2015年8月20日木曜日

朝日新聞デジタル8月18日「長篠の戦い、本当に鉄砲3千丁?高校生が筆跡から検証」に関する考察

 標記記事によると、県立岐阜工業高校の報道・放送部員11人が太田牛一の記した『信長(公)記』全15巻の画像データから「三」の文字270個を抜き出して牛一の筆跡を検証した結果、長篠の合戦場面における鉄砲数「千挺計」に付記された「三」の文字が牛一の筆跡である確率は16%に過ぎないという結果が導かれたそうである。

 なかなか実証的な高校生の取り組みだが、その手間暇は大変なものだっただろう。しかし、研究者の間でも見解の分かれるこの長篠の戦いにおける織田・徳川勢の鉄砲数の問題に関しては、信頼できる資料が牛一の『信長(公)記』しか無いのだから、今後も結論が出ることはないかも知れない。

 実はかなり以前に、筆者も知り合いの中東研究者たちと長篠の戦いの古戦場を探訪したことがある。その時は、奥平貞昌(信昌)が籠城した長篠城跡と馬防柵が築かれた設楽原(『信長(公)記』と大久保彦左衛門の『三河物語』によると有海原)の両方を見て回ったのだが、筆者の率直な印象としては小川に過ぎない連呉川を挟んだ低い丘陵地が錯綜している狭隘な戦場に、織田・徳川と武田の双方が総勢5万人以上の兵力を展開することはとても不可能に思えた。

 軍記物などで軍勢の兵力が誇張されることは常識であるから、筆者の見立てでは天正31575)年521日に行われた合戦当日の兵力は、地元の徳川家康勢約5千人、その援軍に駆けつけた織田信長勢約1万人、そして奥三河に侵攻した武田勝頼の軍勢が78千人といったところが真実ではなかったかと思う。

もちろん、この兵力数は筆者の推測に過ぎないが、それでも織田・徳川方の兵力が武田勢の倍は有っただろうから、勝頼の重臣たちが合戦前々日の軍議で諫言した通り、敢えて野戦に打って出たのでは武田勢の勝ち目は極めて薄かったと思う。

 そもそも武田勝頼は、58日から奥平勢ら約5百人が立て籠もるに過ぎない長篠城を攻撃し続けたが、前日20日に城の包囲を解いて織田・徳川勢との決戦に打って出るまで未だ攻略出来ないでいた。これが翌日の武田勢の敗戦を招いた直接的な原因だったと思われる。武田の重臣たちが撤退か攻撃か、敵の後詰の接近に際して作戦方針を巡って動揺したのも当然だっただろう。

 長篠城は確かに東南を宇連(大野)川、西南を寒狭川が流れて合流する断崖上に築かれた要害だが、筆者が実見したところ本当に小城で、いかに籠城方の決死の抵抗に遭遇したとしても信玄以来の武田勢の精鋭が13日間も落とせなかったのは作戦上の大失態と言えるのではないか。

 信長の作戦は、連呉川西岸の丘陵地帯に兵力を隠して、川の前面に馬防柵、つまり野戦陣地を構築して鉄砲足軽部隊の釣瓶打ちで武田の攻勢を迎撃することだったようだ。だが、俗に言われるような鉄砲の三段交代射撃は、広い戦場での指揮命令と統率上不可能だっただろう。恐らく3人一組となって、時間差を短縮して連射したのが実態ではなかったか。

 太田牛一も、具体的に織田・徳川勢が521日の合戦当日、戦場に動員した鉄砲の正確な数は把握していなかったと思う。今では『信長(公)記』を素直に読んで、信長旗本と諸手から寄せ集めた概数数千挺の鉄砲が武田勢を迎え撃ったと考えて置くしかないだろう。

 織田・徳川勢の配置は、武田勢左翼と向かい合う右翼に徳川勢が並び、『長篠合戦屏風』を見ると、中央から左翼に位置した織田勢が柵の背後から鉄砲を打ちかけているのに対して、徳川勢は柵の前に出て武田の軍勢を迎撃している様子が窺える。

 恐らく地元の防衛責任者である徳川家康としては、信長の援軍への面目を立てるためにも野戦陣地である柵の背後に隠れて迎撃するような消極的な態度を取ることが出来ず、自ら進んで武田勢を迎え撃つ覚悟で戦場に臨んだのではないだろうか。徳川勢の配置を見ると、織田勢の配置に比べて武田勢の左翼、すなわち、敵の先鋒である最精鋭の山縣昌景の軍勢に突出する形で布陣している。

これと比較すると、織田勢は牛一が『信長(公)記』に記したように「御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加え、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。」という比較的安全な状況を馬防柵の背後で確保しつつ、武田勢の攻撃に応戦したようである。

 一方、この日の武田勢の攻撃は、やはり『信長(公)記』を素直に読むと、ワーテルローの戦いの際にナポレオン軍が決行したような密集した騎馬軍団の突撃などは行わなかった模様だ。左翼の山縣勢を先鋒として、二番に武田逍遥軒信廉、三番に西上野小幡一党、四番に武田典厩(左馬助)信豊、そして五番に馬場美濃守信春といった各部将が率いる手勢が、左翼部隊から順番に織田・徳川勢に波状攻撃を仕掛けたようである。

 ちなみに武田勢が総崩れとなる迄、この日の日の出から未刻(午後1時から3時の間)にかけて8から9時間も交戦が続いたとされるから、武田勢の作戦は騎馬軍団による突撃などではなく、馬防柵にある程度接近してから、歩兵主体の波状攻撃で左翼から敵陣を突破する作戦を採ったのではないだろうか。

 この日の合戦で武田勝頼が敗北した理由は、第一に、酒井忠次の率いる織田・徳川別働隊に鳶ノ巣砦などを落とされて背後を遮断されてしまったため、長篠城方面に後退できなくなって前面の敵陣を突破せざるを得なくなってしまったことが大きいだろう。第二に、馬防柵の野戦陣地を構築して一見引き籠ったように見せかけた信長の意図を、決戦を避ける消極的姿勢の現れと誤認したことから積極的攻勢に打って出てしまったことも敗因に挙げられるかも知れない。

 やはり、戦巧者である父信玄以来の重臣たちが諫言したように、兵力劣勢である武田勝頼はここでは面子を捨てて決戦を避け、一旦信州に後退すべきだったと筆者には思われる。

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