2015年12月18日金曜日

慶長20(1615)年大坂夏の陣における豊臣方の当初作戦に関する考察

 慶長191219日に締結された大坂冬の陣に関する徳川・豊臣双方の和睦合意の結果、よく知られているように大坂城の惣構と空堀は破却・埋め立てられ、二の丸、三の丸の水堀も埋め立てられて更地となり、太閤秀吉が築いた堅固な大坂城も全くの裸城にされてしまった。

 したがって、翌慶長20年に起きた夏の陣での東西再戦に当たって、大坂方はもはや前年の冬の陣の際に選択した籠城策を採れなくなり、野戦軍を城外に派遣して徳川勢を迎撃する作戦しか選択できなくなってしまった。

筆者が興味深く感じたのは、大久保彦左衛門の著書『三河物語』にあるように、大坂方が徳川勢の五畿内侵攻以前に、徳川方の補給地であった泉州堺のみならず、京都と奈良、さらに近江大津の三古都を焼き、瀬田川と宇治川の橋を焼き落として防衛線を張る作戦を実際に検討したらしいことである。このことは、利休七哲の1人で高名な茶人・文化人であった古田織部重然が豊臣方と内通して京放火を企てた嫌疑により、大坂落城後の611日に切腹を命じられた事実からも確かにあったと推定できるだろう。

 『三河物語』の記述によると、この大坂方の三都焼き討ち積極作戦案は大野主馬治房(大坂方の事実上の指揮官であった大野修理亮治長の次弟)と真田信繁、そして明石掃部全登らが提唱した作戦であったとされる。

 確かに真田左衛門佐信繁は前年冬の陣の際にも、籠城する前に宇治と瀬田に軍勢を進出させて、両河川を前に当てて防戦する積極策を提唱していたようであるから、籠城作戦がもはや不可能になった夏の陣に際して同じ積極策を再度主張したとも取ることができよう。

 結局、徳川家康が尾張名古屋城主の九男義直と浅野幸長息女との婚儀に出席するために44日に既に駿府を出発し、10日には名古屋城に到着していたため、419日には諸大名に対する大坂表への出陣を命じて迅速に畿内に進出できる態勢をとることができた。

 つまり、徳川方の進撃が早かったため、大坂方の三都焼き討ちと宇治瀬田防衛作戦は間に合わなくなったわけである。だが、もし徳川勢の出陣が当時遅延していた場合、大坂方ははるか遠方の近江にまで本当に進出して有効な防衛線を構築することが可能であったのだろうか。

 古来のわが国における戦史をひも解いてみても、瀬田川の最終防衛線を挟んで大海人皇子の反乱軍を迎え撃った壬申の乱での大友皇子の近江朝廷側や、治承寿永の乱の際に起きた木曽義仲勢の鎌倉勢迎撃、さらには承久の乱で後鳥羽上皇が派遣した京方の軍勢による鎌倉幕府軍迎撃の事例など、実際に瀬田川と宇治川に防衛体制を敷いた側が、比較的簡単に攻撃側に最終防衛ラインを突破されて脆くも崩れ去った事例は非常に多い。

 こうした過去の戦いでの防御の事例では、橋自体を焼き落とすことは余り無かったようであるが、橋板を外して敵が渡るのを困難にさせる作戦は多く採られたようである。だが、大坂夏の陣の際に検討された大坂方の当初作戦によると、大手側の瀬田川はもちろんのこと、搦め手に当たる宇治川でも橋を焼き落とす徹底策を取る心算であったようだ。

 こうなると、三都焼き討ちを含めて、現地住民の大坂方に対する反感は非常に激しくなったであろう。しかも、実際に大坂方が京都を焼き払うためには、まず二条城を攻撃して、当時所司代として現地に駐留していた板倉勝重を討ち取ってしまう必要があっただろう。

 徳川方のもう1つの畿内での拠点であった伏見城も同時に攻略しなければ、たとえ京都や奈良を焼き払うことに成功したとしても、宇治瀬田に進出した大坂方が自軍の背後を突かれる恐れがあるから、これにも成功しなければならない。当時大坂に残っていた豊臣勢の数を約5万人と見積もることにしても、その約半数は出陣しなければ三都焼き討ちと河川防衛作戦の成功は到底覚束なかったのではないだろうか。

