2015年10月25日日曜日

永禄12(1569)年10月6日三増合戦の勝敗と、信玄の駿河制圧の関連性に関する考察(2)

 前回の投稿で述べたように、永禄12101日から4日にかけて後北条氏の本拠地小田原城は、武田信玄の率いる約2万人とも言われる甲信西上野の軍勢に包囲された。しかし、この当時の信玄の主たる作戦目的は、前年に開始した自己の駿河侵略を有利に進めるために後北条氏の駿河への支援を中断させることに置かれていた。言わば後北条氏による自己への敵対に対する報復と、牽制目的だけの武田の敵地侵攻であったと筆者は考える。

 そこで、武田勢としては後北条氏領内を荒らし回ってその威力と脅威を見せ付ければ目的は十分に達成することができ、敵地を制圧することや敵の主要な城郭を陥落させることは本来の目的では無かったのであろう。

したがって、敵の本城小田原城に対しても城下に放火しただけで、信玄は本格的な攻城戦を行わなかった。北条氏政の上杉謙信宛104日付書状及び氏政の弟氏照の山吉孫次郎宛1024日付書状の記述によると、武田勢は104日に小田原城下を退散し、翌5日には津久井(奥三保)筋、つまり三増峠付近まで退却していた模様である。

 『甲陽軍鑑』によると、小田原退去に当たって信玄は息子の四朗勝頼の軍勢を殿とし、北条方に対して帰途鎌倉鶴岡八幡宮に社参するとの噂を流して、退路を秘匿したとされる。これが事実とすれば、永禄41561)年3月の上杉謙信の率いる軍勢による小田原城攻めにあやかった風説の流布と考えられ、いかにも策略家であった信玄の行いそうな話である。

実際の武田勢の退路は、ほぼ一昼夜後の105日に津久井筋(愛川町)まで到達できたことから、恐らく松田まで北上した後、矢倉沢往還(現在の国道246号線)を通ったのであろう。これは秦野と伊勢原(糟屋)を経由して津古久峠を越え、厚木西方を北上して中津川を渡河した後に三増峠や志田峠を経て津久井から甲斐郡内に入る最短ルートであった。

 ちなみに『甲陽軍鑑』には、武相侵攻前の7月中の武田家中の談合で作戦終了後の退路として津久井筋の他に箱根、三島を経由する経路も検討されたという記述がある。しかし、当時敵地で境目防御の北条方の城が連なっていた、天嶮かつ危険な箱根越えルートを敢えて選択して武田の大軍が無事帰国することが可能だったとは到底思えない。したがって、初めから武田勢の想定した退路は、境目の北条方の城が津久井城1つしかない津久井筋経由の一択だったのであろう。

 さて、105日に武田勢が三増峠の麓に到達した時、既に源三氏照と新太郎氏邦、そして『甲陽軍鑑』によると玉縄城主の上総介綱成の率いる軍勢が峠に布陣していた模様である。ところが、この軍勢は武田勢が迫ると陣屋を空にして中津川対岸に渡河して半原山に落ちて行ったと『甲陽軍鑑』に記述がある。これが事実ならば、氏照らは峠を先に占拠する有利な態勢を自ら捨てて武田勢に退路を開けてやり、敢えて平地に下ったことになる。この点をどう考えるべきか、私見を述べる。

 『甲陽軍鑑』の記述では、この時小田原を進発していた氏康と氏政の率いる北条氏旗本の軍勢は、まだ荻野辺りにしか到達していなかった。この主力部隊の兵力に関しては、筆者は恐らく1万人程度ではなかったかと考える。

氏康、氏政父子の三増合戦前後の謙信宛書状などを見ると「無二一戦」を遂げる心算のような威勢の良い宣伝文句が書かれているが、当時駿豆国境地帯にむしろ兵力を集中させていた後北条側が、甲信西上野の勢力圏下のほぼ全兵力を集中した後、満を持して信玄が試みた敵地侵攻の武田勢約2万人に対抗し得る程の兵力を小田原に短期間で終結できたとは到底思えないからである。

 敗北する相当なリスクを伴う決戦に打って出る程の兵力が集中できなかったからこそ、後北条氏は基本的に本城、各地の支城とも、籠城して武田勢の通過をやり過ごす作戦を永禄12年に採用したのではないだろうか。

 先衆として三増峠付近で武田勢を迎撃した氏照、氏邦兄弟の率いた後北条勢について、『甲陽軍鑑』は両者の指揮下にあった滝山衆と鉢形衆の他に、綱成の指揮下にあった玉縄衆、江戸河越衆、忍衆と深谷衆、岩付衆、さらには房総半島の他国衆まで約2万人を動員したと記している。これは明らかに後北条勢先衆の兵力が過大で、眉唾な記述である。

籠城戦術を採った永禄12年当時の後北条氏が、これだけの兵力を1か所の戦場に集結できたはずが無いだろう。房総半島からも参戦したとしている割には、武蔵国内の小机衆や松山衆、相模国内の三崎衆の名前が出て来ない点も大きな疑問である。もしかすると、江戸河越衆の参戦すら無かったのが、三増合戦での後北条方の真相であったのかも知れない。

筆者の見立てでは、三増合戦に参加した北条勢先衆の兵力は、滝山衆と鉢形衆を主力として、玉縄衆を合わせても約67千人程度に過ぎなかったと考える。先衆だけでは武田勢に比べて著しく兵力劣勢であったからこそ、小田原からの本隊到着まで氏照ら先衆は峠を下って中津川対岸の半原に退避したのであろう。

 実際、合戦後の1015日付で信玄が遠山駿河守宛てに出した書状では、帰国の砌氏政舎弟源三、新太郎、助五郎が引率した67千人の人数と一戦を遂げ、新太郎と助五郎以下2千余人を討ち取って、信玄が存分に勝利を得たと過大に報告している。

 この信玄書状に出てきた「助五郎」とは、氏康五男(氏政、氏照、氏邦同母弟)で当時三浦半島先端にあった三崎城主であった後の美濃守氏規のことで、幼少期に駿府で今川氏の人質となっており、同じ境遇であった徳川家康と親交があったとされる人物である。ただ永禄12年当時は、伊豆の韮山城代として三崎衆を率いて出張していたと思われる。

