2016年1月20日水曜日

『中央公論』2月号特集「国立大学文系不要論を斬る」に関する感想

 『中央公論』2月号が、昨年68日付の各国立大学長宛て文科省通知で示された国立大学文系不要論に対する馳浩文科相へのインタビューと、反対派の文系学者3人の方の反論文を掲載している。筆者も当該問題には聊か興味があるので、さっそく講読してみた。今日は、その特集の文面から筆者が抱いた感想について述べてみたい。

 まず、反対派の3人の文系学者とは、滋賀大学学長の佐和隆光先生と九大大学院准教授で教育学者のエドワード・ヴィッカーズ氏、そして青山学院大学特任教授の猪木武徳先生である。筆者は寡聞にしてヴィッカーズ氏を存じ上げないが、佐和先生と猪木先生の御両名は大変高名な経済学者であるから、もちろん名前を存じ上げている。特に佐和先生は、国立大学文系不要論に反対する学者の急先鋒であると認識している。

 誌面の構成とは異なるが、まず私立高校国語教師でもあった馳大臣のインタビュー内容についての感想を述べよう。その前に、今回の国立大学文系不要論の出元が、安倍首相が自ら議長を務める「産業競争力会議」内での議論にある事は多分佐和先生の論考にあるように間違いないだろう。

 例えば猪木先生の論考の中では、安倍首相が20145月に行われたOECD本部閣僚理事会の席での議長国基調演説の中で日本の画一的教育制度に触れて、日本政府が「斬新な発想」を生むための教育改革を進めており、「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」と述べたことが引用されている。

 また、ヴィッカーズ氏の論考の中でも、昨年8月、文科相補佐官である鈴木寛氏が文系「廃止」の意図はないとする弁明として、「各大学が(中略)、減り続ける学生数および不可避の予算削減といった“市場動向”に応じてもらいたい、というのが政府としての意向だ」と主張したと述べられている。

 馳大臣はインタビューに答えて、「国立大学こそが地方創世の拠点」であるから、「今後も各都道府県に少なくとも1つずつ国立大学を残すような配慮は必要だと思っている。」としながらも、「国公私立の枠組みを超えた統廃合の検討も、視野に入れなければ。」と述べている。どうやら生産性を向上するためのイノベーションの観点から、成長戦略の一環として大学の企業との連携を進めていくというのが安倍政権の既定方針である様だ。

 この政府の方針自体については、少子高齢化の急速な進行に伴う18歳人口の激減、そして政府の財源不足による運営費交付金の継続的な削減の観点からも、国立大学の企業との連携や授業料の値上げは今後不可欠であると、筆者も考える。

 だが、生産性を向上させるイノベーションと大学教育を直結させるという、「産業競争力会議」の発想は聊か短絡的ではないか。現状では大学教育をいかに職業訓練校化しても、多分イノベーションは起こらないだろう。技術革新は、大学が学生教育でどれほど「実践的」にカリキュラムを再編したとしても、そんな簡単に起きるものではないはずだからだ。

 日本の(労働)生産性が低いのは、職務が不透明な伝統的な雇用環境による長時間労働が根強く残っていることが恐らく大きな要因の1つであろう。また、経済成長につながるイノベーションを起こすためには、単なる学部改変や看板の付け替え、戦略的な研究費の配分や就職支援の充実といった目先の措置だけでは不十分ではないか。

また研究費については、文科省の方針に沿って「努力」をした一部の有力大学だけではなく、逆に各大学へ広範に分配した方がかえって成果が上がるのではないかという、研究者の端くれとしての率直な疑問もあるからだ。

 馳大臣は文系で「廃止」を求めたのは、教員養成系学部のうち、学生に教員免許取得を義務付けていない所謂「ゼロ免課程」だけで、それ以外の文系学部は「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」だけを通知したに過ぎない、と答えている。つまり、誤解による社会の過剰反応を招いただけだから通知自体を撤回する理由は無い、ということなのだろう。

 だが、この「社会的要請の高い」という意味を、「成長に結びつく技術革新につながる」という意味に置き換えれば、それは結局文系軽視と理系強化の「産業協力会議」的な発想になってしまうことは明白であろう。

 筆者が思うに、日本の大学数が20154月現在で国公私立大学合わせて775もあること、そしてこの20年間で約250校も増えたという無節操な事態こそが解決すべき根本問題ではないか。こんな状態では特に地方の私大で定員割れが起きるのは必須であるし、大学が本来果たすべき高度なスキルを持った若年労働力を社会に還元する機能が衰えてしまうのは明らかではないだろうか。

そうでなくとも卒業が困難で学部生や院生時代にそれなりの努力と切磋琢磨が要請される欧米の各大学とは異なり、日本の大学は入試が難しいが卒業が容易であるのが実態だから、大学数が増大し過ぎると、いくら政府の提唱するような「社会の要請の高い」実践的な職業教育を学生に施すカリキュラム改善努力を重ねても、今後益々有為な人材を社会に輩出できなくなってしまうようになるだけだろう。大学数を大幅かつ抜本的に減らすべきだと、大学関係者の既得権益に敢えて挑戦するような意見を筆者は提唱してみたい。

国公私立を問わず大学数を大幅に削減すれば私大の定員割れはかなり防げるし、何より国家からの補助金負担が軽減されるだろう。その結果、国立大学の授業料値上げも緩和されることになるから、地方出身で必ずしも裕福では無い家庭に育った優秀な人材を将来のエリート層の中に取り込むことが可能になるだろう。

格差社会が進行しつつある現在の日本において、これは重要な意義を持っていると考える。全体の大学数を大幅削減して参入障壁を高くしても、貧困層からエリートに上昇できる余地を残しておくことこそが、将来のイノベーションにも結び付くのではないだろうか。

 政府側だけでなく、文系廃止論反対派の議論にも筆者には聊か首を傾げる点が少なくない。例えば前記の佐和隆光先生の反論についてだが、その趣旨は、人文社会系は人工知能(AI)に代替できない「思考力・判断力・表現力」と民主主義国家に不可欠な批判精神の育成を主に司る重要な研究・教育領域であるから、理系よりもむしろ文系に重点投資した方が世界大学ランキングも上がるだろうという見通しを提示することが主だった論点となっている。

