2016年1月20日水曜日

『中央公論』2月号特集「国立大学文系不要論を斬る」に関する感想

 『中央公論』2月号が、昨年68日付の各国立大学長宛て文科省通知で示された国立大学文系不要論に対する馳浩文科相へのインタビューと、反対派の文系学者3人の方の反論文を掲載している。筆者も当該問題には聊か興味があるので、さっそく講読してみた。今日は、その特集の文面から筆者が抱いた感想について述べてみたい。

 まず、反対派の3人の文系学者とは、滋賀大学学長の佐和隆光先生と九大大学院准教授で教育学者のエドワード・ヴィッカーズ氏、そして青山学院大学特任教授の猪木武徳先生である。筆者は寡聞にしてヴィッカーズ氏を存じ上げないが、佐和先生と猪木先生の御両名は大変高名な経済学者であるから、もちろん名前を存じ上げている。特に佐和先生は、国立大学文系不要論に反対する学者の急先鋒であると認識している。

 誌面の構成とは異なるが、まず私立高校国語教師でもあった馳大臣のインタビュー内容についての感想を述べよう。その前に、今回の国立大学文系不要論の出元が、安倍首相が自ら議長を務める「産業競争力会議」内での議論にある事は多分佐和先生の論考にあるように間違いないだろう。

 例えば猪木先生の論考の中では、安倍首相が20145月に行われたOECD本部閣僚理事会の席での議長国基調演説の中で日本の画一的教育制度に触れて、日本政府が「斬新な発想」を生むための教育改革を進めており、「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」と述べたことが引用されている。

 また、ヴィッカーズ氏の論考の中でも、昨年8月、文科相補佐官である鈴木寛氏が文系「廃止」の意図はないとする弁明として、「各大学が(中略)、減り続ける学生数および不可避の予算削減といった“市場動向”に応じてもらいたい、というのが政府としての意向だ」と主張したと述べられている。

 馳大臣はインタビューに答えて、「国立大学こそが地方創世の拠点」であるから、「今後も各都道府県に少なくとも1つずつ国立大学を残すような配慮は必要だと思っている。」としながらも、「国公私立の枠組みを超えた統廃合の検討も、視野に入れなければ。」と述べている。どうやら生産性を向上するためのイノベーションの観点から、成長戦略の一環として大学の企業との連携を進めていくというのが安倍政権の既定方針である様だ。

 この政府の方針自体については、少子高齢化の急速な進行に伴う18歳人口の激減、そして政府の財源不足による運営費交付金の継続的な削減の観点からも、国立大学の企業との連携や授業料の値上げは今後不可欠であると、筆者も考える。

 だが、生産性を向上させるイノベーションと大学教育を直結させるという、「産業競争力会議」の発想は聊か短絡的ではないか。現状では大学教育をいかに職業訓練校化しても、多分イノベーションは起こらないだろう。技術革新は、大学が学生教育でどれほど「実践的」にカリキュラムを再編したとしても、そんな簡単に起きるものではないはずだからだ。

 日本の(労働)生産性が低いのは、職務が不透明な伝統的な雇用環境による長時間労働が根強く残っていることが恐らく大きな要因の1つであろう。また、経済成長につながるイノベーションを起こすためには、単なる学部改変や看板の付け替え、戦略的な研究費の配分や就職支援の充実といった目先の措置だけでは不十分ではないか。

また研究費については、文科省の方針に沿って「努力」をした一部の有力大学だけではなく、逆に各大学へ広範に分配した方がかえって成果が上がるのではないかという、研究者の端くれとしての率直な疑問もあるからだ。

 馳大臣は文系で「廃止」を求めたのは、教員養成系学部のうち、学生に教員免許取得を義務付けていない所謂「ゼロ免課程」だけで、それ以外の文系学部は「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」だけを通知したに過ぎない、と答えている。つまり、誤解による社会の過剰反応を招いただけだから通知自体を撤回する理由は無い、ということなのだろう。

 だが、この「社会的要請の高い」という意味を、「成長に結びつく技術革新につながる」という意味に置き換えれば、それは結局文系軽視と理系強化の「産業協力会議」的な発想になってしまうことは明白であろう。

