2015年8月3日月曜日

ナポレオン大陸軍の「機動」と「詭道」による第三次対仏大同盟の崩壊

 『孫子』冒頭の「計篇」では、戦争の本質を「詭道」、すなわち敵を騙すことと規定し、自軍の弱小を装って作戦展開が不可能であるかのように見せかけて敵を増長させるとともに、敵を釣り出す餌を見せて自軍に有利な戦場に誘い出し、敵軍の混乱に乗じて攻撃することを提唱している。また「行軍篇」では、困窮していないのに敵の使者が和睦を求める裏には敵の策略がある、とも述べている。

 「軍争篇」では、敵の裏をかいて臨機応変に軍の分散と集中を行うこと、また、敵より遅く進発して先に戦場に到着する迂回機動を「遠近の計」として、行軍の際における機動力の重要性を強調する。

もちろん、そうした軍の機動力発揮は各部隊が各個撃破される危険も伴っているから、分散機動(分進合撃)によって軍の統率が決して乱れないような組織編成と練度、そして十分な補給体制が整備されている必要がある。その点で、ナポレオンの編成した大陸軍の戦闘師団と軍団編成は単に戦場における戦闘力を強化したのみならず、単独の作戦行動が可能であったために機動力の発揮に大いに適した組織体系であったと言えるだろう。

 筆者の私見によると、『孫子』の兵法の真髄は、この「詭道」と「機動」の重要性を繰り返し主張している点と、兵を「死地」に置いて奮戦させることの三点にほぼ集約されているのではないかと考える。そして、その三点を極めた将軍こそが優れた将軍に他ならないのである。

1805年にウルムの戦いとアウステルリッツの戦いに勝利して(1021日のトラファルガーの海戦でネルソン提督の率いる英国艦隊に敗北したため制海権は握れなかったが)、第三次対仏大同盟を崩壊せしめた時点のナポレオンは、皇帝(君主)であるとともに正しく『孫子』の東洋兵法から見ても極めて優れた将軍であったと筆者は考える。今日はこの点について分析してみたい。

 1805年、前年122日に帝位に就いたナポレオンの欧州全域への覇権確立を阻止するために英墺露三大国が締結した第三次対仏大同盟は、ナポレオンが英国征服のために編成した軍団の驚異的に迅速な「機動」によって、9月から10月下旬にかけて行われたウルムの包囲戦でオーストリア軍が降伏させられ、また、11月中旬にウィーンを占領されてしまった。

現在のチェコのモラヴィアに後退した露墺両国皇帝の率いる連合軍を、ナポレオンは劣勢な兵力にも関わらず、122日にアウステルリッツの戦場で芸術的な「詭道」によって撃破した。そして、124日、オーストリア皇帝フランツ1世を降伏させ、26日のプレスブルクの和約でオーストリアを同盟から脱落させることに成功し、第三次対仏大同盟を崩壊に追いやったのである。

 そもそも英仏両国は第二次対仏大同盟が崩壊した18023月のアミアンの和約で一旦和解したが、英国は和平条件であったマルタ島撤退を履行せず、18035月和約を破棄してナポレオンに宣戦布告した。制海権を握る英国海軍は、海上封鎖を行ってフランス経済に打撃を加えた。

 1805年ナポレオンは英国本土に侵攻するため、陸軍の大兵力をドーバー海峡対岸のブーローニュに集結させたが、実は対英上陸作戦を見越して1803年夏から既にブーローニュやブレストなど6か所の野営地で軍団ごとに武器操作や戦略・戦術機動に関する将兵の猛訓練を行っていた。これが、その後の大陸軍の驚異的な機動力の発揮につながったのである。

 当時の歩兵の主力装備は燧発式前装マスケット銃で、銃身内にライフルを切っていないため威力は大きいが火縄銃と同様に50m程度の有効射程距離しかなく、将校は貴族で兵卒を強制徴募していたプロイセン軍などでは将校の統率力と兵卒の士気が低いため、散兵戦術は兵の逃亡を招くために用いることが出来ず、戦闘では旧式の密集横隊、行軍では縦隊隊形が採用されていた。

 つまり、革命後のフランス軍が国民軍で士気と練度が他国軍より高かったため、戦場では散兵と横隊およびグリボーヴァルが整備した機動力に優れた野戦砲兵隊が火力支援する中、歩兵の密集縦隊と胸甲騎兵の打撃力で敵陣を粉砕・分断し、敵が後退するところを龍騎兵などの軽騎兵が追撃するという、有効な戦術を採ることが出来たのである。

