2016年1月15日金曜日

天正10(1582)年春、武田家滅亡に際しての勝頼の撤退判断に関する考察

 1月10日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の初回が放映された(筆者はこの放送を視聴していないが)。ちなみに第1回放送は、天正101582)年2月初めから3月上旬にかけて起きた、織田信長、徳川家康勢の甲信侵攻と武田家滅亡のシーン辺りからスタートしたということである。

 この武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』によると、信長が陣触れを発したのは同年23日のことであったらしい。したがって、美濃兼山城主の森勝蔵長可と団平八忠正の率いる織田勢先鋒が(岐阜を?)進発してから、わずか40日足らず後の短期間に東国でも特に強大な威勢を誇った武田の軍勢が総崩れとなり、新羅三郎源義光以来の甲斐源氏の名門武田家が呆気なく滅亡してしまったわけである。

311日に、武田勝頼が天目山麓の田野(甲斐大和から日川を大菩薩峠方面に遡った地)で滝川一益の率いる織田の追手に追い詰められ、37歳の若さで19歳の継室北条夫人(氏政妹)や16歳の嫡男信勝と共に自害に追い込まれてしまったため、この武田家滅亡は現在まで戦国史上の悲話として有名である。

 確実な史実としての武田家滅亡に至る簡単な経過は以上のとおりであるが、武田勝頼の軍勢が信州諏訪での防戦を諦め、諏訪郡の拠点上原城を引き払って真田昌幸が普請奉行として甲斐韮崎に築城中であったとも言われる新府城への撤退を決意したのは、228日のことであったとされている。

 実はこの2月末時点では、まだ、信長嫡男である織田信忠が率いた織田侵攻軍主力の上伊那高遠城攻めは開始されていない(史実では31日織田勢の包囲攻撃開始で、翌2日城主で勝頼異母弟の仁科盛信が自刃して落城した)。

高遠から諏訪湖岸に進出するためには杖突峠の険路を越えなければならないから、筆者が思うに、勝頼の諏訪郡からの撤退の判断が少し早すぎたきらいがあると考える。この時点では、劣勢の武田としては数千の残存兵力を以て杖突峠を固め、織田勢迎撃のための防御線をなお敷くことが可能だったのではないだろうか。

 勇将であった勝頼がこのような消極策を採った背景にはいくつか理由があったのだろうが、間の悪いことに織田勢信州侵攻(26日)から10日後の216日に浅間山が信長誕生年である天文31534)年以来、48年ぶりに噴火したことが武田勢の士気を大いに削いだのかもしれない。浅間山の久しぶりの噴火は、武田氏領国における不吉な神威の凶兆とも受け取ることが出来たのだろう。ちなみに新府に居た北条夫人は、219日に韮崎の武田八幡宮に、夫勝頼の武運長久を祈る悲痛な名文の願文を捧げている。

この北条夫人自筆の願文には、浅間山噴火と同日の216日の木曽路鳥居峠の戦いで、織田勢に支援された木曽義昌の軍勢に今福筑前守昌和らの武田勢が虚しく敗戦した悲嘆が率直に述べられている。彼女としても、当時それだけ切羽詰っていたのだろう。

ちなみに武田方有力部将の崩壊と脱落現象は、2月後半に五月雨式に起きている。例えば、217日に中将信忠の軍勢が飯田に布陣したのを知った勝頼の叔父武田信廉(逍遥軒信綱)が、下伊那防衛の拠点であった大島城の守備を放棄して勝手に甲州に撤退してしまったことや、駿河江尻城を守っていた穴山信君が225日に甲府に置いていた妻子を脱出させて逆心した事例が代表的だろう。武田親族衆の重鎮たちですら、この時点で勝頼を見限ったわけだからだ。

 恐らく、勝頼が諏訪郡を放棄して甲州への撤退を決断したのは、上記の様な諸事情による劣勢を考慮したためだろう。筆者の見立てでは、築城途上であった新府城での防戦は当初から想定しておらず、妻子と人質を収容した後、郡内の小山田信茂領内にある岩殿山に事前に構築して置いた要害に籠城するのが勝頼の最初からの予定であったのではないか。

 実際には、この計画は小山田の裏切りで国中と郡内の境目である笹子峠を封鎖されてしまったために貫徹することが不可能となり、やむなく勝頼ら一行は滝川一益勢の追及を逃れて日川を遡上し、大菩薩峠を越えて最終的には小菅方面に脱出しようと試みたものと筆者には思われる。武田勝頼一行を追跡した滝川勢に思いの外早く追いつかれてしまったのが、武田勝頼の誤算では無かっただろうか。

 真田家の話題に戻ると、諏訪からの武田勢の撤退が議論された228日の軍議の際に、昌幸は自分の勢力圏内にある上州吾妻郡の岩櫃城に入城することを勝頼に進言し、勝頼も一旦はその案に同調したと言う説がある。そのため、真田昌幸は228日、勝頼入城の準備のために先発して岩櫃城に帰還したとされている。だが、筆者にはどうもこの説は眉唾ではないかと思う。

 なぜなら、当時、織田信長の命を受けて関東口から武田領に侵攻する手はずを整えていた後北条氏の軍勢、つまり鉢形城主であった氏邦の率いる軍勢が東上野の沼田城を攻略しようと虎視眈々と狙っていたからだ。

つまり、当時上州では武田勢が後北条勢に対して圧倒的に優勢な状況であり、真田昌幸は岩櫃城を中心とした吾妻郡と沼田城を中心とした利根郡を事実上支配下に置くことに成功し、また本領である信州小県郡も戸石城を拠点に固めていたから、天正102月末の時点では最初から氏邦が率いる鉢形衆の侵攻に備えて岩櫃に入城していたのではないかと考えられるからだ。

 それに、勝頼がもし仮に当時岩櫃入城を諏訪で決断したとすれば、新府城に残っていた北条夫人たち妻子を見捨てることを意味していたし、甲府か新府に残っていた配下の部将らから集めておいた人質連中を収容することも不可能になっただろう。もしそうなれば、離反する部将がさらに続出する恐れも大きかったに違いない。