 そうなると、作戦に失敗した場合のリスクは非常に大きく、恐らく大坂城南部の住吉や平野、あるいは阿倍野と天王寺近辺に徳川勢を引き付けて最終決戦に持ち込むその後実際に起きた展開は起こり得なかったかもしれないと、筆者は考える。

 夏の陣当時大坂に侵攻した徳川勢の構成は、大御所家康と将軍秀忠の率いた直属の旗本勢を除けば東国と五畿内の諸大名が率いる軍勢だけで、西国大名の軍勢は待機を命じられていた。そして、進撃路については、奈良を経て生駒山地東麓を南下して国分と藤井寺方面に抜ける大和口方面軍と、京都から淀川左岸を枚方経由で南下して平野方面に抜ける河内口方面軍とに分進する作戦を採った。

その結果、大坂方が実際に56日に実施した当初の迎撃作戦である道明寺合戦と八尾・若江合戦では、前者が大和口方面軍約3万人の徳川勢に対して山間を抜ける隘路で迎撃する作戦目的を持っていたし、後者は河内口方面軍約5万人の軍勢を河川堤防と湿地帯を利用して拘束することにより、敵軍の道明寺方面への進出を阻止する目的を持っていた。

 しかしながら、この遠方進出作戦はいずれも大坂方の兵力劣勢のために失敗に終わり、道明寺合戦では後藤又兵衛基次と薄田隼人正兼相が、八尾・若江合戦では木村長門守重成ら貴重な武将たちが戦死する大損害を被った。道明寺合戦では伊達政宗の軍勢の先鋒片倉重綱勢を真田信繁の軍勢が撃退して大坂方の敗軍の退路を開き、翌日の最終決戦を可能にしたものの、真田勢も信繁の長男大助幸昌が負傷するなど相当な損害を出して天王寺方面に撤退したようである。

 この例から考えても、宇治瀬田に軍勢を進出させる積極策は、兵力劣勢であった大坂方には極めてリスキーな作戦であったのではないだろうか。ただし、同じ兵力劣勢であったとしても、それまでの宇治瀬田防衛戦の事例とは異なって大坂方が鉄砲で武装していたことが戦況を変えた可能性はあるかもしれない。両河川の橋を焼き落とした上で、渡河してくる徳川勢の大軍を銃撃で阻止する作戦を真田信繁らは構想していたのかもしれない。

 確かにそれならば、あるいは防御側の大坂方が有利な状況を作ることが可能であったかもしれない。ただし筆者が思うに、その大前提として、大坂方が京都所司代を排除して二条城と御所を焼き払うことに成功した時点で、天皇(玉)の身柄を確保するとともに(伏見城をなるべく損傷の少ない状態で大坂方が攻略した後、同城に天皇を行幸させる案が最善策かと思う)、大軍である徳川勢が他の渡河地点に迂回することを阻止できるかどうかという点が、この積極策の成否を決めたのではないだろうか。

今年の中東安全保障環境についての錯綜した3つの見方に関する考察

現在の中東における安全保障秩序を規定した19165月のサイクス・ピコ協定から、99年を経過した2015年の年の瀬も迫って来た。来年516日には、第一次世界大戦敗戦後のオスマン帝国領土を分割する英仏露三国間の勢力圏を定め、現在迄にいたる中東での国境の線引きと近代主権国家体制を構築して、約1世紀間にわたって地域国際秩序を規定したその秘密協定からちょうど100周年を迎えることになる。

この点に関連して、筆者が専門とする中東情勢について2015年を概観すると、今年は本当に情勢が激変したカオスの1年であった。そうした中東情勢のカオスをもたらした原因について考える上で、専門家の間では概ね3つの見方があると思う。

まず、第一の見方は、長く続いた独裁体制を倒して当初は平和的な民主化への移行を目指した2010年末以降の「アラブの春」後の中東国家体制をめぐる安保環境が、サイクス・ピコ協定によって規定されたモダンな体制からついに乖離し溶解し始めたと見る、世紀単位でのポスト・ポスト・モダンな大激動と考える長期的な視点である。

この見方によれば、宗教的権威と政治権力に対する忠誠および支配服従関係が重層的に存在していたウェストファリア体制確立以前のヨーロッパのように、中東が「新しい中世」状態に回帰しつつあると見るのである。こうした見方のわが国での代表的論客は、東大の池内恵氏だろう。

