『中央公論』2月号が、昨年6月8日付の各国立大学長宛て文科省通知で示された国立大学文系不要論に対する馳浩文科相へのインタビューと、反対派の文系学者3人の方の反論文を掲載している。筆者も当該問題には聊か興味があるので、さっそく講読してみた。今日は、その特集の文面から筆者が抱いた感想について述べてみたい。
まず、反対派の3人の文系学者とは、滋賀大学学長の佐和隆光先生と九大大学院准教授で教育学者のエドワード・ヴィッカーズ氏、そして青山学院大学特任教授の猪木武徳先生である。筆者は寡聞にしてヴィッカーズ氏を存じ上げないが、佐和先生と猪木先生の御両名は大変高名な経済学者であるから、もちろん名前を存じ上げている。特に佐和先生は、国立大学文系不要論に反対する学者の急先鋒であると認識している。
誌面の構成とは異なるが、まず私立高校国語教師でもあった馳大臣のインタビュー内容についての感想を述べよう。その前に、今回の国立大学文系不要論の出元が、安倍首相が自ら議長を務める「産業競争力会議」内での議論にある事は多分佐和先生の論考にあるように間違いないだろう。
例えば猪木先生の論考の中では、安倍首相が2014年5月に行われたOECD本部閣僚理事会の席での議長国基調演説の中で日本の画一的教育制度に触れて、日本政府が「斬新な発想」を生むための教育改革を進めており、「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」と述べたことが引用されている。
また、ヴィッカーズ氏の論考の中でも、昨年8月、文科相補佐官である鈴木寛氏が文系「廃止」の意図はないとする弁明として、「各大学が(中略)、減り続ける学生数および不可避の予算削減といった“市場動向”に応じてもらいたい、というのが政府としての意向だ」と主張したと述べられている。
馳大臣はインタビューに答えて、「国立大学こそが地方創世の拠点」であるから、「今後も各都道府県に少なくとも1つずつ国立大学を残すような配慮は必要だと思っている。」としながらも、「国公私立の枠組みを超えた統廃合の検討も、視野に入れなければ。」と述べている。どうやら生産性を向上するためのイノベーションの観点から、成長戦略の一環として大学の企業との連携を進めていくというのが安倍政権の既定方針である様だ。
この政府の方針自体については、少子高齢化の急速な進行に伴う18歳人口の激減、そして政府の財源不足による運営費交付金の継続的な削減の観点からも、国立大学の企業との連携や授業料の値上げは今後不可欠であると、筆者も考える。
だが、生産性を向上させるイノベーションと大学教育を直結させるという、「産業競争力会議」の発想は聊か短絡的ではないか。現状では大学教育をいかに職業訓練校化しても、多分イノベーションは起こらないだろう。技術革新は、大学が学生教育でどれほど「実践的」にカリキュラムを再編したとしても、そんな簡単に起きるものではないはずだからだ。
日本の(労働)生産性が低いのは、職務が不透明な伝統的な雇用環境による長時間労働が根強く残っていることが恐らく大きな要因の1つであろう。また、経済成長につながるイノベーションを起こすためには、単なる学部改変や看板の付け替え、戦略的な研究費の配分や就職支援の充実といった目先の措置だけでは不十分ではないか。
また研究費については、文科省の方針に沿って「努力」をした一部の有力大学だけではなく、逆に各大学へ広範に分配した方がかえって成果が上がるのではないかという、研究者の端くれとしての率直な疑問もあるからだ。
馳大臣は文系で「廃止」を求めたのは、教員養成系学部のうち、学生に教員免許取得を義務付けていない所謂「ゼロ免課程」だけで、それ以外の文系学部は「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」だけを通知したに過ぎない、と答えている。つまり、誤解による社会の過剰反応を招いただけだから通知自体を撤回する理由は無い、ということなのだろう。
