2015年10月13日火曜日

ゲティスバーグの戦いの予備的考察-諸葛亮の対魏北伐作戦との比較について

 さて、ヴィックスバーグの戦いと並んで南北戦争中最も有名な決戦であったゲティスバーグの戦いは、当時劣勢に追い込まれつつあった南軍リー将軍の考案した乾坤一擲の北部ペンシルベニア州への侵攻作戦の結果起こった。

 圧倒的に劣勢な立場にある方が、乾坤一擲の勝利を目指して優勢な敵地に侵攻する作戦を選択することが、戦史上ではしばしば見られる。例えば、太平洋戦争劈頭に日本海軍が決行したパール・ハーバー奇襲攻撃作戦はその最も有名な事例の1つであるだろう。

 筆者が南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦と類似していると考えているのは、時代が相当隔たってはいるが、3世紀中国三国志時代の蜀漢の丞相諸葛亮が合計5回に亘って決行した優勢な魏に対する北伐作戦である。

 なぜなら、1863年時点でリー将軍の置かれた立場と同様に、三国志時代の3世紀前半に諸葛亮の置かれた立場もそのまま黙っていれば祖国がじり貧の劣勢に追い込まれてしまうことが明らかだったため、敢えて敵地に侵攻して乾坤一擲の決戦を挑もうとしたことが類似しているからである。

 ただ、以前に筆者が投稿で述べたように、リー将軍と諸葛亮とではその実際に取った作戦が随分と異なっている印象を抱く。

 リー将軍は言わば日本海軍による真珠湾攻撃と同様に、あくまでも敵の機先を制した奇襲攻撃を意図していたように思われるのだが、諸葛亮の場合は正々堂々の正攻法に徹していたことが大いに異なっているからである。

 しかも、南北戦争時点での南軍の北軍に対する劣勢度合いと比較しても、北伐当時の蜀漢の魏に対する劣勢度は遥かに大きかったのではないだろうか。3世紀当時の中国ではまだ揚子江以南がさほど経済的に発展していなかったため、黄河流域の中原を支配した魏の経済力と人口の優勢は江南の孫呉に対してはもとより、西方の僻地に位置する巴蜀地方(益州)だけを支配しているに過ぎない蜀漢に対しては遥かに優勢であったはずである。

 恐らく、諸葛亮が当時北伐に動員できた総兵力は、せいぜい3万人から4万人といったところではないだろうか。祁山の戦いで魏軍に大勝した231年2月の第4回北伐と五丈原での司馬懿との対峙で有名な234年2月の最後の第5回北伐では、蜀軍も6万人以上の充実した兵力を動員したと言われているが、対する魏軍の動員兵力は優に10万人を超えていたと思われる。

 しかも、諸葛亮が出師の表を蜀漢の後主劉禅に奉呈した後、228年春に軍を率いて前線基地を置いた漢中から魏の領土である長安を中心とした渭水盆地に進出するためには、いわゆる蜀の桟道の険路を通って標高2千から3千メートル級の山々が連なる秦嶺山脈を遥々超えて行かなければならない。自動車の無い当時に、数万の軍隊を率いて補給を確保しつつこの作戦を遂行することは、途轍もない難事業であったに違いない。

 諸葛亮は231年2月の祁山進出に当たって輸送車両として木牛流馬を発明して輜重の便を図ったと言われているが、それにしても恐らく手押し車の類であったに過ぎないそうした人力車両を駆使して道なき道の高山地帯を突破して見事作戦を遂行したのだから、カルタゴのハンニバルやナポレオンのアルプス越えに匹敵する位凄い実績と言えるのではないだろうか。

 北伐の基本資料は恐らく魏の後継王朝である西晋に仕えた陳寿の書いた正史『三国志』中『蜀書』の中の「諸葛亮伝」であろうが、陳寿による評価では諸葛亮の政治手腕と軍の統率能力については最大限の賛辞を加えているが、臨機応変の将略については聊か疑問を投げかけている。その結果、何度も北伐を実施したにも関わらず成功しなかったのではないか、と評している。

 しかし、劣勢の兵力を補給も儘ならない大山脈を越えて敢えて敵地に何度も侵入させることに成功しているだけでも、諸葛亮の将軍としての才能は相当に優れたものであったに違いないと筆者は考える。この点では、リー将軍も同様であるだろう。

 諸葛亮の作戦は、最終的には前漢建国時の首都であった長安を占領することであったと思う。しかし、部下の勇将魏延が度々進言したように、別働隊を派遣して秦嶺山脈東部に走る子午谷を突破して直接長安を奇襲占領する作戦を採ったとしても、洛陽方面から進撃してくる優勢な魏の大軍を迎え撃って長安を守り切ることは多分不可能であっただろう。

 やはり実際に諸葛亮が当時採用した作戦のように、秦嶺山脈西部のルートを突破して天水郡方面をまず先に制圧して、しっかりとした自給体制を構築した方が蜀軍に有利に展開したはずであっただろう。

 魏軍が大挙進出してきた場合には、祁山の様な山間部か、渭水盆地西部の狭いエリアで迎撃することが兵力劣勢な蜀軍には有利であったと筆者は考える。実際、第1回北伐では前線部隊司令官に抜擢した経験不足の馬謖のミスによって街亭の戦いで敗北を喫して、蜀軍は撤退に追い込まれたが、229年春に行った第3回北伐以降は、諸葛亮の率いる蜀軍が何度か魏の大軍に勝利を収めている。

