2016年2月12日金曜日

宮崎謙介前衆議院議員の辞職会見に関する感想(その驚嘆すべき醜態の露呈について)

 党内根回しもない唐突な育休宣言でこのところ世間の注目を浴びていた自民党所属の宮崎謙介氏が、本日午前中に行われた記者会見で週刊『文春』今週号が報じた女性タレントとの京都市内自宅マンションでの先月末の不倫疑惑を事実であったと認め、政治家としての言行不一致の責任を取って本日議員を辞職する届け出を衆院議長に提出した。

 この宮崎氏なる男、学部は違えども筆者と同じ早稲田大学の卒業生であるそうだ。これほど恥ずかしいプライベートに関する記者会見を行った早大卒業生は、筆者の管見でも彼が初めてだろう。本当に恐れ入ったご人である。

 彼の会見を見ていて筆者が感じた点を、いくつか述べてみたい。まず、宮崎氏がいろいろと正直に不倫の事実を認めていたことは今回の会見を見ると確かであったが、その言動に真実味がほとんど窺われない点に筆者は大きな違和感を感じた。

彼は何だか事前に用意してきたメモを読んでいたが、早大を卒業している程度の記憶力があるなら、その程度のことは事前に暗記してしっかりと自分の言葉として咀嚼して述べるべきだろう。

例えば、あの号泣会見の醜態を曝した野々村氏でさえ、その発言内容は噴飯ものではあったが、筆者の記憶では、あの前代未聞の会見の際に野々村氏はメモを見ずに自分の言葉で語っていたと記憶している。それと比べても、今日の宮崎氏の言動については、彼の根本的な頭の悪さが筆者には感じられたのである。

 次に、新婚かつ出産間際の妻の目を盗んで女性タレントをナンパし、彼が不適切な関係に自ら誘っていたという点が筆者には到底信じられない暴挙である。しかも、妻と共に彼自身が自民党二階派に所属する衆院議員であった。その点、不貞行為を敢えて決行するに際して、彼の頭の中では、自分の公的立場や時期的な間の悪さといった問題に関して、一体どのように認識されていたのだろうか。これが筆者には全く理解不能であった。

この点について、彼本人が会見で述べていたように「欲に負けた」という事が事実であったならば、彼は自分の欲望を理性でコントロールできない動物と同様である。しかも、件の女性タレント以外にも同時期に同様な不適切な関係を、複数の女性と持っていたことを臭わせる言動が宮崎氏の言葉から見られた。これが事実とすれば、彼は深刻な依存症であろう。彼と家族は直ちに、何らかの病的問題がないかどうか、医者の判断を仰ぐべきだと思われる。

 第三に、現状の各政党の候補者公募制度が抱えている、深刻な機能不全の問題である。宮崎氏の様な地盤も鞄も看板もない落下傘候補を公募で選出するに当たって、その能力審査についてシステム上本質的に何らかの欠陥があったことが、今回の育休と不倫による宮崎前議員の辞職騒動で明らかに露呈されている。

 特に自民党に限らず、最近公募を通じて選出された12年生の若手議員一部の能力および人格における欠陥について、これほど低レベルの事態を招いたことが過去にあっただろうか。若手議員の低レベルが同程度に明らかになった事態は、多分先に述べた野々村氏の政務活動費の不適切処理(詐取疑惑)問題位しか、筆者には直ぐには記憶が浮かばない。

あるいはSNSを通じた情報伝達の速度と拡散が進化した昨今の政治状況においては、過去にはほとんど有権者の目に触れなかったために問題になり様の無かった政治家の欠陥が、次々と人目に曝される時代が到来したと言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、早稲田大学の先輩の1人として、宮崎氏の様なチャラ男を何とか同窓生の中から撲滅してもらいたいと切に願う。

  筆者は来週より論文作成のため、2月中の期間一時投稿を中断します。

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(2)

 先の投稿で述べたとおり、筆者の見解では寿永325日に起きた三草山合戦での敗北が、27日の福原(一の谷)合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。それは、この敗戦の結果、平家惣領家に次ぐ戦力を持っていたと思われる小松家の主力部隊が、事実上以後の対源氏戦線から離脱してしまったからである。

 その本質的な原因は、惣領清盛に先立って亡くなっていた内大臣重盛の子息たちに率いられていた小松家が、清盛正室二位尼時子の長子で正嫡であった内大臣宗盛の率いていた惣領家と平家都落ち前後の頃から微妙な対立関係にあったためであろう。