したがって、これは信玄が玉縄城主の綱成と混同した可能性もある。しかし、信玄が宣伝した氏邦と氏規以下2千余人を三増合戦の際に討ち取ったとする報告は、自己の戦果を過大に宣伝する目的による明らかな虚偽報告であった。それでも、敵方の兵力に関する彼の認識は概ね是認できるだろう。

 以上の考察を前提として、永禄12106日に起きた戦国時代屈指の山岳戦であったと言われる三増合戦の実態を分析してみると、以下の通りである。

 まず、合戦当日戦場に集結した兵力は北条勢が武田勢の半分以下の劣勢であり、そのため先に占拠していた有利な峠道での迎撃を断念して、氏照と氏邦の率いる後北条先衆は小田原からの本隊到着まで決戦を避けるために合戦前日の105日に中津川西岸の半原に退避した。

 この北条勢の動きに対する武田信玄は、勝頼らの率いた主力部隊を三増峠に登らせた一方で、『甲陽軍鑑』によると、三増峠北方約3kmの地点に位置していた北条方内藤氏の居城津久井城からの攻撃を牽制させるため、西上野最大の国人であった国峰城主小幡尾張守(信貞か)の率いる軍勢1,200人を三増峠南西に並行して山麓の韮尾根に通じる志田峠から、津久井城南西約2kmに位置する沼(囲い沢)に進出させたとされる。

 確かに武田勢が先発隊を沼に進出させれば、沼から津久井城下根小屋まで約1km道が北東に続いているから、根小屋から三増峠に南下する街道を津久井衆が進撃していくのを効果的に抑えることができただろう。そして、信玄はさらに小幡勢に続いて、最精鋭の山縣昌景他8頭の軍勢約5千人を左翼から志田峠を越えさせたと言われている。

 『甲陽軍鑑』の記述によると、武田勢主力は小荷駄隊を含めて勝頼が率いて浅利信種を殿にして中央の三増峠を登り、信玄と旗本は主力部隊の右翼の道を登ったらしい。したがって、志田峠は武田勢左翼に位置していた。そして志田峠から見て南西部に位置する中津川の対岸半原一帯に北条勢先衆が布陣していたわけだから、小幡と山縣らが率いた軍勢の志田峠越えの動きは直ちに北条方に察知されてしまったのであろう。

 『甲陽軍鑑』では、玉縄衆を率いていた戦上手の北条綱成が、敵が一斉に退却した好機が到来したと誤認して氏康父子に使者を走らせたと述べている。それと同時に、筆者の分析では、恐らく現在の馬渡から中津川を東岸に渡河して、北条勢が三増峠山麓から武田勢を一斉に追撃したのであろう。たとえ兵力が劣勢であっても、退却する敵への追撃戦ならば北条方にも勝機を見出すことができたと思われるからだ。

 しかし、実際の合戦当日の武田勢は、峠道で南西向きに陣立てを立て直して、高地上から北条勢を逆襲した模様である。このあたりの信玄の作戦は、3年後の元亀31572)年12月に遠州三方ケ原の戦いで徳川家康の軍勢を大敗させた時の戦術を彷彿とさせるものだろう。

 いずれにしても、山麓から峠に布陣した優勢な武田勢に対して劣勢の兵力で追撃戦を敢行した後北条勢は、志田峠を先行した山縣昌景勢などが引き返してきて側面を突かれた不利もあって武田勢に敗北したようである。北条勢の損害は数百人程度だったろうが、武田勢も殿の大将浅利信種が敵の鉄砲に撃たれて戦死するなどの損害を出したと言われている。

 結果的に見れば、三増合戦での後北条方の敗戦の原因は、氏照と氏邦ら先衆の敵状誤認による劣勢兵力による追撃戦の失敗に集約されるのであろう。だが、より根本的には、本隊を素早く先衆に合流させて合戦に間に合わさせることができなかった、氏康と氏政父子の緩慢な行軍が最大の失態であったと言えるのではないだろうか。

 その結果、永禄1211月以降再開された武田信玄による駿河侵攻に後北条氏が有効に対処することが三増合戦以降ほとんどできなくなり、数年後、駿河国は武田信玄によって完全に制圧されてしまう結果を招いたのであった。

 追記: 明日から筆者は論文執筆作業のため、10日間程度ブログの投稿を中断します。

2015年10月23日金曜日

永禄12(1569)年10月6日三増合戦の勝敗と、信玄の駿河制圧の関連性に関する考察(1)

 一昨日の投稿で、筆者は永禄12年秋の武田信玄による武相侵攻作戦の時点において、北条氏照の居城滝山城が防御上脆弱であったために天正年間に氏照が八王子城に移転したとする通説の根拠が薄く、北からの脅威に対しては滝山城が終始十分に機能していたのではないかと指摘した。

 実は、この時の信玄の武相侵攻と滝山城攻防戦、あるいはその後に起こった小田原城攻囲や三増峠での著名な山岳戦に関しては、具体的に記した一次資料がほとんど無い。

多少なりとも当時の状況を把握し得る信頼できる資料としては、北条氏政と氏照兄弟が越後の上杉謙信に宛てて援軍を求めて合戦前後に情勢を報告した書状や、廿里出陣前に小山田信茂が諏訪大社へ奉納した願文、そして越相同盟に敵対した信玄が、帰国後に諏訪大祝氏に出した書状などに限られている。

 そこで、合戦当日の状況については、従来から主として『甲陽軍鑑』の記述に皆依拠してきたわけである。だが、言うまでもなく『甲陽軍鑑』は、小幡景憲が元和年間頃に自らが創始した甲州流軍学を広めるために編纂した書物であるから、当然武田家の勝利が強調され過ぎている嫌いがある。したがって、その記述が本当に信用できるかどうかについては、当時の状況を鑑みて慎重に分析する必要がある。

 実際、廿里合戦や滝山城攻防戦の具体的な日時も実は不明などである。ちなみに小山田信茂の願文は9月吉日付であるし、氏照の弟である藤田新太郎氏邦の居城であった鉢形城外曲輪が武田勢に攻められたのが910日であったことは、氏邦自身が上杉謙信の側近山吉孫次郎に宛てた援軍要請の書状から明らかである。

