2015年11月20日金曜日

対IS軍事作戦に関する2つの方針「封じ込め」と「殲滅」の対立について

 首都パリを隣国ベルギーに拠点を置いたISメンバーの同時多発テロ攻撃にさらされて死者130人の被害を出したフランスのオランド大統領は、1116日にヴェルサイユ宮殿で行われた元老院と国民議会の上下両院合同会議の席で、フランスが軍隊によって攻撃され、「戦争状態にある」と演説した。これはまさに、ISとの対テロ戦争を開始するという、オランド大統領の宣戦布告に他ならない。

 これに対してアメリカのオバマ大統領は、依然としてISを殺人者(テロリスト)のネットワークに過ぎないとして、言わばアルカーイダの組織的な延長線上にISを位置付ける演説を同じ16日に行っている。オバマ大統領の意図を筆者が推測すると、恐らく彼はブッシュ前政権時代の様な対テロ戦争にアメリカが巻き込まれることを懸念して、敢えて有志連合の対IS戦闘を国家間の通常戦争の様な形態に拡大しないように慎重に言葉を選択して演説したのであろう。

 オバマ政権による対IS作戦の要諦は、いわゆるテロの「封じ込め」にある。そのため米軍の空爆の対象となる標的は、今のところ、厳密な軍事的目標、例えばISの持つ軍用車両や重火器、軍事施設や軍隊そのもの(counterforce)に限定されてきたと言われている。その限定された作戦目標は、民間人に対するコラテラル・ダメージ(巻き添え損害)を最小限に抑えるとするアメリカの目的を併せ持っている。

また、対IS封じ込めのためにアメリカの主要な外交政策は、シリアと長い国境線を接するトルコを通じて外国からISに参加しようとする戦闘員等が流入しないように、トルコのエルドアン政権に強い圧力をかけて、シリアとの国境線を完全に封鎖させることになる。

 これに対して、フランスは明らかにロシアと連携して、ISを国家類似の存在に位置づけて通常戦力を大規模に動員した対テロ戦争を遂行し、ISを「殲滅」する戦略に舵を切ったものと言えるだろう。例えばフランスは、原子力空母シャルル・ドゴールを母港トゥーロン軍港から地中海に派遣し、シリア周辺に展開しているロシア軍と協力して対IS空爆の強度をこれまでの数倍規模に拡大させる方針を示している。

 ロシア軍参謀本部は1118日、IS支配下にある原油生産施設や、そこから外国へ密輸目的で原油運搬途中のタンクローリー約500台を空爆と巡航ミサイルで攻撃したと発表した。こうした空爆には、ロシア空軍の重爆撃機も参加している模様である。ISが首都と言っているシリアの都市ラッカも、ロシア軍の攻撃にさらされている。

 こうしたロシア軍が攻撃している標的にはIS戦闘員の他に民間人も多く含まれているため、彼らは通常戦争の遂行と同様に民間人のコラテラル・ダメージを配慮せず、純粋に軍事的勝利を目指して対価値(coutervalue)打撃を実施していると言えるだろう。その戦略の要諦は、明らかにIS「殲滅」なのである。今回、フランスもロシアと同様の対価値打撃を伴うIS「殲滅」に舵を切ったと言えるから、アメリカが主導する有志連合のIS「封じ込め」戦略との間に鋭い亀裂が生じる恐れがある。これはロシアのプーチン大統領の、まさしく望むところに違いないと筆者は考える。

 ISは確かにシリアとイラク両国にまたがって一定の領土と人民を支配しているから、対価値打撃が作戦上可能な「疑似国家」と見なすことも出来るだろう。だが、彼らの「カリフ国家」のイデオロギーでは、イスラーム共同体「ウンマ・イスラミーヤ」の概念はあっても国境線の概念は本質的に存在しない。

 ISの発想では、極めて空想論的だが、最終的には世界中に自らが再興したとする「カリフ国」の領域を拡大して、全世界を「カリフ国」の各州として統一することを望んでいるはずである。それまでの間、彼らは現在の実効支配地に欧米諸国の「十字軍」を引き付けて、ジハードを遂行してこれを叩こうというのが彼らの戦略なのである。

 したがって、彼らISは士気が高く殉教精神に富んだ自爆攻撃を厭わないジハード戦士の地上部隊が支配地に広く拡散して、有志連合やロシア軍の空爆等の攻撃を受けて一旦形勢が不利になると直ぐに前線から撤退するし、また新たな場所に侵攻して支配地を拡大していこうとするアメーバのような戦略を採用してきた。

 また、組織として見たISは、真の国家として人民に完全な行政サービスを提供する能力は恐らく持ち合わせていないだろうが、世界各国籍を有する多くの戦闘員からなる実質的な暴力装置を持ち、SNSを駆使した宣伝工作に長けた広報部門と、一定の技術者集団を保有していることは間違いないと筆者は考える。

 したがって、彼らに対する「殲滅」戦略の対価値打撃の標的は、ISの組織的な生存を脅かすための指導者の殺害と経済的あるいは財政的なアセット、支援組織との連絡網を遮断する作戦に今後益々重点が置かれて行くのではないだろうか。

 例えば、アメリカの次期大統領の最有力候補の1人と見なされているヒラリー・クリントン前国務長官は、1119日にニューヨーク市内で行われたIS対処に関する演説において、作戦目標は「封じ込め」ではなく「壊滅」であると強調して空爆強化や現地に派遣する特殊部隊の増強、シリア北部での飛行禁止区域設定など、オバマ大統領とは全く異なるニュアンスのIS「殲滅」戦略を提唱したのである。

 こうなると、今後予想される対IS戦闘の実態は、ロシアとフランスだけではなくアメリカも加わって、民間人のコラテラル・ダメージを余り厭わない対価値打撃に重点を置いた米露仏3つの大国が競争的に展開していくような、強化された対テロ通常戦争へとエスカレートしていく危険性が高くなったと言えるのではないだろうか。

