2015年7月17日金曜日

イラン核協議最終合意に関する分析(追加)-中東安定化の行方は、アメリカとサウジ、イスラエルの対イラン脅威認識ギャップに依存している。

 昨日の投稿で筆者は、イランとの核協議に臨んだ欧米が、本音では現時点でISの脅威への対処を最優先としており、イランを対IS戦闘に取り込むために今回のイランとの核協議で最終合意に至ったと指摘した。

 他方、地域における対米同盟のジュニア・パートナーであるサウジアラビアとイスラエル両国の対イラン脅威認識は、イランのウラン濃縮活動を今後10から15年間制限することでその核武装を阻止することが出来るとするオバマ政権の(甘い)認識とは大きなギャップがある。

両国は、イランが今回の合意により事実上核の「敷居」(threshold)を跨ぐことを認められた結果、今後経済力を回復して域内のシーア派武装勢力に対する影響力と保護力を増して潜在的な地域覇権国に近づくことを恐れている。このオバマ政権との脅威認識ギャップが、最近の両国の対米不信の外交姿勢に現れている。

 例えば、最近のサウジアラビアの軍事と外交に関する興味深い事実を、いくつか確認してみると、まず第1に、SIPRI (ストックホルム国際平和研究所) が発表した主要国の軍事費動向のデータによると、2014年のサウジアラビアの軍事費は同年の米ドルに換算して約808億ドルで、アメリカ、中国、ロシアに次いで世界第4位の規模であった。これを国民1人当たりに換算すると、アメリカを抜いて世界第1位の支出額となる。

 第2に、サウジアラビアが主導するアラブ連合軍が、2015326日から、ハーディー暫定大統領をサウジアラビアに事実上亡命させた、イエメンの反体制武装勢力フーシー派の拠点に対する空爆を開始したことである。

こうしたサウジ独自の軍事外交が出現した事実は、イランの核開発プログラム継続を認めたオバマ政権に対する、サウジアラビアの不信感が示されたものに他ならない。特にサウジが主導する対イエメン空爆作戦は、ロウハニ政権誕生後のアメリカの対イラン宥和外交に反発して、サウジアラビアが自らの独自判断でイランに対する均衡を回復しようとして始まった軍事行動である。

イエメン情勢の最終的な安定化に向けた具体的方策をサウジアラビアが現時点で持っているかどうかは疑問であるが、3月にフーシー派とサーレハ前大統領派の武装勢力に追われてサウジの首都リヤドに亡命中のハーディー暫定大統領派の武装勢力が714日、サウジ主導の連合軍の武器供給を受けて港湾都市アデンをフーシー派から奪還したことで暫定政府がアデンに復帰する見込みが立った。重要都市アデンを奪還したことは、サウジにとってはイランの傀儡シーア派勢力に対する意味ある勝利と言えるだろう。

 核協議を巡る事実上の欧米に対する勝利に沸くイラン国内強硬派とイスラーム革命防衛隊が、現在の勢いに乗じてイエメンのフーシー派支援を強化しサウジに対抗しようとすると、両国が前面に立ってペルシャ湾岸におけるスンナ派とシーア派の宗派間抗争が激化する危険が高まるかもしれない。

アメリカとサウジの事実上の同盟関係は、第二次世界大戦当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が、19452月のヤルタ会談の帰途、サウジのアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード初代国王と米軍艦上で会談してサウジの安全保障に対するコミットメントを与えて以来、70年間にわたって揺るぎないものだったが、その緊密な両国関係が最近のサウジのオバマ政権への鋭い反発で、非常にぎくしゃくしている。

地域におけるイランとサウジの宗派間(覇権)抗争がこれ以上激化すると、サウジがアメリカを無視して今後益々独自の軍事行動を採るようになるかもしれない。その究極形態が、サウジも核開発に走るということだろう。こうした事態は、中東での核のドミノ現象を引き起こす恐れがあり、イランとの最終合意でオバマ政権が期待したNPT体制の維持という目論見とは正反対の不安定な安全保障環境を中東にもたらす。

 もしそうなれば、イスラエルはどうするか次に分析してみよう。恐らく、ネタニヤフ首相はそれまでのオバマ政権に対する強硬姿勢とは裏腹に、米議会内の共和党強硬派と組んでイランとの最終合意を葬り去ろうとしてオバマ政権と明白に対立することを避けようとするはずである。イスラエルは、当面イランとアメリカ国内における情報収集活動を強化しようとするだろう。