とすると、信玄率いる武田勢は鉢形から滝山まで移動するのに、何と15日以上も費やしたことになってしまう。これは聊か時間がかかり過ぎていて、非常に不審な点だ。

ただ、一次資料から信玄の小田原攻囲が101日から4日までであることがほぼ明らかであるから、そこから逆算して927日が滝山城の戦いで、廿里合戦がその前日の26日であると今日推定できるだけなのである。なぜなら、氏照の河田重親宛て1024日付書状から、信玄の滝山陣取りが「両日」で、3日目夜中に滝山を離れて杉山峠に向かったことが判るからである。

 つまり、武田勢は928日夜(早朝か)に滝山城下を離脱して武相国境に位置する杉山(御殿)峠を越えて、町田市と相模原市方面に行軍した模様である。『甲陽軍鑑』では、この経路について、つし(図師)→小山田→二つ田→きそ(木曽、以上町田市内)→かつ坂(勝坂、相模原市内)まで陣取ったと記載されている。

この勝坂には縄文時代中期の大集落遺跡(国指定史跡)があって、発掘された「勝坂式土器」や原始農耕論提唱の根拠となった打製石斧でとても有名である。実は筆者は、中学校卒業まで相模原市内に住んでいたため、勝坂遺跡や当麻の渡し(当麻宿には、一遍上人が開山した時宗旧大本山の当麻山無量光寺がある)に関しては今でも土地勘がある。

 さて、『甲陽軍鑑』によると、武田勢は先衆が当麻、二の手は磯辺、信玄旗本は新道、跡備えは座間で渡河したとある。さらに相模川を左にして、岡田、厚木、金田、三田、妻田に各軍勢が陣取ったらしい。このあたりの地名についても、筆者の母校が厚木高校だったので土地勘があるのだ。この武田勢の相模川渡河と陣取りの日時は、恐らく929日であったのだろう。

 そして翌930日、武田勢は田村、大神、八幡、平塚に陣取ったとされる。多分この日あった出来事だろうが、相模国一宮の寒川神社には、信玄が奉納したと言われる甲冑一式が残っている。その後武田勢は、平塚から相模湾沿いを進軍して酒匂川まで押し寄せたのだった。つまり、翌日の101日から4日に包囲を解くまで小田原城が武田勢に攻囲されたということになる。

 当時北条氏の軍勢は、その多くが今川氏支援のため駿河方面に出動していたため、小田原城の守りが手薄だった模様である。これは当主氏政自身が104日付の謙信宛て書状で、「不及一戦事、無念千萬候」と書き送っているから明らかだ。ただ、武田勢は城下を放火しただけで、積極的な攻城戦は実施しなかったらしい。そして、早々に撤退に移ったという。

信玄としては、早晩背後から押し寄せてくるはずの武蔵国(江戸衆や河越衆)や相模東郡(玉縄衆)などから動員された後詰の北条勢が到着するまでの短期間に、敵の本城である小田原城を落城させることは困難だと判断したのであろう。これは、敵地で挟み撃ちに会う不利を避ける点で、信玄の全く正しい判断だと筆者は思う。

 もともと永禄12年時点での信玄の武相侵攻目的は、後北条氏に北からの脅威の恐ろしさを植え付けることで、自らが侵略を狙う駿河方面に出張ってくることの危険性を再認識させることにあったのだろう。その戦略目的からすれば、小田原城を攻略する必要など全く無いし、鉢形城や滝山城など支城を攻め落とすことも無駄な行動だっただろう。

 信玄としては、行く先々で放火略奪と刈田狼藉をして後北条領内を荒らし回るだけで、十分に氏康と氏政親子に対して武田勢の威力と脅威を知らしめることが出来たからである。実際に信玄は永禄12年当時、そうした方針に沿って行動したと筆者は考えるのである。

2015年10月21日水曜日

永禄12(1569)年9月27日滝山城攻防戦-城は本当に脆弱であったのか

 筆者は先週末、八王子市丹木町にある滝山城址に登ってみた。ここは、全国でも屈指の保存状態の良さを誇る戦国期後北条氏の城郭史跡である。また、同城では永禄121569)年秋の武田信玄による武相侵攻(小田原城攻囲と帰途に起きた三増峠の合戦で有名である)において、約2万人と言われる武田勢が武蔵国内を南下して侵攻する途中に、927日に激しく攻撃した攻防戦でも有名である。

 なぜ有名なのかというと、小田原北条氏康の三男で当時城主であった由井源三(後の北条陸奥守)氏照が、武田勝頼の率いる武田勢の猛攻に三の曲輪を落とされ、二の曲輪まで攻め込まれたため、本城であった丘城滝山城の防御力の脆弱さを認識したことを契機として、後の天正年間に峻険な山城で南西に位置する八王子城に移転したと言われているからである。

 筆者はこの通説の認識が、多分誤りであろうと考える。その理由は、まず第1に、残存する滝山城の縄張りから感じられるその防御力の堅固さの点であり、第2に、当時の小田原に通じる主要街道の位置と、重点対処すべき脅威の方向性(つまり北方方面重視か西方方面重視か)が永禄年間と天正年間では明らかに異なっている点からである。

 そこで今日の投稿では、筆者が実見してきた滝山城址を巡る永禄129月の北条・武田の攻防戦について分析してみたい。なお、滝山城については、齋藤慎一氏著『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第14章の考察を参考にした。

 まず、滝山城の位置であるが、昭島市拝島町から拝島橋を通って多摩川を南に渡河した南岸部、いわゆる加住丘陵に築城されており、秋川と多摩川の合流点のすぐ南東部にある。城址は標高200m(比高80m)以下で東西の尾根沿い約800m、南北の複雑な谷戸を取り込んで約500mにわたって約30に上る多くの曲輪と、空堀や切岸、土塁、枡形などの防御施設を巧妙に連ねて構築されていた。

 城の搦手は本丸北西部の多摩川対岸にあり、こちら側はほとんどが急な崖であって敵の侵入は恐らく困難であっただろう。したがって、城への攻撃方向は南方の大手滝山街道側からでなければ、ほとんど不可能だったと思われる。

現在の国道16号線を南下して、左入町で右折すると西北方向に谷地川の左岸を並行して国道411号線が青梅(かつて山内上杉氏側で永禄6(1563)年に氏照に滅ぼされた、三田氏の居城勝沼城が有った)方面に通じている。これが滝山街道で、当時は甲州へ通じる裏街道であった。そして氏照在城時代には、この滝山街道沿いに北西側から八幡、八日市、横山といった三宿の城下町が形成されていたと言われている(齋藤慎一、前掲書、408頁)。