2015年11月17日火曜日

米軍の「航行の自由」(Freedom of Navigation: FON)作戦に関連する戦略的意味について

ここ数年来続いている南シナ海と東シナ海における中国の低烈度の挑発行動に対して、アメリカの態度に今年になって変化が見られた。筆者の見るところ、1年前までアメリカのオバマ政権はこの問題に関して腰が引けていたが、ここ数か月は行動を伴って中国の活動に積極的な異議を唱えている。

例えば、5月には沿海域戦闘艦が南シナ海をパトロールしたし、1027日にはFON作戦を実施して、横須賀を母港とするイージス駆逐艦ラッセンが中国の領海主張している南沙諸島スビ礁等の人工島沖12カイリ以内を航行して、強力なプッシング・バックを実施した。なお、満潮時に水没する岩礁は島ではなく、国連海洋法条約の上で領海を主張することは出来ない。しかし中国は、1953年以来南シナ海ほぼ全域を取り込む九段線を地図上に定めて、その内部を自国の領海であると主張してきた。

 中国の南シナ海への支配拡大は、19741月に西沙(パラセル)諸島で南ベトナム軍を排除して実効支配を確立し、19883月に南沙(スプラトリー)諸島でベトナム軍との海戦に勝利して6つの岩礁(珊瑚礁)を支配下に置いたように、実際に武力行使を通じて行ってきた歴史がある。

20136月にはフィリピンから奪取したスカボロー礁で軍事施設の建設を開始し、20145月から7月にかけて西沙付近でオイル・リグを設置して試掘を始め、米上院では中国非難決議が採択された。最近の中国の海洋活動での特徴は、法執行機関である海警局を利用してその領土主張を強化してきていることであろう。

習近平国家主席は、演説で中国の正当な権利を放棄しないと強硬姿勢を示しており、そうしたトップの指示を受けて海警だけでなく軍も活動を強化している。1つの例として、南シナ海での大規模実弾演習や、20157月には上陸演習が実施されたのである。

 これらの中国の南シナ海での現状変更活動は東南アジア諸国に大きな圧力となっているし、さらに中国は最近、岩礁埋め立てを進めている。そこでは軍事施設建設も進めており、中国の目的は軍と海警の南シナ海でのプレゼンスを強める拠点作りにあると言われている。特に滑走路建設によって戦闘機と早期警戒機の展開が可能となり、空母遼寧を含む艦隊の行動を支援する中国空軍の南シナ海上空でのプレゼンスが強まるだろう。

 こうした中国の活動は海洋権益を得るための他、西太平洋における米軍に対する接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略の側面で、中国の軍事的プレゼンスを強化する目的もあるのだろう。中国海軍の西太平洋への出口は、1つは南西諸島を抜けるルートであり、もう1つは南シナ海からバシー海峡を抜けるルートである。

前者の東シナ海ルートは日米両国の戦力が強力なのに対して、後者の南シナ海ルートはベトナムやフィリピンなど対立国家が比較的弱い上に水深が深くて、原子力潜水艦の行動が容易である。したがって、中国にとってはその国益上、南シナ海が戦略上極めて重要なのである。

 最近のアメリカの中国に対するこれまでよりも強いメッセージ発信に対抗して、中国は今年9月の抗日軍事パレードで海洋での対米抑止のためのA2/AD能力を誇示し、そこでは空母キラーの準中距離弾道ミサイル(MRBMDF-21Dをさらに長射程化したDF-26が出現したのである。そして、習近平指導部による指示という国内状況を見ても、アメリカの押し返しにも拘らず中国の強硬な海洋進出は今後も継続すると筆者には思われる。

 アメリカのコミットメント(公約)の信頼性は、20138月にシリアのアサド政権が化学兵器を使用してオバマ大統領が前年に設定したレッドラインを越えたにもかかわらず介入しなかったことで大きく毀損された。2014年に起きたロシアのプーチン政権によるクリミア併合とウクライナへの介入は、こうしたオバマ政権の弱腰姿勢が、アメリカのコミットメントへの信頼性低下と現状変更行動の負のスパイラルを招いた結果だとする複数の評価がある。

 中国の南シナ海での強硬な岩礁埋め立ても、同様にアメリカのアジア・リバランスのコミットメントの信頼性毀損に関連するものと見なすことが出来るだろう。その意味で、米軍による今後のFON作戦の実施は、中国の現状変更行動を抑止する上で重要な意味を持っている。

 理論的に考えると、互いに防御的意図しか有していない現状維持国同士の間では、自国の安全を増進させるためにとる手段(例えば軍事的能力強化)の多くが他国の安全を減少させてしまうため、いわゆる「安全保障のジレンマ」による軍拡競争を発生させてしまう危険がある。

だが、相手が中国の様な攻撃的意図を有する現状変更国である場合には、抑止する現状維持国側の軍事的能力を強化しなければ現状変更に対抗する確固とした決意を欠く「弱腰」姿勢の現れという、誤ったシグナルを現状変更国に与えてしまう結果を招くことになる。その結果、抑止を破綻させてしまう危険があるのだ。ただし、海空連絡メカニズム設置の様な信頼醸成措置(CBMs)を中国との間で進めることは、相手国の意図の透明性を増し、偶発的な紛争のエスカレーションを防ぐ意味でも今後さらに重要となっていくであろう。

 ただ、現状維持国側と現状変更国側の軍事バランスが大きく崩れると、一方に先制攻撃の強い誘因が生じてしまい、いわゆる「危機の不安定性」(crisis instability)が増大しやすくなる。他方で、双方の軍備管理を通じて「危機の不安定性」を弱めようとすると、かえって高烈度の紛争が抑止される代わりに低烈度の軍事的挑発行動などが激化してしまう、「安定・不安定のパラドックス」(stability-instability paradox)が逆に発生しやすくなる。