 したがって、勝頼の岩櫃入城を真田昌幸が当時進言したとする有名な説には、筆者はどうも納得できないのである。結果的には、天正10年に武田家が滅亡したため、真田家は上信三郡を支配する独立大名にのし上がることに成功したわけだ。そういった点を考えると、この時点で真田昌幸が自分の勢力圏内に武田勝頼を引き入れて圧倒的に優勢な織田勢に抗戦したとしても、真田家は武田家に殉じて共に滅亡した結果を招いただけだっただろう。

 昌幸が当時勝頼を迎え入れて織田勢の侵攻に徹底抗戦したとしても、せいぜい良くてその結末は、天正7年に結ばれた甲越同盟で勝頼異母妹の菊姫が上杉景勝正室として嫁いでいた縁を頼って、越後に亡命できたこと位であっただろう。もしそうなれば、真田家の既存領域支配が困難になったことは必定であろう。

 つまり、後に秀吉側が上杉景勝に宛てて「表裏比興の者」と評した文書を残したほどの策略家であった昌幸が、信玄に対してならばともかく、武田勝頼に対して共に滅亡することを選ぶほどの恩義を感じていたとは筆者には到底思えないのである。

 とはいえ、純粋に軍事的に考えれば、勝頼は郡内の岩殿城に籠城するよりも吾妻の岩櫃城に籠城した方が、当時遥かにその後の戦況を有利に展開することが可能であったと思う。

 なぜなら、岩殿城も岩櫃城も当時としては共に堅固を誇った山城であったことは間違いないが、大月の桂川北岸に聳え立つ独立した岩山に構築された岩殿城は山上の曲輪はどれも狭隘で、一旦防御を破られれば城兵が後方に逃れる術はほとんどない絶壁上に位置しているからだ。これでは、後詰の援軍到来が期待できなければ、大軍に取り囲まれたら10日も岩殿城に籠城できないのではないか。

 当時後北条氏は、勝頼が上杉景勝と締結した甲越同盟の結果、甲相同盟を破棄して織田信長に追随して関東口各方面に出兵していたから、勝頼が小山田信茂の裏切りに遭遇せず予定通り無事岩殿城に籠城できたとしても、早晩国中方面と上野原方面から侵攻してきた織田と北条両軍に挟撃されただろう。岩殿山に籠った場合、やはり武田家滅亡は時間の問題であり、結局回避することは不可能であったに違いない。勝頼としては、その場合武田氏の故国甲州の地で潔く最後の合戦に臨むことが出来る程度の時間が稼げただけだっただろう。

 それと比較すると吾妻川西岸に位置する岩櫃山中腹に築かれた岩櫃城は、城下の平沢集落への入り口である大手の不動沢を取り囲むように天狗の丸や柳沢城といった出丸が構築されている。こうした複合的に城下を守備するような出丸の配置は、真田氏本領である信州小県郡の拠点城郭である戸石城でも同様に見られることから、恐らく真田氏得意のゲリラ戦仕様であったのではないか。

 つまり、岩櫃城は複合的に置かれた各出丸に取り込まれた形の城下内部に敵の軍勢を引き入れて、その後臨機応変に軍勢を各出丸より繰り出して敵を翻弄しようとする、後の上田合戦でも見られたような真田昌幸得意の戦法に適した城郭であったと思われる。

 したがって、武田勝頼がもし仮に、天正102月末に甲斐の新府方面ではなく、諏訪から和田峠を越えて上田平の真田領を経由し(さらに上信境目の鳥居峠を越えて)吾妻郡の岩櫃に入城できた場合を考えると、東上野沼田領で真田氏が後北条氏に優勢を保っていた当時の戦況の下では、背後から挟撃されることがほぼ確実な郡内岩殿城のケースの様な危険も少なく、あるいは織田方に水の手を断たれない限り、武田勢有利にその後のゲリラ戦を織田勢に対して展開することが出来たのかもしれない。

 この真田昌幸が提案したとされる武田勝頼の岩櫃籠城作戦の今1つ有利な点は、戦況がどうにもならない位悪化した場合には、背後の草津温泉を抜けて志賀高原方面から武田と同盟関係にある上杉景勝の勢力圏であった北信地方の飯山方面に逃げ込む余地もあったと思われることである。ただし、その場合、甲斐に残してきた武田家の妻子と人質は見捨てることになるのは先に述べたとおりである。

 あるいは武田勝頼は案外家族思いの人情にもろい、当時の武将としては真田昌幸の様な冷徹なリアリストに徹しきれない正反対の性格であったために、天正10228日の滅亡間際の岐路に際して、諏訪から上州ではなく甲州への撤退の道を敢えて選んだのではないかとも筆者には思えるのであった。

2016年1月13日水曜日

1月12日午前に起きた、イスタンブール観光地での自爆テロに関する考察

 112日午前1020分頃、トルコ最大の都市であるイスタンブールの最も有名な観光名所であるスルタン・アフメット広場で自爆テロ攻撃が起こった。報道では、ドイツ人観光客10人が死亡し、ドイツ人複数を含む15人が負傷したと言う情報が流れた。トルコの治安当局は、シリア国籍を持つISテロリストによる犯行と断定している。しかし、現在までのところ、IS側の犯行声明は確認されていないようである。

 イスタンブールは言うまでもなく、ドイツ人のみならず日本人にも非常に人気の高い観光都市である。特に今回テロの起きたスルタン・アフメット地区は、ボスポラス海峡を挟んだ西の欧州側金閣湾の南岸に位置する城壁で囲まれた旧市街中心部にある、イスタンブール第1の人気観光スポットである。

この歴史的、地政学的に欧州とアジアを結ぶゲートウェイであるイスタンブールの、まさにど真ん中の丘陵地帯にあるスルタン・アフメット地区には、かつてオスマン・トルコ帝国のスルタンが住んでいたトプカプ宮殿の南に、ビザンツ帝国時代の大聖堂をモスクに改築したアヤソフィアとスルタン・アフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)がある。

