2015年10月8日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-ヴィックスバーグ包囲戦(1)

 1863年春に起こったチャンセラーズヴィルの戦いで、南部連合リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍は、ストーンウォール・ジャクソン将軍の戦傷死など多大な損害を出したものの、フッカー将軍の率いる北軍ポトマック軍をヴァージニア州内から撃退することに成功した。

 しかし、当時の戦況を考えれば、南軍が仮にヴァージニア州内(特にフレデリックスバーグ)で首都リッチモンドを防御する態勢を固めたとしても、戦力で遥かに勝る北軍が数か月以内にポトマック軍を再建して再度攻勢に出てくることはほぼ確実であっただろう。

 また、南北戦争における第二戦線であったミシシッピ川流域の支配権争奪を巡る西部戦線では、海軍力で優勢な北軍が1862518日、デイヴィッド・G・ファラガット提督の指揮の下に南部最大の港湾都市ルイジアナ州ニューオーリンズを既に占領していた。

 リンカーン大統領は、ミシシッピ川を支配することによって南部連合の物資供給ルートを遮断し、南部を川の東西2つのエリアに分断しようとしていたのだが、そのためには、「ミシシッピ川のジブラルタル」とも言われる屈曲点(bend)の断崖上に位置するミシシッピ州の要塞都市ヴィックスバーグを攻略する必要があった。

 当時この方面の合衆国軍では、ユリシーズ・S・グラント少将が186210月にテネシー軍司令官に任命されて、テネシー州メンフィスまで進出していた。グラント将軍の任務はミシシッピ川とその東岸の沼沢・小河川(バイユー)地帯を陸海軍連携の下に南下して、ヴィックスバーグを攻め落とすことであった。

 他方、ミシシッピ川河口のある南部のルイジアナ州方面からは、625月にファラガット提督の率いる合衆国海軍がヴィックスバーグを攻撃したが、この作戦は失敗した。陸軍では、元マサチューセッツ州知事であったナサニエル・P・バンクス少将がメキシコ湾岸軍司令官としてニューヨーク州とニューイングランドで徴募された新兵約3万人を率いてニューオーリンズに上陸後、ミシシッピ川沿いを遡上してバトンルージュまで進出していた。

 つまり、北軍の当初の作戦では、南北双方からミシシッピ川東岸沿いを進んで、ヴィックスバーグ守備に当たるジョン・C・ペンバートン中将の率いるミシシッピ軍約22千人の南軍を挟撃しようとしたわけである。

 ところが、北方からの侵攻を担当するグラント将軍のテネシー軍約4万人は、621112月の攻勢で鉄道を利用した南進を開始したが南軍騎兵部隊の後方攪乱によって補給路を遮断され、また、民主党のイリノイ州選出下院議員を辞職して従軍したジョン・A・マクラーナンド少将が、リンカーン大統領の承認を得て中西部諸州の兵士を集めてヴィックスバーグ攻略作戦に参加してきたため、指揮権を巡る混乱もあって、結局撤退を余儀なくされてしまった。

ちなみにマクラーナンド将軍は、12月末にシャーマンから指揮権を引き継いだ後、ミシシッピ川に合流するアーカンソー川沿いを遡上して南軍のハインドマン砦に遠征し、約5千人の南軍兵士を捕虜にするといったような、無駄な寄り道作戦を当時行っていた。

 既に1220日に艦隊と共に川を下ってヴィックスバーグのすぐ北ヤズー川沿いにあるチカソーの絶壁を襲撃したウィリアム・T・シャーマン少将の率いる分遣隊約32千人の攻撃も、南軍の10倍近い死傷者(約1,800人)を出して失敗してしまったのであった。

 この北軍の一連の攻勢が失敗した原因は、恐らくバイユーによって形成された沼沢地によってスムーズな進撃を阻まれたことと、南軍守備隊が川沿いに連なる絶壁上に堅固な陣地を構築していたためであろう。特に絶壁上に設置された南軍砲台から受ける砲撃は、北軍に大きな脅威を与えたと筆者は考える。

 ヴィックスバーグ付近の地形を観察すると、北軍はやはり川の東岸地帯から攻撃するしか攻略の方法は無かったと思われる。ミシシッピ川東岸に位置するヴィックスバーグ要塞の川沿いには断崖絶壁が連なっていて、西岸からの直接的な攻撃は、その断崖上に設置された南軍砲台の格好の標的となってしまうために成功させることは非常に困難であっただろう。

 そうかと言って、ヴィックスバーグの街を取り囲む南軍の要塞を北の沼沢地から北軍が再度攻撃することは、1862年冬季攻勢の失敗から見ても、成功は覚束ないことが明らかだった。