特に231年の第4回北伐の際、補給が途絶える可能性がある事を懸念して撤退する時に、馬謖を街亭で破った魏の名将張郃を木門谷に置いた伏兵に迎撃させて見事討ち取ることに成功するなど、北伐の経験を重ねれば重ねる程、諸葛亮は冴えた采配を振るっている。

 結局、劣勢な兵力で敵地に大胆に乗り込む作戦を遂行すること自体が、補給を維持し続けることの本質的困難を伴ったために、諸葛亮の北伐作戦は成功しなかったと言えるだろう。この点は、南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦を考察する際にも、類似の比較対象として検討すべき余地があると、筆者は考えている。

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-ヴィックスバーグ包囲戦(2)

 1863年4月16日夜に実行されたデイヴィッド・ディクソン・ポーター提督(大佐)の率いる合衆国砲艦隊のミシシッピ川下流への突破作戦は、南軍の砲台が連なるヴィックスバーグ要塞の崖下を暗闇に紛れて通過する作戦であったが、日露戦争における日本海軍の連合艦隊による旅順港閉塞作戦と同じ位大胆かつ危険な作戦であったと筆者は考える。

 結果的に同作戦は成功したわけだが、ポーター艦隊は通過中直ぐに南軍の歩哨に発見されて激しい砲撃に晒された。しかし、大砲の仰角の関係で南軍の砲弾が艦隊の頭上を飛び越えてしまったため、1隻が炎上した以外ほとんど無傷でもう1つの南軍の砲台があるグランド・ガルフ対岸の陸軍の渡河予定地点であったハード・タイムズに到着することに成功したと言われる。

 4万人以上の合衆国陸軍もマクラーナンド将軍に率いる軍団を先頭にして、4月末までにはヴィクスバーグの約40km南にあるハード・タイムズに集結したようである。この時点で、北軍の渡河作戦の成功は決定付けられたということが出来るだろう。4月17日に開始されたグリアソン騎兵旅団の南北縦断機動作戦も、北軍の行動を南軍ペンバートン将軍の目から逸らさせることに大いに寄与したと思われる。

 ところが南軍のグランド・ガルフ砲台が予想以上に強力で、ポーター艦隊による砲撃でこれを沈黙させることが出来なかったため、グラント将軍は作戦を変更してハード・タイムズよりさらに下流に位置するブルーインズバーグまで軍を南下させ、4月30日、そこからミシシッピ川東岸に3万人以上の兵力を渡河させたのであった。

 渡河に成功した北軍の作戦は、グランド・ガルフの南軍砲台を側面から制圧しつつ、ヴィクスバーグの東方約80kmの地点にあるミシシッピ州都のジャクソンを奪取することであった。

 ジャクソンは、ニューオーリンズとジャクソン以北を結ぶ鉄道とヴィックスバーグとジャクソンを結ぶ鉄道が交差する南軍補給路の要に位置しており、この方面の南軍総指揮官ジョンストン将軍率いる軍が当時駐留していた。

 さて、こうした状況下で北軍に機先を制せられた南軍が採り得るベストな作戦は、果たしていかなる作戦であっただろうか。

 筆者が思うに、北軍の進路が判明した時点でヴィックスバーグ周辺に位置するペンバートン軍を州都ジャクソン方面に呼び寄せて合流し、全軍一体となってグラント将軍の北軍を迎え撃つ作戦が最も好ましかっただろう。

 しかし、実際には、後方連絡線を放棄し補給部隊を伴ってミシシッピ川東岸をジャクソン攻略に向かって急速進撃した北軍の行動に南軍が対応できず、まず5月1日にポート・ギブソン近郊で南軍の先遣隊が撃破されたため、堅固なグランド・ガルフ砲台の守備隊も陣地を放棄して退く他手立ては無かった。

 ジャクソンにいたジョンストン将軍は、北方に退避するとともにペンバートン将軍に対して東方に居る自分と合流するよう指示したようである。ところがジェファーソン・F・デイヴィス南部連合大統領は、ウェストポイント陸軍士官学校出身で米墨戦争に従軍した軍歴を持ち、政界進出後は南北戦争勃発以前に合衆国陸軍長官や上院軍事委員長を歴任した軍人でもあったから、ヴィックスバーグを死守することの戦略的重要性をよく認識していた。

 そのため、ペンバートン将軍には大統領からヴィックスバーグ死守の命令が届いていたと言われている。つまり、直属上官からの命令と最高司令官である大統領からの命令が齟齬を来していたため、ペンバートン将軍が事後の判断に迷う結果を引き起こしてしまったわけであった。この現場指揮官の判断の迷いが、結果的に作戦上北軍に後手を踏んでしまう最悪の結果を南軍にもたらしたと言えるのではないだろうか。

 その後の進展はグラント将軍の想定した通りに北軍優位のままほとんど推移し、5月14日のレイモンドの戦いで南軍に勝利した北軍は予定通り第1目標のジャクソンを占領した。

 もはやこの時点で南軍は既に分断されており、ペンバートン将軍の率いる軍団は5月16日、ヴィックスバーグとジャクソンの中間地点に位置するチャンピオンヒルの台地で迎撃したものの北軍に撃破され、撤退する南軍の殿部隊も翌17日ビッグブラック川を渡る橋を巡る攻防戦で敗れ、5月18日からヴィックスバーグ要塞に立て籠もって北軍の包囲網に抵抗する包囲戦に移行したのであった。

 このヴィックスバーグ包囲戦は、1863年7月1日から3日にかけて行われたペンシルベニア州ゲティスバーグの戦いが終わった翌日の7月4日、南軍のペンバートン将軍が北軍のグラント将軍に降伏するまで48日間続いたのであった。

