昨年10月から今年3月までTOKYO MX 他で放送された深夜アニメ 『SHIROBAKO』は、アニメ制作現場そのものを描写した一種の業界紹介アニメで、大変興味深かった。多少の誇張とフィクションは勿論あるかもしれないが、「ああ、こうやって普段見ているアニメが作られているのか」と認識できただけでも出色の出来だったと言えるだろう。
時間に追われてバタバタ自転車操業のようにスケジュールをこなしていくアニメ制作業界の現場は、雇用の不安定さや時間管理の曖昧さという点でも、我々研究者の業界と良く似たところがあるようだ。
しかし、私の所属する研究業界では、およそ「勉強ができる」才能よりも、生まれながら持ち合わせた「勉強好き」の性質の方が、自らの雇用を確保するためにむしろ大きな要素を占めていると思われる。
その点、アニメ制作業界の方が、研究業界よりも才能の占める割合が大きいかもしれない。いずれの業界についても、生来の才能と物好きの性質の混合状態が、その人の職業適性に影響していることは間違いないだろう。
研究業界では、そもそも就職するために大学院に入らなければならない。これは、理系はともかく、文系の大学4年生にとっては、一般の会社に就職する機会を自ら放棄することとほとんど同義であり、その道を選択した時点では無自覚な場合が多いと思うが、とんでもないリスクを20代前半で背負う覚悟が必要である。
大体、大学院を出てもすぐに就職できる人などほとんどいない。40、50の年齢になってもアルバイト生活を続ける羽目に陥ることも決して珍しくない。自分の院生時代の同期でも、研究業界に居残っている人は、恐らく50パーセントに満たないだろう。
30代から40代に運良く就職できたとしても、普通に就職した人より10年以上は無職期間が長いのだから、生涯賃金も低いかも知れない。例外としては、IPS細胞を作った山中伸弥教授のように突出した業績を残した人か、テレビで売れっ子になるような一部のスター研究者だけだろう。
才能が求められる分、アニメ制作業界の方が労働に対する平均単価が研究業界より高くてもおかしくないと思うが、アニメ業界は外食産業などと並んでいわゆる労働集約型産業の代表選手と言える業界のようで、それは『SHIROBAKO』を見ても大いに頷けるところである。
私の所属している研究業界は知識集約型産業の代表選手と言える業界なので、労働に対する平均単価が高めに設定されているところと、業務遂行がほとんど請負型で個人の裁量に委ねられている部分が大きい点が幸運であったとも言える。人に管理されることが嫌いであること、すなわち、社会人としての適性にやや欠けるところがあっても何とか勤まってしまう稀有な業界が、研究業界なのである。そういう特殊性のゆえに、業界に参入する障壁は異常に高いと言えるだろう。
逆に言えば、『SHIROBAKO』の主人公宮森あおいのような、優れた対人調整能力や精密なスケジュール管理を研究業界の人に期待されても困るのである。研究業界人は、生来そういうことが上手でないからである。
2015年5月16日土曜日
「国家公務員、今夏は朝型勤務 首相が始業前倒し指示」とのことだが、まず国会待機の悪弊を止めるのが先決である。
安倍政権は、朝型勤務を国全体に浸透させたいという趣旨で、国家公務員の今夏の始業時間を、通常の午前8時30分から9時30分であるところを、午前7時30分から8時30分に1時間早めることを通達した。しかし、この決定は国会待機という悪弊を止めない限り、ほとんど実効性が無いだろう。
それと言うのも、国家公務員が深夜まで残業をしている理由の半分以上が、国会議員の質問対応のために待機を強いられる、いわゆる「国会待機」に起因しているからである。
現状の国会議員は、国会での質問内容を前日夕刻のぎりぎりになって官庁に通告してくることが多い。特に野党議員ではそれが顕著である。今の国会審議は、本音を言えば、野党議員の質問に対して閣僚が各官庁の官僚が作成した答弁資料に基づいて回答するだけの言わばセレモニーと化している。そのため、実質的には官僚が作成する答弁書作りが、国の政策を運営する上で本質的に重要な意味を持っているのである。
その結果、国会議員からの質問内容の通告が遅くなればなるほど、担当の官僚は嫌でも残業せざるを得なくなる。前日夕刻になってようやく質問内容が通告されたとすれば、直接間接を問わず、関係部門の多くの国家公務員が、深夜まで閣僚の答弁資料作成にその時間を費やしてしまう。
それにもかかわらず、国家公務員たちに翌日「1時間早く出勤しろ」というのは、はっきり言って無理筋の要求だろう。ただでさえ無意味とも思える残業で疲労困憊しているのに、早朝出勤で国家公務員たちがさらに疲れを溜めることに成りかねないからだ。
まず、日本固有の悪弊である国家公務員の「国会待機」を止めること、これが朝型勤務を日本に定着させる上での最優先課題と言えるのではないだろうか。
それと言うのも、国家公務員が深夜まで残業をしている理由の半分以上が、国会議員の質問対応のために待機を強いられる、いわゆる「国会待機」に起因しているからである。
現状の国会議員は、国会での質問内容を前日夕刻のぎりぎりになって官庁に通告してくることが多い。特に野党議員ではそれが顕著である。今の国会審議は、本音を言えば、野党議員の質問に対して閣僚が各官庁の官僚が作成した答弁資料に基づいて回答するだけの言わばセレモニーと化している。そのため、実質的には官僚が作成する答弁書作りが、国の政策を運営する上で本質的に重要な意味を持っているのである。
その結果、国会議員からの質問内容の通告が遅くなればなるほど、担当の官僚は嫌でも残業せざるを得なくなる。前日夕刻になってようやく質問内容が通告されたとすれば、直接間接を問わず、関係部門の多くの国家公務員が、深夜まで閣僚の答弁資料作成にその時間を費やしてしまう。
それにもかかわらず、国家公務員たちに翌日「1時間早く出勤しろ」というのは、はっきり言って無理筋の要求だろう。ただでさえ無意味とも思える残業で疲労困憊しているのに、早朝出勤で国家公務員たちがさらに疲れを溜めることに成りかねないからだ。
まず、日本固有の悪弊である国家公務員の「国会待機」を止めること、これが朝型勤務を日本に定着させる上での最優先課題と言えるのではないだろうか。
ダマスカスの思い出(補論)-中東料理の勧め
先日シリアの首都ダマスカスの思い出について投稿したが、大事なことを忘れていたので、補論として追加で投稿してみたい。それは、日本人に是非アラブ料理を賞味していただきたいということだ。
日本では最近、トルコのファーストフードであるドネル・ケバブの屋台など、トルコ料理が進出しているが、中東料理で最も洗練されているのは、恐らくレバノン料理だろう。世界三大料理として、一般的にはフランス料理、中華料理、そしてトルコ料理が挙げられるが、そのトルコ料理の基となっているのはアラブ料理、特にレバノン料理といっても過言ではないだろう。
レバノンでは、まずメッゼという前菜を注文する。これが実に多彩な料理で、これだけで日本人にはお腹一杯になる程である。ちなみに、ホブスという平たい丸いパンとキュウリや人参などの野菜のスティックは無料で大量に供されるので、これはいくら食べても懐具合を心配する必要はない。
ホブスや野菜スティックには、前菜で供されるホンモスやムタッバルなどのペーストを付けて食べる。前者は、ヒヨコ豆をすりつぶしたペーストに白ゴマのペースト(タヒーナと言う)とニンニクなどで味付けし、オリーブオイルをかけたもので、ホブスに実に良く合うものだ。後者は、ヒヨコ豆の代わりに焼き茄子をすりつぶしたペーストにタヒーナを混ぜたもので、独特の苦みがあってこちらもとても味合い深いものである。
前菜の後は、サラダと主菜である肉料理を注文する。サラダはオリーブオイルと塩、ヨーグルトなどであっさりと仕上げたもので、日本人の口にもよく合う。この時、モロヘイヤのスープなどを注文してもいいだろう。中東料理のスープも大変美味しいものだ。
