毎年年末になると今年起きた国内外の出来事を纏め、いわゆる有識者たちが来年度を予想して論点を語るような(失礼ながら浅薄な)情勢整理本が書店に並ぶようになる。筆者も今日職場近くにある大型書店で、そうした本の1つである『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』をざっと眺めてみた。今日はその中の国際情勢と安全保障問題に関する論説について、筆者の感想を述べてみたい。
まず、筆者の良く知っている知人である池内恵氏と柳澤協二氏の論説が目に留まった。池内氏はイスラーム問題について有名な若手論客として活躍中だが、彼は昨年来のISの台頭でシリアとイラクが「新しい中世」状態に陥っており、よく言われるような中東では民主制ではなく独裁者でなければ統治できないという認識すらもはや成立せず、仮に独裁制に回帰したとしても現在の混沌から逃れることは出来ないだろうという認識を示していた。
この池内氏の分析は、なかなか鋭い内容を含んでいる。というのは、中東の現在の国家体制と安全保障環境を規定した英仏(露)のサイクス・ピコ協定の打破をISがスローガンにして、カリフ国の樹立を昨年6月のイラク北部モースルの陥落後に宣言したこと、その後ISが欧米諸国その他からなる有志連合(彼らの言う「十字軍」)の攻撃を一手に引き受けて迎え撃っているという宣伝を流布していることが、昨年来、国際安全保障上の大問題となっている現実の本質的な側面を、非常に上手く表現しているからである。
ただし、池内氏の述べた「新しい中世」という言葉は他人の受け売りだし、ISの活動による中東近代国家体制における国境線否定の現実が、必ずしもウェストファリア体制以前の中世欧州の様なローマ教皇と教会権力や神聖ローマ皇帝、国王や領主に対する忠誠と義務(換言すれば一定領域内での権威と権力)の錯綜関係への復帰を必ずしも意味してはいないのだから、ややオーバーに言い過ぎている嫌いはあるだろう。
筆者が問題というか、認識不足で大変頓珍漢な議論であると思ったのは、柳澤氏による日本の集団的自衛権行使に反論する論説文の方である。断っておくが、筆者は2001年の9・11事件の頃から彼とは知人であり、その言説についても十分把握していると思うのだが、最近の彼は昨今の国際安全保障問題の本質を正確に理解しないまま、もっぱら安全保障担当の内閣官房副長官補まで務めた防衛官僚としての経験論に基づく、(筆者に言わせれば浅い)議論を繰り返しているように感じてならない。
あくまでも『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での柳澤氏の論説から感じたことだけなのだが、要するに彼は、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」(「双務化」という言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない)努力が日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こして東アジア地域の緊張を激化させかねないし、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。そして、いわばアメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていることだと主張しているのである(この認識はかなり疑問だ)。
これに対して安倍政権は「見捨てられる恐怖」を感じているから同盟の対称化を進めているのであって、柳澤氏の分析ではその本質は現行の国際秩序を維持しようとする意図の弱まったアメリカの対外介入に日本がどう協力するかという問題に過ぎないということらしい。したがって、集団的自衛権行使による日米同盟の対称化の結果、自衛隊は地球の裏側までアメリカの介入に協力させられる危険があるし、そもそも現状の日本周辺の紛争に対処するためには従来の個別的自衛権を行使することだけで十分なのだ、というのが防衛のプロであると自他ともに認める柳澤氏の現状認識なのである。
はっきり言って、この柳澤氏の言説は国際政治学の理論的に見ても実証的に見ても浅薄で不正確な理解に基づく、非常に頓珍漢な安全保障論である、と筆者は考える。
実はこの点について筆者の見解を述べたいのであるが、残念ながら今日は時間が足りない。そこで、当該問題に関する本論については明日の投稿で詳しく述べることにしたいと思う。
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