劇団員は、家族や血縁者の10人位で構成されている小劇団が多いそうだ。責任者である座長は世襲が多く、彼らと彼女らはほとんどの場合、母親の「腹の中」にいるころから役者として生きることが決まっており、一座とともに国内各地を転々と移動して生活しながら芸を磨き、やがて座長を世襲するそうである。

 これは正しく、現代版ノマド(遊牧民)の生活と言ってもおかしくない。狭く濃い血縁者がほとんどを占める一座とともに、小中学生時代を転々と転校を繰り返しながら、中学を卒業すると役者一本で生活していくようだ。

 大衆演劇評論家の橋本正樹さんの本などを読むと、劇団員の給料は月10万円も貰えないそうである。その代り、一座に対する食住は公演先の旅館などがほとんど提供してくれるそうだから、劇団員の最低限の生活は保障されているらしい。したがって、旅役者の毎月の給料は、あくまでも「小遣い」に相当する金額になるらしい。

 贔屓が渡す「ハナ」は臨時収入で、欧米のチップに当たる存在だが、その集金額によって役者が独り立ちできるかどうかが決まる。まさに役者個人の人気と芸次第で生き残れるかどうかが決まる、水商売なのである。堅気の人間が、容易く入り込める世界ではないだろう。

 それにしても、平成の現代に、一か所に定住せず各地を転々と移動して公演を年中続ける旅役者の生活が成立していることに、筆者は新鮮な驚きを感じた。川端康成の名作『伊豆の踊子』の世界観そのものが、現代にもしっかりと残存していたわけである。

 芸事の世襲と言えば歌舞伎役者がすぐ思い浮かぶが、大衆演劇もその根源をたどれば出雲の阿国の流行らせた歌舞伎踊りに辿り着く。江戸幕府と明治政府に保護された歌舞伎が本流の「大芝居」「国劇」として芸術的に洗練、昇華されていったのに対して、元これ同根より生じたはずの大衆演劇の方は、書生芝居の流れをくむ「新派劇」や浪曲込みの「節劇」、そしてチャンバラの「剣劇」の要素が付加されて大衆化、商業化していったらしい。

 問題は、彼ら旅役者の生存を現在支えている「おばちゃん」「おばあちゃん」が、これからの日本でも果たして絶滅しないで存在し続けるかどうかという点であろう。

一例を挙げれば、筆者の長女はインターネットやスマホに親しみ、ヴァイオリンを嗜む現代娘である。彼女が数十年後高齢化した時、果たして現在の大衆演劇が得意とする公演形態である人情劇や演歌を支持するような、昭和の高度成長期タイプの「おばちゃん」「おばあちゃん」に変身すると言えるのだろうか。

 世襲やノマド生活という大衆演劇一座の運営形態自体、高度化した現代社会での生存に必ずしも適した形態であるとは言えないだろう。しかしながら、大衆演劇はAKBのように人気が全国化するわけでもなく、芸事の家元制度も確立されていないにもかかわらず、現状で歌舞伎の約3倍の役者人口を抱えている。今回の温泉旅行を通じて、筆者は大衆演劇の将来性にふと興味を抱いたのであった。

2015年9月16日水曜日

欧州難民問題と日本の生涯未婚(嫌婚)率上昇-その政策的関連性についての考察

 915日、ついにハンガリー政府が、セルビア側から入国する難民申請者を強制送還する方針を明らかにした。同国政府は、不法入国者に対して禁固刑に処する可能性にも言及している。ハンガリーは自国へのこれ以上の難民流入を阻止するため、ルーマニアとの国境線上にも有刺鉄線を付した越境防止柵を拡張することも示唆している。極めて強硬な措置である。

 この夏以来激化した欧州難民危機問題は、今春起きたギリシャ債務危機問題と並んで、その本質はEU統合の理念と現実の乖離から生じたものである。それ故に、各加盟国ではそれぞれ自国の利害と欧州統合の理念との間のバランス判断に基づいて、独自の対応を模索している最中であると言えるだろう。

 これまで多数の難民や移民を受け入れてきた英国やスウェーデンでも、ハンガリーなど中東欧諸国の難民対策に共感する、反EU・反移民政策を掲げる極右、極左政党の政治的影響力が強まっている傾向が見られるようになった(英国独立党やスウェーデン民主党など)。

 彼らポピュリスト政治家たちは、欧州統合や人道主義の理念、少子化に伴う労働力の確保を優先するよりも、むしろ難民と移民の流入で国内の失業率や社会保障費支出が増大すること、そして治安が乱れてテロの危険が高まることを懸念している。英国では、来年にも実施されると予想されるEU離脱を巡る国民投票の行方にも、最近の難民危機問題が大きな影響を及ぼすと思われる。