また、ユスティニアヌス大帝が建設させた地下宮殿(地下貯水槽=バシリカ・シスタン)もある。広場は南のブルーモスクと北のアヤソフィアの中間地点に位置しており、双方を見学する多数の観光客が一時休憩する場所なのである。

 このようなイスタンブール第1の観光スポットをISがテロ攻撃のターゲットとしたとすれば、恐らく巷間言われているようなISの領域支配重視から海外テロ重視への戦術変更の意図があるのだろう。

それはつまり、「カリフ国」の領域が有志連合やロシアの空爆とイラク政府軍やクルド人武装勢力の攻勢の前に昨年来大きく狭まったため、イラクとシリア両国内の各地における前線で劣勢に立たされたので、ISがアルカーイダの様な国際テロへと戦術を次第に変更しつつあるという見方が妥当らしいということである。

 特に昨年1113日にクルド自治政府治安部隊ペシュメルガによってイラク北部の要衝でISが迫害する少数派ヤズィーディー教徒の多いシンジャルを奪還されたことと、1229日までにイラク政府軍によって西部アンバール県の県都ラマーディーが解放されたことが、ISにとってイラク国内での戦闘遂行上の大きな打撃となっているのだろう。

 なぜなら、第1にシンジャルは、シリア北東部ハッサケからISが依然として占領するイラク北部の主要都市モースルに向かう重要な補給ルートを遮断する位置にあるからだ。そのため、ここをペシュメルガに抑えられてしまうと、ISがシリアからの後方支援上で使用可能なルートはシリア最北端の都市カミシュリ付近を経由するシリア6号線とイラク1号線を繋ぐ道路しか無くなってしまい、ISとしては戦闘員や物資のモースルへの供給がままならなくなってしまうからである。

 また、第2にラマーディーもシリアおよびヨルダンからバグダードへ向かう交通の要衝に位置しているため、ここをイラク政府軍に奪われてしまうと、ISが古代文明発祥の地であるメソポタミアの中枢部に進出することが事実上不可能になってしまうからである。

したがって、ISとしてはラマーディーを再度奪還しない限り、1258年のフレグの率いるモンゴル帝国軍侵攻によるアッバース朝滅亡以来の「カリフ国」を復活したという、歴史的かつ象徴的な成果を、ISがイスラーム世界に誇示することが出来なくなってしまうのである。

 実はイラクの首都バグダードでも111日にシーア派地区のショッピングモール等を狙った銃乱射と自爆テロが起き、51人が死亡し、90人以上が負傷した。この事件については、ISが犯行声明を即日ネット上に発表した。これは、スンナ派とシーア派の宗派間の緊張を激化させ、シーア派主導のハイダル・アル・アバーディー首相が率いるイラク中央政府に揺さぶりをかける意図が誰の目にも明らかであるため、ISも広報戦略上進んで自らの攻撃声明を出したのだろう。

 これに対してイスタンブールでの今回のテロ事件で、今のところIS側が沈黙を維持している意図は不明である。しかし、筆者の見るところ、トルコ国内でのISによるテロの意図は単に有志連合に参加するエルドアン政権を攻撃する目的だけではなく、アンカラの中央政府とクルド人反政府勢力の対立を煽る目的も併せ持っているため、むしろクルド人のテロ攻撃と見せかけようとしたのかもしれない。

 いずれにしても、欧亜のゲートウェイであるイスタンブールの歴史地区(ユネスコ世界文化遺産)で観光客を狙った無差別テロ攻撃は、究極のソフトターゲットを対象にしたものであることは間違いない。ゲートウェイの観光地襲撃による国際的衝撃度が極めて高い証拠に、ドイツ人観光客の他、韓国『中央日報』日本語版の記事では、韓国人の団体観光ツアー客1人も指に軽傷を負ったと報道されている。

韓国外交部はこの事件の結果を受けて、韓国民のイスタンブール渡航の際の注意勧告のレベルを引き上げる模様である。つまり、大きな衝撃を受けたのは複数の死者を出したドイツだけではないのである。日本人が今回の事件の現場に居合わせなかったのは、単なる偶然に過ぎないと考えて置くべきだろう。

ISのテロリストが本当に欧亜の関門に位置する地政学的要衝イスタンブールでトルコ当局の発表通り今回のテロ事件を起こしたとすれば、単にエルドアン政権に打撃を与えただけではなく、EUの中心国ドイツのメルケル首相にも政治的打撃を与えようと狡猾に考えた可能性すら否定できないだろう。その意味でも、今回の事件によって、ISによる国際テロの脅威度がさらに高まったことは否定しがたい事実であると筆者は思う。

2016年1月8日金曜日

サウジアラビアの在イエメン・イラン大使館空爆疑惑に関するダイアド理論的考察

 一昨日の投稿で、筆者は年初早々にイランとの国交断絶を引き起こしたサウジアラビア当局によるシーア派宗教指導者ニムル師の死刑執行について評価した。それは、イランに対して劣勢に追い込まれたと認識したサウジ側の安全保障のジレンマによる焦燥の観点から、イランやシーア派との対立激化をサウジが見越して緊張状態を敢えて引き起こしたという見方にも一定の妥当な政策的インプリケーションが含まれている事を指摘したことである。

 また、昨年サウジ国内で度々発生したISのテロと、このところ続いている原油価格の低水準(1バレル30ドル台)による深刻な財政逼迫状況に危機感を抱いたサウジが、国内引き締めのためのいわば陽動(diversionary)目的で敢えて強硬姿勢に打って出た可能性もあると分析した。

 こうした見方に立てば、JCPOA締結以来の対米関係改善により、サウジと対立するイラン側はいずれ地域覇権を自国が掌握できる優勢な立場にあると認識していると見ることも出来るので、イラン側が言わば余裕のある穏健な「大人の対応」をとる蓋然性が高いと筆者は考察していた。つまり、サウジとイランとの戦争には至らないと考えたのである。