 したがって、武田勢は城下を焼き払って城を裸城にして大手口から滝山城を攻撃したのかもしれない。なお、信玄は攻城戦を勝頼らに任せたらしく、自身の本隊は当初多摩川対岸の拝島に置いていた。そうなると、勝頼らが率いた武田勢恐らく1万人以上は、現在の拝島橋よりやや多摩川下流にあった大神・平の渡しから南岸に渡河して滝山城下に攻め込んだのであろう。

 平の渡しは、後北条氏のもう1つの重要支城であった河越に通じる街道上にあった。筆者が思うに、永禄12年当時信玄の採った武相侵攻ルートは、『甲陽軍鑑』によると824日に甲府を発している(実際の甲府進発は、9月になってからであったかもしれない)。その後、佐久平から碓氷峠を上野国に越境し、安中を経て9月9日に児玉郡の御嶽城、910日に氏照の弟氏邦の居城である寄居の荒川南岸にあった鉢形城を攻めた後、恐らく秩父方面から鎌倉街道山ノ道を通って武蔵国を南下し拝島に至っていたと思われる。その理由は、このルートを通れば、滝山城や鉢形城と並ぶ武蔵国内の後北条氏の重要支城であった河越城での衝突を回避できたからである。

 事実、10月の信玄の小田原攻囲後の帰途に起きた三増峠の戦いでは、武田勢を迎撃した氏照、氏邦勢の中に河越衆も無傷で参戦していると言われている。そうであるならば、9月の信玄の武蔵国南下時点では、河越城での戦闘は発生しなかったと考えられるからだ。

 さて、武田勢を迎え撃った氏照の軍勢は3千人程度の兵力だったと考える。滝山城攻防戦の勃発した9月末時点では、各地からの援軍が未到着であったからである。氏照は、「宿三口」すなわち、谷地川に沿った滝山街道から平の渡しに出る城下東方口と、秋川を渡河して満地峠を越えて勝沼に向かう城下西方口、そして八幡と八日市の境界付近から南方に向かう鎌倉街道口(現在の国道16号で杉山(御殿)峠を越え、当麻の渡しで相模川を渡河する地点に向かう)方面に守備隊を派遣したようだ(齋藤慎一、前掲書、412頁)。

 ところが、以下の点が武田信玄の策略が巧みなところなのだが、信玄は郡内の小山田信茂に命じて、その軍勢約1千人を926日、小仏峠越えで高尾近くの十々里(廿里)に侵攻させて滝山城の背後を突かせる作戦に出たのである。

 そのため氏照は、重臣布施出羽守や横地監物らが率いる約2千人の軍勢を急遽十々里に送って一戦に及んだのであったが、この戦いに敗れてしまった。打撃を受けた撤収部隊を城に収容した後起きたのが927日の滝山城の攻防戦であった。

 したがって、兵力および士気の点で、この時点で武田勢が圧倒的に優勢な状態であったことは間違いないと筆者は考える。それにもかかわらず、武田勢は三の曲輪を陥落させただけで攻城を諦めて小田原に向かった。これは、滝山城の構えが非常に堅固であったために、落城させるまでには時間と損害を要することから、信玄が城攻めを中止したことに他ならないだろう。つまり、通説の述べるような滝山城の防御上の脆弱性は当たらないと考える。

 なぜなら、現在の滝山城址に残る縄張り図を見ればすぐわかるように、滝山城の心臓部は本丸と、それと引橋でつながった中の丸であり、その2つの曲輪に至る南方に二の丸が配置されている。この3つの曲輪が滝山城の中核に他ならない。

 そして二の丸から大手口まで南側に連なる千畳敷や三の丸、小宮曲輪と、二の丸東側の尾根伝いに連なる信濃屋敷や刑部屋敷といった重臣の屋敷が有ったと思われる各曲輪は、3つの曲輪からなる城の中核部から見れば外延部に過ぎない。

 今となっては、永禄12年当時の縄張りが現城址に見られる通りの規模に達していたかどうかが不明である。そのため、武田勢が落とした三の曲輪の位置が明白でないきらいがあるものの、筆者が見るところ、当時武田勢が達成できたのは滝山城外延部のそれもほんの一部のみを陥落させることに成功しただけだったと考える。

 よって、筆者の城址を実見した後の考察によると、滝山城の防御は脆弱などでは全くなく、よく敵の武田勢の10分の1程度の兵力で守り切ったものだと感心する。

 もちろん、この年の信玄の武相侵攻の狙いが前年の自身による駿河侵攻で甲相同盟が決裂した後、後北条氏が今川氏救援のために駿河に出兵したことに対する言わば報復攻撃であったから、その作戦が北条領内を荒らし回ってすぐ撤退することにあったことも滝山城が守備しきれた大きな原因であっただろう。

 もともと滝山城は、上杉氏による北からの脅威に備えるために鉢形城とともに取立てられた南北ルートを見据えた城郭であったと思う。それに比較すると、元亀・天正年間に築城された山城の八王子城は、明らかに甲州方面の西からの脅威に備えた東西ルートを前提とした構えを持っている。

 永禄年間当時人馬が往来しにくく狭かった小仏峠越えの甲州街道が本道化したのは、江戸時代以降であって、それまでは八王子城搦手の北浅川沿いに通じていた和田峠を越える陣馬街道が甲州本街道であったと言われている。

氏照支配時代には、陣馬街道を抑える支城として浄福寺(由井)城も北浅川北岸に取り立てられていたから、天正年間に北からの脅威が消えて西からの脅威が高じた結果、氏照は八王子城に移転したのが恐らく真実であったのだろう。

したがって、従来北からの脅威に備える本城としての機能を十分に発揮してきた滝山城の防御の脆弱性について、彼が不安を抱いたから八王子城に移転したわけでは決してなかったのではないだろうか。

2015年10月19日月曜日

ゲティスバーグの戦いでの南軍の敗因-索敵の軽視、曖昧な命令による攻撃に関する分析(2)

 先の投稿で述べたとおり、1863628日に北軍ポトマック軍がメリーランド州フレデリックに集結した時点で軍司令官が交代し、ミード少将がフッカー少将から指揮権を引き継いだ。