彼の見方を筆者なりに解釈してみると、実態はともかくシリアとイラク両国にまたがる一定領域を実効支配しているIS(イスラーム国、むしろ筆者はDa'ishダーイシュと呼ぶ)が宣言した時代錯誤な「カリフ国」設立と、彼らの言う所の欧米と「背教者」が連合した「十字軍」に対する「ジハード」の遂行は、まさにこの「新しい中世」状態への回帰を指し示す事象ということになるだろう。

次に第二の見方は、冷戦終結(マルタ会談、198912月)とソ連崩壊(199112月)後の中期的な視点から中東の安保環境を考える見方である。この見方の代表的な日本の論客は、恐らく東大名誉教授の歴史学者である山内昌之先生ということになるだろうか。

この見方によると、シリアやイラク、リビアやイエメンなどで、アラブの春以後国内での政治権力や領土支配をめぐって連鎖的に起きた内戦状況は、冷戦時代の安定した米ソ二極構造が壊れてしまった結果、特にそれまでソ連の経済的、軍事的支援に依存していた反米諸国において、主として民族・宗教的な対立に起因する政治的暴力と政府に対する反乱の発生を封じ込めることができなくなった結果であると考えるのである。

したがって、この第二の見方は、冷戦期以来の国際システムの構造的なパワー配分を基本的な論拠としているから、近代主権国家体制を前提とした地域安保環境に関するモダンな視点を維持しているパラダイム(認識枠組み)であると言えるだろう。

そして、最後の第三の見方は、冷戦後唯一の超大国として国際公共財である安保秩序を提供してきたアメリカが、主としてイラク戦争失敗の後遺症による国内世論の「観衆費用」の増大を配慮しつつ中東への関与の度合いを決めざるを得なくなったことで、その介入コミットメントの信憑性が弱まったことを重視する、言わばポスト・モダンな見方である。

この見方は、自国が主導して地域紛争へ介入するアメリカの意図あるいは能力が弱まってきたために、一見するとアメリカの覇権が衰退したように見えることが、その安保秩序維持に関するコミットメントの信憑性に疑念をもたらし、中東における紛争多発の原因となっていると考える視点である。

この見方をやや中期的なスパンに延長して考えると、中東安保環境の現状を含め、世界全体で第二次世界大戦後の現状維持国として国際公共財を提供してきた超大国アメリカが現在衰退に向かいつつあり、同時に既存秩序に対する挑戦国としてゲームのルールを変更しようと意図する中国の様な大国が台頭して、世界が非常に危険な力の変遷期に差し掛かっていると考えることも可能なのである。

仮にこの敷衍された覇権移行のポスト・モダンな視点が妥当すると考えた場合には、早晩覇権交代のための大戦争(つまり第三次世界大戦)が、東アジアかあるいは中東での地域紛争を契機として勃発する蓋然性が高いと考えることもできることになる。

 以上述べた3つの中東安保環境に関する見方は、いずれも最近中東で起きた事象のある側面を巧妙に説明している。だが、これら3つのパラダイムは、興味深いと同時にいささか実証性の足りない素朴な歴史認識であると筆者は考える。その意味では、ISのアナクロニズムな「カリフ国」再建宣言と大同小異であるという、大きな問題点があると思う。

 筆者の考えでは、混沌とした現在の中東安保環境に関するパズルの実態を十分に解明するためには、より厳密なデータに基づく実証的な分析をもっと重視すべきだろう。

例えば、前記第一の長期的なポスト・ポスト・モダンの認識枠組に立つ視点は、既存の国境線を無視したISのテロ活動や民族・宗派間抗争の原因を、もっぱら中世の欧州社会になぞらえて理解しようとする見方であるが、問題の根源であるはずの民族性や宗教性は社会的に形成された集団共通のシンボルや神話、そして記憶の積み重ねによって構築されたものであることは今日常識である。したがって、よく考えると、民族性や宗教性それ自体が政治的暴力を引き起こすものでは決してないだろう。こうした「新しい中世」論に立ってしまうと、かえってISの主張する土俵にこちらから乗ってしまう危険があるのではないだろうか。

むしろ、これまでの中東国内政治での実態に立ち返ってみれば、政治指導者によってそうしたシンボル操作が戦闘員の動員手段として利用されてきたことこそ、内戦頻発の根本原因であったと思われる。