 日米ガイドライン改訂作業において日本政府が米軍をグレーゾーン事態への対処にシームレスに関与させようと交渉を進めてきたのは、こうした紛争の高次と低次のエスカレーション段階の間にある「安定・不安定のパラドックス」をスムーズに「架橋」しようと意図したためであるのだろう(栗田真広「同盟と抑止-集団的自衛権議論の前提として-」『レファレンス』20153月号、22頁)。

 その意味において、日米両国が対中国海空軍戦力で圧倒的な優勢を維持している東シナ海では、尖閣諸島への最前線に位置している沖縄に陸海空三軍が統合された機動展開戦力である米海兵隊の駐留を維持していくことが、米軍を否応なくグレーゾーン事態等の低烈度紛争に巻き込むためのいわゆる「仕掛け線」(tripwire)を設置することと同様な我が国に有利なバーゲニングと見なすことも可能だろう(栗田、同上、15頁)。その点にこそ、筆者は、米海兵隊を沖縄に前進配備しておく紛争抑止目的上の重要な意義があると考えている。

2015年11月16日月曜日

IS(イスラーム国)の連続テロ攻撃に対する対抗手段についての考察

 1113日、金曜夜の人出で賑わうパリ市内と郊外で連続同時多発テロ攻撃が起こり、死者少なくとも130人を出す大惨事となった。フランソワ・オランド大統領の率いるフランス政府は全国に非常事態を宣言し、特に首都パリは現時点で厳戒態勢の下に置かれている。

 犯行グループは少なくとも3つの小部隊に分かれて自動車で移動し、コンサートホールやスタジアム、レストラン等の客に対して自動小銃を乱射して襲撃し、また、犯人自身(9人中7人か)が身体に着用していた過酸化アセトン(TATP)を用いた高度な技術を要する自爆ベストを爆発させて、想像以上の大量殺戮を行ったようである。

 シリアとイラク両国で活動しているISは、事件後自らがこのテロを実施したとする犯行声明を出した。筆者には、今回の事件が2001年のアル・カーイダによる9.11テロに匹敵するほどに、非常に組織的で計画されたテロ攻撃であるように感じられる。実は10月末以降、ISの国際テロ活動は顕著に激化している。例えば、1031日には航海のリゾート地シャルム・エル・シェイクの空港を飛び立ったロシア旅客機がシナイ半島上空で爆発、墜落して乗客・乗員224人が死亡したが、これもISシナイ州が犯行声明を出している。

 ISの犯行声明等では、ロシアと同様にフランスがシリアでの対IS空爆作戦を実施していることに対する報復目的の攻撃であったことが示唆されている。同時に彼らは、サウジアラビアやアメリカへの攻撃も警告しているようである。15日付の『ロイター』の記事によると、ISは西アフリカのマリ共和国でのフランス軍の対イスラーム武装勢力攻撃やフランス国内でのムスリム差別に言及して、特に優先順位の高いテロの標的としてフランスを挙げていると報じられている。

 同時に彼らがイデオロギーに基づいて行動しており、有志連合やロシアによる対IS攻撃が激化すればするほど、彼らの信仰やカリフ国家への献身、すなわちジハード活動が強まると述べている。冷戦後の安全保障状況に関してよく言われることだが、ISのような非国家主体の非対称的脅威(asymmetric threats)においては指導者の合理的な損益計算が期待できないため、その脅威を抑止することは非常に困難なのである。

 ISは一応イラクとシリア両国にまたがって一定の領域を支配しているため、彼らが守るべき領土と国民を持っているとも考えられるが、現在までの彼らの対外行動を鑑みると、「カリフ国」のウンマ(イスラーム共同体)に対する外部からの懲罰攻撃に付随する民間人の巻き添え被害(collateral damage)のリスクについては、全く考慮に入れずにむしろ甘受しているように見える。

したがって、抑止が効果を生ずるための前提である合理性は彼らに期待できず、抑止の本質である報復の脅しもほとんど効かないことになるだろう。

 抑止とは、相手の先制攻撃に対して軍事的報復攻撃を以て耐え難い損害を相手に与える態勢にあることを信頼性(credibility)の有る形で伝達することにより、相手の攻撃自体を思いとどまらせる軍事力の機能である。

 理論的に見ると、抑止概念は、耐え難い打撃を与える「威嚇」によって相手の費用計算に影響を及ぼすことで攻撃を断念させる「懲罰的抑止」と、攻撃阻止能力を自らが物理的に保有することで相手の目標達成可能性に関する計算に影響を及ぼすことで攻撃を断念させる「拒否的抑止」に分類される(防衛省の定義を参照)。

非対称的な「テロとの戦い」である対IS戦闘で言えば、有志連合やロシアによるシリアとイラク両国での空爆作戦は、懲罰的抑止が破綻した結果の懲罰あるいは報復攻撃の実施であると言える。

 また、空港での厳重な手荷物検査や都市部での警戒態勢の強化は、IS国際テロリストの非対称的脅威に対する拒否的抑止を意味しているものであろう。だが、現時点におけるISの活動に対しては報復攻撃の威嚇による懲罰的抑止は既に破綻しているし、10月末のシナイ半島でのロシア機墜落と今回のパリでの同時多発テロを阻止できなかった事実は、国家による拒否的抑止がISに対しては全く効き目が無かったことを示している。

 例えば、ロシア機墜落のケースでは、空港の厳重な手荷物検査体制をすり抜けて機内に搬入された荷物に恐らくプラスティック爆薬が仕掛けられたと考えられている。したがって、エジプトの空港関係者がISに協力して空中爆破テロに何らかの形で関与したとも言われている。

もしそうだったとすれば、仕掛けたプラスティック爆薬を時限装置で起爆させることに成功したこと自体が極めて高度な技術を要する上に、空港職員がISテロリストの一員であったことになる。エジプトという国家は、完全にISに出し抜かれたことになる。これはエジプトの拒否的抑止が、ISの非対称的脅威に対して何らの有効性も持たなかったことを意味している。