 この北軍の指揮官交代の事実は、北上中の南軍リー将軍も28日当日に知ったようだ。しかし、リー将軍としては、北軍が山脈を挟んで自軍のすぐ東方地点にまで進出していることは全く想定外であっただろう。

なぜなら、当時南軍3個軍団はメリーランド州からその北のペンシルベニア州にかけて広範囲の地域に散らばっていたため、集結してポトマック軍との決戦に臨む態勢が未だ出来ていなかったからである。

南軍先鋒のユーエル第2軍団はペンシルベニア州チェンバーズバーグを既に通過してカーライルに向かって北進を続けており、ジュバル・A・アーリー少将に率いる1個師団は分派されて東方のゲティスバーグでの北軍の散発的抵抗を排除し、628日にはヨークからサスケハナ河畔のライツヴィルにまで進出していた。

 これに対する北軍は、先鋒のジョン・ビュフォード将軍の率いる騎兵師団が630日にエミッツバーグ街道からゲティスバーグに入って街の北西にあるルーテル派神学校のあるセミナリー・リッジの外側に位置するマクファーソン・リッジに布陣して防御態勢を敷いた。

このビュフォードの的確な判断の結果、南北両軍の決戦地がゲティスバーグに決定されたのであろう。ゲティスバーグは東西南北方向から合計9本の街道とターンパイクが集中する交通の要衝であったから、ここに両軍が集結することが最適であったからだ。

そして、71日以降、両軍が次々に援軍を投入した中で、結果的に見れば、戦力に勝る北軍がゲティスバーグ周辺に散在する丘陵地帯を南軍より先に抑えて陣地を構築することに成功したことが、南軍敗退の最大の原因になったと筆者は考える。

 当時南方から迫る北軍歩兵軍団は、南西のエミッツバーグ街道と南方のテイニータウン街道、そして南東のボルティモア・ターンパイクから、それぞれ2個軍団が分進したようである。

北軍ビュフォード騎兵師団を援護するために先着した歩兵軍団は、南西から進撃してきたジョン・F・レイノルズ将軍の率いる第1軍団とオリヴァー・O・ハワード将軍の率いる第11軍団であったが、71日決戦初日の戦いではゲティスバーグ北西方向からチェンバーズバーグ・ターンパイクを進んできた南軍A.P.ヒル第3軍団と、北方カーライル街道から南下してきたユーエル第2軍団の攻撃によってレイノルズ将軍が戦死してしまった。

このように、初日の戦いでは北軍がゲティスバーグを防衛することに失敗して街の南方にあるセメタリー・ヒルに撤退した。ここで非常に不思議なのは、当日午後2時頃に戦場に到着していたリー将軍が、戦況判断を誤ってユーエル軍団のセメタリー・ヒルへの攻撃続行の進言を退け、この日の戦闘中止を命令してしまった重大な判断ミスであろう。

 恐らくリー将軍は、スチュワート騎兵部隊からの斥候の報告が入って来なかったために、北軍の集結が遅れていることに気付かなかったのであろう。そのため、敵軍の戦力を過大に見積もってしまい、進撃中の第1軍団の到着を待って南軍の兵力集結後に攻撃を再開することにしたのだろう。このリー軍司令官の判断ミスによって、南軍の唯一の勝機が失われたと言えるだろう。

 なぜなら、セメタリー・ヒルの守備についたハワード第11軍団は、わずか2か月前に故ストーンウォール・ジャクソン将軍の迂回奇襲攻撃を受けて真っ先に敗走し、チャンセラーズビルにおける北軍敗北の原因を直接作った屈辱から未だ立ち直っていなかったからである。

 したがって、南軍が決戦初日の勝利に乗じて好機を逃さずハワード軍団攻撃を続けていれば、恐らくこの時点で兵力が不足していた北軍をゲティスバーグ南方の丘陵地帯から掃討することに成功したであろう。それはすなわち、決戦における南軍の決定的勝利を意味していたに違いない。

 結果的に見れば、この71日決戦初日に南軍が中途半端に攻撃を中止してしまったために、ミード将軍に先行して前線指揮官として北軍の陣地構築に派遣されたウィンフィールド・スコット・ハンコック少将が丘陵地帯に堅固な陣地を構築してしまったわけである。これで北軍の勝利にゲティスバーグ決戦の帰趨が決まったというのが、筆者の感想である。

北軍の布陣は、右翼(北方)のカルプス・ヒルとセメタリー・ヒル、中央部(西方)のセメタリー・リッジ、そして左翼(南方)の2つの円丘(ラウンドトップ)に堅固な陣地を構築し、それぞれ砲列と最終的に6個軍団を配置することに成功した。この状況では、翌日以降に展開された兵力劣勢な南軍の正面攻撃が成功するはずが無いだろう。

 実際、72日決戦2日目の北軍両翼に対する南軍の猛攻も、その翌日決戦3日目(最終日)の北軍中央に対するピケットの突撃も、いずれも無惨な失敗に終わってしまったわけだ。

 3日間にわたって南北両軍の激戦が展開されたゲティスバーグの戦いでは、南軍の死傷者数は約28千人、北軍の死傷者数は約23千人に上ったと言われている。ゲティスバーグの戦いの有様は、正に日露戦争や第1次世界大戦における塹壕戦の先駆けとなる近代戦の大量殺戮の結果をもたらしたと言えるだろう。

そして北部侵攻とこの決戦に敗退した南軍は、それ以後兵力の補充を十分に行うことが出来ないまま、18654月に首都リッチモンドが陥落し、49日にヴァージニア州アポマトックス・コートハウスでリー将軍が北軍総司令官に就任していたグラント将軍に降伏して、南北戦争は事実上終結するに至ったのであった。

ゲティスバーグの戦いでの南軍の敗因-索敵の軽視、曖昧な命令による攻撃に関する分析(1)

 18636月、南部連合北部ヴァージニア軍司令官のリー将軍は、前年9月の北軍ポトマック軍とのアンティータムの戦いの結果頓挫した北部侵攻を再度決行する決断をした。

 リー将軍の作戦意図は、北部のペンシルベニア州に積極的に侵攻することで北軍に対する主導権を再度奪還し、北部領内でポトマック軍を撃破することで英仏両国の南部連合承認を引き出すことにより、南北戦争を最終的に終結させることにあったのだろう。