 筆者が思うに、日本の大学数が20154月現在で国公私立大学合わせて775もあること、そしてこの20年間で約250校も増えたという無節操な事態こそが解決すべき根本問題ではないか。こんな状態では特に地方の私大で定員割れが起きるのは必須であるし、大学が本来果たすべき高度なスキルを持った若年労働力を社会に還元する機能が衰えてしまうのは明らかではないだろうか。

そうでなくとも卒業が困難で学部生や院生時代にそれなりの努力と切磋琢磨が要請される欧米の各大学とは異なり、日本の大学は入試が難しいが卒業が容易であるのが実態だから、大学数が増大し過ぎると、いくら政府の提唱するような「社会の要請の高い」実践的な職業教育を学生に施すカリキュラム改善努力を重ねても、今後益々有為な人材を社会に輩出できなくなってしまうようになるだけだろう。大学数を大幅かつ抜本的に減らすべきだと、大学関係者の既得権益に敢えて挑戦するような意見を筆者は提唱してみたい。

国公私立を問わず大学数を大幅に削減すれば私大の定員割れはかなり防げるし、何より国家からの補助金負担が軽減されるだろう。その結果、国立大学の授業料値上げも緩和されることになるから、地方出身で必ずしも裕福では無い家庭に育った優秀な人材を将来のエリート層の中に取り込むことが可能になるだろう。

格差社会が進行しつつある現在の日本において、これは重要な意義を持っていると考える。全体の大学数を大幅削減して参入障壁を高くしても、貧困層からエリートに上昇できる余地を残しておくことこそが、将来のイノベーションにも結び付くのではないだろうか。

 政府側だけでなく、文系廃止論反対派の議論にも筆者には聊か首を傾げる点が少なくない。例えば前記の佐和隆光先生の反論についてだが、その趣旨は、人文社会系は人工知能(AI)に代替できない「思考力・判断力・表現力」と民主主義国家に不可欠な批判精神の育成を主に司る重要な研究・教育領域であるから、理系よりもむしろ文系に重点投資した方が世界大学ランキングも上がるだろうという見通しを提示することが主だった論点となっている。

 佐和先生によると、その証拠として、英仏等の欧米諸国では官僚や政治家を含むエリート層の優秀な人材が伝統的に哲学や歴史学など、人文知の教育を履修した者から多く輩出されていることが挙げられている。

 だが、筆者がまず疑問に思うのは、英仏など民主主義先進国は、日本などのアジア後進諸国に比べると急速な富国強兵の路線を歩む必要が無かったこと、さらには貴族階級が概ね残存したことが、文系の教養主義が工学中心の理系重視の国家的政策に圧倒されなかった原因ではなかったかという点である。

英仏両国の貴族層にとっては古典的教養こそがエリートの証であっただろうし、そもそも経済的に余力がある身分であったからこそエリート的な教養が身に付くのが実態だったと思われる。佐和先生が事例に挙げたドミニク・ド・ピルパン元仏首相は、まさしくそうした日本ではとっくに消滅した貴族層に属するエリートだろう。

また、英国のオックス・ブリッジ出身者らエリート層の多くも、イートン・カレッジに代表されるような名門パブリック・スクールに入学できるような特権階級に属しているのではないだろうか。こう考えると、佐和先生の提唱する文系重点投資案は、民主主義の強化につながるような批判精神の育成という側面よりも、むしろ英仏的な貴族主義や特権階級主義を強化すべきであるという、官僚主導を排して民主主義と分権化を推進すべきであるとする昨今の我が国の大きな流れとは、全く正反対の路線を日本に導入しろと言っているような気がしてくる。

これは、果たして筆者の単なる穿った見方に過ぎないのであろうか。あるいは文系廃止論反対派の議論が、東大や京大を中心とした官僚制や研究費配分における特権的な既得権益を擁護する議論に堕してしまわないか、筆者には逆に心配になってしまうのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』に関する当面の感想(大いなる違和感あり)

 1月17日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の第2回が放映されたので、筆者もこの放送を視聴してみた。ちなみにこの第2回放送は、天正101582)年3月上旬に起きた武田家滅亡と、甲斐から脱出した真田家人質一行の上州岩櫃城への逃避行が描写されていた。