 佐和先生によると、その証拠として、英仏等の欧米諸国では官僚や政治家を含むエリート層の優秀な人材が伝統的に哲学や歴史学など、人文知の教育を履修した者から多く輩出されていることが挙げられている。

 だが、筆者がまず疑問に思うのは、英仏など民主主義先進国は、日本などのアジア後進諸国に比べると急速な富国強兵の路線を歩む必要が無かったこと、さらには貴族階級が概ね残存したことが、文系の教養主義が工学中心の理系重視の国家的政策に圧倒されなかった原因ではなかったかという点である。

英仏両国の貴族層にとっては古典的教養こそがエリートの証であっただろうし、そもそも経済的に余力がある身分であったからこそエリート的な教養が身に付くのが実態だったと思われる。佐和先生が事例に挙げたドミニク・ド・ピルパン元仏首相は、まさしくそうした日本ではとっくに消滅した貴族層に属するエリートだろう。

また、英国のオックス・ブリッジ出身者らエリート層の多くも、イートン・カレッジに代表されるような名門パブリック・スクールに入学できるような特権階級に属しているのではないだろうか。こう考えると、佐和先生の提唱する文系重点投資案は、民主主義の強化につながるような批判精神の育成という側面よりも、むしろ英仏的な貴族主義や特権階級主義を強化すべきであるという、官僚主導を排して民主主義と分権化を推進すべきであるとする昨今の我が国の大きな流れとは、全く正反対の路線を日本に導入しろと言っているような気がしてくる。

これは、果たして筆者の単なる穿った見方に過ぎないのであろうか。あるいは文系廃止論反対派の議論が、東大や京大を中心とした官僚制や研究費配分における特権的な既得権益を擁護する議論に堕してしまわないか、筆者には逆に心配になってしまうのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』に関する当面の感想(大いなる違和感あり)

 1月17日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の第2回が放映されたので、筆者もこの放送を視聴してみた。ちなみにこの第2回放送は、天正101582)年3月上旬に起きた武田家滅亡と、甲斐から脱出した真田家人質一行の上州岩櫃城への逃避行が描写されていた。

 はっきり申し上げると、国内外戦史および城郭好きの筆者の目から見て、三谷幸喜氏脚本のこの『真田丸』は大いに期待はずれな内容であった。今後の内容修正を強く望みたい。

 この戦国屈指の悲劇の1つとも言える武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』が恐らく第1の基本史料であろう。ところが筆者の見るところ、三谷氏は武田家滅亡事件の脚本の内容を書くに当たって、この『信長公記』さえも綿密に読んでみた形跡が全く感じられない。歴史好きの大河ドラマ・ファンの1人としては、大いに首を捻る放送内容であったと言わざるを得ない。

 筆者の脚本に対する疑問点の大前提にあるのは、真田家の3人の主人公である安房守昌幸と長男源三郎信幸、そして肝心要である主人公源次郎信繁(天正10年当時はまだ元服前で幼名弁丸が正しいか)の人物造形と性格設定について、根本的な違和感がある点である。

 この点で参考となるのは、同じNHK19854月から863月にかけて水曜20時から45回に分けて放映した新大型時代劇第二作『真田太平記』であろう。この『真田太平記』は、筆者が大学4年生の時に特に楽しみに視聴した番組であった。

 この時代劇『真田太平記』の原作は、『鬼平犯科帳』等の歴史・時代小説や評論家として活躍した池波正太郎の同名小説であり、真田の「草の者」(すなわち忍者)が徳川家康の暗殺計画に活躍するなど、荒唐無稽な所も多々あった。しかし、草の者と徳川方に属する甲賀山中忍びとの暗闘は殺陣として非常に見所があったし、真田家一族の人物造形と合戦に至る戦略が細密で、戦場での戦闘場面は今から見れば技術的にチャチで滑稽なものだったが、ドラマの内容自体はとても面白かった。恐らく脚本が優れていたのだろう。

 『真田太平記』では、安房守昌幸は謀略に長けた武将であったがどこか人間的弱さを持った人物であって、故丹波哲郎氏がそのキャラクターに大変当てはまっていた。また、源三郎信幸は家族思いではあるが危機に際しては的確な戦略眼を持つ、10万石の近世大名として真田家を後世に存続せしめた統治者として優秀な人物として描かれており、これも演じていた渡瀬恒彦氏のイメージがとても良くマッチしていたと思う。

 そして、肝心要の主人公左衛門佐幸村(『真田太平記』ではこの講談風の実名であった)は、武勇に優れているが比較的冷静で温厚な人物として、『真田丸』では父昌幸を演じている草刈正雄氏が好演していた。この主人公「幸村」(正しくは信玄弟左馬助の実名にあやかってか「信繁」だが)については、兄信之が後年「左衛門佐は、ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」と評したように、史実では背丈は草刈氏のように高くはなく、容貌も残された肖像画から見るとモデルの様な好男子では全くない。

 また、史実の安房守昌幸の容貌については、やはり残された肖像画から見ると相当怪異な印象を受ける。怪異な肖像画としては、武田信玄弟で画家としても有名な逍遥軒信綱(信廉)が描いた出家姿の父武田信虎のものが筆者にはすぐ思い浮かぶが、一見好々爺風だがとんでもない謀略家であった真田昌幸の肖像画も相当奇怪なものだと思う。

 史実の昌幸は、関ヶ原合戦後に紀州九度山に配流されてからは経済的苦境から徳川家からの赦免を希うだけの弱々しい老人となってしまったらしい。ところが、『真田太平記』では、昌幸は豊臣と徳川両家の手切れを虎視眈々と待ち焦がれ、死ぬまで大坂籠城を夢見て「草の者」を駆使して情報収集に余念のない、謀略家のイメージのまま描写されていた。

これは史実の昌幸の実像とは全く異なるが、倅左衛門佐が、この亡父の無念を引き継いでその後の大坂の陣で大活躍する脚本の流れとなっていたから、当時は特に違和感なくこのドラマを視聴できたのである。

 真田家の対徳川における武勇の面を象徴的に造形していた昌幸と幸村父子とは対照的に、『真田太平記』での伊豆守信幸(関ヶ原合戦後、徳川家を憚って信之に改名)は、二代将軍徳川秀忠の憎悪に対して家の存続に苦慮する近世初期大名の苦悩をよく表現できていたから、これはこれで父弟との対照の妙が引き立っていて話の展開が面白かったと言えるだろう。

