2014年7月24日、イラク国民議会は、憲法草案起草を手伝ったPUK古参政治家であったフアード・マアスーム博士(Dr. Fuad Ma'soum)を新大統領に選出した。そのマアスーム大統領が、8月11日、議会のシーア派会派である国民連合内部127人の同意を得て、いわばダアワ党によるマーリキー排除のクーデター成功という形を取って既に国民議会副議長の1人に就任していたシーア派ダアワ党副書記長のハイダル・アバーディ(Haider
Al-Abadi)を新首相候補に指名して組閣を命じた。
9月8日、国民議会は閣僚名簿を承認し、アバーディ政権が正式に発足した。これで2006年5月の首相就任以来2期8年間政権を掌握したマーリキー首相は退陣に追い込まれ、新たにアバーディ現政権がイラクに誕生したのである。
アバーディ政権の当初の政治目標は、第1にマーリキー政権時代に拡大したスンナ派とシーア派との宗派間の政治的亀裂を埋めること、第2に官僚組織の腐敗と汚職を無くすこと、そして第3にISとの戦闘で弱さを露呈したイラク軍と治安部隊を再建することであった。
だが、より本質的には、スンナ派の反乱(insurgency)を引き起こし、国内を「万人の万人に対する闘争」に近い安全保障のジレンマ状態に陥らせた失敗国家の弱い中央政府が国民の信認を回復するために必要な、公共サービス、例えば、しばしば断絶する電力や水道、運輸等の基礎的インフラを整備し国民に対して確実に供給することが新政権の最も重要な課題であった。
第1の課題については、アバーディ政権は2015年2月、イラク戦争後の占領時代に制定された脱バアス党法(de-Baathification
laws)、正確には2008年2月に旧法に代って制定された問責・公正法を緩めて、旧バース党員の公職復帰を一層促進しようと試みた。
だが、イラクの現在の政治状況下では、脱バアス党政策と宗派対立を超克するための国民和解政策に関して、各政治勢力間でどの程度旧バアス党員を排除すべきか、あるいは取り込むべきか、その線引きについて激しい対立があるため、逆に中央政府が国民和解政策を推進することが各政治集団の勢力拡大に恣意的に利用されてしまう結果を招き、この政策がかえって政治的亀裂の拡大を促進してしまう効果を持っていると言える。
次に第2の課題については、まず、2014年11月、アバーディは登録された約5万人の軍・治安部隊要員が実際には任務を遂行していないことを公表した。しかし、アバーディ政権誕生後の注目すべき政治改革案は、2015年夏の最高気温50度を超える酷暑と停電頻発によって各地で起きた、行政に対する国民の抗議デモに対する一種の懐柔策として同年8月11日に発せられた。実はこの時も、シスターニ師が8月7日に汚職対策を含む改革案を政府に求めたことが改革案提示の直接のきっかけとなっていた。
この時の改革案は、アバーディ政権発足時に挙国一致体制を作るために宗派・民族間で有力政治家たちに配分された各3人の副大統領職および副首相職を同時に廃止すること、さらには汚職捜査の強化と省庁顧問や大臣職、政府高官警備要員の大幅削減による財政支出の削減、以後の宗派・民族に基づく政府ポスト割り当ての廃止といった、腐敗汚職の元凶とされた既得権益の打破と政治家のいわゆる「身を切る改革」を主たる内容に含んでいた。
これは2014年来の原油価格低迷による歳入の落ち込みとIS掃討のための戦費膨張による財政赤字が、国際通貨基金(IMF)の試算では国内総生産比17%にも上るといったイラク政府の財政危機を乗り越える妥当な目的も伴っていた。
しかし、分極化したイラク国内政治の状況においては、先述したように、民族・宗派集団間の合意に基づいてポストを配分するクオータ・システムこそが、多極共存型民主主義を指向することによって国民和解を達成するための安定装置であったと言える。
したがって、この従来の政治慣行を壊してしまうことは、直ちに各勢力間の均衡を崩してさらなる分裂をもたらす危険があるし、また、アバーディ首相が述べたとおりの能力主義人事がすぐに達成できるはずも無い。
政府の思惑とは別に、かえってシーア派主導の不透明な人事と権益の配分が横行して、マーリキー前首相時代と同様なアバーディ首相とその仲間への権力集中が起きてしまう恐れもあるだろう。
実際、宗派横断型の民族主義政党ワタニーヤ連合を率いるアッラーウィー元暫定政権首相はアバーディ首相と同じシーア派に属しているものの、自らが副大統領職を解任されることもあって、首相の改革案を憲法違反であるとして批判したのである。他の野党勢力の多くも、実際にはこの改革案の実行を妨害しようとしていると考えることが可能だろう。
