先の投稿で分析した通り、慶長5年8月下旬、福島正則の居城清州城周辺に集結を完了した徳川勢は、8月22日に木曽川を渡河して翌日岐阜城を陥落させて織田秀信を拘束した。さらに後詰めに出てきた石田三成の軍勢も撃破して、岐阜周辺を制圧し一帯に禁制を発給した。25日には、三成の本拠佐和山城まで攻撃する予定であったが、家康からの指示で家康到着まで一旦攻勢を控えることとした。
恐らく家康は、福島と池田の率いる前線部隊が、大垣城や犬山城の敵を後に残したまま、近江にまで戦線を伸ばすことに危惧を抱いたのだろう。前線部隊が勢いに乗って先に進み過ぎると、大坂方に後方拠点である清州城との連絡線を遮断され、後続の関東勢と分断されかねない。
当時、家康本隊はまだ清州に到着していないが、家康四男松平忠吉の部隊や、石川康通、松平家清らは既に清州に着陣していたからである(白峰、前掲(その2)、45頁)。
そこで徳川方は、8月末から9月上旬にかけて美濃赤坂、垂井、関ヶ原まで放火して大坂方に圧力をかけると同時に、付城を築いて大垣城を包囲した(白峰、同上、51頁)。9月1日の時点で、福島、池田、藤堂、黒田、田中吉政、一柳直盛は垂井に陣取った(同上)。徳川方が赤坂から垂井までを制圧していた様子である。
これに対して大坂方は、大垣城に約2万人が籠城している他、吉川広家ら後詰めの毛利勢等が伊勢路を経て南宮山付近に布陣しており、広家の書状では両軍双方の距離は約1里であった(同上)。したがって、徳川方前線部隊は、大垣城の北西に進出して敵の後方を遮断すると共に、家康の到着後、大垣城を水攻めで包囲攻撃する計画であった(同上)。
これに対して石田らの大垣籠城軍は、家康着陣前は周辺地帯に刈田に出てくることもあった(同上、55頁)。そもそも小城の大垣城に2万人も籠城していては、兵糧米も不足していたのかも知れない。
『三河物語』によると、大坂方は総勢10万人程で、大垣を本城として、柏原、山中、番場、醒ヶ井、垂井、赤坂、佐和山まで抑えていたとされるが、先述したように垂井と赤坂を既に徳川方に奪取されたため、後方の拠点である佐和山城との連絡線を遮断されてしまっていたのだろう。そこで、否応なく籠城を捨てて、決戦に出撃せざるを得なかったのではないだろうか。
家康は9月13日岐阜に着陣し、14日に赤坂に到着した(同上)。徳川方は、その日のうちに関ヶ原に押し寄せた。対する石田、島津、小西、宇喜多の大坂方は、14日夜五つ(午後8時頃)、大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原に進出し、翌15日巳の刻(午前10頃)から一戦に及んだとされる(同上)。大坂方8万人、徳川方7万人程の軍勢だったとも言われる。
通説では、午前中は大坂方優勢に戦況が推移して家康を焦らせたとも言われるが、『三河物語』や徳川方の参戦諸将の報告では必ずしもそうでない様子である。井伊と福島が先手となって諸将が続々と大坂方が守る切所を攻撃したところ、小早川、脇坂、小川父子の4人が寝返ったため、大谷吉継が自害して大坂方は敗軍となり、追い討ちによって際限なく敵を討ち取ったということらしい(同上)。実際には、昼位までの短時間の戦闘で、あっさりと勝敗の決着がついた模様である(同上、56頁)。
9月16日には佐和山城を徳川方が包囲し、田中吉政が水の手を取って本丸を攻撃したため、石田三成の父兄と舅、妻子が1人も残らず斬り殺されて、天守が焼き払われて落城した。その時、城から打って出た300人程も、1人残らず討ち取られたと言う(同上、56頁)。何とも無慈悲なことである。
その後、石田三成、安国寺恵瓊、小西行長の3人は生け捕りにされ、京、大坂、堺を引き回された後に、最後は三条河原で青屋(藍染業者で断罪も行う)の人々によって斬首され、首は三条の橋詰にかけられたと『三河物語』は記している。宇喜多秀家は薩摩に逃れたが、後に親子3人で八丈島に流されたのである。
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