このことは、イラクの故サッダーム・フセイン大統領や、今日のISの所業を見ても明らかだろう。したがって、私見では、「新しい中世」状態に陥った宗派・民族間の対立と内戦の発生が直結するわけではない。筆者の見るところ、バース党独裁体制解体後のイラク中央政府の様な国内政治基盤がきわめて脆弱な失敗国家での治安維持能力の機能不全が、むしろ国内におけるアナーキー状態をもたらし、一般市民の間に典型的な「安全保障のジレンマ」を引き起こしているのが実態なのである。

つまり、中東安保秩序の現状を比喩的に述べるとすれば、国際政治学者ヘドリー・ブルがThe Anarchical Societyで提唱したような「新しい中世」状態に陥ったというよりも、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で指摘したように、言い古された「万人の万人に対する闘争」の自然状態に陥ったという方が事象の本質をよくとらえていると筆者は考えるのである。

次に、第二の中期的・構造的な視点についても、冷戦終結とソ連崩壊のパワー配分の構造変化と内戦頻発とは、実証的なデータ分析からは実のところ必ずしも相関していないのである。ましてや両者の因果関係の存在については、明確な法則性を見出すことは恐らく困難だろう。

内戦による中東地域秩序の分断化自体は、まだ冷戦期であった60年代の脱植民地化運動の時代から、既に増えている実証データがある。1954年の民族解放戦線(FLN)の武装蜂起から62年の対仏独立まで続いたアルジェリア独立戦争を見ても、それは明らかだ。その意味において、やはり、脆弱な中央政府の統治困難というアナーキーな国内環境要因こそが、権力や領土をめぐる分断された集団間の無差別な政治暴力を伴う反乱(insurgency)を惹起する、主たる要因であったと考えるべきだろう。

最後に、冷戦後のポスト・モダン的なアメリカの介入コミットメント問題についてであるが、少なくとも軍事力および経済力の2つの点については、能力的にアメリカの地域紛争への介入が困難になったとされるデータは無いと思う。

例えば、今年4月にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が発表した 2014年の世界の軍事費動向に関するデータ(Trends in World military expenditure, 2014)の内容によれば、同年の世界全体における軍事費総額17760億米ドル中、イラク戦争後の国防予算強制削減が続いているアメリカが6100億ドルの軍事支出を計上して、全体のシェア34%を占めて圧倒的な首位なのである。

この支出額は第二位中国の推定額2160億ドルの3倍近く、第三位ロシアの推定額845億ドルを遥かに上回っている。ちなみに、サウジアラビアは前年比17%増の軍事費約808億ドルで、ロシアに次ぐ第4位(GDP10%以上の支出)を占めている。

軍事力だけではない。アメリカは経済力の点で見ても、景気後退が著しい中国に比べてFRBのジャネット・イエレン議長が1216日の会見で明らかにしたように、年内利上げによる金融引き締めを宣言した程の好調を維持しており、世界経済を牽引している。

しかも、シェール革命の結果としてアメリカの原油生産は急増しており、1215日に議会与野党が合意したとおり、第一次石油危機後の1975年以来続いた原油の輸出禁止を解除する方向である。したがって、アメリカはもはや日本や中国のように、ペルシャ湾岸産油国に自国のエネルギー安全保障を依存する必要すらない立場なのである。

こういう点を考えれば、軍事力においても経済力においても、アメリカが衰退しているという事実は全く根拠が無いと言えるだろう。

筆者の考えでは、アメリカの紛争への介入コミットメントの信憑性が弱まったのは能力の問題ではなく、イラク戦争の後遺症による国内世論を考慮した介入意図の弱体化によるものだろう。

しかし、いわゆる「同盟のジレンマ」を指摘するまでもなく、シリア内戦への介入の様な有事の場合に有志連合が組織されるのは、同盟による公式コミットメントが軍事介入に際してそもそも不要であるという理由からなのである。

つまり、アメリカの拡大抑止のコミットメントの信憑性は、公的同盟関係の存否などではなく、むしろ地域同盟国との取引、換言すれば双方の共通利益と費用分担の対称性によってその結果が決まるものである。その意味で、第三の短期的なポスト・モダンな視点についても、アメリカの覇権衰退論に筆者は賛同しないわけである。