さて、昨日筆者が投稿した『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での日本の集団的自衛権行使に関する柳澤協二氏の論説への反論について、筆者の見解を今日は述べてみよう。
再度柳澤氏の論点を要約すると、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」努力は日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こし、東アジア地域の緊張を激化させかねない。また、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。よって、我が国周辺における紛争への対処は従来通りの個別的自衛権を行使することだけで十分足りるし、むしろ現状では、アメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていると見るべきだという主張である。
なお、日米安全保障条約(1960年)第5条では、日本の施政下にある領域での日米両国の共同防衛義務だけが規定されているだけだから、確かにNATOと異なり防御同盟として日米同盟が非対称であることは間違いない。だが、次の第6条では米軍の日本国内での駐留権と地位協定に基づく法的地位(特権)の付与が日本側に義務付けられていることから、日米同盟は決して片務的な同盟関係ではない。
したがって、我が国が将来集団的自衛権を限定行使することによって日米同盟を「対称化」させることは可能であるが、同盟を「双務化」するという言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない。そのため筆者はこの言葉を用いないのである。
ここで、重要な論点は、まず第1に「安全保障のジレンマ」の定義を再確認することである。代表的なロバート・ジャービスの定義などによると、「安全保障のジレンマ」とは軍備増強や同盟形成等による自国の安全保障強化措置が、相互不信や先制攻撃の恐怖の連鎖反応を招くことによって、かえって他国の安全を減少させる状況を意味している。
このジレンマを引き起こす原因は、相手国の意図に対する相互不信と恐怖の連鎖とスパイラルである。そして、かかる相互不信は国際システムが無政府状態で合意の履行強制が個々の国家のコミットメント(約束の履行)問題に帰着することから生じ、また、恐怖は自助システムによる安全保障上の自己責任から生じるのである。
ところが、このジレンマは本来防御的意図しか有しない現状維持国間で生じることから不本意な軍拡競争による緊張激化を引き起こす「ジレンマ」と言えるのであって、相手が現状維持国側に対する力の変遷を望んで均衡化を図ってくる挑戦国である場合には、現状維持国側がむしろ力の不均衡を増大させる能力増強競争を行って、挑戦国の勝算の期待値を引き下げることが戦争を引き起こさないための妥当な政策になるのである。
そして、筆者の考えでは、現在の中国は東アジアにおける日米同盟に対する挑戦国と見なすのが妥当であるから、柳澤氏の主張するような「安全保障のジレンマ」は本来起こり得ないはずである。その場合に考慮されなければならないのは、あくまでも現状維持国側の能力増強による抑止の効果についてであって、日米サイドが能力増強を控えれば、却って中国の現状変更行動(既存秩序を支えているゲームのルールの変更)を認めるという、誤ったシグナルを相手に送ってしまう危険な安保政策となりかねないだろう。
さらに最近の実証研究から言えば、安全保障のジレンマによって戦争が引き起こされるという因果関係には懐疑的な見方が有力で、当該ジレンマは単に双方の協力関係を阻害するに過ぎず、軍拡競争や戦争の原因とはならないとするモデルも提唱されている。仮にジレンマによって緊張が激化したとしても、信頼醸成措置(CBMs)などの安心供与を相手国に与える措置を講じれば十分で、これは同盟の能力及びコミットメントの強化による抑止力の向上とは全く別の論点なのである。
実際、日米対中国の間で安全保障のジレンマが生じていることを仮に認めたとしても、日中海空連絡メカニズムの構築等のCBM合意は徐々に進展しているのだから、柳澤氏の主張するような日米中間の緊張が必ずしも激化しているわけではないだろう。
第2の論点は、「同盟のジレンマ」についてである。確かに柳澤氏の言うとおり、日本の様なジュニア・パートナーが集団的自衛権を行使してアメリカの軍事介入に協力するようになれば、理論上は「巻き込まれる恐怖」を避けながら、同盟強化によるアメリカのコミットメントの確実な履行を探って「見捨てられる恐怖」を払拭していく難しい安保政策の舵取りを今後強いられるようになるかもしれない。
だが、同盟関係の維持管理とは、本来パートナー国のコミットメントの不確実性(不完備情報ゲームの性質)を和らげるためのバーゲニングが本質なのである。なぜなら、コミットメントの履行は決して自動的になされるものではなく、その信頼性はあくまでも有事の際の相手国の意思決定次第なのであり、また、同盟による抑止が成功するかどうかは、被抑止国側がコミットメントの信頼性についてどう認識するかにかかっているからである。
したがって、アメリカの日本に対する拡大抑止を間違いなく履行させるためには、かつてトーマス・シェリングが指摘したようにコミットメントを供与しない「逃げ道」を塞ぐような「仕掛け線」(tripwire)、すなわち、米軍を事前に最前線付近に配備しておくことが重要なのである。実は沖縄への米海兵隊配備には、有事の際にアメリカを地域紛争に「巻き込む」ことを強要する、そうした「仕掛け線」の意味合いがあると筆者は考える。
その点では、米海兵隊が沖縄に駐留している限り、一定の程度で日本の「見捨てられる恐怖」は弱められているのである。また、有事の際の緊急抑止に関して言えば、紛争の初期段階で戦場に到達できるような緊急展開能力の優勢を保つことが決定的に重要であるから、その意味でも沖縄に米海兵隊を配備しておくことによる「仕掛け線」の設置は、日本の安全保障にとって有意義であるだろう。柳澤氏以上に有名な安保問題の論客である孫崎享氏(元外務官僚)や森本敏氏(元防衛大臣)の言説は、このあたりの点に関して認識不足であると筆者は感じている。
さらに、平時の一般抑止において被抑止国に対する同盟コミットメントの信頼性を強化するためには、被抑止国の戦争費用を引き上げて攻撃のインセンティヴを逆に引き下げるような、有効な抑止シグナルを相手に伝達する必要がある。
その意味において、同盟国が介入意思と能力を持つことに疑問の余地が無い位に高いコストとリスクを平時から負担しておくことが、有事における実際の便益(介入の有無)を度外視しても、私的情報であるコミットメントのシグナリング効果を増大させるはずである。
筆者が思うに、安倍政権が容認した限定的な集団的自衛権行使の本当の意義は、実はこのような被抑止国に対するシグナリング効果を強化することにあるということなのだ。柳澤氏たち行使容認反対派は、こうした側面を正確に理解してはいないのではないだろうか。
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