2015年12月9日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加)

 今年722日の投稿で、筆者は城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学学長による真田丸に関する最近の学説(惣構外の要害に出張った死地布陣説)を紹介した。ところが1025日に、来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する山梨県立中央高校教諭の平山優氏によって、角川選書から『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』という本が刊行された。

同書の第五章と第六章は、真田丸に関してその実像と大坂冬の陣における慶長19124日の戦いについて非常に詳細な考察が加えられており、戦史マニアである筆者にとっても大いに参考になった。そこで、今日は平山氏の学説について筆者の感想を述べてみたい。

 まず、平山氏が真田丸考察に際して依拠する資料は主として3種類あり、まず1つは千田氏と同じ『浅野文庫諸国古城之図』の「摂津真田丸」である。第2は江戸時代から大正2年にかけて描かれた真田丸跡周辺の絵図面であり、そして第3は、これが氏の独特なのであるが、(文献)資料として永青文庫蔵「大阪真田丸加賀衆挿ル様子」(以下、「加賀衆」と略す)が専ら依拠されている。そして、この第3の「加賀衆」に関する平山氏の考察が、筆者には大変興味深いものであった。

 まず、真田丸が置かれた位置であるが、筆者と同様に平山氏も現在大坂明星学園の敷地がある上町台地東部の丘陵地であったと結論付けている。特に興味深かったのが、この出丸周辺エリアが上町台地に接続する西部を除いて東部と南部が一面の湿地帯で、寄手であった徳川勢による接近目的の塹壕(仕寄せ)構築が困難であったことである。

 そして、真田丸背後の惣構堀は、八丁目口辺りまで東側から台地に入り組んだ清水谷の自然地形を利用して堰き止めた水掘りであったらしく、真田丸南部にも味原池がある他、出丸南部の空堀の一部にも湧水を利用した池(すなわち水堀)があって、真田丸本体(現在の明星学園敷地)とその東部に連結していた宰相山に続く丘陵地を分断する一種の堀切の役割を果たしていたという点である。

 しかも、真田丸は堀の外部を取り囲むように宰相山を含む丘陵地を取り込んで三重の柵(土塁に面する堀際と堀の底、そして堀の外部)が構築されていたようであり、例えば加賀前田利常の軍勢が布陣していた小橋村付近からは相当高台に位置していたようなのである。しかも、小橋村付近は前述のように一面の湿地帯であったというから、これでは徳川方の真田丸攻撃は著しく困難を極めたことであろう。

 平山氏によると出丸の規模についても、南北220m×東西140m説と、堀幅を除いて南北270m余×東西280m説が対立しているとのことであるが、前者の説は空堀と南部の池に囲繞された丸馬出型の真田丸本体(つまり、昔の真田山が在った今の明星学園敷地)だけを示したものであり、これに対して後者の説は、出丸本体東部に隣接した宰相山や西部の八丁目口方面に続く丘陵地を取り込んだ五角形のエリア全体を出丸の縄張りと見なしたものであると考えれば、説明に整合性があって納得できるであろう。

 なお、池を含む真田丸南側の堀は、現在の高津高校北側の段差が恐らくそれに相当する模様なのである。

 また、当時の真田丸の戦いを考える上で従来どうもすっきり納得できなかったのが、真田勢が前田勢の陣地構築を銃撃で妨害したため、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山が一体どこにあったのかという点であるが、これについても平山氏の考察は非常に興味深かった。

つまり、合戦当時の篠山は味原池南にあった笹山のことではなく、真田山と宰相山を含む惣構東南部に位置していた平野口南部の丘陵地全体を呼称したものでないかというのである。そして、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、この真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して小橋村に布陣していた前田勢の前面に存在していて大坂方が柵を敷設していた「伯母瀬(の柵)山」が恐らくそれに該当するのではないかというのである。

 確かに平山氏のこの考え方によれば、従来の笹山が真田丸から出張るには味原池を挟んでいたため出丸からの援護が困難であったことの不審な点を説得力を持って克服することが出来るし、何しろ小橋村付近の前田勢の陣地前面に篠山が位置していたことに他ならないことになるから、出丸から出張した真田勢がサボタージュ(妨害工作)の銃撃を行うには格好の地点であっただろう。筆者はこの考察に賛同する。

 なお、平山氏によると、真田出丸は堀で囲まれた本体内部の北端に、本体と幅八間(約1.8m×8=14.4m)の堀で仕切られた小曲輪があったという点では千田氏が依拠した「摂津真田丸」の考察を受け継いでいるから、氏によると真田丸は小曲輪-出丸本体-丘陵全体を柵で囲む外郭部の極めて堅固な三重構造になっていたことになる。

 そして、真田出丸に構築された矢倉下と前田勢の陣地との歩測による距離の計測結果が180歩であったとされ、旧日本陸軍の10.75mで積算すると両者の間に大体約135mの離隔があったと想定される点(同書、217頁)も筆者には大変面白い考察であった。


 確かに、当時の火縄銃(マスケット)の有効射程距離を考慮すれば、前田勢はこの程度真田丸から離れて布陣せざるを得なかったと考えられるからである。

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