 ところが、今年の大河ドラマ『真田丸』では、草刈正雄氏演じる父昌幸がコミカルな人物として描かれている。これは史実から見ても、筆者には非常に違和感がある。それのみならず、言うまでもなく戦国時代の国衆妻女であったはずの昌幸の母と、京出身の上臈であったとも言われる正室山手殿までもが、有り得ないくらい現代女性として描かれてしまっている。

そのため、武田家の悲劇と真田一族の決死の逃避行のドラマ第2回最大の見せ場が、先の放映では全くの喜劇(もっと悪く言えば茶番劇)と化してしまったのである。史実では天正10年の武田家滅亡は、そんなお茶らけた現代風解釈を許容するものでは全くなく、阿鼻叫喚の地獄絵図であったはずだ。

 例えば『信長公記』によると、同年33日卯刻(午前5から7時)に四郎勝頼が妻子を引き連れて新府の館に火をかけて退去した際には、領内各所から集めていた多数の人質を押し込めて焼き殺したと記されている。人質たちの泣き悲しむ声が天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にならない程であったと太田牛一は記している。

これはまさに当時の甲斐国内の状況が阿鼻叫喚の地獄絵図に他ならなかったことを示すものであり、真田昌幸から徴収されていた人質らが勝頼による特別の配慮の下に仮に新府か古府中から当時脱出できたとしても、『真田丸』で描写されたような我儘な女性連れの一行による暢気なハイキングの様なものでは決してなかっただろう。

 所詮史実に拠らないドラマにおける創作した場面であったとしても、歴史上の悲劇についてはきちんと悲劇として描くべきであろうと筆者は考える。そうでなければ、滅亡した武田家一族の霊魂に対してとても失礼だし、ドラマとしても視聴者の率直な感動が薄れて決して面白くないだろう。

 脚本上、今後キーマンとならざるを得ない信幸と信繁の真田兄弟の人物造形についても、筆者は苦言を呈したい。『真田丸』第2回の放映を見る限り、どうやら三谷幸喜氏は兄信幸を堅実な堅物として、弟信繁をそれと対照的に軽妙洒脱でユーモアのある人物として描いていくつもりらしい。これには筆者は全く共感できない。

 かつて好評だった『真田太平記』における真田兄弟のイメージを覆そうというのが、あるいは三谷氏の狙いであるのかもしれない。だが、もしそうならば、今回の『真田丸』では、史実の信幸と信繁兄弟の人物像に依拠してキャラクターを造形していくべきではないだろうか。

 史実での兄伊豆守は、大坂の陣後、弟左衛門佐の下に参陣した領内の者たちを武家と百姓とを問わず厳しく詮議している。家中で大坂方に参陣した者については、それに連座してその家族を容赦なく処断した程であった。如何に信之が弟思いであったとしても、徳川幕府の厳しい落武者追及が継続していた段階では、真田家存続を維持するためにそうせざるを得なかったのだろう。

真田信之の領内ではあるいは年貢も重く、上級家臣たちの間で知行の削減に対する不満もあって帰農者が続出したとされる記録も残されている。真田家分家の沼田領では、信之の孫信直の代に検地をし直して、幕府に対して表高3万石を本家松代以上の144千石に過大申告して百姓たちに苛斂誅求を加えた。そうした暴政の結果、沼田真田家は幕府から改易されてしまった程なのである。

 つまり、筆者の見るところ、史実における真田信之は、かつて『真田太平記』で描かれたような温厚で家臣や領民思いの名君だったとは必ずしも言えず、むしろ父安房守昌幸以上に冷徹なリアリストであったに違いないと思う。そうでなければ、些細な理由で大名が容赦なく幕府に取り潰されていた近世初期に、父と弟が徳川家に何度も敵対した真田信之が家を存続させることは極めて難しかっただろう。

したがって、『真田丸』の人物造形においては、こうした冷徹なリアリストの兄信之と温厚寡黙で内に闘志を秘めた弟信繁像を対比させて話を展開させていった方が、今の喜劇路線よりも遥かに面白いのではないかと筆者は考える。

2016年1月15日金曜日

天正10(1582)年春、武田家滅亡に際しての勝頼の撤退判断に関する考察

 1月10日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の初回が放映された(筆者はこの放送を視聴していないが)。ちなみに第1回放送は、天正101582)年2月初めから3月上旬にかけて起きた、織田信長、徳川家康勢の甲信侵攻と武田家滅亡のシーン辺りからスタートしたということである。

 この武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』によると、信長が陣触れを発したのは同年23日のことであったらしい。したがって、美濃兼山城主の森勝蔵長可と団平八忠正の率いる織田勢先鋒が(岐阜を?)進発してから、わずか40日足らず後の短期間に東国でも特に強大な威勢を誇った武田の軍勢が総崩れとなり、新羅三郎源義光以来の甲斐源氏の名門武田家が呆気なく滅亡してしまったわけである。

311日に、武田勝頼が天目山麓の田野(甲斐大和から日川を大菩薩峠方面に遡った地)で滝川一益の率いる織田の追手に追い詰められ、37歳の若さで19歳の継室北条夫人(氏政妹)や16歳の嫡男信勝と共に自害に追い込まれてしまったため、この武田家滅亡は現在まで戦国史上の悲話として有名である。

 確実な史実としての武田家滅亡に至る簡単な経過は以上のとおりであるが、武田勝頼の軍勢が信州諏訪での防戦を諦め、諏訪郡の拠点上原城を引き払って真田昌幸が普請奉行として甲斐韮崎に築城中であったとも言われる新府城への撤退を決意したのは、228日のことであったとされている。

 実はこの2月末時点では、まだ、信長嫡男である織田信忠が率いた織田侵攻軍主力の上伊那高遠城攻めは開始されていない(史実では31日織田勢の包囲攻撃開始で、翌2日城主で勝頼異母弟の仁科盛信が自刃して落城した)。

高遠から諏訪湖岸に進出するためには杖突峠の険路を越えなければならないから、筆者が思うに、勝頼の諏訪郡からの撤退の判断が少し早すぎたきらいがあると考える。この時点では、劣勢の武田としては数千の残存兵力を以て杖突峠を固め、織田勢迎撃のための防御線をなお敷くことが可能だったのではないだろうか。