 同時に、西部戦線でグラント将軍の北軍テネシー軍に既に完全包囲され、当時飢餓状態に陥っていたペンバートン将軍の率いるヴィックスバーグ守備隊を危機から救う付随的意図もあったのではないだろうか

当時の西部戦線における北軍圧倒的優勢の戦況から見れば、いささか甘い判断であったかもしれないが、南軍の北部侵攻によってミシシッピ川流域に展開している北軍を撤退させることが可能になるとも想定できたからである。

 当時、より直接的にヴィックスバーグの北軍包囲網を解くためには、東部戦線から一部の軍団を抽出して西部戦線に援軍として派遣する案も考えられただろう。だが、リー将軍は首都リッチモンドでのデイヴィス大統領や閣僚たちとの会談後、北部再侵攻作戦を決定して準備に取り掛かったのであった。

これは恐らく、西部戦線でのヴィックスバーグ陥落による想定内の失点を、東部戦線での北軍に対する決定的勝利によって相殺する方を南部連合指導部が冷徹に選択した結果であったのだろう。

 いずれにせよ、兵力劣勢かつ勇将ジャクソン将軍をチャンセラーズビルの戦いで失っていたリー将軍率いる北部ヴァージニア軍が優勢なポトマック軍に敵地で対抗するためには、騎兵部隊による十分な索敵により敵の動きを正確に把握することを前提として、敵の弱点を急襲する積極的作戦を考案するしか有効な手立てが無かっただろう。

 北部再侵攻作戦に際して南軍の北部ヴァージニア軍では、チャンセラーズビルの戦い当時分派されていて参戦していなかったジェームズ・ロングストリート中将の率いる第1軍団が帰還しており、作戦に参加可能な兵力が増強されていた。

また、ジャクソン将軍が率いていた第2軍団は新任のリチャード・S・ユーエル中将が指揮を引き継いでおり、第3軍団にもAP・ヒル中将が新司令官として抜擢されていた。

 つまり侵攻作戦に参加した南軍は、3個軍団(9個師団)で総兵力約73千人であった。これに対する北軍ポトマック軍は、7個軍団(19個師団)で総兵力約95千人であったと言われている。つまり、かなり北軍が優勢であったわけである。

 両軍の索敵作戦遂行上、極めて重要な役割を果たした騎兵戦力については、南軍がJ.E.B.スチュワート少将の率いる約1万人、北軍がアルフレッド・プレザントン少将の率いる約11千人の騎兵部隊が参戦した。

北部ヴァージニア軍に対するリー将軍の作戦発動命令は63日で、ラパハノック河畔の基地フレデリックスバーグに第3軍団を後発部隊として残して、第1と第2軍団を北西のオレンジ・アレクサンドリア鉄道上にあるカルペパー・コート・ハウスに集結させた。

 スチュワート騎兵部隊はカルペパー北のブランディー駅で閲兵式を実施したが、これに対して69日、北軍のプレザントン騎兵部隊が先制攻撃を仕掛けて南北戦争中最大の騎兵戦闘が勃発した。

結果的に見れば、この時後手を踏んでしまったスチュワート将軍が失策の名誉回復を急ぎ、南軍歩兵軍団の右翼を並進して索敵活動を行うという本来の任務を忘れて北軍右翼を大きく迂回し側面攻撃を仕掛けることに熱中してしまった事から、南軍の事後の作戦遂行が齟齬を来したわけである。

そのため、敵地でリー将軍は北軍の行動を6月末まで把握することが出来ないまま、ペンシルベニア州内部に深く侵入することになってしまったのであった。敵地に侵入した南軍がこのように敵情把握に失敗したことこそ、71日から3日のゲティスバーグの戦いで南軍が敗退する大きな原因を作ってしまったと言えるだろう。

 筆者には、ゲティスバーグに集結するまでの南軍の行動は、実に計算されていて見事な機動作戦であったと思われる。南軍の機動は、まず先発の第1軍団が、カルペパー・コート・ハウスからブルーリッジ山脈をシェナンドア渓谷に抜ける隘路であるスニッカーズ・ギャップとアシュビーズ・ギャップを確保する。

その間に第2軍団が、さらに南方のチェスター・ギャップを通過して渓谷内に侵入し、北軍守備隊を蹴散らしながらウインチェスターに進撃した。ユーエル軍団は、614日のウインチェスターの戦闘で北軍師団約5千人を捕虜にしている。その後、第2軍団は全軍の先頭を切ってポトマック川を渡河し、メリーランド州シャープスバーグに侵攻した。

 後方に待機していたヒル将軍の率いる南軍第3軍団は、614日にフレデリックスバーグを出発してアシュビーズ・ギャップを越え、第1軍団を追い越して第2陣としてポトマック川を渡河したようである。つまり、南軍は時間差を置いて、東西2縦隊で渡河地点に進撃したことになる。これは北軍の目を欺く見事な機動作戦であったと筆者は考える。

 なおスチュワート騎兵部隊の迂回攻撃については、625日にセイレム付近からブルラン山地を東南に抜けて北軍後方を遮断する形で開始されたが、リー将軍は北軍が南軍の侵攻を察知してポトマック川を超えた時点で本隊に合流するよう事前にスチュワートに命令を下していたのだが、これは結局実現しなかった。

結果的にスチュワート騎兵部隊の合流は、72日決戦2日目の晩の時点迄遅延してしまったわけである。これは索敵を軽視して2つの作戦目標を立てて戦果の拡大を欲張ったために敗北した、日本海軍のミッドウェイ海戦と同様の南軍の大失態であったと筆者は思う。

リー将軍はその結果北軍の行動把握に失敗したわけであるから、北軍の展開が予想以上に早く、かつ広大であったため、南軍歩兵軍団との距離が想定外に離れてしまった点を考慮に入れても、これはスチュワート少将の重大な命令違反であったと言えるだろう。

 南軍の失態と言えば、ロングストリート将軍の遅い行動も解せぬところだ。第1軍団は先発したにもかかわらず、後続軍団に追い抜かれてゲティスバーグの決戦2日目にようやく参戦出来たに過ぎなかった。第1軍団最後尾を進んだジョージ・E・ピケット少将の率いる師団については、決戦2日目夕刻に戦場に到着して、73日北軍陣地中央部セメタリー・リッジに対する無謀な正面攻撃(ピケットの突撃)で壊滅してしまっている。

