先の投稿で分析した通り、慶長5年8月下旬、福島正則の居城清州城周辺に集結を完了した徳川勢は、8月22日に木曽川を渡河して翌日岐阜城を陥落させて織田秀信を拘束した。さらに後詰めに出てきた石田三成の軍勢も撃破して、岐阜周辺を制圧し一帯に禁制を発給した。25日には、三成の本拠佐和山城まで攻撃する予定であったが、家康からの指示で家康到着まで一旦攻勢を控えることとした。
恐らく家康は、福島と池田の率いる前線部隊が、大垣城や犬山城の敵を後に残したまま、近江にまで戦線を伸ばすことに危惧を抱いたのだろう。前線部隊が勢いに乗って先に進み過ぎると、大坂方に後方拠点である清州城との連絡線を遮断され、後続の関東勢と分断されかねない。
当時、家康本隊はまだ清州に到着していないが、家康四男松平忠吉の部隊や、石川康通、松平家清らは既に清州に着陣していたからである(白峰、前掲(その2)、45頁)。
そこで徳川方は、8月末から9月上旬にかけて美濃赤坂、垂井、関ヶ原まで放火して大坂方に圧力をかけると同時に、付城を築いて大垣城を包囲した(白峰、同上、51頁)。9月1日の時点で、福島、池田、藤堂、黒田、田中吉政、一柳直盛は垂井に陣取った(同上)。徳川方が赤坂から垂井までを制圧していた様子である。
これに対して大坂方は、大垣城に約2万人が籠城している他、吉川広家ら後詰めの毛利勢等が伊勢路を経て南宮山付近に布陣しており、広家の書状では両軍双方の距離は約1里であった(同上)。したがって、徳川方前線部隊は、大垣城の北西に進出して敵の後方を遮断すると共に、家康の到着後、大垣城を水攻めで包囲攻撃する計画であった(同上)。
これに対して石田らの大垣籠城軍は、家康着陣前は周辺地帯に刈田に出てくることもあった(同上、55頁)。そもそも小城の大垣城に2万人も籠城していては、兵糧米も不足していたのかも知れない。
『三河物語』によると、大坂方は総勢10万人程で、大垣を本城として、柏原、山中、番場、醒ヶ井、垂井、赤坂、佐和山まで抑えていたとされるが、先述したように垂井と赤坂を既に徳川方に奪取されたため、後方の拠点である佐和山城との連絡線を遮断されてしまっていたのだろう。そこで、否応なく籠城を捨てて、決戦に出撃せざるを得なかったのではないだろうか。
家康は9月13日岐阜に着陣し、14日に赤坂に到着した(同上)。徳川方は、その日のうちに関ヶ原に押し寄せた。対する石田、島津、小西、宇喜多の大坂方は、14日夜五つ(午後8時頃)、大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原に進出し、翌15日巳の刻(午前10頃)から一戦に及んだとされる(同上)。大坂方8万人、徳川方7万人程の軍勢だったとも言われる。
通説では、午前中は大坂方優勢に戦況が推移して家康を焦らせたとも言われるが、『三河物語』や徳川方の参戦諸将の報告では必ずしもそうでない様子である。井伊と福島が先手となって諸将が続々と大坂方が守る切所を攻撃したところ、小早川、脇坂、小川父子の4人が寝返ったため、大谷吉継が自害して大坂方は敗軍となり、追い討ちによって際限なく敵を討ち取ったということらしい(同上)。実際には、昼位までの短時間の戦闘で、あっさりと勝敗の決着がついた模様である(同上、56頁)。
9月16日には佐和山城を徳川方が包囲し、田中吉政が水の手を取って本丸を攻撃したため、石田三成の父兄と舅、妻子が1人も残らず斬り殺されて、天守が焼き払われて落城した。その時、城から打って出た300人程も、1人残らず討ち取られたと言う(同上、56頁)。何とも無慈悲なことである。
その後、石田三成、安国寺恵瓊、小西行長の3人は生け捕りにされ、京、大坂、堺を引き回された後に、最後は三条河原で青屋(藍染業者で断罪も行う)の人々によって斬首され、首は三条の橋詰にかけられたと『三河物語』は記している。宇喜多秀家は薩摩に逃れたが、後に親子3人で八丈島に流されたのである。
2015年5月2日土曜日
さとり世代の発想は、人口減少時代の日本の模範解答かも知れない。
新卒3年以内で折角入った会社を辞める新人が、最近話題になっている。このブログでも、2回にわたって考察してみた。調べると、彼らのことを「さとり世代」と言うそうだ。
「さとり世代」の特徴は、合理的で無駄な消費をしない、必要のない交際はしない、インターネットに親しんでいる、インドア志向、無欲、旅行をしない、エトセトラ・エトセトラなそうである。
しかし、かように世代の特徴を列挙してみると、現代の若者に対する随分とステレオタイプなレッテル貼りのような気がしてくる。我々も80年代後半に、当時の社会人の先輩達から「新人類」とレッテル貼りをされたが、大学卒業後の都銀入行直後に配属先の課長から、いきなり「新人類だから」と紹介されて、自分ながら「そんなに常識を逸脱しているものか」と奇異に感じたものである。
ただ、新入行員歓迎の宴席で、好きでもない飲酒や食べ物を強要された時は本当に憤慨したものである。あの時はまさしく、「新人類」の怒りであったと今でも断言できる。現在はどの会社でも、そのようなことはパワハラと成りかねないので、決して起こり得ないとは思うのだが。
それが理由ではないが、自分はわずか2年間だけ勤務して銀行員を辞めてしまった。したがって、私個人は新卒3年で会社を辞めてしまう若者達を、自分と同類の人達と考えている。
新人類の1人として、後輩である「さとり」の人達にアドバイスできるとすれば、「自分を信じて行動しろ、他人の言うことなんか聞くな」ということだけである。結局、人生の選択は自分の判断に基づいて行うのが、最善の解答である。これが自分の経験上、それこそ「さとった」結論に他ならない。
「さとり世代」の人達が合理性志向ならば、徹底的に合理性を追求してみるのが良いだろう。そもそも、必要以上に熱が籠っていた「団塊の世代」や、その対極に位置づけられることの多い、必要以上に醒めた我々「新人類世代」の方こそ、非合理的な思考にどっぷりと浸かった旧式人間なのである。
これからの日本人は、「さとって」合理性重視で行くべきである、とむしろ決心すべきではないだろうか。熱気や醒めた感情を中和した方が、これからの日本の人口減少社会にむしろマッチしているのではないかと感じる。人口が8千万人程度まで減少すれば、日本人ももっとのんびりと生活をエンジョイできる時代を迎えることができるかもしれないのだ。
今のさとり世代の若者達の発想は、そうした人口減少時代の日本を先取りしていると考えれば、むしろ大人の方が彼らの発想を学ぶ必要があるのではないだろうか。
「さとり世代」の特徴は、合理的で無駄な消費をしない、必要のない交際はしない、インターネットに親しんでいる、インドア志向、無欲、旅行をしない、エトセトラ・エトセトラなそうである。
しかし、かように世代の特徴を列挙してみると、現代の若者に対する随分とステレオタイプなレッテル貼りのような気がしてくる。我々も80年代後半に、当時の社会人の先輩達から「新人類」とレッテル貼りをされたが、大学卒業後の都銀入行直後に配属先の課長から、いきなり「新人類だから」と紹介されて、自分ながら「そんなに常識を逸脱しているものか」と奇異に感じたものである。
ただ、新入行員歓迎の宴席で、好きでもない飲酒や食べ物を強要された時は本当に憤慨したものである。あの時はまさしく、「新人類」の怒りであったと今でも断言できる。現在はどの会社でも、そのようなことはパワハラと成りかねないので、決して起こり得ないとは思うのだが。
それが理由ではないが、自分はわずか2年間だけ勤務して銀行員を辞めてしまった。したがって、私個人は新卒3年で会社を辞めてしまう若者達を、自分と同類の人達と考えている。
新人類の1人として、後輩である「さとり」の人達にアドバイスできるとすれば、「自分を信じて行動しろ、他人の言うことなんか聞くな」ということだけである。結局、人生の選択は自分の判断に基づいて行うのが、最善の解答である。これが自分の経験上、それこそ「さとった」結論に他ならない。
「さとり世代」の人達が合理性志向ならば、徹底的に合理性を追求してみるのが良いだろう。そもそも、必要以上に熱が籠っていた「団塊の世代」や、その対極に位置づけられることの多い、必要以上に醒めた我々「新人類世代」の方こそ、非合理的な思考にどっぷりと浸かった旧式人間なのである。
これからの日本人は、「さとって」合理性重視で行くべきである、とむしろ決心すべきではないだろうか。熱気や醒めた感情を中和した方が、これからの日本の人口減少社会にむしろマッチしているのではないかと感じる。人口が8千万人程度まで減少すれば、日本人ももっとのんびりと生活をエンジョイできる時代を迎えることができるかもしれないのだ。
今のさとり世代の若者達の発想は、そうした人口減少時代の日本を先取りしていると考えれば、むしろ大人の方が彼らの発想を学ぶ必要があるのではないだろうか。
慶長5年濃尾平野での東西両軍の兵力集中と戦況
今回の投稿では、引き続き、白峰旬氏の論文「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その2)」を参照しつつ、慶長5年8月上旬から9月15日の関ヶ原の戦いまでの濃尾平野における東西両軍の兵力集中と戦況について分析する。
さて、家康による7月26日の反転西上命令を受けて、会津上杉征伐に従軍していた東下諸大名達は、福島正則を先手として続々と前線拠点である清州城に向けて進軍した。戦目付として、徳川譜代大名の本多忠勝と井伊直政の両人も相次いで尾張に向かった。これら徳川方諸勢の尾張清州城周辺への集結は、8月下旬のようであった(白峰、同上、40頁)。
一方、大坂方の動きはもっと迅速であった。例えば、8月5日には石田三成が、岐阜城の織田秀信と相談して尾張に出陣する予定であった。また、この時期には、清州の福島正則を味方へ寝返らせる説得工作を続けていた。8日、三成は濃尾境目の仕置のため尾州表へ出陣、10日には大垣に在城していた(白峰、同上、37頁)。
後続の島津義弘は、奉行衆の下知で17日に美濃垂井に着陣し、8月1日に鳥居元忠らが籠城していた伏見城を落城させた宇喜多秀家も、8月27日には、石田、小西、島津と共に大垣城に在城しており、この時点で大坂方の美濃表への兵力集結は完了していた模様である(白峰、同上、38頁)。
立花宗茂も、4千人の軍勢を率いて垂井に着陣する予定であったが、9月7日に大坂方を裏切って近江大津城に籠城した京極高次を攻撃するため、転進した。なお、同時期大谷吉継は北陸制圧のため、まだ美濃には参陣していない。
両軍の兵力集中が完了したので、8月下旬に徳川方では敵方の犬山城を抑えた上で木曽川を渡り、岐阜城を攻撃する作戦を立案した。池田輝政組と福島正則組の二手に分かれて8月22日に木曽川を一挙に渡河し、輝政組は川端に出撃してきた織田秀信勢約2千人を蹴散らして北岸に進出した。
翌23日、福島正則組が未明から岐阜城を攻撃して本丸天守まで攻略して、織田秀信を降参させて身柄を拘束した。同日、後詰めに出てきた石田勢を黒田や藤堂らの軍勢が破った。24日の諸将の軍議で25日に三成の居城佐和山を攻撃することになったが、27日付家康書状で家康、秀忠の到着まで攻勢を差し控えるよう指示されたため、佐和山城攻撃は中止となった(白峰、同上、44頁)。9月3、4日頃には、犬山城も徳川方に明け渡された(白峰、同上、49頁)。
したがって、濃尾平野での戦況は一方的に徳川方有利に展開しており、大坂方は大垣城に籠城せざるを得ない状況に陥っていた。こうした有利な戦況が、遅れていた家康の江戸出陣を促したものと思われる。