 軍事的に考えるとイスラエルは、今後ミサイル防衛体制と空軍、海軍力をさらに強化してヒズブッラーとそれを背後で支援しているイスラーム革命防衛隊の奇襲攻撃に備えるはずである。そして、もし将来イランが最終合意の履行を破棄して明白に核兵器の開発を始めた場合には、イスラエルの核による先制攻撃を封じてきた従来の曖昧政策を破棄して、自国の核武装を明示することにより、イランとの核抑止体制を構築しようとするかもしれない。

 つまり、イラン核協議の最終合意によってP5+1が期待するNPT体制維持の目論見も、イランと鋭く対立するサウジとイスラエルの今後の政策の展開次第では、却って地域に核拡散を引き起こす可能性が否定しきれないと筆者は分析している。

2015年7月16日木曜日

イラン核協議最終合意「包括的共同行動計画」に関する分析

 714日、6月末の期限を3度延長して18日間交渉が続けられたP5+1とイランとの核協議が最終合意に達した。今日はこの合意「包括的共同行動計画」が今後の中東安全保障環境に与える影響について、筆者の現時点での分析を述べたい。

 まず合意内容を端的に要約すれば、P5+1側が獲得したのは、10年から15年間イランのウラン濃縮能力を大幅に制限することにより、イランの核爆弾製造能力を最短でも1年以上かかる状態を10年以上継続でき、かつ、IAEAが一応検証可能な枠組みを構築したことである。

欧米の目論見としては、これ以上イランが核開発を継続すれば早晩イスラエルの軍事行動を招きかねず、また、サウジアラビアなどアラブ諸国が核開発を始めてNPT体制がさらに揺らぐことが当然想定されるが、イランのウラン濃縮活動を10年以上制限することで、こうした中東における安全保障環境悪化のリスクを当面阻止できると考えたのであろう。

オバマ米大統領の言葉を借りれば、「合意で必要なのはイランを信頼することではなく、イランの誓約履行を検証できる体制を構築することである」ということで、2002年にイランの秘密裏の核開発が発覚して以来13年間にわたって続いた交渉を決着させたという点では、「歴史的合意」には違いない。

もっとも、イスラエルのネタニヤフ首相の反論を引用すれば、今後縮小・制限される見込みとは言え、イランがウラン濃縮および研究活動自体を継続することを経済制裁の一括解除という好条件と引き換えに認めた今回の最終合意は、P5+1の「歴史的な過ち」に他ならないということになる。

 これでイランは国際社会に復帰する目途が立ち、国連と欧米の経済制裁が最終合意に基づいて来年初頭にも一括解除されれば、イラン産原油が日量100万バレル程度市場に追加供給されることになる。

 その結果、イランは年間数兆円規模の外貨を獲得できるとともに、日本にとっても石油価格の下落傾向が継続すると同時に有望な石油供給先、投資先としてイランに再び期待を抱くことが可能となって、却って好都合だろう。

 アメリカが現在中東で直面している安全保障上の脅威という側面では、イランの核開発よりもイラクとシリアで活動を続けているISを抑えることがテロ対策としてはむしろ重要である。

その点では、同じくISを自分の傀儡勢力であるイラク南部のシーア派とシリアのアサド政権に対する最大の脅威と見なしているイランを今後の対IS戦闘に協力させることが、イランを実存的な脅威と考えている域内同盟国(特にイスラエルとサウジアラビア)の反対を押し切ってでも選択すべきと決断したというのが、オバマ政権による最終合意に至った判断の根拠だったのだろう。

 また、イスラーム圏からの移民を多く抱える英仏独など欧州諸国としても、国内の社会的安定を維持し、大規模テロの発生を抑止するという側面では、アメリカと同様にイランを国際社会に復帰させて対IS戦闘に参加させることが合理的な判断となる。そのためには、イランに対する経済制裁を解除してもやむを得ないという所だろう。

 しかし、イランに対する国連と欧米諸国の経済制裁が一括解除されることはイランの経済力を上昇させる結果をもたらすから、そうしてイランが獲得した資金が、イスラーム革命防衛隊を通じてレバノンのヒズブッラーの反イスラエル闘争強化やイエメンのフーシー派の武装強化に流用されることは、イスラエルとサウジアラビアにとっては看過しがたい脅威となりかねない。

