先天性四肢切断という重度の障害を持って生まれてきた乙武洋匡氏は、早稲田大学政治経済学部卒であり、筆者の学部後輩に当たる。周知のとおり、彼は大学在学中の1998年に著した『五体不満足』で「障害は不便だが、不幸ではない」という屈託のない新鮮なメッセージを発することにより、ベストセラー作家となり、一躍時の人となった。
乙武氏は大学卒業後スポーツライターを経た後に杉並区小学校の教諭や都の教育委員を歴任し、一種の教育専門家としてメディアで取り上げられ、2016年夏の参院選に自民党公認で出馬する予定であると言われていた。
その爽やかで誠実なイメージの乙武氏が、妻以外の複数の女性と不倫(買春?)をしていたという事で、3月24日夫婦同時に公式サイト上で世間に謝罪し、30日には参院選出馬を取りやめることが報じられた。今日はそのことに関して少しばかり、社会心理学的に筆者の勝手な感想を述べてみたい。
まず、注目されるのは、彼が教育委員在任中に不倫を隠すダミー役の男性を伴って、何度も愛人女性同伴で海外「視察」に出かけていたことだ。そのダミー役の男性の1人は、4月5日リーガロイヤル東京ホテルで参院選出馬の決起集会とするはずだった乙武氏40歳誕生パーティーの発起人の1人で乙武氏の友人でもある、社会学者(大学院生)の古市憲寿氏とのことだった。
実はこの古市氏は、3月25日のツイッターで「庇う気はないが、(乙武氏のケースは)普通『不倫』と聞いて想像する光景とは、かなり違っていた気もする」と友人を擁護する見解を述べていた。だが、もし彼自身が乙武氏の海外不倫「視察」旅行に同行していたとすれば、多分自己弁護の意味で述べたものだろう。
問題は、乙武氏の「視察」に都教育委員会から公費が支出されたかどうかという点であり、もしそうであるなら公金の重大な流用問題になりかねない。古市氏ら同行したダミー男性達も、同伴女性と共に厳しく責任を追及される必要があるだろう。したがって、彼の乙武擁護論は全く取るに足らない無責任な発言に過ぎない。
今回の問題に関して、的確な分析だと筆者が思ったのは、在米ジャーナリストの岩田太郎氏がJapan In-depthに投稿した「乙武氏「自己肯定感物語」破綻と障碍者の性」という記事の内容である。この記事の中で、岩田氏は今回の乙武「五股不倫」問題を、「全聾の天才作曲家」佐村河内守氏や「高学歴ハーフタレント」ショーンK氏のケースに類似した、マスメディアが増幅した虚偽の個人イメージ(虚像)崩壊のより深刻なケースであると位置づけている。
なぜなら、乙武氏が常日頃述べてきた「明確な自己肯定感を持てた」「人生、だいじょうぶ」という世間に感動を与える「壮大な救済物語」が恐らくほとんど虚偽の作り話であり、乙武氏自身が多分自己肯定感を欠如させたまま(成熟した大人に成り切れず)、メディアの増幅した虚偽のイメージに自己をうまく適応させて生きてきた欠落感から、今回の様な不倫騒動を起こしてしまったのだろう、と岩田氏は概略分析している。
その意味では、本当は高卒の学歴しか持たないショーンK氏がハーバードMBAの経歴を詐称したケースや、作曲の出来ない佐村河内氏がゴーストライターを使って天才作曲家を騙っていたケースと、彼らの行動の動機が自己肯定感の欠落にあると考えられる点で確かに共通していると筆者も考える。
だが、偽善者は彼らだけではない。より本質的には、その虚像を商売や選挙に利用しようとしたメディアや政党も偽善的だし、我々一般市民の多くも障害者に対する「差別主義者」で無いという偽りのアリバイ作りに利用してきたという点では、同様に偽善的なのである。ネット上やメディアでの乙武氏やその妻に対する激しいバッシングの嵐は、そうした日本社会全体の偽善的態度を裏返しにした反動現象であると考える。
心理学的に見れば、乙武氏やショーンK氏は、青年期に多く見られる自己愛的人格傾向を維持したまま、大人になってしまったのではないかと筆者は感じる。自己愛的人格傾向とは、自信に満ちてエネルギッシュかつ自己本位的で他者への共感が欠如した態度が目立つ一方で、他者の評価によって自己評価や肯定感が容易に揺れ動く矛盾した人格特性なのである。いわば、自信と不安が入り混じった不安定なアイデンティティを持った、成熟していない人格を意味している。乙武君もショーンKも、どちらからもそういう人格特性の臭いがするのである。
ただし、自己愛傾向は、必ずしも病的に他者を傷つける程の「自己愛性パーソナリティ障害」(Narcissistic Personality Disorder: NPD)にまで常に至るとは限らない。その意味において、普通の健常者にも多かれ少なかれ見られる、傲慢で自己顕示的な人格特性の程度問題なのである。
ただ、今回の「五股不倫」問題を通じて見える乙武君の家族に対する配慮の無さから感じるのは、彼の持って生まれてきた障害に恐らく起因する低い自己評価と、一見それとは矛盾するような尊大な自己認識と自己顕示欲が、彼の心の中でアンビバレントに共存しているのではないかという疑いが、完全に否定しきれない点であろう。
筆者は以前から、先天性四肢切断という大きなハンディを抱える乙武君が、どうやって都立高校上位校である戸山高校や一浪したとは言え早稲田大学政治経済学部卒業の学歴を得ることが出来たのか、とても不思議に感じていた。あからさまに言えば、彼のハンディから考えて、通常の手段では高校と大学の厳しい入試を突破することは極めて困難であっただろうと感じていたからである。
これはあくまでも筆者の憶測であるが、彼が無事高校と大学の学歴を獲得できた背景には、何らかの大人側の配慮が介在していたのではないか。乙武君は、ある種の推薦合格を貰ったと言い換えてもいいだろう。もしそういうプロセスが、彼の人生で実際に起きていたとするならば、乙武君が今に至るまで自己肯定感を獲得できず、アンビバレントな自己認識や顕示欲を肥大化させていったことも十分想定できるだろう。
そして、大学在学中にベストセラー作家として社会的に成功を収めた結果、彼の虚像がメディアを通じて増幅され、社会がそれを好んで消費してきたのが問題の実態であろう。そういう意味では、乙武君も最近の日本社会で顕著になった浅薄な虚像の商品化傾向に踊らされた、ショーンKと同様の哀れなドン・キホーテの1人であったのかもしれない。
この点において、今回の乙武君「五股不倫」と彼の虚像崩壊の背後には、単に彼の人格傾向に問題を矮小化して非難を集中すべきではないような、社会心理学的な本質を含んでいるのではないかと筆者は感じたのである。