家康は8月23日の岐阜落城の知らせを受けて、9月1日に江戸城を出陣した。会津上杉勢に対処するため宇都宮に在陣していた秀忠軍は、家康の命令で24日に中山道へ出陣し、信州真田の上田城攻略後、上洛する予定であった(白峰、同上、50頁)。したがって、家康の作戦計画では、当初から秀忠軍と合流した上で大坂方との決戦に臨む予定であったのである(白峰、同上)。
『三河物語』では、秀忠付きの本多正信が何事も1人で差配したため、軍事に明るくないにもかかわらず、真田昌幸の立て籠もる上田表から少しづつ兵を引き上げる「繰引」をしたため、9月15日の関ヶ原の決戦に2、3日遅れて到着したと述べている。秀忠の軍勢には戦場経験豊富な榊原康政が随行していたのだが、発言権が弱かったのか、彼が一体何をしていたのか、疑問である。
さて、家康による7月26日の反転西上命令を受けて、会津上杉征伐に従軍していた東下諸大名達は、福島正則を先手として続々と前線拠点である清州城に向けて進軍した。戦目付として、徳川譜代大名の本多忠勝と井伊直政の両人も相次いで尾張に向かった。これら徳川方諸勢の尾張清州城周辺への集結は、8月下旬のようであった(白峰、同上、40頁)。
一方、大坂方の動きはもっと迅速であった。例えば、8月5日には石田三成が、岐阜城の織田秀信と相談して尾張に出陣する予定であった。また、この時期には、清州の福島正則を味方へ寝返らせる説得工作を続けていた。8日、三成は濃尾境目の仕置のため尾州表へ出陣、10日には大垣に在城していた(白峰、同上、37頁)。
後続の島津義弘は、奉行衆の下知で17日に美濃垂井に着陣し、8月1日に鳥居元忠らが籠城していた伏見城を落城させた宇喜多秀家も、8月27日には、石田、小西、島津と共に大垣城に在城しており、この時点で大坂方の美濃表への兵力集結は完了していた模様である(白峰、同上、38頁)。
立花宗茂も、4千人の軍勢を率いて垂井に着陣する予定であったが、9月7日に大坂方を裏切って近江大津城に籠城した京極高次を攻撃するため、転進した。なお、同時期大谷吉継は北陸制圧のため、まだ美濃には参陣していない。
両軍の兵力集中が完了したので、8月下旬に徳川方では敵方の犬山城を抑えた上で木曽川を渡り、岐阜城を攻撃する作戦を立案した。池田輝政組と福島正則組の二手に分かれて8月22日に木曽川を一挙に渡河し、輝政組は川端に出撃してきた織田秀信勢約2千人を蹴散らして北岸に進出した。
翌23日、福島正則組が未明から岐阜城を攻撃して本丸天守まで攻略して、織田秀信を降参させて身柄を拘束した。同日、後詰めに出てきた石田勢を黒田や藤堂らの軍勢が破った。24日の諸将の軍議で25日に三成の居城佐和山を攻撃することになったが、27日付家康書状で家康、秀忠の到着まで攻勢を差し控えるよう指示されたため、佐和山城攻撃は中止となった(白峰、同上、44頁)。9月3、4日頃には、犬山城も徳川方に明け渡された(白峰、同上、49頁)。
したがって、濃尾平野での戦況は一方的に徳川方有利に展開しており、大坂方は大垣城に籠城せざるを得ない状況に陥っていた。こうした有利な戦況が、遅れていた家康の江戸出陣を促したものと思われる。
家康は8月23日の岐阜落城の知らせを受けて、9月1日に江戸城を出陣した。会津上杉勢に対処するため宇都宮に在陣していた秀忠軍は、家康の命令で24日に中山道へ出陣し、信州真田の上田城攻略後、上洛する予定であった(白峰、同上、50頁)。したがって、家康の作戦計画では、当初から秀忠軍と合流した上で大坂方との決戦に臨む予定であったのである(白峰、同上)。
『三河物語』では、秀忠付きの本多正信が何事も1人で差配したため、軍事に明るくないにもかかわらず、真田昌幸の立て籠もる上田表から少しづつ兵を引き上げる「繰引」をしたため、9月15日の関ヶ原の決戦に2、3日遅れて到着したと述べている。秀忠の軍勢には戦場経験豊富な榊原康政が随行していたのだが、発言権が弱かったのか、彼が一体何をしていたのか、疑問である。
慶長5年家康の会津征伐中止と西上に関する状況分析
先の投稿で分析したように、太閤秀吉死後の覇権を事実上掌握した後、反対派に対する軍事力の誇示を目的に実行されたと思われるのが、慶長5年の家康の会津上杉征伐であった。
ところが、石田三成と大谷、安国寺の計略で毛利輝元が大坂に入城して秀頼を擁立することに成功したため、7月17日に三奉行連署の「内府ちかひの条々」が諸大名に発せられて反家康側が豊臣公儀に転換した結果、西国の勢力バランスが変動して、家康が動員した軍事力に十分対抗できる反家康軍が形成されることとなった。
さて、6月16日大阪を出撃して上杉征伐に向かった家康は、7月1日江戸に到着し、7日付けで軍法を定め、山形の最上義光に、南部利直と出羽の諸大名を率いて米沢方面に参陣することを命じている(白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)」『別府大学紀要』第53号、2012年、68頁)。
家康の作戦としては、前田利長の北国勢を最上勢に続いて米沢に進撃させるとともに、堀秀治の越後勢は津川筋から上杉領内に侵攻させる予定であった(白峰、同上)。つまり、手始めに米沢を攻略した後、続いて会津盆地に攻め入る手筈であった。また、伊達政宗は7月25日、上杉領となっていた旧領白石城を奪還し、叔父の石川昭光を城代として入城させることに成功している。
そして、秀忠の江戸出陣は19日、家康のそれは21日と決定されていた(白峰、同上、69頁)。ところが、7月半ばに「上方雑説」の動向が知らされたため、7月19日付で福島正則に軍勢を西上させることを命じている(白峰、同上、71頁)。これは恐らく、白峰氏の指摘する通り、最前線の拠点となり得る福島の居城清州城を確保しておくためだろう。
白峰氏は、通説が家康軍の会津征伐中止と反転西上が決定されたする、7月25日の小山評定の存在自体を確証が無いとして否定的に見ている。それはともかく、氏は23日には家康の上洛と上杉征伐中止が最上義光に伝えられたとされる(白峰、同上、73頁)。通説では、家康は26日に東下諸大名に一斉に西上することを命じている。
恐らく、まず最前線の清州城主、福島正則が先発して西上し、引き続いて家康養女の婿である黒田長政と娘婿の池田輝政、主力の東海大名達が逐次軍勢を返して西上したのだろう。黒田を除く東海諸大名達は、進路に位置する居城を確保して後続部隊を迎え入れ、自軍の戦備を整えるためにも、関東勢や従軍した四国勢よりも先発する必要があっただろう。
また、細川忠興は妻ガラシャが人質となることを拒んで自害し、父幽斎も丹後田辺城に籠城して抵抗していたため、大坂方から既に改易を宣告されていた。そのため、所領を回復するためにも勇戦敢闘せざるを得なかっただろう。
意外なのが、徳川四天王中の猛将である本多忠勝と井伊直政の両名が相談して西上に反対し、会津攻めをまず優先することを家康に進言して叱責された上、軍目付として早々と西上することを家康に命じられたことである。『三河物語』に記載されているので事実だろうが、この2人は戦況不利とでも考えたのだろうか。この時の忠勝と直政は、やや攻撃精神に欠けていたのかもしれない。
ちなみに酒井忠次は当時既に故人であり、もう1人の四天王である榊原康政は、本多正信と共に秀忠付きで宇都宮在陣中であった。なお、家康が小山から江戸に帰陣したのは8月5日であった(白峰、同上、76頁)。
ところが、石田三成と大谷、安国寺の計略で毛利輝元が大坂に入城して秀頼を擁立することに成功したため、7月17日に三奉行連署の「内府ちかひの条々」が諸大名に発せられて反家康側が豊臣公儀に転換した結果、西国の勢力バランスが変動して、家康が動員した軍事力に十分対抗できる反家康軍が形成されることとなった。
さて、6月16日大阪を出撃して上杉征伐に向かった家康は、7月1日江戸に到着し、7日付けで軍法を定め、山形の最上義光に、南部利直と出羽の諸大名を率いて米沢方面に参陣することを命じている(白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)」『別府大学紀要』第53号、2012年、68頁)。
家康の作戦としては、前田利長の北国勢を最上勢に続いて米沢に進撃させるとともに、堀秀治の越後勢は津川筋から上杉領内に侵攻させる予定であった(白峰、同上)。つまり、手始めに米沢を攻略した後、続いて会津盆地に攻め入る手筈であった。また、伊達政宗は7月25日、上杉領となっていた旧領白石城を奪還し、叔父の石川昭光を城代として入城させることに成功している。
そして、秀忠の江戸出陣は19日、家康のそれは21日と決定されていた(白峰、同上、69頁)。ところが、7月半ばに「上方雑説」の動向が知らされたため、7月19日付で福島正則に軍勢を西上させることを命じている(白峰、同上、71頁)。これは恐らく、白峰氏の指摘する通り、最前線の拠点となり得る福島の居城清州城を確保しておくためだろう。
白峰氏は、通説が家康軍の会津征伐中止と反転西上が決定されたする、7月25日の小山評定の存在自体を確証が無いとして否定的に見ている。それはともかく、氏は23日には家康の上洛と上杉征伐中止が最上義光に伝えられたとされる(白峰、同上、73頁)。通説では、家康は26日に東下諸大名に一斉に西上することを命じている。
恐らく、まず最前線の清州城主、福島正則が先発して西上し、引き続いて家康養女の婿である黒田長政と娘婿の池田輝政、主力の東海大名達が逐次軍勢を返して西上したのだろう。黒田を除く東海諸大名達は、進路に位置する居城を確保して後続部隊を迎え入れ、自軍の戦備を整えるためにも、関東勢や従軍した四国勢よりも先発する必要があっただろう。
また、細川忠興は妻ガラシャが人質となることを拒んで自害し、父幽斎も丹後田辺城に籠城して抵抗していたため、大坂方から既に改易を宣告されていた。そのため、所領を回復するためにも勇戦敢闘せざるを得なかっただろう。
意外なのが、徳川四天王中の猛将である本多忠勝と井伊直政の両名が相談して西上に反対し、会津攻めをまず優先することを家康に進言して叱責された上、軍目付として早々と西上することを家康に命じられたことである。『三河物語』に記載されているので事実だろうが、この2人は戦況不利とでも考えたのだろうか。この時の忠勝と直政は、やや攻撃精神に欠けていたのかもしれない。
ちなみに酒井忠次は当時既に故人であり、もう1人の四天王である榊原康政は、本多正信と共に秀忠付きで宇都宮在陣中であった。なお、家康が小山から江戸に帰陣したのは8月5日であった(白峰、同上、76頁)。
慶長5年会津上杉征伐前後の家康の状況判断に関する分析
先の投稿で分析したように、慶長4(1599)年3月に自己に対する監視及び牽制人であった前田利家が死去した後、徳川家康は、現行の豊臣秩序に対するスポイラー戦略から、挑戦戦略に転換して、豊臣体制下における覇権を事実上掌握するに至った。
能力に問題がある覇権者豊臣側では、既に失脚した奉行の石田三成が主導して中国の毛利氏にバック・パッシング(責任転嫁)することにより、家康に対抗させる戦略を採った。毛利輝元は、自己と同じ第三勢力の会津の上杉景勝が家康に抵抗戦略を採ったことから、徳川に対抗できると計算してバック・キャッチャーを引き受け、家康に対して軍事的なハード・バランシング戦略を採る道を選択したのである。
さて、その上杉景勝であるが、天正壬午の乱の頃から北信をめぐる領土紛争で家康と対立していたこともあり、また養父謙信以来の武勇の誇りもあったためか、慶長5年春に家康から上洛して軍備増強の釈明を命じられても、これを拒否した。
