2015年9月10日木曜日

司法試験考査委員の問題漏洩事件に関する所感、入口を絞って出口を広げる制度改革の提案

 98日、司法試験考査委員として憲法の論文および短答試験の問題作成に当たった明治大学法科大学院教授が、好意を持った女性修了者の受験生に問題を漏洩したとして、国家公務員法上の守秘義務違反の容疑で東京地検特捜部に告発された。

 実は筆者の姪も、本年度司法試験で合格率首位であった法科大学院を持つ一橋大学の現在法学部三年生で、同大学の法科大学院に入学して司法試験を目指すと言っている。したがって、筆者も常々司法試験と法科大学院の問題に関心を抱いて見てきたが、今回の考査委員自身による私情による問題漏洩事件の発覚は、正に制度の根幹を揺るがしかねない事態と言っても過言ではないだろう。

 さて、今回の漏洩問題の本質を一言で論評すれば、法科大学院の司法試験予備校化が招いた結果と言えるだろう。本年度司法試験の合格率は23.1%で合格者は1850人、そのうち法科大学院修了資格を経ない予備試験経由の合格者が186人(受験者301人)で、その合格率は61.79%で法科大学院首位の一橋大学の55.6%を上回っている。

 したがって、現在の日本の司法試験はもはや欧米の司法試験のような純粋な資格試験では無く、司法研修所入所資格を得るための一種の競争試験と化してしまっている。そして、法科大学院を経ない予備試験経由が、事実上の法曹エリート・コースとして存在していることになるだろう。

 こんな現状で法科大学院進学を姪に勧めることは、若者の将来を狭めるリスクが大きすぎて、筆者にはとても出来ないと考える。どう考えても、新司法試験と法科大学院制度には、創設当初から設計上の根本的なミスが有ったとしか思えない。

 筆者の調べた限りでは、日本のように法科大学院の設置数と募集定員数を拡大して入り口での選抜機能を緩やかにし、逆に司法試験の合格率を絞ることで出口での選抜を厳しくする制度を採用している外国は、世界中にほとんど無かった。

 それは多分、法曹を目指す若者の適性をなるべく早期に判定することによって、無駄な教育投資の機会が増大することを回避するとともに、ロースクールの教育が司法試験予備校化して形骸化することを各国とも恐れたためではないだろうか。

 今回の明大大学院教授の漏洩のケースでは女子学生に対する個人的好意が直接の引き金であったようだから、司法試験の予備校化と漏洩とは一見無関係であるように見えるが、筆者には制度設計上の欠陥として、出口である司法試験で法曹適性判断を行う現行制度を維持する以上、今後も同様の問題が生じる危険性は大きいと考える。個々の法科大学院にとっては、司法試験合格率と合格者数を向上させることこそが、その生き残りにとって最大の課題になることが避けられないからである。

 大体において、法学部4年の教育に重ねて法科大学院2年の教育を上乗せする現行の既修者入学制度は、いかにも教育期間が長すぎて、就職での新卒者一括雇用制度を採用している我が国では、若者の就職機会を事実上狭めるリスキーな選択を強いる結果をもたらす。

 加えて日本の場合、司法試験合格によって法曹資格を得られるわけではなく、さらに司法研修所での1年間の教育を経た後に二回試験に合格して初めて法曹資格を得られる、言わば三段階構造となっている。これでは、大学法学部を卒業した若者は、よほど実家が裕福で恵まれた立場にいない限り、それこそ人生をかけて司法試験に挑戦せざるを得ないことになってしまうだろう。

 したがって、司法試験と法科大学院制度は、この際抜本的に見直す必要があると筆者には思われる。具体的には、入口を絞って出口を広げるための制度改革である。

 まず、非常にドラスティックな提案だが、現状で合格率が20%に達しない法科大学院は全て廃止すべきだろう。その代り、法科大学院を設置できる大学には法学部を廃止してもらう。実際、韓国では大学側の猛反対を押し切って、こうした入口を絞る制度を採用している。ただ、日本で東大法学部を廃止することは、明治時代以来担ってきたそのエリート官僚養成機能を捨て去ることを意味するから、恐らくOB・OG等から猛反対が起きるであろうが。