さて、ISの脅威に対抗し、イラクの領土保全と治安維持を強化する上でアバーディ首相にとって重要であるのが、第3の軍と治安部隊の再建問題である。この点に関して、アバーディ政権の対応は非常に危険なものであった。
その理由は、アバーディ政権がISとの戦闘を継続する中で軍・治安部隊の再建に効果を上げることが遅々として進まず、結局2014年6月10日のモースル陥落直後に再動員されたシーア派民兵に対IS掃討地上作戦の主力部隊の機能を委ねてしまったからである。
当初南下するISに対抗して首都北方のシーア派聖地サーマッラーを防衛するためにシーア派コミュニティから再動員された民兵組織は、サドル派のマフディー軍やバグダードの東部に位置するディヤーラー県を拠点とするバドル軍団など、既存組織が中心であった。
しかし、シーア派の一般市民からも多くの義勇兵が参加するようになると、2014年7月頃にはシーア派民兵組織が次第に緩やかな人民動員隊として統合されるようになった。問題は、指揮統制がばらばらで寄せ集めの戦力に過ぎない人民動員隊が、イランのイスラーム革命防衛隊から大きな支援を得ていることで、脆弱な中央政府や瓦解したイラク政府軍の力ではコントロールできない程強大な勢力となってしまった点であろう。
イラン・イスラーム革命防衛隊のイラクへの軍事介入は、ナジャフとカルバラーにあるシーア派聖廟を直接防衛するために2014年7月、革命防衛隊の特殊作戦軍であるコッズ部隊(Nīrū-ye Qods)が司令官ガーセム・ソレイマーニー(Qasem Soleimani)少将と共に派遣されて実際にサーマッラー防衛作戦を指揮したことに始まる。
それ以来、ソレイマーニー司令官は人民防衛隊やペシュメルガと協力し、武器や兵力、諜報面で対IS作戦の遂行を事実上主導している。その最も重要な成果が、2015年3月のティクリートのIS武装勢力からの解放作戦であった。
同作戦では、主力となった人民防衛隊の兵士たちによって、ISに協力したスンナ派住民に対する報復や略奪・放火が行われたとされる。また、バドル軍団が主力となってIS掃討作戦を成功させつつあったディヤーラー県でも解放区におけるシーア派民兵のスンナ派モスク襲撃事件が2014年夏に起きた。
こうした宗派間抗争を助長するシーア派民兵の活動の背景に、イラク国内での影響力を高めようとするイスラーム革命防衛隊コッズ部隊の支援があったことは十分に考えられるだろう。
人民防衛隊の関与した略奪と暴行に反発したスンナ派部族長と政治家が中心となって、対抗措置としてISと戦うスンナ派部族自警団である国民防衛隊が、2015年2月に公的に結成された。この構想自体は、2006年から2007年に激化した内戦を克服するために米軍によって結成された覚醒評議会がモデルとなっている。
2015年2月、アバーディ政権も国民統合を再強化する方策として同構想に賛同しており、各県から集めた義勇兵に加えて15万人規模の国民防衛隊を結成するのが当初の素案であった。部族軍結成に当たっては武器に加えて2万人分の給与の支給も準備されることが公表された。
だが、シーア派が多数を占める国民議会においてはスンナ派兵士に広範な武器供与を実施することに反対であり、依然として国民防衛隊の構想はなかなか進展していない。シーア派が主導するイラク中央政府としては、仇敵である旧バアス党勢力の復権やスンナ派地域政府の実力部隊に国民防衛隊が変じる危険性があることが、逆に国家の分断を促進することに繋がりかねないことを強く懸念しているのであろう。
このようなバグダード中央政府の意向を無視して、イラク軍の訓練に当たるためにアンバール県に駐屯している米軍特殊部隊は、イラク軍に加えて国民防衛隊の主力部隊となる部族兵士の訓練を強化している。また、約3千5百人のイラク駐留米軍の主たる任務はイラク治安部隊とペシュメルガの訓練と助言であるが、2016会計年度米国防授権法(FY2016 National Defense Authorization Act)の第1223条では、もしイラク政府が民族・宗派の少数派を統治および治安組織に十分統合することに失敗していると大統領が(議会に)報告した場合には、(バグダードの中央政府を介さず)直接ペシュメルガとスンナ派部族治安部隊に対して武器供与ができる権限を大統領に与えているのである。