主菜は肉料理だが、中東では豚肉はイスラームの戒律で絶対食べないし、牛肉も一般的ではない。やはり羊肉か鶏肉がメインである。ミンチ肉や角切り肉に香辛料をふんだんに混ぜた、ケバブ料理がやはりお勧めである。玉ねぎやトマト、ピーマンや唐辛子も肉と一緒に焼いて出されるので、結構なボリュームがある。21世紀初頭、自分がダマスカスに駐在していた時は、レストランで夕食にラムチョップのステーキをを注文してよく食べたものである。ケバブもよく食べていた。
食後はアイスクリームかコーヒー・紅茶を頼むのだが、アイスクリームはともかく、飲み物は日本と比べて貧弱である。それというのも、ダマスカスの大抵のレストランでは、コーヒーはネスカフェと言ってインスタントだし、紅茶もティーバックとお湯が注がれたカップが無造作に提供されるだけだからだ。はっきり言って、食後の余韻を楽しむ上では興ざめと言わざるを得ない。
しかしながら、ダマスカスのアイスクリームは日本で食べるハーゲンダッツ以上の質とボリュームがある。イスラーム教のアラブ諸国では飲酒が戒律で禁止されているため、大人でも甘党が多い。そのためか、アイスクリームや各種の甘い菓子類が非常に発展したのである。それゆえ、ダマスカスのアイスクリームは安くてボリューム満点で、かつ美味なのである。
ファーストフードで代表的なのは、シュワルマとチキンの丸焼きである。前者は、トルコ料理で言うドネル・ケバブと同じもので、鉄串にぐるぐる巻きつけた香辛料などで味付け済みの肉(羊、チキン、あるいは牛)を回転焼き肉器で炙ったものをナイフで削ぎ落として、ホブスに野菜と挟んで食べるものだ。渋谷や原宿などでは、トルコ料理のドネル・ケバブとして、日本人も味合うことができる。
チキンの丸焼きは、城壁で囲まれたダマスカス旧市街やかつてアラビア半島に繋がるヒジャーズ鉄道の始発点であったヒジャーズ駅の近くにある、マルジェ広場の周辺で簡単に購入することができる。一羽丸ごとは1人ではとても食べきれないので、半羽を買ってよく食べたものだ。これも、アラブの手ごろなファーストフードと言えるだろう。
日本では最近、トルコのファーストフードであるドネル・ケバブの屋台など、トルコ料理が進出しているが、中東料理で最も洗練されているのは、恐らくレバノン料理だろう。世界三大料理として、一般的にはフランス料理、中華料理、そしてトルコ料理が挙げられるが、そのトルコ料理の基となっているのはアラブ料理、特にレバノン料理といっても過言ではないだろう。
レバノンでは、まずメッゼという前菜を注文する。これが実に多彩な料理で、これだけで日本人にはお腹一杯になる程である。ちなみに、ホブスという平たい丸いパンとキュウリや人参などの野菜のスティックは無料で大量に供されるので、これはいくら食べても懐具合を心配する必要はない。
ホブスや野菜スティックには、前菜で供されるホンモスやムタッバルなどのペーストを付けて食べる。前者は、ヒヨコ豆をすりつぶしたペーストに白ゴマのペースト(タヒーナと言う)とニンニクなどで味付けし、オリーブオイルをかけたもので、ホブスに実に良く合うものだ。後者は、ヒヨコ豆の代わりに焼き茄子をすりつぶしたペーストにタヒーナを混ぜたもので、独特の苦みがあってこちらもとても味合い深いものである。
前菜の後は、サラダと主菜である肉料理を注文する。サラダはオリーブオイルと塩、ヨーグルトなどであっさりと仕上げたもので、日本人の口にもよく合う。この時、モロヘイヤのスープなどを注文してもいいだろう。中東料理のスープも大変美味しいものだ。
主菜は肉料理だが、中東では豚肉はイスラームの戒律で絶対食べないし、牛肉も一般的ではない。やはり羊肉か鶏肉がメインである。ミンチ肉や角切り肉に香辛料をふんだんに混ぜた、ケバブ料理がやはりお勧めである。玉ねぎやトマト、ピーマンや唐辛子も肉と一緒に焼いて出されるので、結構なボリュームがある。21世紀初頭、自分がダマスカスに駐在していた時は、レストランで夕食にラムチョップのステーキをを注文してよく食べたものである。ケバブもよく食べていた。
食後はアイスクリームかコーヒー・紅茶を頼むのだが、アイスクリームはともかく、飲み物は日本と比べて貧弱である。それというのも、ダマスカスの大抵のレストランでは、コーヒーはネスカフェと言ってインスタントだし、紅茶もティーバックとお湯が注がれたカップが無造作に提供されるだけだからだ。はっきり言って、食後の余韻を楽しむ上では興ざめと言わざるを得ない。
しかしながら、ダマスカスのアイスクリームは日本で食べるハーゲンダッツ以上の質とボリュームがある。イスラーム教のアラブ諸国では飲酒が戒律で禁止されているため、大人でも甘党が多い。そのためか、アイスクリームや各種の甘い菓子類が非常に発展したのである。それゆえ、ダマスカスのアイスクリームは安くてボリューム満点で、かつ美味なのである。
ファーストフードで代表的なのは、シュワルマとチキンの丸焼きである。前者は、トルコ料理で言うドネル・ケバブと同じもので、鉄串にぐるぐる巻きつけた香辛料などで味付け済みの肉(羊、チキン、あるいは牛)を回転焼き肉器で炙ったものをナイフで削ぎ落として、ホブスに野菜と挟んで食べるものだ。渋谷や原宿などでは、トルコ料理のドネル・ケバブとして、日本人も味合うことができる。
チキンの丸焼きは、城壁で囲まれたダマスカス旧市街やかつてアラビア半島に繋がるヒジャーズ鉄道の始発点であったヒジャーズ駅の近くにある、マルジェ広場の周辺で簡単に購入することができる。一羽丸ごとは1人ではとても食べきれないので、半羽を買ってよく食べたものだ。これも、アラブの手ごろなファーストフードと言えるだろう。
中東安全保障体制の確立に向けた現実的課題についての分析
5月14日、米国キャンプ・デービッドの大統領別荘で前日から行われていた米・GCC諸国首脳会談が、主として米国とGCC間の安保協力強化を謳う共同声明を出して閉幕した。
そもそも今回のサミットはオバマ米大統領の招待によるものだが、GCC6カ国のうち、国王・首長の本当の首脳が出席したのはクウェートとカタールだけで、他の4カ国は皇太子や副首相といったナンバー2が代理出席しただけであった。これは極めて異例のことであり、GCC諸国がオバマ米政権の最近の中東に対する外交姿勢に強烈な不信感を示したものと言わざるを得ないだろう。
共同声明の内容で注目すべき点は、以下の2つである。まず、アメリカが、GCC諸国に対する外部からの脅威に対しては湾岸戦争の時と同様に軍事力を用いてもそれを抑止し、また対抗するという、GCC諸国の国益擁護のコミットメントを再確認した点である。
アメリカは、実は第二次世界大戦中、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年2月のヤルタ会談の帰途サウジアラビアのイブン・サウード国王と会談して、既にサウジアラビアの安全保障に対してコミットメントを与えている。両国の事実上の同盟関係は、70年間の長期にわたって揺るぎないものだったわけである。
それが、オバマ政権の昨年来のイランに対する接近で、サウジアラビアなどGCC諸国からアメリカのコミットメントの信頼性について本当に不信感を抱かれていることが、今回のサミットへの国王らの欠席で表明されたのである。そうしたGCC側の懸念を和らげるための、共同声明におけるアメリカのコミットメント再確認であったのだろう。
注目すべき第2の点は、GCC諸国でのミサイル防衛(MD)体制を構築するための協力を進めることが確認された点である。5月14日の共同声明では、米・GCC の戦略的パートナーシップとして、武器移転の迅速な追跡、対テロリズム、 海洋安全保障、サイバーセキュリティー、そしてミサイル防衛について協力を強化していくことが確認されたが、MD以外の4つは、中東ペルシャ湾岸の安全保障問題に限らず、いわば昨今の国際安全保障上当然の課題を再確認しただけであって、極めてありきたりの内容に過ぎない。
