1789年に勃発したフランス革命以降ナポレオン戦争が終結する1815年までの間、フランスを除く欧州四大国(英墺露普)は合計5~7次にわたる対仏大同盟を結成して、フランス革命政府軍やナポレオン軍に対抗した。
実態的に見ると対仏大同盟は個別の二国間同盟が集積したものであり、その目的は欧州の「勢力均衡」を回復することにあった。「勢力均衡」とは、1713年スペイン継承戦争を終結させるために締結されたユトレヒト条約によって初めて明文化された用語である。
エマリッヒ・ヴァッテルの定義を援用すると、「勢力」を「均衡させること」の意味は一国が優越的地位(覇権)を占めるようなパワー配分の単極状況を作らないことであり、ナポレオン戦争時点においては四大国がナポレオンの欧州での覇権確立を軍事的に阻止し、ナポレオン帝政を打倒してブルボン家の王政復古を回復するための体制変更を目指す同盟に変容していたのである。
その同盟関係が最も良く機能したのが、1815年3月ナポレオンのエルバ島脱出とパリでの帝位復帰後に結成された第七次対仏大同盟(墺英普露同盟条約)における、イギリスとプロイセンのベルギーでの一連の連携した軍事作戦であろう。
同盟諸国はナポレオンを「無法者」だとし、その軍事力に対抗するために約40万人の兵力を集結した。フランスと国境を接するベルギーでは、ドーバー海峡沿岸のオーステンデを策源地としてウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)の指揮する約10万5千人の英蘭等連合軍が布陣した。また、約11万6千人のプロイセン軍はブリュッヘル元帥が率いて、やや内陸側に位置していた。
なお、この時のブリュッヘル軍参謀長は、ナポレオン軍に対抗するため国土防衛軍や参謀を養成するための士官学校(後のプロイセン陸軍大学)を創設するなど、軍制の近代化改革を実施した中心人物であった、アウグスト・フォン・グナイゼナウであり、また、『戦争論』を執筆したクラウゼヴィッツも第3軍団参謀長として従軍していたのが興味深い。
この同盟軍に対抗するナポレオンは大陸軍を召集したが、攻撃用の野戦軍は5個軍団と騎兵および砲兵計約12万人しか集めることが出来ず、しかも優秀な参謀長であったベルティエ元帥が王政支持との板挟みになって6月1日に自殺したため、前線軍団長だったスールト元帥を参謀長とした。
しかし、スールトには参謀職に必要な的確な事務処理能力が無く、結果的に見ればグナイゼナウとの能力差が、その後のワーテルローでのナポレオンの敗北と百日天下を招いてしまったのである。
6月15日、油断していた同盟軍の不意を衝いて、ナポレオンは内陸部のシャルルロアからベルギー領内に侵攻した。左翼軍はネイ元帥、中央の予備軍は自分、右翼軍はグルーシー元帥が率いるそれぞれ2個軍団3~4万人程度から編成された兵力だったようだ。ナポレオンの作戦は英蘭軍とプロイセン軍を分断・各個撃破して、ウェリントン軍を海岸線に追い落とし、プロイセン軍を退却させることだったと思われる。
ウェリントンは当初、より平野部に位置し、パリから直結するモンスを経由してナポレオン軍が南西からブラッセルに侵攻してくると考えたようである。そのため、兵力をブラッセルの南西部に多く配置していたらしい。そこをナポレオン軍が不意を衝いて、南方から急速に迫って来たという状況であった。
6月16日、ナポレオンは右翼軍と予備軍を集結して、リニーでプロイセン軍3個軍団を撃破した。しかし、ナポレオンの事後の行動は非常に緩慢で、グナイゼナウの見事な後退作戦を見過ごして翌日まで追撃しなかった。このナポレオンらしくない判断ミスが、翌々日のワーテルローでの決定的な敗戦に結び付いたのである。
一方、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が率いる英蘭第1軍団がカトル・ブラの交差地点に転進してミシェル・ネイの仏左翼軍を迎撃し、ウェリントンの本隊も後続部隊として駆けつけたため、同盟軍はカトル・ブラの守備には成功したが、リニーでの敗戦を聞いてこちらもブラッセル街道を北方に撤退した。
6月17日午後、カトル・ブラを占領したネイの左翼軍と合流したナポレオンは、ウェリントン軍を追撃することを決定した。なお、ナポレオンはリニー進発時にグルーシーの右翼軍約3万人をプロイセン軍追撃に派遣したのだが、敵の退路の進行方向がブラッセルに向かう北方か、無傷で残存していたビューロー将軍が率いる第4軍団と連絡できる北東に向かったのか依然不明であったため、この追撃命令は極めて曖昧な内容で、その結果プロイセン軍はグルーシー軍の追撃をかわすことに成功してリニー北方のワーヴル東方に集結することが出来たのである。