 東部戦線のゲティスバーグと西部戦線のヴィックスバーグで1863年7月上旬に相次いで南軍が敗北したことで、南北戦争は北軍勝利にほぼ決定付けられたとされる。リンカーン大統領とジェファーソン・デイヴィス大統領の最高指導者双方が予想した通り、ヴィックスバーグの包囲戦は正しく南北戦争の転換点になった攻防戦であったと現在評価されているわけである。

2015年10月8日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-ヴィックスバーグ包囲戦(1)

 1863年春に起こったチャンセラーズヴィルの戦いで、南部連合リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍は、ストーンウォール・ジャクソン将軍の戦傷死など多大な損害を出したものの、フッカー将軍の率いる北軍ポトマック軍をヴァージニア州内から撃退することに成功した。

 しかし、当時の戦況を考えれば、南軍が仮にヴァージニア州内(特にフレデリックスバーグ)で首都リッチモンドを防御する態勢を固めたとしても、戦力で遥かに勝る北軍が数か月以内にポトマック軍を再建して再度攻勢に出てくることはほぼ確実であっただろう。

 また、南北戦争における第二戦線であったミシシッピ川流域の支配権争奪を巡る西部戦線では、海軍力で優勢な北軍が1862年5月18日、デイヴィッド・G・ファラガット提督の指揮の下に南部最大の港湾都市ルイジアナ州ニューオーリンズを既に占領していた。

 リンカーン大統領は、ミシシッピ川を支配することによって南部連合の物資供給ルートを遮断し、南部を川の東西2つのエリアに分断しようとしていたのだが、そのためには、「ミシシッピ川のジブラルタル」とも言われる屈曲点(bend)の断崖上に位置するミシシッピ州の要塞都市ヴィックスバーグを攻略する必要があった。

 当時この方面の合衆国軍では、ユリシーズ・S・グラント少将が1862年10月にテネシー軍司令官に任命されて、テネシー州メンフィスまで進出していた。グラント将軍の任務はミシシッピ川とその東岸の沼沢・小河川(バイユー)地帯を陸海軍連携の下に南下して、ヴィックスバーグを攻め落とすことであった。

 他方、ミシシッピ川河口のある南部のルイジアナ州方面からは、62年5月にファラガット提督の率いる合衆国海軍がヴィックスバーグを攻撃したが、この作戦は失敗した。陸軍では、元マサチューセッツ州知事であったナサニエル・P・バンクス少将がメキシコ湾岸軍司令官としてニューヨーク州とニューイングランドで徴募された新兵約3万人を率いてニューオーリンズに上陸後、ミシシッピ川沿いを遡上してバトンルージュまで進出していた。

 つまり、北軍の当初の作戦では、南北双方からミシシッピ川東岸沿いを進んで、ヴィックスバーグ守備に当たるジョン・C・ペンバートン中将の率いるミシシッピ軍約2万2千人の南軍を挟撃しようとしたわけである。

 ところが、北方からの侵攻を担当するグラント将軍のテネシー軍約4万人は、62年11、12月の攻勢で鉄道を利用した南進を開始したが南軍騎兵部隊の後方攪乱によって補給路を遮断され、また、民主党のイリノイ州選出下院議員を辞職して従軍したジョン・A・マクラーナンド少将が、リンカーン大統領の承認を得て中西部諸州の兵士を集めてヴィックスバーグ攻略作戦に参加してきたため、指揮権を巡る混乱もあって、結局撤退を余儀なくされてしまった。

ちなみにマクラーナンド将軍は、12月末にシャーマンから指揮権を引き継いだ後、ミシシッピ川に合流するアーカンソー川沿いを遡上して南軍のハインドマン砦に遠征し、約5千人の南軍兵士を捕虜にするといったような、無駄な寄り道作戦を当時行っていた。

 既に12月20日に艦隊と共に川を下ってヴィックスバーグのすぐ北ヤズー川沿いにあるチカソーの絶壁を襲撃したウィリアム・T・シャーマン少将の率いる分遣隊約3万2千人の攻撃も、南軍の10倍近い死傷者(約1,800人)を出して失敗してしまったのであった。

 この北軍の一連の攻勢が失敗した原因は、恐らくバイユーによって形成された沼沢地によってスムーズな進撃を阻まれたことと、南軍守備隊が川沿いに連なる絶壁上に堅固な陣地を構築していたためであろう。特に絶壁上に設置された南軍砲台から受ける砲撃は、北軍に大きな脅威を与えたと筆者は考える。

 ヴィックスバーグ付近の地形を観察すると、北軍はやはり川の東岸地帯から攻撃するしか攻略の方法は無かったと思われる。ミシシッピ川東岸に位置するヴィックスバーグ要塞の川沿いには断崖絶壁が連なっていて、西岸からの直接的な攻撃は、その断崖上に設置された南軍砲台の格好の標的となってしまうために成功させることは非常に困難であっただろう。

 そうかと言って、ヴィックスバーグの街を取り囲む南軍の要塞を北の沼沢地から北軍が再度攻撃することは、1862年冬季攻勢の失敗から見ても、成功は覚束ないことが明らかだった。

 そこでグラント将軍は、1863年春まで待って、極めて大胆かつ壮大な迂回作戦を実施した。それは、デイヴィッド・D・ポーター提督の率いる砲艦7隻と兵士を乗せていない輸送船3隻の合衆国艦隊が敵の砲台が連なる断崖下をミシシッピ川下流まで強行突破し、下流のハード・タイムズまで下って東岸のグランド・ガルフにある南軍砲台を沈黙させた後に、ミシシッピ川西岸を遥々迂回進軍してきた4万人以上の陸軍を東岸に輸送するという作戦であった。

