2015年12月11日金曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加その2)

真田丸の戦いを考える上で従来納得できなかった点の1つは、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山の位置についてであった。これに関して平山優氏の著書『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』では、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、当時小橋村を中心に布陣していた前田勢の前面に存在しており真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して大坂方が防御柵を敷設していた、「伯母瀬(の柵)山」が恐らく該当するのではないかという考察がなされている。

実はもう1つ、真田丸の戦いを考える上で筆者の腑に落ちなかった点がある。それは、真田丸に立て籠もって124日の徳川勢の攻勢を撃退した真田左衛門佐信繁が率いた軍勢の構成についてである。通説によると、信繁は関ヶ原の戦い時点まで大名身分を持っておらず、したがって、沼田城主であった兄伊豆守信之(関ヶ原の合戦前は信幸)と違って独自の所領と家臣を持たない、言わば父安房守昌幸の部屋住の次男坊であったと考えられてきた。

 ところが、平山氏の著書第二章9497頁の考察によると、天正182月の小田原出兵時に際しての真田家に対する豊臣秀吉の軍役賦課基準(百石につき5人役で合計3千人)から計算すると、仮に昌幸の知行した信州小県郡上田領38千石と信之の知行した上州吾妻郡8千石の合計46千石では23百人の軍勢動員数にしかならず、実際の真田家の動員兵力から7百人も足りないことになってしまうという。そして、その不足分に該当する知行高14千石こそ、信繁の知行分に該当するのではないかというのである。

 確かに、信繁の官途名である左衛門佐は兄信之の受領名である伊豆守と同じく単なる僭称ではなく、秀吉の推挙によって文禄31594)年112日付で朝廷から叙爵(従五位下叙位)と同時に任官された正式の官位であって、これは兄信之の叙爵・伊豆守任官と同日のことであり、同時に信繁は秀吉から伏見城下に屋敷を拝領して豊臣姓を下賜されている。

 つまり、真田兄弟は当時全く身分的に同格であったのであり、これは兄信幸が徳川四天王の本多中務大輔忠勝の女婿であったのに対して、弟信繁が豊臣家奉行の大谷刑部少輔吉継の女婿であったことを考えても頷けるだろう。とするならば、信繁も兄と同様に1万石以上の大名身分であったことが容易に想像できる。

 もし信繁が関ヶ原の戦い以前に大名身分であったとしたならば、父昌幸とともに改易されて紀州高野山に配流されるまでは恐らく昌幸の家臣団とは別に数百人規模の直臣たちを抱えていたはずであるから、大坂入城に当たって信州から旧臣たちを呼び寄せたことは間違いないだろう。彼らが真田丸に籠城した真田勢の中核部分を成したと考えたならば、俗に言われるような真田丸5千人の将兵が諸国牢人寄せ集めの烏合の衆であったという認識は改めなければならず、それ相応の精鋭部隊であったとも考えられるだろう。

 逆に言えば、真田丸に相対した徳川方の加賀・前田利常(利家四男)と彦根・井伊直孝(直政次男)、越前・松平忠直(秀康長男)はいずれも大坂冬の陣が初陣で実戦経験皆無であったから、勇将であった彼らの父たちの様な采配を戦場で振るうことは端から期待できなかっただろう。その意味では信繁を含む大坂方の方が大将分の能力という点では遥かに優位にあったと思われる。これが真田丸の戦いで、徳川勢が脆くも敗退した最大要因であったのではないだろうか。

 実際に残された記録によれば、合戦当日早朝の篠山奪取後に大将利常の下知も無いまま、小姓や馬廻達の抜け駆けでなし崩し的に前田勢の真田丸攻撃が開始され、それに釣られた隣の井伊勢と越前勢が鉄砲除けの竹束も用意せずに競って惣構と真田丸の空堀に侵入して柵を撤去し始めたため、敵の接近に気付いた大坂方による午後3時頃まで続いた激しい銃撃に曝された結果、各軍勢とも数百人以上の名のある武士達と多くの雑兵らの死傷者を出す大損害を被ったようだ。

 徳川勢第二の敗因は、大坂城惣構から東南部湿地帯に突出した真田丸の、巧妙な横矢掛り可能な配置にあるのであろう。言うまでもなく、右利きの多い将兵たちは右頬に鉄砲を当て、また右腋に槍を抱えて攻城戦に向かうことになる。その場合、たとえ仕寄せを完成して十分な竹束を前面に押し立てて惣構の城柵に接近したとしても、徳川勢攻撃部隊の右前方に位置していた真田丸からの銃撃には、極めて脆弱な側面を曝してしまう危険が大きかっただろう。