 もし重盛が内乱期まで生存していれば、小松家は惣領家に従属しない独立勢力として源氏に対抗していたかも知れない。この小松家と同様の立場は、清盛と忠盛死後の家督の座を争った池大納言頼盛のケースと似通っており、池家の勢力の場合は結局平家一門の都落ちには加わらず、平治の乱後に頼盛生母の池禅尼(忠盛正室)が頼朝の助命とその伊豆蛭が小島配流に助力した恩義に頼って、その後も京に残っていた。

つまり、当時平家の戦力は、源氏方の攻勢に対抗するに当たって必ずしも統合されていなかったのである。特に小松家では、左中将清経が寿永2310日に豊前柳ヶ浦で入水自殺していたし、既に一門の行動から離れていた重盛庶長子であった三位中将維盛も福原合戦後の328日に那智沖で入水自殺したほど、自家の前途を悲観していたわけだった。

 維盛乳父で平家の坂東支配と小松家戦力の中核であった上総介伊藤忠清も、平家有力家人であった平田入道家継(忠盛・清盛の「一ノ郎党」と称された筑後守平家貞の子)や出羽守平信兼(治承48月頼朝挙兵の際に伊豆山木館で討たれた判官兼高の父)とともに、この頃平家根拠地であった伊勢・伊賀両国で独自行動を取っていた。

その後、彼ら平家残党の勢力は一族を糾合して元暦元(1184)年夏、大規模な「三日平氏の乱」を起こして源氏方の伊賀国惣追捕使であった大内惟義の軍勢に大打撃を加えた。また、家貞の九州支配の地位を受け継いでいた肥後守貞能(家継弟)の勢力も九州に残っていたため、27日の福原(一の谷)合戦には参加していなかった。

 つまり、合計すれば惣領家に匹敵するような恐らく数千人の兵力を持っていたと考えられる小松家の戦力は、寿永32月の時点で全く糾合されておらず、重盛嫡男の新三位中将資盛が率いた残存戦力さえも三草山の合戦で崩壊してしまったため、その後壇ノ浦で平家一門が滅亡するに至るまでほとんど有効な戦力として機能しなかったと言えるだろう。

 そうした小松家勢力の脱落の結果、福原周辺の広大なエリアを要塞化していた平家方は、27日の合戦当日は相当な戦力不足の状態に陥っていたのではないか。特に丹波口からの源氏方の侵攻ルートが未だ明らかでない以上、福原と大輪田泊を防御するためには大手口であった生田の森方面(東の木戸口)だけではなく、鵯越の山手口と西方塩屋方面からの侵攻ルートであった須磨・一の谷口(西の木戸口)に防御戦力を相当割かねばならなかったはずであろう。

 そこで27日時点の平家側防御態勢について考察してみると、山手口の方が一の谷口より危険視されていたと思われる。なぜなら、鵯越方面から山手口の防衛線を源氏勢に突破されると、東西に分かれて守備態勢を取っている平家勢が福原周辺を挟んで分断されてしまうことになり、それは直ちに敗戦に繋がってしまうからである。

 そこで、既に山手口の守備に付いていた惣領家侍大将の越中前司平盛俊の軍勢に、清盛弟中納言教盛の息子であった中宮亮通盛と能登守教経の率いる門脇家の軍勢が援軍として増派された模様である。だが、その戦力は多分数百騎程度だったに違いないと思う。したがって、山手口で合戦当日に守備に付いていた平家方の戦力は、盛俊の軍勢を合わせても1千騎程度に過ぎなかったのではないかと筆者は考える。

 なぜなら、実際の合戦経過では、『玉葉』28日の記述によれば、前日7日辰刻(8時頃)から巳刻(10時頃)までの2時間程度の比較的短時間の戦いで源氏方の勝利に決着したとされるから、山手口が簡単に突破されたために福原の東西に布陣していた平家勢が一気に総崩れになったと考えられるからである。

 もしこの『玉葉』の記述が事実とすれば、山手口の平家方守備隊は源氏勢とほぼ同等程度の兵力に過ぎなかったと思われる。ほぼ同規模の軍勢ならば、鵯越の坂道を駆け下りてくる源氏勢が有利であったと考えられるからだ。そして、この方面の源氏方の主力部隊は『玉葉』によれば多田行綱の戦力であったと述べられている。