 また、今年17日にパリ11区で起きた風刺週間紙シャルリー・エブド本社襲撃事件以来、テロに対する厳戒態勢が取られてきたパリで再び大規模な連続テロが勃発したということは、他の先進国以上にテロへの警戒を強めていたフランスという国家でさえも、筆者が思うに、ISに対する拒否的抑止に失敗したことになるだろう。

 フランスのオランド大統領はシリアでの対IS空爆作戦を強化する方針のようだが、筆者の見るところ、こうした懲罰的な報復攻撃は先に述べたとおり、必ずしもISによるテロの脅威を削減する事に直結するとは限らないだろう。ISの様な非対称的アクターは必ずしも国家の様な合理的判断能力を持っているとは言えず、しかもSNS等を通じた効果的な宣伝活動を通じて世界中の一般人である観衆(audiences)の支持を動員する術にも長けているため、逆にフランスを含む有志連合の方が報復の脅しが機能しない「抑止の罠」(deterrence trap)に陥る可能性が大きいからである(See Emanuel Adler, "Complex Deterrence in the Asymmetric-Warfare Era," in T. V. Paul, Patrick M. Morgan, and James J. Wirtz, eds., Complex Deterrence, The University of Chicago Press, 2009, pp. 99-101.)。

 筆者が思うに当面対ISテロ作戦で最も有効であるのは、サイバー上のISのネットワークを遮断することではないだろうか。その手段の1つとして、こちらからISに対するサイバー攻撃を仕掛けることも検討してみてはどうだろうか。

 もちろん、有志連合やロシアによるIS組織中枢を麻痺させるための指導者層を標的とした攻撃や油田等の経済・財政的アセットの破壊、あるいはIS軍事能力そのものに対する攻撃(counterforce)も、今後継続的に強化されていくことは間違いないと筆者には思われるのだが。

2015年11月12日木曜日

J-CASTニュース「早大生が駅横広場を占拠、連日深夜のバカ騒ぎ」に関する感想

 本日18時過ぎにニュースをネットで確認していたところ、上記の様な記事に遭遇した。筆者も80年代から90年代前半に早大生(大学院生時代を含む)であった経験が有るので、本日はこの記事に関する感想(苦言)を敢えて述べてみたい。

 まず、問題となっている場所が、JR高田馬場駅早稲田口の駅前ロータリーであることに筆者は驚いた。というのも、自分の学生時代当時は、ここには丸い噴水が有ったため、とてもこのロータリーに夜間たむろして高歌放吟する余地が無かったからである。

 そこで筆者が調べてみたところ、現在噴水は撤去されて、噴水の真ん中にかつて鎮座していた「平和の女神像」だけが、ロータリーの中心にポツンと残存しているだけの状態となってしまったようである。恐らく、これが最近の早大生の夜間馬鹿騒ぎを助長している根本原因であるのだろう。

 サークル・メンバーが集団でたむろできる余地が無ければ、夜間に「紺碧の空」や「都の西北」を大声で歌えるはずが無いからだ。第一、集団でなければ人前で校歌や応援歌など、とても恥ずかしくて放吟できるものではない。かつては、新宿歌舞伎町のコマ劇場前の噴水が、早大生馬鹿騒ぎの常習地であった。

確かにかつてのコマ劇場前では、よく早大生が騒いで大学当局に苦情が持ち込まれていたが、ここ最近は明大生御用達に変貌してしまったらしい(?)。代替地として現役早大生たちが選んだ場所が、必ずしも歌舞伎町の様な繁華街とも言えない高田馬場駅前であったということか。筆者には、恐らくこれが第1の物理的原因だと考える。

 第2の原因を憶測すると、早大生が少なくとも80年代頃よりも幼児化している可能性である。自分の経験では、今秋の六大学野球リーグのように早慶戦で早稲田の優勝が決まった日であっても、高田馬場のロータリーで馬鹿騒ぎする学生は恐らく皆無であったと記憶している。まして盛り上がるスポーツのイベントでもない早稲田祭後に、そんなことをしていた学生がいたという記憶は全くない。

 それ以前に、当時サークル単位で我々が野球(早慶戦)やラグビー(早明戦)の試合などを観戦した場合には、ほぼ必ず他大学(日本女子大その他)の女子大生複数名と連れ立っていたため、とてもじゃないが集団で、かつ大声で、人前で歌を歌える雰囲気など、たとえコンパ後の酩酊状態にあったとしても、早大生のプライドが許さなかったのである。

 当時のポンジョ(日本女子大)生は、その大多数がお嬢様タイプであったので、そんな如何にもダサいワセダマン的悪乗りは、決して許容されるものではなかった。自分も一度だけ、新宿コマ劇場前で大学1年生の時の六大学野球優勝後に校歌を男子学生集団で歌った記憶があるが、記憶するのは唯一その時だけである。

ところが筆者が先刻動画で確認した様子では、女子大生たちまでもが集団で男子学生連中と肩を組んでロータリーの真ん中で輪になって、「紺碧の空」を高歌放吟している。これは筆者には実に驚嘆すべき事象である。少なくとも筆者の知っている早稲女やポン女が、こうした行為に出るとは到底思えなかったからだ。筆者が学生であった当時の彼女らは、良い意味でエリート意識が高かったため、人前で、かつ集団で歌うことなど、絶対に有り得なかったと思われる。この筆者の記憶が正しいとすれば、現在の現役早大生あるいは日本女子大生たちの幼児化が、日本政府の債務残高並みに急速に進行しているものと考えられるだろう。

 第3の原因を憶測すると、西早稲田本部キャンパス内に学生がたむろする場所がなくなった可能性である。我々世代の学生時代には、本部キャンパス内の建物地下の部室か学生ラウンジが常習の溜まり場であった。そこでは学生集団の飲酒も喫煙も大学当局の放任主義の結果、ほぼ無制限に許容されていたし、そこから少し離れれば大隈通りの雀荘かビリヤード場に長時間たむろすることが可能であった。早稲田通り近辺にはボウリング場や喫茶店も多かったから、男子学生のコンパ後のたむろ場所には事欠かなかったはずである。

