1月10日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の初回が放映された(筆者はこの放送を視聴していないが)。ちなみに第1回放送は、天正10(1582)年2月初めから3月上旬にかけて起きた、織田信長、徳川家康勢の甲信侵攻と武田家滅亡のシーン辺りからスタートしたということである。
この武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』によると、信長が陣触れを発したのは同年2月3日のことであったらしい。したがって、美濃兼山城主の森勝蔵長可と団平八忠正の率いる織田勢先鋒が(岐阜を?)進発してから、わずか40日足らず後の短期間に東国でも特に強大な威勢を誇った武田の軍勢が総崩れとなり、新羅三郎源義光以来の甲斐源氏の名門武田家が呆気なく滅亡してしまったわけである。
3月11日に、武田勝頼が天目山麓の田野(甲斐大和から日川を大菩薩峠方面に遡った地)で滝川一益の率いる織田の追手に追い詰められ、37歳の若さで19歳の継室北条夫人(氏政妹)や16歳の嫡男信勝と共に自害に追い込まれてしまったため、この武田家滅亡は現在まで戦国史上の悲話として有名である。
確実な史実としての武田家滅亡に至る簡単な経過は以上のとおりであるが、武田勝頼の軍勢が信州諏訪での防戦を諦め、諏訪郡の拠点上原城を引き払って真田昌幸が普請奉行として甲斐韮崎に築城中であったとも言われる新府城への撤退を決意したのは、2月28日のことであったとされている。
実はこの2月末時点では、まだ、信長嫡男である織田信忠が率いた織田侵攻軍主力の上伊那高遠城攻めは開始されていない(史実では3月1日織田勢の包囲攻撃開始で、翌2日城主で勝頼異母弟の仁科盛信が自刃して落城した)。
高遠から諏訪湖岸に進出するためには杖突峠の険路を越えなければならないから、筆者が思うに、勝頼の諏訪郡からの撤退の判断が少し早すぎたきらいがあると考える。この時点では、劣勢の武田としては数千の残存兵力を以て杖突峠を固め、織田勢迎撃のための防御線をなお敷くことが可能だったのではないだろうか。
勇将であった勝頼がこのような消極策を採った背景にはいくつか理由があったのだろうが、間の悪いことに織田勢信州侵攻(2月6日)から10日後の2月16日に浅間山が信長誕生年である天文3(1534)年以来、48年ぶりに噴火したことが武田勢の士気を大いに削いだのかもしれない。浅間山の久しぶりの噴火は、武田氏領国における不吉な神威の凶兆とも受け取ることが出来たのだろう。ちなみに新府に居た北条夫人は、2月19日に韮崎の武田八幡宮に、夫勝頼の武運長久を祈る悲痛な名文の願文を捧げている。
この北条夫人自筆の願文には、浅間山噴火と同日の2月16日の木曽路鳥居峠の戦いで、織田勢に支援された木曽義昌の軍勢に今福筑前守昌和らの武田勢が虚しく敗戦した悲嘆が率直に述べられている。彼女としても、当時それだけ切羽詰っていたのだろう。
ちなみに武田方有力部将の崩壊と脱落現象は、2月後半に五月雨式に起きている。例えば、2月17日に中将信忠の軍勢が飯田に布陣したのを知った勝頼の叔父武田信廉(逍遥軒信綱)が、下伊那防衛の拠点であった大島城の守備を放棄して勝手に甲州に撤退してしまったことや、駿河江尻城を守っていた穴山信君が2月25日に甲府に置いていた妻子を脱出させて逆心した事例が代表的だろう。武田親族衆の重鎮たちですら、この時点で勝頼を見限ったわけだからだ。
恐らく、勝頼が諏訪郡を放棄して甲州への撤退を決断したのは、上記の様な諸事情による劣勢を考慮したためだろう。筆者の見立てでは、築城途上であった新府城での防戦は当初から想定しておらず、妻子と人質を収容した後、郡内の小山田信茂領内にある岩殿山に事前に構築して置いた要害に籠城するのが勝頼の最初からの予定であったのではないか。
実際には、この計画は小山田の裏切りで国中と郡内の境目である笹子峠を封鎖されてしまったために貫徹することが不可能となり、やむなく勝頼ら一行は滝川一益勢の追及を逃れて日川を遡上し、大菩薩峠を越えて最終的には小菅方面に脱出しようと試みたものと筆者には思われる。武田勝頼一行を追跡した滝川勢に思いの外早く追いつかれてしまったのが、武田勝頼の誤算では無かっただろうか。
真田家の話題に戻ると、諏訪からの武田勢の撤退が議論された2月28日の軍議の際に、昌幸は自分の勢力圏内にある上州吾妻郡の岩櫃城に入城することを勝頼に進言し、勝頼も一旦はその案に同調したと言う説がある。そのため、真田昌幸は2月28日、勝頼入城の準備のために先発して岩櫃城に帰還したとされている。だが、筆者にはどうもこの説は眉唾ではないかと思う。
なぜなら、当時、織田信長の命を受けて関東口から武田領に侵攻する手はずを整えていた後北条氏の軍勢、つまり鉢形城主であった氏邦の率いる軍勢が東上野の沼田城を攻略しようと虎視眈々と狙っていたからだ。
