昨夕、佐野研二郎氏が一連の騒動を受け、自分のデザインした2020年東京五輪公式エンブレムを取り下げる決断をしたことが一斉に報じられた。しかし佐野氏サイドは、今回のエンブレムのデザインに際して誰かの先行作品を模倣した事実は無いと、今なお頑として主張し続けている。
我々研究者が執筆する論文も佐野氏のようなデザイナーが考案するエンブレムも、著作権法上は同じ「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(第2条第1項第1号)、すなわち、その「著作物性」が認められれば、創作の時点で著作権者に権利(著作者人格権と著作財産権)が発生する。
一連の騒動を筆者が傍から見ていると、佐野氏もその事務所のスタッフにも、著作権法に関する認識が甘かったか、あるいは著作権法の体系自体を不知であったとしか思えない点が多々見られた。恐らく「引用」と「転載」の区別も、佐野氏は事務所内で共有出来ていなかったのではないだろうか。
なぜなら、個人ブログからの写真の無断「転載」がほぼ著作権侵害に直結するリスクも特段配慮されないまま、佐野氏サイドで画像データの処理が行われていたことが先週の土曜日曜日に発覚したからである。
筆者が思うに佐野氏がデザインした五輪エンブレム自体の著作権侵害については、日本で裁判を起こしても海外で起こしてもいずれのケースでも、原告の請求が棄却される可能性の方が今なお高いだろう。その点では、一連の騒動における本丸の攻防戦では、現時点でも佐野氏と大会組織委員会側が原告側に対してなお優勢を保っている状況と思われる。
しかし、佐野氏が過去に関与したデザインで次々に浮上してきた先行作品との類似問題を見ていると、佐野氏あるいはその事務所全体の「創作」の手法自体が、研究の世界で言えば素材や資料を収集して帰納的に成果を導く手法に偏っており、芸術作品にむしろ必要であると思われる、啓発されたコンセプトから演繹的に創作物を導く手法を採用していなかったことはほぼ明らかである。
筆者の属する研究の世界では、先行研究に可能な限り幅広く依拠して、その過去の成果物に少しだけ自分のオリジナルな研究成果を付加することが科学的に正しい手法と見なされている。したがって、先行研究を著作権者に無断で参照して、自分の論文に引用しないわけには行かないものである。先行研究の引用の少ない論文は、決して科学的とは見なされないという性質と慣行がある。
したがって、我々研究者が著作(創作)に当たって注意するのは、もっぱら法的および学術的に正しく引用することに向けられるのであって、決して先行研究者の著作物に依拠しないということではない。ここがデザインを含む芸術作品とは根本的に異なる点なのである。
つまり、佐野氏とそのデザイン事務所の実際の創作現場における作業では、インターネット上に多数存在している写真などの素材や資料を、必ずしも著作権法に明るくないスタッフを動員して可能な限り幅広く拾い集め、それを上手に組み合わせそして配置し直すという、言わば一種の帰納的な手法に自己の「オリジナル」性を見出していたのだろう。
その手法を活用したが故に、佐野氏のデザイン事務所では、クライアントからの大量の発注に適宜応じることや、実際期限内に仕事を処理することが出来たのだろう。佐野氏のその創作物生産手法の選択ミスにこそ、今回取り沙汰されている本質的な著作権侵害のリスクが潜んでいたと筆者は考える。
騒動勃発以降の佐野氏の一連の発言から考えても、そのニュアンスが大いに窺われると筆者は思う。彼は自分の名前でこれまでに発表した各作品の創作性に関し、ネット上などで再三再四疑義が投げかけられることに対して、恐らく大いに困惑しているというのが彼の本音ではないだろうか。
そうした帰納的な創作手法は、科学的な研究論文の世界では、著作権法上認められた「引用」を活用することによって後発作品に十分な創作性を導くことも可能だろう。しかし、デザインや音楽などの芸術的な作品においては、「引用」という法的に是認された著作物の無断利用が出来ないため、必然的に無断「転載」に頼ろうとする誘惑に駆られることに為りがちだろう。
佐野氏かあるいは事務所のスタッフの誰かは不明だが、ネット上に散在する写真などの「引用」できない資料を無断で「転載」することの大きな誘惑に勝てなかったことが、今回の五輪公式エンブレムの取り下げという前代未聞の不祥事を引き起こした根本的な原因であったのではないだろうか。
同時に、インターネットが存在しなかった前回1964年の東京五輪時代のような情報へのアクセス環境では、どんなデザインのエンブレムが発表されようとも、こうした取り下げのような国辱的な事態には決して至らなかっただろう。
佐野氏だけでなく、大会組織委員会やエンブレム選考審査委員の方々にも、そうしたネット時代の炎上リスクに対する危機意識が不足していたことが、新国立競技場建設(費)問題に続く今回の不祥事の連鎖を招いた本質的な原因だったのだろう。