 そこで、最近の本部キャンパスの実態を調べてみると、やはりラウンジの閉鎖が続いている。特に筆者の様な政経学部生にとっては無くてはならない存在であった、4号館学生ラウンジが昨年9月末に閉鎖されてしまっている。これは現役学生たちにとっては、非常に痛い措置だろう。学生ラウンジ閉鎖とは、サークル仲間と寛げる場所を学生が奪われたにほぼ等しいことを意味しているからだ。大学当局には、代替となり得る学生のたむろ場所を是非設置していただきたいと筆者は考える。

 それにしても、現役早大生諸君らには、駅前で酩酊して集団で高歌放吟するような他人迷惑なダサいストレス発散手段よりも、もう少し早大生に相応しい大人の格好付けたダサさを追求してもらいたいと筆者は思う。

例えば、我々世代であったとしたら、お嬢様のポンジョ生を煙に巻くために何も知らない国際情勢や経済政策について「熱く」語ってみたり、普段コミック本しか読んでいないくせにペダンティックに文学や哲学を語ってみたりしたものである。そうした田舎臭いダサさの追求にこそ、地方出身で貧乏人、かつ、浪人や留年経験者の方が「偉い」とされてきた早稲田大学の古き良き伝統を継承する本質があると言えるのではないだろうか。

2015年11月6日金曜日

イランに対する制裁の効果と今後の課題

 『BP世界エネルギー統計2015』のデータによると、イランの原油生産量はEUとアメリカが対イラン独自制裁を強化した20128月以降大きく下落し、禁輸制裁強化前の2011年に日量約437万バレルであったものが、2014年には日量約361万バレルにまで落ち込んでいる[1]

 また、IEA(国際エネルギー機関)が20158月に発表したOPEC原油生産実績のデータでは、イランの原油生産能力は日量約360万バレルだが、6月と7月の生産量はいずれも日量280から290万バレル程度に留まっている[2]。すなわち、イランの余剰原油生産能力は、欧米による禁輸制裁発動以前と比較して、日量で70万から80万バレルはある。

 イランの原油輸出量の落ち込みは生産量の落ち込みに比例していると考えられるから、その分欧米の制裁強化によってイランの外貨獲得源が縮小されたことになるだろう。これは、原油と天然ガスの輸出を主要な外貨獲得の手段としているイラン経済にとっては、大変大きな打撃となってきただろう。

 事実、IMF(国際通貨基金)の統計によると、イランの実質GDP成長率は2011年のプラス3.75%から、2012年にマイナス6.61%、2013年にマイナス1.91%まで急激に落ち込んだのである[3]。また、イランの通貨リアルの対米ドル為替レートは2012年初頭から大暴落し[4]、国内物価は激しいインフレに見舞われて国民生活を圧迫したのである。

 それにもかかわらず、イランは国際社会からの長期間の孤立に堪え、厳しい経済制裁措置に屈することは最後まで無かったと言えるだろう。イランがEU3+3JCPOAを合意するに至った最大の理由は、アメリカの政権がイランを悪の枢軸の1つと位置付けて敵視したブッシュ大統領の共和党政権から、中東からの撤退を公約に掲げて当選したオバマ大統領の民主党政権に変わったことにあると考える。

 いわばイスラーム体制変更の脅威がオバマ政権の誕生によって事実上薄れたという外部環境の変化こそが、イラン国内の権力者集団、特に最高指導者ハーメネイ師が保守穏健派のロウハニ大統領の政権を誕生させることを最終的に容認した主たる理由であったと思われる。

 その意味において、イランに対する国連及び欧米の厳しい経済制裁がイランの妥協を引き出し、その結果としてJCPOAの合意を直接導いたと評価することは早計である。JCPOAは先に述べたとおり、確かにその合意が無かった場合よりは、イランの核武装のブレーク・アウト時間を延ばすことが可能であり、結果的に中東地域の安全保障環境を安定化させることに寄与するものと予想することが出来る。

 しかしながら、イランが今後の履行プロセスで果たして裏切らないかどうかについては、今なお不明であることもまた事実である[5]。特に、国際社会からの孤立を一旦脱したシーア派大国であるイランが、ペルシャ湾岸地域における自国の影響力を拡張しようとする政策を続けた場合は、早晩スンナ派の盟主を自認するサウジアラビアの脅威認識を大いに刺激することは明らかである。

 また、イランのパレスチナ問題やシリア内戦への関与が、従来のようにハマースやヒズブッラーといった反イスラエルを標榜するイスラーム武装集団を支援する形で継続された場合には、イスラエルの生存を直接脅かす脅威となりかねない恐れもある。

 したがって、アメリカとしてはJCPOAと通じて長らく敵対関係を続けてきたイランとの関係を改善するのと同時に、域内の同盟国であるサウジアラビアとイスラエルに対する安全保障上のコミットメントを従来以上に強化していく必要があるだろう[6]

 イランとの関係を良い方向で再構築することは、2011年以来内戦の続くシリアでのアメリカの率いる有志連合による対イスラーム国軍事作戦の遂行を容易にすると同時に、イラン国内の市場としての魅力も大きいことは事実である。

 しかしながら、同時にイランが地域覇権主義に向かうことを抑制し、JCPOAを誠実に履行させるとともに、サウジアラビアやイスラエルに対するコミットメントを強化することを通じてイランの勢力拡大を抑えることも、アメリカなど欧米諸国の今後の重大な責務となるであろう。