つまり、当時上州では武田勢が後北条勢に対して圧倒的に優勢な状況であり、真田昌幸は岩櫃城を中心とした吾妻郡と沼田城を中心とした利根郡を事実上支配下に置くことに成功し、また本領である信州小県郡も戸石城を拠点に固めていたから、天正10年2月末の時点では最初から氏邦が率いる鉢形衆の侵攻に備えて岩櫃に入城していたのではないかと考えられるからだ。
それに、勝頼がもし仮に当時岩櫃入城を諏訪で決断したとすれば、新府城に残っていた北条夫人たち妻子を見捨てることを意味していたし、甲府か新府に残っていた配下の部将らから集めておいた人質連中を収容することも不可能になっただろう。もしそうなれば、離反する部将がさらに続出する恐れも大きかったに違いない。
したがって、勝頼の岩櫃入城を真田昌幸が当時進言したとする有名な説には、筆者はどうも納得できないのである。結果的には、天正10年に武田家が滅亡したため、真田家は上信三郡を支配する独立大名にのし上がることに成功したわけだ。そういった点を考えると、この時点で真田昌幸が自分の勢力圏内に武田勝頼を引き入れて圧倒的に優勢な織田勢に抗戦したとしても、真田家は武田家に殉じて共に滅亡した結果を招いただけだっただろう。
昌幸が当時勝頼を迎え入れて織田勢の侵攻に徹底抗戦したとしても、せいぜい良くてその結末は、天正7年に結ばれた甲越同盟で勝頼異母妹の菊姫が上杉景勝正室として嫁いでいた縁を頼って、越後に亡命できたこと位であっただろう。もしそうなれば、真田家の既存領域支配が困難になったことは必定であろう。
つまり、後に秀吉側が上杉景勝に宛てて「表裏比興の者」と評した文書を残したほどの策略家であった昌幸が、信玄に対してならばともかく、武田勝頼に対して共に滅亡することを選ぶほどの恩義を感じていたとは筆者には到底思えないのである。
とはいえ、純粋に軍事的に考えれば、勝頼は郡内の岩殿城に籠城するよりも吾妻の岩櫃城に籠城した方が、当時遥かにその後の戦況を有利に展開することが可能であったと思う。
なぜなら、岩殿城も岩櫃城も当時としては共に堅固を誇った山城であったことは間違いないが、大月の桂川北岸に聳え立つ独立した岩山に構築された岩殿城は山上の曲輪はどれも狭隘で、一旦防御を破られれば城兵が後方に逃れる術はほとんどない絶壁上に位置しているからだ。これでは、後詰の援軍到来が期待できなければ、大軍に取り囲まれたら10日も岩殿城に籠城できないのではないか。
当時後北条氏は、勝頼が上杉景勝と締結した甲越同盟の結果、甲相同盟を破棄して織田信長に追随して関東口各方面に出兵していたから、勝頼が小山田信茂の裏切りに遭遇せず予定通り無事岩殿城に籠城できたとしても、早晩国中方面と上野原方面から侵攻してきた織田と北条両軍に挟撃されただろう。岩殿山に籠った場合、やはり武田家滅亡は時間の問題であり、結局回避することは不可能であったに違いない。勝頼としては、その場合武田氏の故国甲州の地で潔く最後の合戦に臨むことが出来る程度の時間が稼げただけだっただろう。
それと比較すると吾妻川西岸に位置する岩櫃山中腹に築かれた岩櫃城は、城下の平沢集落への入り口である大手の不動沢を取り囲むように天狗の丸や柳沢城といった出丸が構築されている。こうした複合的に城下を守備するような出丸の配置は、真田氏本領である信州小県郡の拠点城郭である戸石城でも同様に見られることから、恐らく真田氏得意のゲリラ戦仕様であったのではないか。
つまり、岩櫃城は複合的に置かれた各出丸に取り込まれた形の城下内部に敵の軍勢を引き入れて、その後臨機応変に軍勢を各出丸より繰り出して敵を翻弄しようとする、後の上田合戦でも見られたような真田昌幸得意の戦法に適した城郭であったと思われる。
したがって、武田勝頼がもし仮に、天正10年2月末に甲斐の新府方面ではなく、諏訪から和田峠を越えて上田平の真田領を経由し(さらに上信境目の鳥居峠を越えて)吾妻郡の岩櫃に入城できた場合を考えると、東上野沼田領で真田氏が後北条氏に優勢を保っていた当時の戦況の下では、背後から挟撃されることがほぼ確実な郡内岩殿城のケースの様な危険も少なく、あるいは織田方に水の手を断たれない限り、武田勢有利にその後のゲリラ戦を織田勢に対して展開することが出来たのかもしれない。
この真田昌幸が提案したとされる武田勝頼の岩櫃籠城作戦の今1つ有利な点は、戦況がどうにもならない位悪化した場合には、背後の草津温泉を抜けて志賀高原方面から武田と同盟関係にある上杉景勝の勢力圏であった北信地方の飯山方面に逃げ込む余地もあったと思われることである。ただし、その場合、甲斐に残してきた武田家の妻子と人質は見捨てることになるのは先に述べたとおりである。
あるいは武田勝頼は案外家族思いの人情にもろい、当時の武将としては真田昌幸の様な冷徹なリアリストに徹しきれない正反対の性格であったために、天正10年2月28日の滅亡間際の岐路に際して、諏訪から上州ではなく甲州への撤退の道を敢えて選んだのではないかとも筆者には思えるのであった。