2015年6月19日金曜日

三大都市圏私立大学の入学定員超過分に対する、助成金減額の文科省方針に関する感想

先の投稿で筆者が分析を述べた国立大学文系学部及び大学院の廃止・転換に関する文科省の各国立大学法人への通知に続いて、6月18日、文科省は、入学定員を超過した三大都市圏の私立大学に対して、超過した学生数に応じて私学助成金を減額する方針を決定した。

 先に筆者が述べたとおり、地方国立大学の文系学部が廃止・転換されると、文系学部受験生の多くは企業への就職が容易である東京など大都市部の有名私立大学への入学を第一に目指すようになるだろう。文科省も同様の懸念を抱いており、現時点で学生の約65%が集中している三大都市圏の合計約3万3千人の定員オーバーを解消させ、約46%が定員割れを起こしている地方私大へ入学者を回帰させようという方針を示したものである。

 しかし、定員超過分に応じて助成金を減額するというやり方はいかにも無理やり感があり、決して妥当な政策とは言えないだろう。地方の国立大学の文系学部を廃止・転換させる方針を国が打ち出す以上、受験生としてはそれに代替する入学先として早慶など大都市の有名私大を第一に志望するのが人生の選択肢として至極当然である。その受験生の当然な希望を、地方の過疎化を防ぐために政策的に抑制しようというのはいただけない。

 そもそも筆者が入学した80年代前半のように一部の推薦を除いて私大入試が一般入試当日の一発勝負であった時代には、国立大学に抜ける分の合格者数を算定するのが困難であったため、私大が入学定員をきっちり守ることが困難であった。

 しかし、今は早慶両校などの有名私大でも少子化時代の入学定員確保(そして財政維持)策として、一般入試による入学定員数をどんどん削減して、各種推薦入試やAO入試による入学者数が増大しているのが現状である。

 日本の私大の抱える大問題は地方大学の定員割れだけではなく、こうした推薦やAO入試による入学者の学力不足問題も社会に大きな悪影響を及ぼしている。

 実際、推薦合格者数とAO入試による入学者数をコントロールすることは一般入試に比べて非常に容易であるから、文科省は定員超過分に応じた私学助成金削減などという効果があるかどうか不明の弥縫策などに頼らず、堂々と私学に入学定員を守らせるように通知するのが本筋の政策であろう。

 文科省が素直にそれをできないのは、入学定員数が私大の財源の大きな部分を占めている現状では、入学定員数を完全に守らせることが大都市の有力私大の大反発を招きかねないからだろう。

 したがって、文科省がむしろ早急に取り組むべきなのは、学力不十分な卒業生を大量に社会に送り込んでいるかもしれない現状の私立大学の推薦入試とAO入試を改革することの方であろう。その点で、基礎レベルと発展レベルの二段間で構想が進んでいる、日本版SATScholastic Assessment Test、つまり大学進学適性試験)とも言える所謂「達成度テスト」の制度構築を急ぐべきではないだろうか。

2015年6月17日水曜日

下村文科相の国立大学文系学部廃止・再編要請に関する分析

 6月8日、下村文部科学大臣が平成28年度から開始される国立大学改革プラン第3期中期目標計画の策定に関して、全国86の国立大学法人に対して教員養成系と人文社会科学系学部及び大学院の廃止と転換に取り組むことを通知した。今日はこの問題に関して、筆者の分析を述べたい。

 まず、全国各地の国立大学の文系学部を廃止、再編すべきと聞くといかにも唐突な感じがするが、文科省の意図するところはそれほど単純な話ではない。それは、全ての国立大学に対して来年度からの運営費交付金の重点配分策による財政誘導を通じて「ミッションの再定義」を行わせ、それを踏まえた組織改革を促す目的があるからだ。

 改革プランの工程表によると、平成25年から27年度の改革加速期間中に各国立大学のグローバル化とイノベーション機能の強化が定量的な指標等によって検証可能な形に明確化されると共に、学長が主導するガバナンス機能の強化や人事・給与システムの弾力化が進められることになっている。その結果、来年度から開始される第3期中期目標期間において、国際競争力のある高付加価値を生み出す国立大学に発展させる計画が謳われている。

 いわば従来の大学が担ってきた教養教育よりも、企業社会の要請である利益を直ぐに生み出せるような即戦力の特に理工系人材育成を重点に置く教育制度に大学を改革しようという意図が、今回の文科相の要請の背景にある。

 学長が主導するガバナンス機能強化や人事・給与システムの弾力化に関しても、文科省が国立大学に求めているのは企業的な経営合理化の手法を導入することに他ならない。

 問題は、グローバル化とイノベーション機能の強化の担い手となる大学が、「世界最高の教育研究の展開拠点」「全国的な教育研究拠点」、そして「地域活性化の中核的拠点」という3つの枠組みに類型化されたうちの、「世界最高の教育研究の展開拠点」と想定された旧七帝大と筑波大学の8大学に限定され、その8つの大学に運営費交付金が重点配分されそうな気配があることだろう。

