前回の投稿で述べたように、永禄12年10月1日から4日にかけて後北条氏の本拠地小田原城は、武田信玄の率いる約2万人とも言われる甲信西上野の軍勢に包囲された。しかし、この当時の信玄の主たる作戦目的は、前年に開始した自己の駿河侵略を有利に進めるために後北条氏の駿河への支援を中断させることに置かれていた。言わば後北条氏による自己への敵対に対する報復と、牽制目的だけの武田の敵地侵攻であったと筆者は考える。
そこで、武田勢としては後北条氏領内を荒らし回ってその威力と脅威を見せ付ければ目的は十分に達成することができ、敵地を制圧することや敵の主要な城郭を陥落させることは本来の目的では無かったのであろう。
したがって、敵の本城小田原城に対しても城下に放火しただけで、信玄は本格的な攻城戦を行わなかった。北条氏政の上杉謙信宛10月4日付書状及び氏政の弟氏照の山吉孫次郎宛10月24日付書状の記述によると、武田勢は10月4日に小田原城下を退散し、翌5日には津久井(奥三保)筋、つまり三増峠付近まで退却していた模様である。
『甲陽軍鑑』によると、小田原退去に当たって信玄は息子の四朗勝頼の軍勢を殿とし、北条方に対して帰途鎌倉鶴岡八幡宮に社参するとの噂を流して、退路を秘匿したとされる。これが事実とすれば、永禄4(1561)年3月の上杉謙信の率いる軍勢による小田原城攻めにあやかった風説の流布と考えられ、いかにも策略家であった信玄の行いそうな話である。
実際の武田勢の退路は、ほぼ一昼夜後の10月5日に津久井筋(愛川町)まで到達できたことから、恐らく松田まで北上した後、矢倉沢往還(現在の国道246号線)を通ったのであろう。これは秦野と伊勢原(糟屋)を経由して津古久峠を越え、厚木西方を北上して中津川を渡河した後に三増峠や志田峠を経て津久井から甲斐郡内に入る最短ルートであった。
ちなみに『甲陽軍鑑』には、武相侵攻前の7月中の武田家中の談合で作戦終了後の退路として津久井筋の他に箱根、三島を経由する経路も検討されたという記述がある。しかし、当時敵地で境目防御の北条方の城が連なっていた、天嶮かつ危険な箱根越えルートを敢えて選択して武田の大軍が無事帰国することが可能だったとは到底思えない。したがって、初めから武田勢の想定した退路は、境目の北条方の城が津久井城1つしかない津久井筋経由の一択だったのであろう。
さて、10月5日に武田勢が三増峠の麓に到達した時、既に源三氏照と新太郎氏邦、そして『甲陽軍鑑』によると玉縄城主の上総介綱成の率いる軍勢が峠に布陣していた模様である。ところが、この軍勢は武田勢が迫ると陣屋を空にして中津川対岸に渡河して半原山に落ちて行ったと『甲陽軍鑑』に記述がある。これが事実ならば、氏照らは峠を先に占拠する有利な態勢を自ら捨てて武田勢に退路を開けてやり、敢えて平地に下ったことになる。この点をどう考えるべきか、私見を述べる。
『甲陽軍鑑』の記述では、この時小田原を進発していた氏康と氏政の率いる北条氏旗本の軍勢は、まだ荻野辺りにしか到達していなかった。この主力部隊の兵力に関しては、筆者は恐らく1万人程度ではなかったかと考える。
氏康、氏政父子の三増合戦前後の謙信宛書状などを見ると「無二一戦」を遂げる心算のような威勢の良い宣伝文句が書かれているが、当時駿豆国境地帯にむしろ兵力を集中させていた後北条側が、甲信西上野の勢力圏下のほぼ全兵力を集中した後、満を持して信玄が試みた敵地侵攻の武田勢約2万人に対抗し得る程の兵力を小田原に短期間で終結できたとは到底思えないからである。
敗北する相当なリスクを伴う決戦に打って出る程の兵力が集中できなかったからこそ、後北条氏は基本的に本城、各地の支城とも、籠城して武田勢の通過をやり過ごす作戦を永禄12年に採用したのではないだろうか。
先衆として三増峠付近で武田勢を迎撃した氏照、氏邦兄弟の率いた後北条勢について、『甲陽軍鑑』は両者の指揮下にあった滝山衆と鉢形衆の他に、綱成の指揮下にあった玉縄衆、江戸河越衆、忍衆と深谷衆、岩付衆、さらには房総半島の他国衆まで約2万人を動員したと記している。これは明らかに後北条勢先衆の兵力が過大で、眉唾な記述である。
籠城戦術を採った永禄12年当時の後北条氏が、これだけの兵力を1か所の戦場に集結できたはずが無いだろう。房総半島からも参戦したとしている割には、武蔵国内の小机衆や松山衆、相模国内の三崎衆の名前が出て来ない点も大きな疑問である。もしかすると、江戸河越衆の参戦すら無かったのが、三増合戦での後北条方の真相であったのかも知れない。
筆者の見立てでは、三増合戦に参加した北条勢先衆の兵力は、滝山衆と鉢形衆を主力として、玉縄衆を合わせても約6、7千人程度に過ぎなかったと考える。先衆だけでは武田勢に比べて著しく兵力劣勢であったからこそ、小田原からの本隊到着まで氏照ら先衆は峠を下って中津川対岸の半原に退避したのであろう。