ところが、中東MD構想については、明らかにイランの核と弾道ミサイル開発に対するGCC諸国の対抗意識を意識したもので、興味深い。
MDというと、日本ではパトリオットPAC-3による北朝鮮の弾道ミサイル発射への警戒措置の発動がまずイメージされると思うが、実はこれは、MDの効果という点では非常に限定された、終末段階の防御態勢を見せているに過ぎない。
MDシステムは、主としてアメリカの偵察衛星に依存した早期警戒システムを確立することが大前提の条件であり、今回の米・GCCサミットで確認された点も、まず早期警戒システムをアメリカとGCC諸国の間で構築することに関してその実行可能性を研究するという、最初期段階の合意が出来たということだろう。
その意味で、現在の中東の安保体制は、核に関してはイスラエルとイランの二極体制構築に向かっており、通常戦力ではイスラエルの圧倒的な優位、テロ支援など非対称戦力ではイラン優位の形勢であって、この2つの勢力に対抗しなければならないサウジアラビアなどGCC諸国は、依然としてアメリカの軍事的コミットメントに頼らざるを得ない状況なのである。
現実的は、GCC諸国は日本と同様に、アメリカの核の力による拡大抑止(いわゆる「核の傘」)体制に組み込まれる方向性を模索していくしか、イスラエルとイランの二極体制に対処する方法がないだろう。
それにしても、実効性のあるMD体制を構築するためには、莫大な支出を必要とするのだが、産油国で資金豊富なGCC諸国であれば、その点に関する不安はあまり感じないのであろう。
そもそも今回のサミットはオバマ米大統領の招待によるものだが、GCC6カ国のうち、国王・首長の本当の首脳が出席したのはクウェートとカタールだけで、他の4カ国は皇太子や副首相といったナンバー2が代理出席しただけであった。これは極めて異例のことであり、GCC諸国がオバマ米政権の最近の中東に対する外交姿勢に強烈な不信感を示したものと言わざるを得ないだろう。
共同声明の内容で注目すべき点は、以下の2つである。まず、アメリカが、GCC諸国に対する外部からの脅威に対しては湾岸戦争の時と同様に軍事力を用いてもそれを抑止し、また対抗するという、GCC諸国の国益擁護のコミットメントを再確認した点である。
アメリカは、実は第二次世界大戦中、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年2月のヤルタ会談の帰途サウジアラビアのイブン・サウード国王と会談して、既にサウジアラビアの安全保障に対してコミットメントを与えている。両国の事実上の同盟関係は、70年間の長期にわたって揺るぎないものだったわけである。
それが、オバマ政権の昨年来のイランに対する接近で、サウジアラビアなどGCC諸国からアメリカのコミットメントの信頼性について本当に不信感を抱かれていることが、今回のサミットへの国王らの欠席で表明されたのである。そうしたGCC側の懸念を和らげるための、共同声明におけるアメリカのコミットメント再確認であったのだろう。
注目すべき第2の点は、GCC諸国でのミサイル防衛(MD)体制を構築するための協力を進めることが確認された点である。5月14日の共同声明では、米・GCC の戦略的パートナーシップとして、武器移転の迅速な追跡、対テロリズム、 海洋安全保障、サイバーセキュリティー、そしてミサイル防衛について協力を強化していくことが確認されたが、MD以外の4つは、中東ペルシャ湾岸の安全保障問題に限らず、いわば昨今の国際安全保障上当然の課題を再確認しただけであって、極めてありきたりの内容に過ぎない。
ところが、中東MD構想については、明らかにイランの核と弾道ミサイル開発に対するGCC諸国の対抗意識を意識したもので、興味深い。
MDというと、日本ではパトリオットPAC-3による北朝鮮の弾道ミサイル発射への警戒措置の発動がまずイメージされると思うが、実はこれは、MDの効果という点では非常に限定された、終末段階の防御態勢を見せているに過ぎない。
MDシステムは、主としてアメリカの偵察衛星に依存した早期警戒システムを確立することが大前提の条件であり、今回の米・GCCサミットで確認された点も、まず早期警戒システムをアメリカとGCC諸国の間で構築することに関してその実行可能性を研究するという、最初期段階の合意が出来たということだろう。
その意味で、現在の中東の安保体制は、核に関してはイスラエルとイランの二極体制構築に向かっており、通常戦力ではイスラエルの圧倒的な優位、テロ支援など非対称戦力ではイラン優位の形勢であって、この2つの勢力に対抗しなければならないサウジアラビアなどGCC諸国は、依然としてアメリカの軍事的コミットメントに頼らざるを得ない状況なのである。
現実的は、GCC諸国は日本と同様に、アメリカの核の力による拡大抑止(いわゆる「核の傘」)体制に組み込まれる方向性を模索していくしか、イスラエルとイランの二極体制に対処する方法がないだろう。
それにしても、実効性のあるMD体制を構築するためには、莫大な支出を必要とするのだが、産油国で資金豊富なGCC諸国であれば、その点に関する不安はあまり感じないのであろう。
2015年5月14日木曜日
関東防衛線の成功事例である箱根・竹之下の戦い
1335年8月に最後の得宗北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱を、勅命を待たずに無断で鎮圧した足利尊氏は、後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、後醍醐天皇の建武政権に対抗して関東の独立化を図った。
そのため、11月に尊良親王を奉じる新田義貞が天皇から尊氏追討の命令を受け、軍勢を率いて京を出発し、関東に下向することになった。ところが、尊氏は朝敵となるのを恐れて浄光明寺に引き籠ってしまった。
この優柔不断な尊氏に代って、家臣の高師泰と弟直義がそれぞれ率いる軍勢が新田勢を迎え撃つため鎌倉を進発したが、師泰勢は三河の矢作川で、直義勢は12月5日駿河手越河原で、共にあえなく新田勢に敗退してしまった。
『梅松論』によると、退却した直義は箱根峠の水吞を掘り切って要害を構え、再度新田勢の迎撃を図ったとされる。この水吞という場所は、後世に後北条氏が山中城を築いた付近かもしれない。東海道を取り込む関所が置かれた要害の地である。
この期に及んで尊氏は、「守殿(直義)が命を落としたら、自分が生きていても仕方がない」と言って、鎌倉に留めておいた小山、結城、長沼一族の軍勢を率いて12月8日、直義救援のためにようやく鎌倉を出発したのである。
ここまでの尊氏は、建武政権の恩賞に不満を抱く多数の武士達の声望を担った大将軍としては、はなはだ頼りなさげな雰囲気を醸し出していたが、いざ出陣後に彼が見せた軍事行動の的確さは、大いに感心させられるものだ。
つまり、普通であれば、直義が立て籠もる箱根方面に軍を進めるはずであるが、彼は水吞の要害で守勢に回ることを避け、新手の軍勢を北方の足柄峠に進めたのである。
当時、新田勢は伊豆の国府のある三島に軍を集結させて留まっており、足柄峠方面には尊良親王と義貞弟の脇屋義助が率いる軍勢が向かったが、12月10日に尊氏軍が足柄峠に陣取りした時点では、麓の竹之下周辺に展開していた模様である。この新田勢の緩慢な進撃は、敗北の根本原因であって、大失策と言えるだろう。
なぜ、尊氏軍が、足柄峠を占拠することを、新田サイドは事前に想定できなかったのだろうか。もし新田勢がこの時点で足柄峠を突破していれば、足利側の後方拠点である鎌倉の陥落はほぼ確実だっただろうに。
この辺の戦術眼と作戦遂行能力の優秀さが、尊氏が数多のライバルを蹴落として、南北朝内乱の最終勝利者となり得た将器の持ち主であった証拠であると言えるだろう。