[2] IEA, Oil Market Report, August 2015, Table 3, <https://www.iea.org/media/omrreports/tables/2015-08-12.pdf>, p. 6; 岩間剛一「制裁解除が近づくイランの石油・天然ガス開発の現状と今後の可能性」『中東協力センターニュース』20159月号、4頁。
[3] 同上、5頁。
[4] 「アングル:イラン通貨暴落が砕く「学びの夢」、祖国見限る学生も」『ロイター』20121019日、<http://jp.reuters.com/article/2012/10/19/tk0532235-iran-students-idJPTYE89I02420121019?sp=true>2015116日アクセス。
[5] 戸﨑洋史「共同包括的行動計画(JCPOA)-「不完全な合意」に関する暫定的な分析と評価」、8頁。
[6] 同上、9頁、注38

イラン核問題最終合意「包括的共同行動計画」(JCPOA)のプロセスとその評価

 20138月、保守強硬派のアフマディネジャド前大統領に代わって国際社会との関係改善を目指す保守穏健派のハッサン・ロウハニ新イラン大統領が就任した。

 これを契機として、EU3+3とイランは核開発問題を最終的に解決するため、20131124日にスイスのジュネーブで「共同行動計画」(Joint Plan of Action)に暫定合意した。

 この暫定合意の結果、翌2014121日からイランは5%以上の濃度のウラン濃縮活動を停止し、その引き換えに国際社会による対イラン制裁措置が一部緩和されたのである[1]

 だが、最終合意文書(JCPOA)の草案を定めるための交渉は720日の期限までに双方の合意には至らず、同年1124日に交渉期限を2015630日まで再延長して「枠組み合意」を締結するとした共同声明が発表された。

 201542日、スイスのローザンヌで開催された外相級協議で、EU3+3とイランの双方がJCPOA「枠組み合意」に到達した[2]。その後最終合意に向けて細部を詰める作業が双方で継続され、期限を3回延長した連続交渉を経て、2015714日、20028月の問題発覚以来13年後にして歴史的なイランとのJCPOA最終合意が締結されたのである[3]

 JCPOAでイラン側が順守すべき事項は、以下の通りである。(1)ウラン濃縮については、使用する遠心分離機数を現状の約19千基からナタンツの第1世代1R-15060基のみに10年間制限する。その濃縮度は少なくとも15年間は3.67%を超えないようにし、その備蓄量は300kgに抑制する[4]。その結果、イランが核武装を目指したとしてもそのブレーク・アウト時間は現在の23か月から約1年に延長されると言われる[5]

 なお、IAEAによる対イラン査察の実施において課題であった核爆弾の起爆装置開発等の軍事的側面(PMD: Possible Military Dimensions[6])、具体的には首都テヘラン近郊にあるパルチン軍事施設に対する査察の実施については、JCPOAで明確に規定されていない問題がある。

 またイランの裏切りに対する懐疑論者の主張では、未申告施設へのIAEA立入りに関するイランとの主張の対立が合同委員会に諮られた場合に、結論が出されるまで最大24日間を要する規定についてイランの証拠隠滅を可能にすると言う批判もある[7]。なお、イランの核開発を自国に対する実存的脅威と位置付けるイスラエルのネタニヤフ首相は、JCPOAは歴史的合意などではなく歴史的過ちだと主張している[8]

 JCPOAを肯定的に見るか否定的に見るかの評価のポイントは、イランのブレーク・アウト時間が今後10年間は約1年に抑制されることでイランの核の脅威が削減出来るかどうかの点に係っている。JCPOA懐疑派は、中長期的に見てウラン濃縮活動制限期間が終了した後にはイランが自由に核開発を再開することが可能となるから、JCPOAは事実上イランを核敷居国(threshold states)として国際社会が公認したことに他ならないと批判する[9]

 だが、交渉問題の専門家であるロバート・ジャービスがJCPOAを肯定的に評価して指摘したように、仮にイランとの交渉が決裂してJCPOAが成立しなかった場合、イランが核兵器製造により近づいたことは明白であり、その場合効果が怪しいイスラエルの軍事攻撃を招いて地域情勢をより不安定化させた危険は、合意が無かった場合よりも遥かに大きかったことは間違いないだろう[10]

 2015720日、国連安保理は決議2231号(S/RES/2231)を全会一致で採択してJCPOAを承認した[11]。そして、合意承認から90日後の1018日に「採択日」を迎え、JCPOAは正式に発効した。

 今後のプロセスとしては、1215日に予定される「履行日」(Implementation Day)を期限としたIAEA事務局のPMD評価結果に関するIAEA理事会報告によってイランの合意履行が確認された後、2016年以降国連とEUの対イラン制裁措置が逐次解除されていくことが予想されている[12]。なお、アメリカは対イラン核関連制裁の適用を停止するに留まる。

 ただし、いかなる時点においてもイランが合意の履行を怠った場合で、35日以内に合同委員会他が問題を解決できなかった時には国連安保理に提起でき、安保理が30日以内に制裁停止の継続を決定しない場合には国連制裁が再適用されるという、スナップ・バック条項がJCPOAに規定されている[13]

 また、IAEAによる査察と透明性を確保するため、イランは「採択日」から8年以内の「移行日」(Transition Day)までに200312月に署名した包括的保障措置協定の追加議定書(Additional Protocol)の批准を目指し、それまでの期間は追加議定書を暫定適用することが約束された。そして、「採択日」から10年後の「安保理決議終了日」(UNSCR Termination Day)に、JCPOAを承認する安保理決議が終了することになっている[14]