 また、イスラエルとサウジアラビアにとっては、イランの核開発継続が核武装につながること自体よりも、むしろ、核開発継続によってイランが核の「敷居」(threshold)を跨ぐことで自国に敵対するシーア派武装勢力に対するイランの保護が強化され、これらシーア派武装勢力に対する自国の攻撃が今後困難となることがむしろ懸念材料と考えられているのではないだろうか。

 イランがそうした地域のシーア派に対する影響力を伸ばすことは、スンナ派との宗派間抗争の激化を自国の意思で容易にコントロールすることを可能にさせるから、イスラエルとサウジアラビアは、安全保障上自らの対応が後手に回る不利な立場に追い込まれかねない。

この両国にとって従来最大の同盟国であったアメリカが、自国の関与を縮小させるために今後中東の安全保障環境を維持する重要なパートナーとしてイランを迎え入れる判断に舵を切ることになれば、イスラエル、サウジアラビアとイランとの勢力均衡を外交政策として採用することになるだろう。

天然資源の豊富さや人口規模などの国力で考えた場合、両国に対して今後イランが優勢な立場を構築していくことも不可能ではない。つまり、中東における地域覇権国としてイランが勢力を拡大していく恐れを、イスラエルとサウジアラビアは抱いているのである。

 この点で、今日東アジアで中国が置かれた立場と中東でイランが置かれた立場は、潜在的な地域覇権国を目指しているという点で、非常に類似していると筆者は考えている。

2015年7月14日火曜日

難攻不落の世界遺産アレッポ城の城壁破壊と、フレグの西征に関する感想

 713日のニュースでシリア北部アレッポ旧市街の地下道で爆発があり、世界遺産であるアレッポ城(Citadel of Aleppo)の城壁が一部崩壊したとの報道があった。アレッポは現在旧市街を含む西部地区をアサド政権軍が、東部地区を反政府軍がそれぞれ掌握しており、アレッポ城(シタデル)はちょうど両軍が激戦を展開している最前線に位置している。

 政府軍は旧市街や城内に兵力を展開しており、今回の地下道爆破が反体制側の攻撃によるものかどうかは不明である。しかし、シリアの首都ダマスカスと並んで紀元前3千年前から歴史に登場する世界最古の都市の1つであるアレッポ旧市街では、20113月に始まったシリア内戦の結果、既にウマイヤ朝時代の大モスクのミナレット(塔)が倒壊し、世界最大級のスーク(市場)が炎上焼失する大被害を蒙っている。

 今回、シタデルの城壁が一部崩壊したことは、貴重な人類の文化遺産がまた1つ失われたことを意味する。ユネスコの世界遺産はシリアに合計6か所あるが、20136月にその全てが「危機遺産」に登録されている。内戦の最前線にあるアレッポ旧市街はもとより、ダマスカス旧市街や黒色の玄武岩で建造された見事なローマ劇場のある南部ボスラ、十字軍時代の要塞であるクラック・デ・シュバリエなどが破壊の危険にさらされている。

また、パルミラのローマ帝国時代の隊商都市遺跡はIS(イスラーム国)によって占拠されており、彼らの手によって地雷等の爆発物が仕掛けられていると言われていて、いつ破壊されるかわからない状態に置かれている。

 アレッポ城は十字軍によって何度も攻撃されたが決して陥落しなかった、イスラーム世界屈指の名城の1つである。その広い空堀は深く、高さ約50mの丘の上に聳え立つ東京ドーム10倍の面積で周囲約2.5kmの城域をすっぽりと取り囲んでいる。

 アレッポ城内に入る通路は一本の細い橋だけで、その防御のために高い塔門が築かれている。敵の侵入は非常に困難な構造である。広大な城内には戦時に市民を収容することを想定した住居跡があちこちにあり、籠城中の市民生活を支えるためにモスクと、3千人が5年間籠城できる程の穀物を備蓄可能な巨大な食糧庫が設置されていた。

 この難攻不落のアレッポ城も、実は歴史上数回陥落したことがあった。その最初は、12601月の大モンゴル帝国フレグ・ウルス(イル・ハーン国)の初代ハーンとなったフレグ(フラグ)が率いるモンゴル、トルコ、クルド、アルメニア、そして十字軍諸侯の連合軍に攻撃された時である。

 フレグは元寇で有名なフビライの弟で、第4代大ハーンの長兄モンケに命じられて1253年軍を率いて西征に出発し、まず1256年に、イランのアラムート山城に立て籠もるシーア派分派の暗殺教団ニザール派の教主を討伐した。