事実、坂を駆け下りた足利勢に攻め込まれた新田勢は11日には藍沢原(鮎沢川原のことか)で敗れ、12日には南下して佐野山(裾野市佐野辺りか)に立て籠ったが大友貞載らの裏切りにあって再度敗北し、この日の合戦では、親王に供奉していた二条左中将為冬(歌道で有名な藤原定家の子孫)が討たれてしまった。
尊氏軍は国府を見下ろす山野に陣を敷き、12月13日に夜通しの雨の中を早朝から国府に攻め込み、水吞から退却してきた新田義貞勢も破って、箱根から進撃してきた直義勢と合流することに成功して、新田勢を駿河に追い落とし浮島原に進出したのであった。
14日の足利勢の軍議の結果、ここで新田勢追い討ちを中断して鎌倉に帰還するか、それとも東海道を京まで攻め上って一気に建武政権を打倒するかの戦略が審議されたが、鎌倉に帰還して関東を固める案が却下されて京への上洛が決定された。
この時の尊氏側の判断は、その昔、甲斐源氏が平維盛率いる平家の追討軍を富士川の合戦で撃破した後に、富士川東岸まで進出した源頼朝勢がそのまま上洛することを断念して鎌倉に帰還し、佐竹氏攻撃に転身して関東を掌握することに専念した際の判断と正反対であって、非常に興味深い。
恐らく頼朝の上洛断念は、彼の鎌倉入りに最大の貢献をした、上総、千葉両氏の佐竹攻撃の意向に逆らえなかったためだろう。奥州藤原氏が平家の意向に同調せず、関東に攻め込む気配がなかったことも頼朝の判断を大きく左右したと思われる。
これに対して、足利尊氏の場合、奥州から北畠顕家の軍勢の脅威が迫っており、鎌倉に反転してそれと対決するよりも、むしろ政権中枢部を打倒する方が戦略的に有利であると判断して、京への上洛作戦を選んだのであろう。
結果的に、この時の判断が、京で手痛い敗北を喫して九州に落ちのびる羽目に尊氏らを陥らせたわけであるが、その後間もなく建武政権を打倒して足利氏の幕府を京に開くことが事実上定まったという、歴史的な重要性を帯びていることもまた事実だろう。
そのため、11月に尊良親王を奉じる新田義貞が天皇から尊氏追討の命令を受け、軍勢を率いて京を出発し、関東に下向することになった。ところが、尊氏は朝敵となるのを恐れて浄光明寺に引き籠ってしまった。
この優柔不断な尊氏に代って、家臣の高師泰と弟直義がそれぞれ率いる軍勢が新田勢を迎え撃つため鎌倉を進発したが、師泰勢は三河の矢作川で、直義勢は12月5日駿河手越河原で、共にあえなく新田勢に敗退してしまった。
『梅松論』によると、退却した直義は箱根峠の水吞を掘り切って要害を構え、再度新田勢の迎撃を図ったとされる。この水吞という場所は、後世に後北条氏が山中城を築いた付近かもしれない。東海道を取り込む関所が置かれた要害の地である。
この期に及んで尊氏は、「守殿(直義)が命を落としたら、自分が生きていても仕方がない」と言って、鎌倉に留めておいた小山、結城、長沼一族の軍勢を率いて12月8日、直義救援のためにようやく鎌倉を出発したのである。
ここまでの尊氏は、建武政権の恩賞に不満を抱く多数の武士達の声望を担った大将軍としては、はなはだ頼りなさげな雰囲気を醸し出していたが、いざ出陣後に彼が見せた軍事行動の的確さは、大いに感心させられるものだ。
つまり、普通であれば、直義が立て籠もる箱根方面に軍を進めるはずであるが、彼は水吞の要害で守勢に回ることを避け、新手の軍勢を北方の足柄峠に進めたのである。
当時、新田勢は伊豆の国府のある三島に軍を集結させて留まっており、足柄峠方面には尊良親王と義貞弟の脇屋義助が率いる軍勢が向かったが、12月10日に尊氏軍が足柄峠に陣取りした時点では、麓の竹之下周辺に展開していた模様である。この新田勢の緩慢な進撃は、敗北の根本原因であって、大失策と言えるだろう。
なぜ、尊氏軍が、足柄峠を占拠することを、新田サイドは事前に想定できなかったのだろうか。もし新田勢がこの時点で足柄峠を突破していれば、足利側の後方拠点である鎌倉の陥落はほぼ確実だっただろうに。
この辺の戦術眼と作戦遂行能力の優秀さが、尊氏が数多のライバルを蹴落として、南北朝内乱の最終勝利者となり得た将器の持ち主であった証拠であると言えるだろう。
事実、坂を駆け下りた足利勢に攻め込まれた新田勢は11日には藍沢原(鮎沢川原のことか)で敗れ、12日には南下して佐野山(裾野市佐野辺りか)に立て籠ったが大友貞載らの裏切りにあって再度敗北し、この日の合戦では、親王に供奉していた二条左中将為冬(歌道で有名な藤原定家の子孫)が討たれてしまった。
尊氏軍は国府を見下ろす山野に陣を敷き、12月13日に夜通しの雨の中を早朝から国府に攻め込み、水吞から退却してきた新田義貞勢も破って、箱根から進撃してきた直義勢と合流することに成功して、新田勢を駿河に追い落とし浮島原に進出したのであった。
14日の足利勢の軍議の結果、ここで新田勢追い討ちを中断して鎌倉に帰還するか、それとも東海道を京まで攻め上って一気に建武政権を打倒するかの戦略が審議されたが、鎌倉に帰還して関東を固める案が却下されて京への上洛が決定された。
この時の尊氏側の判断は、その昔、甲斐源氏が平維盛率いる平家の追討軍を富士川の合戦で撃破した後に、富士川東岸まで進出した源頼朝勢がそのまま上洛することを断念して鎌倉に帰還し、佐竹氏攻撃に転身して関東を掌握することに専念した際の判断と正反対であって、非常に興味深い。
恐らく頼朝の上洛断念は、彼の鎌倉入りに最大の貢献をした、上総、千葉両氏の佐竹攻撃の意向に逆らえなかったためだろう。奥州藤原氏が平家の意向に同調せず、関東に攻め込む気配がなかったことも頼朝の判断を大きく左右したと思われる。
これに対して、足利尊氏の場合、奥州から北畠顕家の軍勢の脅威が迫っており、鎌倉に反転してそれと対決するよりも、むしろ政権中枢部を打倒する方が戦略的に有利であると判断して、京への上洛作戦を選んだのであろう。
結果的に、この時の判断が、京で手痛い敗北を喫して九州に落ちのびる羽目に尊氏らを陥らせたわけであるが、その後間もなく建武政権を打倒して足利氏の幕府を京に開くことが事実上定まったという、歴史的な重要性を帯びていることもまた事実だろう。
アニメ業界が、ブラック企業並み待遇であることの感想
自分は時々、息抜きに深夜アニメを見ることがある。日本のアニメの洗練された絵柄と技術には、本当に感心させられている。それは、間違いなく世界一の水準だろう。ところが、アニメ業界で働く方々の待遇が、実はブラック企業並みの低いものだという事実を、最近のニュースで初めて知ったのである。
インターネットで読んだ4月30日のITmedia ニュースによると、動画マンは年収110万円、「とにかく定収入で長時間労働」であるのが実態なのだそうだ。
この記事を読んでみると、アニメーターの労働環境が、いわゆる労働集約型産業の最たるもので、一部の外食産業や建設業等の他の労働集約型産業に類似した欠点を多く抱えていることが問題であることを認識したのである。
人が労働力を提供する産業には、労働集約型産業と資本集約型産業がある。前者は、人の労働時間がそのまま売り上げにつながる性質を持つ業種のことで、外食産業のウエイターやウエイトレス、美容師さんや運転手さんなどがこれに該当する。
実はお医者さんや弁護士、コンサルタントのような、知識集約型の業種も実は労働集約型産業に属する業種と言えるだろう。彼らが平均的に高収入であるのは、労働時間当たりの平均単価が高いからに他ならない。
その意味で、労働集約型産業は軒並み多忙化する傾向がある。当該業種では、労働時間に比例して売上高が伸びる性質を持つため、業績を伸ばすためには雇用者を馬車馬のように働かせることが有効な企業戦略となるからである。
これが知識集約型の業種であれば、死ぬほど多忙を極めても提供する労働に対する平均単価が高いから高額の報酬を得ることができるが、単純作業と見なされている業種に一旦入ってしまうと、長時間労働の上に平均単価が低いために低収入に陥りやすい。