 しかし、現地での緊張状態のエスカレーションは、それほど甘くは無かったようだ。すなわち、イラン政府は17日、サウジが空爆を続けているイエメンの首都サヌアにある自国の在イエメン大使館がサウジ空軍に「故意に」空爆されてミサイル(の一部?)が着弾し、大使館の建物が一部損傷を受けて警備担当者が負傷したと発表して、サウジを非難したからである。

 これは、イラン側がサウジとの対立の激化をむしろ煽る結果につながりかねない。筆者の見立てを覆す、両国の緊張状態をエスカレートさせる危険な外交をイランが選択したとも言えるだろう。

 このイラン側の非難(反撃)に対して、即座にサウジ側は信用できないと反論しながらも調査を約束した。その調査結果は勿論イランの主張は事実無根で、激しかったとされる6日の空爆作戦の対象に、当然のことながらイラン大使館は含まれていなかったというものであった。だが、大使館近辺への空爆は実施した模様であり、あるいは爆弾の破片がイラン大使館の建物を付随的に損傷させた可能性はあるのかもしれない。

 イランは、サウジ側の賠償責任を求めて国連(安保理か)に報告する対抗措置をとる模様である。きっかけはサウジ側のニムル師処刑であったが、今度はイラン側が敢えて強硬姿勢に打って出て反撃体制をとりつつある。

 そこで今日は、サウジとイラン両国間の、緊張エスカレーションの蓋然性について分析してみたい。筆者の見るところ、現時点で両国の間で戦争が勃発する危険性はあまり高くないものの、過去の実証的研究から見ると、この両国関係は相当程度Dangerous Dyads(戦争の蓋然性が高い「危険な一対の組み合わせ」)の事例に該当していると思われるからだ。

 19926月にJournal of Conflict Resolution, Vol. 36, No. 2に発表されたかなり古いものだが、戦争原因に関する実証研究に影響力を及ぼした研究成果として、ニューヨーク州立大学のスチュアート・ブレマーが書いた“Dangerous Dyads”という論文がある。

 この論文によると、詳細な論旨は省略するとして簡潔に結論だけを要約すると、1816年から1965年までの二国間の戦争データを統計分析した結果は次の通りであったと言う。

すなわち、当該期間に起こった戦争原因として二国間関係、つまりダイアドに影響を及ぼした要因としてその重要性を順位付けすると、第1に「隣接」(presence of contiguity)、第2に両国間の「同盟不存在」(absence of alliance)、第3に「経済的先進国で無いこと」(absence of more advanced economy)、第4に「民主的政治形態の不存在」(absence of democratic polity)が際立って重要であるというのだ。

つまり、ブレマーのダイアド実証研究による結果では、ウッドロウ・ウィルソン大統領が第1次世界大戦後に国際平和秩序の枠組みとして構築しようとした理想主義的な諸理念こそが、戦争回避のために最も重要な要素であるということが立証されたことになる。

 これに対して、ネオリアリストが常に強調するような相手に対する「相対的パワーの優位」や「大国の地位」といった物質的かつシステムの構造的な要因は、戦争原因(回避)に全く影響を及ぼさないと言うわけではないが、そのインパクトは上記4つの理想主義的な要因の半分以下の影響力を持っているに過ぎないというわけである。

 特にダイアドをなす二国が地理的に「隣接」していることの戦争を引き起こす要因としての影響力は際立って大きく、その意味でも、ハルフォード・マッキンダー以来提唱されてきた地政学を、今でも安全保障上十分に検討すべきとする有用性が示唆されている。

 また、ブレマーのダイアド研究の結果では、民主国家同士は戦争しないという、まさにカントやウィルソン流理想主義の帰結であるデモクラティック・ピース論もかなり戦争回避のために有用であることになる。したがって、この考え方に立てば、欧米が民主化のために非民主的な中東諸国に軍事介入することも、その費用対効果と国際的正統性の問題を別にすれば、少なくとも政策的指針としては是認されることになるかもしれない。

 そこで、今回対立が激化しているサウジとイランのダイアドを考察してみると、第1から第4の戦争を引き起こしやすい要因を全て兼ね備えていることは明らかだろう。つまり、今回のサウジとイランの緊張激化はまさしくデンジャラス・ダイアドにおいて起こった状態なのであり、この先両国がさらに紛争をエスカレートさせて戦争に至る蓋然性を全く否定してしまうことは出来ないという、恐ろしい現実を示唆しているわけである。

2016年1月6日水曜日

年初早々サウジとイランの対立激化で、報道と評論が乱立していることに関する感想

 年明け早々、中国株のCSI300指数が7%下落して、サーキットブレーカーの発動により大引けまで株式市場での取引が停止した。そうかと思えば、今日は北朝鮮が水爆実験に成功したと高らかに宣言した。2016年も日本を取り巻く安全保障問題はネタが尽きない様だ。

 他方ペルシャ湾岸では、サウジアラビア当局が、既に拘留していた扇動的なシーア派宗教指導者ニムル師をアルカイダ関係者らとともに死刑に処したことから、イランやイラクのシーア派住民たちの反発を招いてイランとの対立激化を引き起こした。

テヘランでは在イラン・サウジ大使館が暴徒に攻撃されるような緊張状態にあり、サウジは直ちにイランとの国交を断絶した。バハレーンやスーダンなどサウジと関係の深いスンナ派各国がイランのシーア派扇動と内政への介入を非難し、相次いで対イラン断交に踏み切っている。

今回のサウジによる急な強硬姿勢の提示については、即位から2年目を迎えたサルマーン国王とその息子であり副皇太子である強硬派のムハンマド国防相が仕組んだ、対イラン強硬姿勢の演出ではないかという見方がある。イラン国内で世論が沸騰し、各地でシーア派がサウジに反発することは、国王には事前に当然予想できたと思われるからだ。