 勇将であった勝頼がこのような消極策を採った背景にはいくつか理由があったのだろうが、間の悪いことに織田勢信州侵攻(26日)から10日後の216日に浅間山が信長誕生年である天文31534)年以来、48年ぶりに噴火したことが武田勢の士気を大いに削いだのかもしれない。浅間山の久しぶりの噴火は、武田氏領国における不吉な神威の凶兆とも受け取ることが出来たのだろう。ちなみに新府に居た北条夫人は、219日に韮崎の武田八幡宮に、夫勝頼の武運長久を祈る悲痛な名文の願文を捧げている。

この北条夫人自筆の願文には、浅間山噴火と同日の216日の木曽路鳥居峠の戦いで、織田勢に支援された木曽義昌の軍勢に今福筑前守昌和らの武田勢が虚しく敗戦した悲嘆が率直に述べられている。彼女としても、当時それだけ切羽詰っていたのだろう。

ちなみに武田方有力部将の崩壊と脱落現象は、2月後半に五月雨式に起きている。例えば、217日に中将信忠の軍勢が飯田に布陣したのを知った勝頼の叔父武田信廉(逍遥軒信綱)が、下伊那防衛の拠点であった大島城の守備を放棄して勝手に甲州に撤退してしまったことや、駿河江尻城を守っていた穴山信君が225日に甲府に置いていた妻子を脱出させて逆心した事例が代表的だろう。武田親族衆の重鎮たちですら、この時点で勝頼を見限ったわけだからだ。

 恐らく、勝頼が諏訪郡を放棄して甲州への撤退を決断したのは、上記の様な諸事情による劣勢を考慮したためだろう。筆者の見立てでは、築城途上であった新府城での防戦は当初から想定しておらず、妻子と人質を収容した後、郡内の小山田信茂領内にある岩殿山に事前に構築して置いた要害に籠城するのが勝頼の最初からの予定であったのではないか。

 実際には、この計画は小山田の裏切りで国中と郡内の境目である笹子峠を封鎖されてしまったために貫徹することが不可能となり、やむなく勝頼ら一行は滝川一益勢の追及を逃れて日川を遡上し、大菩薩峠を越えて最終的には小菅方面に脱出しようと試みたものと筆者には思われる。武田勝頼一行を追跡した滝川勢に思いの外早く追いつかれてしまったのが、武田勝頼の誤算では無かっただろうか。

 真田家の話題に戻ると、諏訪からの武田勢の撤退が議論された228日の軍議の際に、昌幸は自分の勢力圏内にある上州吾妻郡の岩櫃城に入城することを勝頼に進言し、勝頼も一旦はその案に同調したと言う説がある。そのため、真田昌幸は228日、勝頼入城の準備のために先発して岩櫃城に帰還したとされている。だが、筆者にはどうもこの説は眉唾ではないかと思う。

 なぜなら、当時、織田信長の命を受けて関東口から武田領に侵攻する手はずを整えていた後北条氏の軍勢、つまり鉢形城主であった氏邦の率いる軍勢が東上野の沼田城を攻略しようと虎視眈々と狙っていたからだ。

つまり、当時上州では武田勢が後北条勢に対して圧倒的に優勢な状況であり、真田昌幸は岩櫃城を中心とした吾妻郡と沼田城を中心とした利根郡を事実上支配下に置くことに成功し、また本領である信州小県郡も戸石城を拠点に固めていたから、天正102月末の時点では最初から氏邦が率いる鉢形衆の侵攻に備えて岩櫃に入城していたのではないかと考えられるからだ。

 それに、勝頼がもし仮に当時岩櫃入城を諏訪で決断したとすれば、新府城に残っていた北条夫人たち妻子を見捨てることを意味していたし、甲府か新府に残っていた配下の部将らから集めておいた人質連中を収容することも不可能になっただろう。もしそうなれば、離反する部将がさらに続出する恐れも大きかったに違いない。

 したがって、勝頼の岩櫃入城を真田昌幸が当時進言したとする有名な説には、筆者はどうも納得できないのである。結果的には、天正10年に武田家が滅亡したため、真田家は上信三郡を支配する独立大名にのし上がることに成功したわけだ。そういった点を考えると、この時点で真田昌幸が自分の勢力圏内に武田勝頼を引き入れて圧倒的に優勢な織田勢に抗戦したとしても、真田家は武田家に殉じて共に滅亡した結果を招いただけだっただろう。

 昌幸が当時勝頼を迎え入れて織田勢の侵攻に徹底抗戦したとしても、せいぜい良くてその結末は、天正7年に結ばれた甲越同盟で勝頼異母妹の菊姫が上杉景勝正室として嫁いでいた縁を頼って、越後に亡命できたこと位であっただろう。もしそうなれば、真田家の既存領域支配が困難になったことは必定であろう。

 つまり、後に秀吉側が上杉景勝に宛てて「表裏比興の者」と評した文書を残したほどの策略家であった昌幸が、信玄に対してならばともかく、武田勝頼に対して共に滅亡することを選ぶほどの恩義を感じていたとは筆者には到底思えないのである。

 とはいえ、純粋に軍事的に考えれば、勝頼は郡内の岩殿城に籠城するよりも吾妻の岩櫃城に籠城した方が、当時遥かにその後の戦況を有利に展開することが可能であったと思う。

 なぜなら、岩殿城も岩櫃城も当時としては共に堅固を誇った山城であったことは間違いないが、大月の桂川北岸に聳え立つ独立した岩山に構築された岩殿城は山上の曲輪はどれも狭隘で、一旦防御を破られれば城兵が後方に逃れる術はほとんどない絶壁上に位置しているからだ。これでは、後詰の援軍到来が期待できなければ、大軍に取り囲まれたら10日も岩殿城に籠城できないのではないか。

 当時後北条氏は、勝頼が上杉景勝と締結した甲越同盟の結果、甲相同盟を破棄して織田信長に追随して関東口各方面に出兵していたから、勝頼が小山田信茂の裏切りに遭遇せず予定通り無事岩殿城に籠城できたとしても、早晩国中方面と上野原方面から侵攻してきた織田と北条両軍に挟撃されただろう。岩殿山に籠った場合、やはり武田家滅亡は時間の問題であり、結局回避することは不可能であったに違いない。勝頼としては、その場合武田氏の故国甲州の地で潔く最後の合戦に臨むことが出来る程度の時間が稼げただけだっただろう。