 はっきり申し上げると、国内外戦史および城郭好きの筆者の目から見て、三谷幸喜氏脚本のこの『真田丸』は大いに期待はずれな内容であった。今後の内容修正を強く望みたい。

 この戦国屈指の悲劇の1つとも言える武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』が恐らく第1の基本史料であろう。ところが筆者の見るところ、三谷氏は武田家滅亡事件の脚本の内容を書くに当たって、この『信長公記』さえも綿密に読んでみた形跡が全く感じられない。歴史好きの大河ドラマ・ファンの1人としては、大いに首を捻る放送内容であったと言わざるを得ない。

 筆者の脚本に対する疑問点の大前提にあるのは、真田家の3人の主人公である安房守昌幸と長男源三郎信幸、そして肝心要である主人公源次郎信繁(天正10年当時はまだ元服前で幼名弁丸が正しいか)の人物造形と性格設定について、根本的な違和感がある点である。

 この点で参考となるのは、同じNHK19854月から863月にかけて水曜20時から45回に分けて放映した新大型時代劇第二作『真田太平記』であろう。この『真田太平記』は、筆者が大学4年生の時に特に楽しみに視聴した番組であった。

 この時代劇『真田太平記』の原作は、『鬼平犯科帳』等の歴史・時代小説や評論家として活躍した池波正太郎の同名小説であり、真田の「草の者」(すなわち忍者)が徳川家康の暗殺計画に活躍するなど、荒唐無稽な所も多々あった。しかし、草の者と徳川方に属する甲賀山中忍びとの暗闘は殺陣として非常に見所があったし、真田家一族の人物造形と合戦に至る戦略が細密で、戦場での戦闘場面は今から見れば技術的にチャチで滑稽なものだったが、ドラマの内容自体はとても面白かった。恐らく脚本が優れていたのだろう。

 『真田太平記』では、安房守昌幸は謀略に長けた武将であったがどこか人間的弱さを持った人物であって、故丹波哲郎氏がそのキャラクターに大変当てはまっていた。また、源三郎信幸は家族思いではあるが危機に際しては的確な戦略眼を持つ、10万石の近世大名として真田家を後世に存続せしめた統治者として優秀な人物として描かれており、これも演じていた渡瀬恒彦氏のイメージがとても良くマッチしていたと思う。

 そして、肝心要の主人公左衛門佐幸村(『真田太平記』ではこの講談風の実名であった)は、武勇に優れているが比較的冷静で温厚な人物として、『真田丸』では父昌幸を演じている草刈正雄氏が好演していた。この主人公「幸村」(正しくは信玄弟左馬助の実名にあやかってか「信繁」だが)については、兄信之が後年「左衛門佐は、ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」と評したように、史実では背丈は草刈氏のように高くはなく、容貌も残された肖像画から見るとモデルの様な好男子では全くない。

 また、史実の安房守昌幸の容貌については、やはり残された肖像画から見ると相当怪異な印象を受ける。怪異な肖像画としては、武田信玄弟で画家としても有名な逍遥軒信綱(信廉)が描いた出家姿の父武田信虎のものが筆者にはすぐ思い浮かぶが、一見好々爺風だがとんでもない謀略家であった真田昌幸の肖像画も相当奇怪なものだと思う。

 史実の昌幸は、関ヶ原合戦後に紀州九度山に配流されてからは経済的苦境から徳川家からの赦免を希うだけの弱々しい老人となってしまったらしい。ところが、『真田太平記』では、昌幸は豊臣と徳川両家の手切れを虎視眈々と待ち焦がれ、死ぬまで大坂籠城を夢見て「草の者」を駆使して情報収集に余念のない、謀略家のイメージのまま描写されていた。

これは史実の昌幸の実像とは全く異なるが、倅左衛門佐が、この亡父の無念を引き継いでその後の大坂の陣で大活躍する脚本の流れとなっていたから、当時は特に違和感なくこのドラマを視聴できたのである。

 真田家の対徳川における武勇の面を象徴的に造形していた昌幸と幸村父子とは対照的に、『真田太平記』での伊豆守信幸(関ヶ原合戦後、徳川家を憚って信之に改名)は、二代将軍徳川秀忠の憎悪に対して家の存続に苦慮する近世初期大名の苦悩をよく表現できていたから、これはこれで父弟との対照の妙が引き立っていて話の展開が面白かったと言えるだろう。