景勝の第一の側近かつ重臣である直江兼続が、上洛を勧告した知人の西笑承兌の手紙に返書を書いたが、これが偽書説もある直江状である。自分も読んだが、承兌の問いに逐一回答する内容で特に不自然では無く、また巷間言われるように家康に対して特段無礼な内容とも思われない。
ただし、直江状で軍備増強は田舎武士にとっては当然で起請文のやり取りは無駄であると述べ、上杉家の会津移封後の仕置に時間が必要で、旧領越後に入った堀秀治による景勝謀反の讒言について家康が公平に究明するまで景勝が上洛できないこと、徳川家の取次榊原康政を非難していることなどが、公儀の命令を拒否し無礼として、会津征伐の口実とされたのだろう。
会津征伐については、天皇と秀頼から公認されて家康に軍資金や兵糧も提供されており、完全な公戦の位置付けである。大久保彦左衛門の著書『三河物語』によると、全国の諸大名が動員されて、6月に家康が大阪・京を出陣して先陣が那須野に押し出しても、後陣はまだ東海辺りを進撃していたとの記述がある。したがって、通常であれば上杉方に全く勝ち目はなく、直江兼続と石田三成が共謀して家康を東北におびき寄せたという事実も考えられない。
逆に、家康が三成謀反を誘発させて決着をつけるために、敢えて会津征伐を決行したというのも俗説に過ぎないだろう。家康にとって、三成と安国寺恵瓊、大谷吉継が毛利を巻き込んで7月に挙兵する事態は全く想定外だっただろう。失脚した奉行に過ぎない当時の三成に、そのような調整能力があるとは到底思えないからだ。
ところが、三成ら反乱勢力は、家康の拠点である大阪城西の丸に毛利輝元を引き入れることに成功した。これは輝元の信任厚い安国寺恵瓊の謀略が成功したためで、同時期に毛利家内部の反恵瓊派の大阪留守居の重臣達や親徳川派の吉川広家は、江戸の家康側に輝元に他意が無いことを連絡している。
しかし、毛利が反乱に加担したことで西国における勢力バランスが変動し、それまで家康に懐柔されていた増田長盛、前田玄以、長束正家の三奉行が「内府ちかひの条々」という家康弾劾状に連署して諸大名に配布した結果、豊臣公儀が反家康側を公認する形式が整った。『三河物語』によると、石田、毛利、島津、安国寺、小西、増田、長束、大谷、丹羽、立花、小早川、岐阜の織田、宇喜多、長宗我部、織田常真(信雄)他の西国大名、東国では上杉、佐竹、上田の真田が家康に敵対したと書いてある。
他方、家康に従っていたのは、伊達、最上、南部その他の東北大名グループと、前田、堀その他の北国大名グループ、家康子息や徳川譜代大名グループ、黒田、細川、加藤嘉明、藤堂らの自主参戦した西国大名グループ、そして主力部隊であったのが、福島正則、池田輝政らの軍役で参戦した東海大名グループであった。他に九州現地では、加藤清正と黒田如水が、家康側に付いて独自に参戦した。
その結果、ほぼ東西両軍が分かれて、関ヶ原の大決戦に臨む体制が出来上がったのである。
能力に問題がある覇権者豊臣側では、既に失脚した奉行の石田三成が主導して中国の毛利氏にバック・パッシング(責任転嫁)することにより、家康に対抗させる戦略を採った。毛利輝元は、自己と同じ第三勢力の会津の上杉景勝が家康に抵抗戦略を採ったことから、徳川に対抗できると計算してバック・キャッチャーを引き受け、家康に対して軍事的なハード・バランシング戦略を採る道を選択したのである。
さて、その上杉景勝であるが、天正壬午の乱の頃から北信をめぐる領土紛争で家康と対立していたこともあり、また養父謙信以来の武勇の誇りもあったためか、慶長5年春に家康から上洛して軍備増強の釈明を命じられても、これを拒否した。
景勝の第一の側近かつ重臣である直江兼続が、上洛を勧告した知人の西笑承兌の手紙に返書を書いたが、これが偽書説もある直江状である。自分も読んだが、承兌の問いに逐一回答する内容で特に不自然では無く、また巷間言われるように家康に対して特段無礼な内容とも思われない。
ただし、直江状で軍備増強は田舎武士にとっては当然で起請文のやり取りは無駄であると述べ、上杉家の会津移封後の仕置に時間が必要で、旧領越後に入った堀秀治による景勝謀反の讒言について家康が公平に究明するまで景勝が上洛できないこと、徳川家の取次榊原康政を非難していることなどが、公儀の命令を拒否し無礼として、会津征伐の口実とされたのだろう。
会津征伐については、天皇と秀頼から公認されて家康に軍資金や兵糧も提供されており、完全な公戦の位置付けである。大久保彦左衛門の著書『三河物語』によると、全国の諸大名が動員されて、6月に家康が大阪・京を出陣して先陣が那須野に押し出しても、後陣はまだ東海辺りを進撃していたとの記述がある。したがって、通常であれば上杉方に全く勝ち目はなく、直江兼続と石田三成が共謀して家康を東北におびき寄せたという事実も考えられない。
逆に、家康が三成謀反を誘発させて決着をつけるために、敢えて会津征伐を決行したというのも俗説に過ぎないだろう。家康にとって、三成と安国寺恵瓊、大谷吉継が毛利を巻き込んで7月に挙兵する事態は全く想定外だっただろう。失脚した奉行に過ぎない当時の三成に、そのような調整能力があるとは到底思えないからだ。
ところが、三成ら反乱勢力は、家康の拠点である大阪城西の丸に毛利輝元を引き入れることに成功した。これは輝元の信任厚い安国寺恵瓊の謀略が成功したためで、同時期に毛利家内部の反恵瓊派の大阪留守居の重臣達や親徳川派の吉川広家は、江戸の家康側に輝元に他意が無いことを連絡している。
しかし、毛利が反乱に加担したことで西国における勢力バランスが変動し、それまで家康に懐柔されていた増田長盛、前田玄以、長束正家の三奉行が「内府ちかひの条々」という家康弾劾状に連署して諸大名に配布した結果、豊臣公儀が反家康側を公認する形式が整った。『三河物語』によると、石田、毛利、島津、安国寺、小西、増田、長束、大谷、丹羽、立花、小早川、岐阜の織田、宇喜多、長宗我部、織田常真(信雄)他の西国大名、東国では上杉、佐竹、上田の真田が家康に敵対したと書いてある。
他方、家康に従っていたのは、伊達、最上、南部その他の東北大名グループと、前田、堀その他の北国大名グループ、家康子息や徳川譜代大名グループ、黒田、細川、加藤嘉明、藤堂らの自主参戦した西国大名グループ、そして主力部隊であったのが、福島正則、池田輝政らの軍役で参戦した東海大名グループであった。他に九州現地では、加藤清正と黒田如水が、家康側に付いて独自に参戦した。
その結果、ほぼ東西両軍が分かれて、関ヶ原の大決戦に臨む体制が出来上がったのである。
秀吉死後の徳川家康の戦略と、覇権移行に関する分析
慶長3(1598)年8月18日に太閤豊臣秀吉は死去するが、後継者秀頼はまだ幼く、その成人迄の政務を徳川家康が伏見城で、後見役を前田利家が大坂城で各々司ることを遺言して、家康への覇権移行を抑制し、豊臣政権の維持を図った。
当時、豊臣直轄領は摂河泉を中心に、全国で約200万石が散在していた。
ちなみに、江戸内大臣の家康は、諸大名中最大の関東6カ国約250万石の領地を持ち、官位の序列はトップ、毛利と上杉両氏のそれぞれ約120万石・中納言を圧倒していた。バランサーに抜擢された加賀大納言利家は、83万石の領地を持つに過ぎなかった。
秀吉は自分の死後、豊臣家をパワーで追走する家康を牽制するために、織田家の同僚であった利家を監視役として抜擢したのである。しかし、肝心の利家が翌慶長4年3月3日に死去してしまったため、家康排除を目論んだ奉行の石田三成は福島正則や加藤清正ら、家康与党の武功派七将に襲撃されて失脚し、居城の近江佐和山に引退させられてしまう。
家康は9月に、長束正家と前田玄以両奉行の要請と称して伏見城から大坂城西の丸に入城し、西の丸に天守閣を築き、秀頼親子を抱き込んで大阪で政務をとる。同時期に秀頼の名を借りて、細川忠興や島津義久らの大名達を加増している。実質的な天下人としての権限行使である。
その後、利家の後を継いだ前田利長は浅野長政らとともに家康暗殺の疑いをかけられ、加賀討伐が計画される。国際政治で言う、ブラックメールである。利長は母の芳春院を江戸に人質に出して、徳川に完全屈服した。これで、事実上家康が、秀吉死後の天下人として覇権を掌握することにほぼ成功したと言える。その後は、徳川家の軍事力で反対勢力を制圧するだけであった。
覇権とは、システムにおけるパワー分布が単極化した状態である。分散化した多極構造から、ある一国が覇権を形成するパワー移行(transition)の状態にある時、国際政治は不安定化し、対抗勢力の大連合が組まれて大きな戦争が起きやすい(山本吉宣「パワー・シフトの中の日本の安全保障」、渡邉昭夫・秋山昌廣編著『日本をめぐる安全保障これから10年のパワー・シフト-その戦略環境を探る-』亜紀書房、2014年、第1章23頁参照)。ナポレオン戦争やナチス・ドイツとの戦争、日本史では関ヶ原の戦いが格好の事例である。
死直前の秀吉の遺命の意図は、追走者家康を現行の豊臣秩序に縛り付けて利益を分与し、将来的に脅威とならないようにする覇権者のバインディング戦略(山本、同上、35頁)である。秀頼と家康の孫千姫を秀吉が婚約させたのも、姻戚関係を作って家康の行動を制約するためだ。
また、この戦略は、覇権者側の力に余裕が残されていて追走者側との格差がなお大きく、二番手がまだ差し迫った脅威と見なされない時に採られる、現状維持のためのヘッジング戦略とも言える(山本、同上、35頁)。しかし、秀吉のこの目論見は、バランサー役前田利家の早すぎる死によって水泡に帰してしまった。利家の死後、家康が一挙に覇権掌握に乗り出したからである。
追走者家康の戦略としては、既存秩序からどの程度利益が得られているか、覇権者との力関係がどう変化するかの2つの点によって、様々な選択肢が考えられる。
例えば、徳川家が現状で十分な利益が得られていれば、敢えて覇権者と対立せず力を伸ばして将来に備えるヘッジング戦略を採るだろうし、あるいは、現行秩序に大きな不満はあるが依然それを覆す力が不足していれば、ルール違反を繰り返して秩序を弱体化させる、スポイラー戦略を採ることも有り得る(山本、同上、33頁)。
前田利家の生前既に、家康が太閤置目に背いて伊達政宗らと大名同士の婚姻を無許可で進めて、その「専横」を奉行達に非難されていたから、この頃の家康はスポイラー戦略を採っていたのだろう。
しかし、利家死後は覇権者豊臣家と追走者徳川家の力の差が縮小したため、家康はスポイラー戦略から、秩序の基本原理を変えようとする挑戦戦略に切り替えたのだろう。
さらに、慶長5(1600)年春の上杉景勝の軍備増強と上洛拒否問題を契機に勃発した会津征伐と関ヶ原の戦いの結果、家康の戦略は、力で現行秩序をひっくり返そうとする革命戦略(山本、同上、34頁)に再転換したと見ることができる。
追走者家康がスポイラー戦略から挑戦戦略に移行した時、幼少の秀頼を戴く覇権者豊臣家側は自己の能力に問題があると認識していただろう。したがって、豊臣家の対外的コミットメントを過剰拡大として縮小あるいは再編成し、オフショア・バランシング戦略を採るか、追走者との対抗を他者に依存するバック・パッシング戦略を採ることが考えられた(山本、同上、36頁)。
この豊臣家のバック・パッシング戦略を主導したのが石田三成その人に他ならず、バック・キャッチャーとなったのが、第三勢力である中国の毛利氏である。
秀吉の死後、関ヶ原の戦い直前のように単極構造が崩壊していく状況を前提とした場合、毛利氏のような第三勢力の戦略は、覇権者と追走者のいずれかに対して、バンドワゴンや同盟・連携のような協力戦略を採るか、あるいは、言うことを聞かない無視、規範や制度によるバインディング、さらに軍事または外交によるハードかソフトいずれかのバランシングといった対抗・抵抗戦略を採るか、いずれかの途が有り得る(山本、同上、39‐40頁)。