 それと比較すると吾妻川西岸に位置する岩櫃山中腹に築かれた岩櫃城は、城下の平沢集落への入り口である大手の不動沢を取り囲むように天狗の丸や柳沢城といった出丸が構築されている。こうした複合的に城下を守備するような出丸の配置は、真田氏本領である信州小県郡の拠点城郭である戸石城でも同様に見られることから、恐らく真田氏得意のゲリラ戦仕様であったのではないか。

 つまり、岩櫃城は複合的に置かれた各出丸に取り込まれた形の城下内部に敵の軍勢を引き入れて、その後臨機応変に軍勢を各出丸より繰り出して敵を翻弄しようとする、後の上田合戦でも見られたような真田昌幸得意の戦法に適した城郭であったと思われる。

 したがって、武田勝頼がもし仮に、天正102月末に甲斐の新府方面ではなく、諏訪から和田峠を越えて上田平の真田領を経由し(さらに上信境目の鳥居峠を越えて)吾妻郡の岩櫃に入城できた場合を考えると、東上野沼田領で真田氏が後北条氏に優勢を保っていた当時の戦況の下では、背後から挟撃されることがほぼ確実な郡内岩殿城のケースの様な危険も少なく、あるいは織田方に水の手を断たれない限り、武田勢有利にその後のゲリラ戦を織田勢に対して展開することが出来たのかもしれない。

 この真田昌幸が提案したとされる武田勝頼の岩櫃籠城作戦の今1つ有利な点は、戦況がどうにもならない位悪化した場合には、背後の草津温泉を抜けて志賀高原方面から武田と同盟関係にある上杉景勝の勢力圏であった北信地方の飯山方面に逃げ込む余地もあったと思われることである。ただし、その場合、甲斐に残してきた武田家の妻子と人質は見捨てることになるのは先に述べたとおりである。

 あるいは武田勝頼は案外家族思いの人情にもろい、当時の武将としては真田昌幸の様な冷徹なリアリストに徹しきれない正反対の性格であったために、天正10228日の滅亡間際の岐路に際して、諏訪から上州ではなく甲州への撤退の道を敢えて選んだのではないかとも筆者には思えるのであった。

2016年1月13日水曜日

1月12日午前に起きた、イスタンブール観光地での自爆テロに関する考察

 112日午前1020分頃、トルコ最大の都市であるイスタンブールの最も有名な観光名所であるスルタン・アフメット広場で自爆テロ攻撃が起こった。報道では、ドイツ人観光客10人が死亡し、ドイツ人複数を含む15人が負傷したと言う情報が流れた。トルコの治安当局は、シリア国籍を持つISテロリストによる犯行と断定している。しかし、現在までのところ、IS側の犯行声明は確認されていないようである。

 イスタンブールは言うまでもなく、ドイツ人のみならず日本人にも非常に人気の高い観光都市である。特に今回テロの起きたスルタン・アフメット地区は、ボスポラス海峡を挟んだ西の欧州側金閣湾の南岸に位置する城壁で囲まれた旧市街中心部にある、イスタンブール第1の人気観光スポットである。

この歴史的、地政学的に欧州とアジアを結ぶゲートウェイであるイスタンブールの、まさにど真ん中の丘陵地帯にあるスルタン・アフメット地区には、かつてオスマン・トルコ帝国のスルタンが住んでいたトプカプ宮殿の南に、ビザンツ帝国時代の大聖堂をモスクに改築したアヤソフィアとスルタン・アフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)がある。

また、ユスティニアヌス大帝が建設させた地下宮殿(地下貯水槽=バシリカ・シスタン)もある。広場は南のブルーモスクと北のアヤソフィアの中間地点に位置しており、双方を見学する多数の観光客が一時休憩する場所なのである。

 このようなイスタンブール第1の観光スポットをISがテロ攻撃のターゲットとしたとすれば、恐らく巷間言われているようなISの領域支配重視から海外テロ重視への戦術変更の意図があるのだろう。

それはつまり、「カリフ国」の領域が有志連合やロシアの空爆とイラク政府軍やクルド人武装勢力の攻勢の前に昨年来大きく狭まったため、イラクとシリア両国内の各地における前線で劣勢に立たされたので、ISがアルカーイダの様な国際テロへと戦術を次第に変更しつつあるという見方が妥当らしいということである。

 特に昨年1113日にクルド自治政府治安部隊ペシュメルガによってイラク北部の要衝でISが迫害する少数派ヤズィーディー教徒の多いシンジャルを奪還されたことと、1229日までにイラク政府軍によって西部アンバール県の県都ラマーディーが解放されたことが、ISにとってイラク国内での戦闘遂行上の大きな打撃となっているのだろう。

 なぜなら、第1にシンジャルは、シリア北東部ハッサケからISが依然として占領するイラク北部の主要都市モースルに向かう重要な補給ルートを遮断する位置にあるからだ。そのため、ここをペシュメルガに抑えられてしまうと、ISがシリアからの後方支援上で使用可能なルートはシリア最北端の都市カミシュリ付近を経由するシリア6号線とイラク1号線を繋ぐ道路しか無くなってしまい、ISとしては戦闘員や物資のモースルへの供給がままならなくなってしまうからである。

 また、第2にラマーディーもシリアおよびヨルダンからバグダードへ向かう交通の要衝に位置しているため、ここをイラク政府軍に奪われてしまうと、ISが古代文明発祥の地であるメソポタミアの中枢部に進出することが事実上不可能になってしまうからである。

したがって、ISとしてはラマーディーを再度奪還しない限り、1258年のフレグの率いるモンゴル帝国軍侵攻によるアッバース朝滅亡以来の「カリフ国」を復活したという、歴史的かつ象徴的な成果を、ISがイスラーム世界に誇示することが出来なくなってしまうのである。

 実はイラクの首都バグダードでも111日にシーア派地区のショッピングモール等を狙った銃乱射と自爆テロが起き、51人が死亡し、90人以上が負傷した。この事件については、ISが犯行声明を即日ネット上に発表した。これは、スンナ派とシーア派の宗派間の緊張を激化させ、シーア派主導のハイダル・アル・アバーディー首相が率いるイラク中央政府に揺さぶりをかける意図が誰の目にも明らかであるため、ISも広報戦略上進んで自らの攻撃声明を出したのだろう。