 筆者が思うに、これは当時の北軍が考え得る最も有効な迂回作戦だろう。なぜなら、ミシシッピ川西岸には当時ほとんど南軍の脅威が無かったからである。その地で大軍を南下させて南軍要塞の遥か下流エリアで川の東岸に渡河させることに成功すれば、時間はかかると思うがヴィックスバーグ東方に軍を展開して、要塞を東側から包囲して攻撃することが可能となるからだ。

 当時、ペンバートン軍を支援するために西部戦線総指揮官ジョセフ・E・ジョンストン将軍の率いる南軍が、ヴィックスバーグ東方にあるミシシッピ州都で鉄道交通の要衝であるジャクソンに駐屯していた。したがって、北軍がミシシッピ川東岸に渡河してジャクソンに向かえば、ヴィックスバーグのペンバートン軍とジャクソンにいるジョンストン軍の連絡を遮断できることになる。

 これは兵力優勢な北軍にとっては、成功すれば分断した南軍を各個撃破することもできるし、ジョンストン軍が会戦を回避したとしても、ペンバートン軍を圧迫してヴィックスバーグの要塞内に閉じ込めてしまうことも可能だろう。実際、その後の南軍の動きは北軍の想定通りに進展したわけである。

 だが、このグラント将軍の考えた大胆な北軍の迂回作戦には、成功すればとても効果的ではあったが、同時に非常に危険な難点が伴っていたのではないかと筆者は考える。

 まず第1に、ポーター艦隊が無事ヴィックスバーグ要塞の直下を下流まで通過することができるかどうかである。そして第2に、陸軍の大部隊がバイユーの沼沢地である西岸の土手道を切り開きながら、海軍と連携しつつ、所定の時期までに無事予定地点に辿り着いて集結することができるかどうかである。

仮に陸軍が予定地での集結に失敗して作戦が中止となった場合、一旦下流に下ったしまった艦隊が、低速で敵の砲火をかい潜って上流の基地であるミリケンズ・ベンドに帰還することは難しかっただろう。さらに第3に、陸軍が無事ミシシッピ川東岸に渡河することに成功したとしても、その後はもはや後方の策源地との連絡線が途絶えてしまう点も問題であったに違いない。

 第1と第2の点を解決するためには、大規模な陽動作戦が必要となる。そこで、グラント将軍は、まずシャーマン将軍の軍団に、ヴィックスバーグ北部の断崖に対する攻撃を仕掛けることを命じた。

さらにグラントは、ベンジャミン・H・グリアソン大佐の率いる騎兵旅団にテネシー州ラグランジェからルイジアナ州バトンルージュまで、800マイル(約1,290km)程度、南北に並行して伸びるミシシッピ・セントラル鉄道とモービル・オハイオ鉄道の間を移動させ、鉄道を分断するとともに南軍騎兵と交戦しつつ、南から攻勢をかけるバンクス将軍の率いるメキシコ湾岸軍に合流する陽動作戦を命じたのであった。

 そして、ポーター艦隊のミシシッピ川下流への突破作戦は1863年4月16日夜、グリアソン騎兵旅団の南北縦断機動作戦は翌4月17日に、それぞれ開始されたのであった。

2015年10月5日月曜日

ロシアのシリア空爆開始により、中東のパワーバランスが変動する可能性に関する分析

 9月30日、ロシアがシリアでの反体制派に対する空爆を開始した。アメリカとロシアが同一の戦場で共に軍事行動を展開するのは極めて異例であり、恐らく第二次大戦以来の稀有な事態であろう。

その理由は、冷戦期には両者(当時はロシアではなくソ連だったが)の直接対決を招くような同一戦場での軍事行動が核戦争へのエスカレートを招きかねないとして敬遠され、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、アフガニスタン紛争のように米ソの一方が直接軍事介入した場合には、他方はその対抗勢力を支援するに止まった代理戦争方式が冷戦期の一般的形態であったためである。

 今回のロシア軍のシリアでの空爆開始は、国連総会でのアメリカのオバマ政権の出鼻を挫いて、プーチン大統領が周到に準備した上で機先を制して実行された作戦だと筆者は見立てている。

 なぜなら、ロシアは9月初めからシリアに先遣部隊を送って、地中海に面する港湾都市ラタキアの空軍基地に空爆準備のための滑走路を建設していた事実があるからだ。なお、ロシア黒海艦隊はラタキアの南に位置するタルトゥース港に、旧ソ連圏以外では世界唯一の海軍の補給基地を持っている。ロシアはシリアのアサド政権にとって、イランと並んで最も重要な軍事支援国である。

 今回のロシアの軍事行動の意図は、恐らく現在のところ欧米との最大の対立原因となっている、ウクライナ問題からシリア内戦の動向に欧米諸国の関心を向けさせることにあるのだろう。この9月は、プーチンにとってロシアの国益を伸ばす、まさに絶好の好機であったのではないだろうか。

まず、今夏以降、数十万人のシリア難民・移民がEU諸国に殺到していることから、EU諸国の主たる関心が、アサド政権自体の存続問題より難民・移民問題の直接的な原因を除去するための対IS(イスラーム国)軍事作戦に集中し始めていた。

例えば、シリア国内での空爆参加をこれまで控えてきたフランスがシリア国内での対IS空爆作戦を開始したのは、9月27日からであった。これにはシリア内戦の周辺諸国への波及を封じ込め、難民・移民の欧州流入を少しでも抑制する軍事的意図が、オーランド仏大統領にあったのだろう。

