先週発売の『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事が、安倍政権の国会運営を大きく揺るがせている。
このままでは、甘利大臣が担当した今国会最重要案件の1つであるTPP交渉をめぐる国会審議が、野党の抵抗で一向に進まない最悪の事態も想定されている。そうなれば、衆参同日選挙を今夏に行って必ずしも一枚岩でない野党勢力に大勝することにより、長期政権樹立の基盤を確立しようという安倍首相の目論見も吹っ飛んでしまう可能性がある。
何しろ甘利氏は、麻生副総理兼財務相や菅官房長官と並んで安倍首相を支えている重要閣僚の1人であり、総理大臣の盟友だからである。その盟友である甘利大臣がもし仮に辞任に追い込まれたとしたら、安倍政権が蒙る政治的打撃は非常に大きいものとなるだろう。
実はこの甘利明大臣は、筆者の卒業した県立厚木高校の13期先輩である。甘利氏の選挙区は神奈川県第13区で、大和市と海老名市と座間市、そして綾瀬市を含む県央地区にある。筆者が子供のころ育った相模原市とは、ほぼ隣接した選挙区である。そして、甘利氏の公式サイト等によると、明さんは昭和24(1949)年8月厚木市生まれの今年66歳の様だから、高校第33期卒業である筆者のちょうど13期先輩、つまり高校20期卒業の同窓生に当たる。
ところで、今回の口利き疑惑の実行主体は、現在までの報道から考えると甘利氏の大和事務所長を任されていた公設第1秘書であったと思われる。明日発売の『週刊文春』の第2弾記事では、この公設秘書がUR側に圧力をかけた会話と写真が掲載されている模様だ。
問題は、この公設秘書のあっせん利得授受だけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に絞られるだろう。明日の甘利大臣の調査結果の報告会見では、自分が金銭を授受した事実は恐らく否定せざるを得ないだろう。あっせん利得処罰法違反の疑いの強い金銭授受と政治資金収支報告書不記載の違法行為については、あくまでも秘書だけの疑惑に留めて、甘利明氏自身は監督不行き届きの道義的責任を負うことだけで済ますことが恐らく官邸や甘利氏サイドの狙いだろう。だが、果たしてそれだけで逃げ切れるだろうか。
それにしても、一連の報道で筆者が感じるのは、この甘利先輩は政治家として有り得ないくらい脇が甘すぎるという点だ。もし『週刊文春』第1弾記事が報じたように、甘利氏が大臣室であっせん行為の依頼人である建設業者関連の人と面会し、本当に金銭を受領したことが証明されたとすれば、仮に甘利大臣自身に犯罪構成要件である「請託」を受けた故意が無かったとしても、彼自身があっせん利得処罰法を知らなかった可能性を否定できないと思う。
TPP交渉の立役者である大臣ともあろう甘利氏ほどの重要閣僚が、このような脇の甘さでは政治責任を問われても仕方がない。仮に法の不知と公設秘書への監督不行き届きから自分自身には実際に法的責任が無かったとしても、甘利氏は政治責任をとって、潔く大臣を辞任するのが恐らく本筋の解決策ではないだろうか。
甘利氏の脇の甘さは、先に述べた公式サイトのプロフィールに、次のような真偽不明な記述を堂々と掲載していることからも窺える。すなわち、甘利明氏のサイトには、先祖は?として、「先祖は武田信玄の末裔です(本当)。信玄の親戚であり、重臣No2 甘利虎㤗(あまり とらやす)が我が先祖です(厚木市編纂民家の歴史より)。」とあるからだ。
筆者も武田氏の歴史については随分興味を持っている1人であるが、甘利虎㤗の子孫は天正10年の武田家滅亡と共に断絶したとされるのが恐らく通説だろう。それを一体どういう根拠から、甘利明先輩は甲斐源氏甘利氏の子孫であると「僭称」されているのだろうか。
公式サイトの記載からは甘利明氏自身が本気で信じているわけではなく、一見冗談のような記述にも思える。だが、この間の疑惑報道から窺える甘利大臣の脇の甘さと二世議員特有のボンボン的気配からすると、単なる伝承から確たる系図もないまま、明さん自身がそれを事実であると信じきっているように思えるのは筆者だけだろうか。
はっきり言うと、甲斐源氏としての甘利備前守虎㤗の経歴は、多分その本家筋に当たると称していた一条氏や信玄重臣No1であった(と恐らく甘利明氏が認識していると思われる)板垣駿河守信方に比べても系図上の位置づけが明白ではなく、いったい何故板垣信方と並ぶ武田氏家老職の「両職」とされているのかさえ、ほとんど解明されていないからである。
というのも、甘利氏初代とされる次郎行忠は、源頼朝によって元暦元(1184)年6月鎌倉で誅殺された一条次郎忠頼(当時の甲斐源氏棟梁であった武田信義嫡男)の次男であったため、父に連座して所領甘利荘(『和名抄』の巨摩郡余戸郷)を没収されて常陸に流罪となり、翌元暦2年4月に父同様に殺されてしまったからだ。
甘利行忠には甘利次郎行義と上条三郎頼安の兄弟の息子がいたらしいが、その後の甘利氏は戦国期の備前守虎㤗が信玄の父信虎に使える勇将として歴史に現れるまで、その系譜関係も明らかにできない程零落していた模様である。一説では南北朝期の訴状で甘利氏が所領を回復したとも言われるが、それまでは当然御家人身分でもなくいわゆる無足人であったわけだろう。
あるいは行義以降の甘利氏は、武田氏惣領家の石和家か、石和家から養子を迎えて復活した一条氏の庇護を受けていた、単なる家人か郎党身分だったのかもしれない。その場合、甘利氏が、河内地方の有力国衆であった穴山氏のように武田惣領家の御親類衆として重視される存在だったとは、決して言えないのではないだろうか。
甘利虎㤗はこのように戦国時代の武田信玄から見れば、板垣信方(こちらは一条次郎忠頼の次弟であった板垣三郎兼信の子孫とされる。板垣兼信も頼朝に疎まれ、隠岐に配流された)と同様に、父信虎以来の武功の重臣であったことは間違いないが、『甲陽軍鑑』の記述を信用すれば、御親類衆ではなく御譜代家老衆に属していた。つまり、甘利氏は信玄から見て余りにも遠い一族なので、親族ではなく家臣と見なされていたに過ぎない。
つまり、甘利明氏が公式プロフィールで述べているような「先祖は武田信玄の末裔です(本当)。信玄の親戚であり」云々といった内容は、甘利明さんの全くの事実誤認に過ぎないのである。こうした点に、政治家としての甘利先輩の脇の甘さが筆者には窺えてならないのである。
また、天文17(1548)年2月14日に村上義清との上田原合戦で板垣信方と共に討死した甘利虎泰には、一説では藤蔵昌忠(後に信忠)、源左衛門尉信康、そして三郎次郎信恒の3人の息子がいたともされる。だが、虎泰の跡を継いだ昌忠は永禄7(1564)年頃に不慮の事故で死去したと言われているし、信康も天正3(1575)年の長篠合戦敗戦の際に討死したとされる。そして、その他の一族も、武田家滅亡後に一切の消息が途絶えてしまったというのが通説なのである。
つまり、甘利明先輩が甘利虎泰の子孫であると本気で自称されているとすれば、筆者にはどうも、各地に残る平家落人伝説を信じて自分は壇ノ浦から逃れてきた平家公達の子孫であるに違いないと無邪気に信じている、田舎の旧家のご主人のような印象を受けてしまうのは失礼で言い過ぎだろうか。