そうした業種では、雇用者が提供する労働に特別な熟練が必要とされないと思われているため、従業員がすぐ辞めても代りの人はいくらでも見つかると認識されているので、企業サイドに従業員を教育しようとする意欲が湧きにくい。
その上、そうした業種では、労働に対する平均単価を上げる必要も感じないことになりがちなので、いわゆるブラック企業化しやすいと言えるだろう。
したがって、アニメ業界の低待遇を改善するためには、アニメーターを知識集約型に変えるか、あるいは、機械化等によって人間の労働力が寄与する部分を減らして生産性を高める、資本集約型に業態を変換する必要がある。前者はともかく、後者はかなり大きな資本を初期に投資する必要があるので、零細企業が多数を占めると思われるアニメ業界では、恐らく資本集約産業化は困難だろう。
とすれば、やはりアニメーターの知識集約化と正社員化が必要だろう。京都アニメーションのように、敢えて東京を離れて地方に活動拠点を移してみたり、スタジオジブリのように株式会社として正社員を採用し、福利厚生を改善して社員の能力を引き出すという方法が当面は好ましいかもしれない。
しかし、最終的には労働に対する平均単価を上げる努力をして、知識集約産業化していく道を模索するべきだろう。しかし、素人である自分が報道で知る限りでは、その道は遥か遠いものであるようだ。アニメ業界の皆さんは、決して屈することなく、明治時代の日本人達のように、「坂の上の雲」を目指していただきたい。これは、深夜アニメの一ファンとしての、実に無責任な感想に過ぎないものなのだが。
インターネットで読んだ4月30日のITmedia ニュースによると、動画マンは年収110万円、「とにかく定収入で長時間労働」であるのが実態なのだそうだ。
この記事を読んでみると、アニメーターの労働環境が、いわゆる労働集約型産業の最たるもので、一部の外食産業や建設業等の他の労働集約型産業に類似した欠点を多く抱えていることが問題であることを認識したのである。
人が労働力を提供する産業には、労働集約型産業と資本集約型産業がある。前者は、人の労働時間がそのまま売り上げにつながる性質を持つ業種のことで、外食産業のウエイターやウエイトレス、美容師さんや運転手さんなどがこれに該当する。
実はお医者さんや弁護士、コンサルタントのような、知識集約型の業種も実は労働集約型産業に属する業種と言えるだろう。彼らが平均的に高収入であるのは、労働時間当たりの平均単価が高いからに他ならない。
その意味で、労働集約型産業は軒並み多忙化する傾向がある。当該業種では、労働時間に比例して売上高が伸びる性質を持つため、業績を伸ばすためには雇用者を馬車馬のように働かせることが有効な企業戦略となるからである。
これが知識集約型の業種であれば、死ぬほど多忙を極めても提供する労働に対する平均単価が高いから高額の報酬を得ることができるが、単純作業と見なされている業種に一旦入ってしまうと、長時間労働の上に平均単価が低いために低収入に陥りやすい。
そうした業種では、雇用者が提供する労働に特別な熟練が必要とされないと思われているため、従業員がすぐ辞めても代りの人はいくらでも見つかると認識されているので、企業サイドに従業員を教育しようとする意欲が湧きにくい。
その上、そうした業種では、労働に対する平均単価を上げる必要も感じないことになりがちなので、いわゆるブラック企業化しやすいと言えるだろう。
したがって、アニメ業界の低待遇を改善するためには、アニメーターを知識集約型に変えるか、あるいは、機械化等によって人間の労働力が寄与する部分を減らして生産性を高める、資本集約型に業態を変換する必要がある。前者はともかく、後者はかなり大きな資本を初期に投資する必要があるので、零細企業が多数を占めると思われるアニメ業界では、恐らく資本集約産業化は困難だろう。
とすれば、やはりアニメーターの知識集約化と正社員化が必要だろう。京都アニメーションのように、敢えて東京を離れて地方に活動拠点を移してみたり、スタジオジブリのように株式会社として正社員を採用し、福利厚生を改善して社員の能力を引き出すという方法が当面は好ましいかもしれない。
しかし、最終的には労働に対する平均単価を上げる努力をして、知識集約産業化していく道を模索するべきだろう。しかし、素人である自分が報道で知る限りでは、その道は遥か遠いものであるようだ。アニメ業界の皆さんは、決して屈することなく、明治時代の日本人達のように、「坂の上の雲」を目指していただきたい。これは、深夜アニメの一ファンとしての、実に無責任な感想に過ぎないものなのだが。
2015年5月12日火曜日
アベノミクス成長戦略に関する分析
アベノミクスの第三の矢である成長戦略は、まだ本格始動していないようだが、その中核的政策は、法人税減税と規制改革、TPP推進と成長期待分野への補助金重点割り当てによるテコ入れといったところか。
先の投稿で触れた、『文藝春秋』6月号の浜田宏一先生の文章では、成長戦略について、やはり法人税減税と規制改革の重要性が強調されていた。しかし、いくら法人税を減税しても、それが投資に回されず企業に内部留保されたままでは元も子もあるまい。
その辺の詰めの認識が、浜田先生に代表されるリフレ派はやや甘いのではないか。特に東京一極集中を防ぎ、人材を地方に引き止めて、地方経済を復活させる鍵が法人税減税であり、減税による税収不足は投資が回復してGDPが伸びれば結局回収できるという単純な論理展開が、自分には今一つしっくり腑に落ちなかった。
自分の分析では、日本のデフレの原因は単なる貨幣現象ではなく、構造的な実質賃金の下落傾向による労働者の購買力不足に基づく消費(内需)の低迷にあり、したがって、単にサプライ・サイドに着目した成長戦略を講じるだけでは、かえって需給ギャップを拡大させる結果を招いて、むしろ不況を長引かせるだけに終わるような気がしてならない。
日本の長引く不況の原因は、恐らく、多くの企業がIT分野やグローバリゼーションの流れに乗り遅れた結果、イノベーションが起きにくくなったことと、円高で主に製造業の工場が海外に移転して国内産業の空洞化が起き、内需が伸び悩んだことにあるのではないか。
それまで人が行ってきた作業がロボット化やITによる代替で不要となったため、リストラされて正規雇用が非正規雇用に置き換えられるとともに、グローバリゼーションが進展した結果、資本市場の株価上昇圧力と国際競争力の不足から、この間に日本企業の人件費のカットが進んだため、雇用者分配率が継続的に低下していった結果、実質賃金が減り、消費が低迷したというのが、日本の長期デフレの実態ではないだろうか。
とするならば、IT分野の専門性を持つ人材や、グローバルな商売に結び付くようなイノベーションを起こすことができるような専門的な人材を発掘し、育成することこそ、日本にとって最大の成長戦略となるはずだろう。こうした高付加価値な人材は、高額の報酬を期待でき、企業の投資を活性化させると同時に自らの消費も拡大させると思われるからだ。
法人税減税と規制改革は、確かに外国からの投資を日本に引き入れる上で効果があるだろう。しかし、それだけで経済を成長させるようなイノベーションを起こせるわけではないだろう。供給サイドを強化するだけでは、恐らくだめだ。
やはり人材を積極的に発掘、育成できるような雇用改革と、実質賃金の上昇を引き起こすような流動化された労働市場が必要だろう。そのためには、企業サイドが必要な人材の職務能力を明確化し、そのための能力向上を導くような人への無形投資を強化すべきであろう。新卒一括採用という、融通の利きにくい採用システムも見直すべきかもしれない。
先の投稿で触れた、『文藝春秋』6月号の浜田宏一先生の文章では、成長戦略について、やはり法人税減税と規制改革の重要性が強調されていた。しかし、いくら法人税を減税しても、それが投資に回されず企業に内部留保されたままでは元も子もあるまい。