 そして、予備試験は残しても良いが、総定員を2千人位に絞った法科大学院での履修期間は、既修未修問わず一律2年間に統一する。司法試験については、アメリカのBar examinationと同様に、合格者を絞らない純粋な資格試験として夏冬に年2回行うこととする。

司法試験の出題は、短答式で法曹として最低限必要な基礎力を問うとともに、論文試験では資料とパソコンを持込み可能として、従来の暗記力と知識を問う問題ではなく、受験者の実務的な能力を直接問う課題に解答させる形式で実施する。

 筆者のこの提案は、ほとんどニューヨーク州やカリフォルニア州のBar examinationを模倣した司法試験制度なのであるが、こうすれば、学生が法科大学院で過剰な司法試験対策に駆り立てられる必要も無くなるし、法科大学院が司法試験予備校化する必然性も無くなるだろう。

第一、司法試験が現状より相当易化するから、法科大学院修了者は、2年以内くらいにはほぼ全員が司法試験に合格できるようになるだろう。司法試験対策は、法科大学院修了後に予備校で2か月程度学生が自主的にやれば足りるだろう(これもアメリカと同じである)。

2015年9月9日水曜日

欧州難民危機問題の本質は、理想と制度とレアルポリティークの相克である。

  8月から9月にかけて、シリアやアフガニスタンなどの紛争地帯からバルカン半島を北上してEU圏に流入した難民の、人道上悲惨な状況がクローズアップされて報じられている。今日はこの問題に関する筆者の現状分析を述べてみたい。

 まず、トルコからEU加盟国であるギリシャに渡り、そこから陸路バルカン半島を北上してハンガリーで再びEU圏内に入るルートが今回難民危機として問題になっている。

 だが、この陸路からの難民流入ルートが活発になったのは、せいぜい今年の後半になってからの事である。それまでEU各国が注目していたのは、北アフリカのリビアから海路イタリアやマルタに渡航する地中海経由のルートであった。

 特に、2013103日にイタリア南端部に位置するランペドゥーザ島沖で発生した悲惨な海難事故の結果が、EU各国の直接の取り組み強化の契機となったのである。この「ランペドゥーザの悲劇」は、リビアのミスラタ港からエリトリアやソマリア難民など500人以上を乗せ出港したトロール漁船が火災を起こして沈没し、366人の死者を出した事故であった。

 したがって、今年前半までは直接の当事国であるイタリアなどで深刻な問題と認識されていたのは、むしろ地中海経由の難民流入対策であった。危険な密航を仲介する悪徳業者の取り締まりと、海難救助体制の整備や海上パトロールの強化がむしろ中心的に議論されていたのである。

 今回問題となっているトルコ、ギリシャ経由陸路での難民流入に大きな危機感を抱いているのは、EU加盟国でないバルカン半島諸国、例えばセルビアやクロアチアと国境を接するEU加盟国のハンガリーである。

 イギリスとアイルランドを除くEU加盟国とスイス、ノルウェー、そしてアイスランドの3カ国は、国境管理を相互に廃止して人の自由な移動を認めたシェンゲン協定(1997年アムステルダム条約でEU法体系として保障、1999年発効)の加盟国である。

 したがって、ハンガリーはシェンゲン領域の最前線に位置しており、陸路バルカン半島をギリシャ国内から北上してきた難民たちは、一旦ハンガリーに密入国することさえ出来れば、以後はパスポート・コントロールをされることなく、経済的に豊かなドイツやフランスに移動することが可能になる。

 そして、現行のEU難民政策のルール(ダブリンⅡ規則)では、原則としてその難民が最初に入国した加盟国で難民申請を受け付け、難民審査を実施しなければならないことになっている。陸路での難民流入は今年夏までに16万人以上に急増した(昨年は4万人強だった)ため、ハンガリー国内の受け入れ態勢は既にパンク状態であり、今夏以降ハンガリー政府はセルビアとの国境線に柵を設けて難民流入を阻止しようとしたのである。

 問題は、ハンガリー政府の今回の政策を人道上非難出来るかどうかという、理想主義だけでは、本質的に何も解決しないことだ。ハンガリーに密入国してくる難民たちは本当に難民に該当し、不法な経済移民ではないのか、その選別がなかなか困難なのである。