 これに対してイスタンブールでの今回のテロ事件で、今のところIS側が沈黙を維持している意図は不明である。しかし、筆者の見るところ、トルコ国内でのISによるテロの意図は単に有志連合に参加するエルドアン政権を攻撃する目的だけではなく、アンカラの中央政府とクルド人反政府勢力の対立を煽る目的も併せ持っているため、むしろクルド人のテロ攻撃と見せかけようとしたのかもしれない。

 いずれにしても、欧亜のゲートウェイであるイスタンブールの歴史地区(ユネスコ世界文化遺産)で観光客を狙った無差別テロ攻撃は、究極のソフトターゲットを対象にしたものであることは間違いない。ゲートウェイの観光地襲撃による国際的衝撃度が極めて高い証拠に、ドイツ人観光客の他、韓国『中央日報』日本語版の記事では、韓国人の団体観光ツアー客1人も指に軽傷を負ったと報道されている。

韓国外交部はこの事件の結果を受けて、韓国民のイスタンブール渡航の際の注意勧告のレベルを引き上げる模様である。つまり、大きな衝撃を受けたのは複数の死者を出したドイツだけではないのである。日本人が今回の事件の現場に居合わせなかったのは、単なる偶然に過ぎないと考えて置くべきだろう。

ISのテロリストが本当に欧亜の関門に位置する地政学的要衝イスタンブールでトルコ当局の発表通り今回のテロ事件を起こしたとすれば、単にエルドアン政権に打撃を与えただけではなく、EUの中心国ドイツのメルケル首相にも政治的打撃を与えようと狡猾に考えた可能性すら否定できないだろう。その意味でも、今回の事件によって、ISによる国際テロの脅威度がさらに高まったことは否定しがたい事実であると筆者は思う。

2016年1月8日金曜日

サウジアラビアの在イエメン・イラン大使館空爆疑惑に関するダイアド理論的考察

 一昨日の投稿で、筆者は年初早々にイランとの国交断絶を引き起こしたサウジアラビア当局によるシーア派宗教指導者ニムル師の死刑執行について評価した。それは、イランに対して劣勢に追い込まれたと認識したサウジ側の安全保障のジレンマによる焦燥の観点から、イランやシーア派との対立激化をサウジが見越して緊張状態を敢えて引き起こしたという見方にも一定の妥当な政策的インプリケーションが含まれている事を指摘したことである。

 また、昨年サウジ国内で度々発生したISのテロと、このところ続いている原油価格の低水準(1バレル30ドル台)による深刻な財政逼迫状況に危機感を抱いたサウジが、国内引き締めのためのいわば陽動(diversionary)目的で敢えて強硬姿勢に打って出た可能性もあると分析した。

 こうした見方に立てば、JCPOA締結以来の対米関係改善により、サウジと対立するイラン側はいずれ地域覇権を自国が掌握できる優勢な立場にあると認識していると見ることも出来るので、イラン側が言わば余裕のある穏健な「大人の対応」をとる蓋然性が高いと筆者は考察していた。つまり、サウジとイランとの戦争には至らないと考えたのである。

 しかし、現地での緊張状態のエスカレーションは、それほど甘くは無かったようだ。すなわち、イラン政府は17日、サウジが空爆を続けているイエメンの首都サヌアにある自国の在イエメン大使館がサウジ空軍に「故意に」空爆されてミサイル(の一部?)が着弾し、大使館の建物が一部損傷を受けて警備担当者が負傷したと発表して、サウジを非難したからである。

 これは、イラン側がサウジとの対立の激化をむしろ煽る結果につながりかねない。筆者の見立てを覆す、両国の緊張状態をエスカレートさせる危険な外交をイランが選択したとも言えるだろう。

 このイラン側の非難(反撃)に対して、即座にサウジ側は信用できないと反論しながらも調査を約束した。その調査結果は勿論イランの主張は事実無根で、激しかったとされる6日の空爆作戦の対象に、当然のことながらイラン大使館は含まれていなかったというものであった。だが、大使館近辺への空爆は実施した模様であり、あるいは爆弾の破片がイラン大使館の建物を付随的に損傷させた可能性はあるのかもしれない。

 イランは、サウジ側の賠償責任を求めて国連(安保理か)に報告する対抗措置をとる模様である。きっかけはサウジ側のニムル師処刑であったが、今度はイラン側が敢えて強硬姿勢に打って出て反撃体制をとりつつある。

 そこで今日は、サウジとイラン両国間の、緊張エスカレーションの蓋然性について分析してみたい。筆者の見るところ、現時点で両国の間で戦争が勃発する危険性はあまり高くないものの、過去の実証的研究から見ると、この両国関係は相当程度Dangerous Dyads(戦争の蓋然性が高い「危険な一対の組み合わせ」)の事例に該当していると思われるからだ。

 19926月にJournal of Conflict Resolution, Vol. 36, No. 2に発表されたかなり古いものだが、戦争原因に関する実証研究に影響力を及ぼした研究成果として、ニューヨーク州立大学のスチュアート・ブレマーが書いた“Dangerous Dyads”という論文がある。

 この論文によると、詳細な論旨は省略するとして簡潔に結論だけを要約すると、1816年から1965年までの二国間の戦争データを統計分析した結果は次の通りであったと言う。

すなわち、当該期間に起こった戦争原因として二国間関係、つまりダイアドに影響を及ぼした要因としてその重要性を順位付けすると、第1に「隣接」(presence of contiguity)、第2に両国間の「同盟不存在」(absence of alliance)、第3に「経済的先進国で無いこと」(absence of more advanced economy)、第4に「民主的政治形態の不存在」(absence of democratic polity)が際立って重要であるというのだ。

つまり、ブレマーのダイアド実証研究による結果では、ウッドロウ・ウィルソン大統領が第1次世界大戦後に国際平和秩序の枠組みとして構築しようとした理想主義的な諸理念こそが、戦争回避のために最も重要な要素であるということが立証されたことになる。

 これに対して、ネオリアリストが常に強調するような相手に対する「相対的パワーの優位」や「大国の地位」といった物質的かつシステムの構造的な要因は、戦争原因(回避)に全く影響を及ぼさないと言うわけではないが、そのインパクトは上記4つの理想主義的な要因の半分以下の影響力を持っているに過ぎないというわけである。

