今朝のNHKニュース「おはよう日本」7時台の特集で、上記2つのテーマが取り上げられたが、その内容は大変興味深いものであった。
前者については、国立遺伝学研究所の研究者による数千人のDNA解析の結果、東アジア民族の遺伝分布をDNAの特徴を基にして各人ごとに座標に落とすと、アジア大陸の人と日本人が、それぞれ違う範囲に分布がまとまるそうである。
日本人の中では、特に沖縄とアイヌの人たちが大きな範囲を形成するとともに、縄文人の分布はアイヌ人のやや右上に位置すると予想されるとのことであった。
従来、沖縄やアイヌの人たちは縄文人の古い形質を残していると考えられてきたと思うが、今回の研究結果では必ずしもそうとは言えないのかもしれない。とすると、日本列島先住の縄文人と大陸から稲作文化とともに渡来した弥生系の人たちの混血だろうと考えられてきた、我々日本本土の大和人(沖縄方言で「ヤマトンチュ」)は一体どういうDNAを受け継いできたのだろうか。
それを考えさせてくれるのが、後者の特集で取り上げられた日本人男性のY染色体の解析結果である。Y染色体は父親から息子へ、男系だけに受け継がれる。徳島大学大学院の先生による調査結果では、世界の男性の染色体型20タイプのうち、日本人男性の半数はOタイプだが、それについでDというタイプが多いとのことである。
このDタイプの染色体の地域分布が大変興味深く、日本以外ではチベットとアンダマン諸島に多いと見られるそうだ。つまり、チベットの山奥や日本とアンダマン諸島のような島国では、大陸との人的交流が限定されていたため、高い頻度でDタイプ染色体が残ったと思われると佐藤准教授が話していた。
これはすなわち、我々のご先祖様である縄文人たちは、チベットやアンダマン諸島の人たちと同系統のDタイプの染色体を持っていたということだろうか。そうであるならば、縄文時代の日本先住民は、チベットあたりからアンダマン諸島などを経由して日本列島に渡来したということも想定できることになる。
最近の研究では、日本列島での弥生時代早期は従来推定されてきた年代よりも大分早く、紀元前900年代頃には開始されていたとも言われている
(明石茂生「気候変動と文明の崩壊」
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/169/akashi.pdf、59頁参照)。人類が狩猟採集生活を続けるには温暖な気候が不可欠だから、気候が変動して寒冷化すると農耕が始まるとともに、民族の大移動や従来の文明の破壊など、大規模な社会変動が起きるようである。
(明石茂生「気候変動と文明の崩壊」
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/169/akashi.pdf、59頁参照)。人類が狩猟採集生活を続けるには温暖な気候が不可欠だから、気候が変動して寒冷化すると農耕が始まるとともに、民族の大移動や従来の文明の破壊など、大規模な社会変動が起きるようである。
地球は約1万年前に完新世という安定的な気候温暖期に入ったものの、この温暖な完新世においても、概ね1500年±500年毎に発生する寒冷化現象によって度々中断されたそうである(同上、38-39頁)。
そして、1200/1300 B.C.頃と750B.C.頃にも、地球気候の寒冷期のピークがあったそうだ。そうなると、弥生農耕文化が朝鮮半島を経由して日本に入ってきた時期は、この寒冷期のピークとほぼ合致すると考えられる。
さらに東地中海に目を向けると、確かに紀元前1200年は「カタストロフ」(破局)と称されるほどの大変動期であった。この頃、ミケーネやヒッタイトといったそれまで隆盛を極めた古代王国が、いわゆる「海の民」などの民族移動による攻撃の結果滅亡したし、アナトリア半島やレバント(東地中海)、新王国時代のエジプト沿岸部の都市が「海の民」の侵入で略奪・破壊されている。
旧約聖書に出てくる「ペリシテ人」は、現在のパレスティナという地名の語源となった民族だが、彼らも「海の民」を構成していた侵入者の子孫たちだったと考えられている。ペリシテ人は、シリアの先住民であるアラム人やパレスティナの先住民であるイスラエル人の都市文明を、地中海から侵入して攻撃したのである。この大変動で、地中海世界は青銅器時代後期から鉄器時代初期に移行したと言われている(同上、58頁)。まさに時代の節目をなしたのが、寒冷期の気候変動による結果であったらしい。
そう考えると、日本列島での縄文の狩猟採集文化から弥生の農耕稲作文化への画期的な移行に関しても、紀元前900年から750年頃の寒冷期が、大きな影響を及ぼしたのかもしれない。同時にその頃、我々のご先祖様の縄文人たちと大陸渡来系弥生人たちとの混血が進んで、日本人(厳密に言うと大和人)の原型であるDNAタイプが形成されていったのかもしれない。