 これは先の投稿で述べたとおり、丹波口から侵攻した源氏方搦手部隊の戦力構成が、比較的少数の義経勢と、土地勘があって最有力の摂津源氏勢、そして甲斐源氏の安田義定勢の混成部隊であったと考えれば、山手口の攻撃主力部隊が摂津源氏勢であっただろうから頷ける妥当な所と言えるだろう。だが、『吾妻鏡』によると甲斐源氏安田勢に門脇家の教経が討ち取られたと交名が掲載されているから、あるいは安田義定も山手口を攻撃したのかもしれない。この辺りは全く不明である。

 ただ、7日の合戦当日、平家方西の木戸口の守備に付いた大将が忠盛六男であった薩摩守忠度の軍勢であったから、東の大手口の守備に付いていた惣領家の軍勢から戦力が補強されていたとしてもその兵力は少なく、多分数百騎程度に過ぎなかったのだろう。

 そのため、筆者の見立てでは、この西方の須磨・一の谷口の攻撃に向かった源氏方の大将は九郎義経の率いた数百騎程度の小勢だったにもかかわらず、山手口を先に破られて挟撃された結果、敢え無く平家方が敗退して忠度も戦死したのではなかっただろうか。

 そして、義経が鵯越の逆落としで平家方を一気に打ち破ったとする『平家物語』の記述のような劇的戦術は、恐らく合戦当日は取られなかったのではないか。つまり、この福原・一の谷合戦での平家方の主たる敗戦理由は、筆者の見立てでは、簡単に山手口の防衛ラインを突破されてしまったことにあるのだろう。

 さらに突き詰めて考察すれば、福原に直結するこの山手口を27日の合戦当日に短時間で平家方が源氏方に突破されてしまったのは、三草山の合戦に敗れて散り散りとなった小松家の主力部隊が参戦していなかったため、平家方が福原周辺の広大なエリアを守備し切るには深刻な兵力不足の状態に陥っていたことに有るのではないだろうか。

2016年2月10日水曜日

寿永3(1184)年2月7日時点での源平両軍の戦力構成と、合戦経過についての考察(1)

 源平両軍が東国と西国を往来して大規模な内戦を展開した治承・寿永の乱については、誇張と虚飾の多い『平家物語』などの軍記物や後世編纂された『吾妻鏡』の他には、信頼できる資料としては時の右大臣であった九条兼実の日記『玉葉』などの断片的情報から、その具体的展開と個々の合戦経過について頭を働かせて推測するしか方法が無い。

 したがって、寿永327日に起きた源義経の鵯越の逆落としによる劇的勝利で有名な一の谷合戦(正確には福原合戦と言うべきか)についても、その実像はほとんど明白ではない。だが、当時の京周辺の政治経済状況と動員された源平両軍の戦力構成については、筆者にもある程度推測することが可能であろう。そこで本投稿では、この点について考察してみたい。

 まず当時の京周辺(洛中洛外)の経済状況であるが、養和元(1181)年に起きた未曾有の大飢饉によって軍勢を動かすための兵糧がまだ不足していたと思われる。鴨長明の随筆『方丈記』によると、養和の飢饉当時、地方の農業生産に住民の消費生活を全く依存していた京には公領・荘園から年貢がほとんど流入しなくなり、そのため市中の死者は4万人以上であったと記されている。

 頼朝と対立していた源義仲は、寿永25月の砺波山の合戦で平家の追討軍を打ち破って同年7月、安徳天皇と三種の神器を擁した平家一門を都落ちに追いやって京を制圧していたが、その後閏101日の備中水島の戦いで平家軍に大敗して後退した。

義仲の軍勢は飢饉の影響による兵糧不足から強奪に走ったため、後白河法皇の率いた公家勢力に見放されて頼朝の上洛が促される結果を招いた。頼朝は東国で横領された荘園返還を条件に、自らの東海・東山両道諸国に対する事実上の支配権を朝廷に認めさせることに成功した(寿永210月宣旨)。これで頼朝は本位に復帰し、謀反人の地位から赦免されたのである。

この頼朝優遇措置に怒った義仲は、1119日法住寺合戦のクーデターの挙に出て法皇を幽閉したが、頼朝が鎌倉から派遣した九郎義経の率いる追討軍先発隊は、114日に既に美濃不破の関に到達していた。結局義仲は宇治瀬田の合戦で鎌倉勢に敗れて、寿永3121日、逃れた近江国粟津で討ち取られた。