こうした状況下において、EU諸国としては、建前はともかく、ロシアがISを叩く空爆を遂行することに本音では反対すべき理由は無いはずだ。EU諸国の関心は、自国の安全保障環境を悪化させない事であり、ロシアの軍事行動がシリアでの紛争をエスカレートさせなければ、さほどの懸念材料とはならない状況だろう。

 次に、ウクライナの親ロシア派は、2月に発効したミンスクⅡ停戦合意に従って、10月3日ウクライナ東部の緩衝地帯から戦車部隊を撤収させ始めた。10月2日にパリで行われた仏独露ウクライナ4カ国首脳会談では、ミンスクⅡで今秋実施が予定されていた親ロシア派支配地域での地方選挙先送りが、改めて合意されている。

 これは明らかに、プーチン側の欧米による経済制裁解除を目論んだ意図的な譲歩であろう。ウクライナ問題では、オバマ米大統領がポロシェンコ大統領の要請による対ウクライナ武器供与を検討し始めたことから、独仏両国の欧州でのロシアとの紛争拡大に対する懸念が年初から高じていた。

 その結果がミンスクⅡ合意であったのだが、状況としては2014年9月に締結されたミンスクⅠ合意と同様、いつ破綻してもおかしくなかった。それが今になって一定の和平の方向に進展したのは、ロシア側の譲歩の影響が大きいと筆者は思う。

 ロシアは対シリア軍事介入に当たって、シリア、イラク、イランとの4カ国間で対IS情報センターを設置して軍事協力関係を強化しつつある。プーチン大統領はシリア問題でアメリカのオバマ政権の軍事作戦が効果的に進んでいない間隙を利用して、アメリカから主導権を奪い、冷戦後に中東で失ったロシアの影響力を回復するとともに、ウクライナ問題を棚上げすることを多分狙っているのだろう。

 シリアでのロシア空軍機の空爆対象は、現在までの報道によると、アサド政権側支配地域の周辺部に位置する反体制派の拠点を主に標的にしているようである。それは、ヌスラ戦線などイスラーム過激派や、親欧米派の自由シリア軍の拠点も含まれている。欧米諸国や反体制派はロシア軍の標的が無差別で、民間人の付随的損害も出ているとロシアの軍事行動を非難している。

 これに対して、イラン革命防衛隊は傀儡であるレバノンのシーア派武装勢力ヒズブッラーとともに、レバノンからシリア領内へ地上部隊を越境させてアサド政権に対する軍事支援を強化しているという情報もある。確証はないが、このイランとヒズブッラーの動向は、今回のロシアの軍事介入開始に連動した動きと言えるのかも知れない。

また、シリアのバッシャール・アサド大統領も、10月4日に放映されたイランのTV局とのインタビューで、「ロシアの空爆作戦が成功しなければ中東全体が崩壊する」旨を発言して、ロシアの軍事介入を側面支援した。この時、アサド大統領は「テロリズムを煽っている」として、欧米に対して非難することも忘れていなかった。

9月になってからのシリアを巡る一連の状況を見ると、反米勢力側の親米勢力側に対するパワーバランスを変更しようとする動きが強まっているのではないか、と筆者は考える。

 以下に示す図は、筆者が作成した現在の中東での安全保障環境を表す直交座標図である。
この図では、第一象限に位置する諸勢力がパワーバランス劣勢の現状変更を意図する反米勢力であり、それに対峙する第三象限の諸勢力が冷戦後のパワーバランス優勢の現状維持を意図する親米勢力である。この両者の力の均衡が、シリア内戦をめぐって最近少しづつ変動している状況というのが、昨今の中東における安全保障環境の実態であろう。

 図 主要な主体間の位置関係(筆者作成)
                   (地域における核抑止体制の現状変更)            ・イラン








←(親イスラエル)   ・サウジ/GCC
・シリア
・アルカイダ
・ヒズボラ
・ロシア
・中国
 ・ハマス
・パキスタン
    ↓
←←← 核移転?     (親イラン)→




・トルコ

     ・EU(フランス、ドイツ)
   ・EU(イギリス)
・アメリカ



・イラク


日本
・イスラエル

2015年10月1日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(2)

 南北戦争の主戦場は、合衆国東部の連邦首都ワシントンD.C.と南部連合の首都であったヴァージニア州リッチモンド周辺の比較的狭い地域であった。この両首都の間は、実は直線距離にしてわずか100マイル(約160km)程しか離れていない。東京と白河間程度の、ほんの目と鼻の先にある。

つまり、双方の境界であるポトマック川を挟んで北軍は南部の本拠地リッチモンドに侵攻しようと何度も試み、対する南軍はシェナンドア渓谷からワシントンD.C.上流のポトマック川を渡河して、北部のメリーランド州とペンシルベニア州に進出して側面から連邦首都に脅威を与えようとしたわけである。例えば最大の激戦地ゲティスバーグは、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグの南南西、大都市フィラデルフィアからはほぼ西に位置している。

 当時、兵力物量ともに劣勢であった南軍が敢えて壊滅する危険を冒して北部に侵攻しようとしたのは、合衆国政府のあるワシントンD.C.を取り囲んでいるメリーランド州が奴隷州であったため、積極攻勢をかけてその内部を崩壊させようと意図したことと、合衆国首都への兵站線であったボルティモア&オハイオ鉄道を恐らく遮断しようとしたためだろう。

 それに加えて、リンカーンが1862年9月に南部連合支配地域での奴隷解放を宣言して大義名分を確立する迄の戦争前半の時期は、もし南軍が北部領土内で北軍を撃破することに成功すれば、英仏両大国の南部連合承認を引き出し得ることが十分想定され、そうなれば事実上南部の独立が国際的に承認される効果が期待できたからであった。