あるいは同じ第三世代(アブドゥルアジーズ・イブン・サウード初代国王の孫)である現皇太子を飛び越して副皇太子への王位継承を確実にするための、将来の王家内での相続争いを見越した国王の一種の布石ではないかという観測もある。これは、80歳と高齢のサルマーン国王が、息子であるムハンマド副皇太子が目立つような対外的活躍の場を演出したという見立てである。

さらには、昨年来の原油価格の長期低落によって財政的に苦しむサウジとイランが結託して行った、原油価格吊り上げの茶番劇であると見る陰謀論まで出ている(私の見立てでは、この憶測は非常に根拠薄弱である)。

確かに原油価格が1バレルあたり30ドル台まで下落してもアメリカ国内のシェールガス・オイルの開発は絶え間ない技術進展で急速に進んでおり、サウジアラビアは早晩輸出されるシェールオイルへの対抗上、原油市場での低価格を維持してアメリカの生産者に打撃を加えるために、今のところ減産に踏み切れないのが現状である。

これがオイルマネーで潤ってきた近年のサウジアラビアの財政状況を非常に逼迫させており、このままの状態で原油安が続けば、あと数年内に外貨準備高が消失するとも言われている。原油安でサウジ同様の財政難に苦しんでいるのが、クリミアとウクライナ問題で欧米から経済制裁を受けているロシアである。ロシアもアメリカやサウジと並ぶ、日量1千万バレル以上を産出する大産油国なのである。

こうした状況にあって、従来のようにサウジアラビアがOPECのスイング・プロデューサーとして原油の生産調整を実施することが出来ないことから、現在の原油安の状態が続いているわけである。イランに対する国連と欧米の経済制裁がJCPOA(核問題最終合意)の予定通り早晩解除されれば、2016年内には昨年11月時点で日量288万バレルの産油国であるイランから、日量100万バレル増程度、原油が市場に追加供給されるかも知れない。

 だが、OPEC内で、イランの年内生産増を価格的に許容できる程度にサウジアラビアが協調減産に踏み切る見通しは、今のところない様子だ。これはイランにとっては、大きな不満材料となるだろう。今回のサウジの態度に対するイラン国内での強い反発の背景には、シーア派盟主としてのイランの立場を誇示する目的の他に、こうした経済的対立が背景に潜んでいる可能性はあるかも知れない。

 だが、筆者の見るところ、より本質的にはJCPOA提携以来、アメリカがイランと宗派間抗争と地域覇権をめぐって対立するサウジの国益よりもISとの対テロ戦争遂行におけるイランとの協調関係構築に優先順位を変えたという、アメリカの対サウジ同盟コミットメント(公約)の信憑性問題が原因ではないかと思う。アメリカに見捨てられる疑念(同盟のジレンマ)を抱いたサウジ側の、安全保障上の焦りが引き起こした今回の強硬姿勢の発現であると見るのが多分妥当な見方だろう。

 より理論的に言えば、中東で1979年のイラン・イスラーム革命以来35年以上続いてきたパワーバランスがJCPOA締結以来サウジ不利の方向に変動しつつあることが、サウジに安全保障のジレンマを起こしていると見ることが出来るかもしれない。

 安全保障政策上のインプリケーションとして、グローバルあるいは地域的なパワーの急激なシフトが戦争原因となる場合がある点は、科学的な因果関係を示すものではないにしても、一定の蓋然性を持って語られることは事実である。これは敵対国家の相互間に核抑止が効いている場合にも、通常兵器による先制攻撃を妨げないという点で妥当である(印パの武力衝突などが格好の事例である)。

 そして、現在のイランのようにパワーシフトで有利な立場に立った(と認識した)側が早晩自国が覇権が確立できることを見越して控えめな態度に終始し、逆にサウジアラビアのように勢力均衡上、不利な立場に追い込まれた(と認識した)側が、将来これ以上不利なポジションに置かれることを許容できなくなって、先制攻撃を積極的に仕掛けるケースも歴史上少なくないのである(例えば、日本の真珠湾攻撃など)

 そういう意味で、今回のイランやシーア派との対立激化をサウジアラビアが見越して緊張状態を敢えて引き起こしたという見方には、一定の政策的に妥当なインプリケーションが含まれている。

また、最近の財政難とISのテロによる国内不安を、サウジアラビアが対外的緊張を陽動的に引き起こすことで回避しようとしたとする、(diversionary theory的な)見方をすることも可能であるかもしれないと筆者は考える。

2015年12月31日木曜日

イラク政府軍ラマーディー奪還に関する考察

 1228日には、先の投稿で分析した「慰安婦問題」最終合意のほかにもう1つ、イラク情勢に関して大きなニュースが入った。それは、イラク政府軍が518日にIS(イスラーム国)によって奪われた西部スンナ派居住地区アンバール県の県都ラマーディーを約7か月ぶりに奪還したことである。ラマーディーは首都バグダードの西方約110kmのユーフラテス川両岸にまたがる戦略的要衝であり、シリアとヨルダン両国に向かう道路の要の地点に位置している。

 しかも、今回の作戦には331日の北部ティクリート奪還の際に起きたようなシーア派民兵によるスンナ派住民に対する略奪、暴行は起きなかった。今回の政府軍のラマーディー奪還作戦では、IS拠点に対する空爆で政府軍の攻勢を支援したアメリカの圧力によって、シーア派民兵は動員されなかったためである。したがって、シーア派民兵に対して強い影響力を持つイランのイスラーム革命防衛隊の奪還作戦への関与も多分なかったのだろう。

 政府軍はシーア派民兵に代わって地元のスンナ派部族を支援戦力として活用したようであり、動員した兵力は1万人以上だったらしく、市内に残存していたIS戦闘員がわずか300人程度だったと言われているから、圧倒的な政府軍兵力が西方に迂回してユーフラテス川を渡河することをISが結局阻止できなかったというのが戦況の推移だったようである。

