慶長19年12月19日に締結された大坂冬の陣に関する徳川・豊臣双方の和睦合意の結果、よく知られているように大坂城の惣構と空堀は破却・埋め立てられ、二の丸、三の丸の水堀も埋め立てられて更地となり、太閤秀吉が築いた堅固な大坂城も全くの裸城にされてしまった。
したがって、翌慶長20年に起きた夏の陣での東西再戦に当たって、大坂方はもはや前年の冬の陣の際に選択した籠城策を採れなくなり、野戦軍を城外に派遣して徳川勢を迎撃する作戦しか選択できなくなってしまった。
筆者が興味深く感じたのは、大久保彦左衛門の著書『三河物語』にあるように、大坂方が徳川勢の五畿内侵攻以前に、徳川方の補給地であった泉州堺のみならず、京都と奈良、さらに近江大津の三古都を焼き、瀬田川と宇治川の橋を焼き落として防衛線を張る作戦を実際に検討したらしいことである。このことは、利休七哲の1人で高名な茶人・文化人であった古田織部重然が豊臣方と内通して京放火を企てた嫌疑により、大坂落城後の6月11日に切腹を命じられた事実からも確かにあったと推定できるだろう。
『三河物語』の記述によると、この大坂方の三都焼き討ち積極作戦案は大野主馬治房(大坂方の事実上の指揮官であった大野修理亮治長の次弟)と真田信繁、そして明石掃部全登らが提唱した作戦であったとされる。
確かに真田左衛門佐信繁は前年冬の陣の際にも、籠城する前に宇治と瀬田に軍勢を進出させて、両河川を前に当てて防戦する積極策を提唱していたようであるから、籠城作戦がもはや不可能になった夏の陣に際して同じ積極策を再度主張したとも取ることができよう。
結局、徳川家康が尾張名古屋城主の九男義直と浅野幸長息女との婚儀に出席するために4月4日に既に駿府を出発し、10日には名古屋城に到着していたため、4月19日には諸大名に対する大坂表への出陣を命じて迅速に畿内に進出できる態勢をとることができた。
つまり、徳川方の進撃が早かったため、大坂方の三都焼き討ちと宇治瀬田防衛作戦は間に合わなくなったわけである。だが、もし徳川勢の出陣が当時遅延していた場合、大坂方ははるか遠方の近江にまで本当に進出して有効な防衛線を構築することが可能であったのだろうか。
古来のわが国における戦史をひも解いてみても、瀬田川の最終防衛線を挟んで大海人皇子の反乱軍を迎え撃った壬申の乱での大友皇子の近江朝廷側や、治承寿永の乱の際に起きた木曽義仲勢の鎌倉勢迎撃、さらには承久の乱で後鳥羽上皇が派遣した京方の軍勢による鎌倉幕府軍迎撃の事例など、実際に瀬田川と宇治川に防衛体制を敷いた側が、比較的簡単に攻撃側に最終防衛ラインを突破されて脆くも崩れ去った事例は非常に多い。
こうした過去の戦いでの防御の事例では、橋自体を焼き落とすことは余り無かったようであるが、橋板を外して敵が渡るのを困難にさせる作戦は多く採られたようである。だが、大坂夏の陣の際に検討された大坂方の当初作戦によると、大手側の瀬田川はもちろんのこと、搦め手に当たる宇治川でも橋を焼き落とす徹底策を取る心算であったようだ。
こうなると、三都焼き討ちを含めて、現地住民の大坂方に対する反感は非常に激しくなったであろう。しかも、実際に大坂方が京都を焼き払うためには、まず二条城を攻撃して、当時所司代として現地に駐留していた板倉勝重を討ち取ってしまう必要があっただろう。
徳川方のもう1つの畿内での拠点であった伏見城も同時に攻略しなければ、たとえ京都や奈良を焼き払うことに成功したとしても、宇治瀬田に進出した大坂方が自軍の背後を突かれる恐れがあるから、これにも成功しなければならない。当時大坂に残っていた豊臣勢の数を約5万人と見積もることにしても、その約半数は出陣しなければ三都焼き討ちと河川防衛作戦の成功は到底覚束なかったのではないだろうか。
そうなると、作戦に失敗した場合のリスクは非常に大きく、恐らく大坂城南部の住吉や平野、あるいは阿倍野と天王寺近辺に徳川勢を引き付けて最終決戦に持ち込むその後実際に起きた展開は起こり得なかったかもしれないと、筆者は考える。
夏の陣当時大坂に侵攻した徳川勢の構成は、大御所家康と将軍秀忠の率いた直属の旗本勢を除けば東国と五畿内の諸大名が率いる軍勢だけで、西国大名の軍勢は待機を命じられていた。そして、進撃路については、奈良を経て生駒山地東麓を南下して国分と藤井寺方面に抜ける大和口方面軍と、京都から淀川左岸を枚方経由で南下して平野方面に抜ける河内口方面軍とに分進する作戦を採った。
その結果、大坂方が実際に5月6日に実施した当初の迎撃作戦である道明寺合戦と八尾・若江合戦では、前者が大和口方面軍約3万人の徳川勢に対して山間を抜ける隘路で迎撃する作戦目的を持っていたし、後者は河内口方面軍約5万人の軍勢を河川堤防と湿地帯を利用して拘束することにより、敵軍の道明寺方面への進出を阻止する目的を持っていた。
しかしながら、この遠方進出作戦はいずれも大坂方の兵力劣勢のために失敗に終わり、道明寺合戦では後藤又兵衛基次と薄田隼人正兼相が、八尾・若江合戦では木村長門守重成ら貴重な武将たちが戦死する大損害を被った。道明寺合戦では伊達政宗の軍勢の先鋒片倉重綱勢を真田信繁の軍勢が撃退して大坂方の敗軍の退路を開き、翌日の最終決戦を可能にしたものの、真田勢も信繁の長男大助幸昌が負傷するなど相当な損害を出して天王寺方面に撤退したようである。
この例から考えても、宇治瀬田に軍勢を進出させる積極策は、兵力劣勢であった大坂方には極めてリスキーな作戦であったのではないだろうか。ただし、同じ兵力劣勢であったとしても、それまでの宇治瀬田防衛戦の事例とは異なって大坂方が鉄砲で武装していたことが戦況を変えた可能性はあるかもしれない。両河川の橋を焼き落とした上で、渡河してくる徳川勢の大軍を銃撃で阻止する作戦を真田信繁らは構想していたのかもしれない。
確かにそれならば、あるいは防御側の大坂方が有利な状況を作ることが可能であったかもしれない。ただし筆者が思うに、その大前提として、大坂方が京都所司代を排除して二条城と御所を焼き払うことに成功した時点で、天皇(玉)の身柄を確保するとともに(伏見城をなるべく損傷の少ない状態で大坂方が攻略した後、同城に天皇を行幸させる案が最善策かと思う)、大軍である徳川勢が他の渡河地点に迂回することを阻止できるかどうかという点が、この積極策の成否を決めたのではないだろうか。
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