北軍ポトマック軍を率いたフッカー将軍による南軍の北部侵攻察知は予想外に早く、南軍の行動の逆を突いてフレデリックスバーグに残っていた南軍ヒル第3軍団を撃破してリッチモンドを急襲する提案をワシントン対して行ったが、リンカーン大統領にあっさり却下されて南軍追撃のために北進を開始した。

これはリンカーン大統領が、チャンセラーズビルの戦いにおけるフッカーの指揮官としての能力に不信感を抱いていたためだと言われている。結局、リンカーンはポトマック川渡河後の北軍がフレデリックに集結した628日にフッカーを解任して、ジョージ・ゴードン・ミード少将にポトマック軍の指揮を継承させたのであった。 

作戦遂行中の司令官解任とは、はなはだ異例な措置であるから、北軍の指揮統制の建て直しは非常に大変だっただろう。ともあれ、6月中に南北両軍の決戦に向けた準備は整ったことになる。

2015年10月13日火曜日

ゲティスバーグの戦いの予備的考察-諸葛亮の対魏北伐作戦との比較について

 さて、ヴィックスバーグの戦いと並んで南北戦争中最も有名な決戦であったゲティスバーグの戦いは、当時劣勢に追い込まれつつあった南軍リー将軍の考案した乾坤一擲の北部ペンシルベニア州への侵攻作戦の結果起こった。

 圧倒的に劣勢な立場にある方が、乾坤一擲の勝利を目指して優勢な敵地に侵攻する作戦を選択することが、戦史上ではしばしば見られる。例えば、太平洋戦争劈頭に日本海軍が決行したパール・ハーバー奇襲攻撃作戦はその最も有名な事例の1つであるだろう。

 筆者が南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦と類似していると考えているのは、時代が相当隔たってはいるが、3世紀中国三国志時代の蜀漢の丞相諸葛亮が合計5回に亘って決行した優勢な魏に対する北伐作戦である。

 なぜなら、1863年時点でリー将軍の置かれた立場と同様に、三国志時代の3世紀前半に諸葛亮の置かれた立場もそのまま黙っていれば祖国がじり貧の劣勢に追い込まれてしまうことが明らかだったため、敢えて敵地に侵攻して乾坤一擲の決戦を挑もうとしたことが類似しているからである。

 ただ、以前に筆者が投稿で述べたように、リー将軍と諸葛亮とではその実際に取った作戦が随分と異なっている印象を抱く。

 リー将軍は言わば日本海軍による真珠湾攻撃と同様に、あくまでも敵の機先を制した奇襲攻撃を意図していたように思われるのだが、諸葛亮の場合は正々堂々の正攻法に徹していたことが大いに異なっているからである。

 しかも、南北戦争時点での南軍の北軍に対する劣勢度合いと比較しても、北伐当時の蜀漢の魏に対する劣勢度は遥かに大きかったのではないだろうか。3世紀当時の中国ではまだ揚子江以南がさほど経済的に発展していなかったため、黄河流域の中原を支配した魏の経済力と人口の優勢は江南の孫呉に対してはもとより、西方の僻地に位置する巴蜀地方(益州)だけを支配しているに過ぎない蜀漢に対しては遥かに優勢であったはずである。

 恐らく、諸葛亮が当時北伐に動員できた総兵力は、せいぜい3万人から4万人といったところではないだろうか。祁山の戦いで魏軍に大勝した2312月の第4回北伐と五丈原での司馬懿との対峙で有名な2342月の最後の第5回北伐では、蜀軍も6万人以上の充実した兵力を動員したと言われているが、対する魏軍の動員兵力は優に10万人を超えていたと思われる。

 しかも、諸葛亮が出師の表を蜀漢の後主劉禅に奉呈した後、228年春に軍を率いて前線基地を置いた漢中から魏の領土である長安を中心とした渭水盆地に進出するためには、いわゆる蜀の桟道の険路を通って標高2千から3千メートル級の山々が連なる秦嶺山脈を遥々超えて行かなければならない。自動車の無い当時に、数万の軍隊を率いて補給を確保しつつこの作戦を遂行することは、途轍もない難事業であったに違いない。

 諸葛亮は2312月の祁山進出に当たって輸送車両として木牛流馬を発明して輜重の便を図ったと言われているが、それにしても恐らく手押し車の類であったに過ぎないそうした人力車両を駆使して道なき道の高山地帯を突破して見事作戦を遂行したのだから、カルタゴのハンニバルやナポレオンのアルプス越えに匹敵する位凄い実績と言えるのではないだろうか。

 北伐の基本資料は恐らく魏の後継王朝である西晋に仕えた陳寿の書いた正史『三国志』中『蜀書』の中の「諸葛亮伝」であろうが、陳寿による評価では諸葛亮の政治手腕と軍の統率能力については最大限の賛辞を加えているが、臨機応変の将略については聊か疑問を投げかけている。その結果、何度も北伐を実施したにも関わらず成功しなかったのではないか、と評している。

 しかし、劣勢の兵力を補給も儘ならない大山脈を越えて敢えて敵地に何度も侵入させることに成功しているだけでも、諸葛亮の将軍としての才能は相当に優れたものであったに違いないと筆者は考える。この点では、リー将軍も同様であるだろう。

 諸葛亮の作戦は、最終的には前漢建国時の首都であった長安を占領することであったと思う。しかし、部下の勇将魏延が度々進言したように、別働隊を派遣して秦嶺山脈東部に走る子午谷を突破して直接長安を奇襲占領する作戦を採ったとしても、洛陽方面から進撃してくる優勢な魏の大軍を迎え撃って長安を守り切ることは多分不可能であっただろう。

 やはり実際に諸葛亮が当時採用した作戦のように、秦嶺山脈西部のルートを突破して天水郡方面をまず先に制圧して、しっかりとした自給体制を構築した方が蜀軍に有利に展開したはずであっただろう。

 魏軍が大挙進出してきた場合には、祁山の様な山間部か、渭水盆地西部の狭いエリアで迎撃することが兵力劣勢な蜀軍には有利であったと筆者は考える。実際、第1回北伐では前線部隊司令官に抜擢した経験不足の馬謖のミスによって街亭の戦いで敗北を喫して、蜀軍は撤退に追い込まれたが、229年春に行った第3回北伐以降は、諸葛亮の率いる蜀軍が何度か魏の大軍に勝利を収めている。