 特にダイアドをなす二国が地理的に「隣接」していることの戦争を引き起こす要因としての影響力は際立って大きく、その意味でも、ハルフォード・マッキンダー以来提唱されてきた地政学を、今でも安全保障上十分に検討すべきとする有用性が示唆されている。

 また、ブレマーのダイアド研究の結果では、民主国家同士は戦争しないという、まさにカントやウィルソン流理想主義の帰結であるデモクラティック・ピース論もかなり戦争回避のために有用であることになる。したがって、この考え方に立てば、欧米が民主化のために非民主的な中東諸国に軍事介入することも、その費用対効果と国際的正統性の問題を別にすれば、少なくとも政策的指針としては是認されることになるかもしれない。

 そこで、今回対立が激化しているサウジとイランのダイアドを考察してみると、第1から第4の戦争を引き起こしやすい要因を全て兼ね備えていることは明らかだろう。つまり、今回のサウジとイランの緊張激化はまさしくデンジャラス・ダイアドにおいて起こった状態なのであり、この先両国がさらに紛争をエスカレートさせて戦争に至る蓋然性を全く否定してしまうことは出来ないという、恐ろしい現実を示唆しているわけである。

2016年1月6日水曜日

年初早々サウジとイランの対立激化で、報道と評論が乱立していることに関する感想

 年明け早々、中国株のCSI300指数が7%下落して、サーキットブレーカーの発動により大引けまで株式市場での取引が停止した。そうかと思えば、今日は北朝鮮が水爆実験に成功したと高らかに宣言した。2016年も日本を取り巻く安全保障問題はネタが尽きない様だ。

 他方ペルシャ湾岸では、サウジアラビア当局が、既に拘留していた扇動的なシーア派宗教指導者ニムル師をアルカイダ関係者らとともに死刑に処したことから、イランやイラクのシーア派住民たちの反発を招いてイランとの対立激化を引き起こした。

テヘランでは在イラン・サウジ大使館が暴徒に攻撃されるような緊張状態にあり、サウジは直ちにイランとの国交を断絶した。バハレーンやスーダンなどサウジと関係の深いスンナ派各国がイランのシーア派扇動と内政への介入を非難し、相次いで対イラン断交に踏み切っている。

今回のサウジによる急な強硬姿勢の提示については、即位から2年目を迎えたサルマーン国王とその息子であり副皇太子である強硬派のムハンマド国防相が仕組んだ、対イラン強硬姿勢の演出ではないかという見方がある。イラン国内で世論が沸騰し、各地でシーア派がサウジに反発することは、国王には事前に当然予想できたと思われるからだ。

あるいは同じ第三世代(アブドゥルアジーズ・イブン・サウード初代国王の孫)である現皇太子を飛び越して副皇太子への王位継承を確実にするための、将来の王家内での相続争いを見越した国王の一種の布石ではないかという観測もある。これは、80歳と高齢のサルマーン国王が、息子であるムハンマド副皇太子が目立つような対外的活躍の場を演出したという見立てである。

さらには、昨年来の原油価格の長期低落によって財政的に苦しむサウジとイランが結託して行った、原油価格吊り上げの茶番劇であると見る陰謀論まで出ている(私の見立てでは、この憶測は非常に根拠薄弱である)。

確かに原油価格が1バレルあたり30ドル台まで下落してもアメリカ国内のシェールガス・オイルの開発は絶え間ない技術進展で急速に進んでおり、サウジアラビアは早晩輸出されるシェールオイルへの対抗上、原油市場での低価格を維持してアメリカの生産者に打撃を加えるために、今のところ減産に踏み切れないのが現状である。

これがオイルマネーで潤ってきた近年のサウジアラビアの財政状況を非常に逼迫させており、このままの状態で原油安が続けば、あと数年内に外貨準備高が消失するとも言われている。原油安でサウジ同様の財政難に苦しんでいるのが、クリミアとウクライナ問題で欧米から経済制裁を受けているロシアである。ロシアもアメリカやサウジと並ぶ、日量1千万バレル以上を産出する大産油国なのである。

こうした状況にあって、従来のようにサウジアラビアがOPECのスイング・プロデューサーとして原油の生産調整を実施することが出来ないことから、現在の原油安の状態が続いているわけである。イランに対する国連と欧米の経済制裁がJCPOA(核問題最終合意)の予定通り早晩解除されれば、2016年内には昨年11月時点で日量288万バレルの産油国であるイランから、日量100万バレル増程度、原油が市場に追加供給されるかも知れない。

 だが、OPEC内で、イランの年内生産増を価格的に許容できる程度にサウジアラビアが協調減産に踏み切る見通しは、今のところない様子だ。これはイランにとっては、大きな不満材料となるだろう。今回のサウジの態度に対するイラン国内での強い反発の背景には、シーア派盟主としてのイランの立場を誇示する目的の他に、こうした経済的対立が背景に潜んでいる可能性はあるかも知れない。

 だが、筆者の見るところ、より本質的にはJCPOA提携以来、アメリカがイランと宗派間抗争と地域覇権をめぐって対立するサウジの国益よりもISとの対テロ戦争遂行におけるイランとの協調関係構築に優先順位を変えたという、アメリカの対サウジ同盟コミットメント(公約)の信憑性問題が原因ではないかと思う。アメリカに見捨てられる疑念(同盟のジレンマ)を抱いたサウジ側の、安全保障上の焦りが引き起こした今回の強硬姿勢の発現であると見るのが多分妥当な見方だろう。

 より理論的に言えば、中東で1979年のイラン・イスラーム革命以来35年以上続いてきたパワーバランスがJCPOA締結以来サウジ不利の方向に変動しつつあることが、サウジに安全保障のジレンマを起こしていると見ることが出来るかもしれない。

 安全保障政策上のインプリケーションとして、グローバルあるいは地域的なパワーの急激なシフトが戦争原因となる場合がある点は、科学的な因果関係を示すものではないにしても、一定の蓋然性を持って語られることは事実である。これは敵対国家の相互間に核抑止が効いている場合にも、通常兵器による先制攻撃を妨げないという点で妥当である(印パの武力衝突などが格好の事例である)。

 そして、現在のイランのようにパワーシフトで有利な立場に立った(と認識した)側が早晩自国が覇権が確立できることを見越して控えめな態度に終始し、逆にサウジアラビアのように勢力均衡上、不利な立場に追い込まれた(と認識した)側が、将来これ以上不利なポジションに置かれることを許容できなくなって、先制攻撃を積極的に仕掛けるケースも歴史上少なくないのである(例えば、日本の真珠湾攻撃など)