IS戦闘員約300人は、多くの塹壕とトンネルに籠って防衛線を張り、主として狙撃で政府軍を迎撃する作戦を選択した模様だ。また、住民を人間の盾とし、地雷や仕掛け爆弾を設置するとともに、自爆攻撃を相次いで敢行して政府軍の進撃を阻止しようとしたらしい。これは、市街戦において極めて有効な戦術を、兵力劣勢なIS側が採ったものであろう。

したがって、政府軍は極めて慎重に包囲網を縮小しながら、1222日の攻勢開始から約1週間の時間をかけて市街中心部に攻め込んだものと見られる。この双方の戦いぶりから見ると、その圧倒的な兵力差から考えても、依然としてISの戦闘力はさほど弱まってはいないようだ。

 結局、ラマーディーからのIS駆逐に効果的だったのは、有志連合軍による従来以上の激しい空爆の実施であったのだろう。ロシア空軍による民間人の付随的損害を配慮しない対価値無差別爆撃ほどではないにしろ、最近の有志連合軍の空爆も相当に強化されたカウンター・フォース爆撃となってきたからである。

 そのため、ISは都市部に分散して塹壕に立て籠る消極作戦しか選択できなくなっている公算が大きい。かつて1千人以上のIS戦闘員がいたラマーディーでの兵力減少度から考えると、イラク国内の一部都市からは撤収する作戦をISが採り始めたのかもしれない。とすれば、来年2016年のイラクでの対IS戦線における勝敗の行方は、北部の主要都市モースルを政府軍が奪還できるかどうかにかかってくるだろう。

 ISとしても、北部の要衝モースルを仮にイラク政府軍やクルド民兵のペシュメルガの攻勢によって奪還されるようなことになれば、もはやイラク国内にとどまって活動を続けることは非常に困難になる。したがって、ISはラマーディーとは異なってモースルについては、絶対にこれを死守しようとするはずだ。来年の決戦は、恐らくモースルの攻防戦になると筆者は考えている。

 もし、イラク政府軍が来年モースルを無事奪還することに成功すれば、もはやISの宣言した「カリフ国」は事実上シリア国内だけに封じ込められることになるだろう。その後は、アメリカ主導の有志連合は、トルコとエジプトへの対IS作戦での支援を重点的に強化すべきではないかと筆者は考える。

 なぜなら、ISのみならずアサド政権擁護のために反体制派全体を無差別に攻撃しているロシアの軍事介入が既成事実化している以上、直ちにシリア情勢を改善する手立てが見当たらないからである。結局、IS「カリフ国」を消滅させることに成功したとしても、シリアは地中海沿岸部のアサド政権支配地域と南北に分断された反体制派支配地域、そしてトルコ国境沿いに長く伸びたクルド人自治区に三分割するしか妥当な解決策はないだろう。

 ロシアのシリア内戦介入は、直接的には自国のイスラーム過激派の活動を予防的に抑えることを第一の目的としているのかもしれない。だが、地政学的には、クリミア半島のセヴァストポリ軍港を基地とする黒海艦隊の唯一の地中海への進出(補給)拠点であるタルトゥース港の施設を確保する目的も重要だろう。

シリア内戦への介入をめぐってクリミアとウクライナ問題での欧米との対立を棚上げする目的がプーチン大統領にあるとすれば、セバストポリ軍港を失うことがロシアの黒海における制海権をNATO加盟国であるトルコに奪われることを同時に意味していることにもっと注目すべきだろう。NATO加盟国が東方にどんどん拡大している現状を阻止するためにも、ロシアとしてはセバストポリ軍港を有するクリミア半島を併合してしまう必要があるだろうし、その延長線上にタルトゥース軍港を持つシリアに軍事介入して自国の権益を確保する必要があったのかもしれないからだ。

 そこで、欧米としてはユーラシアのハートランドであるロシアのこれ以上の権益拡張を阻止するためにも、地政学上リムランドであり、かつ橋頭堡国家でもあるトルコ(重要な基地があり、ボスポラス海峡というチョークポイントがある)とエジプト(スエズ運河がある)をISの脅威から重点的に守るとともに、様々な内政上の問題を抱えるこの両国の体制を当面強化することを通じて、ロシアのシリア進出を牽制していく必要があるのではないだろうか。

*筆者は1月5日まで正月休みに入りますので、その間は投稿を中断します。

日韓「慰安婦問題」最終合意に関する地政学的考察

 1228日、日韓両国間のいわゆる歴史認識問題をめぐる争点の1つであった「慰安婦問題」について、両国の外相会談で最終的かつ不可逆的に解決する旨の合意に達したという報道がなされた。


その内容は、日本側が旧軍の関与を認めて首相が謝罪し、韓国側が設立する元慰安婦支援基金に対して10億円を拠出することで、事実上の補償を行う。これに対して、韓国側は北朝鮮系の反日市民団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が在韓日本国大使館前に設置した慰安婦少女像を撤去するとともに、慰安婦に対する補償問題を今後蒸し返さないということである。

 国内外の主要メディアではこの日韓「最終合意」について、「歴史的」であるとか「画期的」であると論評するものも多い。筆者から見れば、今年の「歴史的合意」といえば、714日にE3/EU+3(米英仏独露中とEU)とイランとの間でイラン核開発問題を最終的に解決するために結ばれたJCPOA、つまり「包括的共同行動計画」の合意が直ちに想起される。

だが、本当に年内に複数の「歴史的合意」が締結されたとすれば、2015年は、1月に湾岸戦争が起こり、7月にワルシャワ条約機構が解体し、そして12月にソ連邦が崩壊した1991年に匹敵するほどの後日驚嘆すべき1年であったということになるだろう。

 JCPOAについてはイランと鋭く対立するイスラエルのネタニヤフ首相が「歴史的過ち」であると論評したが、慰安婦問題最終合意についてもあるいは同様の論評ができるかもしれない。確かに今回の合意については日韓両国の従来の立場を維持しつつ、双方の利益を最大限に盛り込んだ内容となっている。