 ところが、今年の大河ドラマ『真田丸』では、草刈正雄氏演じる父昌幸がコミカルな人物として描かれている。これは史実から見ても、筆者には非常に違和感がある。それのみならず、言うまでもなく戦国時代の国衆妻女であったはずの昌幸の母と、京出身の上臈であったとも言われる正室山手殿までもが、有り得ないくらい現代女性として描かれてしまっている。

そのため、武田家の悲劇と真田一族の決死の逃避行のドラマ第2回最大の見せ場が、先の放映では全くの喜劇(もっと悪く言えば茶番劇)と化してしまったのである。史実では天正10年の武田家滅亡は、そんなお茶らけた現代風解釈を許容するものでは全くなく、阿鼻叫喚の地獄絵図であったはずだ。

 例えば『信長公記』によると、同年33日卯刻(午前5から7時)に四郎勝頼が妻子を引き連れて新府の館に火をかけて退去した際には、領内各所から集めていた多数の人質を押し込めて焼き殺したと記されている。人質たちの泣き悲しむ声が天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にならない程であったと太田牛一は記している。

これはまさに当時の甲斐国内の状況が阿鼻叫喚の地獄絵図に他ならなかったことを示すものであり、真田昌幸から徴収されていた人質らが勝頼による特別の配慮の下に仮に新府か古府中から当時脱出できたとしても、『真田丸』で描写されたような我儘な女性連れの一行による暢気なハイキングの様なものでは決してなかっただろう。

 所詮史実に拠らないドラマにおける創作した場面であったとしても、歴史上の悲劇についてはきちんと悲劇として描くべきであろうと筆者は考える。そうでなければ、滅亡した武田家一族の霊魂に対してとても失礼だし、ドラマとしても視聴者の率直な感動が薄れて決して面白くないだろう。

 脚本上、今後キーマンとならざるを得ない信幸と信繁の真田兄弟の人物造形についても、筆者は苦言を呈したい。『真田丸』第2回の放映を見る限り、どうやら三谷幸喜氏は兄信幸を堅実な堅物として、弟信繁をそれと対照的に軽妙洒脱でユーモアのある人物として描いていくつもりらしい。これには筆者は全く共感できない。

 かつて好評だった『真田太平記』における真田兄弟のイメージを覆そうというのが、あるいは三谷氏の狙いであるのかもしれない。だが、もしそうならば、今回の『真田丸』では、史実の信幸と信繁兄弟の人物像に依拠してキャラクターを造形していくべきではないだろうか。

 史実での兄伊豆守は、大坂の陣後、弟左衛門佐の下に参陣した領内の者たちを武家と百姓とを問わず厳しく詮議している。家中で大坂方に参陣した者については、それに連座してその家族を容赦なく処断した程であった。如何に信之が弟思いであったとしても、徳川幕府の厳しい落武者追及が継続していた段階では、真田家存続を維持するためにそうせざるを得なかったのだろう。

真田信之の領内ではあるいは年貢も重く、上級家臣たちの間で知行の削減に対する不満もあって帰農者が続出したとされる記録も残されている。真田家分家の沼田領では、信之の孫信直の代に検地をし直して、幕府に対して表高3万石を本家松代以上の144千石に過大申告して百姓たちに苛斂誅求を加えた。そうした暴政の結果、沼田真田家は幕府から改易されてしまった程なのである。

 つまり、筆者の見るところ、史実における真田信之は、かつて『真田太平記』で描かれたような温厚で家臣や領民思いの名君だったとは必ずしも言えず、むしろ父安房守昌幸以上に冷徹なリアリストであったに違いないと思う。そうでなければ、些細な理由で大名が容赦なく幕府に取り潰されていた近世初期に、父と弟が徳川家に何度も敵対した真田信之が家を存続させることは極めて難しかっただろう。

したがって、『真田丸』の人物造形においては、こうした冷徹なリアリストの兄信之と温厚寡黙で内に闘志を秘めた弟信繁像を対比させて話を展開させていった方が、今の喜劇路線よりも遥かに面白いのではないかと筆者は考える。