[2] 戸﨑洋史「イラン核問題「共同包括的行動計画」枠組みの合意」『軍縮・不拡散問題コメンタリー』日本国際問題研究所軍縮・不拡散促進センター、201546日、<http://www.cpdnp.jp/pdf/disarmament/2015%2004JCPOACPDNP.pdf>.
[4] Ibid.
[5] 立山良司「イラン核合意と中東の地域秩序-合意の意味と地域パワーバランスへのインパクト-」CISTEC JournalNo. 15920159月)、99頁。
[6] GOV/2011/65, 8 November 2011, <https://www.iaea.org/sites/default/files/gov2011-65.pdf>, Annex, pp. 1-12.
[7] 立山「イラン核合意と中東の地域秩序」、100頁。
[8] Isabel Kershner, “Iran Deal Denounced by Netanyahu as ‘Historic Mistake’,” The New York Times, July 14, 2015, <http://www.nytimes.com/2015/07/15/world/middleeast/iran-nuclear-deal-israel.html?_r=0>, accessed on November 6, 2015.
[9] 立山「イラン核合意と中東の地域秩序」、100頁。
[10] Robert Jervice, “Turn Down for What?” Foreign Affairs, July 15, 2015; 邦訳「イランとの核合意をどう評価するか-合意を拒絶する理由はなかった」『フォーリン・アフェアーズ・リポート』20159月号、72-75頁。
[11] S/RES/2231 (2015), 20 July 2015, <http://www.un.org/en/sc/inc/pages/pdf/pow/RES2231E.pdf>.  
[12] 戸﨑洋史「共同包括的行動計画(JCPOA)-「不完全な合意」に関する暫定的な分析と評価」『軍縮・不拡散問題コメンタリー』日本国際問題研究所軍縮・不拡散促進センター、201583日、<http://www.cpdnp.jp/pdf/disarmament/2015%2007JCPOACPDNP.pdf>2頁。
[13] 同上、2頁。
[14] 同上、2頁。

2015年10月25日日曜日

永禄12(1569)年10月6日三増合戦の勝敗と、信玄の駿河制圧の関連性に関する考察(2)

 前回の投稿で述べたように、永禄12101日から4日にかけて後北条氏の本拠地小田原城は、武田信玄の率いる約2万人とも言われる甲信西上野の軍勢に包囲された。しかし、この当時の信玄の主たる作戦目的は、前年に開始した自己の駿河侵略を有利に進めるために後北条氏の駿河への支援を中断させることに置かれていた。言わば後北条氏による自己への敵対に対する報復と、牽制目的だけの武田の敵地侵攻であったと筆者は考える。

 そこで、武田勢としては後北条氏領内を荒らし回ってその威力と脅威を見せ付ければ目的は十分に達成することができ、敵地を制圧することや敵の主要な城郭を陥落させることは本来の目的では無かったのであろう。

したがって、敵の本城小田原城に対しても城下に放火しただけで、信玄は本格的な攻城戦を行わなかった。北条氏政の上杉謙信宛104日付書状及び氏政の弟氏照の山吉孫次郎宛1024日付書状の記述によると、武田勢は104日に小田原城下を退散し、翌5日には津久井(奥三保)筋、つまり三増峠付近まで退却していた模様である。

 『甲陽軍鑑』によると、小田原退去に当たって信玄は息子の四朗勝頼の軍勢を殿とし、北条方に対して帰途鎌倉鶴岡八幡宮に社参するとの噂を流して、退路を秘匿したとされる。これが事実とすれば、永禄41561)年3月の上杉謙信の率いる軍勢による小田原城攻めにあやかった風説の流布と考えられ、いかにも策略家であった信玄の行いそうな話である。

実際の武田勢の退路は、ほぼ一昼夜後の105日に津久井筋(愛川町)まで到達できたことから、恐らく松田まで北上した後、矢倉沢往還(現在の国道246号線)を通ったのであろう。これは秦野と伊勢原(糟屋)を経由して津古久峠を越え、厚木西方を北上して中津川を渡河した後に三増峠や志田峠を経て津久井から甲斐郡内に入る最短ルートであった。

 ちなみに『甲陽軍鑑』には、武相侵攻前の7月中の武田家中の談合で作戦終了後の退路として津久井筋の他に箱根、三島を経由する経路も検討されたという記述がある。しかし、当時敵地で境目防御の北条方の城が連なっていた、天嶮かつ危険な箱根越えルートを敢えて選択して武田の大軍が無事帰国することが可能だったとは到底思えない。したがって、初めから武田勢の想定した退路は、境目の北条方の城が津久井城1つしかない津久井筋経由の一択だったのであろう。

 さて、105日に武田勢が三増峠の麓に到達した時、既に源三氏照と新太郎氏邦、そして『甲陽軍鑑』によると玉縄城主の上総介綱成の率いる軍勢が峠に布陣していた模様である。ところが、この軍勢は武田勢が迫ると陣屋を空にして中津川対岸に渡河して半原山に落ちて行ったと『甲陽軍鑑』に記述がある。これが事実ならば、氏照らは峠を先に占拠する有利な態勢を自ら捨てて武田勢に退路を開けてやり、敢えて平地に下ったことになる。この点をどう考えるべきか、私見を述べる。

 『甲陽軍鑑』の記述では、この時小田原を進発していた氏康と氏政の率いる北条氏旗本の軍勢は、まだ荻野辺りにしか到達していなかった。この主力部隊の兵力に関しては、筆者は恐らく1万人程度ではなかったかと考える。

氏康、氏政父子の三増合戦前後の謙信宛書状などを見ると「無二一戦」を遂げる心算のような威勢の良い宣伝文句が書かれているが、当時駿豆国境地帯にむしろ兵力を集中させていた後北条側が、甲信西上野の勢力圏下のほぼ全兵力を集中した後、満を持して信玄が試みた敵地侵攻の武田勢約2万人に対抗し得る程の兵力を小田原に短期間で終結できたとは到底思えないからである。

 敗北する相当なリスクを伴う決戦に打って出る程の兵力が集中できなかったからこそ、後北条氏は基本的に本城、各地の支城とも、籠城して武田勢の通過をやり過ごす作戦を永禄12年に採用したのではないだろうか。

 先衆として三増峠付近で武田勢を迎撃した氏照、氏邦兄弟の率いた後北条勢について、『甲陽軍鑑』は両者の指揮下にあった滝山衆と鉢形衆の他に、綱成の指揮下にあった玉縄衆、江戸河越衆、忍衆と深谷衆、岩付衆、さらには房総半島の他国衆まで約2万人を動員したと記している。これは明らかに後北条勢先衆の兵力が過大で、眉唾な記述である。