その辺の詰めの認識が、浜田先生に代表されるリフレ派はやや甘いのではないか。特に東京一極集中を防ぎ、人材を地方に引き止めて、地方経済を復活させる鍵が法人税減税であり、減税による税収不足は投資が回復してGDPが伸びれば結局回収できるという単純な論理展開が、自分には今一つしっくり腑に落ちなかった。
自分の分析では、日本のデフレの原因は単なる貨幣現象ではなく、構造的な実質賃金の下落傾向による労働者の購買力不足に基づく消費(内需)の低迷にあり、したがって、単にサプライ・サイドに着目した成長戦略を講じるだけでは、かえって需給ギャップを拡大させる結果を招いて、むしろ不況を長引かせるだけに終わるような気がしてならない。
日本の長引く不況の原因は、恐らく、多くの企業がIT分野やグローバリゼーションの流れに乗り遅れた結果、イノベーションが起きにくくなったことと、円高で主に製造業の工場が海外に移転して国内産業の空洞化が起き、内需が伸び悩んだことにあるのではないか。
それまで人が行ってきた作業がロボット化やITによる代替で不要となったため、リストラされて正規雇用が非正規雇用に置き換えられるとともに、グローバリゼーションが進展した結果、資本市場の株価上昇圧力と国際競争力の不足から、この間に日本企業の人件費のカットが進んだため、雇用者分配率が継続的に低下していった結果、実質賃金が減り、消費が低迷したというのが、日本の長期デフレの実態ではないだろうか。
とするならば、IT分野の専門性を持つ人材や、グローバルな商売に結び付くようなイノベーションを起こすことができるような専門的な人材を発掘し、育成することこそ、日本にとって最大の成長戦略となるはずだろう。こうした高付加価値な人材は、高額の報酬を期待でき、企業の投資を活性化させると同時に自らの消費も拡大させると思われるからだ。
法人税減税と規制改革は、確かに外国からの投資を日本に引き入れる上で効果があるだろう。しかし、それだけで経済を成長させるようなイノベーションを起こせるわけではないだろう。供給サイドを強化するだけでは、恐らくだめだ。
やはり人材を積極的に発掘、育成できるような雇用改革と、実質賃金の上昇を引き起こすような流動化された労働市場が必要だろう。そのためには、企業サイドが必要な人材の職務能力を明確化し、そのための能力向上を導くような人への無形投資を強化すべきであろう。新卒一括採用という、融通の利きにくい採用システムも見直すべきかもしれない。
『文藝春秋』6月号、「アベノミクス三年目の批判に答える」の疑問点
『文藝春秋』6月号に、内閣官房参与でイェール大学名誉教授の浜田宏一先生が「アベノミクス三年目の批判に答える」と題した文章を寄稿されている。自分も興味があったので読んでみたのだが、最初の分析から浜田さんの認識に事実誤認があるように思えてならない。
例えば、浜田先生は2011年に300万人以上いた日本の失業者が、アベノミクスの結果雇用が拡大したため、2014年には200万人台に減って成果を上げたとされている。
しかし、2012年から14年は戦後第一次ベビーブーマーの「団塊の世代」が65歳を迎えて、丁度退職した時期と重なっている。つまり、大量の退職者が出て、企業が雇用を拡大するのはある意味で当然な時期だったのだ。これをアベノミクスのリフレ政策の成果と見なすのは、かなり牽強付会な議論ではないだろうか。
また、厚生労働省が5月1日に発表した3月の毎月勤労統計調査(速報)によると、物価変動を考慮した実質賃金は前年比マイナス2.6%で、23か月連続でマイナスを記録している。つまり、この間の勤労者の懐は、名目賃金の上昇では全然潤っていないわけだ。
浜田さんは、それは消費税3%増税の結果と分析されていたが、本当だろうか。もっと日本経済が抱える構造的要因があるのではないか。
例えば、日本の完全失業率から需要不足失業率を除いた構造的・摩擦的失業率、すなわち雇用のミスマッチによる失業率は、ほぼ3.4~5%位に高止まりしており、総務省統計局が5月1日に公表した3月分の労働力調査(基本集計)を見ると、完全失業率は3.4%となっている。
つまり、この統計が正しければ、需給ギャップによる需要不足失業は、既に日本には存在しないという理屈になるはずだ。であるならば、これ以上の追加金融緩和で需給ギャップを埋めても、何の意味もないのではないだろうか。
ところが浜田先生は、日銀のインフレターゲット2%未達の原因は、昨年来の予想外の原油価格下落のためであり、総務省が出した需給ギャップ統計マイナス2.2%まではいかないだろうが、まだ1%程度の需給ギャップがあるかもしれないから、追加金融緩和の余地があると述べている。
これは、正直言って、日本経済にとって副作用の危険が大き過ぎるだろう。浜田先生ご自身が指摘されているように、折角幸運な昨年来の原油価格下落のおかげで、インフレの痛みが軽減されているというのに、もし仮に原油価格が再上昇し始めたら、追加緩和の副作用として「不況下の物価高」、スタグフレーションに日本を陥らせかねない危険を伴っているからである。
日銀辺りでは、最近、日本の本当の構造的失業率は2.5%位であると低く見積もることで、まだ需要不足失業が残っているとして、改めて追加緩和の根拠にしようとする意見も出ているらしいが、これって、相当無理筋の論理の展開ではないだろうか。
自分には、リフレ派の主張する無理やりインフレを起こして庶民の生活を逼迫させる必要が、今の日本に本当にあるのか、大いに疑問を抱いている。
例えば、浜田先生は2011年に300万人以上いた日本の失業者が、アベノミクスの結果雇用が拡大したため、2014年には200万人台に減って成果を上げたとされている。
しかし、2012年から14年は戦後第一次ベビーブーマーの「団塊の世代」が65歳を迎えて、丁度退職した時期と重なっている。つまり、大量の退職者が出て、企業が雇用を拡大するのはある意味で当然な時期だったのだ。これをアベノミクスのリフレ政策の成果と見なすのは、かなり牽強付会な議論ではないだろうか。
また、厚生労働省が5月1日に発表した3月の毎月勤労統計調査(速報)によると、物価変動を考慮した実質賃金は前年比マイナス2.6%で、23か月連続でマイナスを記録している。つまり、この間の勤労者の懐は、名目賃金の上昇では全然潤っていないわけだ。
浜田さんは、それは消費税3%増税の結果と分析されていたが、本当だろうか。もっと日本経済が抱える構造的要因があるのではないか。
例えば、日本の完全失業率から需要不足失業率を除いた構造的・摩擦的失業率、すなわち雇用のミスマッチによる失業率は、ほぼ3.4~5%位に高止まりしており、総務省統計局が5月1日に公表した3月分の労働力調査(基本集計)を見ると、完全失業率は3.4%となっている。
つまり、この統計が正しければ、需給ギャップによる需要不足失業は、既に日本には存在しないという理屈になるはずだ。であるならば、これ以上の追加金融緩和で需給ギャップを埋めても、何の意味もないのではないだろうか。
ところが浜田先生は、日銀のインフレターゲット2%未達の原因は、昨年来の予想外の原油価格下落のためであり、総務省が出した需給ギャップ統計マイナス2.2%まではいかないだろうが、まだ1%程度の需給ギャップがあるかもしれないから、追加金融緩和の余地があると述べている。
これは、正直言って、日本経済にとって副作用の危険が大き過ぎるだろう。浜田先生ご自身が指摘されているように、折角幸運な昨年来の原油価格下落のおかげで、インフレの痛みが軽減されているというのに、もし仮に原油価格が再上昇し始めたら、追加緩和の副作用として「不況下の物価高」、スタグフレーションに日本を陥らせかねない危険を伴っているからである。
日銀辺りでは、最近、日本の本当の構造的失業率は2.5%位であると低く見積もることで、まだ需要不足失業が残っているとして、改めて追加緩和の根拠にしようとする意見も出ているらしいが、これって、相当無理筋の論理の展開ではないだろうか。
