2015年12月4日金曜日

日米同盟の対称化(コミットメント強化)政策に対する反論として、安全保障のジレンマと同盟のジレンマを持ち出すことの理論的問題について(本論)

 さて、昨日筆者が投稿した『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での日本の集団的自衛権行使に関する柳澤協二氏の論説への反論について、筆者の見解を今日は述べてみよう。

再度柳澤氏の論点を要約すると、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」努力は日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こし、東アジア地域の緊張を激化させかねない。また、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。よって、我が国周辺における紛争への対処は従来通りの個別的自衛権を行使することだけで十分足りるし、むしろ現状では、アメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていると見るべきだという主張である。

なお、日米安全保障条約(1960年)第5条では、日本の施政下にある領域での日米両国の共同防衛義務だけが規定されているだけだから、確かにNATOと異なり防御同盟として日米同盟が非対称であることは間違いない。だが、次の第6条では米軍の日本国内での駐留権と地位協定に基づく法的地位(特権)の付与が日本側に義務付けられていることから、日米同盟は決して片務的な同盟関係ではない。

したがって、我が国が将来集団的自衛権を限定行使することによって日米同盟を「対称化」させることは可能であるが、同盟を「双務化」するという言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない。そのため筆者はこの言葉を用いないのである。

 ここで、重要な論点は、まず第1に「安全保障のジレンマ」の定義を再確認することである。代表的なロバート・ジャービスの定義などによると、「安全保障のジレンマ」とは軍備増強や同盟形成等による自国の安全保障強化措置が、相互不信や先制攻撃の恐怖の連鎖反応を招くことによって、かえって他国の安全を減少させる状況を意味している。

このジレンマを引き起こす原因は、相手国の意図に対する相互不信と恐怖の連鎖とスパイラルである。そして、かかる相互不信は国際システムが無政府状態で合意の履行強制が個々の国家のコミットメント(約束の履行)問題に帰着することから生じ、また、恐怖は自助システムによる安全保障上の自己責任から生じるのである。

 ところが、このジレンマは本来防御的意図しか有しない現状維持国間で生じることから不本意な軍拡競争による緊張激化を引き起こす「ジレンマ」と言えるのであって、相手が現状維持国側に対する力の変遷を望んで均衡化を図ってくる挑戦国である場合には、現状維持国側がむしろ力の不均衡を増大させる能力増強競争を行って、挑戦国の勝算の期待値を引き下げることが戦争を引き起こさないための妥当な政策になるのである。

 そして、筆者の考えでは、現在の中国は東アジアにおける日米同盟に対する挑戦国と見なすのが妥当であるから、柳澤氏の主張するような「安全保障のジレンマ」は本来起こり得ないはずである。その場合に考慮されなければならないのは、あくまでも現状維持国側の能力増強による抑止の効果についてであって、日米サイドが能力増強を控えれば、却って中国の現状変更行動(既存秩序を支えているゲームのルールの変更)を認めるという、誤ったシグナルを相手に送ってしまう危険な安保政策となりかねないだろう。

 さらに最近の実証研究から言えば、安全保障のジレンマによって戦争が引き起こされるという因果関係には懐疑的な見方が有力で、当該ジレンマは単に双方の協力関係を阻害するに過ぎず、軍拡競争や戦争の原因とはならないとするモデルも提唱されている。仮にジレンマによって緊張が激化したとしても、信頼醸成措置(CBMs)などの安心供与を相手国に与える措置を講じれば十分で、これは同盟の能力及びコミットメントの強化による抑止力の向上とは全く別の論点なのである。

実際、日米対中国の間で安全保障のジレンマが生じていることを仮に認めたとしても、日中海空連絡メカニズムの構築等のCBM合意は徐々に進展しているのだから、柳澤氏の主張するような日米中間の緊張が必ずしも激化しているわけではないだろう。