毛利輝元は、石田三成と連合して、追走者家康にハード・バランシングする選択をしたわけである。結果的に、会津の上杉景勝もその連合に乗っかる大連合が形成された。これで、軍事力としては、徳川に十分対抗できる体制ができたと言える。
かくして、覇権移行の決着をつける、関ヶ原の戦いの体制が整ったのである。
当時、豊臣直轄領は摂河泉を中心に、全国で約200万石が散在していた。
ちなみに、江戸内大臣の家康は、諸大名中最大の関東6カ国約250万石の領地を持ち、官位の序列はトップ、毛利と上杉両氏のそれぞれ約120万石・中納言を圧倒していた。バランサーに抜擢された加賀大納言利家は、83万石の領地を持つに過ぎなかった。
秀吉は自分の死後、豊臣家をパワーで追走する家康を牽制するために、織田家の同僚であった利家を監視役として抜擢したのである。しかし、肝心の利家が翌慶長4年3月3日に死去してしまったため、家康排除を目論んだ奉行の石田三成は福島正則や加藤清正ら、家康与党の武功派七将に襲撃されて失脚し、居城の近江佐和山に引退させられてしまう。
家康は9月に、長束正家と前田玄以両奉行の要請と称して伏見城から大坂城西の丸に入城し、西の丸に天守閣を築き、秀頼親子を抱き込んで大阪で政務をとる。同時期に秀頼の名を借りて、細川忠興や島津義久らの大名達を加増している。実質的な天下人としての権限行使である。
その後、利家の後を継いだ前田利長は浅野長政らとともに家康暗殺の疑いをかけられ、加賀討伐が計画される。国際政治で言う、ブラックメールである。利長は母の芳春院を江戸に人質に出して、徳川に完全屈服した。これで、事実上家康が、秀吉死後の天下人として覇権を掌握することにほぼ成功したと言える。その後は、徳川家の軍事力で反対勢力を制圧するだけであった。
覇権とは、システムにおけるパワー分布が単極化した状態である。分散化した多極構造から、ある一国が覇権を形成するパワー移行(transition)の状態にある時、国際政治は不安定化し、対抗勢力の大連合が組まれて大きな戦争が起きやすい(山本吉宣「パワー・シフトの中の日本の安全保障」、渡邉昭夫・秋山昌廣編著『日本をめぐる安全保障これから10年のパワー・シフト-その戦略環境を探る-』亜紀書房、2014年、第1章23頁参照)。ナポレオン戦争やナチス・ドイツとの戦争、日本史では関ヶ原の戦いが格好の事例である。
死直前の秀吉の遺命の意図は、追走者家康を現行の豊臣秩序に縛り付けて利益を分与し、将来的に脅威とならないようにする覇権者のバインディング戦略(山本、同上、35頁)である。秀頼と家康の孫千姫を秀吉が婚約させたのも、姻戚関係を作って家康の行動を制約するためだ。
また、この戦略は、覇権者側の力に余裕が残されていて追走者側との格差がなお大きく、二番手がまだ差し迫った脅威と見なされない時に採られる、現状維持のためのヘッジング戦略とも言える(山本、同上、35頁)。しかし、秀吉のこの目論見は、バランサー役前田利家の早すぎる死によって水泡に帰してしまった。利家の死後、家康が一挙に覇権掌握に乗り出したからである。
追走者家康の戦略としては、既存秩序からどの程度利益が得られているか、覇権者との力関係がどう変化するかの2つの点によって、様々な選択肢が考えられる。
例えば、徳川家が現状で十分な利益が得られていれば、敢えて覇権者と対立せず力を伸ばして将来に備えるヘッジング戦略を採るだろうし、あるいは、現行秩序に大きな不満はあるが依然それを覆す力が不足していれば、ルール違反を繰り返して秩序を弱体化させる、スポイラー戦略を採ることも有り得る(山本、同上、33頁)。
前田利家の生前既に、家康が太閤置目に背いて伊達政宗らと大名同士の婚姻を無許可で進めて、その「専横」を奉行達に非難されていたから、この頃の家康はスポイラー戦略を採っていたのだろう。
しかし、利家死後は覇権者豊臣家と追走者徳川家の力の差が縮小したため、家康はスポイラー戦略から、秩序の基本原理を変えようとする挑戦戦略に切り替えたのだろう。
さらに、慶長5(1600)年春の上杉景勝の軍備増強と上洛拒否問題を契機に勃発した会津征伐と関ヶ原の戦いの結果、家康の戦略は、力で現行秩序をひっくり返そうとする革命戦略(山本、同上、34頁)に再転換したと見ることができる。
追走者家康がスポイラー戦略から挑戦戦略に移行した時、幼少の秀頼を戴く覇権者豊臣家側は自己の能力に問題があると認識していただろう。したがって、豊臣家の対外的コミットメントを過剰拡大として縮小あるいは再編成し、オフショア・バランシング戦略を採るか、追走者との対抗を他者に依存するバック・パッシング戦略を採ることが考えられた(山本、同上、36頁)。
この豊臣家のバック・パッシング戦略を主導したのが石田三成その人に他ならず、バック・キャッチャーとなったのが、第三勢力である中国の毛利氏である。
秀吉の死後、関ヶ原の戦い直前のように単極構造が崩壊していく状況を前提とした場合、毛利氏のような第三勢力の戦略は、覇権者と追走者のいずれかに対して、バンドワゴンや同盟・連携のような協力戦略を採るか、あるいは、言うことを聞かない無視、規範や制度によるバインディング、さらに軍事または外交によるハードかソフトいずれかのバランシングといった対抗・抵抗戦略を採るか、いずれかの途が有り得る(山本、同上、39‐40頁)。
毛利輝元は、石田三成と連合して、追走者家康にハード・バランシングする選択をしたわけである。結果的に、会津の上杉景勝もその連合に乗っかる大連合が形成された。これで、軍事力としては、徳川に十分対抗できる体制ができたと言える。
かくして、覇権移行の決着をつける、関ヶ原の戦いの体制が整ったのである。
2015年4月30日木曜日
イエメン情勢-サウジの新体制と対イラン代理戦争
アブドゥッラー前国王が死去したことを受けて、今年1月24日に即位したサルマーン新サウジ国王が、4月29日、甥で内務大臣のムハンマド・ビン・ナーイフ王子を新たな皇太子に、また、息子で国防大臣のムハンマド・ビン・サルマーン王子を新副皇太子に任命した。サウジ建国の父イブン・サウド王の孫の世代が初めて皇太子に就いた、非常に画期的な出来事である。
この人事の背景には、悪化する一方の隣国イエメン情勢に、サウジがより積極的に対処するための新体制を強化する意図がある。内務大臣と国防大臣は、イランの支援を受けて首都サナアを占拠する反体制武装勢力ホーシー派に対してサウジ主導の有志連合が継続している空爆と、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)に対する対テロ作戦の要となる存在だからだ。
ホーシー派とは、シーア派分派であるザイド派の復興運動を支持する武装グループで、アラブの春によって失脚したサーレハ前大統領と結託して政権移行プロセスを武力で妨害し、昨年8月に首都サナアを制圧した、イエメンで最も有力な反体制組織である。
サウジとペルシャ湾岸の覇権をめぐって対立するシーア派大国イランは、ホーシー派を支援して、今年2月、イエメンのハーディー暫定大統領を南部のアデンに追い払った。3月には、ホーシー派がアデン近郊にまで迫ったため、大統領はサウジアラビアに逃れた。
したがって、3月26日から開始されたサウジ空軍などのホーシー派に対する空爆は、イランのイエメンへの影響力拡大を阻止するのが、本当の目的なのである。
現在、イランの影響力は、内戦の続くシリアとイラク、ヒズブッラーへの支援を通じてシリアの隣国レバノン、そしてホーシー派支援を通じてイエメンへと、過去10年間で飛躍的に伸びた。サウジアラビアは、イランの傀儡勢力に包囲されつつあるという強い危機感を抱いている。イエメンでの軍事作戦は、サウジのイランに対する脅威認識を反映したものなのである。
特にイエメンがイラクのような破綻国家となると、シーア派民兵がイエメンを安全地帯化してサウジに越境攻撃をかけて、サウジの王政を揺るがす恐れがある。また、ホーシー派と対立するスンナ派テロ組織であるAQAPの対サウジ攻撃が激化する危険性もある。何しろ、新皇太子は2009年、AQAPの爆破テロ未遂事件で危うく殺されかけた経験を持っているのである。
イエメンの対AQAP攻撃という一点では、サウジとイランが共通の利害関係にあるという、錯綜した状況なのである。いずれにせよ、今回のサウジ新体制の発足によって、イエメンでのサウジとホーシー派を介したイランとの代理戦争が、なお一層激化することは明らかだ。
アデン湾と紅海の入り口を繋ぐバーブ・ル・マンデブ海峡は、エジプトの大事な外貨収入源であるスエズ運河とインド洋を結ぶ、世界的な重要航路である。イエメンの不安定化を懸念するエジプトは、サウジの空爆を支援するだけでなく、イエメンへの軍の派遣を検討するかもしれない。
また、イエメンの対岸ジブチには、海賊対策のために海上自衛隊を含む各国の艦隊が展開している。したがって、イエメンの不安定化は、我が国にとっても決して対岸の火事ではないと言えるだろう。
この人事の背景には、悪化する一方の隣国イエメン情勢に、サウジがより積極的に対処するための新体制を強化する意図がある。内務大臣と国防大臣は、イランの支援を受けて首都サナアを占拠する反体制武装勢力ホーシー派に対してサウジ主導の有志連合が継続している空爆と、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)に対する対テロ作戦の要となる存在だからだ。
ホーシー派とは、シーア派分派であるザイド派の復興運動を支持する武装グループで、アラブの春によって失脚したサーレハ前大統領と結託して政権移行プロセスを武力で妨害し、昨年8月に首都サナアを制圧した、イエメンで最も有力な反体制組織である。
サウジとペルシャ湾岸の覇権をめぐって対立するシーア派大国イランは、ホーシー派を支援して、今年2月、イエメンのハーディー暫定大統領を南部のアデンに追い払った。3月には、ホーシー派がアデン近郊にまで迫ったため、大統領はサウジアラビアに逃れた。
したがって、3月26日から開始されたサウジ空軍などのホーシー派に対する空爆は、イランのイエメンへの影響力拡大を阻止するのが、本当の目的なのである。
現在、イランの影響力は、内戦の続くシリアとイラク、ヒズブッラーへの支援を通じてシリアの隣国レバノン、そしてホーシー派支援を通じてイエメンへと、過去10年間で飛躍的に伸びた。サウジアラビアは、イランの傀儡勢力に包囲されつつあるという強い危機感を抱いている。イエメンでの軍事作戦は、サウジのイランに対する脅威認識を反映したものなのである。
特にイエメンがイラクのような破綻国家となると、シーア派民兵がイエメンを安全地帯化してサウジに越境攻撃をかけて、サウジの王政を揺るがす恐れがある。また、ホーシー派と対立するスンナ派テロ組織であるAQAPの対サウジ攻撃が激化する危険性もある。何しろ、新皇太子は2009年、AQAPの爆破テロ未遂事件で危うく殺されかけた経験を持っているのである。
イエメンの対AQAP攻撃という一点では、サウジとイランが共通の利害関係にあるという、錯綜した状況なのである。いずれにせよ、今回のサウジ新体制の発足によって、イエメンでのサウジとホーシー派を介したイランとの代理戦争が、なお一層激化することは明らかだ。
アデン湾と紅海の入り口を繋ぐバーブ・ル・マンデブ海峡は、エジプトの大事な外貨収入源であるスエズ運河とインド洋を結ぶ、世界的な重要航路である。イエメンの不安定化を懸念するエジプトは、サウジの空爆を支援するだけでなく、イエメンへの軍の派遣を検討するかもしれない。
また、イエメンの対岸ジブチには、海賊対策のために海上自衛隊を含む各国の艦隊が展開している。したがって、イエメンの不安定化は、我が国にとっても決して対岸の火事ではないと言えるだろう。