自分には、リフレ派の主張する無理やりインフレを起こして庶民の生活を逼迫させる必要が、今の日本に本当にあるのか、大いに疑問を抱いている。
2015年5月10日日曜日
シリアの首都ダマスカスの思い出
2011年からの内戦で、シリアの首都ダマスカスは、日本から観光目的で行くことができなくなってしまった。実は筆者は、内戦が始まる直前の2010年夏に、妻と娘を連れてシリアに観光旅行に行ったのである。
筆者は2002年春に身重の妻を日本に残して、シリアの首都ダマスカスに赴任して日本大使館に勤務した経験がある。当時はバッシャール・アサドが父親のハ―フェズの後を継いで大統領に就任したばかりの時で、改革開放の機運がシリアを覆っていた時代であった。
まさか10年後に、このような悲惨な内戦状態に陥るとは思いもよらなかったのである。その頃、筆者はダマスカス市街の西にあるティシュリーン公園近くのシェラトン・ダマスカスホテルに滞在していたが、実に楽しい日々を過ごした。
ホテルのカフェから眺めるカシオン山はとても美しく、日本で例えれば、京都市街から比叡山を眺めているのと同様の感慨があった。専属のドライバーに頼んで夜のカシオン山に登ったことがあるが、眼下に見下ろすダマスカス市街の夜景は実に素晴らしかった。余談であるが、カシオン山には、シリア軍の施設があるため写真撮影は要注意であった。
カフェでは、シリアの人々がサッカー・シリア代表の試合に興じていた。シリア人は、総じて非常に親日的だ。旧市街のスークで買い物をしても、イスラエルやトルコのように、日本人がぼったくられる心配はほとんどない。それどころか、買い物をすれば、店主が必ず紅茶をふるまってくれる程である。
ダマスカス旧市街には、世界最古のモスクであるウマイヤード・モスクがあり、そこにはイエスの師と言われる洗礼者ヨハネの墓と言われるものもある。このモスクのすぐ近くには、第3次十字軍を撃退したイスラームの英雄、アイユーブ朝を開いたサラーフ・アッディーンの廟所もある。世界史上屈指の名所なのである。
ダマスカスからは、車で十字軍の築いた名城クラック・デ・シェヴァリエにも簡単に行くことができる。この城は、アラビアのローレンスも調査して世界で最も素晴しい城だと述べたたように、実に見事な城塞である。1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用されたため、当時の十字軍美術の宝庫となっている。シリア内戦で、観光客が行けないのは非常に残念なことだ。
シリアには、もう1つ、パルミラの世界遺産もある。アジアの東西を繋ぐシルクロードのオアシス都市として3世紀に繁栄し、一時はエジプトの一部も支配下に置いた女王ゼノビアがローマ帝国に抵抗したため、273年にローマ帝国の軍人皇帝アウレリアヌスによって攻略され、廃墟となったのである。
その遺跡は実に素晴らしいもので、2010年に訪問した妻と娘も大感動していたものである。しかし、パルミラ遺跡へも現在は行くことができない状態である。
そういう意味でも、シリア内戦は早急に収拾させるべきであろう。世界的に重要な文化遺産を、世界中の多くの人々が知る機会を回復するためにも、シリアの平和を直ちに回復するべきである。
筆者は2002年春に身重の妻を日本に残して、シリアの首都ダマスカスに赴任して日本大使館に勤務した経験がある。当時はバッシャール・アサドが父親のハ―フェズの後を継いで大統領に就任したばかりの時で、改革開放の機運がシリアを覆っていた時代であった。
まさか10年後に、このような悲惨な内戦状態に陥るとは思いもよらなかったのである。その頃、筆者はダマスカス市街の西にあるティシュリーン公園近くのシェラトン・ダマスカスホテルに滞在していたが、実に楽しい日々を過ごした。
ホテルのカフェから眺めるカシオン山はとても美しく、日本で例えれば、京都市街から比叡山を眺めているのと同様の感慨があった。専属のドライバーに頼んで夜のカシオン山に登ったことがあるが、眼下に見下ろすダマスカス市街の夜景は実に素晴らしかった。余談であるが、カシオン山には、シリア軍の施設があるため写真撮影は要注意であった。
カフェでは、シリアの人々がサッカー・シリア代表の試合に興じていた。シリア人は、総じて非常に親日的だ。旧市街のスークで買い物をしても、イスラエルやトルコのように、日本人がぼったくられる心配はほとんどない。それどころか、買い物をすれば、店主が必ず紅茶をふるまってくれる程である。
ダマスカス旧市街には、世界最古のモスクであるウマイヤード・モスクがあり、そこにはイエスの師と言われる洗礼者ヨハネの墓と言われるものもある。このモスクのすぐ近くには、第3次十字軍を撃退したイスラームの英雄、アイユーブ朝を開いたサラーフ・アッディーンの廟所もある。世界史上屈指の名所なのである。
ダマスカスからは、車で十字軍の築いた名城クラック・デ・シェヴァリエにも簡単に行くことができる。この城は、アラビアのローレンスも調査して世界で最も素晴しい城だと述べたたように、実に見事な城塞である。1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用されたため、当時の十字軍美術の宝庫となっている。シリア内戦で、観光客が行けないのは非常に残念なことだ。
シリアには、もう1つ、パルミラの世界遺産もある。アジアの東西を繋ぐシルクロードのオアシス都市として3世紀に繁栄し、一時はエジプトの一部も支配下に置いた女王ゼノビアがローマ帝国に抵抗したため、273年にローマ帝国の軍人皇帝アウレリアヌスによって攻略され、廃墟となったのである。
その遺跡は実に素晴らしいもので、2010年に訪問した妻と娘も大感動していたものである。しかし、パルミラ遺跡へも現在は行くことができない状態である。
そういう意味でも、シリア内戦は早急に収拾させるべきであろう。世界的に重要な文化遺産を、世界中の多くの人々が知る機会を回復するためにも、シリアの平和を直ちに回復するべきである。
荻原重秀の元禄リフレ政策は、天変地異で失敗したという教訓に関する感想
5代徳川将軍綱吉の治世期間に、幕府の財政を一手に仕切っていたのが勘定奉行の荻原重秀である。彼の進めた経済政策は、現代から見てもデフレ脱却のための合理的思考に基づく妥当な内容を多々含んでおり、封建時代にありながらその頭脳の優秀さには感心せざるを得ない。
ただし、アベノミクスと同様に、通貨膨張による緩やかなインフレ誘導政策に偏していた点で、荻原の経済政策には不十分な点があったことは否めない。肝心かなめの成長戦略が無かったのだ。
その結果、元禄および宝永時代に相次いで日本列島を襲った大地震や富士山噴火といった天変地異の被害に対する復興支出の増大から幕府の財政赤字が拡大し、貨幣改鋳による通貨膨張を連発してインフレを招いてしまったのである。
荻原は幕府の信用があれば、通貨は瓦礫でもよいと言ったそうだ。つまり、それまでに発行された慶長金銀貨の金銀の含有量を落として貨幣を改鋳すれば、幕府は莫大な通貨発行益を得られる。
同時に、緩やかなインフレが起こって、通貨の実質購買力の低下を知った商人達が、将軍綱吉とその母桂昌院の寺院建造のための建設投資増大の結果蓄積した金銀貨の退蔵を止め、その分を投資に回すはずだと荻原は見越したのだろう。まさに、現代のアベノミクスと同じ論理である。
ところが、元禄、宝永と大地震が連続して起き、加えて宝永4(1707)年には富士山が歴史上最後の大噴火を起こした。さらに大火で内裏まで焼失したため、幕府の財政支出は急増して、財政赤字が手の付けられないところまで悪化した。
荻原は、長崎貿易拡大による運上金徴収額増大や大名に対する課税など、平成の消費税増税と似たような財政再建策を講じたが焼け石に水で、結局、新井白石に糾弾された荻原は、幕府財政悪化の責任を全部負わされて退任させられた。黒田日銀総裁もそうならなければ良いのだが。