 例えば韓国側は、今回の合意で、1965年に締結された日韓請求権・経済協力協定で請求権問題を完全かつ最終的に解決したとする日本側から事実上の謝罪と補償を引き出すことに成功したし、日本側は韓国政府に大使館前慰安婦像撤去の努力義務(これが基金に対する日本政府の資金拠出の前提条件であるとして、今後韓国側に圧力をかけるだろう)を認めさせることに成功した。

 しかし、合意は何も文書化されていないし、双方の特に韓国側世論の動向次第では問題が再度蒸し返される恐れも否定できない。筆者の見るところ、韓国が中国と連携して国際社会に対して反日活動を続けているのは、慰安婦問題を含む歴史認識問題の点で中国と共通認識を持っているという情緒的問題よりも、むしろ韓国の逃れがたい地政学的位置によるものであると考える。

 ここで筆者が述べる地政学とは、英国のハルフォード・マッキンダーや米国のニコラス・スパイクマンが第二次世界大戦前に概念化した、アングロサクソン的なユーラシア内陸部(ハートランド)国家群と大陸縁辺部(リムランド)三日月地帯を挟んで島嶼海洋国家群との対立・相克関係を論じた一種の戦略的見方のことである。

 このユーラシア大陸を沖合から三日月状(アウター・クレッセント)に取り囲む島嶼海洋国家群には日英両国はもとより、アメリカ(南北米大陸)をも含んでいる。そして、ハートランドとは、背後に航行困難な北極海を置いているため、地理的必然として不凍港を求めて南下政策(拡張主義)をとらざるを得ないロシアのことを意味している。

 つまりアングロサクソン的地政学の視点に立てば、国際政治とはハートランドの大国ロシアのリムランドへの拡張政策を封じ込めようとして、英国や米国のような海洋国家群がリムランドの橋頭堡国家に対して基地と海軍のアクセスを確保しつつ、リムランド内部を支配下に置こうとする地域覇権国の台頭を阻止しようとする行動から導き出されることになる。

 19世紀のアフガニスタン等をめぐる英露間のグレートゲームや、冷戦期の米国のベトナム戦争やイラク戦争、その他の度重なった軍事介入はほとんどこの地政学的視点から説明できるだろう。そして、かつての朝鮮戦争もリムランドの橋頭堡国家南北朝鮮の支配権をめぐる内陸国家と海洋国家との間の争奪戦であった。

 注意すべき点は、今日既存の国際秩序に対する挑戦国と見なされている中国はロシアのようなハートランド国家ではなく、橋頭堡国家ではないがリムランド国家なのである。この点では、中国の地域覇権を目指す拡張主義的政策はかつての帝政あるいはナチス時代のドイツの東欧支配政策に極めて類似している。

 この見方が正しいとすれば、早晩アメリカは中国の地域覇権獲得を阻止するため、日豪など海洋国家群と連携して、また2度の世界大戦の経験を踏まえればハートランド国家ロシアとも連携して中国の勢力拡張を抑えようとするはずである。実際そうした動きは、最近観察されつつあると筆者は考える。

 世界大戦期のドイツの場合と中国のケースが異なるのは、中国が内陸に向かって勢力を拡張しようとするのではなく、むしろ南シナ海と東シナ海の海洋に向かって勢力圏を広げようとしていることであろう。そのため、海洋利権を重視する日米豪トライアングルとの対立が今後益々激化する危険性があると思われる。

 さて、その場合、朝鮮半島の橋頭堡国家である韓国は日米と中国の双方から強い圧力を受けることになるだろう。韓国にとっても対米同盟関係の維持は自国の生存にとって死活的価値を有しているといえるから、日米韓三国の連携を阻害しかねない歴史認識問題の早期解決を図れとアメリカから強い圧力を受けていることが予想される。

 安倍政権は、こうした韓国の弱い立場を利用して日本側が従来以上の一定の譲歩を示しつつ、歴史認識問題をめぐる韓国と中国との反日連携関係を分断しようと今回の合意に結びつけたのだろう。その意味では、中国の脅威をリムランドの橋頭堡国家であり、米中対立の最前線となりかねない緩衝地帯に位置している韓国よりも遥かに認識しにくい日本の優位な地政学的位置が、今回の日韓最終合意を生み出す要因となったともいえるだろう。

 ただ、韓国の弱い地政学的位置が、今後も中国と連携した歴史認識問題に関する反日行動を再燃させる蓋然性はかなりあると筆者は見ている。韓国政府が冷徹な地政学的戦略に基づいて日米中三国間のバランスを維持しようとしたとしても、情緒的な反日感情に流されやすい韓国内世論の「観衆費用」の大きさに引きずられて問題の蒸し返しを試みようとするかもしれない。この点だけは、日本政府も十分に考慮しておく必要があるだろう。

2015年12月18日金曜日

慶長20(1615)年大坂夏の陣における豊臣方の当初作戦に関する考察

 慶長191219日に締結された大坂冬の陣に関する徳川・豊臣双方の和睦合意の結果、よく知られているように大坂城の惣構と空堀は破却・埋め立てられ、二の丸、三の丸の水堀も埋め立てられて更地となり、太閤秀吉が築いた堅固な大坂城も全くの裸城にされてしまった。

 したがって、翌慶長20年に起きた夏の陣での東西再戦に当たって、大坂方はもはや前年の冬の陣の際に選択した籠城策を採れなくなり、野戦軍を城外に派遣して徳川勢を迎撃する作戦しか選択できなくなってしまった。

筆者が興味深く感じたのは、大久保彦左衛門の著書『三河物語』にあるように、大坂方が徳川勢の五畿内侵攻以前に、徳川方の補給地であった泉州堺のみならず、京都と奈良、さらに近江大津の三古都を焼き、瀬田川と宇治川の橋を焼き落として防衛線を張る作戦を実際に検討したらしいことである。このことは、利休七哲の1人で高名な茶人・文化人であった古田織部重然が豊臣方と内通して京放火を企てた嫌疑により、大坂落城後の611日に切腹を命じられた事実からも確かにあったと推定できるだろう。