 したがって、今年のEUは、ギリシャ債務危機問題と難民危機問題を契機として、創設以来最大の解体と分裂の危機を迎えたと言っても過言ではないと筆者は考える。

 他方、我が日本国の法務省は、915日、今後5年間の外国人受け入れの方針を定めた「第5次出入国管理基本計画」を公表した。それによると、昨年認定者11人だった難民認定制度については、従来通り紛争理由での申請を認定せず、新たに「紛争退避機会」として人道的配慮によって1年毎に在留許可を与える制度を新設するそうである。

 また、就労目的の申請に対する審査を厳格化すると同時に、技能実習制度に対する管理監督機関を設けてその不正を監視し、また、高い専門性や技術を持つ外国人については、経済成長に寄与するとして在留許可を拡大する方向性を示した(『朝日新聞デジタル』916日記事)。

 こうした法務省の基本方針からは、日本国として難民に対する庇護権を拡大することや、これから急速に進む少子高齢化に伴う若年労働力の減少を移民労働力で補うという政策転換については、まだ先送りすると言う意思が見えてくるのではないだろうか。

 そこで昨日、筆者の興味を引いたのが、Yahoo!ニュースとAERA編集部が共同企画した「みんなのリアル~1億人総検証」の第1弾である、「なぜ嫌婚?独身たちの主張なき抵抗」という記事なのであった。筆者には、日本も他人事として無視できない難民危機問題と嫌婚問題の間に、大きな政策的関連性があると思えたからである。

 記事の内容は、社会学者とブロガーの女性2人と男性学専門家の男性1人というお三方の「結婚は愛かコスパか」をテーマとした対談なのであるが、なかなか示唆に富む記事であった。

 まず議論の前提となるのは、2000年代に入ってからの日本における生涯未婚率の急上昇のデータである。1970年代の高度経済成長期には、生涯未婚率が男女とも5%を切っていて、日本は先進国でも珍しい程の驚異的な「皆婚時代」であったという。これに対して、2010年には45~49歳と50~54歳の未婚率平均値を取ると、男性で20%以上、女性で10%以上の未婚率に達している。

 このうち、都市居住者で仕事と一定の年収が有るにもかかわらず結婚したがらない「嫌婚派」については、コスパ重視の趣味志向であるとの社会学者・水無田気流さんのご指摘であった。

 また、かつての「皆婚時代」に主流を占めていた会社の世話好き上司等による「お膳立て婚」の時代から、SNSが発達した現代は、相手に対する十分な情報収集の結果選択した「恋愛」を経由した上での「自己責任婚」の時代に変貌しており、結婚相手の理想像が「ハイパーインフレ状態」を起こしているそうなのだ。

最近指摘される所の、男女ともに自分と同レベルの相手を求める「同類婚志向」も、この緻密な情報収集による恋愛経由の「自己責任婚」時代の傾向が反映されているらしい。

 面白いのが、それでいて男女ともに「皆婚時代」の「ジェンダー・セグリゲーション(性別分離)」の価値観に今なお束縛され続けており、男は女性に積極的にアプローチしてデートでも奢ってやって、将来は「一家の大黒柱」となるような昭和の男的な気概が求められ、逆に女性は「専業主婦」になって家庭を守ると言ったテンプレートに対するプレッシャーに晒されているという、水無田さんの分析である。

 それにも拘らず、「皆婚時代」のようなお膳立てされた誰でもいいから結婚しようでは今はダメであって、大恋愛を経由した上での結婚でなければいけないことになってしまったらしい。

 筆者が思うに、「同類婚」に拘りすぎると、選択肢が狭まりすぎて結婚相手が見つかりにくくなる。殊に俗に言うハイレベル同士の男女間では、ほとんど結婚相手を見つけ出すことが出来なくなってしまうのではないか。おまけに大恋愛まで経なければならないとすれば、これはもう浜の真砂の中から真珠を見つけ出すくらい困難な事業になってしまうに違いない。

 その結果、日本での生涯未婚率、換言すれば嫌婚率が上昇し続けることになる。そして、増々日本の少子化が進んで、いつか国内の若年労働力を補充するために移民を受け入れることを真剣に考えなければならない時代が到来することだろう。

 つまり、現在欧州が危機に陥っている難民・移民の受け入れ問題は日本にとっても決して他人事ではなく、このまま日本人男女の生涯未婚率が上昇し続けて少子化がさらに進展していけば、労働力として政策的に外国人を受け入れざるを得なくなる時が来るかもしれないのである。

2015年9月14日月曜日

都立高入試、学力検査7対内申3の割合に統一する制度変更に関する感想

 来年度都立高入試から、標記のとおり、例年2月末の筆記試験で実施される学力検査が全日制高校で原則5教科、内申との割合が7割の比重を持つように入試制度が簡略化されるそうである。ちなみに筆記試験の無い実技科目4教科については、内申点の算出において主要5教科の2倍に拡大するとのことである。なお、別途推薦入試が行われることは変わらないそうだ。