 そこでグラント将軍は、1863年春まで待って、極めて大胆かつ壮大な迂回作戦を実施した。それは、デイヴィッド・D・ポーター提督の率いる砲艦7隻と兵士を乗せていない輸送船3隻の合衆国艦隊が敵の砲台が連なる断崖下をミシシッピ川下流まで強行突破し、下流のハード・タイムズまで下って東岸のグランド・ガルフにある南軍砲台を沈黙させた後に、ミシシッピ川西岸を遥々迂回進軍してきた4万人以上の陸軍を東岸に輸送するという作戦であった。

 筆者が思うに、これは当時の北軍が考え得る最も有効な迂回作戦だろう。なぜなら、ミシシッピ川西岸には当時ほとんど南軍の脅威が無かったからである。その地で大軍を南下させて南軍要塞の遥か下流エリアで川の東岸に渡河させることに成功すれば、時間はかかると思うがヴィックスバーグ東方に軍を展開して、要塞を東側から包囲して攻撃することが可能となるからだ。

 当時、ペンバートン軍を支援するために西部戦線総指揮官ジョセフ・E・ジョンストン将軍の率いる南軍が、ヴィックスバーグ東方にあるミシシッピ州都で鉄道交通の要衝であるジャクソンに駐屯していた。したがって、北軍がミシシッピ川東岸に渡河してジャクソンに向かえば、ヴィックスバーグのペンバートン軍とジャクソンにいるジョンストン軍の連絡を遮断できることになる。

 これは兵力優勢な北軍にとっては、成功すれば分断した南軍を各個撃破することもできるし、ジョンストン軍が会戦を回避したとしても、ペンバートン軍を圧迫してヴィックスバーグの要塞内に閉じ込めてしまうことも可能だろう。実際、その後の南軍の動きは北軍の想定通りに進展したわけである。

 だが、このグラント将軍の考えた大胆な北軍の迂回作戦には、成功すればとても効果的ではあったが、同時に非常に危険な難点が伴っていたのではないかと筆者は考える。

 まず第1に、ポーター艦隊が無事ヴィックスバーグ要塞の直下を下流まで通過することができるかどうかである。そして第2に、陸軍の大部隊がバイユーの沼沢地である西岸の土手道を切り開きながら、海軍と連携しつつ、所定の時期までに無事予定地点に辿り着いて集結することができるかどうかである。

仮に陸軍が予定地での集結に失敗して作戦が中止となった場合、一旦下流に下ったしまった艦隊が、低速で敵の砲火をかい潜って上流の基地であるミリケンズ・ベンドに帰還することは難しかっただろう。さらに第3に、陸軍が無事ミシシッピ川東岸に渡河することに成功したとしても、その後はもはや後方の策源地との連絡線が途絶えてしまう点も問題であったに違いない。

 第1と第2の点を解決するためには、大規模な陽動作戦が必要となる。そこで、グラント将軍は、まずシャーマン将軍の軍団に、ヴィックスバーグ北部の断崖に対する攻撃を仕掛けることを命じた。

さらにグラントは、ベンジャミン・H・グリアソン大佐の率いる騎兵旅団にテネシー州ラグランジェからルイジアナ州バトンルージュまで、800マイル(約1,290km)程度、南北に並行して伸びるミシシッピ・セントラル鉄道とモービル・オハイオ鉄道の間を移動させ、鉄道を分断するとともに南軍騎兵と交戦しつつ、南から攻勢をかけるバンクス将軍の率いるメキシコ湾岸軍に合流する陽動作戦を命じたのであった。

 そして、ポーター艦隊のミシシッピ川下流への突破作戦は1863416日夜、グリアソン騎兵旅団の南北縦断機動作戦は翌417日に、それぞれ開始されたのであった。

2015年10月5日月曜日

ロシアのシリア空爆開始により、中東のパワーバランスが変動する可能性に関する分析

 930日、ロシアがシリアでの反体制派に対する空爆を開始した。アメリカとロシアが同一の戦場で共に軍事行動を展開するのは極めて異例であり、恐らく第二次大戦以来の稀有な事態であろう。

その理由は、冷戦期には両者(当時はロシアではなくソ連だったが)の直接対決を招くような同一戦場での軍事行動が核戦争へのエスカレートを招きかねないとして敬遠され、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、アフガニスタン紛争のように米ソの一方が直接軍事介入した場合には、他方はその対抗勢力を支援するに止まった代理戦争方式が冷戦期の一般的形態であったためである。

 今回のロシア軍のシリアでの空爆開始は、国連総会でのアメリカのオバマ政権の出鼻を挫いて、プーチン大統領が周到に準備した上で機先を制して実行された作戦だと筆者は見立てている。

 なぜなら、ロシアは9月初めからシリアに先遣部隊を送って、地中海に面する港湾都市ラタキアの空軍基地に空爆準備のための滑走路を建設していた事実があるからだ。なお、ロシア黒海艦隊はラタキアの南に位置するタルトゥース港に、旧ソ連圏以外では世界唯一の海軍の補給基地を持っている。ロシアはシリアのアサド政権にとって、イランと並んで最も重要な軍事支援国である。

