1335年8月に最後の得宗北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱を、勅命を待たずに無断で鎮圧した足利尊氏は、後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、後醍醐天皇の建武政権に対抗して関東の独立化を図った。
そのため、11月に尊良親王を奉じる新田義貞が天皇から尊氏追討の命令を受け、軍勢を率いて京を出発し、関東に下向することになった。ところが、尊氏は朝敵となるのを恐れて浄光明寺に引き籠ってしまった。
この優柔不断な尊氏に代って、家臣の高師泰と弟直義がそれぞれ率いる軍勢が新田勢を迎え撃つため鎌倉を進発したが、師泰勢は三河の矢作川で、直義勢は12月5日駿河手越河原で、共にあえなく新田勢に敗退してしまった。
『梅松論』によると、退却した直義は箱根峠の水吞を掘り切って要害を構え、再度新田勢の迎撃を図ったとされる。この水吞という場所は、後世に後北条氏が山中城を築いた付近かもしれない。東海道を取り込む関所が置かれた要害の地である。
この期に及んで尊氏は、「守殿(直義)が命を落としたら、自分が生きていても仕方がない」と言って、鎌倉に留めておいた小山、結城、長沼一族の軍勢を率いて12月8日、直義救援のためにようやく鎌倉を出発したのである。
ここまでの尊氏は、建武政権の恩賞に不満を抱く多数の武士達の声望を担った大将軍としては、はなはだ頼りなさげな雰囲気を醸し出していたが、いざ出陣後に彼が見せた軍事行動の的確さは、大いに感心させられるものだ。
つまり、普通であれば、直義が立て籠もる箱根方面に軍を進めるはずであるが、彼は水吞の要害で守勢に回ることを避け、新手の軍勢を北方の足柄峠に進めたのである。
当時、新田勢は伊豆の国府のある三島に軍を集結させて留まっており、足柄峠方面には尊良親王と義貞弟の脇屋義助が率いる軍勢が向かったが、12月10日に尊氏軍が足柄峠に陣取りした時点では、麓の竹之下周辺に展開していた模様である。この新田勢の緩慢な進撃は、敗北の根本原因であって、大失策と言えるだろう。
なぜ、尊氏軍が、足柄峠を占拠することを、新田サイドは事前に想定できなかったのだろうか。もし新田勢がこの時点で足柄峠を突破していれば、足利側の後方拠点である鎌倉の陥落はほぼ確実だっただろうに。
この辺の戦術眼と作戦遂行能力の優秀さが、尊氏が数多のライバルを蹴落として、南北朝内乱の最終勝利者となり得た将器の持ち主であった証拠であると言えるだろう。
事実、坂を駆け下りた足利勢に攻め込まれた新田勢は11日には藍沢原(鮎沢川原のことか)で敗れ、12日には南下して佐野山(裾野市佐野辺りか)に立て籠ったが大友貞載らの裏切りにあって再度敗北し、この日の合戦では、親王に供奉していた二条左中将為冬(歌道で有名な藤原定家の子孫)が討たれてしまった。
尊氏軍は国府を見下ろす山野に陣を敷き、12月13日に夜通しの雨の中を早朝から国府に攻め込み、水吞から退却してきた新田義貞勢も破って、箱根から進撃してきた直義勢と合流することに成功して、新田勢を駿河に追い落とし浮島原に進出したのであった。
14日の足利勢の軍議の結果、ここで新田勢追い討ちを中断して鎌倉に帰還するか、それとも東海道を京まで攻め上って一気に建武政権を打倒するかの戦略が審議されたが、鎌倉に帰還して関東を固める案が却下されて京への上洛が決定された。
この時の尊氏側の判断は、その昔、甲斐源氏が平維盛率いる平家の追討軍を富士川の合戦で撃破した後に、富士川東岸まで進出した源頼朝勢がそのまま上洛することを断念して鎌倉に帰還し、佐竹氏攻撃に転身して関東を掌握することに専念した際の判断と正反対であって、非常に興味深い。
恐らく頼朝の上洛断念は、彼の鎌倉入りに最大の貢献をした、上総、千葉両氏の佐竹攻撃の意向に逆らえなかったためだろう。奥州藤原氏が平家の意向に同調せず、関東に攻め込む気配がなかったことも頼朝の判断を大きく左右したと思われる。
これに対して、足利尊氏の場合、奥州から北畠顕家の軍勢の脅威が迫っており、鎌倉に反転してそれと対決するよりも、むしろ政権中枢部を打倒する方が戦略的に有利であると判断して、京への上洛作戦を選んだのであろう。
結果的に、この時の判断が、京で手痛い敗北を喫して九州に落ちのびる羽目に尊氏らを陥らせたわけであるが、その後間もなく建武政権を打倒して足利氏の幕府を京に開くことが事実上定まったという、歴史的な重要性を帯びていることもまた事実だろう。
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