このあたりの南軍北部ヴァージニア軍司令官リー将軍によるリスキーな作戦の選択は、何となく中国三国志時代の蜀漢の丞相、諸葛亮(孔明)の魏に対する5回にわたる北伐(228年春~234年8月)作戦を髣髴とさせる。

筆者が思うに、諸葛亮もリー将軍もどちらも歴史上の名将に該当するだろうが、両者の違いとすれば、孔明が部下の将軍魏延の奇襲作戦案を容れずにあくまで正攻法に拘ったのに対して、リー将軍がストーンウォール・ジャクソンなど部下の勇将を駆使した奇襲作戦を逆に好んだことだろうか。

 いずれにしても、リー将軍は、北軍ポトマック軍司令官マクレラン将軍が考案したリッチモンド攻略に向けたヴァージニア半島侵攻作戦を、1862年6月から7月にかけて大損害を受けながらも撃退することに成功した。そしてその勝利の好機を逃さず、同年9月にポトマック川を渡河してメリーランド州に侵攻したわけである。

 しかし、この南軍北部ヴァージニア軍による第1次北部侵攻作戦は、9月17日に起きたポトマック軍とのアンティータムの戦いで、両軍とも1万人以上(合計で米国史上1日最大)の死傷者数を出して南軍は撤退に追い込まれた。

 1862年11月、リンカーン大統領は撤退する南軍を追撃しなかったマクレラン将軍を解任して、アンブローズ・E・バーンサイド少将を後任のポトマック軍司令官に任命した。ちなみに、解任されたジョージ・B・マクレラン少将は1864年の大統領選挙で共和党から再選を狙うリンカーンに対抗する民主党候補に擁立されたが、大統領選には敗れている。

 新任のバーンサイド軍司令官は、フレデリックスバーグでラパハノック川を渡河して南部連合首都リッチモンドを急襲しようとしたが、渡河が遅滞した上に12月上旬対岸に堅固な陣地を構築していたリー軍に対して無策な正面攻撃を仕掛け、その結果1万2千人以上の死傷者を出して敗退した。そうした不手際もあって、彼もたった81日間で司令官を解任されてしまったわけである。

 北軍ポトマック軍3人目の司令官ジョセフ・フッカー少将は、1863年1月末に就任後、冬季の間は敗軍を休養させて兵力をリー軍の倍以上に再整備し、4月26日にフレデリックスバーグ対岸から自軍7個軍団中5個軍団を川の上流へ長途迂回行軍させて、南軍の背後を突く作戦を実施した。この時起きた戦いが、チャンセラーズヴィルの戦いであった。

 筆者が興味深いのは、この戦いが双方とも敵の側面迂回奇襲と強襲という、ナポレオン戦争当時のような旧式戦術を駆使した点にある。北軍はその騎兵部隊を敵騎兵おびき寄せと連絡遮断のために大部分派遣したのだが、南軍騎兵部隊を率いるJ.E.B.スチュアート将軍は全くこの作戦に引っかからなかった。そのため、リー将軍は北軍の動きをほぼ的確に把握することが出来たのである。これが、南軍勝利の一番の勝因だろう。

 次に、初めは積極的な迂回攻撃を仕掛けたフッカー将軍が、南軍の倍以上の兵力を持っていながら、5月1日はチャンセラーズヴィル周辺の樹海内での陣地構築に費やし、午後に樹海東方に開けた平地に向けて進軍を開始したものの、南軍の斥候部隊に遭遇した途端、陣地に戻って防衛線を張る消極策を選択したことも、いったいどういう意図だったのか、筆者には解せないところだ。

 恐らく、本来偵察任務に当たるはずの北軍騎兵部隊が南軍牽制のために遠方に派遣されて当日不在だったため、南軍の動きが十分把握できずにフッカー将軍が弱気になったのだろう。これで主導権が劣勢であったリー将軍側に移ってしまった。これが、南軍第二の勝因と言えるだろう。

 南軍第三の勝因は、フレデリックスバーグ防衛軍を残したため、さらに兵力が少なくなった自軍約4万人の兵力の過半をリー将軍が部下のストーンウォール・ジャクソンに委ね、北軍陣地のほぼ正面を大胆に迂回機動させたことだ。劣勢な兵力をさらに細分するとは、軍司令官に余程の勝算が無ければ決してできることでは無かったはずだ。

そのジャクソンの率いる南軍第2軍団は、夕刻(午後5時)から夜間にかけて西方から樹海内に突進して、夕食準備中で油断していたハワード将軍の率いる北軍第11軍団を急襲・撃破した。これはまるで、木曽義仲が平家の大軍を破った砺波山(倶利伽羅峠)の戦いのような、旧式の夜襲戦法に他ならないと言えるだろう。

 しかし、歩兵のライフル銃による戦いが主流となった時代には、やはり夜襲戦法は危険を伴っていた。戦い当日の5月2日は月夜であったとは言え、日没後の暗がりの中、敵軍攻撃のための間道を見つけ出すべく、自ら偵察に出動したストーンウォール・・ジャクソンは、その帰途に味方の警戒兵による誤射を受けて左腕切断の負傷をしてしまい、5月10日に死亡してしまったのだった。

 その結果、リー将軍は南軍随一の勇将で右腕だった部下を失った。ストーンウォール・ジャクソン将軍の死が、7月1日から3日にかけて起きたゲティスバーグの決戦で南軍が北軍攻撃に失敗し、戦局が大転換した1つの原因であったのではないだろうかと筆者は考える。

