先の投稿で分析したように、慶長4(1599)年3月に自己に対する監視及び牽制人であった前田利家が死去した後、徳川家康は、現行の豊臣秩序に対するスポイラー戦略から、挑戦戦略に転換して、豊臣体制下における覇権を事実上掌握するに至った。
能力に問題がある覇権者豊臣側では、既に失脚した奉行の石田三成が主導して中国の毛利氏にバック・パッシング(責任転嫁)することにより、家康に対抗させる戦略を採った。毛利輝元は、自己と同じ第三勢力の会津の上杉景勝が家康に抵抗戦略を採ったことから、徳川に対抗できると計算してバック・キャッチャーを引き受け、家康に対して軍事的なハード・バランシング戦略を採る道を選択したのである。
さて、その上杉景勝であるが、天正壬午の乱の頃から北信をめぐる領土紛争で家康と対立していたこともあり、また養父謙信以来の武勇の誇りもあったためか、慶長5年春に家康から上洛して軍備増強の釈明を命じられても、これを拒否した。
景勝の第一の側近かつ重臣である直江兼続が、上洛を勧告した知人の西笑承兌の手紙に返書を書いたが、これが偽書説もある直江状である。自分も読んだが、承兌の問いに逐一回答する内容で特に不自然では無く、また巷間言われるように家康に対して特段無礼な内容とも思われない。
ただし、直江状で軍備増強は田舎武士にとっては当然で起請文のやり取りは無駄であると述べ、上杉家の会津移封後の仕置に時間が必要で、旧領越後に入った堀秀治による景勝謀反の讒言について家康が公平に究明するまで景勝が上洛できないこと、徳川家の取次榊原康政を非難していることなどが、公儀の命令を拒否し無礼として、会津征伐の口実とされたのだろう。
会津征伐については、天皇と秀頼から公認されて家康に軍資金や兵糧も提供されており、完全な公戦の位置付けである。大久保彦左衛門の著書『三河物語』によると、全国の諸大名が動員されて、6月に家康が大阪・京を出陣して先陣が那須野に押し出しても、後陣はまだ東海辺りを進撃していたとの記述がある。したがって、通常であれば上杉方に全く勝ち目はなく、直江兼続と石田三成が共謀して家康を東北におびき寄せたという事実も考えられない。
逆に、家康が三成謀反を誘発させて決着をつけるために、敢えて会津征伐を決行したというのも俗説に過ぎないだろう。家康にとって、三成と安国寺恵瓊、大谷吉継が毛利を巻き込んで7月に挙兵する事態は全く想定外だっただろう。失脚した奉行に過ぎない当時の三成に、そのような調整能力があるとは到底思えないからだ。
ところが、三成ら反乱勢力は、家康の拠点である大阪城西の丸に毛利輝元を引き入れることに成功した。これは輝元の信任厚い安国寺恵瓊の謀略が成功したためで、同時期に毛利家内部の反恵瓊派の大阪留守居の重臣達や親徳川派の吉川広家は、江戸の家康側に輝元に他意が無いことを連絡している。
しかし、毛利が反乱に加担したことで西国における勢力バランスが変動し、それまで家康に懐柔されていた増田長盛、前田玄以、長束正家の三奉行が「内府ちかひの条々」という家康弾劾状に連署して諸大名に配布した結果、豊臣公儀が反家康側を公認する形式が整った。『三河物語』によると、石田、毛利、島津、安国寺、小西、増田、長束、大谷、丹羽、立花、小早川、岐阜の織田、宇喜多、長宗我部、織田常真(信雄)他の西国大名、東国では上杉、佐竹、上田の真田が家康に敵対したと書いてある。
他方、家康に従っていたのは、伊達、最上、南部その他の東北大名グループと、前田、堀その他の北国大名グループ、家康子息や徳川譜代大名グループ、黒田、細川、加藤嘉明、藤堂らの自主参戦した西国大名グループ、そして主力部隊であったのが、福島正則、池田輝政らの軍役で参戦した東海大名グループであった。他に九州現地では、加藤清正と黒田如水が、家康側に付いて独自に参戦した。
その結果、ほぼ東西両軍が分かれて、関ヶ原の大決戦に臨む体制が出来上がったのである。
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