先制的自衛権行使の問題
国連憲章第51条は、国家の個別的、集団的自衛権を認めている。イスラエルがイランを攻撃する場合には、この個別的自衛権を援用して先制攻撃を正当化しようとするだろう。その場合、自衛権に先制的自衛権の行使(preemptive action in
self-defense)が含まれるのか、また、それが予防戦争(preventive war)と一体どう異なるのかについて、改めて問題化するだろう。同様の議論は、2001年の9・11事件後のブッシュ米前政権によるタリバン攻撃の際にも起こった。この論点に関しては、アメリカもイスラエルも、自衛権に先制的自衛権が含まれるとする、いわゆる「積極説」の立場を採っている[1]。
先制的自衛権行使の重要な先例は、英国海軍がアメリカ国内でカナダの反乱を支援する米国小汽船を攻撃し、アメリカ人を殺害した1837年12月29日に起きた「キャロライン号事件」である[2]。この事件後に当時のダニエル・ウェブスター米国務長官が英国公使宛ての書簡で示した見解が、先制的自衛権行使のメルクマールとなった。その中では、攻撃以外に「手段の選択と熟慮の時間が残されておらず」(“leaving no choice of means
and no moment for deliberation”)、「最も緊急で極度の必要性」(“most urgent and extreme
necessity”)、すなわち目前に「差し迫った」(imminent)重大な自衛の必要性を示すことが、先制攻撃の要件とされた[3]。
現在の国際法では、ウェブスター書簡のメルクマールを発展させて、軍事的反撃が必要であるかどうか(必要性の原則)、その反撃が相手の攻撃とつりあっているかどうか(均衡性の原則)、そして、反撃が即座に行われたどうか(即時性の原則)の3つの原則が、国際法が禁止している復仇や報復を行わせないために自衛権行使の要件と見なされている[4]。
現在の国際法では、ウェブスター書簡のメルクマールを発展させて、軍事的反撃が必要であるかどうか(必要性の原則)、その反撃が相手の攻撃とつりあっているかどうか(均衡性の原則)、そして、反撃が即座に行われたどうか(即時性の原則)の3つの原則が、国際法が禁止している復仇や報復を行わせないために自衛権行使の要件と見なされている[4]。
このように、先制的自衛権の行使を認めるとしても、それは敵の攻撃が切迫していることの疑問の余地のない証拠が必要であり、将来の敵の攻撃を不可避と予見して危険の増大を予め取り除くことを目的として行われる予防戦争とは、概念がそもそも異なっている。しかし、その時間的な境界線は曖昧である[5]。
イスラエルが実際に行使した先制攻撃の事例で言えば、1967年5月にエジプトがアカバ湾を封鎖し、シナイ半島で停戦監視していた国連緊急軍(UNEF)を撤退させた翌6月、アラブ側の差し迫った攻撃を阻止するためにシナイ半島を攻撃して占領したケースがある[6]。この場合、直後に第3次中東戦争が勃発したことから、イスラエルの先制的自衛権の行使として多くの国から支持された。
有名な1981年6月7日のイラクのオシラク原子炉空爆の時は、国連安保理が全会一致で6月19日にイスラエルの行動を非難する決議487号を採択した。イスラエルから事前通告を受けていなかったアメリカも、イスラエルの主張したイラク原子炉のもたらす脅威(イスラエル攻撃用の核爆弾製造)の事実関係が希薄であったため、先制的自衛権行使の要件を満たさないとしてイギリスとともにイスラエル非難決議に賛成した[7]。
イスラエル空軍は1985年10月1日、ベイルートからチュニジアの首都チュニスに移転していたパレスチナ解放機構(PLO)本部を長駆渡洋爆撃して、ヤセル・アラファト議長の殺害を試みた。この時にも国連安保理が10月4日にイスラエル非難決議573号を採択したが、レーガン政権時代のアメリカは棄権してイスラエルの攻撃を黙認した。ただし、このケースでは攻撃直前の9月25日にキプロスのラルナカ沖でファタハ(PLO内のアラファト議長与党)武装勢力と思われる部隊によってイスラエル人3人が殺害される事件が起きており、それに対する反撃であったため、少なくとも事後的かつ即時性の原則は満たしていたとも思われる。
最近の事例では、2007年9月6日、イスラエルはシリアのアル・キバル近郊にある核施設を空爆して破壊したとされている。シリアは北朝鮮の支援を受けて秘密裏に原子炉を建設中であったと見られたが、シリアは核兵器開発計画の存在を否定した[8]。このケースでは国際社会のイスラエルに対する非難は特になく、アメリカは懸念を示したものの攻撃自体は黙認した。
以上の事例から考察すると、現在ではイスラエルの先制攻撃自体が半ば当たり前の行為であるかのように国際社会から認識されつつあり、アメリカがほぼ常に黙認しているので、国連安保理でもイスラエルの攻撃が先制的自衛権の行使に当たるかどうか特に話題にならないとさえ考えることもできるだろう。こうした考え方に立つと、イスラエルがイランの核施設を攻撃してしまえば、アメリカは後から黙認せざるを得ないとする楽観論も出てくる余地がある。
[1] 清水隆雄「国際法と先制的自衛」『レファレンス』(2004年4月)、33-35頁。
[2] William H. Taft
IV, “The Legal Basis for Preemption,”
November 18, 2002, Council on Foreign
Relations, < http://www.cfr.org/international-law/legal-basis-preemption/p5250>, accessed
on March 14, 2014; 清水、同上30-31頁。
[3] Ibid.
[4] 清水、同上32頁。
[5] 清水、同上38頁。
[6] 清水、同上34頁。
[7] William H. Taft
IV, “The Legal Basis for Preemption,”
November 18, 2002.
[8] “Syria 'had covert nuclear
scheme',” BBC News Middle East, 25
April 2008, <http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7364269.stm>,
accessed on March 18, 2014.
2015年4月29日水曜日
同盟と遠交近攻-小牧・長久手の戦いと沼尻の戦い
先日の投稿で、織田・徳川の清州同盟を事例として「同盟のジレンマ」について考察した。今日は、同盟についてより深く分析するため、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いと沼尻の戦いを事例として、東海の戦国大名と関東の戦国大名との連携と遠交近攻について考察してみたい。
さて、分析に用いる枠組みは、今日の国際関係理論の中で攻撃的リアリズムと呼ばれるものである。
現在の国際システムは、主権国家をアクターとする分権的なシステムであり、主権国家を超越するような中央政府が存在しないという意味でアナーキーである。アナーキーは決して無秩序ではないが、一定の秩序を保つためには人間の英知が必要である。
そうした英知には、法規範によって国家の行動を制約しようとする工夫(国際法)や、各国のパワーの配分を管理する工夫(勢力均衡と同盟)、そして、第二次世界大戦後には集団安全保障という工夫(国際連合)も構築された。
国家が目指すのは「国益」であり、アナーキー下での「国益」は、究極的には「自己保存の欲求」に集約される。そして、その欲求を満たすために、システム内における自国の現状の相対的位置を保つことが良いか、あるいは現状のパワーの配分以上に自国のパワーを拡大した方が良いか、2つの見方が出てくるだろう。
全ての国家が前者の見方に立つならば、現状のパワーの配分を維持するだけで良しとされるから、敢えてパワーを拡大しようとする国家は無く、国際システムは保守的かつ静的な世界となるだろう。ケネス・ウォルツが理論化した、防御的リアリズムの世界がこれに当たる。
しかし、国家の中には、かつてのナチス・ドイツや現在の中国のように、現状のパワーの配分に不満を抱いて敢えて現状を変更したいと望む国家もある。その場合、もはや防御的リアリズムは妥当せず、国際システムは下手をすると「万人の万人に対する闘争」のホッブズ的世界に陥りかねない。
その場合、現状変更国の脅威に対抗するために、隣国は自国のパワーを強化して脅威を抑止するか、同様の脅威認識を抱く仲間と連合して、脅威に対抗する同盟を締結する。そして、相互に抑止が機能して戦争に至らない状態が保たれれば、それが平和と言うことになる。戦争は、現状変更国が自国のパワーを拡大するためか(侵略戦争)、抑止が崩壊した場合に秩序を回復するための最終手段(自衛戦争)として行われることになる。
同盟が形成された場合でも、できれば自分は参戦したくないし、同盟のパートナーに防衛責任を押し付けたい。これが、バック・パッシング(責任転嫁)である。また、紛争地帯から離れた同盟パートナーは、紛争地帯のパートナーに防衛責任を任せて、できるだけ自分は遠方から影響力だけを行使したいと考える。これが、オフショア・バランシング(沖合からの均衡化)である。この2つの作用によって、いわゆる遠交近攻が発生するわけである。
天正12年は、天正10年6月の本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた後の秩序回復期であり、日本国内はなおアナーキーな状態であった。前年4月の賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は織田信雄を安土城から追放して、清州会議体制の現状を変更して自分のパワーを拡大しようとしていた。
信雄は、徳川家康と同盟を結んで秀吉の脅威に対抗する。これは典型的なバック・パッシングである。信雄は能は父信長譲りで上手であったが、単独で伊賀攻めを試みて敗北し信長に叱責されたり、山崎の戦い後明智軍が撤収した安土城を無駄に焼失させたり、また、秀吉の挑発に乗って三家老を殺害したりと、武将としての能力が欠如していた。家康が敢えてバック・キャッチャーを引き受けたのは、恐らく秀吉と対決するための大義名分として信雄を利用するためだろう。
当時の同盟関係のキーパーソンは、家康である。彼は本能寺の変後、伊賀越えの危機を乗り切って三河に帰国した直後、光秀討伐に出陣した。この時は信長政権の後継者の地位を狙ったのだろう。
しかし、秀吉に先を越されると、すぐに転進して天正壬午の乱で後北条氏を破り、東国の旧織田領(甲信両国)を確保するとともに、北条氏と対立する北関東の諸大名に信長時代の惣無事を通告している。これは明らかに、自分が信長政権の東国担当者の地位を継承したと誇示するためだろう。家康は、北関東の紛争地帯にオフショア・バランシングする意図を示したとも言える。この辺の機敏さが、家康が「海道一の弓取り」たる所以であろう。
ところが家康が北条氏と和解すると、宇都宮、佐竹、真田などの北関東の大名達は秀吉に接近を図る。すでに越後の上杉景勝は、秀吉と連携して北信で家康と抗争中であったから、東国方面で家康は不利な状況に陥った。そこで、状況を打開するために再度西に転じて、織田政権簒奪に乗り出した秀吉と対決する途を家康が選択したものと思われる。