だが、この「社会的要請の高い」という意味を、「成長に結びつく技術革新につながる」という意味に置き換えれば、それは結局文系軽視と理系強化の「産業協力会議」的な発想になってしまうことは明白であろう。
筆者が思うに、日本の大学数が2015年4月現在で国公私立大学合わせて775もあること、そしてこの20年間で約250校も増えたという無節操な事態こそが解決すべき根本問題ではないか。こんな状態では特に地方の私大で定員割れが起きるのは必須であるし、大学が本来果たすべき高度なスキルを持った若年労働力を社会に還元する機能が衰えてしまうのは明らかではないだろうか。
そうでなくとも卒業が困難で学部生や院生時代にそれなりの努力と切磋琢磨が要請される欧米の各大学とは異なり、日本の大学は入試が難しいが卒業が容易であるのが実態だから、大学数が増大し過ぎると、いくら政府の提唱するような「社会の要請の高い」実践的な職業教育を学生に施すカリキュラム改善努力を重ねても、今後益々有為な人材を社会に輩出できなくなってしまうようになるだけだろう。大学数を大幅かつ抜本的に減らすべきだと、大学関係者の既得権益に敢えて挑戦するような意見を筆者は提唱してみたい。
国公私立を問わず大学数を大幅に削減すれば私大の定員割れはかなり防げるし、何より国家からの補助金負担が軽減されるだろう。その結果、国立大学の授業料値上げも緩和されることになるから、地方出身で必ずしも裕福では無い家庭に育った優秀な人材を将来のエリート層の中に取り込むことが可能になるだろう。
格差社会が進行しつつある現在の日本において、これは重要な意義を持っていると考える。全体の大学数を大幅削減して参入障壁を高くしても、貧困層からエリートに上昇できる余地を残しておくことこそが、将来のイノベーションにも結び付くのではないだろうか。
政府側だけでなく、文系廃止論反対派の議論にも筆者には聊か首を傾げる点が少なくない。例えば前記の佐和隆光先生の反論についてだが、その趣旨は、人文社会系は人工知能(AI)に代替できない「思考力・判断力・表現力」と民主主義国家に不可欠な批判精神の育成を主に司る重要な研究・教育領域であるから、理系よりもむしろ文系に重点投資した方が世界大学ランキングも上がるだろうという見通しを提示することが主だった論点となっている。
佐和先生によると、その証拠として、英仏等の欧米諸国では官僚や政治家を含むエリート層の優秀な人材が伝統的に哲学や歴史学など、人文知の教育を履修した者から多く輩出されていることが挙げられている。
だが、筆者がまず疑問に思うのは、英仏など民主主義先進国は、日本などのアジア後進諸国に比べると急速な富国強兵の路線を歩む必要が無かったこと、さらには貴族階級が概ね残存したことが、文系の教養主義が工学中心の理系重視の国家的政策に圧倒されなかった原因ではなかったかという点である。
英仏両国の貴族層にとっては古典的教養こそがエリートの証であっただろうし、そもそも経済的に余力がある身分であったからこそエリート的な教養が身に付くのが実態だったと思われる。佐和先生が事例に挙げたドミニク・ド・ピルパン元仏首相は、まさしくそうした日本ではとっくに消滅した貴族層に属するエリートだろう。
また、英国のオックス・ブリッジ出身者らエリート層の多くも、イートン・カレッジに代表されるような名門パブリック・スクールに入学できるような特権階級に属しているのではないだろうか。こう考えると、佐和先生の提唱する文系重点投資案は、民主主義の強化につながるような批判精神の育成という側面よりも、むしろ英仏的な貴族主義や特権階級主義を強化すべきであるという、官僚主導を排して民主主義と分権化を推進すべきであるとする昨今の我が国の大きな流れとは、全く正反対の路線を日本に導入しろと言っているような気がしてくる。
これは、果たして筆者の単なる穿った見方に過ぎないのであろうか。あるいは文系廃止論反対派の議論が、東大や京大を中心とした官僚制や研究費配分における特権的な既得権益を擁護する議論に堕してしまわないか、筆者には逆に心配になってしまうのである。