 次にフレグの軍勢は、アッバース朝カリフ・ムスタースィムの首都バグダードを12581月に包囲して投石機などの攻城兵器を駆使して攻撃し、2月に投降したカリフを軍馬に踏み殺させて惨殺した後、1週間市内を徹底的に略奪破壊した上に市民を殺戮した。この結果、アッバース朝は滅亡し、その首都バグダードは完全に壊滅したのである。

 一般にモンゴル軍の中心戦力は鉄鏃を使った軽装の弓射騎兵で、チンギス・ハーンが整備した千人隊やハーン直属の親衛隊ケシクなどの機動力に優れた騎兵戦力が有名であるが、多分ペルシャで発展したものと思われるカタパルトなどの豊富な攻城器具も装備していたようだ。そうでなければ、モンゴルの遊牧民が堅固な城壁に囲まれたバグダードやアレッポを陥落させることは困難だったであろう。

 モンゴル軍の面白いところは、家畜を伴う遊牧民の集団そのものが軍勢とともに移動して後方支援の輜重部隊として機能していた点だ。この後方支援部隊を、アウルクと呼んでいたらしい。ただ、常にこんな輜重部隊が戦闘部隊に追従していたら、敵軍の格好の襲撃対象にされて補給が途絶えることも多かったのではないだろうか。ある意味で、これがモンゴル軍の弱点と言えるだろう。

 さて、12601月にアレッポが陥落した時、市民のうち男子はフレグの軍に虐殺され、約10万人の婦女子は捕虜とされて奴隷商人に売られたとされる。ところが、アレッポ陥落後兄モンケの死が知らされ、跡目決定の会議クリルタイに出席するため、フレグは西征を中断して東帰した。彼は結局この後跡目争いには加わらず、イラン北部のタブリーズを首都とするイル・ハーン国を建国して独自の勢力圏を築いて自立するのだが、アレッポには部下の将軍キトブカ・ノヤンの率いる部隊を残して後事を託した。

 キトブカの軍勢はさらに南進してダマスカスを占領し、先遣部隊はガザに進出してエジプトのマムルーク朝に無条件降伏を迫って圧力をかけたという。

 当時のマムルーク朝スルタンは第4代のクトゥズであったが、カイロのローダ島に駐屯地が有った最有力のバフリー(海の)・マムルーク軍を率いるバイバルスをシリアに追放していた。モンゴルの脅威が迫ったので、クトゥズはバイバルスと和解してエジプトに帰国させ、降伏を勧告してきたモンゴルの使節団全員を処刑して市街南部のズワイラ門に梟首したとされる。

 この辺は元寇の際に元の死者を斬った、鎌倉幕府の執権北条時宗の対応とそっくりだ。クトゥズは勇敢なスルタンで、マムルークを総動員してモンゴル軍と戦う決心をしたのだろう。実はマムルークは、中央アジアのキプチャク草原などでモンゴル人に追われたトルコ系などの遊牧民奴隷をイスラーム教徒の戦士として再教育した軍団であり、元々馬上での弓射や槍術、剣術などに長けており、またポロ競技で普段から馬術の訓練を怠らなかったと言われる。

 つまり、マムルークは、元来モンゴルの騎兵部隊に対抗できる優秀な騎兵部隊だったのである。モンゴル軍に対する心理的な恐怖心さえ克服できれば、十分戦力として勝負できたというわけなのである。また、フレグ東帰後の1260年春夏時点では、兵力的にもマムルークが優勢であっただろう。

 実際、バイバルスの率いるマムルーク先遣隊はガザのモンゴル軍を駆逐して、まず先に勝利を収めた。クトゥズの率いる本隊は7月にカイロを出発してパレスチナの海岸線を北上し、中立の立場を採ったアッカの十字軍領内を経由してヨルダン川西岸のガリラヤ地方に転進して93日、アイン・ジャールート(「ゴリアテの泉」)の村に布陣するキトブカのモンゴル軍を攻撃した。

 この時、早朝からバイバルスの率いるマムルーク先遣隊がまずキトブカ軍と衝突して意図的に退却し、伏兵として潜んでいたクトゥズの本隊がキトブカ軍の後方を遮断したためにモンゴル軍は夕方には壊滅して、キトブカも戦死した。この戦いの結果、モンゴルの西進は停止し、その後シリアから駆逐されることとなった。元寇と並んで、それまで領土を拡大する一方であったモンゴル帝国にとっては決定的に手痛い敗北となったわけである。