エイブラハム・リンカーン第16代合衆国大統領の奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説で有名な南北戦争は、世界最初の現代的な総力戦であった。例えば南北戦争における両軍の歩兵の主要装備は、ナポレオン戦争時代の滑空式前装マスケット銃から、前装または後装のライフル銃に進化した。ワーテルローの戦い当時のような重装騎兵の密集突撃は消滅して、銃で武装した軽装騎兵は専ら偵察と歩兵の側面防御に活躍するようになった。
そのため、1861年4月から65年4月まで足掛け4年間続いた南北戦争の後半には、日露戦争や第1次世界大戦を先取りしたような要塞構築と塹壕戦が恒常化したのであった。
その他にも、機関砲と連発銃の実用化、軍事的輸送手段としての鉄道の活用、海軍による港湾封鎖と水雷攻撃の有効性の証明、鋼鉄蒸気艦による水上戦と潜水艦の出現、野戦における通信手段や負傷兵の介護システムの発達、そして徴兵制による大規模動員の実施など、筆者が思いつくだけでも、航空機と戦車の出現以外の現代総力戦の諸要素が南北戦争時点でほぼ出揃っている感じがする。
そうかと思えば、南北戦争時点の野戦での歩兵戦術はナポレオン戦争時代を髣髴とさせる横隊による戦列歩兵の密集突撃が主体であったりしたため、両軍とも数万人規模で一度会戦した場合の戦死傷者の損害が1万人(20~30%)以上に上るような、悲惨な結果をしばしば招いたのであった。
南部連合軍(南軍)の戦力は合衆国連邦軍(北軍)より遥かに劣勢であったため、最終的には物量の差によって完敗したわけだが、これは先の大戦における日本軍の状況とよく似ていたと言えるかもしれない。
当時の南北両軍の戦力比較に関する資料を参照すると、人口や鉄道マイル数ではほぼ7対1で北部優勢、しかも南部の人口約910万人中黒人奴隷が350万人も含まれていたから、北部の2千万人以上の自由民人口とは人的資源の差において比較するべくもなかった。
製造業などの工業力ではさらに格差が開いており、9対1で北部優勢、武器製造能力に限定すればそれ以上の格差で、北部の絶対的優勢状態にあった。南部では、黒人奴隷の労働力に依存した原料綿花栽培とその輸出というプランテーション農業経済が主体で、主な物資は英仏など欧米諸国からの輸入に依存していたから、絶対的に優勢な合衆国海軍による南部連合海岸線にある港湾封鎖作戦によって、南部連合の経済はほぼ完全に干上がってしまう状態にあったわけだ。
この辺りの置かれた状態についても、太平洋戦争における日本と南部連合はよく似ていると言えるだろう。
小説と映画の話題になるが、南北戦争と言えば、アトランタ炎上のシーンで有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』であろう。
その映画の最初の方で、サウスカロライナ州チャールストンにあるサムター要塞に対するボーレガード将軍の率いる南軍の砲撃開始を契機とした両軍開戦の直後、ヒロインのスカーレット・オハラが愛している貴公子アシュレイ・ウィルクスの屋敷であるトウェルブ・オークスで開かれたバーベキュー・パーティの席で、南部の男性達が戦争について議論を交わすシーンが出てくる。
そのシーンでは、多くの男性が騎士道精神で勇ましい発言をする中、北部滞在経験のあるもう1人のヒーロー、レット・バトラーが「勇ましい言葉だけで戦争は勝てない。南部には砲兵工廠1つ無いが、北部には工場、造船所、炭鉱や南部を餓死させる海軍力がある」と、醒めた発言をして座を白けさせる場面がある。
アシュレイの発言はさほど勇ましくなく、戦争の大義には懐疑的だが、ヤンキーが南部の連邦離脱を妨害して攻めてくるなら、ジョージア州のために戦うと宣言する。
筆者が思うに、当時の南部人にとって、このアシュレイの発言に見られるようにあくまでもヤンキーの侵略に対する防衛戦争という大義が感じられていたのだろう。その点で、リンカーン大統領が奴隷解放を宣言する以前の北部の大義名分は「連邦の統一維持」といった比較的ぼやけた内容に過ぎず、ヤンキーが戦争を積極支持する程の実質は無かったものと言えるだろう。
戦争初期に北軍、特に首都ワシントンの防衛を担当した主力のポトマック軍が、常時兵力劣勢だったロバート・E・リー将軍の率いる南軍の北部ヴァージニア軍にしばしば翻弄されて敗北した1つの要因は、そうした大義名分の不明確さによる志願兵(いわば素人の民兵)たちの士気が十分に上がらなかったせいも有るのではないかと思う。
もちろん、よく言われるように南軍に参加した将軍たちの多く、例えばリーやジョセフ・E・ジョンストン、そしてトマス・J・(ストーンウォール)・ジャクソンらの能力が高く、北軍の将軍たちに優っていたことも1863年7月初め迄の南軍優勢の原因だったのは確かであろうが。
その南軍勝利の典型的戦闘が、1863年4月30日から5月6日にかけて、北軍フッカー将軍の率いるポトマック軍と南軍リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍の間に行われた、チャンセラーズヴィルの戦いであろう。しかし、この戦いの結果、リーの右腕であった勇将ストーンウォール・ジャクソンが5月10日に戦傷死してしまった。
つまり勝利した南軍の方も、取り返しのつかない程の手痛い損害を、チャンセラーズヴィルの戦いで蒙ったのであった。その後7月にゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いに南軍が連敗したため、南北戦争の戦況は北軍優勢に展開したと言われている。そこで次回の筆者の投稿では、この戦いにおける両軍の旧式戦術について考察してみたいと思う。
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