2015年9月29日火曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(1)

 エイブラハム・リンカーン第16代合衆国大統領の奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説で有名な南北戦争は、世界最初の現代的な総力戦であった。例えば南北戦争における両軍の歩兵の主要装備は、ナポレオン戦争時代の滑空式前装マスケット銃から、前装または後装のライフル銃に進化した。ワーテルローの戦い当時のような重装騎兵の密集突撃は消滅して、銃で武装した軽装騎兵は専ら偵察と歩兵の側面防御に活躍するようになった。

そのため、1861年4月から65年4月まで足掛け4年間続いた南北戦争の後半には、日露戦争や第1次世界大戦を先取りしたような要塞構築と塹壕戦が恒常化したのであった。

 その他にも、機関砲と連発銃の実用化、軍事的輸送手段としての鉄道の活用、海軍による港湾封鎖と水雷攻撃の有効性の証明、鋼鉄蒸気艦による水上戦と潜水艦の出現、野戦における通信手段や負傷兵の介護システムの発達、そして徴兵制による大規模動員の実施など、筆者が思いつくだけでも、航空機と戦車の出現以外の現代総力戦の諸要素が南北戦争時点でほぼ出揃っている感じがする。

 そうかと思えば、南北戦争時点の野戦での歩兵戦術はナポレオン戦争時代を髣髴とさせる横隊による戦列歩兵の密集突撃が主体であったりしたため、両軍とも数万人規模で一度会戦した場合の戦死傷者の損害が1万人(20~30%)以上に上るような、悲惨な結果をしばしば招いたのであった。

 南部連合軍(南軍)の戦力は合衆国連邦軍(北軍)より遥かに劣勢であったため、最終的には物量の差によって完敗したわけだが、これは先の大戦における日本軍の状況とよく似ていたと言えるかもしれない。

 当時の南北両軍の戦力比較に関する資料を参照すると、人口や鉄道マイル数ではほぼ7対1で北部優勢、しかも南部の人口約910万人中黒人奴隷が350万人も含まれていたから、北部の2千万人以上の自由民人口とは人的資源の差において比較するべくもなかった。

 製造業などの工業力ではさらに格差が開いており、9対1で北部優勢、武器製造能力に限定すればそれ以上の格差で、北部の絶対的優勢状態にあった。南部では、黒人奴隷の労働力に依存した原料綿花栽培とその輸出というプランテーション農業経済が主体で、主な物資は英仏など欧米諸国からの輸入に依存していたから、絶対的に優勢な合衆国海軍による南部連合海岸線にある港湾封鎖作戦によって、南部連合の経済はほぼ完全に干上がってしまう状態にあったわけだ。

この辺りの置かれた状態についても、太平洋戦争における日本と南部連合はよく似ていると言えるだろう。

 小説と映画の話題になるが、南北戦争と言えば、アトランタ炎上のシーンで有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』であろう。

その映画の最初の方で、サウスカロライナ州チャールストンにあるサムター要塞に対するボーレガード将軍の率いる南軍の砲撃開始を契機とした両軍開戦の直後、ヒロインのスカーレット・オハラが愛している貴公子アシュレイ・ウィルクスの屋敷であるトウェルブ・オークスで開かれたバーベキュー・パーティの席で、南部の男性達が戦争について議論を交わすシーンが出てくる。

そのシーンでは、多くの男性が騎士道精神で勇ましい発言をする中、北部滞在経験のあるもう1人のヒーロー、レット・バトラーが「勇ましい言葉だけで戦争は勝てない。南部には砲兵工廠1つ無いが、北部には工場、造船所、炭鉱や南部を餓死させる海軍力がある」と、醒めた発言をして座を白けさせる場面がある。

 アシュレイの発言はさほど勇ましくなく、戦争の大義には懐疑的だが、ヤンキーが南部の連邦離脱を妨害して攻めてくるなら、ジョージア州のために戦うと宣言する。

 筆者が思うに、当時の南部人にとって、このアシュレイの発言に見られるようにあくまでもヤンキーの侵略に対する防衛戦争という大義が感じられていたのだろう。その点で、リンカーン大統領が奴隷解放を宣言する以前の北部の大義名分は「連邦の統一維持」といった比較的ぼやけた内容に過ぎず、ヤンキーが戦争を積極支持する程の実質は無かったものと言えるだろう。

 戦争初期に北軍、特に首都ワシントンの防衛を担当した主力のポトマック軍が、常時兵力劣勢だったロバート・E・リー将軍の率いる南軍の北部ヴァージニア軍にしばしば翻弄されて敗北した1つの要因は、そうした大義名分の不明確さによる志願兵(いわば素人の民兵)たちの士気が十分に上がらなかったせいも有るのではないかと思う。

 もちろん、よく言われるように南軍に参加した将軍たちの多く、例えばリーやジョセフ・E・ジョンストン、そしてトマス・J・(ストーンウォール)・ジャクソンらの能力が高く、北軍の将軍たちに優っていたことも1863年7月初め迄の南軍優勢の原因だったのは確かであろうが。

 その南軍勝利の典型的戦闘が、1863年4月30日から5月6日にかけて、北軍フッカー将軍の率いるポトマック軍と南軍リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍の間に行われた、チャンセラーズヴィルの戦いであろう。しかし、この戦いの結果、リーの右腕であった勇将ストーンウォール・ジャクソンが5月10日に戦傷死してしまった。

