鎌倉幕府の開設から享徳の乱による鎌倉公方の古河への移転まで、関東の首都は鎌倉であった。鎌倉自体が東西北を丘陵に囲まれ、南は海岸線である要害の地であり、鎌倉城とも呼ばれた。
しかし、元弘の乱における新田義貞の鎌倉攻め(1333年5月)の事例で明らかな通り、鎌倉に籠って長期間防衛することは事実上困難なので、実際には敵が接近するまでの間に討伐部隊を北方に派遣して防衛する作戦が常に採られている。
当時最重要の幹線ルートは、信州から碓氷峠を越えて上野国に入り、利根川と荒川を渡河して笛吹峠を越えた後は武蔵野を一路南下して府中を通過し、分倍河原あたりで多摩川を渡河し、関戸から小野路か小山田(町田市)を経て七国山を越え、瀬谷から村岡を通って鎌倉に至るいわゆる鎌倉街道上道であった。七国山の南、井出の沢(本町田、菅原神社の周辺)から恩田川沿いに長津田、二俣川、大船を経て鎌倉街道中道に出ることもできる。
このルートは、上野国内で新田荘の世良田を経て下野国に入り、足利荘から小山に至る重要な支線を持っており、小山からは宇都宮に向かう奥大道(鎌倉街道中道)に接続していた。この支線を通れば、利根川上流を必ずしも船を使わずに軍勢を渡河させることができるので、軍事上非常に重要なルートであった。
さて、新田義貞や北条時行(中先代の乱)、北畠顕家、宗良親王と新田義宗ら(武蔵野合戦)の鎌倉侵攻ルートは全て上道本線ルートを使っているが、鎌倉から派遣された防衛部隊は、まず府中に集結して久米川と入間川の間の入間郡小手指原か、あるいは入間川を越えた北の女影原か笛吹峠南方の苦林野辺りに進出して防戦している。
しかし、入間川を北に越えての防衛作戦は、防衛部隊側が敵方の兵力を圧倒していない限り、大抵の場合失敗している。成功したのは1352年武蔵野合戦の際の足利尊氏と、攻勢を仕掛けたのが鎌倉側という点でやや事例が異なるが、芳賀入道禅可が足利基氏軍に敗れた1362年苦林野の戦いくらいだろう。1335年中先代の乱の時の女影原の戦いのように、劣勢にもかかわらず入間川の北に進出して戦うと、渋川義季と岩松経家が自刃したように、派遣された大将まで討死にすることもあった。
鎌倉防衛側の常道は、やはり入間川を前に当てた第一線防御ラインと、武蔵府中防衛のための第二線防御ラインを分倍河原、関戸のそれぞれに構築する二段構えの作戦だろう。この2つの防衛線を突破されると、鎌倉は陥落してしまう結果となったようだ。
関東で戦乱の収まらなかった初期の鎌倉公方基氏が入間川陣所に長期滞在したり、その後の歴代公方が、府中の高安寺を戦略拠点としていた事実からも、こうした二段構えの鎌倉防衛戦略が重視されていたことが推察されるのではないだろうか。
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