 そういう意味で、今回のイランやシーア派との対立激化をサウジアラビアが見越して緊張状態を敢えて引き起こしたという見方には、一定の政策的に妥当なインプリケーションが含まれている。

また、最近の財政難とISのテロによる国内不安を、サウジアラビアが対外的緊張を陽動的に引き起こすことで回避しようとしたとする、(diversionary theory的な)見方をすることも可能であるかもしれないと筆者は考える。

2015年12月31日木曜日

イラク政府軍ラマーディー奪還に関する考察

 1228日には、先の投稿で分析した「慰安婦問題」最終合意のほかにもう1つ、イラク情勢に関して大きなニュースが入った。それは、イラク政府軍が518日にIS(イスラーム国)によって奪われた西部スンナ派居住地区アンバール県の県都ラマーディーを約7か月ぶりに奪還したことである。ラマーディーは首都バグダードの西方約110kmのユーフラテス川両岸にまたがる戦略的要衝であり、シリアとヨルダン両国に向かう道路の要の地点に位置している。

 しかも、今回の作戦には331日の北部ティクリート奪還の際に起きたようなシーア派民兵によるスンナ派住民に対する略奪、暴行は起きなかった。今回の政府軍のラマーディー奪還作戦では、IS拠点に対する空爆で政府軍の攻勢を支援したアメリカの圧力によって、シーア派民兵は動員されなかったためである。したがって、シーア派民兵に対して強い影響力を持つイランのイスラーム革命防衛隊の奪還作戦への関与も多分なかったのだろう。

 政府軍はシーア派民兵に代わって地元のスンナ派部族を支援戦力として活用したようであり、動員した兵力は1万人以上だったらしく、市内に残存していたIS戦闘員がわずか300人程度だったと言われているから、圧倒的な政府軍兵力が西方に迂回してユーフラテス川を渡河することをISが結局阻止できなかったというのが戦況の推移だったようである。

IS戦闘員約300人は、多くの塹壕とトンネルに籠って防衛線を張り、主として狙撃で政府軍を迎撃する作戦を選択した模様だ。また、住民を人間の盾とし、地雷や仕掛け爆弾を設置するとともに、自爆攻撃を相次いで敢行して政府軍の進撃を阻止しようとしたらしい。これは、市街戦において極めて有効な戦術を、兵力劣勢なIS側が採ったものであろう。

したがって、政府軍は極めて慎重に包囲網を縮小しながら、1222日の攻勢開始から約1週間の時間をかけて市街中心部に攻め込んだものと見られる。この双方の戦いぶりから見ると、その圧倒的な兵力差から考えても、依然としてISの戦闘力はさほど弱まってはいないようだ。

 結局、ラマーディーからのIS駆逐に効果的だったのは、有志連合軍による従来以上の激しい空爆の実施であったのだろう。ロシア空軍による民間人の付随的損害を配慮しない対価値無差別爆撃ほどではないにしろ、最近の有志連合軍の空爆も相当に強化されたカウンター・フォース爆撃となってきたからである。

 そのため、ISは都市部に分散して塹壕に立て籠る消極作戦しか選択できなくなっている公算が大きい。かつて1千人以上のIS戦闘員がいたラマーディーでの兵力減少度から考えると、イラク国内の一部都市からは撤収する作戦をISが採り始めたのかもしれない。とすれば、来年2016年のイラクでの対IS戦線における勝敗の行方は、北部の主要都市モースルを政府軍が奪還できるかどうかにかかってくるだろう。

 ISとしても、北部の要衝モースルを仮にイラク政府軍やクルド民兵のペシュメルガの攻勢によって奪還されるようなことになれば、もはやイラク国内にとどまって活動を続けることは非常に困難になる。したがって、ISはラマーディーとは異なってモースルについては、絶対にこれを死守しようとするはずだ。来年の決戦は、恐らくモースルの攻防戦になると筆者は考えている。

 もし、イラク政府軍が来年モースルを無事奪還することに成功すれば、もはやISの宣言した「カリフ国」は事実上シリア国内だけに封じ込められることになるだろう。その後は、アメリカ主導の有志連合は、トルコとエジプトへの対IS作戦での支援を重点的に強化すべきではないかと筆者は考える。

 なぜなら、ISのみならずアサド政権擁護のために反体制派全体を無差別に攻撃しているロシアの軍事介入が既成事実化している以上、直ちにシリア情勢を改善する手立てが見当たらないからである。結局、IS「カリフ国」を消滅させることに成功したとしても、シリアは地中海沿岸部のアサド政権支配地域と南北に分断された反体制派支配地域、そしてトルコ国境沿いに長く伸びたクルド人自治区に三分割するしか妥当な解決策はないだろう。

 ロシアのシリア内戦介入は、直接的には自国のイスラーム過激派の活動を予防的に抑えることを第一の目的としているのかもしれない。だが、地政学的には、クリミア半島のセヴァストポリ軍港を基地とする黒海艦隊の唯一の地中海への進出(補給)拠点であるタルトゥース港の施設を確保する目的も重要だろう。

シリア内戦への介入をめぐってクリミアとウクライナ問題での欧米との対立を棚上げする目的がプーチン大統領にあるとすれば、セバストポリ軍港を失うことがロシアの黒海における制海権をNATO加盟国であるトルコに奪われることを同時に意味していることにもっと注目すべきだろう。NATO加盟国が東方にどんどん拡大している現状を阻止するためにも、ロシアとしてはセバストポリ軍港を有するクリミア半島を併合してしまう必要があるだろうし、その延長線上にタルトゥース軍港を持つシリアに軍事介入して自国の権益を確保する必要があったのかもしれないからだ。

 そこで、欧米としてはユーラシアのハートランドであるロシアのこれ以上の権益拡張を阻止するためにも、地政学上リムランドであり、かつ橋頭堡国家でもあるトルコ(重要な基地があり、ボスポラス海峡というチョークポイントがある)とエジプト(スエズ運河がある)をISの脅威から重点的に守るとともに、様々な内政上の問題を抱えるこの両国の体制を当面強化することを通じて、ロシアのシリア進出を牽制していく必要があるのではないだろうか。

*筆者は1月5日まで正月休みに入りますので、その間は投稿を中断します。