 今回のロシアの軍事行動の意図は、恐らく現在のところ欧米との最大の対立原因となっている、ウクライナ問題からシリア内戦の動向に欧米諸国の関心を向けさせることにあるのだろう。この9月は、プーチンにとってロシアの国益を伸ばす、まさに絶好の好機であったのではないだろうか。

まず、今夏以降、数十万人のシリア難民・移民がEU諸国に殺到していることから、EU諸国の主たる関心が、アサド政権自体の存続問題より難民・移民問題の直接的な原因を除去するための対IS(イスラーム国)軍事作戦に集中し始めていた。

例えば、シリア国内での空爆参加をこれまで控えてきたフランスがシリア国内での対IS空爆作戦を開始したのは、927日からであった。これにはシリア内戦の周辺諸国への波及を封じ込め、難民・移民の欧州流入を少しでも抑制する軍事的意図が、オーランド仏大統領にあったのだろう。

こうした状況下において、EU諸国としては、建前はともかく、ロシアがISを叩く空爆を遂行することに本音では反対すべき理由は無いはずだ。EU諸国の関心は、自国の安全保障環境を悪化させない事であり、ロシアの軍事行動がシリアでの紛争をエスカレートさせなければ、さほどの懸念材料とはならない状況だろう。

 次に、ウクライナの親ロシア派は、2月に発効したミンスクⅡ停戦合意に従って、103日ウクライナ東部の緩衝地帯から戦車部隊を撤収させ始めた。102日にパリで行われた仏独露ウクライナ4カ国首脳会談では、ミンスクⅡで今秋実施が予定されていた親ロシア派支配地域での地方選挙先送りが、改めて合意されている。

 これは明らかに、プーチン側の欧米による経済制裁解除を目論んだ意図的な譲歩であろう。ウクライナ問題では、オバマ米大統領がポロシェンコ大統領の要請による対ウクライナ武器供与を検討し始めたことから、独仏両国の欧州でのロシアとの紛争拡大に対する懸念が年初から高じていた。

 その結果がミンスクⅡ合意であったのだが、状況としては20149月に締結されたミンスクⅠ合意と同様、いつ破綻してもおかしくなかった。それが今になって一定の和平の方向に進展したのは、ロシア側の譲歩の影響が大きいと筆者は思う。

 ロシアは対シリア軍事介入に当たって、シリア、イラク、イランとの4カ国間で対IS情報センターを設置して軍事協力関係を強化しつつある。プーチン大統領はシリア問題でアメリカのオバマ政権の軍事作戦が効果的に進んでいない間隙を利用して、アメリカから主導権を奪い、冷戦後に中東で失ったロシアの影響力を回復するとともに、ウクライナ問題を棚上げすることを多分狙っているのだろう。

 シリアでのロシア空軍機の空爆対象は、現在までの報道によると、アサド政権側支配地域の周辺部に位置する反体制派の拠点を主に標的にしているようである。それは、ヌスラ戦線などイスラーム過激派や、親欧米派の自由シリア軍の拠点も含まれている。欧米諸国や反体制派はロシア軍の標的が無差別で、民間人の付随的損害も出ているとロシアの軍事行動を非難している。

 これに対して、イラン革命防衛隊は傀儡であるレバノンのシーア派武装勢力ヒズブッラーとともに、レバノンからシリア領内へ地上部隊を越境させてアサド政権に対する軍事支援を強化しているという情報もある。確証はないが、このイランとヒズブッラーの動向は、今回のロシアの軍事介入開始に連動した動きと言えるのかも知れない。

また、シリアのバッシャール・アサド大統領も、104日に放映されたイランのTV局とのインタビューで、「ロシアの空爆作戦が成功しなければ中東全体が崩壊する」旨を発言して、ロシアの軍事介入を側面支援した。この時、アサド大統領は「テロリズムを煽っている」として、欧米に対して非難することも忘れていなかった。

9月になってからのシリアを巡る一連の状況を見ると、反米勢力側の親米勢力側に対するパワーバランスを変更しようとする動きが強まっているのではないか、と筆者は考える。

 以下に示す図は、筆者が作成した現在の中東での安全保障環境を表す直交座標図である。
この図では、第一象限に位置する諸勢力がパワーバランス劣勢の現状変更を意図する反米勢力であり、それに対峙する第三象限の諸勢力が冷戦後のパワーバランス優勢の現状維持を意図する親米勢力である。この両者の力の均衡が、シリア内戦をめぐって最近少しづつ変動している状況というのが、昨今の中東における安全保障環境の実態であろう。

 図 主要な主体間の位置関係(筆者作成)
                   (地域における核抑止体制の現状変更)            ・イラン








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・ヒズボラ
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 ・ハマス
・パキスタン
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