 入京した鎌倉勢に対して、法皇は126日、既に瀬戸内海を制圧して九州・四国・中国地方で勢力を回復して福原まで進出し、2月(『玉葉』によると13日)には京に入洛しようとしていた平家の追討と、三種の神器の奪還を命じる頼朝宛宣旨を出している。平家没官領約500か所がその恩賞であった。ここまでが、一の谷・福原合戦直前の源平両軍の状況である。

 さてそこで、まず官軍となった源氏方の構成であるが、先発した義経が率いた軍勢は、恐らく摂津源氏多田行綱の軍勢と京に進出していたがその後義仲から離反した甲斐源氏安田義定の軍勢など、既に畿内近国で編成されていた軍勢が主体であったのではないだろうか。恐らくその兵力は、せいぜい1千騎といった程度に過ぎなかっただろう。

というのも、鎌倉から派遣された東国勢はその交名を見ると相模と武蔵両国の軍勢だけの様子で、房総や北関東の大名たちの率いた兵力は坂東に残置されたようである。したがって、頼朝代官範頼が率いた派遣軍の総兵力は、『玉葉』の記述によれば12千騎程度であった。

したがって、源氏方の平家追討軍の総兵力は多く見積もっても約3千騎ほどで、これは飢饉の影響が残る西国での軍事行動を維持するために後方支援が可能な最大規模の兵力と言えるのではないか。

 この3千騎の兵力を、範頼率いる大手軍が山陽道(播磨路)から、義経と義定(行綱も)率いる搦手軍が丹波路から、それぞれ進撃したのではないか。そう考えると、大手軍は約2千騎、搦手軍は約1千騎と言ったところが妥当な動員兵力だっただろう。

 その証拠として、法皇から福原への出撃を命じられた搦手軍は出陣に乗り気でなく、22日の段階(合戦5日前)に至っても、京西郊大江山(老いの坂)に滞留していたと言われている。あるいは、法皇の謀略で平家に油断させるため、和睦を命じる使者が合戦前日の26日に平宗盛の下に送られるのを義経らは待っていたのかもしれない。

 他方で範頼率いる大手軍は、27日を合戦開始(矢合せ)の日と定めて、4日に京を進発していたとされる。こちらは福原東方の生田の森方面から、平家主力部隊に正面攻撃を仕掛ける手はずであったはずだ。

 次に平家方の構成であるが、当時一族の惣領であった内大臣宗盛は、妹の建礼門院や安徳天皇を護持して大輪田泊に停泊していた御座船か軍船に居て、実際の合戦には参加していなかったらしい。したがって、清盛直轄の惣領家の主力部隊恐らく数千騎は、宗盛弟の新中納言知盛と本三位中将重衡が率いて生田の森の大手口に布陣し、堀や柵、逆茂木を設置して防御態勢を敷いていたようである。

 次に平家の防御態勢で重要だったのは、福原背後の山手、すなわち鵯越口であっただろう。こちらは三木方面に通じる重要な間道が通じていたし、丹波路方面の搦手から源氏の軍勢が来襲する場合、当然この方面から進出してくるはずだからだ。

したがって、平家方の作戦としては、播磨と丹波の境目にある三草山に内大臣故重盛子息の資盛らの率いる惣領家に次ぐ有力な戦力であった小松家の軍勢を布陣させ、前方で積極的に防御あるいは丹波路への逆進出を図ったのだろう。

だが、25日に、この小松家軍勢が義経らの軍勢に急襲(夜討ち)されて敢え無く敗退してしまった。三草山合戦での平家方の兵力は、源氏方の兵力とほぼ同等規模であったのではないだろうか。

 筆者の見解では、この三草山合戦での敗北が27日の合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。これ以降の分析については、長くなるので次回の投稿で改めて述べてみたいと思う。

日銀のマイナス金利政策導入が裏目に出て、円高・株安を招いた事態に関する感想

 昨日9日の東京債券市場では、長期金利の指標である新発10年物国債の利回りが日本史上初のマイナスとなったことが報じられた。また昨日来の東京株式市場では株価が急落し、日経平均株価が15千円を割った。さらには円高ドル安も進んで、東京外為市場では円ドル・レートが115円を割って、一時114円台前半まで急騰したと報じられている。

 普通に考えれば、日銀当座預金にマイナス金利が導入されれば、株価下落はともかく、円安方向に円ドル・レートがぶれることは想定の範囲内であったはずだ。筆者は経済アナリストではないが、頭を整理するために、今日は敢えてこの金融市場の混乱について考察してみたい。