 『三河物語』の記述によると、この大坂方の三都焼き討ち積極作戦案は大野主馬治房(大坂方の事実上の指揮官であった大野修理亮治長の次弟)と真田信繁、そして明石掃部全登らが提唱した作戦であったとされる。

 確かに真田左衛門佐信繁は前年冬の陣の際にも、籠城する前に宇治と瀬田に軍勢を進出させて、両河川を前に当てて防戦する積極策を提唱していたようであるから、籠城作戦がもはや不可能になった夏の陣に際して同じ積極策を再度主張したとも取ることができよう。

 結局、徳川家康が尾張名古屋城主の九男義直と浅野幸長息女との婚儀に出席するために44日に既に駿府を出発し、10日には名古屋城に到着していたため、419日には諸大名に対する大坂表への出陣を命じて迅速に畿内に進出できる態勢をとることができた。

 つまり、徳川方の進撃が早かったため、大坂方の三都焼き討ちと宇治瀬田防衛作戦は間に合わなくなったわけである。だが、もし徳川勢の出陣が当時遅延していた場合、大坂方ははるか遠方の近江にまで本当に進出して有効な防衛線を構築することが可能であったのだろうか。

 古来のわが国における戦史をひも解いてみても、瀬田川の最終防衛線を挟んで大海人皇子の反乱軍を迎え撃った壬申の乱での大友皇子の近江朝廷側や、治承寿永の乱の際に起きた木曽義仲勢の鎌倉勢迎撃、さらには承久の乱で後鳥羽上皇が派遣した京方の軍勢による鎌倉幕府軍迎撃の事例など、実際に瀬田川と宇治川に防衛体制を敷いた側が、比較的簡単に攻撃側に最終防衛ラインを突破されて脆くも崩れ去った事例は非常に多い。

 こうした過去の戦いでの防御の事例では、橋自体を焼き落とすことは余り無かったようであるが、橋板を外して敵が渡るのを困難にさせる作戦は多く採られたようである。だが、大坂夏の陣の際に検討された大坂方の当初作戦によると、大手側の瀬田川はもちろんのこと、搦め手に当たる宇治川でも橋を焼き落とす徹底策を取る心算であったようだ。

 こうなると、三都焼き討ちを含めて、現地住民の大坂方に対する反感は非常に激しくなったであろう。しかも、実際に大坂方が京都を焼き払うためには、まず二条城を攻撃して、当時所司代として現地に駐留していた板倉勝重を討ち取ってしまう必要があっただろう。

 徳川方のもう1つの畿内での拠点であった伏見城も同時に攻略しなければ、たとえ京都や奈良を焼き払うことに成功したとしても、宇治瀬田に進出した大坂方が自軍の背後を突かれる恐れがあるから、これにも成功しなければならない。当時大坂に残っていた豊臣勢の数を約5万人と見積もることにしても、その約半数は出陣しなければ三都焼き討ちと河川防衛作戦の成功は到底覚束なかったのではないだろうか。

 そうなると、作戦に失敗した場合のリスクは非常に大きく、恐らく大坂城南部の住吉や平野、あるいは阿倍野と天王寺近辺に徳川勢を引き付けて最終決戦に持ち込むその後実際に起きた展開は起こり得なかったかもしれないと、筆者は考える。

 夏の陣当時大坂に侵攻した徳川勢の構成は、大御所家康と将軍秀忠の率いた直属の旗本勢を除けば東国と五畿内の諸大名が率いる軍勢だけで、西国大名の軍勢は待機を命じられていた。そして、進撃路については、奈良を経て生駒山地東麓を南下して国分と藤井寺方面に抜ける大和口方面軍と、京都から淀川左岸を枚方経由で南下して平野方面に抜ける河内口方面軍とに分進する作戦を採った。

その結果、大坂方が実際に56日に実施した当初の迎撃作戦である道明寺合戦と八尾・若江合戦では、前者が大和口方面軍約3万人の徳川勢に対して山間を抜ける隘路で迎撃する作戦目的を持っていたし、後者は河内口方面軍約5万人の軍勢を河川堤防と湿地帯を利用して拘束することにより、敵軍の道明寺方面への進出を阻止する目的を持っていた。

 しかしながら、この遠方進出作戦はいずれも大坂方の兵力劣勢のために失敗に終わり、道明寺合戦では後藤又兵衛基次と薄田隼人正兼相が、八尾・若江合戦では木村長門守重成ら貴重な武将たちが戦死する大損害を被った。道明寺合戦では伊達政宗の軍勢の先鋒片倉重綱勢を真田信繁の軍勢が撃退して大坂方の敗軍の退路を開き、翌日の最終決戦を可能にしたものの、真田勢も信繁の長男大助幸昌が負傷するなど相当な損害を出して天王寺方面に撤退したようである。

 この例から考えても、宇治瀬田に軍勢を進出させる積極策は、兵力劣勢であった大坂方には極めてリスキーな作戦であったのではないだろうか。ただし、同じ兵力劣勢であったとしても、それまでの宇治瀬田防衛戦の事例とは異なって大坂方が鉄砲で武装していたことが戦況を変えた可能性はあるかもしれない。両河川の橋を焼き落とした上で、渡河してくる徳川勢の大軍を銃撃で阻止する作戦を真田信繁らは構想していたのかもしれない。

 確かにそれならば、あるいは防御側の大坂方が有利な状況を作ることが可能であったかもしれない。ただし筆者が思うに、その大前提として、大坂方が京都所司代を排除して二条城と御所を焼き払うことに成功した時点で、天皇(玉)の身柄を確保するとともに(伏見城をなるべく損傷の少ない状態で大坂方が攻略した後、同城に天皇を行幸させる案が最善策かと思う)、大軍である徳川勢が他の渡河地点に迂回することを阻止できるかどうかという点が、この積極策の成否を決めたのではないだろうか。