公私混同疑惑問題で引責辞任した舛添要一前都知事の後任者を選ぶために実施された東京都知事選は7月31日に開票され、自民党公認を得られなかった小池百合子元防衛大臣が291万2千票余りを獲得して女性初となる新都知事に当選した。これに対し、民進党や共産党など野党各党の統一候補として推薦・支持を得ていたジャーナリストの鳥越俊太郎氏は134万6千票余りの獲得投票数にとどまり、小池氏にダブルスコア以上の大差をつけられて結果的に惨敗した。
その鳥越氏が8月10日、都知事選を振り返ってハフポスト日本版の取材に応じたのだが、それがまたネット上などで批判を浴びている。批判の主なものは、鳥越氏が事前の準備もせず都政について不勉強のまま、7月10日に行われた参院選で与党自民党が勝った結果を受けて、もっぱら安倍政権に国政上対抗する目的で急遽都知事選に立候補したという政治的脈絡の無さや、氏が「ペンの力って今、ダメじゃん。」と、ジャーナリストを自称しているにもかかわらず自己否定しているような突っ込みどころ満載な点にあるようだ。
だが、筆者が記事を読んでみた感想では、鳥越氏が政治指導者としても知識人としても最も資質に欠けて問題であるのは、彼が物事を突き詰めて考える知的誠実さを持ち合わせていない点にこそあると思われる。
例えば鳥越氏は、「報道の現場の仕事をしていれば、何か月もかけて物事に精通するとかではなく、本当に急ごしらえでガーッと詰め込まなければいけない仕事してきているわけ。50年間。だから」都知事に就任してから勉強しても心配ないし、「出馬会見ではそういう風に言わざるを得ないじゃないですか。」というわけだが、これではいかにも課題山積で停滞する都政を変えてほしいという、多くの都民の期待に応えようという姿勢が氏には根本的に欠落していると言わざるを得ないだろう。
その次に例の「ペンの力って今、ダメ」というジャーナリストとしての自己否定発言が出てくるのだが、「だって安倍政権の跋扈を許しているのはペンとテレビでしょ。」というわけで、選挙の中で訴えるという一つの手を打ったというのが鳥越氏の出馬理由らしい。だが、この点についても筆者は鳥越さんの認識不足が垣間見えると考える。
筆者の見立てでは、安倍政権の(鳥越氏の言うところの右傾化の)跋扈を許しているのは、日本ジャーナリズムの力不足というより、ポスト冷戦期のアメリカの力の衰退と中国の台頭という、我が国周辺の安全保障環境の変化の影響の方がずっと大きいだろう。さらに言えば、そのシーパワーと英語というソフトパワーで19世紀以降の国際主義を推進してきたアングロサクソン人の内部で、イギリスがEU離脱を国民投票で決定したり、アメリカ国内でトランプ現象が生じるなど、かつてない程の内向き志向が強まっていることが日本の戦後安全保障体制を揺るがせていることに大きな要因を見出すことができるのである。つまり、鳥越氏の見方は表層的で浅薄なのである。
鳥越氏の知的誠実さの欠如は、「候補者って要するに、街宣の時にしゃべる駒だから。」と自ら政党の傀儡であることを臭わせたり、ニコニコ生放送の候補者討論会や池上彰氏の開票特番を欠席したことも「選対の部分でカットしているから、なぜか僕は全く知らない。」という、都知事候補者としては全く無責任としか思えない発言からも十分に窺うことができるだろう。
また、週刊文春と週刊新潮が立て続けに報じた自身の女性スキャンダルへの対応として告訴という公権力の利用をもっぱら手段として、自ら説明責任を果たそうとしなかった点についても、鳥越氏は「説明責任というのは美しい言葉だけど、・・・(中略)・・・(冤罪に関する無かったという「悪魔の証明」は不可能であるから―筆者注)何の意味もないですよ。」と断言している。これでは、彼のジャーナリストとしての誠実さも否定すべきであろう。
さて、肝心の都知事選に当たっての鳥越氏の選挙公約については、「待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロと原発ゼロ、三つのゼロ、と一本の旗。一本の旗というのは、非核都市宣言」ということだったそうだ。だが、氏の掲げた三つのゼロ政策の実現に関する財源の捻出等に関する具体案の提示はなく、ただのスローガンの提示だけだったようだ。
待機児童の問題については、現場に行って「保育士からいろんな話を聞いて」わかって語れる自分がいたと鳥越氏はいうが、聞いた話は「あなたの手取りいくら?」といった部分的な保育士の待遇改善などの問題だけで、当該問題に絡む複雑な理論的あるいは構造的要因を理解しようという知的努力は何らしなかったようである。これも氏の表層的で雑な理解に基づく議論の展開に過ぎなかったのだろう。
鳥越氏のリベラリズム理解についても、大いなる欺瞞が潜んでいると筆者には感じられた。氏は衆院選でも参院選でも改憲勢力に3分の2を取られたことに戦後日本社会が「落ちるところまで落ちたな」と大いなる危機感と義憤を抱いているようだが、そもそもリベラリズムの前提は、国家という公権力(ホッブズの言う「リヴァイアサン」)が最低限、市民社会の安全保障を確保することによって成立している。
鳥越氏の過去の発言から考えると護憲を唱える一方で自衛隊の存在を黙認して、事実上アメリカの核抑止力によって日本の安全保障を維持しようとしているに違いない(ご本人には、その認識すら無いだろうが)。それでは集団的自衛権行使に関するいわゆる「解釈改憲」で現状を切り抜けようとしている保守勢力の一部と、突き詰めて考えた場合の結果は同じだろう。鳥越氏の唱えるリベラリズムは、全く欺瞞的だといえる。
今回の都知事選で棄権した4割の有権者が、「自分たちの将来、生活について何も思っていないんですよ。」「何となく毎日これでいいんじゃん?」と考えて棄権したとする鳥越さんの認識も眉唾で、有権者を舐めた発言に筆者には思える。問題は棄権者が都政に積極的にクレームをつける意思に欠けていたのではなく、鳥越氏も含めてろくな候補者がいなかったことに対する消極的クレームの意思表示が、棄権という投票行動に現れたと見なすべきではないか。
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