特に231年の第4回北伐の際、補給が途絶える可能性がある事を懸念して撤退する時に、馬謖を街亭で破った魏の名将張郃を木門谷に置いた伏兵に迎撃させて見事討ち取ることに成功するなど、北伐の経験を重ねれば重ねる程、諸葛亮は冴えた采配を振るっている。

 結局、劣勢な兵力で敵地に大胆に乗り込む作戦を遂行すること自体が、補給を維持し続けることの本質的困難を伴ったために、諸葛亮の北伐作戦は成功しなかったと言えるだろう。この点は、南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦を考察する際にも、類似の比較対象として検討すべき余地があると、筆者は考えている。

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-ヴィックスバーグ包囲戦(2)

 1863416日夜に実行されたデイヴィッド・ディクソン・ポーター提督(大佐)の率いる合衆国砲艦隊のミシシッピ川下流への突破作戦は、南軍の砲台が連なるヴィックスバーグ要塞の崖下を暗闇に紛れて通過する作戦であったが、日露戦争における日本海軍の連合艦隊による旅順港閉塞作戦と同じ位大胆かつ危険な作戦であったと筆者は考える。

 結果的に同作戦は成功したわけだが、ポーター艦隊は通過中直ぐに南軍の歩哨に発見されて激しい砲撃に晒された。しかし、大砲の仰角の関係で南軍の砲弾が艦隊の頭上を飛び越えてしまったため、1隻が炎上した以外ほとんど無傷でもう1つの南軍の砲台があるグランド・ガルフ対岸の陸軍の渡河予定地点であったハード・タイムズに到着することに成功したと言われる。

 4万人以上の合衆国陸軍もマクラーナンド将軍に率いる軍団を先頭にして、4月末までにはヴィクスバーグの約40km南にあるハード・タイムズに集結したようである。この時点で、北軍の渡河作戦の成功は決定付けられたということが出来るだろう。417日に開始されたグリアソン騎兵旅団の南北縦断機動作戦も、北軍の行動を南軍ペンバートン将軍の目から逸らさせることに大いに寄与したと思われる。

 ところが南軍のグランド・ガルフ砲台が予想以上に強力で、ポーター艦隊による砲撃でこれを沈黙させることが出来なかったため、グラント将軍は作戦を変更してハード・タイムズよりさらに下流に位置するブルーインズバーグまで軍を南下させ、430日、そこからミシシッピ川東岸に3万人以上の兵力を渡河させたのであった。

 渡河に成功した北軍の作戦は、グランド・ガルフの南軍砲台を側面から制圧しつつ、ヴィクスバーグの東方約80kmの地点にあるミシシッピ州都のジャクソンを奪取することであった。

 ジャクソンは、ニューオーリンズとジャクソン以北を結ぶ鉄道とヴィックスバーグとジャクソンを結ぶ鉄道が交差する南軍補給路の要に位置しており、この方面の南軍総指揮官ジョンストン将軍率いる軍が当時駐留していた。

 さて、こうした状況下で北軍に機先を制せられた南軍が採り得るベストな作戦は、果たしていかなる作戦であっただろうか。

 筆者が思うに、北軍の進路が判明した時点でヴィックスバーグ周辺に位置するペンバートン軍を州都ジャクソン方面に呼び寄せて合流し、全軍一体となってグラント将軍の北軍を迎え撃つ作戦が最も好ましかっただろう。

 しかし、実際には、後方連絡線を放棄し補給部隊を伴ってミシシッピ川東岸をジャクソン攻略に向かって急速進撃した北軍の行動に南軍が対応できず、まず51日にポート・ギブソン近郊で南軍の先遣隊が撃破されたため、堅固なグランド・ガルフ砲台の守備隊も陣地を放棄して退く他手立ては無かった。

 ジャクソンにいたジョンストン将軍は、北方に退避するとともにペンバートン将軍に対して東方に居る自分と合流するよう指示したようである。ところがジェファーソン・F・デイヴィス南部連合大統領は、ウェストポイント陸軍士官学校出身で米墨戦争に従軍した軍歴を持ち、政界進出後は南北戦争勃発以前に合衆国陸軍長官や上院軍事委員長を歴任した軍人でもあったから、ヴィックスバーグを死守することの戦略的重要性をよく認識していた。

 そのため、ペンバートン将軍には大統領からヴィックスバーグ死守の命令が届いていたと言われている。つまり、直属上官からの命令と最高司令官である大統領からの命令が齟齬を来していたため、ペンバートン将軍が事後の判断に迷う結果を引き起こしてしまったわけであった。この現場指揮官の判断の迷いが、結果的に作戦上北軍に後手を踏んでしまう最悪の結果を南軍にもたらしたと言えるのではないだろうか。

 その後の進展はグラント将軍の想定した通りに北軍優位のままほとんど推移し、514日のレイモンドの戦いで南軍に勝利した北軍は予定通り第1目標のジャクソンを占領した。

 もはやこの時点で南軍は既に分断されており、ペンバートン将軍の率いる軍団は516日、ヴィックスバーグとジャクソンの中間地点に位置するチャンピオンヒルの台地で迎撃したものの北軍に撃破され、撤退する南軍の殿部隊も翌17日ビッグブラック川を渡る橋を巡る攻防戦で敗れ、518日からヴィックスバーグ要塞に立て籠もって北軍の包囲網に抵抗する包囲戦に移行したのであった。

 このヴィックスバーグ包囲戦は、186371日から3日にかけて行われたペンシルベニア州ゲティスバーグの戦いが終わった翌日の74日、南軍のペンバートン将軍が北軍のグラント将軍に降伏するまで48日間続いたのであった。

 東部戦線のゲティスバーグと西部戦線のヴィックスバーグで18637月上旬に相次いで南軍が敗北したことで、南北戦争は北軍勝利にほぼ決定付けられたとされる。リンカーン大統領とジェファーソン・デイヴィス大統領の最高指導者双方が予想した通り、ヴィックスバーグの包囲戦は正しく南北戦争の転換点になった攻防戦であったと現在評価されているわけである。