なんだか、元録・宝永時代の経済政策の右往左往は、自分には、平成の現代日本と同じ状態のように思われる。最近箱根の大涌谷で、山体が膨張して、水蒸気爆発を起こす危険が取りざたされている。箱根山は、伊豆半島が日本列島に衝突した時に富士山と共に形成されたと言われている。
とすれば、箱根山の天変地異は富士山噴火の予兆と言えるかもしれない。そうであるならば、ますます現代と元禄・宝永時代が似ているように思えてくる。というのは、戯言に過ぎないだろうか。
ただし、アベノミクスと同様に、通貨膨張による緩やかなインフレ誘導政策に偏していた点で、荻原の経済政策には不十分な点があったことは否めない。肝心かなめの成長戦略が無かったのだ。
その結果、元禄および宝永時代に相次いで日本列島を襲った大地震や富士山噴火といった天変地異の被害に対する復興支出の増大から幕府の財政赤字が拡大し、貨幣改鋳による通貨膨張を連発してインフレを招いてしまったのである。
荻原は幕府の信用があれば、通貨は瓦礫でもよいと言ったそうだ。つまり、それまでに発行された慶長金銀貨の金銀の含有量を落として貨幣を改鋳すれば、幕府は莫大な通貨発行益を得られる。
同時に、緩やかなインフレが起こって、通貨の実質購買力の低下を知った商人達が、将軍綱吉とその母桂昌院の寺院建造のための建設投資増大の結果蓄積した金銀貨の退蔵を止め、その分を投資に回すはずだと荻原は見越したのだろう。まさに、現代のアベノミクスと同じ論理である。
ところが、元禄、宝永と大地震が連続して起き、加えて宝永4(1707)年には富士山が歴史上最後の大噴火を起こした。さらに大火で内裏まで焼失したため、幕府の財政支出は急増して、財政赤字が手の付けられないところまで悪化した。
荻原は、長崎貿易拡大による運上金徴収額増大や大名に対する課税など、平成の消費税増税と似たような財政再建策を講じたが焼け石に水で、結局、新井白石に糾弾された荻原は、幕府財政悪化の責任を全部負わされて退任させられた。黒田日銀総裁もそうならなければ良いのだが。
なんだか、元録・宝永時代の経済政策の右往左往は、自分には、平成の現代日本と同じ状態のように思われる。最近箱根の大涌谷で、山体が膨張して、水蒸気爆発を起こす危険が取りざたされている。箱根山は、伊豆半島が日本列島に衝突した時に富士山と共に形成されたと言われている。
とすれば、箱根山の天変地異は富士山噴火の予兆と言えるかもしれない。そうであるならば、ますます現代と元禄・宝永時代が似ているように思えてくる。というのは、戯言に過ぎないだろうか。
鎌倉の防衛ライン、入間川と多摩川に関する考察
鎌倉幕府の開設から享徳の乱による鎌倉公方の古河への移転まで、関東の首都は鎌倉であった。鎌倉自体が東西北を丘陵に囲まれ、南は海岸線である要害の地であり、鎌倉城とも呼ばれた。
しかし、元弘の乱における新田義貞の鎌倉攻め(1333年5月)の事例で明らかな通り、鎌倉に籠って長期間防衛することは事実上困難なので、実際には敵が接近するまでの間に討伐部隊を北方に派遣して防衛する作戦が常に採られている。
当時最重要の幹線ルートは、信州から碓氷峠を越えて上野国に入り、利根川と荒川を渡河して笛吹峠を越えた後は武蔵野を一路南下して府中を通過し、分倍河原あたりで多摩川を渡河し、関戸から小野路か小山田(町田市)を経て七国山を越え、瀬谷から村岡を通って鎌倉に至るいわゆる鎌倉街道上道であった。七国山の南、井出の沢(本町田、菅原神社の周辺)から恩田川沿いに長津田、二俣川、大船を経て鎌倉街道中道に出ることもできる。
このルートは、上野国内で新田荘の世良田を経て下野国に入り、足利荘から小山に至る重要な支線を持っており、小山からは宇都宮に向かう奥大道(鎌倉街道中道)に接続していた。この支線を通れば、利根川上流を必ずしも船を使わずに軍勢を渡河させることができるので、軍事上非常に重要なルートであった。
さて、新田義貞や北条時行(中先代の乱)、北畠顕家、宗良親王と新田義宗ら(武蔵野合戦)の鎌倉侵攻ルートは全て上道本線ルートを使っているが、鎌倉から派遣された防衛部隊は、まず府中に集結して久米川と入間川の間の入間郡小手指原か、あるいは入間川を越えた北の女影原か笛吹峠南方の苦林野辺りに進出して防戦している。
しかし、入間川を北に越えての防衛作戦は、防衛部隊側が敵方の兵力を圧倒していない限り、大抵の場合失敗している。成功したのは1352年武蔵野合戦の際の足利尊氏と、攻勢を仕掛けたのが鎌倉側という点でやや事例が異なるが、芳賀入道禅可が足利基氏軍に敗れた1362年苦林野の戦いくらいだろう。1335年中先代の乱の時の女影原の戦いのように、劣勢にもかかわらず入間川の北に進出して戦うと、渋川義季と岩松経家が自刃したように、派遣された大将まで討死にすることもあった。
鎌倉防衛側の常道は、やはり入間川を前に当てた第一線防御ラインと、武蔵府中防衛のための第二線防御ラインを分倍河原、関戸のそれぞれに構築する二段構えの作戦だろう。この2つの防衛線を突破されると、鎌倉は陥落してしまう結果となったようだ。
関東で戦乱の収まらなかった初期の鎌倉公方基氏が入間川陣所に長期滞在したり、その後の歴代公方が、府中の高安寺を戦略拠点としていた事実からも、こうした二段構えの鎌倉防衛戦略が重視されていたことが推察されるのではないだろうか。
しかし、元弘の乱における新田義貞の鎌倉攻め(1333年5月)の事例で明らかな通り、鎌倉に籠って長期間防衛することは事実上困難なので、実際には敵が接近するまでの間に討伐部隊を北方に派遣して防衛する作戦が常に採られている。
当時最重要の幹線ルートは、信州から碓氷峠を越えて上野国に入り、利根川と荒川を渡河して笛吹峠を越えた後は武蔵野を一路南下して府中を通過し、分倍河原あたりで多摩川を渡河し、関戸から小野路か小山田(町田市)を経て七国山を越え、瀬谷から村岡を通って鎌倉に至るいわゆる鎌倉街道上道であった。七国山の南、井出の沢(本町田、菅原神社の周辺)から恩田川沿いに長津田、二俣川、大船を経て鎌倉街道中道に出ることもできる。
このルートは、上野国内で新田荘の世良田を経て下野国に入り、足利荘から小山に至る重要な支線を持っており、小山からは宇都宮に向かう奥大道(鎌倉街道中道)に接続していた。この支線を通れば、利根川上流を必ずしも船を使わずに軍勢を渡河させることができるので、軍事上非常に重要なルートであった。
さて、新田義貞や北条時行(中先代の乱)、北畠顕家、宗良親王と新田義宗ら(武蔵野合戦)の鎌倉侵攻ルートは全て上道本線ルートを使っているが、鎌倉から派遣された防衛部隊は、まず府中に集結して久米川と入間川の間の入間郡小手指原か、あるいは入間川を越えた北の女影原か笛吹峠南方の苦林野辺りに進出して防戦している。
しかし、入間川を北に越えての防衛作戦は、防衛部隊側が敵方の兵力を圧倒していない限り、大抵の場合失敗している。成功したのは1352年武蔵野合戦の際の足利尊氏と、攻勢を仕掛けたのが鎌倉側という点でやや事例が異なるが、芳賀入道禅可が足利基氏軍に敗れた1362年苦林野の戦いくらいだろう。1335年中先代の乱の時の女影原の戦いのように、劣勢にもかかわらず入間川の北に進出して戦うと、渋川義季と岩松経家が自刃したように、派遣された大将まで討死にすることもあった。
鎌倉防衛側の常道は、やはり入間川を前に当てた第一線防御ラインと、武蔵府中防衛のための第二線防御ラインを分倍河原、関戸のそれぞれに構築する二段構えの作戦だろう。この2つの防衛線を突破されると、鎌倉は陥落してしまう結果となったようだ。
関東で戦乱の収まらなかった初期の鎌倉公方基氏が入間川陣所に長期滞在したり、その後の歴代公方が、府中の高安寺を戦略拠点としていた事実からも、こうした二段構えの鎌倉防衛戦略が重視されていたことが推察されるのではないだろうか。
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