小牧・長久手の戦いでは、3月に羽黒の戦いで森長可を破って信長の築城した小牧山城を家康が確保した時点で、塹壕戦類似の長期戦が確定したため、家康・信雄側の敗戦はほぼ無くなったと言える。
その膠着状態を打開するための作戦が、4月の秀吉側の三河侵攻軍派遣であった。確かに、長大化した戦線を迂回して敵の背後を襲うのは理に適った作戦であるが、派遣部隊相互の連携は必ずしも取れていなかったし、機動が緩慢であった印象も受ける。
これに対して家康軍は、自分の勢力圏で情報収集も容易であったし、その機動は迅速であり、何より徳川四天王が全員大活躍するなど、前線部隊の戦闘力で優越していた印象を受ける。長久手の戦いは、家康の会心の勝利であっただろう。後の関ヶ原の戦いでの徳川家の覇権掌握に繋がる武勇の名声は、この戦いによって決定づけられたと言えるのではないか。
同じ頃、北関東では、北条氏が上野・下野両国に侵攻して、宇都宮・佐竹両氏と沼尻で長期戦の対陣をしていた。これは、家康側の北条氏と、秀吉側の宇都宮・佐竹氏による辺境での代理戦争とも言える。まさしく、戦国時代の遠交近攻の好事例と言えるだろう。
北条氏の他に、紀州雑賀と根来衆、四国の長宗我部氏、そして越中の佐々成政が家康・信雄と連携して反秀吉行動に出たが、彼らはいずれも後に家康に見捨てられて、秀吉軍に各個撃破されてしまった。こうした非情さも、国際政治を彷彿とさせるものがあるだろう。
さて、分析に用いる枠組みは、今日の国際関係理論の中で攻撃的リアリズムと呼ばれるものである。
現在の国際システムは、主権国家をアクターとする分権的なシステムであり、主権国家を超越するような中央政府が存在しないという意味でアナーキーである。アナーキーは決して無秩序ではないが、一定の秩序を保つためには人間の英知が必要である。
そうした英知には、法規範によって国家の行動を制約しようとする工夫(国際法)や、各国のパワーの配分を管理する工夫(勢力均衡と同盟)、そして、第二次世界大戦後には集団安全保障という工夫(国際連合)も構築された。
国家が目指すのは「国益」であり、アナーキー下での「国益」は、究極的には「自己保存の欲求」に集約される。そして、その欲求を満たすために、システム内における自国の現状の相対的位置を保つことが良いか、あるいは現状のパワーの配分以上に自国のパワーを拡大した方が良いか、2つの見方が出てくるだろう。
全ての国家が前者の見方に立つならば、現状のパワーの配分を維持するだけで良しとされるから、敢えてパワーを拡大しようとする国家は無く、国際システムは保守的かつ静的な世界となるだろう。ケネス・ウォルツが理論化した、防御的リアリズムの世界がこれに当たる。
しかし、国家の中には、かつてのナチス・ドイツや現在の中国のように、現状のパワーの配分に不満を抱いて敢えて現状を変更したいと望む国家もある。その場合、もはや防御的リアリズムは妥当せず、国際システムは下手をすると「万人の万人に対する闘争」のホッブズ的世界に陥りかねない。
その場合、現状変更国の脅威に対抗するために、隣国は自国のパワーを強化して脅威を抑止するか、同様の脅威認識を抱く仲間と連合して、脅威に対抗する同盟を締結する。そして、相互に抑止が機能して戦争に至らない状態が保たれれば、それが平和と言うことになる。戦争は、現状変更国が自国のパワーを拡大するためか(侵略戦争)、抑止が崩壊した場合に秩序を回復するための最終手段(自衛戦争)として行われることになる。
同盟が形成された場合でも、できれば自分は参戦したくないし、同盟のパートナーに防衛責任を押し付けたい。これが、バック・パッシング(責任転嫁)である。また、紛争地帯から離れた同盟パートナーは、紛争地帯のパートナーに防衛責任を任せて、できるだけ自分は遠方から影響力だけを行使したいと考える。これが、オフショア・バランシング(沖合からの均衡化)である。この2つの作用によって、いわゆる遠交近攻が発生するわけである。
天正12年は、天正10年6月の本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた後の秩序回復期であり、日本国内はなおアナーキーな状態であった。前年4月の賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は織田信雄を安土城から追放して、清州会議体制の現状を変更して自分のパワーを拡大しようとしていた。
信雄は、徳川家康と同盟を結んで秀吉の脅威に対抗する。これは典型的なバック・パッシングである。信雄は能は父信長譲りで上手であったが、単独で伊賀攻めを試みて敗北し信長に叱責されたり、山崎の戦い後明智軍が撤収した安土城を無駄に焼失させたり、また、秀吉の挑発に乗って三家老を殺害したりと、武将としての能力が欠如していた。家康が敢えてバック・キャッチャーを引き受けたのは、恐らく秀吉と対決するための大義名分として信雄を利用するためだろう。
当時の同盟関係のキーパーソンは、家康である。彼は本能寺の変後、伊賀越えの危機を乗り切って三河に帰国した直後、光秀討伐に出陣した。この時は信長政権の後継者の地位を狙ったのだろう。
しかし、秀吉に先を越されると、すぐに転進して天正壬午の乱で後北条氏を破り、東国の旧織田領(甲信両国)を確保するとともに、北条氏と対立する北関東の諸大名に信長時代の惣無事を通告している。これは明らかに、自分が信長政権の東国担当者の地位を継承したと誇示するためだろう。家康は、北関東の紛争地帯にオフショア・バランシングする意図を示したとも言える。この辺の機敏さが、家康が「海道一の弓取り」たる所以であろう。
ところが家康が北条氏と和解すると、宇都宮、佐竹、真田などの北関東の大名達は秀吉に接近を図る。すでに越後の上杉景勝は、秀吉と連携して北信で家康と抗争中であったから、東国方面で家康は不利な状況に陥った。そこで、状況を打開するために再度西に転じて、織田政権簒奪に乗り出した秀吉と対決する途を家康が選択したものと思われる。
小牧・長久手の戦いでは、3月に羽黒の戦いで森長可を破って信長の築城した小牧山城を家康が確保した時点で、塹壕戦類似の長期戦が確定したため、家康・信雄側の敗戦はほぼ無くなったと言える。
その膠着状態を打開するための作戦が、4月の秀吉側の三河侵攻軍派遣であった。確かに、長大化した戦線を迂回して敵の背後を襲うのは理に適った作戦であるが、派遣部隊相互の連携は必ずしも取れていなかったし、機動が緩慢であった印象も受ける。
これに対して家康軍は、自分の勢力圏で情報収集も容易であったし、その機動は迅速であり、何より徳川四天王が全員大活躍するなど、前線部隊の戦闘力で優越していた印象を受ける。長久手の戦いは、家康の会心の勝利であっただろう。後の関ヶ原の戦いでの徳川家の覇権掌握に繋がる武勇の名声は、この戦いによって決定づけられたと言えるのではないか。
同じ頃、北関東では、北条氏が上野・下野両国に侵攻して、宇都宮・佐竹両氏と沼尻で長期戦の対陣をしていた。これは、家康側の北条氏と、秀吉側の宇都宮・佐竹氏による辺境での代理戦争とも言える。まさしく、戦国時代の遠交近攻の好事例と言えるだろう。
北条氏の他に、紀州雑賀と根来衆、四国の長宗我部氏、そして越中の佐々成政が家康・信雄と連携して反秀吉行動に出たが、彼らはいずれも後に家康に見捨てられて、秀吉軍に各個撃破されてしまった。こうした非情さも、国際政治を彷彿とさせるものがあるだろう。
2015年4月28日火曜日
ユダヤ人の仇敵、『テルマエ・ロマエ』のハドリアヌス帝
高校時代の同級生が、最近漫画家のヤマザキマリさんにインタビューしたそうだ。ちなみにその同級生は、雑誌の編集者である。
ヤマザキマリさんと言えば、代表作は阿部寛主演で映画化もされた『テルマエ・ロマエ』である。ローマと日本の入浴文化の共通性に注目して、主人公の浴場建築技師ルシウスが古代ローマ帝国と現代日本をタイムスリップする着想が非常に斬新で、とても面白い漫画であった。
さて、その『テルマエ・ロマエ』でルシウスの仕える皇帝が、ローマ五賢帝の三代目ハドリアヌスである。実は、このハドリアヌス帝は、五賢帝の中でも毀誉褒貶があって評価の分かれる皇帝である。
まず、先代のトラヤヌス帝がダキア王国、ぺトラ遺跡で有名なナバテア王国、そしてアルメニア王国とパルティア王国に遠征して、ユーフラテス川東岸にアルメニア、メソポタミア、アッシリアの3つの属州を置いてローマ帝国の版図を最大にしたにもかかわらず、後継者のハドリアヌスは3つの属州を放棄してユーフラテス川西岸まで撤退し、守勢に回帰したとして元老院で批判を浴びたと言われる。
また、そもそもハドリアヌス即位当初に、反対派のコンスル(執政官)経験者4人を粛清した疑惑も持たれている。何より、ユダヤ教を邪教として弾圧し、130年にエルサレムを自分の氏族名にちなんだアエリナ・カピトリーナと改称してローマ風都市に改造するとともに、132年にはユダヤ教徒の伝統である割礼を禁止した。
そのため、バル・コホバを指導者とするユダヤ人の大反乱(第二次ユダヤ戦争)が勃発した。ハドリアヌスは他の属州から軍団を動員することで、3年後の135年にようやく反乱を鎮圧することに成功した。
この戦争の終結後、ユダヤ地方は属州シリア・パレスティナと改称され、ユダヤ人は1948年5月のイスラエル建国までディアスポラ(離散)を余儀なくされたのである。反乱の失敗後、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを制限されたが、313年のミラノ勅令によって全ローマ帝国市民の信教の自由が保障されて以後、ようやくユダヤ人も、1年に1日だけエルサレムへの立ち入りが許可されるようになったと言われている。
つまり、ヤマザキマリさんの『テルマエ・ロマエ』で重要なキャラクターとして登場するハドリアヌス帝は、ユダヤ人にとってはナチスのヒトラー総統と匹敵するくらい、不倶戴天の仇敵であったわけである。
ヤマザキマリさんと言えば、代表作は阿部寛主演で映画化もされた『テルマエ・ロマエ』である。ローマと日本の入浴文化の共通性に注目して、主人公の浴場建築技師ルシウスが古代ローマ帝国と現代日本をタイムスリップする着想が非常に斬新で、とても面白い漫画であった。
さて、その『テルマエ・ロマエ』でルシウスの仕える皇帝が、ローマ五賢帝の三代目ハドリアヌスである。実は、このハドリアヌス帝は、五賢帝の中でも毀誉褒貶があって評価の分かれる皇帝である。
まず、先代のトラヤヌス帝がダキア王国、ぺトラ遺跡で有名なナバテア王国、そしてアルメニア王国とパルティア王国に遠征して、ユーフラテス川東岸にアルメニア、メソポタミア、アッシリアの3つの属州を置いてローマ帝国の版図を最大にしたにもかかわらず、後継者のハドリアヌスは3つの属州を放棄してユーフラテス川西岸まで撤退し、守勢に回帰したとして元老院で批判を浴びたと言われる。
また、そもそもハドリアヌス即位当初に、反対派のコンスル(執政官)経験者4人を粛清した疑惑も持たれている。何より、ユダヤ教を邪教として弾圧し、130年にエルサレムを自分の氏族名にちなんだアエリナ・カピトリーナと改称してローマ風都市に改造するとともに、132年にはユダヤ教徒の伝統である割礼を禁止した。
そのため、バル・コホバを指導者とするユダヤ人の大反乱(第二次ユダヤ戦争)が勃発した。ハドリアヌスは他の属州から軍団を動員することで、3年後の135年にようやく反乱を鎮圧することに成功した。