 この8つの大学は、いずれも医学と理工系を中心とする研究大学である。その意味で、高付加価値を生み出すことに最も近い国立大学群であることに間違いない。他方、第3カテゴリーである「地域活性化の中核的拠点」は大都市圏を除く地方の国立大学の大部分が含まれると思われるが、これらの大学群に要請されているのは、地域のニーズに応じた人材育成拠点となることである。

 この点で思い起こされるのが、経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が提唱したグローバルな人材を育成する「G型」大学と、ローカルな人材に企業実務的な職業訓練を施すような「L型」大学に日本の大学を二分するという、文科省有識者懇談会での提言との考え方の類似性である。

 冨山氏の考え方は以下の通りだ。大学進学率が5割を超え大衆化した日本の大学教育ではほとんどの学生が卒業後職業人となり、研究者になるのはほんの一部に過ぎない。ところが日本の大学教育は伝統的な一般教養主義に基づいて行われており、それは従来の日本型正規雇用制度の下では職場特有の技能教育を大卒一括採用で入社した後のOJTで実施していたため特段問題とならなかった。

しかし、昨今のICT化やグローバル化の進展の結果、企業固有スキルよりも業界横断的な汎用性スキルに習熟した即戦力の人材を産業界は求めているため、企業単位のOJTに依存するよりも公共的な大学教育でそうした職業訓練的な教育を行った方が合理的かつ効率的である、というものだ。

特に地域経済の中心であるサービス業では、簿記や会計に代表される様なジョブ型の実学に長けた人材が求められており、その教育を企業ではなく地方大学に担って貰おうという考え方である。

 こうなると、地方大学のアカデミズムは今後否定されていくことに繋がりかねない。特に、少子化によってその存在意義が縮小している国立大学の教員養成系や、私立大学の教育によって十分代替可能である人文社会科学系の学部と大学院を廃止し、より実学的な学部と大学院に転換させるべきであるという結論が容易に導き出されるだろう。

 さらに、「地域活性化の中核的拠点」たる地方国立大学の位置づけよりもっと中途半端なのが、第2カテゴリーの「全国的な教育研究拠点」たる国立大学である。筆者が資料を参照してみたところ、この第2カテゴリーには大都市部の有名文系国立大学などが含まれているようだ。

このカテゴリーの大学群に要請されているのは、「世界最高の教育研究の展開拠点」たる研究大学に要請される様な最先端の研究成果実用化によるイノベーションの創出でも、「地域活性化の中核的拠点」たる地方国立大学に求められる職業訓練的な人材育成でもなく、大学や学部の枠を超えた連携拠点の形成ということだ。

 これは研究者の端くれである筆者の自分が考えても、最も実現困難な要請だろう。特に文系研究者の多くは自分の研究領域である比較的狭い世界に生息しているため、医学や理工系の研究者のような大学や学部の枠を超えた連携拠点を形成することなど、ほとんど想定の範囲外と言えるからだ。

 したがって、第2カテゴリーの大学群が今後最も存続の危機に見舞われるようになると、筆者は考えている。このカテゴリーに属すると思われる大学群の提示している「ミッションの再定義」案を見ても、具体的には学生に対する短期語学留学制度やアクティブラーニング(課題研究やプレゼンテーションなどの能動的学習)、ICT教育の充実などが謳われているだけで、それで国際あるいは全国規模の連携研究の拠点を作れるかどうかについては、筆者には甚だ疑問に思われる。むしろ、国内外から招聘する研究者に対して思い切った高待遇を提示できるような柔軟な予算措置を講じることなどが、連携拠点の形成には必要となるのではないだろうか。

 国立大学改革プラン第3期中期目標計画の行方は、大学だけでなく、入試を受ける受験生にも多大な影響を及ぼすだろう。地方出身の最も学力が高い受験生達は、旧帝大系の医学部や理工系学部を今後益々集中的に目指すようになるだろう。大都市部の有力文系国立大学と各地方国立大学は、日本の高度経済成長期に担ってきた企業エリート養成の役割を大都市部の有名私立大学にさらに代替されていくことが想定できる。

 そうなると、国立大学の医学系や理工系、文系では大都市部の有名私立大学の高い学費を支払うことのできる裕福な親に恵まれた一部の受験生達が、大学受験においてもなお一層有利な立場を築くのではないだろうか。学力格差と親の裕福度の相関関係が、日本でさらに強まると筆者は見立てている。

2015年6月14日日曜日

湊川の戦いでは、宮方の布陣に疑問が有ることについて

 建武3(1336)年3月2日の多々良浜の戦いで勝利した足利尊氏と直義兄弟は、3月3日から4月3日まで太宰府に逗留して再度の上洛の機会を窺っていた。この間、播磨の白旗城に籠城していた赤松円心と備前の三石城に籠城していた石橋和義から、それぞれ宮方の軍勢に攻められて兵糧の備えが無いので、両将に直ちに上洛して欲しいとの援軍要請が来たと『梅松論』は述べている。