 しかも、124日の真田丸の戦い当日時点では、記録によると肝心の仕寄せ(塹壕)の構築は未だ完成しておらず、そもそも高台にあった真田丸前面は前述のとおり「一騎打之通」(平山、195頁)しかない湿地帯が広がっていたため仕寄せの構築が困難であった。

 その上、一部前田勢の抜け駆けに触発された実戦経験皆無の大将達に率いられた大軍が、十分な竹束の防弾楯も用意せずに、一斉に殺到して空堀に落ち込んだのであるから、大坂方の激しい銃撃に対して為すすべもなく大損害を被ってしまったことは当然であっただろう。

 仮に野戦であれば、古代ギリシャやマケドニア時代の重装歩兵のファランクス(密集方陣)の様な隊形をとり、右翼に精鋭部隊を配置して敵と交戦する戦術も出来ただろうが、平地の少ない日本では歩兵部隊の完全な密集隊形が衝突する会戦はついに出現しなかったし、いわゆる「左上右下」の配置が古来の伝統であったためか、筆者の管見の限りでは、野戦においても攻撃側が最精鋭部隊(先鋒)を左翼に置くのが日本の主たる戦術であったように思われる。

 例えば、桶狭間の戦い(今川勢左翼は松平元康)、姉川の戦い(織田・徳川勢左翼は徳川家康)、長篠の戦い(武田勢左翼は山縣昌景)、長久手の戦い(徳川勢左翼は井伊直政)、そして関ヶ原の戦い(東軍左翼は福島正則)など、左翼重視の陣形が非常に多いように感じる。

 その理由は、防御力を重視して右翼に精鋭部隊を置いた西洋式戦術とは逆に、日本ではむしろ攻撃重視で左翼に精鋭を配置し、将兵が右側面に武器を保持する結果、右前方からの攻撃に脆弱な敵の右翼を粉砕・突破する戦術が武将たちに好まれたためではないだろうか。

 同様の発想で、右翼に精鋭部隊を配置する防御的な西洋伝統の戦術を逆手にとって左翼に打撃力を集中して大勝利を導いたのが、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いだろう。この戦いでは、テーバイの名将エパメイノンダスが、ボイオティア同盟軍を率いて左翼に重装歩兵の戦力を集中する斜線陣を敷き、伝統戦術に固執して右翼にラケダイモン(スパルタ)の精鋭部隊を配置して交戦したペロポネソス同盟軍を撃破した。

 西洋古代のファランクス戦術では、右手に長槍を保持した右隣の兵士が左手で持つ楯が左隣の兵士の右側面を防護する役割を担っていたため、戦列の最右翼に位置する兵士は自分の右側がほとんど防御されていないため、最も勇敢な者でなければ勤まらないと考えられていた。

だが、それでも敵の右前方からの攻撃を恐れるあまり、右側に戦列を伸ばそうと右へ向かう圧力が陣形全体に強まってしまうために、相対した両軍とも右翼の戦列が右側にどんどん伸びてしまった欠点があったと言われている。

 慶長19124日の真田丸の戦い当日も、前田勢の左側に位置していた井伊勢と越前松平勢の将兵たちは、恐らく真田丸が位置していた右側面からの銃撃を恐れるあまり、古代ギリシャのファランクスが互いに右翼側に伸びてしまう欠点を持っていたのと同様の理由によって、右翼の真田丸側に戦線を必要以上に延ばしてしまったのではないだろうか。

 その結果、合戦当日に真田丸正面からの攻撃を担当した加賀前田勢の戦列に井伊勢や越前松平勢が不用意に入り込んでしまったことが、徳川勢全体の戦線を一層混乱させることに結び付いたために、想定外の大損害を徳川方にもたらしたのではないかと筆者は考える。

2015年12月9日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加)

 今年722日の投稿で、筆者は城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学学長による真田丸に関する最近の学説(惣構外の要害に出張った死地布陣説)を紹介した。ところが1025日に、来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する山梨県立中央高校教諭の平山優氏によって、角川選書から『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』という本が刊行された。

同書の第五章と第六章は、真田丸に関してその実像と大坂冬の陣における慶長19124日の戦いについて非常に詳細な考察が加えられており、戦史マニアである筆者にとっても大いに参考になった。そこで、今日は平山氏の学説について筆者の感想を述べてみたい。