 実は筆者は70年代末に神奈川県立高校を卒業したため、神奈川方式の高校入試制度として悪名高い所謂ア・テスト(入試での「学力検査」とは別に行われる「中学校学習検査」のこと)を、中学2年生の3学期に受験した経験がある。

 この神奈川方式とア・テストなのだが、今回の都立高入試制度変更の趣旨とは全く逆の意図を持った制度と言えると思う。そこで、今日はその点について、筆者の感想を述べてみたい。

 当時の神奈川県の高校入試制度では、公立高校間の学力格差をなるべく解消し、入試における塾や業者テストの影響力をなるべく排除する目的で、中学校2年生の3学期にア・テストと称して、実技科目を含む何と9教科全てで筆記試験を実施していたのであった(様々な批判を受けて、ア・テストは1997年に廃止された)。

 筆者が高校受験した当時の割合では、中学22学期と中学32学期(だったと記憶している)の内申点合計が50%、ア・テストと入試当日の学力検査がそれぞれ25%の比率で換算され、受験生各自の合否が決定されたのである。

 そして、このア・テストが何とも不思議なテストで、実技科目についても全て筆記試験で行われた。そして、中学校2年生時点での生徒の学習到達度の測定がア・テストの目的とされていたため、試験の出題自体は非常に簡単な問題が多く、確か各教科50点満点で学区トップ校を目指す生徒の場合、およそ8割から9割は得点できる程度のレベルに過ぎなかったのである。

 問題は、ア・テスト終了時点で高校入試換算点の4割以上が決まってしまい、その時点で各生徒が進学できる公立高校がほぼ決定してしまったことである。神奈川方式の高校入試では、何と75%がその生徒の中学校時代での成績に左右され、高校側の選抜材料はわずかに25%に過ぎないことになる。

しかも、各生徒が中学2年を終わる時には進学すべき公立高校がア・テストの成績で「輪切り」で既に決定されており、3年生になってから頑張っても逆転はほぼ不可能であった。この早過ぎる選抜が、生徒や親たちの多くの批判を当時招いていたのであった。

 筆者のケースで言うと、中学2年生の時に少し勉強をさぼって油断していたため、ア・テストの成績が余り芳しくなかった。本音では、実技科目の筆記試験などバカらしくて、本気で取り組む気分を持てなかっただけなのであるが。

 しかし、当時流行った「15の春を泣かせるな」の標語のとおり、神奈川方式の効用としては、確かに中学の勉強だけをしていれば学区トップ校に合格することが出来たので、当時ほとんどの場合に塾や業者テストに頼る必要が無かったことは言えるだろう。公立校と併願する私立高校でも、当時はア・テストの成績で今言う所の事前確約が取れることも多々あったと思われるので、その意味でも高校入試の激化を一定程度緩和する効果が有ったと言ってよいと思う。

 そこで、今回の来年度からの都立高入試制度改革との比較であるが、都立高入試では主要5教科についてはもはや中学校の内申点はほとんど考慮されないと言ってよいと思う。中学時代の内申点については、実技4科目に焦点を絞って各自が取り組めば十分なのではないだろうか。

 今後、都立日比谷高校を狙うような高い学力を持つ生徒にとっては、来年度の入試から当日の学力検査一発の勝負になる公算が大きいだろう。彼らの場合、内申点でさほどの差は付かないと思われるからだ。逆に言えば、単純明快な学力重視の高校入試に回帰する方向で、今回都立高校が制度を統一する舵を切ったと言えるのではないだろうか。

 現時点では神奈川県の公立高校入試制度の方がなお複雑なようだが、いずれ神奈川県でも都立高校と同様の入試制度を踏襲していくことになるのではないかと筆者は思う。過去の入試制度変更では、多くの場合そうだったと言えるからである。

 その他にも、関西の関大一高の不透明な入試制度で最近問題になったが、中学との「事前相談」による一般入試不合格者より遥かに低得点の事前合格確約者の大量輩出に関しても、公立高校入試制度が一発勝負の学力重視に舵を切ることで大きな影響を与えるだろう。

 これらの高校は大抵の場合公立高校の併願校であり、少子化時代に生徒を確保するために事前の併願確約を実施しているからである。ただ、その「事前相談」に塾とそのテストの成績が絡んでくると、問題が一挙に不透明化するのだろう。

 筆者としては、高校入試では内申点など軽視して、学力検査一発勝負にかけるのがむしろ正しい方向性だと思う。長い人生では、ただ1日の勝負に向けて1年以上の努力を積み重ねる貴重な経験を、中学生の早い段階から体験させておくことが、むしろその生徒にとって有意義だと考えるからだ。

 ただし、学力検査一発勝負を重視すればするほど、高校入試における塾や予備校、そして業者テストの役割が高まっていくことには親と教師も十分な注意を払っておく必要があるだろう。大学入試と高校入試が、内申点軽視で次第に同じようなものになっていくからである。