 第2の論点は、「同盟のジレンマ」についてである。確かに柳澤氏の言うとおり、日本の様なジュニア・パートナーが集団的自衛権を行使してアメリカの軍事介入に協力するようになれば、理論上は「巻き込まれる恐怖」を避けながら、同盟強化によるアメリカのコミットメントの確実な履行を探って「見捨てられる恐怖」を払拭していく難しい安保政策の舵取りを今後強いられるようになるかもしれない。

 だが、同盟関係の維持管理とは、本来パートナー国のコミットメントの不確実性(不完備情報ゲームの性質)を和らげるためのバーゲニングが本質なのである。なぜなら、コミットメントの履行は決して自動的になされるものではなく、その信頼性はあくまでも有事の際の相手国の意思決定次第なのであり、また、同盟による抑止が成功するかどうかは、被抑止国側がコミットメントの信頼性についてどう認識するかにかかっているからである。

 したがって、アメリカの日本に対する拡大抑止を間違いなく履行させるためには、かつてトーマス・シェリングが指摘したようにコミットメントを供与しない「逃げ道」を塞ぐような「仕掛け線」(tripwire)、すなわち、米軍を事前に最前線付近に配備しておくことが重要なのである。実は沖縄への米海兵隊配備には、有事の際にアメリカを地域紛争に「巻き込む」ことを強要する、そうした「仕掛け線」の意味合いがあると筆者は考える。

 その点では、米海兵隊が沖縄に駐留している限り、一定の程度で日本の「見捨てられる恐怖」は弱められているのである。また、有事の際の緊急抑止に関して言えば、紛争の初期段階で戦場に到達できるような緊急展開能力の優勢を保つことが決定的に重要であるから、その意味でも沖縄に米海兵隊を配備しておくことによる「仕掛け線」の設置は、日本の安全保障にとって有意義であるだろう。柳澤氏以上に有名な安保問題の論客である孫崎享氏(元外務官僚)や森本敏氏(元防衛大臣)の言説は、このあたりの点に関して認識不足であると筆者は感じている。

 さらに、平時の一般抑止において被抑止国に対する同盟コミットメントの信頼性を強化するためには、被抑止国の戦争費用を引き上げて攻撃のインセンティヴを逆に引き下げるような、有効な抑止シグナルを相手に伝達する必要がある。

その意味において、同盟国が介入意思と能力を持つことに疑問の余地が無い位に高いコストとリスクを平時から負担しておくことが、有事における実際の便益(介入の有無)を度外視しても、私的情報であるコミットメントのシグナリング効果を増大させるはずである。

筆者が思うに、安倍政権が容認した限定的な集団的自衛権行使の本当の意義は、実はこのような被抑止国に対するシグナリング効果を強化することにあるということなのだ。柳澤氏たち行使容認反対派は、こうした側面を正確に理解してはいないのではないだろうか。

2015年12月3日木曜日

日米同盟の対称化(コミットメント強化)政策に対する反論として、「安全保障のジレンマ」と「同盟のジレンマ」を持ち出すことの理論的問題について(序論)

 毎年年末になると今年起きた国内外の出来事を纏め、いわゆる有識者たちが来年度を予想して論点を語るような(失礼ながら浅薄な)情勢整理本が書店に並ぶようになる。筆者も今日職場近くにある大型書店で、そうした本の1つである『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』をざっと眺めてみた。今日はその中の国際情勢と安全保障問題に関する論説について、筆者の感想を述べてみたい。

 まず、筆者の良く知っている知人である池内恵氏と柳澤協二氏の論説が目に留まった。池内氏はイスラーム問題について有名な若手論客として活躍中だが、彼は昨年来のISの台頭でシリアとイラクが「新しい中世」状態に陥っており、よく言われるような中東では民主制ではなく独裁者でなければ統治できないという認識すらもはや成立せず、仮に独裁制に回帰したとしても現在の混沌から逃れることは出来ないだろうという認識を示していた。