 国内の報道では、難民と不法移民の区別が必ずしも明白になされていないように筆者は感じている。本当に不法越境者が「難民」であるならば、国際法(難民条約)上、迫害が予想される国や地域に追放や強制送還しないというノン・ルフールマンの原則が該当するが、経済的意図を持つ不法移民であるならば、むしろ本国に強制送還しなければならないことになる。

そして、ハンガリーのオルバーン首相は現状のバルカン諸国からの越境者を「不法移民」と位置付けて、建前上排除する立場を表明しているわけである。

 筆者が思うに、実の所ハンガリーのオルバーン首相としては、この「難民」か、あるいは「移民」たちを国内からオーストリアに追いやって、最終的にはドイツに引き受けさせようとしているように見える。EUの理想と制度上の矛盾に対して難民申請を拒否して国外に移送する措置は、彼の国内政治における人気取りの材料として強調され過ぎているのではないだろうか。

 実際、ハンガリーに流入した難民か移民たちにしても、最終目的地はハンガリーなどではなく、経済的に豊かなドイツやフランスなど西欧諸国なのであるから、オーストリアにむしろ移送されることを積極的に望んでいるだろう。

 結局それは、ハンガリー政府としても厄介な難民申請問題をEUのルールを無視して体よく回避することに他ならないから、却って好都合であるに違いない。

 つまり、ここではハンガリー政府と難民サイドの双方にドイツ語で言うところのレアルポィティークの原則が働いているのであって、それは単なる人道上の理想やEUの制度が齟齬を来していることだけが問題の本質ではないように筆者には思われてならない。

 もちろん、今秋以降、独仏両国が主張するように、EU加盟国やその他の先進国を巻き込んだ、経済力その他を考慮した上での難民受け入れの公平な割り当てが協議されなければならないことは確かであろう。

既に、これまで難民受け入れに消極的であったイギリスのキャメロン首相やオーストラリアのアボット首相が、それぞれシリア難民(英国は2万人、豪国は12千人)の新規受け入れを表明している。この両首相の政策転換は、国内外において人道上の非難を受けることに一定の配慮をした結果であろう。

 ちなみに我が日本国は、アムネスティ・インターナショナルの報告書『見捨てられたシリア難民』(201412月)のデータによると、2014年11月末までにシリア難民の申請を受理した数はわずか61件で、難民認定された数は0だそうである(ただし、国連の人道支援要請に対して、日本が約94百万ドルを拠出している事実と、人道的配慮による在留特別許可が認められたシリア難民が2013年に26人、2014年11月末までに12人いる点は付記しておこう)。

2015年9月7日月曜日

平成29年度NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」選定についての感想

 平成28年度NHK大河ドラマ「真田丸」の撮影が開始されたそうである。今日の投稿は、「真田丸」の次の年の大河ドラマに決まった「おんな城主 直虎」選定についての筆者の感想である。

 直虎とは、徳川四天王の1人である井伊兵部少輔直政が、本能寺の変後の天正101582)年11月に22歳で元服して井伊家第24代の家督を継承するまでの間、中継ぎとして当主を務めた22代信濃守直盛(桶狭間の戦いで討死)の息女次郎法師の事である。主演は女優の柴咲コウさんだそうである。

 浜名湖の北に位置する井伊谷の女地頭としての次郎法師の事績については、彼女の墓所がある井伊家菩提寺で臨済宗妙心寺派の古刹龍潭寺などに多小の記録が残されているが、1年間の大河ドラマを制作できる程の分量には全く足りないだろう。

したがって、ドラマの筋書き自体はほとんど脚本家の創作に頼る他ない。井伊氏を大河ドラマに取り上げるのならば、素直に次代の直政を採用した方が良かったと筆者は思うのだが、戦国には珍しい女性領主を敢えて選択したというNHKの狙いだろうか。

 井伊氏は駿河守護の今川氏と対立したため当時家督を継承できる男子が、次郎法師の父直盛の従弟で23代肥後守直親の忘れ形見虎松(後の直政)しか残されておらず、家の存続が危機状態にあった。直親は重臣小野氏の讒言によって今川氏から独立した松平元康(つまり後の徳川家康)との内通を疑われたため、永禄51562)年12月に掛川城下で朝比奈泰朝に攻められて殺害されてしまったのである。