なお、この6月17日夜は戦場一帯が豪雨に見舞われたため、翌日の軍の機動に支障を来したこともナポレオンの不運であったと言えるだろう。翌日のワーテルローの戦場では、泥濘のため仏軍の攻撃開始時間が遅延したことがプロイセン軍の援軍到着が間に合ったことに繋がったし、また、砲弾の反跳効果が喪失したことが、英蘭軍の陣地死守を成功させたことに寄与したとも言えるからである。
ウェリントンはカトル・ブラ北方のモン・サン・ジャン(ワーテルロー)に連なる稜線が要害の地で、当初からこの地で迎撃する作戦を練り上げていたとされる。グナイゼナウはこの作戦に反対だったようだが、結果的にはウェリントンの戦術眼の正しさが、プロイセン軍到着まで劣勢かつ経験不足な兵力でナポレオン大陸軍を押し止めることを成功させたのだろうと筆者は考える。
また、ブリュッヘル元帥も緊密にウェリントンと連携して併進しつつワーテルロー東方に位置するワーヴル周辺に後退したため、18日の戦場にまず無傷のビューロー軍団を迅速に援軍として送ることができ、このプロイセン軍が夕刻にプランスノワ村から仏軍右翼を圧迫してナポレオンが迎撃に向かわせたロバウ将軍の第6軍団と新規近衛部隊を打ち破った結果、最終的にナポレオン大陸軍を潰走させることに成功したのだと言えるだろう。
ウェリントン軍が布陣した丘陵地は背後の斜面に兵力の展開を隠すことが出来た。また、戦列前面の右翼にはウーグモン館、中央にはラ・エイ・サント農場、そして左翼にはプロイセン軍の援軍が進撃予定の道を見下ろす位置にパプロットの小集落があって、それぞれ背後の稜線に布陣した本隊の戦列から容易に支援することが出来る堅固な陣地を構築していた。
そして、18日当日の戦闘ではレイユ将軍が率いる大陸軍第2軍団の攻撃が過剰に仏軍左翼にあるウーグモン館に集中してしまったためか、また、前夜の豪雨のせいもあって右翼軍のデルロン将軍が率いる第1軍団の砲兵による支援射撃後の総攻撃が午後まで遅れてしまったのかも知れない。この遅れが、英蘭軍にプロイセン軍到着までの時間的猶予を与えた。
また、命令が誤認されたためか、デルロン軍団は各師団が密集した縦列隊形で敵の横隊火力に突撃を繰り返すという愚を犯してしまった。その後、同方面の指揮を一任されたネイ元帥はナポレオンにラ・エイ・サントの奪取を厳命されたため、既に戦機を逸していたにもかかわらず大隊方陣を連ねた敵の戦列に火力支援の無いまま胸甲騎兵の突撃を繰り返して、兵力を消耗させてしまったのである。
『孫子』地形篇では四方に通じる「交地」では、日当たりの良い高地を先に占拠して防塁を築き、食糧補給路を確保した方が有利であり、また九地篇では、「交地」では隊列を切り離さないで防御を厳重にすべきであると記されている。ワーテルローの戦いでのウェリントンの布陣は、この孫子の教えに非常に合致していることが面白い。
この戦いの際のウェリントン軍では実戦経験豊富な兵力が比較的乏しく、特に騎兵部隊は経験不足なため稜線背後の支援に回らせた。そして精鋭の近衛歩兵連隊をウーグモン館の守備に当たらせ、国産の最新式ベーカー式ライフル銃で武装した散兵戦術が可能な王室ドイツ人歩兵大隊をラ・エイ・サントに、道路を挟んだ反対側の採石場にドイツ人大隊と同武装の第95ライフル銃連隊を狙撃兵としてそれぞれ配置して、最前線で侵攻する敵に縦射を浴びせる態勢を採ることが出来ていた。
このウェリントンが敷いた万全とも言える防御態勢に対して、ナポレオンの方はウェリントンの戦術能力を甘く見誤っていたのではないかとも思える。グルーシーの指揮する追撃軍が簡単にプロイセン軍を牽制出来ると考えていたこと、6月18日にプロイセン軍がワーテルローに向かって進撃していたことを全く知らなかったのは決定的に重大な判断ミスであるし、そもそも作戦目的が曖昧な追撃命令など出さずに、最初からグルーシー軍に戦場への合流を命じておくべきだっただろう。
グルーシーは最後までナポレオン(そして、その参謀長であるスールト)の発した曖昧なプロイセン軍追撃命令に拘ったため、ワーテルローでの戦闘に参加することが出来なかったのである。
こう考えるとワーテルローでの歴史的惨敗とナポレオンの百日天下は、ナポレオンらしくない甘い状況判断がもたらした、必然的な結果と言えるのではないだろうか。
※ 明日より筆者は10日間ほど夏季休暇に入りますので、投稿もその間は中断いたします。
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