 まず、日銀が129日の金融政策決定会合で、これまた我が国初の日銀当座預金残高の一部にマイナス金利(平たく言えば、銀行からの手数料徴収)を付する決定を行った背景には、よく言われるように中国経済の景気減速懸念や原油安を背景にした年明け以来の円高・株安傾向に歯止めをかける目的があったのだろう。

 つまり、黒田バズーカ第3弾の大規模な追加緩和策を出して以後の手玉が尽きることを黒田日銀総裁が恐れた結果、ECB(欧州中央銀行)の政策に倣って、異次元金融緩和の発動以来ブタ積みされる一方の日銀当座預金残高を銀行に吐き出させて、企業と個人に対する貸し出しに資金を回させることによって設備投資と消費を喚起するとともに、長期金利を下げて円安傾向を強化し株価を高めに誘導しようとしたのであろう。だが、最近の株式・債券および外為市場の動きを見ると、明らかにこの日銀の意図は裏目に出ているようだ。

 日銀が想定外であったのは、アメリカの景気見通しの悪化と原油安に起因する新興国および資源国経済の先行き不安が強すぎた結果、ドイツの銀行やアメリカのエネルギー企業への信用不安が高まり、28日の欧米株式市場で株価が下落するという事態が起きたことだろう。

 こうなると、日銀が当初想定していた日本国内市場だけの問題ではなくなり、グローバル化した世界中の投資家は、株価下落リスクの高い株式市場から一斉に資金を引き揚げて、比較的リスクの低い円や日本国債を購入する方向に大きく資金を移転させたのであろう。

 その結果、日銀がマイナス金利を導入したにもかかわらず、想定外の円高が引き起こされたのであろう。円高が加速すれば自動車などの輸出産業の収益が当然悪化するし、原油安の結果エネルギー産業の収益も悪化するから、そうした企業の株価が下落するリスクが高まる。

 また、銀行に目を向ければ、マイナス金利の導入で長期金利が下がれば貸出金利も下がって利ざやを稼げなくなり、収益が悪化する。現状のように景気の先行きが不透明なままでは、簡単に企業の設備投資は増えず、必ずしも銀行の貸出金利が下がったからといって貸し出しが増えるとは限らないだろう。その結果、日銀の目論見とは逆に、銀行の収益が悪化して銀行株もさらに下落していく恐れがある。

その上マイナス金利導入で日銀から当座預金残高の管理手数料を取られることになれば、銀行は安全な長期国債購入になお一層走ることになる。長期金利がマイナスに低下して国債価格が急騰しても、それを買っておけば満期までにいずれ日銀が高値で買い戻してくれるから、銀行としては安い貸出金利でわずかな利ざやを稼ぐよりはこちらの資金運用の方が合理的な選択肢と言えるだろう。

 他方、同じ金融機関でも保険会社の方は、保険料で集めた資産を専ら国債で運用して利益を出しているから、マイナス金利は直接ダメージとなりかねない。その結果、顧客に約束した利回りを維持できなくなって、結局保険料を引き上げる方向を選択するかもしれないだろう。

 つまり、今回の日銀のマイナス金利導入政策は、世界経済全体の動向とグローバル化した投資家の思惑による資金の急激かつ不安定な移動の前に、為すすべもなく打ち負かされてしまったと言ったところが筆者の偽らざる感想なのである。

 それにしても、長期金利が下落したことによって個人的には住宅ローン金利が低下して持ち家を購入しやすくなるはずだから、これからは住宅投資に期待が出来ると言えるのだろうか。寡聞にして、そうした個人的に大いに興味がある点についての経済アナリストたちのアドバイスを余り聞かない気がする。

世界や日本の経済全体のマクロ分析ばかりでなく、個人的なミクロ分析についても、(先行きが不透明過ぎて専門家にも判断できないのかもしれないが)誰か専門家が的確な見通しを示してくれないものだろうか。

これ以上株価も下がって、なけなしの預金金利が下げられてしまったら、投資額の小さい我々個人投資家は、日銀さんが述べた難解な用語を使えば、老後に備えて一体全体どのように「ポートフォリオ」(資産運用の組み合わせ)を「リバランス」(割合調整)すればよいのだろうか。

 結局、今回の日銀のマイナス金利導入政策の思惑が外れてしまったことで利益を得たのが、国の借金である国債の利払い費が減少することによって最終的には政府だけであったというような、庶民の目からは決して笑えないオチがつかないように筆者は願いたいのである。