 この池内氏の分析は、なかなか鋭い内容を含んでいる。というのは、中東の現在の国家体制と安全保障環境を規定した英仏(露)のサイクス・ピコ協定の打破をISがスローガンにして、カリフ国の樹立を昨年6月のイラク北部モースルの陥落後に宣言したこと、その後ISが欧米諸国その他からなる有志連合(彼らの言う「十字軍」)の攻撃を一手に引き受けて迎え撃っているという宣伝を流布していることが、昨年来、国際安全保障上の大問題となっている現実の本質的な側面を、非常に上手く表現しているからである。

 ただし、池内氏の述べた「新しい中世」という言葉は他人の受け売りだし、ISの活動による中東近代国家体制における国境線否定の現実が、必ずしもウェストファリア体制以前の中世欧州の様なローマ教皇と教会権力や神聖ローマ皇帝、国王や領主に対する忠誠と義務(換言すれば一定領域内での権威と権力)の錯綜関係への復帰を必ずしも意味してはいないのだから、ややオーバーに言い過ぎている嫌いはあるだろう。

 筆者が問題というか、認識不足で大変頓珍漢な議論であると思ったのは、柳澤氏による日本の集団的自衛権行使に反論する論説文の方である。断っておくが、筆者は2001年の911事件の頃から彼とは知人であり、その言説についても十分把握していると思うのだが、最近の彼は昨今の国際安全保障問題の本質を正確に理解しないまま、もっぱら安全保障担当の内閣官房副長官補まで務めた防衛官僚としての経験論に基づく、(筆者に言わせれば浅い)議論を繰り返しているように感じてならない。

 あくまでも『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での柳澤氏の論説から感じたことだけなのだが、要するに彼は、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」(「双務化」という言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない)努力が日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こして東アジア地域の緊張を激化させかねないし、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。そして、いわばアメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていることだと主張しているのである(この認識はかなり疑問だ)。

これに対して安倍政権は「見捨てられる恐怖」を感じているから同盟の対称化を進めているのであって、柳澤氏の分析ではその本質は現行の国際秩序を維持しようとする意図の弱まったアメリカの対外介入に日本がどう協力するかという問題に過ぎないということらしい。したがって、集団的自衛権行使による日米同盟の対称化の結果、自衛隊は地球の裏側までアメリカの介入に協力させられる危険があるし、そもそも現状の日本周辺の紛争に対処するためには従来の個別的自衛権を行使することだけで十分なのだ、というのが防衛のプロであると自他ともに認める柳澤氏の現状認識なのである。

 はっきり言って、この柳澤氏の言説は国際政治学の理論的に見ても実証的に見ても浅薄で不正確な理解に基づく、非常に頓珍漢な安全保障論である、と筆者は考える。

 実はこの点について筆者の見解を述べたいのであるが、残念ながら今日は時間が足りない。そこで、当該問題に関する本論については明日の投稿で詳しく述べることにしたいと思う。

2015年12月2日水曜日

ロシアの対トルコ輸入禁止措置の経済制裁発動は、紛争の機会費用に関するリベラリズムの前提を覆す可能性がある。

ロシア政府は121日、Su-24M戦闘爆撃機撃墜の報復措置として、トルコに対する制裁のリストを公表したが、そのリストによると、農産品の他にも鶏肉や塩など計17品目の輸入を来年11日から禁止するということである。

ロシアはウクライナ問題をめぐる対立からEUからの農産品の輸入も制限しているため、今後の物価の上昇による市民生活への影響が懸念されていると報じられた(NNNニュース、122日)。また、地元メディアによると、ロシアからトルコに天然ガスを供給するパイプライン建設計画についても、「交渉が停止される」との話が伝えられているそうだ。

 国際政治学におけるリベラリズムの前提によると、経済相互依存下にある国家間関係においては、紛争の機会費用が高まるため、双方の関係悪化がもたらすコストの負担を考慮して紛争のエスカレーションが抑制され、その結果平和が保たれると考えられている。