 この時、白旗城は新田義貞の率いる軍勢に、三石城は義貞弟の脇屋義助の率いる軍勢に各々攻められていた。この要請を受け、尊氏らは4月3日大宰府を発進して再度の上洛に向かった。まず九州から長府に移動してしばらく逗留し、そこから船出したとされる。

 5月5日夕刻備後の鞆に到着し、尊氏らは再上洛の作戦を練った。その一案は、尊氏と直義の両将共に乗船し、四国九州勢が陸路を発向する案であり、また、両将共に陸路を発向する案、そして、全軍が水軍で進発する案がそれぞれ検討されたと言う。

 この重大な作戦方針は中々決まらなかった模様だが、最終的は少弐頼尚が播磨と備前の新田勢を追い落とすことが肝要であるから、船戦だけでは不十分である。よって、尊氏は水軍を率いて海路を、直義は陸路をそれぞれ発向すべきであると進言したため、この作戦案が採用された。

 5月16日と17日、直義勢は江田行義の籠城する備中福山城を攻撃し、これを陥落させた。直義勢はそのまま備前に攻め込んだため、三石城を攻撃していた脇屋義助の率いる軍勢は囲みを解いて撤退した。そのため、播磨の新田義貞の率いる軍勢も白旗城の包囲を解いて兵庫に退却し、迎撃態勢を再構築しようとしたのである。

 しかし、この時の宮方の布陣が筆者には納得できないのである。新田義貞は水軍を持っていなかった。そのため、足利勢の水軍に背後を遮断されることを恐れたのか、兵庫の和田岬に大館氏明の率いる別働隊を配置し、自らの本陣は福原の辺りに置いた模様だ。

 他方京都から派遣された援軍の楠木正成勢はわずか数百騎の小勢で、義貞本陣から西北に離れた会下山に布陣している。筆者が思うに、この布陣では新田勢と楠木勢の距離が離れ過ぎていて、双方の連携が取れず数に優る足利勢の攻撃で容易に分断されてしまうだろう。

 実際に5月25日の湊川の戦いの戦況でもその通りに推移したため、孤立した楠木勢は足利勢に包囲されてほぼ壊滅している。

 この合戦に臨む前、楠木正成は、後醍醐天皇に、足利尊氏と和睦し新田義貞を誅伐することを奏聞している。もしこれが事実とすれば、新田義貞は最初から援軍の楠木勢を頼りにしていなかっただろう。逆に楠木勢も、新田勢との連携を最初から期待しておらず、半ば玉砕覚悟で直義勢に立ち向かう覚悟で会下山に布陣したのではないだろうか。

 宮方の作戦ミスは、湊川を主たる防御ラインに置いたことだろう。ここは神戸市内では山際から海岸線まで最も開けたところで、大軍の敵を迎え撃つには適切な場所とは言えない。筆者が思うに、宮方は初めからもっと東側の生田の森を側面において、生田川に防御ラインを敷いた方が良かったのではないだろうか。

 生田川の防御ラインは、源平のいわゆる一の谷の戦いの際にも最も攻防が激しかった所で、それだけ土地が狭隘で大軍を迎え撃つには神戸付近では最適の場所であろう。

 海岸線と山が迫った狭隘の場所で少数の軍勢が大軍の敵を撃破した最も有名な戦例は、小アジアに侵攻したマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢がアケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオス3世の率いる数倍の大軍を撃破した、紀元前333年10月頃に起こったイッソスの戦いだろう。

 この時、自軍の背後を突かれたアレクサンドロスは転進して北上し、狭隘な地勢のピナロス川南岸に布陣して、北岸に布陣したダレイオス3世のペルシャの大軍を迎え撃って、自ら山際の右翼から主力のヘタイロイ(王の側近である封建領主層によって編成された重装)騎兵あるいは近衛歩兵部隊を率いて渡河攻撃し、一気にペルシャ軍を撃破している。

 生田川付近は、イッソスの戦いにおけるピナロス川周辺とよく似た地形だ。それ故、新田義貞は楠木正成の援軍と共に最初から生田川の東側の狭隘な土地に生田の森を側面において布陣し、むしろ足利勢の水軍を大輪田の泊に上陸させた上で迎撃した方が良かったのではないだろうか。

 もしもそういう布陣をしていたならば、新田義貞は主力部隊を率いて右翼の山際から生田川を渡河し、狭隘の土地に引き込まれた足利勢を背後から襲うことが可能だったのではないか。これは、イッソスの戦いにおけるアレクサンドロス大王の作戦と全く同じである。もっとも、当時のマケドニア軍は打撃戦力として優秀な騎兵部隊を持っていたため、こうした作戦が可能であったのかもしれない。

 湊川の戦い当時の宮方の軍勢に、それだけの打撃戦力があったのかどうかについては、なお検討の余地があると思われる。