先日の投稿で、織田・徳川の清州同盟を事例として「同盟のジレンマ」について考察した。今日は、同盟についてより深く分析するため、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いと沼尻の戦いを事例として、東海の戦国大名と関東の戦国大名との連携と遠交近攻について考察してみたい。
さて、分析に用いる枠組みは、今日の国際関係理論の中で攻撃的リアリズムと呼ばれるものである。
現在の国際システムは、主権国家をアクターとする分権的なシステムであり、主権国家を超越するような中央政府が存在しないという意味でアナーキーである。アナーキーは決して無秩序ではないが、一定の秩序を保つためには人間の英知が必要である。
そうした英知には、法規範によって国家の行動を制約しようとする工夫(国際法)や、各国のパワーの配分を管理する工夫(勢力均衡と同盟)、そして、第二次世界大戦後には集団安全保障という工夫(国際連合)も構築された。
国家が目指すのは「国益」であり、アナーキー下での「国益」は、究極的には「自己保存の欲求」に集約される。そして、その欲求を満たすために、システム内における自国の現状の相対的位置を保つことが良いか、あるいは現状のパワーの配分以上に自国のパワーを拡大した方が良いか、2つの見方が出てくるだろう。
全ての国家が前者の見方に立つならば、現状のパワーの配分を維持するだけで良しとされるから、敢えてパワーを拡大しようとする国家は無く、国際システムは保守的かつ静的な世界となるだろう。ケネス・ウォルツが理論化した、防御的リアリズムの世界がこれに当たる。
しかし、国家の中には、かつてのナチス・ドイツや現在の中国のように、現状のパワーの配分に不満を抱いて敢えて現状を変更したいと望む国家もある。その場合、もはや防御的リアリズムは妥当せず、国際システムは下手をすると「万人の万人に対する闘争」のホッブズ的世界に陥りかねない。
その場合、現状変更国の脅威に対抗するために、隣国は自国のパワーを強化して脅威を抑止するか、同様の脅威認識を抱く仲間と連合して、脅威に対抗する同盟を締結する。そして、相互に抑止が機能して戦争に至らない状態が保たれれば、それが平和と言うことになる。戦争は、現状変更国が自国のパワーを拡大するためか(侵略戦争)、抑止が崩壊した場合に秩序を回復するための最終手段(自衛戦争)として行われることになる。
同盟が形成された場合でも、できれば自分は参戦したくないし、同盟のパートナーに防衛責任を押し付けたい。これが、バック・パッシング(責任転嫁)である。また、紛争地帯から離れた同盟パートナーは、紛争地帯のパートナーに防衛責任を任せて、できるだけ自分は遠方から影響力だけを行使したいと考える。これが、オフショア・バランシング(沖合からの均衡化)である。この2つの作用によって、いわゆる遠交近攻が発生するわけである。
天正12年は、天正10年6月の本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた後の秩序回復期であり、日本国内はなおアナーキーな状態であった。前年4月の賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は織田信雄を安土城から追放して、清州会議体制の現状を変更して自分のパワーを拡大しようとしていた。
信雄は、徳川家康と同盟を結んで秀吉の脅威に対抗する。これは典型的なバック・パッシングである。信雄は能は父信長譲りで上手であったが、単独で伊賀攻めを試みて敗北し信長に叱責されたり、山崎の戦い後明智軍が撤収した安土城を無駄に焼失させたり、また、秀吉の挑発に乗って三家老を殺害したりと、武将としての能力が欠如していた。家康が敢えてバック・キャッチャーを引き受けたのは、恐らく秀吉と対決するための大義名分として信雄を利用するためだろう。
当時の同盟関係のキーパーソンは、家康である。彼は本能寺の変後、伊賀越えの危機を乗り切って三河に帰国した直後、光秀討伐に出陣した。この時は信長政権の後継者の地位を狙ったのだろう。
しかし、秀吉に先を越されると、すぐに転進して天正壬午の乱で後北条氏を破り、東国の旧織田領(甲信両国)を確保するとともに、北条氏と対立する北関東の諸大名に信長時代の惣無事を通告している。これは明らかに、自分が信長政権の東国担当者の地位を継承したと誇示するためだろう。家康は、北関東の紛争地帯にオフショア・バランシングする意図を示したとも言える。この辺の機敏さが、家康が「海道一の弓取り」たる所以であろう。
ところが家康が北条氏と和解すると、宇都宮、佐竹、真田などの北関東の大名達は秀吉に接近を図る。すでに越後の上杉景勝は、秀吉と連携して北信で家康と抗争中であったから、東国方面で家康は不利な状況に陥った。そこで、状況を打開するために再度西に転じて、織田政権簒奪に乗り出した秀吉と対決する途を家康が選択したものと思われる。
小牧・長久手の戦いでは、3月に羽黒の戦いで森長可を破って信長の築城した小牧山城を家康が確保した時点で、塹壕戦類似の長期戦が確定したため、家康・信雄側の敗戦はほぼ無くなったと言える。
その膠着状態を打開するための作戦が、4月の秀吉側の三河侵攻軍派遣であった。確かに、長大化した戦線を迂回して敵の背後を襲うのは理に適った作戦であるが、派遣部隊相互の連携は必ずしも取れていなかったし、機動が緩慢であった印象も受ける。
これに対して家康軍は、自分の勢力圏で情報収集も容易であったし、その機動は迅速であり、何より徳川四天王が全員大活躍するなど、前線部隊の戦闘力で優越していた印象を受ける。長久手の戦いは、家康の会心の勝利であっただろう。後の関ヶ原の戦いでの徳川家の覇権掌握に繋がる武勇の名声は、この戦いによって決定づけられたと言えるのではないか。
同じ頃、北関東では、北条氏が上野・下野両国に侵攻して、宇都宮・佐竹両氏と沼尻で長期戦の対陣をしていた。これは、家康側の北条氏と、秀吉側の宇都宮・佐竹氏による辺境での代理戦争とも言える。まさしく、戦国時代の遠交近攻の好事例と言えるだろう。
北条氏の他に、紀州雑賀と根来衆、四国の長宗我部氏、そして越中の佐々成政が家康・信雄と連携して反秀吉行動に出たが、彼らはいずれも後に家康に見捨てられて、秀吉軍に各個撃破されてしまった。こうした非情さも、国際政治を彷彿とさせるものがあるだろう。
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