 また、フランス軍が戦闘師団と軍団に軍を分割し、機動力を発揮して戦場に分進合撃出来たのも、国民軍として士気が高く、統率が取れていた結果であった。これに対する対仏大同盟軍は、いまだ大隊縦隊をいくつか連ねた連隊が軍の恒常的な編成に過ぎず、戦闘師団編成を採用することが出来ていなかったため、戦場への行軍に際して分進合撃で機動力を発揮することは不可能であり、戦場でも臨時編成した縦隊を将官が指揮する単純な形態に過ぎなかったから、ナポレオンの大陸軍のような諸兵科連合による有機的な連携作戦を実施することも出来なかったのである。

 ウルムの戦いでは、ナポレオンの先手を打ってオーストリア軍が、ナポレオンの同盟国バイエルンの首都ミュンヘンを占領した。この時、クトゥーゾフとバグラチオンの率いるロシア軍もオーストリア軍支援のためバイエルンに向かっていた。また、フランツ1世の弟カール大公(オーストリアの軍事改革を主導したので有名な人)の指揮する9万人の大軍が、イタリアに侵攻していた。緒戦では、明らかに同盟軍の方が優勢であったと思う。

にもかかわらず、ナポレオンのバイエルン救援命令で大西洋岸に集結していたフランス各軍団が8月末から約800km以上の距離を約1か月で移動してライン川を渡河し、オーストリア軍背後のドナウ川に迅速に迂回起動すると、ウルムに籠城したオーストリア軍はフランス軍に包囲攻撃されてしまったため、1020日、総司令官のカール・マック・レイベリヒ元帥はナポレオンに降伏してしまった。

 このウルムの戦いは、フランス大陸軍の機動力による勝利の典型例である。これに対して、122日のナポレオンの戴冠1周年記念日に起こったアウステルリッツの戦い(三帝会戦)は、将軍としてのナポレオンが芸術的な詭道を用いた会心の勝利であったと言えるだろう。

 すなわち、11月中旬にウィーンに入城したナポレオン軍は後方の補給線が伸び切っていた上、ウィーンを撤退したフランツ1世の軍とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍は、モラヴィアで合流してオロモウツに集結していた。連合軍の兵力は8万人以上で、この他にカール大公の率いる大軍がイタリアからハンガリーに転進しており、また、プロイセン軍が参戦する様子を見せていたためにナポレオン軍はかなり兵力劣勢であった様である。

 ナポレオンはダヴー元帥の第3軍団をウィーン守備に残し、3個軍団と予備の近衛軍、義弟ミュラ元帥の率いる騎兵軍団を率いてブルノに進出した。ブルノの南東約10kmに位置するアウステルリッツは、ブルノとオロモウツを結ぶ街道とウィーンへ南下する街道が分岐する要衝であり、中央部に位置するプラッツェン高地をスールト元帥の率いる第4軍団が占領したにも関わらず、ナポレオンはプロイセン軍到着前に敵軍を会戦に誘導して各個撃破するため、わざと連合軍に和睦を持ちかけ弱気を見せる策略を用いた。

 スールト軍団をプラッツェン高地から撤退させると、ランヌ元帥の第5軍団を北のブルノへの退路を確保するように左翼に布陣させ、霧中の中央部にスールトの第4軍団とベルナドットの第1軍団、ミュラの騎兵軍団など主力部隊を配置してプラッツェン高地奪還を企図した。そして右翼には、ゴールドバッハ川沿い数kmの長大な前線を脆弱な兵力で守備する態勢を採って、敵の攻撃を右翼に誘う作戦を採ったのである。

この時、ナポレオンはウィーンに後置していたダヴー軍団に迅速に右翼に展開するよう既に命じており、実際122日当日の戦闘では、ナポレオン軍右翼を脆弱であると見誤った連合軍の攻撃が右翼に集中したが、結局フランス軍の戦列を突破できず、逆に兵力劣勢となったプラッツェン高地をナポレオン軍主力部隊に奪還されて連合軍の戦線が南北に分断され、決定的に敗北してしまったのである。

このように、アウステルリッツの三帝会戦は、正にナポレオンが見事な「詭道」を用いた結果の勝利だったのである。

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