 これはリベラリズムが、国益とはもっぱら国内アクターの選好に由来し、絶対利得、換言すれば経済的利益の最大化を国家が追求するはずであると考えていることを前提としている。すなわち、リベラリズムの前提では、国家間で絶対利得が求められるため双方の利益が合致することで協調がもたらされ、武力紛争の機会費用が考慮されてそれを回避することが国家間の共通利益になると楽観視されているからである。

 だが、今回のロシアの対トルコ経済制裁措置は明らかにロシアの絶対利得を減少させるものだろう。なぜなら、報道されているとおり、ロシアはトルコとの経済相互依存状態にあるからだ。したがって、ロシア政府がトルコからの物資の禁輸措置を選択することは、自ら自国に損となることを承知でトルコとの友好関係を毀損したことになる。

 両国間で経済相互依存が深まれば経済的損失が大きくなるために双方の紛争が抑止され、協調が維持されるとするリベラリズムの考え方はかなり疑問視されると言わざるを得ない。この事実が、今回のロシアの対トルコ制裁の発動を見ても明らかなのではないだろうか。

 筆者が思うに、現実主義の考え方である、A国の利得が直ちにB国の損失に結び付くとするゼロサム的な「相対利得」の追求が国際政治の前提であるため、国際協調は困難であるとする見方は国際関係を一面的に捉え過ぎている。

 だが、同様に国家が「絶対利得」を常に追求するため、他国との協調を重視し、紛争の機会費用を考慮して紛争のエスカレーションを回避するというリベラリズムの考え方も、甘すぎる一面的な見方であると言わざるを得ないだろう。

 問題の本質は利得の形態ではなく、その時に当事国の置かれた戦略環境による政策の選択肢の幅にあるのだろう。こうした視点に立てば、今回のロシア政府によるトルコへの禁輸制裁措置の発動に見られるように、自ら経済的な絶対利得を縮小しても安全保障上の相対利得の損失を最小限に抑えることを選択するという、一見損な政策を採ることも国際政治では有り得るということなのである。

 ロシアとしては、トルコのエルドアン大統領があくまでもロシア空軍機のトルコ領空侵犯の主張を取り下げず、現時点で一切の謝罪や金銭的賠償にも応じる気配を見せていないことから、有効な争点分割が出来ないためバーゲニングが不可能な状態に陥っているとも考えられる。

 ロシア側はあくまでもSu-24M機が領空侵犯をした事実は無かったと主張し、トルコ側はNATOの支援も受けてロシア機の自国領空侵犯を主張しているため、この争点を他の争点での譲歩と交換することが今のところ出来ないだろう。いわゆる争点のリンケージという、紛争当事者間における交渉上の知恵を働かせることが不可能な状況なのである。

 だが、分割不可能な争点のほとんどは両国の置かれた政治的文脈に規定されたものであって、決して物理的に争点分割が出来ないわけではない。特に今回の国家の領域主権に関わる領空侵犯の様な安全保障問題については、個々の紛争自体は取るに足らないような些細な行き違いに起因したものであっても、国内政治における「観衆費用」を高めて自国が容易に引き下がれないような状況を作り出すことによって相手の譲歩を引き出すバーゲニング・パワーを創出するためにも、トルコとしては安易な妥協を避けなければならないはずである。

 しかし、それによって、必ずしも両国の紛争が武力衝突にエスカレートしていくわけでもないだろう。筆者の見立てでは、今回の紛争原因はもっぱらトルコ側のクルド問題に関する安全保障のジレンマにあると考えるが、それは脅威認識の相手をトルコからの分離独立を志向している国内反体制派PKKや、ISと戦っているシリアのクルド人民防衛隊(YPG)を支援しているロシアと考えた場合には、極めて間接的で非対称な相手と言わざるを得ないからである。

 ある意味では、その点にこそ、今回のロシア軍機撃墜問題が抱える複雑怪奇で解決困難な相手国の意図に関する「相互不信」と「恐怖」のスパイラルに基づく安全保障のジレンマが隠されているわけであろう。