この戦争の終結後、ユダヤ地方は属州シリア・パレスティナと改称され、ユダヤ人は1948年5月のイスラエル建国までディアスポラ(離散)を余儀なくされたのである。反乱の失敗後、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを制限されたが、313年のミラノ勅令によって全ローマ帝国市民の信教の自由が保障されて以後、ようやくユダヤ人も、1年に1日だけエルサレムへの立ち入りが許可されるようになったと言われている。
つまり、ヤマザキマリさんの『テルマエ・ロマエ』で重要なキャラクターとして登場するハドリアヌス帝は、ユダヤ人にとってはナチスのヒトラー総統と匹敵するくらい、不倶戴天の仇敵であったわけである。
バブル崩壊後のデフレと不況の原因に関する考察
アベノミクスの第一の矢である「異次元の量的金融緩和」がよって立つ経済理論は、いわゆるリフレ(reflation)論である。
リフレとは、簡単に言えばデフレでもインフレでもない状態を、マネーサプライ(MS、通貨供給量)の増加と人々のインフレ期待に依存して達成しようとする理論を指す。日本経済が陥ったデフレを脱却するための、政策提言の1つである。日銀が2%のインフレ目標を掲げる根拠を成す。
難しい経済学用語で言えば、貨幣数量説と合理的期待形成仮説の2つの理論的根拠に基づいている。本投稿では、その根拠の薄弱さを分析したい。
貨幣数量M×貨幣の流通速度V=価格P×取引量T
これが、根拠となるフィッシャーの交換方程式と言われるもので、 完全雇用下でVとTが短期的に所与とすると、PはMに比例する。したがって、Mの量を増やせば、つまり貨幣流通量MSを金融緩和で増やせば、物価Pも上昇するというもの。貨幣の交換手段としての機能のみに着目した方程式であると言えるだろう。
しかし、長く続くゼロ金利下では、日銀が短期金融市場を通じて供給通貨(マネタリーベース)を増やしても、金利が付かないなら投資に回さず通貨を蓄えておいても同じだから、いわゆる「流動性の罠」に陥って通貨供給量は増えない。
そこで日銀が2%のインフレ目標を定めて、その目標に到達するまでひたすら量的金融緩和を続けるのが「異次元緩和」なわけで、デフレ下で上昇する実質金利を強引に押し下げれば、通貨を蓄えていては損なので、企業の設備投資や個人消費が刺激されてデフレ不況から脱却できるという論理である。
しかし、すぐわかることだが、通貨には交換手段としての機能以外にも、価値尺度の機能や価値保存の機能もある。したがって、いくら日銀が量的緩和を進めても、将来への不安が払拭されない限り、企業も個人も将来に備えて通貨を一定程度退蔵するだろう。マネタリーベースとマネーサプライ、さらには消費者物価指数の間の相互変動に明確な関係は見られないことが実証されている。
人々が合理的期待形成に基づいて行動するというのも、極めて非現実的だ。人は元来非合理的な動物で、様々なバイアスに依拠して行動を選択する。「将来インフレになるから、金を全部使ってしまえ」とは決して判断しないだろう。
思うに、日本がデフレに陥ったために設備投資や個人消費が抑制されたのはなく、90年代以降、設備投資や個人消費が停滞した結果デフレに陥ったのであり、リフレ派の主張は論理が逆転していると思われる。
日本のデフレと不況の原因は、90年代の円高と情報通信などのグローバリゼーションに乗り遅れたために輸出が減り、生産能力が過剰になって設備投資も減少し、企業が海外へ投資と生産拠点を移転して低コスト商品を日本に逆輸入するようになったためだろう。
これでは、日本国内の設備投資も需要も海外に奪われてしまう。個々に見ると合理的な行動が、社会全体で見ると不利益をもたらすことを「合成の誤謬」というが、日本産業の空洞化現象は、まさに企業活動における「合成の誤謬」の1つの事例である。
国内企業の設備投資が滞れば、生産性は落ち国際競争力は下がる。企業はそれでも利潤を確保して、経営者は株主に対する説明責任を果たさなければ、株主総会は大荒れだ。
そこで、てっとり早く利潤を上げる手段が、賃金のカットとリストラというわけである。非正規社員を増やして正社員の採用を控えればなおさら良いが、その結果、労働者の個人消費が減って不況はさらに続くというのが、恐らく日本のデフレと景気が回復しない根本の原因なのだろう。
リフレとは、簡単に言えばデフレでもインフレでもない状態を、マネーサプライ(MS、通貨供給量)の増加と人々のインフレ期待に依存して達成しようとする理論を指す。日本経済が陥ったデフレを脱却するための、政策提言の1つである。日銀が2%のインフレ目標を掲げる根拠を成す。
難しい経済学用語で言えば、貨幣数量説と合理的期待形成仮説の2つの理論的根拠に基づいている。本投稿では、その根拠の薄弱さを分析したい。
貨幣数量M×貨幣の流通速度V=価格P×取引量T
これが、根拠となるフィッシャーの交換方程式と言われるもので、 完全雇用下でVとTが短期的に所与とすると、PはMに比例する。したがって、Mの量を増やせば、つまり貨幣流通量MSを金融緩和で増やせば、物価Pも上昇するというもの。貨幣の交換手段としての機能のみに着目した方程式であると言えるだろう。
しかし、長く続くゼロ金利下では、日銀が短期金融市場を通じて供給通貨(マネタリーベース)を増やしても、金利が付かないなら投資に回さず通貨を蓄えておいても同じだから、いわゆる「流動性の罠」に陥って通貨供給量は増えない。
そこで日銀が2%のインフレ目標を定めて、その目標に到達するまでひたすら量的金融緩和を続けるのが「異次元緩和」なわけで、デフレ下で上昇する実質金利を強引に押し下げれば、通貨を蓄えていては損なので、企業の設備投資や個人消費が刺激されてデフレ不況から脱却できるという論理である。
しかし、すぐわかることだが、通貨には交換手段としての機能以外にも、価値尺度の機能や価値保存の機能もある。したがって、いくら日銀が量的緩和を進めても、将来への不安が払拭されない限り、企業も個人も将来に備えて通貨を一定程度退蔵するだろう。マネタリーベースとマネーサプライ、さらには消費者物価指数の間の相互変動に明確な関係は見られないことが実証されている。
人々が合理的期待形成に基づいて行動するというのも、極めて非現実的だ。人は元来非合理的な動物で、様々なバイアスに依拠して行動を選択する。「将来インフレになるから、金を全部使ってしまえ」とは決して判断しないだろう。
思うに、日本がデフレに陥ったために設備投資や個人消費が抑制されたのはなく、90年代以降、設備投資や個人消費が停滞した結果デフレに陥ったのであり、リフレ派の主張は論理が逆転していると思われる。
日本のデフレと不況の原因は、90年代の円高と情報通信などのグローバリゼーションに乗り遅れたために輸出が減り、生産能力が過剰になって設備投資も減少し、企業が海外へ投資と生産拠点を移転して低コスト商品を日本に逆輸入するようになったためだろう。
これでは、日本国内の設備投資も需要も海外に奪われてしまう。個々に見ると合理的な行動が、社会全体で見ると不利益をもたらすことを「合成の誤謬」というが、日本産業の空洞化現象は、まさに企業活動における「合成の誤謬」の1つの事例である。
国内企業の設備投資が滞れば、生産性は落ち国際競争力は下がる。企業はそれでも利潤を確保して、経営者は株主に対する説明責任を果たさなければ、株主総会は大荒れだ。
そこで、てっとり早く利潤を上げる手段が、賃金のカットとリストラというわけである。非正規社員を増やして正社員の採用を控えればなおさら良いが、その結果、労働者の個人消費が減って不況はさらに続くというのが、恐らく日本のデフレと景気が回復しない根本の原因なのだろう。
想定されるP5+1交渉の行方とイスラエルの政策オプション
イスラエルが従来の外交努力の方針を転換するとした場合、その方向性はP5+1を対イラン制裁強化に回帰させることに向かうであろう。具体的には以下の3つの選択肢が考えられる。
(1) 柔軟姿勢論への転換。すなわち、P5+1各国との緊密な協力体制を構築しつつ、交渉当事国内部に対する影響力を行使する外交方針に転換すること。ただし、イラン核問題とパレスチナ問題のリンケージという、国内で激しい対立を引き起こしかねない譲歩を強いられる覚悟をする必要がある。
(2) 対米姿勢硬化論への転換。親イスラエル・ロビー活動を強化することを通じて、アメリカ議会がホワイトハウスの意向を無視して対イラン制裁を強化する法案を可決できるような雰囲気を醸成すること。
ただし、オバマ政権とは決定的に対立する大きなリスクを背負うことになりかねない。場合によっては、イランが暫定合意を破棄した最悪の事態の際にアメリカ政府の支持あるいは黙認を得られず、イスラエルの軍事オプション選択が阻害される危険性すらある。
ただし、オバマ政権とは決定的に対立する大きなリスクを背負うことになりかねない。場合によっては、イランが暫定合意を破棄した最悪の事態の際にアメリカ政府の支持あるいは黙認を得られず、イスラエルの軍事オプション選択が阻害される危険性すらある。
(3) 折衷論への転換。オバマ政権との対立は抑制しつつ、アメリカ議会に対する新たな対イラン制裁法案の作成に向けたロビー活動を強化するという折衷した外交方針をイスラエルが選択すること。
しかし、対イラン融和路線をとるオバマ政権とアメリカ議会の対イラン強硬派議員達との間で、イスラエルが上手く梶取りできる保証はほとんどないことが問題となる。
しかし、対イラン融和路線をとるオバマ政権とアメリカ議会の対イラン強硬派議員達との間で、イスラエルが上手く梶取りできる保証はほとんどないことが問題となる。
イスラエルが中東地域で戦略的に置かれている立場は、先に検証したとおり、パワーの物質的基盤の点でイランと比較して非常に小さいにもかかわらず、軍事的パワーの点では核能力を含めて圧倒しているという不均衡な状態にある。
したがって、イスラエルの戦略的立場では、イランの核武装は直ちに自国の実存的脅威と見なされている。そのため、イランの進める核計画を何としても廃棄させて、安全保障上将来の不安の芽を事前に除去しようとする強い動機がある。
したがって、イスラエルの戦略的立場では、イランの核武装は直ちに自国の実存的脅威と見なされている。そのため、イランの進める核計画を何としても廃棄させて、安全保障上将来の不安の芽を事前に除去しようとする強い動機がある。
これに対して、P5+1の基本的立場は、IAEAの査察等を通じてイランの核能力をNPT体制で認められている平和利用の範囲内に限定しようと目指しているに過ぎない。
この点で、イランの核開発に対してイスラエルの抱いている脅威認識の大きさとは、きわめて大きな隔たりが存在している。以上の論理式は、
この点で、イランの核開発に対してイスラエルの抱いている脅威認識の大きさとは、きわめて大きな隔たりが存在している。以上の論理式は、
仮説A : P1(濃縮継続)∧R1(制裁強化)⇒QB(外交努力)∨Qc(軍事オプション、ifアメリカの支持)
仮説B : P2(濃縮停止)∧R2(制裁解除)⇒QB(外交努力)
仮説C : P1(濃縮継続)∧R2(制裁解除)⇒QD(核曖昧政策を変更)
である。
仮説Aは、イランがブレイク・アウトしたケースを想定している。この場合には、P5+1は、事後の交渉を停止するとともに、イランに対する制裁を再び強化する方向に向かうだろう。
イスラエルとしては、P5+1の対イラン制裁をなるべく強力なものにするための外交努力を継続するとともに、単独での軍事オプションを実施可能な(国際法的にではなく)事実上の正統性を得ることができる蓋然性が高まる。
ただし、その場合にも、イスラエルは事前にアメリカ政府の支持を獲得するか、あるいは少なくとも事後のアメリカ政府の黙認が得られる環境を醸成しておくことが付帯条件として最低限必要となるだろう。