籠城戦術を採った永禄12年当時の後北条氏が、これだけの兵力を1か所の戦場に集結できたはずが無いだろう。房総半島からも参戦したとしている割には、武蔵国内の小机衆や松山衆、相模国内の三崎衆の名前が出て来ない点も大きな疑問である。もしかすると、江戸河越衆の参戦すら無かったのが、三増合戦での後北条方の真相であったのかも知れない。

筆者の見立てでは、三増合戦に参加した北条勢先衆の兵力は、滝山衆と鉢形衆を主力として、玉縄衆を合わせても約67千人程度に過ぎなかったと考える。先衆だけでは武田勢に比べて著しく兵力劣勢であったからこそ、小田原からの本隊到着まで氏照ら先衆は峠を下って中津川対岸の半原に退避したのであろう。

 実際、合戦後の1015日付で信玄が遠山駿河守宛てに出した書状では、帰国の砌氏政舎弟源三、新太郎、助五郎が引率した67千人の人数と一戦を遂げ、新太郎と助五郎以下2千余人を討ち取って、信玄が存分に勝利を得たと過大に報告している。

 この信玄書状に出てきた「助五郎」とは、氏康五男(氏政、氏照、氏邦同母弟)で当時三浦半島先端にあった三崎城主であった後の美濃守氏規のことで、幼少期に駿府で今川氏の人質となっており、同じ境遇であった徳川家康と親交があったとされる人物である。ただ永禄12年当時は、伊豆の韮山城代として三崎衆を率いて出張していたと思われる。

したがって、これは信玄が玉縄城主の綱成と混同した可能性もある。しかし、信玄が宣伝した氏邦と氏規以下2千余人を三増合戦の際に討ち取ったとする報告は、自己の戦果を過大に宣伝する目的による明らかな虚偽報告であった。それでも、敵方の兵力に関する彼の認識は概ね是認できるだろう。

 以上の考察を前提として、永禄12106日に起きた戦国時代屈指の山岳戦であったと言われる三増合戦の実態を分析してみると、以下の通りである。

 まず、合戦当日戦場に集結した兵力は北条勢が武田勢の半分以下の劣勢であり、そのため先に占拠していた有利な峠道での迎撃を断念して、氏照と氏邦の率いる後北条先衆は小田原からの本隊到着まで決戦を避けるために合戦前日の105日に中津川西岸の半原に退避した。

 この北条勢の動きに対する武田信玄は、勝頼らの率いた主力部隊を三増峠に登らせた一方で、『甲陽軍鑑』によると、三増峠北方約3kmの地点に位置していた北条方内藤氏の居城津久井城からの攻撃を牽制させるため、西上野最大の国人であった国峰城主小幡尾張守(信貞か)の率いる軍勢1,200人を三増峠南西に並行して山麓の韮尾根に通じる志田峠から、津久井城南西約2kmに位置する沼(囲い沢)に進出させたとされる。

 確かに武田勢が先発隊を沼に進出させれば、沼から津久井城下根小屋まで約1km道が北東に続いているから、根小屋から三増峠に南下する街道を津久井衆が進撃していくのを効果的に抑えることができただろう。そして、信玄はさらに小幡勢に続いて、最精鋭の山縣昌景他8頭の軍勢約5千人を左翼から志田峠を越えさせたと言われている。

 『甲陽軍鑑』の記述によると、武田勢主力は小荷駄隊を含めて勝頼が率いて浅利信種を殿にして中央の三増峠を登り、信玄と旗本は主力部隊の右翼の道を登ったらしい。したがって、志田峠は武田勢左翼に位置していた。そして志田峠から見て南西部に位置する中津川の対岸半原一帯に北条勢先衆が布陣していたわけだから、小幡と山縣らが率いた軍勢の志田峠越えの動きは直ちに北条方に察知されてしまったのであろう。

 『甲陽軍鑑』では、玉縄衆を率いていた戦上手の北条綱成が、敵が一斉に退却した好機が到来したと誤認して氏康父子に使者を走らせたと述べている。それと同時に、筆者の分析では、恐らく現在の馬渡から中津川を東岸に渡河して、北条勢が三増峠山麓から武田勢を一斉に追撃したのであろう。たとえ兵力が劣勢であっても、退却する敵への追撃戦ならば北条方にも勝機を見出すことができたと思われるからだ。

 しかし、実際の合戦当日の武田勢は、峠道で南西向きに陣立てを立て直して、高地上から北条勢を逆襲した模様である。このあたりの信玄の作戦は、3年後の元亀31572)年12月に遠州三方ケ原の戦いで徳川家康の軍勢を大敗させた時の戦術を彷彿とさせるものだろう。

 いずれにしても、山麓から峠に布陣した優勢な武田勢に対して劣勢の兵力で追撃戦を敢行した後北条勢は、志田峠を先行した山縣昌景勢などが引き返してきて側面を突かれた不利もあって武田勢に敗北したようである。北条勢の損害は数百人程度だったろうが、武田勢も殿の大将浅利信種が敵の鉄砲に撃たれて戦死するなどの損害を出したと言われている。

 結果的に見れば、三増合戦での後北条方の敗戦の原因は、氏照と氏邦ら先衆の敵状誤認による劣勢兵力による追撃戦の失敗に集約されるのであろう。だが、より根本的には、本隊を素早く先衆に合流させて合戦に間に合わさせることができなかった、氏康と氏政父子の緩慢な行軍が最大の失態であったと言えるのではないだろうか。

 その結果、永禄1211月以降再開された武田信玄による駿河侵攻に後北条氏が有効に対処することが三増合戦以降ほとんどできなくなり、数年後、駿河国は武田信玄によって完全に制圧されてしまう結果を招いたのであった。

 追記: 明日から筆者は論文執筆作業のため、10日間程度ブログの投稿を中断します。