2015年4月27日月曜日

日本史上の戦いに関する考察2.織田・徳川の同盟のジレンマ

 「同盟のジレンマ」とは、同盟関係に付随する「見捨てられる恐怖」と「巻き込まれる恐怖」との間で、同盟の当事者が抱くジレンマのことである。

 つまり、余りにも同盟関係を強化しすぎると他者の紛争に予期せず巻き込まれることになるし、その逆に、同盟に対する自分のコミットメントを弱めすぎると、自分が危機に直面した際に同盟者に見捨てられることになりかねない。

 同盟の当事者は、常にこの双方の恐怖を適切に均衡させることを配慮しなければならないのである。

  特に当事者のうち強者の側は、自分の利益に必ずしも直結しない他方の紛争に「巻き込まれる恐怖」をより強く感じるだろうし、その一方で弱者の側は、第三者との紛争が起きた時に強者に「見捨てられる恐怖」をより強く感じる傾向がある。

  アメリカの対イラン接近という中東政策転換は、強者の側の「巻き込まれる恐怖」を反映したものであるし、イスラエルやサウジアラビアがオバマ政権に対して示している反発は、弱者の側の「見捨てられる恐怖」が先鋭化したものと見ることができるだろう。

  日本史上の同盟関係においても、同様の「同盟のジレンマ」が観察できる。例えば、桶狭間の戦い後の織田信長と徳川家康は強固な同盟関係を築いていたとされるが、圧倒的強者である織田家と、弱者で属国に過ぎない徳川家の間には、今日の対米同盟のケースと類似するジレンマが観察される。

  一例として、家康は信長の出兵要請に応じて、元亀元(1570)年4月、越前朝倉攻めに従軍している。この時には、信長の妹お市の婿浅井長政が離反して退路を遮断したため、家康自身も金ヶ崎崩れの危機に遭遇している。

 その後も家康は、6月には報復攻撃の態勢を整えて岐阜を出撃した信長に従い、浅井・朝倉勢と姉川の戦いで一番合戦(先手)を勤めている。これだけ同盟者織田信長に奉仕しているのは、弱者の家康による「見捨てられる恐怖」が発現したものだろう。

 実際には、自分の領国の拡大につながらない対浅井・朝倉戦争に「巻き込まれる恐怖」もあったと思われるので、まさしく「同盟のジレンマ」である。

 しかし、こうした家康の同盟への積極的なコミットメントを信長が評価していたため、家康の領土拡張戦争である東の対武田戦線では、家康単独で勝利が望めない場面で信長の援軍にしばしば助けられている。

 元亀三(1572)年12月の三方ヶ原の戦い然り、天正三(1575)年5月の長篠の戦い然りである。特に、三方ヶ原の戦いでは、自ら無謀ともいえる会戦に打って出て手痛い敗北を喫したものの、家康が桶狭間の戦い後の今川氏真のように滅亡に至らなかったのは、超大国織田家にバンドワゴン(勝ち馬に乗ること、同盟締結の理由の1つ)していた結果に他ならない。

 このように、日本の戦国時代にも、今日の地域パワーが対米同盟関係の維持で感じるのと同様な、「同盟のジレンマ」があったのだ。

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