イスラエルとしては、P5+1の対イラン制裁をなるべく強力なものにするための外交努力を継続するとともに、単独での軍事オプションを実施可能な(国際法的にではなく)事実上の正統性を得ることができる蓋然性が高まる。
ただし、その場合にも、イスラエルは事前にアメリカ政府の支持を獲得するか、あるいは少なくとも事後のアメリカ政府の黙認が得られる環境を醸成しておくことが付帯条件として最低限必要となるだろう。
仮説Bは、イランが核開発(すなわち、ウラン濃縮活動の継続)を完全に断念するケースである。この場合、P5+1はイランに対する制裁を解除し、事後はIAEAの査察が十分に行われるかどうかに問題の焦点が絞られることになる。
イスラエルの政策オプションとしては、査察を徹底するように外交努力を続ける選択肢となる。これが最も望ましい結論ではあるが、先に述べたとおり、イランが核開発を完全に放棄する蓋然性は低い。
イスラエルの政策オプションとしては、査察を徹底するように外交努力を続ける選択肢となる。これが最も望ましい結論ではあるが、先に述べたとおり、イランが核開発を完全に放棄する蓋然性は低い。
最後の仮説Cは、非常にレアなケースであると思われるが、イランがブレイク・アウトしたにもかかわらず、P5+1の足並みが揃わずに対イラン制裁がなし崩し的に解除されてしまうケースか、あるいは、イランが巧妙に制裁を棚上げしつつ密かに核開発を続けるケースである。
この場合が、イスラエルの最も懸念している想定であると言え、イランが核武装に向かう方向性が定まりかねない。アメリカの支持が得られるならば、仮説Aのケースと同様に、イスラエルが単独での軍事オプションを選択する危険な賭けに出る可能性もあるが、現実的には、従来固持してきた核の曖昧政策を変更して、イランとの間での核抑止体制を構築することを検討するかもしれない。
仮説Cのケースでは、イスラエルは3つのリスクを克服する必要がある。
この場合が、イスラエルの最も懸念している想定であると言え、イランが核武装に向かう方向性が定まりかねない。アメリカの支持が得られるならば、仮説Aのケースと同様に、イスラエルが単独での軍事オプションを選択する危険な賭けに出る可能性もあるが、現実的には、従来固持してきた核の曖昧政策を変更して、イランとの間での核抑止体制を構築することを検討するかもしれない。
仮説Cのケースでは、イスラエルは3つのリスクを克服する必要がある。
まず、エジプトを代表とするアラブ諸国が、イスラエルをNPTに加盟させるように国際的な圧力を強めるだろう。
次に、イスラエルの領土は狭小であるため、イランとの相互確証破壊を想定した場合に第二撃能力を確保することのコストに見合う程度の戦略的有効性が得られるかどうか、不透明である。そのため、核抑止力の整備に要する分だけイスラエルの国防費負担が増大する恐れがある。
次に、イスラエルの領土は狭小であるため、イランとの相互確証破壊を想定した場合に第二撃能力を確保することのコストに見合う程度の戦略的有効性が得られるかどうか、不透明である。そのため、核抑止力の整備に要する分だけイスラエルの国防費負担が増大する恐れがある。
最後に、中東が多極的な地域であることが、イスラエルにとって政策変更の大きなリスクであることがあげられる。
すなわち、イスラエルとイラン両国の核武装が明白になった場合には、エジプト、トルコ、そしてサウジアラビアの少なくとも3カ国は自国の核兵器開発を進めるか、核兵器の購入を検討し始める恐れがある。
したがって、イスラエルの核曖昧政策の変更と対イラン核抑止体制への移行を契機として、中東全体に核の拡散が起きる可能性がある。
すなわち、イスラエルとイラン両国の核武装が明白になった場合には、エジプト、トルコ、そしてサウジアラビアの少なくとも3カ国は自国の核兵器開発を進めるか、核兵器の購入を検討し始める恐れがある。
したがって、イスラエルの核曖昧政策の変更と対イラン核抑止体制への移行を契機として、中東全体に核の拡散が起きる可能性がある。
2015年4月27日月曜日
日本史上の戦いに関する考察2.織田・徳川の同盟のジレンマ
「同盟のジレンマ」とは、同盟関係に付随する「見捨てられる恐怖」と「巻き込まれる恐怖」との間で、同盟の当事者が抱くジレンマのことである。
つまり、余りにも同盟関係を強化しすぎると他者の紛争に予期せず巻き込まれることになるし、その逆に、同盟に対する自分のコミットメントを弱めすぎると、自分が危機に直面した際に同盟者に見捨てられることになりかねない。
同盟の当事者は、常にこの双方の恐怖を適切に均衡させることを配慮しなければならないのである。
アメリカの対イラン接近という中東政策転換は、強者の側の「巻き込まれる恐怖」を反映したものであるし、イスラエルやサウジアラビアがオバマ政権に対して示している反発は、弱者の側の「見捨てられる恐怖」が先鋭化したものと見ることができるだろう。
日本史上の同盟関係においても、同様の「同盟のジレンマ」が観察できる。例えば、桶狭間の戦い後の織田信長と徳川家康は強固な同盟関係を築いていたとされるが、圧倒的強者である織田家と、弱者で属国に過ぎない徳川家の間には、今日の対米同盟のケースと類似するジレンマが観察される。
一例として、家康は信長の出兵要請に応じて、元亀元(1570)年4月、越前朝倉攻めに従軍している。この時には、信長の妹お市の婿浅井長政が離反して退路を遮断したため、家康自身も金ヶ崎崩れの危機に遭遇している。
その後も家康は、6月には報復攻撃の態勢を整えて岐阜を出撃した信長に従い、浅井・朝倉勢と姉川の戦いで一番合戦(先手)を勤めている。これだけ同盟者織田信長に奉仕しているのは、弱者の家康による「見捨てられる恐怖」が発現したものだろう。
実際には、自分の領国の拡大につながらない対浅井・朝倉戦争に「巻き込まれる恐怖」もあったと思われるので、まさしく「同盟のジレンマ」である。
しかし、こうした家康の同盟への積極的なコミットメントを信長が評価していたため、家康の領土拡張戦争である東の対武田戦線では、家康単独で勝利が望めない場面で信長の援軍にしばしば助けられている。
元亀三(1572)年12月の三方ヶ原の戦い然り、天正三(1575)年5月の長篠の戦い然りである。特に、三方ヶ原の戦いでは、自ら無謀ともいえる会戦に打って出て手痛い敗北を喫したものの、家康が桶狭間の戦い後の今川氏真のように滅亡に至らなかったのは、超大国織田家にバンドワゴン(勝ち馬に乗ること、同盟締結の理由の1つ)していた結果に他ならない。
このように、日本の戦国時代にも、今日の地域パワーが対米同盟関係の維持で感じるのと同様な、「同盟のジレンマ」があったのだ。
シリア内戦の影響ー錯綜する各勢力の関係
シリア内戦は、ヒズブッラーとISISという、シーア派とスンナ派のコインの裏表とも言える2つのイスラーム過激派組織の介入を通じて、レバノンとイラクそしてヨルダンといった隣接国の他にも、エジプトやリビア等遠隔地のアラブ国家に飛び火して各国の安全保障環境の悪化に多大な影響を及ぼしている。
同時にISISとそのシンパの発生が、現地での非人道的行為や欧米諸国や日本を含む世界各地におけるホームグロウン・テロの脅威を拡散させている。その意味において、中東アラブ諸国と欧米諸国にとってのシリア内戦は、軍事介入してでも解決しなければならない安全保障上の重要課題となりつつある。
その一方、現在の中東で勢力均衡の最も重要な鍵を握るイラン、トルコ、そしてイスラエルの三カ国はそれぞれの思惑からシリア内戦の解決に関して消極的な姿勢を崩していない。今後欧米諸国と日本が協力して地域の安定をもたらすためには、これら重要な三カ国がアラブ国家でない点に大いに留意しておくべきだろう。
結論的にシリア内戦は世俗的な民主主義の台頭にはつながらず、アサド政権はその支配領域を地理的に縮小させることで権力基盤の温存に成功している。
軍事的には、ヒズブッラーの介入を背後で操っているイランの政治的影響力が、内戦継続の結果、シリアでもイラク同様に向上したと言える。シリアで抑圧されてきた農村部のスンナ派とクルド人の反対派武装勢力がアサド政権を攻撃するとともに、ISISの様な過激なサラフィー・ジハード主義勢力がシーア派やクルド人、対立する武装勢力を宗派間抗争の枠組みを用いて駆逐することに成功した結果、シリアは事実上分裂してISISが実体を伴わないカリフ国の復活をアピールすることに成功した。
世界中の現状不満分子がISISのSNSを駆使した巧妙な宣伝に共鳴して、各地で過激なテロを実行する危険な兆候が生じている。こうしたシリア内戦の二面性が、欧米の積極的介入を躊躇させている。
すなわち欧米諸国にとって、ISIS攻撃はアサド政権の権力温存を側面支援することになり、同盟国であるサウジアラビアやトルコと地域覇権をめぐって対立するイランを利する結果を招くこととなる。
サウジアラビアとトルコの両国は、本来ISISの台頭を必ずしも脅威とは考えておらず、逆にアサド政権を打倒してイランとシーア派の影響力をそぎ落とすため、これまでISISを含むスンナ派過激派に資金等の様々な援助を続けてきたのである。トルコにとってはまた、最大の国内不安定要因であるクルド人の民族自決と独立国家建設を阻止するためにも、クルド人を盛んに攻撃するISISには相当な利用価値がある。
他方で、エジプトとヨルダンという2つの世俗的な親米アラブ国家の現政権は、その権力基盤の不安定さをISISに突かれて正に攻撃の標的とされている危機的状況にあるため、ISIS攻撃の連携強化を国際社会に積極的に求めている。
この両アラブ国とイスラエルは外交関係を持っているが、イスラエルはいまだISISに直接標的とされていないこと、また、イスラエルにとってはパレスチナ情勢の安定化とイランの核開発を阻止することが先決問題であって、1973年(第4次中東戦争)以来事実上安全保障上のパートナーであったアサド政権の打倒は二の次の問題に過ぎないことから、今後もシリア内戦の解決には積極的に関与しないだろう。
この両アラブ国とイスラエルは外交関係を持っているが、イスラエルはいまだISISに直接標的とされていないこと、また、イスラエルにとってはパレスチナ情勢の安定化とイランの核開発を阻止することが先決問題であって、1973年(第4次中東戦争)以来事実上安全保障上のパートナーであったアサド政権の打倒は二の次の問題に過ぎないことから、今後もシリア内戦の解決には積極的に関与しないだろう。
このように、アメリカが主導しなければならない地域の主要同盟国には、現状で目指す方向性の全く異なる少なくとも3つの勢力が錯綜している。すなわち、ISIS掃討よりもアサド政権打倒を優先しイランの台頭を好まないサウジアラビアとトルコの両国、イランの台頭よりもISIS掃討に積極的なエジプトとヨルダンの両国、そのいずれにも加担する意図がなく、イラン製地対空ミサイルのヒズブッラーへの流出さえ阻止できれば現時点でシリア内戦の動向にさほどの関心を示さないイスラエルの3つの勢力がある。
さらには有志連合の後押しを受けてISIS掃討の地上戦力を提供することで自らの領土保全と権力基盤を確立しようとするイラクのシーア派主導政権とクルド人、そして、ISISを駆逐後再び勢力を回復して究極的にはアサド政権を打倒しようとする自由シリア軍(FSA)などのシリア反体制派武装組織という、これまた目指す方向性の全く異なる3つの勢力が錯綜している。
こうした思惑の異なる各勢力間における均衡を確立しなければ、アメリカの率いる有志連合がISISを打倒することはできないだろう。
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