 まず、平山氏が真田丸考察に際して依拠する資料は主として3種類あり、まず1つは千田氏と同じ『浅野文庫諸国古城之図』の「摂津真田丸」である。第2は江戸時代から大正2年にかけて描かれた真田丸跡周辺の絵図面であり、そして第3は、これが氏の独特なのであるが、(文献)資料として永青文庫蔵「大阪真田丸加賀衆挿ル様子」(以下、「加賀衆」と略す)が専ら依拠されている。そして、この第3の「加賀衆」に関する平山氏の考察が、筆者には大変興味深いものであった。

 まず、真田丸が置かれた位置であるが、筆者と同様に平山氏も現在大坂明星学園の敷地がある上町台地東部の丘陵地であったと結論付けている。特に興味深かったのが、この出丸周辺エリアが上町台地に接続する西部を除いて東部と南部が一面の湿地帯で、寄手であった徳川勢による接近目的の塹壕(仕寄せ)構築が困難であったことである。

 そして、真田丸背後の惣構堀は、八丁目口辺りまで東側から台地に入り組んだ清水谷の自然地形を利用して堰き止めた水掘りであったらしく、真田丸南部にも味原池がある他、出丸南部の空堀の一部にも湧水を利用した池(すなわち水堀)があって、真田丸本体(現在の明星学園敷地)とその東部に連結していた宰相山に続く丘陵地を分断する一種の堀切の役割を果たしていたという点である。

 しかも、真田丸は堀の外部を取り囲むように宰相山を含む丘陵地を取り込んで三重の柵(土塁に面する堀際と堀の底、そして堀の外部)が構築されていたようであり、例えば加賀前田利常の軍勢が布陣していた小橋村付近からは相当高台に位置していたようなのである。しかも、小橋村付近は前述のように一面の湿地帯であったというから、これでは徳川方の真田丸攻撃は著しく困難を極めたことであろう。

 平山氏によると出丸の規模についても、南北220m×東西140m説と、堀幅を除いて南北270m余×東西280m説が対立しているとのことであるが、前者の説は空堀と南部の池に囲繞された丸馬出型の真田丸本体(つまり、昔の真田山が在った今の明星学園敷地)だけを示したものであり、これに対して後者の説は、出丸本体東部に隣接した宰相山や西部の八丁目口方面に続く丘陵地を取り込んだ五角形のエリア全体を出丸の縄張りと見なしたものであると考えれば、説明に整合性があって納得できるであろう。

 なお、池を含む真田丸南側の堀は、現在の高津高校北側の段差が恐らくそれに相当する模様なのである。

 また、当時の真田丸の戦いを考える上で従来どうもすっきり納得できなかったのが、真田勢が前田勢の陣地構築を銃撃で妨害したため、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山が一体どこにあったのかという点であるが、これについても平山氏の考察は非常に興味深かった。

つまり、合戦当時の篠山は味原池南にあった笹山のことではなく、真田山と宰相山を含む惣構東南部に位置していた平野口南部の丘陵地全体を呼称したものでないかというのである。そして、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、この真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して小橋村に布陣していた前田勢の前面に存在していて大坂方が柵を敷設していた「伯母瀬(の柵)山」が恐らくそれに該当するのではないかというのである。

 確かに平山氏のこの考え方によれば、従来の笹山が真田丸から出張るには味原池を挟んでいたため出丸からの援護が困難であったことの不審な点を説得力を持って克服することが出来るし、何しろ小橋村付近の前田勢の陣地前面に篠山が位置していたことに他ならないことになるから、出丸から出張した真田勢がサボタージュ(妨害工作)の銃撃を行うには格好の地点であっただろう。筆者はこの考察に賛同する。

 なお、平山氏によると、真田出丸は堀で囲まれた本体内部の北端に、本体と幅八間(約1.8m×8=14.4m)の堀で仕切られた小曲輪があったという点では千田氏が依拠した「摂津真田丸」の考察を受け継いでいるから、氏によると真田丸は小曲輪-出丸本体-丘陵全体を柵で囲む外郭部の極めて堅固な三重構造になっていたことになる。

 そして、真田出丸に構築された矢倉下と前田勢の陣地との歩測による距離の計測結果が180歩であったとされ、旧日本陸軍の10.75mで積算すると両者の間に大体約135mの離隔があったと想定される点(同書、217頁)も筆者には大変面白い考察であった。


 確かに、当時の火縄銃(マスケット)の有効射程距離を考慮すれば、前田勢はこの程度真田丸から離れて布陣せざるを得なかったと考えられるからである。