つまり勝利した南軍の方も、取り返しのつかない程の手痛い損害を、チャンセラーズヴィルの戦いで蒙ったのであった。その後7月にゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いに南軍が連敗したため、南北戦争の戦況は北軍優勢に展開したと言われている。そこで次回の筆者の投稿では、この戦いにおける両軍の旧式戦術について考察してみたいと思う。

2015年9月25日金曜日

現代のノマド、大衆演劇(旅役者)一座の生存に関する感想

 5連休を含む1週間、筆者はブログの投稿をお休みしていたが、その間の22日から23日の1泊、家族を連れて栃木県内の温泉旅館に旅行してきた。その温泉地には「湯けむり会館」という、大衆演劇の一座が巡業で公演する所謂「センター」がある。そこで、筆者は生まれて初めて旅役者劇団の芝居とショー(歌謡と舞踊)を見たのだが、なかなか面白かったので、今日はその感想を述べたい。

 まず、その公演のプログラムだが、親子愛と人情を題材としたコテコテな演歌調のわずか二幕1時間ほどの芝居の後、休憩とその間の役者の物品販売を挟んで、また1時間ほどのショーという構成であった。現在の大衆演劇は、そのほとんどが、こうした二部構成となっている様である。

 興味深かったのは、観客の大部分がすでに子育てと仕事から引退した「おばちゃん」「おばあちゃん」であったことだ。観客の大体7割位が、そうした高齢の女性達であった。彼女たちに同伴して来て参加したと思われる「おじちゃん」「おじいちゃん」たちが、その他の観客の28%程度だったろうか。我が家のような中年と若年齢層の参加者は、ほんの一握りを占めているに過ぎなかった。

 その歌謡と舞踊ショーも、若い女形の役者も含めほとんど演歌ばかりで、高度成長時代の日本慕情を髣髴とさせるような、人情に訴えかけるコテコテの内容であった。年寄りの特に女性が、いかにも好みそうな構成を敢えて選択していると思われる。

 ショーでは最前列に陣取った「おばちゃん」が何度も役者に「ハナ」、つまりご祝儀を渡していたが、こんな光景を筆者は生まれて初めて見たのである。聞くところによると、1万円が「ハナ」の相場だそうだ。これを渡すことで、役者とは単なるファンから「贔屓」の立場に関係が密接になるそうだ。

 何とも前近代的な印象を筆者は抱いたので、東京に戻ってから少し大衆演劇の歴史について調べてみた。そうしたところ、大衆演劇の劇団一座が非常に面白い形態で運営されていることに気付いた。その点について、以下感想を述べてみたい。

 まず、劇団員は、家族や血縁者の10人位で構成されている小劇団が多いそうだ。責任者である座長は世襲が多く、彼らと彼女らはほとんどの場合、母親の「腹の中」にいるころから役者として生きることが決まっており、一座とともに国内各地を転々と移動して生活しながら芸を磨き、やがて座長を世襲するそうである。

 これは正しく、現代版ノマド(遊牧民)の生活と言ってもおかしくない。狭く濃い血縁者がほとんどを占める一座とともに、小中学生時代を転々と転校を繰り返しながら、中学を卒業すると役者一本で生活していくようだ。

 大衆演劇評論家の橋本正樹さんの本などを読むと、劇団員の給料は月10万円も貰えないそうである。その代り、一座に対する食住は公演先の旅館などがほとんど提供してくれるそうだから、劇団員の最低限の生活は保障されているらしい。したがって、旅役者の毎月の給料は、あくまでも「小遣い」に相当する金額になるらしい。

 贔屓が渡す「ハナ」は臨時収入で、欧米のチップに当たる存在だが、その集金額によって役者が独り立ちできるかどうかが決まる。まさに役者個人の人気と芸次第で生き残れるかどうかが決まる、水商売なのである。堅気の人間が、容易く入り込める世界ではないだろう。

 それにしても、平成の現代に、一か所に定住せず各地を転々と移動して公演を年中続ける旅役者の生活が成立していることに、筆者は新鮮な驚きを感じた。川端康成の名作『伊豆の踊子』の世界観そのものが、現代にもしっかりと残存していたわけである。

 芸事の世襲と言えば歌舞伎役者がすぐ思い浮かぶが、大衆演劇もその根源をたどれば出雲の阿国の流行らせた歌舞伎踊りに辿り着く。江戸幕府と明治政府に保護された歌舞伎が本流の「大芝居」「国劇」として芸術的に洗練、昇華されていったのに対して、元これ同根より生じたはずの大衆演劇の方は、書生芝居の流れをくむ「新派劇」や浪曲込みの「節劇」、そしてチャンバラの「剣劇」の要素が付加されて大衆化、商業化していったらしい。

 問題は、彼ら旅役者の生存を現在支えている「おばちゃん」「おばあちゃん」が、これからの日本でも果たして絶滅しないで存在し続けるかどうかという点であろう。

一例を挙げれば、筆者の長女はインターネットやスマホに親しみ、ヴァイオリンを嗜む現代娘である。彼女が数十年後高齢化した時、果たして現在の大衆演劇が得意とする公演形態である人情劇や演歌を支持するような、昭和の高度成長期タイプの「おばちゃん」「おばあちゃん」に変身すると言えるのだろうか。

 世襲やノマド生活という大衆演劇一座の運営形態自体、高度化した現代社会での生存に必ずしも適した形態であるとは言えないだろう。しかしながら、大衆演劇はAKBのように人気が全国化するわけでもなく、芸事の家元制度も確立されていないにもかかわらず、現状で歌舞伎の約3倍の役者人口を抱えている。今回の温泉旅行を通じて、筆者は大衆演劇の将来性にふと興味を抱いたのであった。