実際、合戦後の10月15日付で信玄が遠山駿河守宛てに出した書状では、帰国の砌氏政舎弟源三、新太郎、助五郎が引率した6、7千人の人数と一戦を遂げ、新太郎と助五郎以下2千余人を討ち取って、信玄が存分に勝利を得たと過大に報告している。
この信玄書状に出てきた「助五郎」とは、氏康五男(氏政、氏照、氏邦同母弟)で当時三浦半島先端にあった三崎城主であった後の美濃守氏規のことで、幼少期に駿府で今川氏の人質となっており、同じ境遇であった徳川家康と親交があったとされる人物である。ただ永禄12年当時は、伊豆の韮山城代として三崎衆を率いて出張していたと思われる。
したがって、これは信玄が玉縄城主の綱成と混同した可能性もある。しかし、信玄が宣伝した氏邦と氏規以下2千余人を三増合戦の際に討ち取ったとする報告は、自己の戦果を過大に宣伝する目的による明らかな虚偽報告であった。それでも、敵方の兵力に関する彼の認識は概ね是認できるだろう。
以上の考察を前提として、永禄12年10月6日に起きた戦国時代屈指の山岳戦であったと言われる三増合戦の実態を分析してみると、以下の通りである。
まず、合戦当日戦場に集結した兵力は北条勢が武田勢の半分以下の劣勢であり、そのため先に占拠していた有利な峠道での迎撃を断念して、氏照と氏邦の率いる後北条先衆は小田原からの本隊到着まで決戦を避けるために合戦前日の10月5日に中津川西岸の半原に退避した。
この北条勢の動きに対する武田信玄は、勝頼らの率いた主力部隊を三増峠に登らせた一方で、『甲陽軍鑑』によると、三増峠北方約3kmの地点に位置していた北条方内藤氏の居城津久井城からの攻撃を牽制させるため、西上野最大の国人であった国峰城主小幡尾張守(信貞か)の率いる軍勢1,200人を三増峠南西に並行して山麓の韮尾根に通じる志田峠から、津久井城南西約2kmに位置する沼(囲い沢)に進出させたとされる。
確かに武田勢が先発隊を沼に進出させれば、沼から津久井城下根小屋まで約1km道が北東に続いているから、根小屋から三増峠に南下する街道を津久井衆が進撃していくのを効果的に抑えることができただろう。そして、信玄はさらに小幡勢に続いて、最精鋭の山縣昌景他8頭の軍勢約5千人を左翼から志田峠を越えさせたと言われている。
『甲陽軍鑑』の記述によると、武田勢主力は小荷駄隊を含めて勝頼が率いて浅利信種を殿にして中央の三増峠を登り、信玄と旗本は主力部隊の右翼の道を登ったらしい。したがって、志田峠は武田勢左翼に位置していた。そして志田峠から見て南西部に位置する中津川の対岸半原一帯に北条勢先衆が布陣していたわけだから、小幡と山縣らが率いた軍勢の志田峠越えの動きは直ちに北条方に察知されてしまったのであろう。
『甲陽軍鑑』では、玉縄衆を率いていた戦上手の北条綱成が、敵が一斉に退却した好機が到来したと誤認して氏康父子に使者を走らせたと述べている。それと同時に、筆者の分析では、恐らく現在の馬渡から中津川を東岸に渡河して、北条勢が三増峠山麓から武田勢を一斉に追撃したのであろう。たとえ兵力が劣勢であっても、退却する敵への追撃戦ならば北条方にも勝機を見出すことができたと思われるからだ。
しかし、実際の合戦当日の武田勢は、峠道で南西向きに陣立てを立て直して、高地上から北条勢を逆襲した模様である。このあたりの信玄の作戦は、3年後の元亀3(1572)年12月に遠州三方ケ原の戦いで徳川家康の軍勢を大敗させた時の戦術を彷彿とさせるものだろう。
いずれにしても、山麓から峠に布陣した優勢な武田勢に対して劣勢の兵力で追撃戦を敢行した後北条勢は、志田峠を先行した山縣昌景勢などが引き返してきて側面を突かれた不利もあって武田勢に敗北したようである。北条勢の損害は数百人程度だったろうが、武田勢も殿の大将浅利信種が敵の鉄砲に撃たれて戦死するなどの損害を出したと言われている。
結果的に見れば、三増合戦での後北条方の敗戦の原因は、氏照と氏邦ら先衆の敵状誤認による劣勢兵力による追撃戦の失敗に集約されるのであろう。だが、より根本的には、本隊を素早く先衆に合流させて合戦に間に合わさせることができなかった、氏康と氏政父子の緩慢な行軍が最大の失態であったと言えるのではないだろうか。
その結果、永禄12年11月以降再開された武田信玄による駿河侵攻に後北条氏が有効に対処することが三増合戦以降ほとんどできなくなり、数年後、駿河国は武田信玄によって完全に制圧されてしまう結果を招いたのであった。
追記: 明日から筆者は論文執筆作業のため、10日間程度ブログの投稿を中断します。