今回の投稿では、引き続き、白峰旬氏の論文「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その2)」を参照しつつ、慶長5年8月上旬から9月15日の関ヶ原の戦いまでの濃尾平野における東西両軍の兵力集中と戦況について分析する。
さて、家康による7月26日の反転西上命令を受けて、会津上杉征伐に従軍していた東下諸大名達は、福島正則を先手として続々と前線拠点である清州城に向けて進軍した。戦目付として、徳川譜代大名の本多忠勝と井伊直政の両人も相次いで尾張に向かった。これら徳川方諸勢の尾張清州城周辺への集結は、8月下旬のようであった(白峰、同上、40頁)。
一方、大坂方の動きはもっと迅速であった。例えば、8月5日には石田三成が、岐阜城の織田秀信と相談して尾張に出陣する予定であった。また、この時期には、清州の福島正則を味方へ寝返らせる説得工作を続けていた。8日、三成は濃尾境目の仕置のため尾州表へ出陣、10日には大垣に在城していた(白峰、同上、37頁)。
後続の島津義弘は、奉行衆の下知で17日に美濃垂井に着陣し、8月1日に鳥居元忠らが籠城していた伏見城を落城させた宇喜多秀家も、8月27日には、石田、小西、島津と共に大垣城に在城しており、この時点で大坂方の美濃表への兵力集結は完了していた模様である(白峰、同上、38頁)。
立花宗茂も、4千人の軍勢を率いて垂井に着陣する予定であったが、9月7日に大坂方を裏切って近江大津城に籠城した京極高次を攻撃するため、転進した。なお、同時期大谷吉継は北陸制圧のため、まだ美濃には参陣していない。
両軍の兵力集中が完了したので、8月下旬に徳川方では敵方の犬山城を抑えた上で木曽川を渡り、岐阜城を攻撃する作戦を立案した。池田輝政組と福島正則組の二手に分かれて8月22日に木曽川を一挙に渡河し、輝政組は川端に出撃してきた織田秀信勢約2千人を蹴散らして北岸に進出した。
翌23日、福島正則組が未明から岐阜城を攻撃して本丸天守まで攻略して、織田秀信を降参させて身柄を拘束した。同日、後詰めに出てきた石田勢を黒田や藤堂らの軍勢が破った。24日の諸将の軍議で25日に三成の居城佐和山を攻撃することになったが、27日付家康書状で家康、秀忠の到着まで攻勢を差し控えるよう指示されたため、佐和山城攻撃は中止となった(白峰、同上、44頁)。9月3、4日頃には、犬山城も徳川方に明け渡された(白峰、同上、49頁)。
したがって、濃尾平野での戦況は一方的に徳川方有利に展開しており、大坂方は大垣城に籠城せざるを得ない状況に陥っていた。こうした有利な戦況が、遅れていた家康の江戸出陣を促したものと思われる。
家康は8月23日の岐阜落城の知らせを受けて、9月1日に江戸城を出陣した。会津上杉勢に対処するため宇都宮に在陣していた秀忠軍は、家康の命令で24日に中山道へ出陣し、信州真田の上田城攻略後、上洛する予定であった(白峰、同上、50頁)。したがって、家康の作戦計画では、当初から秀忠軍と合流した上で大坂方との決戦に臨む予定であったのである(白峰、同上)。
『三河物語』では、秀忠付きの本多正信が何事も1人で差配したため、軍事に明るくないにもかかわらず、真田昌幸の立て籠もる上田表から少しづつ兵を引き上げる「繰引」をしたため、9月15日の関ヶ原の決戦に2、3日遅れて到着したと述べている。秀忠の軍勢には戦場経験豊富な榊原康政が随行していたのだが、発言権が弱かったのか、彼が一体何をしていたのか、疑問である。
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