 井伊氏の祖先は藤原良門の子孫共保とされるが、彼は生誕伝説に彩られていて到底信じ難く、また鎌倉時代には三浦介や千葉介と並んで八介である井伊介を名乗っていたとも言われる。しかし、明確に記録に出てくるのは、南北朝時代に南朝方として歌人として有名な宗良親王を迎えて井伊谷で北朝方と戦った事である。

 その後、井伊氏は北朝方の今川氏に屈服したわけだが、当初南朝方に属して足利幕府に抵抗した歴史を持っていたためか、駿河守護の今川氏との関係は必ずしも良好で無かったようだ。これが結果的に、井伊氏の家系存続の危機を直接招いてしまった理由であろう。

 天正31575)年以降に直政が仕えた徳川家康が生まれた安祥松平家も、家康の祖父清康と父広忠が相次いで家臣に討たれて不慮の死を遂げた後は直虎時代の井伊家同様に存続の危機を迎えたわけだが、松平氏の場合西三河一帯を清康時代にほぼ支配下に収めて一族が各地に蟠踞しており、井伊谷の一国人に過ぎない井伊氏と比べるとその戦力はずっと大きく、恐らく45千人程度は有っただろう。ちなみに井伊谷は後に立藩されたことがあるが、その時の石高はわずかに15千石に過ぎなかった。直虎時代は1万石程度だっただろう。家康の生まれた松平氏よりも、井伊氏は遥かに弱小な存在であった。

したがって、今川氏としても尾張の織田氏との戦いを継続する上で最前線に位置する松平氏惣領家の安祥松平家を活用せざるを得なかったこと、また、広忠時代から今川氏の保護下に入って良好な関係を構築していたことが家康に有利に働いたため、結局松平氏は井伊氏ほどの御家存続の危機的状態には陥らなかったものと思う。今川氏としては、松平氏は戦力として大事な存在だが、井伊氏についてはその当主を殺して滅亡させても痛くも痒くもない存在に過ぎなかったのだろう。

 こう考えると、「おんな城主」井伊直虎の存在意義は、御家滅亡の危機を上手に乗り越えて、井伊谷の一国人に過ぎなかった井伊氏を徳川家最大の譜代大名にまで押し上げた直政を養育し、家康に上手く出仕させた点にこそ求められるのではないだろうか。

遠州に侵攻してきた言わば侵略者である徳川家康に、家柄はしっかりしていても当時単なる一少年に過ぎなかった虎松(つまり後の直政)を推挙してもらうためには、直虎は様々なコネを駆使する必要があったに違いないと筆者には思われる。

 一説には、家康正室の築山殿が井伊氏の出身だったとする説もあるそうだ。もしそうであるならば、築山殿のコネで虎松が徳川家の家臣に取り立てられたのかもしれない。

 家康家臣となってからの井伊直政には家康から木俣清三郎守勝、西郷藤左衛門正友、椋原次右衛門政直の3人が付家老として附属され、また、井伊谷三人衆と言われる菅沼次郎右衛門忠久、近藤石見守秀用、鈴木平兵衛重好が与力として付けられたが、彼らは直政の家臣ではなく、関ヶ原の戦いの後、彦根藩立藩の最終段階に至るまで家康自身の統制下に置かれていた模様である。

それゆえに直政死後の当主兵部少輔直継(後に直勝と改名)は家臣団を統制することに失敗してしまい、恐らく家康の介入で井伊家当主の座を異母弟直孝に譲らされて、上野国安中3万石に分家させられる羽目に陥ってしまったのである。

 ちなみに大坂の陣で真田丸を攻撃したりして大活躍したのがこの井伊掃部頭直孝であり、伝説では世田谷の豪徳寺(もともとは世田谷吉良氏の政忠が創建した弘徳院)に招き猫に呼び寄せられて急な雷雨を回避した縁から、豪徳寺を井伊家の菩提寺として伽藍を整備したのもこの直孝であった。東京の世田谷は、江戸時代には彦根井伊家の領地だったわけなのである。